思い出すことなど、など(第16話)

第16話:

 今日は、私がはじめて教職に就いた頃の話をします。

 はじめての教職は、大学院の時の非常勤講師でした。
I君がギリシアに留学することが決まり、彼の紹介で学年の途中の三学期からでしたが、彼の後任を引き受けました。
 M学院大学付属H高校という男子校でした(今は、共学になっています)。最初の三学期は、中学生の「歴史」を教え、翌年度からは高校で「世界史」を教えました。私自身、小学校からずっと公立の共学でしたから、男子校は結構新鮮でした。
 職員室の片隅に非常勤講師の机があり、社会科、英語科、国語科などと分かれていました。現在の教員の就職事情はよくわかりませんが、当時は、教職につくのはなかなか大変でした。非常勤の先生は、どちらかというと退職した先生ではなく、大学を卒業して教職浪人中の若い人が多かったですね。まあ、私も似たような者で、お互い先行きの見えない者同士(笑い)、講師の間には何か連帯感などがありましたね。
 私が四時限目の授業が終わって職員室に戻ると、机の上に「○○屋」に居ます」などのメモが残っていて、講師の人たちと一緒にお昼を食べるのが常でした。

 どこの学校にも名物教師はいると思いますが、私と「世界史」を担当したI先生はその一人でした。自転車で帰宅中に、後ろからの生徒の挨拶に振りかえって、そのまま川に落ちたなどの色々なエピソードの持ち主でした(笑い)。
 私立学校だから出来たことでしょうが、自分で教材を作り製本し(生徒からは「Iノート」と呼ばれていました)、教科書を使わないで、そのノートで授業をしていましたね。
 私の授業などは、生徒には申し訳ありませんでしたが、いつも準備不足で拙いものであったことはいうまでもありません(笑い)。

 時は流れて、数年前に私が教職をリタイアしたときに、何十年ぶりかに当時の講師の面面(4名)に声をかけ、久し振りに会う機会がありました。それから、持ち回りで幹事を決めて「飲み会」をしていたのですが、残念ながらコロナ以後、「飲み会」も途絶えています。
 面白いのは、当時地理の講師だったSさんは、その後専任になって校長になっていました。また、日本史のKさんは教員をやめて、神学大学に編入して、今は牧師になっています。それぞれ、皆色々な人生ですね。

結局、6年間ほど務めましたが、ギリシアに留学するにあたって(1987年)、私のH高校での講師時代は終わりを告げました。

次回からは、ギリシアの留学時代のことを思いつくまま話してみます。

* 私のお気に入りの「格言」

「フェスティナ・レンテ(Festina Lente:ゆっくり急げ)」

ーローマの初代皇帝アウグストゥスの座右の銘
(スエト二ウスの『皇帝伝』より)

*今日のニケ
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