ジョサイア・オバー「公共演説と民主的アテネの民衆の権力」(試訳)
ジョサイア・オバー「公共演説と民主的アテネの民衆の権力」、
『アテネの革命:古代ギリシア民主主義と政治理論に関するエッセイ』18- 3l頁、プリンストン、l 996。
Ober. J. “Public Speech and the Power of the People Democratic Athens."
The Atheian Reovlution: Essays on Ancient Greek Democracy and Political Theory, 18- 3l, Princeton, l 996.
<試訳>
このエッセイで、私はアテネ民主政に関する私の仕事にとって重要で、民主的理論のすべての研究者にとっても、重要だと思われる三つの前提を擁護するつもりです。
最初に、もし我々が、民主政を古代のギリシア人がそれを意味するところのものの意味「デーモスによって能動的に、集約的に掌握された政治権力」と、捉えたとするならば、そのときアテネは真の民主政であった。
第二に、アテネの民主政は、すべての民主政と同様、政治的領域を支配しようとする力のあるエリートの試みによって脅かされていた。
しかし、アテネのデーモスによる集約的パワーの行使は、エリートの政治的支配を妨げた(そして、そうすることを意図された)。こうして、古典期のアテネにおいては「民衆の権力は」エリートの権力によって覆われなかった。エリート主義の力に対する、この成功した民主政の防御は、政策決定のための本質的概念装置の市民の大衆による支配を意味した。すなわち、デーモスの「イデオロギー的ヘゲモニー」によって。
第三に、アテネで発展した民主的政治秩序は、直ちにそのエネルギーにおいて革命的に、その実浅においてダイナミックに、そして際立って安定的であった。
従って、アテネが定期的な政治参加から、ギリシア人が潜在的市民と見なさなかった人々のカテゴリー(奴隷、婦人、大部分の外人、子供)を除外したことを認めたとしても、民主政を伴うアテネ人の歴史的例は、「可能性の境界」 (「「ありうる」と同様)の拡張する、彼らの理解に関心がある民主的理論家によって厳粛に受け取られるべきである。
この三つの前提を受容することは、「アテネの民主政は道徳的に問題がない」、という仮定を伴わない。それは、アテネの民衆の権力が、ある種の存在論の意味の「純潔」や「ひずみのない」ことを意味しない。実際、それは疑いなく、密接に絡み合い、そして渦巻きにされた 「ひずみ」を通して、アテネの民主的秩序が、エリートの社会的潅力の対抗勢力に成功したところの社会政治権力であった。
アテネは(奴隷制を受容し、政治的参加から女性と外人を排除し、対外強行主義者的「血と大地」の主義を持ち)、まさに現代の政治的社会にとって、一つの既成のモデルとはほとんど考えられない。アテネにおける民主政の実践は、奴隷制に、帝国に、あるいは女性と外人の排除に負っていると論議されてきた(私は誤りであると信じるが)。より一層の仕事が平等主義の、市民の民主的政治社会と、より大きなポリスの居住者のヒエラルキーの「全体的仕会」の間の関係に必要である。(参照11章)
しかし、アテネが全体的に見て、正しい社会であるか、それとも魅力的社会であるかどうかは、ここで私が論じるところではない。むしろ、問題は、古典期アテネは、「直接の比較的安定した大衆が(エリートに対する)、政治的権力の真の歴史的例を提供するか」どうか、もしそうなら、「その例は、民主政に関心ある、現代の思索者によって、まじめに受け取られるべきであるか」、どうかという問題である。
政治的理論家と同様、歴史家にとって基礎的なテキストになるものを書くに際して、 トゥキュディデスは彼の中心的関心として、公共演説、肉体的行為、そして権力の関係に関心があった。彼は、特にこの三つが、いかにして作用し、アテネの民主的社会によって影響されたかに関心があった。 トゥキュディデスは、彼自身のオリジナルな偏見を演説、 行動(訴訟)、権力の問題においたが、彼の演説・事実・権力は一個人に特有なものではなかった。
彼の若い同世代人、プラトンも同様の問題を考察している、またアリストテ レスも行った。こうした作家の各々は、アテネにおいて、大部分の成人時代を過ごし、各人は、自らの際立った見方で、アテネの民主政における演説と事実、権力の間の関係を深く批判した。その批判の要旨は、アテネの民主政の研究者には興味があるが、しかし、私の現在の問題に関して、キーポイントは、こうした思慮深い当代の目撃者が、民主政(普通の市民(デーモス)の大衆の政治的権カ)は現実であり、そしてアテネの民衆は、公の演説のコントロールを通して、彼らの支配を維持していたと仮定していたことである。
もし、我々が古典期の後半のアテネから、20世紀後半の我々の時代に移動したなら、我々は奇妙な反転を発見する。古典期の理論家は、彼らがアテネで紹験した民主政は現実であり、しかし、望ましくない。一方、多くの現代の民主的理論家は、強力な、活気ある、参加型の直接民主的政治的文化は、原理として望ましい、しかし、どこにもそうした文化は、かつて長く存在しなかったし、(確かにトゥキュディデスや、プラトンや、アリストテレスのアテネにもなかった)と仮定する。
この反転は、三人の古典期アテネの理論家が、現代の政治学のカリキュラムの中で享受する、基礎的な地位を仮定すれば皮肉である。彼らは抽象的思索家としては、非常に重要に受け取られるが、しかし、彼らの抽象が言い続けたところの中心となる前提(民主政は「民衆の権力」として実際に存在した)は無視された。レオ・ストロースの信奉者は、古典期の民主政の現実を見失う一般的ルールへの可能性ある例外である。しかるに、ストロース支持者は、普通の市民が権限を与えられることは破滅的で、そこで、今日望ましくないものとして感じているように思われる。
なぜ、リベラルな民主政の理論家は、アテネにおいて、実際、普通の市民が支配していたという可紺生を進んで支持しないのだろうか?一つの可能生のある理由は、理論家が、古典期の歴史家の学術的著作に向き合ったとき、彼らはコムニス・オピニオ(公の発表)は、依然「アテネは真の民主政ではなかった」、ということを発見した。つまり、古典期の歴史家は、共通に真の政治的アテネの仕事は舞台裏でなされた、「自ら党派や、機能、ヘタイラ、その他を構成したところの、少数の富裕者の貴族によって行われた」と主張していた。
こうして、「民主政の」名前が、地下の寡頭政を覆い隠しているゆえに、アテネの政治的生活の重要な研究者は、大衆の支配の外見を無視することを学ばねばならず、黒幕の間の関係に焦点を合わした(政治的同盟、結婚の縁故、拡張した家族のつながり、世襲された一族の対立など)。
多くのギリシアの歴史家は、特に第二次世界大戦以来、これらを書いている歴史家は、(大部分無意識であるが)ロバート・ミヘルスの「寡頭制の鉄の法則」の堅固な支持者になる傾向があった。
ミヘルスの格言への古典期の歴史家の間の忠誠は、一つの史料を有しているという主張は減少するであろうが、ロナルド・サイムの著作、特に彼の重要な影響力のあるThe Roman Revolutionはたくさんの名誉(あるいは非難)を抱かねばならない。彼自身が実際にミヘルスを読んでいたかどうかはさておき、サイムは次のことを確信していた。「すべての時代、統治の形態と名前が、それが君主政であれ、共和政、民主政であれ寡頭政が外見に潜んでいた。そして、ローマの歴史は、共和政あるいは帝国であれ、支配者階級の歴史である。」
サイムは多分この確信を発表するとき、普遍的には同意されないと、潜在的に議論されるものと、つまり議論のない自然の獣のような事実ではなく、むしろ一つの理論として認識していた。しかしながら、サイムの多くの弟子たちは、彼の政治学についての理論を、一定の決して主張も防御もする必要のない、人間の性質の常識の事実として受け取る傾向があった。
こうして、「寡頭政の鉄の法則」は、多くの歴史学者にとって暗黙の応答のない、さらに無意識の理論的支えになった。それが著者によって確固とした「反理論的」であると考えられ要求された学者らによって。
アテネの政治学に関して、専門家の文献を徹底的に調べる政治的理論家は、古代の歴史家によって用いられた、基礎的な仮定へのミヘルスの確立した歴史を知っていることはありそうにない。こうして、十分に尊敬された専門家によって、アテネは隠れた寡頭政であると情報がもたらされたとき、理論家はこの結論を、喜んで一つの客観的事実として受け取るかもしれない。
そして、そこで、専門家の文献で確信され、現代の政治的党派の研究から導かれた理論、つまり、古代世界の政治学は、ほとんど現代の世界のように働くという理論を見出した際に、真の民主政は不可能という理論家の疑惑は確信になる。
議論の堂々巡りは、探検家が、専門分野の境界を越えて、彼あるいは彼女が(正しくあるいは誤って)挑戦するには、不十分に準備されたと感じた、確立された意見の一団への服従に紛れ込んだ。
このめぐる論争のゆえに、現代の民主主義の理論の仮定に挑戦する、古典期の民主政の破壊的潜在能力が失われた。しかしながら、もし古典期の歴史家が、「新サイム」のアテネの政治学の見解は誤っていると、そしてアテネは「寡頭政の鉄の法則」の厳格な解釈が許すよりか、かなりより民主的であることを示し得るなら、その潜在力は回復するかも知れなかった。
もし、現代の古典期のアテネの民主政へのアクセスが、ほとんど知的批判の文学上の著作を通してであったなら、我々は、民主政は現実であるというトゥキュディデスなどの仮定は、単純な理論的前提や政治学一般への仮定的選択肢についての興味ある議論の発展を許したところの看板であった、と想像するかもしれなかった。
しかし、事実普通の市民が、古典期のアテネで支配していたという見解を支持する重要な証拠の多くの一群がある。つまり、約150の演説である。ほとんどアテネの裁判所や民会で陳述のために熟練した弁論家によって編纂されたものであるが。この一群の演説は、アテネの政治学の学徒にとって際立って重要である。
というのは、それはアテネの裁判所と民会におけるエリートの演説家によって用いられた言葉に、比較的ダイレクトにアクセスを与えるからである。
古代の批評家に従えば、アテネのデーモスは、公の演説のそのコントロールを通して支配した。我々は、公共のフォーラムにおいてなされた、その種の演説の大きな見本を持っているので、それゆえに、大衆の聴衆とコミュニケートした際にエリートによって用いられた言語のイデオロギーの支柱を分析することが可能である。
従って、我々は、その弁論家集成が、アテネにおいて、民衆が支配したという古代の確信を確証するか否かはさておき、そのコミュニケーションと決定の内容によって含まれた、バランスオブパワーを査定する(評価する)ことができる。
この点において、問題の演説が発せられるところの状況をスケッチすることが助けとなるかも知れない。前4世紀まで、市民民会(エクレーシア)は各年40回開かれた。集会は、それは通常前もって数日前にアナウンスされ普通半日続いた。そして、集会はすべての市民に開かれていた(成人、自由な、市民生まれの男性;恐らく30,000人)。
約6,000人から8,000人が概して参加し、十分早く到着したこうした人々は、国家から日当を支給された(約一日の平均労賃)。各集会の議題は、その仕事のために、毎年くじで選出された五百人評議会によって前もって準備された。また、評議会は幾つかの議題の項目の予備審議案を作成した。
どのようなアテネ人の階級も、組織的に民会において低く見積もられたことを想像する理由はない。そして、出席の自発的性質を仮定すれば、演説家が前もってある一定の民会の社会的構成を知る方法はない。それは市民団体の一部分を(恐らく、五分の一あるいは四分の一)、代表したであろうが、各民会は市民の総体にとってシュネクドケー(提喩)としてアテネ人に受け取られた。
民会は、くじで選ばれた「一日の議長」によって開会が宣言され、彼は(伝令を通じて)議題の最初の項目をアナウンスした。評議会の予備審議案が読まれた後で、議長は尋ねた。「アテネ人のうちで誰か、与えるべき助言を持っていますか?」
このとき、出席したどのような市民も、その問題の演説をするために立ち上がることができた。(否定的な投票を提唱すること、評議会の提案の改定、あるいはまったく新しい提案)彼の仲間の市民が、彼を聞く意志がある限りにおいて。
民会の人が演説を聞くのに飽きた時は、彼らは彼を引き摺り下ろすだろう。この鞭打ちの刑を進んで耐え忍んだすべての人が語った後で、議長は通常挙手で投票を指示した。単純な多数がその問題を決定し、そして議長は次の項目に移った。
こうしたやり方で、アテネ人はすべての仕事を指示した。外国政策、税金を含んで。決議に保存された多くの言葉が、民会での議論が、重大な効果をもたらしたことを示している。また、しばしば、実際的決議が、自発的演説家によって民会で動議されたことが知られている<注8:ハンセン1987b,8章>。
民衆の裁判所は、ほとんど一年のうち毎日開かれた。ほとんどの場合、私的訴訟(デイカイ)そして公的訴訟(グラベー、エイサンゲリアなど)は、私的市民(ホ・ブーロメノス)によって彼の発議で持ち込まれた。告発者は、くじ引きで選ばれた役人の前に彼の告発を持ってきた。役人は法廷へのそのケースを割り当てられた。
訴訟当事者は、30歳以上の200あるいは500人の陪審員と面と向かい合った。陪審員はアットランダムにくじで選ばれた法廷に割り当てられ、彼らの奉仕に報酬を与えられた。議長の判決もなく、むしろ、陪審員の各数百人が判決した。法廷からの30歳以下の市民の排除は別として、一般的な民会と、一般的な陪審員の社会政治学的その間の差異は少ない。告発者と被告人は、各与えられた時間(水時計で計られ)彼のケースを提示した。彼の割り当てられた時間内で、各演説家は彼の望むことを十分しゃべれた。
そしてしばしば、彼の敵の性格や過去の生活を攻撃するために、また自らの名誉を守るためにわき道にそれた。アテネ人の関連性の基準はアメリカ人の基準より広く、しかし、際限なくフレキシブルではなく、民会の場合と同様、彼の聴取をいらいらさせる訴訟当事者は、彼らによってやじり倒されることがあった。
さらに、多くのアテネの法は際立ってあいまいで、誤りがなされたかどうかを決定するに、かなりの余地が判決に残されていた。二つの演説の直後に、公式な会議もなく、秘密投票でデイカスタイは投票した。単純な過半数が、無罪か有罪かを決定した。若干の場合、有罪の男の罪が法によって指定された。他の場合、陪審員が再び告発者と被告の演説の第二のセットに提唱された、ライバルの懲罪に関して投栗した。すべての業務は一日で行われた。
民会と裁判所両方において、公的演説家は、もし彼らが聞いているところのものが好まないなら、やじり倒す準備をしてその意図がある「判決の」大衆聴衆に直面した。彼の決議を通すことを欲する民会の男ならびに彼の訴訟に勝利することを期待する訴訟当事者は、十分に注意深く彼の演説を構成した。というのは、一つのレトリックのミスステップが彼らの裁判において致命的であった。
アテネの公的演説家は、しばしば(決して確かに常ではないが)富と教育のおかげで比較的少数のエリートのメンバーであった。原則として、どのようなアテネ人も民会で演説できたが、実際問題として議論の大部分は、聴衆について熟知したレトレス(弁論家)、デマゴーグス、あるいは「慣れた演説家」として色々と言及された熟練した「政治家」の中核によって行使された。こうした同じような男が、お互いに現在の女性関係のダーティトークからヒュブリス、神聖冒瀆、経済的な違法行為、高い反逆罪の不正行為に関して告発することで、裁判所の時問の多くを取り上げた。古典期のアテネの民主政は、政治的に活動的かつ訴訟好きなエリートを登場させた。これは支配するエリートであったのか?
私が思うに、答えはノーである。しかし、アテネにおいて政治的に活動するエリート男性のグループの存在を認めたとしても、政治的領域を支配することを試みるエリートの傾向を認めたとしても、なぜアテネのエリートが支配するエリートになることに失敗したのか、どのような状況のもとで彼らの政治的活動は、支配を構成すると言われ得たのかを尋ねることは十分価値がある。
古典期アテネは大きく(ポリスの基準としては、トータルな人口数は約150,000〜250,000)、そして外的脅威に直面した複雑な社会(顔を合わす社会ではない)であった。アテネの民主政は、知的な、思慮深い、理路整然とした人物、彼らが外国政策や財政の複雑さに専心する余暇を持った彼らの存在なしでは、効果的に機能し得なかった。もし、問題の男たちが、公的制度を操作するに、彼らの間での協力で自ら自身の利益をあげるならば、その能力において不可欠のエリートは、有名無実の民主政の中で、政治的に支配エリートとして正確に定義され得る。巧妙な操作は、いろいろな形態を取るかもしれなかった。(1)エリートは民会と/あるいは裁判所で数の上で支配をするかもしれなかった。(2)エリートたちは、表面上はオープン投票を操作したかもしれなかった。依存関係の市民のクライアントの投票の上に、パトロンの権威を行使することで。(3)エリートたちは、政治的議案をコントロールし、ある問題を論議から妨げることができたかもしれなかった。(4)民会と裁判所の大衆支配の制度は、エリートによって支配された政策決定の官僚制に覆われていたかもしれなかった。あるいは、(5)エリートの論説と価値が「民主的」文化自体のイデオロギーの支柱を定義し、そうして真の民主的政策の発展に関して覇権的に前もっての抑制を行使したかもしれなかった。
こうした可能性の大部分は、二つ返事で無視されうる。(1)最近の研究は、民会と裁判所がアテネの上流階級によって支配されていたという考えを論駁してきた。<註12, Markle, 1985; Todd, 1990>数のエリートの支配は、本質的にありそうにない。比較的巨大な数が含まれていたと仮定しても、普通の市民は参加の支払いの実施によって参加することを勇気づけられた。(2)被保護者の地位が、ローマの政治的生活の重要な構成要素として広く認識されているが、最近の研究は古典期アテネの(制度的あるいは社会的に)同様な構造の母体(基盤)の欠如が指摘されている。<註13, Millet, 1989> 民会の議案は五百人評議会で準備され、メンバーはくじによって選ばれ、二年間以上務めることは禁じられていた。評議会の大きな、そしてローテーションのメンバーシップは、エリートによって支配するに助けとなる、制度上の独自性の発展に宿るところのない環境を作り出した。評議会が統治の「上位のバートナー」であったことを明らかにしようとする試みは、歴史家の間で多くの支持者を得ることはなかった。<註14, 上位のパートナーの説は、de Laix, 1973>さらに、「慣れた演説家の演説が凝いなく民会でしばしば聞かされたであろうが、より広い演説家のグループによる、よりその時々での偶発的な参加のかなりの証拠がある。<注15, Hansen, 1991,145-46> (4)例年の選出された(くじ引きよりむしろ)将軍(5世紀の)や選出された財政的役人(4世紀)は、実際政治において重要な役割を担ったが、彼らは政策決定の権力は制限された。役人は役所に入る前に厳しい公的調査を受け、そして役所を離れる際に監査を受ける必要があった。民衆に対して陰謀の疑いがありとされた役人は、民衆裁判所にて常に告発され(そして、しばしば行われたが)罰せられた。役人の委員会が、かつて影の内閣を構成したことを暗示する証拠は何もない。前322年のマケドニアによる民主政の転覆まで、ほとんど重要なポリスの政治的仕事は、民会と裁判所でオープンに行われた。<註16 , Ober, l 989b,327-36>
問題は(5)である。一エリートの仮定されたイデオロギーのヘゲモニー一それはここでの私に特に関係するが、特に、それが最近古典期の研究者によって主張され、彼らの作品は理論的に十分告知され、特にサイムの影響を受けていないがために。<註17, 例えば、Loraux, 1986; Wilson, 1991> イデオロギーのヘゲモニーでもって、我々はロベルト・ミヘルスの「重力のフィールド」からアントニオ・グラムシやルイ・アルチュセールへ移る。彼ら修正主義のマルキストは、各々搾取された大衆の革命的エネルギーの欠如や問題のある頑固な「誤った意識」を文化上の用語で説明することを試みている。このエリートの支配に関するイデオロギーの議論には、その弁論家の集成が特に答えるに有益である。アテネの大衆の聴衆は、彼らが問題を受け取ったところのものに積極的に返答し、すぐに何らかのコメントを行った。彼らの決定(投票)は演説家にとって重大な結果であった。従って、弁論家の集成にしばしば現れるテーマとトポイは、熟練の演説家が、 アテネ市民の最適な政治的かつ社会的価値と意見(集約的に、「イデオロギー」)であると受け取ったところのものを、まさに正確に指摘しているであろう。イデオロギーの分析に関して、「好意を捉える」ことが弁論家が行おうと試みた実質的なケースよりもっと重要である。後者は聴衆が信じているところのものに反駁するかもしれないが、前者は必ずできるだけ近づいて信念の同じ心構えに従わなければならない。
修辞的なトポイの私の研究(7章)は、エリートの価値による転覆や先取りとは遠く離れて、アテネのデーモスのイデオロギーはとても民主的である。アテネ人は、大衆の聴衆の潜在的、実際的知性をかなり信じていた。重要な決定を行うときが来たとき、エリートの専門的知識との差異よりむしろ、市民は自ら集合的に重要な事柄のもっとも可能性のある判決であると信じていた。さらに、アテネ人は、市民にとって、どのような専門的教育も、十分に政策決定に参加するために必要であるとは想像しなかった。というのは、民主的ポリスで成長することは、それ自身十分な教育であったから。大衆の思考に従えば、市民はアテネの政治的権力の究極の源であると思い起こさせられたところのものを通じて、また特別な決定の世襲の知性を通じて、民会と裁判所の決定によって教育された。対照的に、民衆は特別な政治的知識あるいは教育を主張する個人を疑った。公的演説家は、しばしば彼らの敵をこうした理由から特に攻撃している。彼ら自身を普通の市民として特徴づけ、彼らの敵を過度の利口者として、高い訓練をされた演説家として、彼らの修辞的才能は集合的政策決定を誤らせる恐れがあると。<註18, Ober, 1989, b,156-91>
同様に、アテネ人は自ら集団的貴族であると信じていた。すべてのアテネ人は、彼らの先祖をもっとも初期のアッティカに居住する「大地の生まれ」にさかのぼらせた。そして、そこですべてのアテネ人は「アウトクトノス(生え抜き)」であり、そして彼らの祖国の土壌のつながりを分かち持った。アテネのイデオロギーにおいて、アウトクトノイはポリスの良きこと、そしてそれが維持される政治的体制への確固たる忠誠を保証した。結果として、個人的にアテネ人にとっては、彼の「高い生まれ」の基礎に関する特別な地位の権利を主張することは困難であった。アウトクトノイのイデオロギーの論理的結論は、訴訟当事者にとっては、お互いの生まれの合法性を攻撃する傾向があった。「外国の血」はアテネのその民主政への、その人の忠誠に関する疑惑の理由であった。<註19, Ibid., 248-92>
大衆のイデオロギーは、また富とそれがもたらす権力に関わった。アテネの社会は確かに経済的階級の線に沿って階層化された。さらに、アテネの富裕なエリートのあるメンバーの恐れにもかかわらず、かつて、市民の間で組織的な財産の再配分をなそうとする、どのような試みもなかった。民衆の権力は、その富がその所有者に提供し得る、品物へのアクセスを平等化することには用いられなかった。それに反して、民主的イデオロギーは、富者の自発的再分配を促し、かつ富者の不平等の政治的影響力を制限した。普通のアテネ人の陪審員は、一つの階級として富者に深い疑念を抱いた。彼は金持ちを傲慢、わがままと見る傾向があった。また少なくとも、彼らの経済的立場を直接他の者の上の権力に移すのを妨げている、民主的政治体制に潜在的に敵意を持っている、と見る傾向があった。金持ちのアテネの訴訟当事者は、彼の運命が十分に憤った陪審員の意見に負っているのに気づき、自ら民衆の一人の男であると示すことによって、彼らの不信を晴らすことに骨身を削った。時々、裕福な演説家は、より権力ある敵の金持ちによって悩まされている貧しい男の役割を仮定して、陪審員の同情を求めた。別の演説家は、彼らの個人的富はしばしば公的使用に用いられとして、「レイトゥルギア奉仕の形や、 特別税や、自発的な国家や、貧しくなった隣人への奉仕という形で用いられた」と指摘した。
対照的に、ある敵は名のしれたけちとして特徴付けられた。歴史的に気前のいい訴訟当事者は、陪審員たちに彼らが利己的な敵と論争しているときに、疑いの利益を彼らに与えることを尋ねる資格があると感じていた。すべての金持ちのアテネ人は、自らを裁判所で見いだす機会があったので、この「市場」関係は、私的な気前の良さを助長した。
しかし、平均的な訴訟当事者は嘆願者の立場に置かれたので、その取引の用語は普通の市民によってコントロールされた。エリートの男の過去の行いと最近の自己陳述が、彼が現在要求している好意に関する十分な償いであったかどうかを決定するのは、彼ら(普通の市民)であった。<註20, Ibld.,192-247>
個人の演説の行為に対する、公式な大衆の判決の頻繁さと重要性が、エリート自身の階級の利益と結びついた行為を抑制する傾向があった。アテネの民会の議論と訴訟の手続きは、エリートの演説家を方策の不足のため、お互いに争う状態に置いた。つまり、民会において一定の手段で、唯一一つの決議を通すことができたのみで、裁判所においては、わずかに一人の成功した訴訟当事者がいるだけであった。さらに、アテネの陪審員は、十分エリート内部の協力を伴うところの危険性を、そして他の政治家と激しく公的訴訟を行使しない、何らかの野心ある政治家の疑惑に気づいていた。<註21, Ibid., 328>
いくつかの法的プロセスは、エリート内部の競争と訴訟を促進するのを計画したように見える。つまり有名なアンティドーシス(財産交換)である。金持ちの市民Aは、非自発的公共奉仕を背負い込み、そして金持ちBの財産が公共奉仕の負担より少なく支払われたと考えた彼は、公式に公共奉仕を受け取るための挑戦をBに行うことが可能であった。もし、Bが拒絶すれば、Aは財産の強制的な交換のための裁判に訴えることができた、その結果AはBの(似前の財産)から公共奉仕を清算することができた。アンティドーシスの手続きは、金持ちのアテネ人をお互いの秘密の財産を探ることを促進し、裕福なエリートの仲間を、大衆の支持のために裁判所の競争でお互いに戦わせた。<註22, cf. Christ, 1990>
アテネの民主政は、高い競争心、アゴンのエトス(精神)によって特徴づけられる、貴族的エリートの活動をデーモスに利益となし、専ら大衆の聴衆によって判決された公的競争に向けられた。エリートの特性は取り除かれなかった。実際、それらはある状況においては、よき影響を誇示されたかもしれなかった。しかし、まさに非エリートの市民の「大衆」のいつもの気まぐれが、特別な状況が特別なエリートの表示を正当化するかどうかを決定した。エリートのアテネ人は、制度化された不安定さのもとで生活し行動した。もし、彼がギリシアの貴族が望む傾向のあったもの、―政治的影響力、公的名誉、広い賞賛、そして社会の尊敬―を望んだなら、彼は常にそして微妙にシフトするルールでゲームを強いられ、そのゲームはしっかりと根付いた民主的理想に従って働いた集団(民衆)によって判決された。判決は、敗者やルールを破って捕らえられたものたちに、厳しい罰則を規定した、巨額の罰金、咎、さらには処刑。しかし、敗者が送り出されると、新しいプレーヤが常に舞台の袖で待っていた。逆説的にいえば、アテネのエリートの間の競争的貴族的イデオロギーの永続する強さは、各人が言葉と行動で民衆に民主的理想と実践への彼の忠誠の深さを熱心に説明することで、また彼の仲間の忠誠心の欠如を熱心に暴くことで、常に有能なアドバイザーの供給を提供することにより、民主的秩序をサポートした。
アテネの政治生活のゲームは、厳しくそしてしばしば冷酷であった。このことがトゥキュデイデスやプラトン、アリストテレスや当代の他のアテネの民主政の批判者による反民主的立場の展開のひとつの理由であった。しかし、それはまたまったく自発的であった。ゲームに立てなかったエリートのアテネ人は、よき仲間と同様、税と公共奉仕を支払うこと、また政治の外にいることもできた。彼が自らを法廷に見出したとき、彼は財政的な気前のよさの記録を示すこともできたし、見返りに比較的寛大さを期待することもできた。彼は心いくまで書いたり語ったりして民主政を批判することも自由であった。彼が(ソクラテスがそうしたように)公の場に彼の言い分を持ち出すことがない限り、あるいは他人を民主政に敵対して血のクーデターを行使するよう導くことがない限り。
ひとつの最終的問題が、我々の注意を求めている。古典学者もまた理論も両方、伝統的に、前5世紀をアテネの歴史の真にエキサイティングな期間と見なしてきた。ペロポネソス戦争後の民主的期間(前403〜322年)、時々デカダンスな、そして衰退の時代と特徴付けられた。<注23, 例えば、Mosse, 1962, 1973.しかし、1章註11を参照 >
それにも関わらず、事実上、私がこのエッセーで言及したところのテキストは、前4世紀に書かれた物である。トゥキュディデスはまさに5世紀の終わりに書き、ペロポネソス戦争後、少なくとも彼の歴史の部分を編集した。プラトンやアリストテレスの活発なキャリアはまさに前4世紀である。私がアテネ人のレトリックの研究に用いた演説のほとんど17は戦後の作品である。その戦争後の期間は、スパルタに課せられた「三十人僭主」の体制に対する際立った(そして成功した)民主的抵抗で幕を開け、マケドニアの帝国主義への同様に勇敢な(しかし、最終的に不成功であった)抵抗で幕を下ろした。一方、アテネのデーモスは、過度に民会出席者への拡大する出席手当によって、参加のための支払いを拡張し、そして、そうすることで財政的逼迫に直面した。アリストテレスは確かに、彼自らの時代の民主政を、民主政のテロス(終わり)完全な実現と見なしていた。<政治学, 1274a,10>そして前4世紀のアテネ民主政のもっとも際だった例と見なしていた。<注, 24, Strauss, 1991, 214-17>。
我々は、前5世紀のアテネ文化を、急進主義の栄光と刹那の瞬間として見なし、その語に停滞と平凡への急速かつ破滅的な哀退が訪れるという「黄金時代症候群」をどう説明すればよいのだろうか?
この質問は、単純には答えられないが、しかし、私はいくつかの要因を示唆するだろう。
(1) その時代は敗北によって括孤でくくられた。最初はベロポネソス戦争、次にカイロネイアの戦い(前338年)、そしてラミア戦争(前322年)。こうした軍事的敗北は、前506年のスパルタとその同盟者に対する偉大なアテネ人の勝利と、さらに前490年、前480-479年ベルシア人に対する勝利と、また前5世紀の帝国の戦争と対照をなす。私が思うに、この対照は「誤りを含んだ議論」(EIA)の発展を促した。すなわち「強い活気のある民主政は、普遍的に外交政策において成功し、破れた戦争は都市の衰退のサインである」と。
(2) トゥキュデイデスのペロポネソス戦争の潜在的説明の暗黙の立場は、ペリクレス以後の民主的政治文化の機能障害のゆえに、アテネは失敗しがちであるというものであった。<註25, 参照Ober, 1994>
トゥキュデイデスの読者は、例え、彼の物語の説明が前411年で中断したとしても、アテネはその敗北でまったく完全に破壊されたという結論に導かれた。誤りを含んだ議論(E IA):「歴史はでたらめを言う。よき理論家であるトゥキュディデスは正しく、そしてアテネのそれに続く民主政の歴史は時代遅れ (無関係)である」。
(3)あえて前4世紀の弁論を読んだ者達は、(むしろ トゥキュディデスの読者に比較して小さなグループであるが)彼らは特に弁論家デモステネスが、民主的過去の栄光の日々に比べて彼らの時代を劣っていると記述しているのに出会う。(EIA:誤りを含んだ議論):「デモステネスは客観的現実を記述していた。」
(4)まさに前5世紀の終わりと前4世紀の初期に、アテネ人は法律を体系化し、多数のくじで選ばれた「法律作成者」によって法律を作るという新しい方法を導入した。法律(ノモイ)は民会で通過した決議(プセビスマ)と区別された、そしてどのような決議も現存の法を却下することはできなかった。(EIA:誤りを含んだ議論):「急進民主政の、切り刃は保守主義に道を譲った。あるいは少なくとも「穏健」 (民主主義に)、アテネが「民衆の主権」から「法の主権」に移行したときに」。
議論の1と2は少なくとも私がそれらを特徴づけたように、ほとんど答える必要はないだろう。私は今日、ほんの少数の歴史家や理論家が、直接的に軍事的成功と民主的文化とを相関するのを支持する議論を喜んで行い、あるいは衰退した政治的文化の用語で軍事的失敗を説明するだろうということを確信する。マケドニアによるアテネの敗北は、歴史的に興味はあるが、しかし、その敗北はマケドニアの発展に見いだされるに違いにないという説明は誤りであり、むしろアテネの防御に関する民主的決議に見出される。<註26, 、Ober, 1985, a. 参照>
トゥキュディデスの衰退と堕落の分析は、単純に前403年の民主的回復を説明し得ないし、あるいはその後の民主政の強さと安定を説明できない。議論3は、一般的に、ギリシア文化にある黄金時代のシンドロームの、永続する魅惑に関する説明に失敗している。すでに「イリアス」において、ネストールは「今日の」戦士が古き基準に達していないと不満を言い、ヘシオドスは「仕事と日々」の中で、よく知られたように自らの時代を「鉄の時代」と記述している。デモステネスの聴衆は、祖先の卓越性と当代の衰退を、厳格な参照としてではなく、むしろ勧告的演説行為として受け取った。つまり、広く知られた現実の問題のない記述としてではなく、むしろ以前の世代の民主的原理と業績に恥じない行動をすることへの市民への挑戦として受け取った。
議論の4はより複雑である。それは最近、はっきりと大変詳細になされてきた。<註27, Ostwald, 1986>
主権の用語をアテネの民主政に適用する事に含まれるいくつかの問題は、第8章で論議される。ここでは、以下のことを言うにとどめる。つまり主権の概念は合法的な中央集権の君主政の文脈の中の西洋の伝統の中で作られた物で、そして「バランス・オブ・パワー」のドクトリンは、民主的ポリスの歴史的経験に適用したとき、際だって誤って導かれる。ポリスは中央集権化された君主的国家から展開されなかったから。
4世紀のアテネに関する、何人かの政治的理論家によって感じられた軽蔑は、何らかの形の政治的安定に関する深く根ざした嫌悪の所産であり、そして同様に1963〜74年頃のアメリカの政治的活動主義によって一種特徴づけられた「過激民主政的瞬間」への強力な愛着であると思われる。
私は確かに、はかない革命の瞬間から得た洞察に焦点を当てた作品を侮辱したいとは思わない。<註29, 参照4章、Ober, 1996>しかし、私が思うに、概して民主的理論の企ては、もし我々が演繹的に革命の瞬間に生み出された活気ある民主的文化が、結果として比較的長い時間存続し、複雑な国家の統治のための支柱として奉仕したという可能性を拒否したならば、その民主的企ては弱められるであろう。革命のエネルギーのなかでの均質性の衰退としての否定的に特徴づけられた安定性は、民主的安定性が、ダイナミックな緊張を通して達成し得たという可能性を無視している。
実際、アテネにおいて、貴族的価値と民主的イデオロギーの間の決して解決されない緊張、そして深く政治的価値を有した明らかに正反対の事物が(例えば、言論の自由と共通のコンセンサスなど)、民主的体制の心臓部に横たわっていた。これらの緊張と矛盾の未解決の状態は、批判的政治思想を呼び起こし、民主的アテネの文化を特徴づける継続的な制度的調整と(より限定され程度ではあるが)イデオロギー的調整に貢献した。(そしてそれは、保守的な批評家たちを失望させて止まなかった)。
こうしたダイナミックな緊張関係は、生きた民主主義文化を維持し、擁護し、絶えず修正しようとする市民の継続的で公的な活動を通じて、またその同一文化のトゥキュデイデスやブラトン、アリストテレスのような「批判家集団」を許容しようとすることを通して、交渉され維持された。(参照 第10章)
前5世紀と前4世紀のアテネは、(その社会は社会的に多様な市民が、「顔と顔を突きつけた」個人的相互関係の政治学としてはあまりに大きすぎる、そうした複雑な社会を直接に支配していた)ダイナミックに安定した民主主義文化の歴史的な例として、特によく文章化されている。
古典期のアテネにおいて、民主政の現実を否定しようとする人々は、その現実を一貫して主張している当代の証拠を説明する必要がある。少なくとも、直接民主的な複合社会のより良い歴史的事例が見つかるまでは、アテネの事例は政治の「鉄の法則」について疑念を抱き続ける政治思想家や、考えられることと同様に可能なこと、規範的理想と同様に歴史に関心をもつ人々によって、真剣に取りあげるに値する。
(2023/11/03)
クロード・モセ「ギリシア都市における能動的市民と『受動的』市民:問題の理論的アプローチ」(試訳)
クロード・モセ「ギリシア都市における能動的市民と『受動的』市民:問題の理論的アプローチ」REA, LXXXI, 1979, pp.241-249.
※ Claude Mossé, "Citoyens Actifs et Citoyens "Passifs" dans les Cité Grecques : Une Approche Théorique du Problème."REA, LXXXI, 1979, pp.241-249.
市民権の概念は、古代の思想の遺産である。それは、確かに、都市の概念と不可分であり、後者(都市の概念)が何より政治共同体であると同様に、前者(市民権の概念)も同様に、政治と等しく活動との関連でしか理解できない。革命時のフランスで国王の絶対主義に対して民衆の主権が確立した時に、日常の言葉でさえ市民のタイトルが重きをなした。しかし、人は同じく、1791年の政体は、実際に納税額の基準に基づいて、元老院議員選挙団と将来の立法議会の代議員の選挙に参加した能動的市民と、古代ローマ市民の「選挙権なき市民」と同じセカンドクラスの市民であった、「受動的」市民を区別していたことを知っている。
ところで、そのような区別は、一見したところギリシア都市の世界では存在しなかった。納税義務の基準が(財産資格)、それらの都市の内の多くで、民主主義のアテネを含めて、様々な職務につくのに決められていたにもかかわらず。ポリテース/市民の用語には、市民のさまざまなカテゴリーの存在を意味する何らかの制限を伴うことは決してなかった。
しかし、その現実はどうであろうか? アテネは別にして、我々はヘレニズム時代以前のギリシア都市の内部の働きについて、余り十分に情報を与えられていないだけに、一層その質問に応えるのは容易ではない。そして、たとえ我々が手にするいくつかの史料が、方々で議会や行政官、デーモス(区)の機能をかいま見ることを可能にしたとしても、多少ともその部分は、ほぼ完全には実質的な決定に関わる部分は、我々の手には入らない。その一方で、アレクサンドロスの時代以前の我々の情報の大部分は、アリストテレスの『政治学』に由来している。我々は、『アテネの国制』だけが我々まで到達したばかりではなく、ペリパトス学派の学園の教師(アリストテレス)はギリシアのあるいは外国の158の国家の国制の情報に関して収集していたことを知っている。従って、それは『政治学』の言及を通して、我々が考えねばならないところの、論理的に構築された思考のアプローチを説明する例として、しばしば与えられる。しかし、正確に言えば、それは論理的構成に関することなので、人は次のように自問するかも知れない。哲学者(アリストテレス)は、現実から引き出すのではなく、それどころか、具体的なものに関しては、いまだまったくあいまいなままであったであろうものを、体系化しようとは努めなかったかと(怪しむかも知れない)。いずれにせよ、そのアプローチの分析だけが、我々にその問題に関して解明をもたらす。
まさに第3巻(『政治学』)において、アリストテレスは、彼はそれ以前に、第1巻で人間のコミュニティとして都市を定義して、次に第2巻で理想的なポリテイア(国制)と考えられるモデルとみなしていたが、現実のあるいは想像上のポリテイアのいくつかを検討して、第3巻にて市民の定義の問題に取り組んでいる。(註1 )哲学者(アリストテレス)は、直ぐに、二重の確認をしている。すなわち、彼が取り組もうとしようとしているテーマは、人が誰が市民であり、誰がそうでないかを知ることに関する意見は、必ずしも一致していないがゆえに、難しいテーマであり、またその判断の相違はポリテイア(国制)の性質に関連していることである。すなわち「民主制においては市民でありえても、寡頭制においては市民でないことがたびたびあるのである」(第3巻、第1章、第2節、1275a2-5 )その句は、次の推論で示すように、二重の意味で理解されうる。
第一のものは、最も明白であり、民主主義は、他では拒絶された人々、すなわち、もし市民権の獲得の基準が納税額に基づいていたなら、貧乏人、職人仕事あるいは商業のような評判のよくない仕事に従事している人々、そうした人々を市民の間に入ることを許している。しかし、第二のものは、もっと捉えにくい。なぜなら、市民の定義を、「機能(職能)的」と呼ぶことのできるであろうものを想定(仮定)している。ところが、アリストテレスが考察をしようとしたのは、まさにその定義である。実際、彼が市民であるためには、なによりも、それはメテケイン・クリセオース・カイ・アルケース〔判決と権力にあずかること〕である。つまり、一方では判決と決定に参加し、他方ではアルケー〔権力〕を示す機能、実行に参加することである。しかし、アルケーは実際さまざまである。つまり、アルカイ〔役人〕の中には、そこには限定期間デイエーレーメナイ・カタ・クロノンのあるものもある。また他のものは、陪審員あるいはエクレーシア〔民会〕のメンバーの機能(職能)のようなアリストス〔無限〕の限定である。従って、市民であるためには、後者らにあづかるだけで十分である。
アリストテレスによってそのように定義された市民は、それは、何よりも前4世紀のアテネ市民、つまり民衆裁判所のただ中で陪審員として、また民会の集会の際に民会出席者としての機能(職能)に従事するためにミストス〔給金〕を受けとったアテネ市民、であることはまったく明らかである。すべてのアテネ市民が、陪審と民会のメンバーであることができ、極言すれば、そうであらねばならず、また二つの機能(職能・仕事)に報酬を与えるミストス〔手当〕は、アルカイ〔役人〕のメンバー加入を正当化した。(註2)
しかし、アリストテレスは直ぐに、その定義が議論の余地のあることを理解している。何よりも、実際にアルカイの用語は一般的に限定期間の役職を、また人は選挙あるいは抽籤によってついたその役職を割り当てられているので。しかし、同時に、またとりわけ、その定義は民主主義のためだけに有効であったから。ところが、エクレーシア(民会)のない都市がある。―アリストテレスはまさに、デーモス(民衆)のいないところと言っている―
また、司法の機能が順番に従事されるところがある。(註3)都市の中ですべての市民の民会も大衆の裁判所もないのである以上、市民の定義は、もはやメテケイン・クリセオース・カイ・アルケース〔判決と権力にあずかること〕もなく、それを行使する可能性も持っていない(1275b18-19)
市民の機能に関するその定義が、そのように提起されて、アリストテレスは、その使用に移ろうとする。すなわち、現実はどうであったのか、あるいはどのようにして市民になったのか?最初に考えられる市民権の獲得の手段は、それはもちろん生まれである。人は、両方の市民(父親・母親の)から生まれたならば市民である。(註4) しかし、人はまたそれを、個人あるいは集団として資格を得ることができた。例えば、クレイステネスは都市の中に、クセヌース・カイ・ドウールース・メトイクース〔外国人と奴隷出身の居留民/奴隷(居留民)〕を編入した。 市民権への獲得のその2つの手段は、すなわち、出生と“帰化”は、哲学者(アリストテレス)の目には、主要な基準、アレテー・ポリティケー〔政治の徳〕の道のりを構成するものとは関係なかった。確かに、市民を決定の権利(権力)と実行の権利(権力)にあづかる人と定義するのでは十分でなく、さらにどんな資格が2つの権力を行使するのに必要であるかを見抜かねばならない。その資格は次の定型表現に要約されうる。市民は、代わる代わるアルケイン・カイ・アルケスタイ・カロース〔立派に支配しかつ支配される〕(『政治学』第3巻、第4章、14−15節、1278b8 以下)ことのできる人である。たとえ、支配者(アルコン)のアレテー〔徳〕が被支配者(アルコメノス)である者のアレテー〔徳〕と異なっていたとしても、それらは代わる代わるアルコン〔支配者〕とアルコメノス〔被支配者〕であらねばならない市民にとっては両方必要不可欠であった。人はここに、アリストテレスをその師プラトンから区別するところのものを見出す。すなわち、彼は、確かにアガトス・アネール〔高貴な男〕・立派な人に特別な美徳が存在することを認めていたとしても、彼はだからといって政治的機能が彼(アガトス・アネール〔高貴な男〕)彼とその同胞に割り当てられるべきであるとは結論づけていない。すべての真の市民は、指揮する人、アルコンに適した{アガトス・アネール};〔高貴な男〕のアレテー〔徳〕と同時に、代わる代わるアルケイン〔支配すること〕かつアルケスタイ〔支配されること〕を可能にするアレテー・ポリティケー〔政治の徳〕を所有している。しかし、アガトス・アネール〔高貴な男〕のアレテー〔徳〕だけでなく、アレテー・ポリティケー〔政治の徳〕もまた欠いている人々、例えば、手職人などの人々はどうであろうか?アリストテレスにとっては、二つの解決方法だけが可能であった。すなわち、あるいは手職人は至るところで、昔の事例であったように、また、いまなおある都市ではそうであるように、市民ではない。その解決方法は、まさに観念的な都市に採用されねばならないだろう。あるいはまた、手職人は市民ではあるが、その時彼は真の市民を定義するアレテー・ポリティケー〔政治の徳〕の欠如したセカンドクラスの市民である。従って、彼は単にアルケスタイ〔支配されること〕であり得るだろうし、アルコメノス〔被支配者〕ポリテース〔市民〕であるだろう。
しかし、以前に彼が絶対的な方法で市民を定義したときに、アリストテレスは、かれが暮らしているところの世界の現実にぶつかっている。その世界とは、民主的都市においては、手職人が完全な権利を持った市民であるだけでなく、寡頭制の都市においては、アルカイ〔役人〕の関与が財産評価に応じて決定されているのであるが、豊かな手職人あるいは職人が市民である世界である。現実のその多様性から、アリストテレスは、次のように結論を引き出している。つまり、彼らの活動によって、アレテー・ポリティケー〔政治の徳〕が奪われる人々がアルカイ〔役人〕に関与しているような都市があるだけでなく、市民のコミュニティーのいくつかのメンバーでは、「政治の徳」のその欠如を考慮に入れて、人々が、市民の資格を与えながらも、アルコメナイ〔被支配者〕でしかない権利を与えている、そのような都市があるという結論を引き出している。それらの人々について、アリストテレスは、彼らはホースペル・メトイコス〔在留外人のよう〕であり(1278a38)かつ彼らを隠すことはごまかし(アパテー)であると言っている。
ところで、たとえ、前者が民主的都市であること、特にアテネのように、が明白であったとしても、後者が市民団体の帰属が、納税額に基づく、あるいはその他の基準によって決定された寡頭制の都市であったことが明らかなわけではない。すなわち、市民の名を持つのはポリテイア〔国制〕に参与した人々だけであって、同様に、たとえ権力が少数者の手に集中していたとしても、また、たとえ民会が存在しないでないにしても、まれであったとしても、各人にとってアルケー〔役人〕に従事する可能性は存続した。従って、問題は、以下のことを知ることである。つまり、市民共同体に属していた人々が、それどもなおすべての政治活動から排除されて、かつ“受け身の・消極的”市民、アルコメノイ〔被支配者、に縮小されている、そうした都市が存在するかどうかを知ることが問題である。
さて、我々に示された最初の例は、私にはアテネのそれであると思われる。すなわち、幾度も、実際、都市の歴史の中で、アテネ人は市民共同体のメンバーのままではあっても、すべての政治的活動から排除された。
まず最初に、411年の〔寡頭制の〕革命の時に。人は次のことを知っている。シチリアの敗北の直後に(前413)、民主政の反対者らは、ヘタイラ(仲間)に再結集して、その頃(ペルシアの)総督ティサペルネスのもとに亡命していたアルキビアデスと連絡を取った。そして彼と共に、体制転覆を企てた。トゥキュディデスの物語は、それは当時のアテネとサモス、そこではアテネの軍隊の一部と艦隊が宿泊していたのだが、そこで繰り広げられた出来事に関しての我々の主要なソース(原資料)であるのだが、それは共謀者の目的に関して、何一つ疑問を残してはいない。つまり、まさしく、民主政転覆が主題であった。(註6) それどころか、その発展していくなかで、同時に、出来事の展開に関してもっと短く、また、もっと正確に革命の制度的側面について、アリストテレスの『アテナイ人の国制』によれば、もはや民主政を破壊するのではなく、むしろ、パトリオス・ポリテイア、すなわち父祖の国制、ソロンとクレイステネスのそれであるが、それを回復することであった。(註7)その意図で、選出された委員は「…その数が5千人を下回ることなしに、身体財産ともにもっとも国家に奉仕でき るアテネ人の彼ら全体に、ポリテイア〔国制〕を委ねた」(29章の5節)。人は次のことを知っている。実際には、委員会によって作成されたカタログは、9千の名前を含むであろう事を、またその一方で、五千人の体制は、四百人政権の崩壊と民主政の復活の間、わずか数ヶ月しか機能しなかったことを知っている。(註8) しかし、法的に言えば、もし、その体制が長く続いたなら、その名前がカタログに載っていなかったアテネ人は、どうなったであろうか?彼らは市民の身分を維持したであろうか?彼らはアティモイ〔市民権/公民権喪失者〕あるいは、クセノイ〔外国人〕になったであろうか?
その答えは、大半はその語彙の曖昧さのゆえに述べるのが難しい。それというのも、人は、除名された人が奪われたであろうそれを(あるいは、当選者が所有したであろうそれを)示すために、いくつもの用語に出会う。すなわち、
―まず最初に、ポリテイア〔国制〕。それはアリストテレス(第29章第5節)によって引用された法令の中に掲載されたのと同じ用語であり、かつ以前、ポリテイア〔国制〕に参加するその人たちの数を減らすことによって、アテネ人がペルシア大王の援助金を受け取ることを期待していた(第29章第1節)ことを示したところのものと同じ用語である。ところが、そのポリテイアの用語は、市民権の意味を持つことができる。例えば、その同じテキストで、アリストテレスが、民主政治を回復するために援助したメトイコイや外国人の彼らに考慮して、トラシュブロスによって提案された法令を喚起したときに。(註9)それは、同じく、都市が栄誉を称えることを望んだ外国人に、個人の資格で都市の権利を授与したところの碑文の中にこの意味(市民権)がある。(註10)それはまた、より制限された意味を持つことができる。例えば、ポルミシオスの決議に反対して発せられた演説の中で、彼ポルミシオスは土地を所有していたもの達にのみ、ポリテイアを与えることを計画したのだが、弁論家は、もし「すべてのアテネ人に」ポリテイアが与えられたなら、その場合にのみ、都市の安全が保証されるであろうと反駁した。従って、法令(が通過したなら)は、アテネ人はポリテイアなしで、そのままになっていたであろう。(註11)
―また、人は除名された人が奪われたものを意味するために、ティマイ〔名誉・特権〕の用語を見出す。すなわち、そのことにより、彼らはアティモイ〔市民権/公民権喪失者〕、つまり、彼らの政治的権利を奪われた人々になった。しかしながら、リュシアスの弁論の中で、411年の(寡頭制)リストの一人の息子である訴訟人は、民主政の回復の後に彼の父親に負わされた有罪判決のおそれに関して大声で言っていることに、注目しなければならない。すなわち、エピティモイ〔市民権を享受している者〕である我々を、アティモイ〔市民権/公民権喪失者〕にしないで下さい。市民である我々を、無国籍者(アポリダス)にしないで下さい。 その時に、四百人(寡頭制)のかっての支持者が脅かされたところの市民権喪失が、結果として、市民団からの彼の追放を引き起こしたと仮定しなければならないのか?同じく、411年に、そのカタログに登録されなかった人々が除名された人として存在したのであると仮定しなければならないのか?
―最後に、最後の用語、人が一般に「国事」と翻訳しているタ・プラグマタ〔国事〕である。人は、彼アリストテレスが最終的に、四百人寡頭制の崩壊の後に五千人に召集することを可能にさせた状況を思い起こさせた時に、彼のテキストの中にそれを見出す。すなわち、人は四百人を追い出して、そして五千人にタ・プラグマタ〔国事〕を託した。(註13)
我々が検討したその用語の一つとして、曖昧でないものはなく、またポリテイアでさえ市民権の排除を明確に意味するものは何一つない。従って、ほとんど五千人のカタログに載ったアテネ人が、それでもポリテイアに留まったかどうか、また、彼らが、リュシアスの表現を借りるとしたら、アポイデス〔無国籍者〕になったがどうかは、知ることは不可能である。また、問題は同じである。404年に3000人に所属しなかった人々と、もしポルミシオスによって提案された決議が可決されていたなら、ポリテイアから排除されたであろう人々にとって。その語彙は、そのあいまいさによって、結論を引き出すことは不可能である。
しかし、恐らくその問題については、別のアプローチが可能である。つまり、人は、次のことを理解した。411年に寡頭主義者らがアテネの権力を奪取した時に、彼らは自分たちの行為を、ソロンとクレイステネス、つまり、アテネ民主政の「建国の父」と、パトリオス・ポリテイア〔父祖の国制〕の創造者と見なされていた彼らの二重の被護の下に位置づけた。(註14) 伝承は、大半は、411年の革命に先立った数年の間に入念に作り上げられた物であるが、アルカイ〔役人〕や司法権力の行使に関しての条項を、その古き国制に帰した。その伝承について、我々は、『アテナイ人の国制』の最初の璋の中で、一つのこだま(情報)を見出す。 ソロンは、そこで最初のプロスタテス・トゥ・デームー(民衆の擁護者)と呼ばれている。というのは、彼以前には大衆(ホイ・ポロイ)は何ものにもあづかっていなかったので(ウーデノス…メテコンテス)。はるか昔には、ただ貴族と富裕者だけがアルカイ(役人)に就くことことができた。そして、ドラコンによって、ポリテイア(参政権)は、トイス・ホプラ・パレコメノイス(武具を自弁する者)に与えられた。(註16) ソロンは、デーモスをグノーリモイ、すなわち有力者と対立させた危機の解決を任されたのだが、彼はへクテモロイと土地の奴隷身分を廃止し、そして、納税額による分類に基づいて打ち立てられた新しいポリテイア(国制)を確立した。それ以後、4階級が存することになった。初めの3つの階級の市民は、「いくつかの」アルカイ(役人)に就くことが可能になり、4番目の階級の市民は、エクレーシア(民会)と裁判所に入ることが可能になった。(註17)
人は、アリストテレスによってソロンに帰せられた国制のその規定と、『政治学』の中でまさにそのアリストテレスによって与えられた市民の定義の間の一致に驚かざるを得ない。すなわち、民主政の父であるソロンは、デーモスに無制限のアルケー〔権力〕を与えた。それはエクレーシア〔民会〕と裁判所に携わるものであった。しかし、彼は期間限定の他のアルカイ〔公職〕は慎重に、富裕者とゼウギーテス(農民)の「中産階級」に留保した(取っておいた)。411年の(寡頭政の)革命の首謀者にとってモデルとして役に立ったに違い
ないソロンのポリテイア〔国制〕において、すべての市民は、テーテスを含めて、従って完全な市民である。デーモスは全体が、キュリオス・テス・ポリテイアス〔国制の主人〕であるから、「受動的市民」は、そこにはなかった。(註18) しかしながら、人はその時、どのようにして男たちは、彼らは411年に少なくともアテネ人の2/3 を(註19)「ポリテイアから取り除いた」男たちであるが、ソロンの保護を、またさらに反対に、デーモスに時間制限のない、「アルケ・アオリストス(無制限の権力)」、を与えたクレイステネスの保護を思い起こすことができたかのかをいぶかるかも知れない。そして、人は、そもそも相容れなくはない二つの可能性のある返答をかいま見る。最初のものは、トゥキュディデスの物語によって示唆されている。すなわち、実際に歴史家が報告しているそのこと、つまり寡頭制革命の首謀者たちは、最初に、単純に体制の変換を語りながら、彼らの本当の目的を隠しているそのことから分かる。(註20) クレイトポンの追加動議によって追加された、クレイステネスへの言及(参照)は、共謀者がかれらの実際の意図を隠したところの嘘(アパテー?)の数で登録することであったろう。しかし、同じく、アテネには哲学界は除いて、ソロンのアテネについての他の伝承、また、多分市民概念がいまだ明白ではなかった時代を参照させる、もっと根拠のある伝承があったことが考えられる。古代の史料として伝わっているソロンの詩の断片の中に、また何よりもアリストテレスの中に、政治共同体のどんな特別な用語も見出し得ないことを確認することは印象的である。一方ではデーモス〔民衆〕がいて、他方では権力者と金持ちがいる。まさに彼らの間に、立法家(ソロン)は平等なバランスを保持した。最初の部分には彼らに帰属したゲラス〔特権〕与えて、第2の人たちには悪意のある暴力の犠牲となることから防いで、彼らに、彼らの「ヘゲモニー」を残しつつ。(XXI,2)立法家はもし、彼が彼に及んでいた圧力に屈したならば、都市(アテネ)に生じたことに言及したとき(思い起こさせた時)、彼はただ都市は多くの男たち、アンドレスを奪われたであろうとしか言わなかった(XII,4)。
それ以来、411年の革命の首謀者の何人かにとって、アテネ市民の一部からポリテイア〔国制〕つまり政治的権利の行使を除外することが、ソロンへの言及に満足し得たとがわかる。(註21)しかし、このように彼らの名誉を奪われた落ちぶれた人々が、同時にアテネの共同体の一部をなすのをやめたことがあり得るのか?つまり具体的には、土地の所有権への接近、市民の祭式、また市民の失った権利を求めることができるすべてへの接近をやめることがあり得たのだろうか?そのことは認めることは難しいように思われる。そして、人は、その差別が法的に述べられることなしに、もし、5千人もしくは3千人の体制が数年後まで持ちこたえることができたならば、ポリテイアから離れたアテネ人がアテネに留まったであろうことをより進んで信じたであろう。
4世紀の最後の10年間に、アルコメノイ・ポリタイ(支配されている市民)の概念をアリストテレスに入念に作り上げる気にさせることのできたことについて、もっと我々に明らかにすることが可能である他の例があるのか? 実際に、人はほとんど、穏健寡頭政についてのその展開を説明するための、アリストテレス自身によって言及されたいくつかの事例しか見出すことはできない。その事例に関しては、比較的最近用いられた用語を使用しており、またポリテウマ(国政/市民権)の用語については、財産がたくさんなければならなかった。『政治学』1305b33-35において、ポントスのヘラクレイアに関して、それについては、彼は前に(1305b12)話していたが、寡頭政が拡大した。彼は自分の功績として、裁判所が、「エク・トゥー・ポリテウマトス(国政)から」集められていなくて、すべての市民に許されていたということを明らかにしている。また、『政治学』1321a30-31で、彼は、人々がエン・トーイ・ポリテウマティ(国政の中)の人々に許すと同様に、エクソオーテン(外から)の人々、〔国政の内と外から〕アルカイ(役人)を充足するために最も優れた人を選出することで、大衆に配慮している寡頭政として、マッサリアの例を示している。
また数行前で、彼は手仕事に従事するのを一定期間やめたあとでしか、ポリテウマ(市民権)にあずかることができないテーベのケースを思い起こさせていた。従って、人は実際にはポリテイア(国制)には参加していない人々にポリタイの名前を実質は与えているアパテ(欺瞞)に直面して、それゆえアルケイン・カイ・アルケスタイ(支配しかつ支配される)の代わりに、彼らは単にアルコメノイ(被支配者)であり、完全な市民、真の市民の全体を示すためには別の語を見出さねばならないこと、またポリテウマ(市民権)がかなり十分ふさわしいと考えたい気持ちになる。アリストテレスは、その意味でポリテウマ(国政/市民権)を用いた最初の人であるのか?あるいは、彼はそれをかれが見本を示している諸都市からの借用であったのか?私は断定的なやり方で態度を明らかにする術を持たないであろうが、私は最初の仮説を採用したい気持ちである。
いずれにせよ、その同じ用語、かつ同じ意味で、『政治学』の最終的作成の約20年後のテキストの中に、有名なキュレネの決議の中に、(註22)また2つの他のテキストの中に見出すことは印象的である。それは本当に遅いが、どちらもラミア戦争直後のアテネで繰り広げられた出来事に関連するものである。 ディオドロス(XVIII, 18, 5)は、その時2000ドラクマに等しい財産を持っていなかったすべての人々が、ポリテイア(市民権)から排除されたことを思い起こさせる。他の人々だけが、ポリテウマ(国制)を構成するであろう。プルタークは『ポキオン伝』28以下の中で、その同じ出来事と貧困のせいでポリテウマ(国政/市民権)から排除された人々を思い起こさせている。彼らの内の一部は、トラキアに移住したが、他の人々はポリュペルコーンが彼らをポリテイア(国制)の中に復職させるまでアテネに留まった。(註23) ポリテウマ(国政/市民権)から除外されたアテネ人やアテネに留まっていた者たちが彼らのアテネ人の資格を失わなかったのは疑いない。それゆえ、彼らは法的には市民に留まったであろうが、アリストテレスが、アルコメノイ(支配される者)と言ったであろう「従属している」市民として留まった。
しかしながら、同様に人は、アリストテレスが、アルコメノイ(被支配者)に過ぎない人々を市民と呼んでいる人々のアパテ(欺瞞)について語るときに、彼がポリテイアイ(市民権)がモデルのために与えられたところの、また彼が第Ⅱ巻で批判したところの想像上の都市のことを同じく考えていないのかどうか疑問に思うかも知れない。想像上の都市の中では、人は直ぐにプラトンの『国家』のことを念頭に置く。 アリストテレスは、実際、プラトンの構成の中で、ゲオールゴイ(農民)の地位は明確に定義されていないことに気づいている。そして、彼は彼らをクレタの「奴隷」(1264a20-21)と、またスパルタのヘイロータイやテッサリアのペネスターイ(1264a35)と比べるとこをためらっていない。従って、同様に彼らはアルケー(権力)にあずかっていない(1264b35)。すなわち、彼らはアルコメノイ・ポリタイ(被支配者・市民)である。実際に、それは同様に法律とは別に『法律』の都市の第三、第四の階級の市民にあたるであろう。つまり、彼らの執政官の候補者への選任への参加は、義務ではなくて、大部分の人は遠慮するであろうし、アルコメノイ(被支配者)であるであろう。そしてまた、ミレトスのヒッポダモスのポリテイア〔国制〕においても同様であった。つまり、農民と職人は武器を所有している人々と同様にポリテイア〔国制〕に参加しているが、前者(農民)は武器を所有しておらず、次の者(職人)は土地も武器も所有していないので、彼らは事実上武器を持った人々のほとんど奴隷(スケドン・ドウーロイ)であるだろう(1268a20)。
従って、多分実際の都市と同じく、またそれ以上に、(註24) それは、アリストテレスが市民の定義を試みて、彼が政治的活動を欠いている人々に、その名称を与えることになったフィクションを明らかにした時に、彼が考えるよりも先に理論家が考えたかもしれない想像上の構築物であった。市民権は、単に身分であってはならない。それは、まず最初にアルケー〔権力〕の可能な行使の中で表された機能であり、そのアルケーは民主主義のようにアリストス〔曖昧〕なものであった。残りの物は、哲学者が我慢することができなかった欺瞞フィクションにすぎなかった。
結論をださなければならない。ギリシアの市民権は、アリストテレスまではかなり不明確な概念であったように思われる。人はアテネ人であり、ラケダイモン人であり、テーベ人であり、あるいはコリント人であった。人は生まれによって、あるいは非常に例外的に帰化によってそれになった。そのことにより、人は特定の権利を所有した。それは、独占的に土地を所有すること、軍事的、宗教的、その他の特定の義務を強制されることと同じように。人は、家族の、空間の特定の枠に組み込まれていた。しかし、民主的都市を除いて(人は民主的都市と言ったときに、最初にアテネのことを考えるが)市民共同体へのその帰属が、それがどんな形をとってでも、必ずしもまさに政治的活動への直接の参加を意味したわけではなかった。従って、様々な理由で好ましからざる人物と判定された人々を、必ずしも彼らから市民権を奪うことなしに、ポリテイア〔国制〕から排除することが可能になった。ところが、そのことがまさしく、アリストテレスが認めようとしないものである。(政治参加しないことは市民とは認めていない)人間は政治的動物であるので、市民権は共同体の帰属の波に引き戻され得る。それは、なにより身分である前に機能である。(註25) そして、その機能を果たさない者は誰でも、たとえ民会、裁判所にあっても完全な市民ではなかった。せいぜい居住民にすぎない者のだれそれのために市民権を保持するというのは幻である。従って、我々はアルコメノイ(被支配者)にすぎない市民の存在を、彼らの理想的な世界中に考察したプラトンやミレトスのヒッポダモスに向けられた批判がもっとよくわかる。しかし、同時に我々は、たとえば推測ではあるが、アリストテレスがどれ程4世紀終わりの現実からかけ離れていたかを知る。というのは、そこでは戦争と同じく政治は「職業」になっており、貧しくなったあるいは「お金を稼ぐ」のに多忙な市民の大衆は、少なくともアテネでは、最貧民のために様々なミストス(報酬)やテオリコン(観劇手当)の分配を構成する援助(小銭)を保持することだけを気にかけて、ますます無関心になった。アレクサンドロスの征服の後、王によって支配された世界では、市民権は単に身分にすぎない、それは一定の特権の保証であるが、実際の政治的中身のまったくない、単に身分にすぎないことに代わって、機能であることを終えてしまっているであろう。そして少数者を除いて、すべての市民はアルコメノイ・ポリタイ〔支配される市民〕、つまり「受動的」市民になってしまったであろう。
註:
1. 私はすでに「アリストテレスの政治学における市民の概念」Eirénè, VI, 1967, p.17-22の論文でその問題にアプローチする機会を得た。またそれは、同p.23-26のJ.Pecirká「4世紀アテネのアリストテレスの市民権の概念と外国人の役割」のノートに続けられている。しかし、私はその時、現在の研究の核心であるアルコメノス・ポリテース(支配された市民)の観念を深く掘り下げてはいなかった。
2. 市民の役目の報酬、またその言葉の複雑な内容としてのミストスに関しては、最後にHommages à Claire Préaux, Bruxelles, 1975, p.426 sqq.Ed. Will,「ミストスに関するノート」の論文を参照。4世紀の民衆裁判所に関しては、M. Hansen, 「前4世紀のアテネの民衆裁判所の主権と違法提案に対する公訴」Copenhague,1974の最近の書物を参照のこと。
3. 『政治学』1275b7-8. 私は、その節が引き起こした様々な解釈にはこだわらないだろう。アリストテレスは、ここで、エクレーシア(民会)とシュンクレトス(審議会)を対立させている。前者はすべての市民の集会であり、後者は一定の定期制のない(必要な時に召還される)集会であり、もちろんもっと(市民は)限られている。カタ・メロス(部門別に)という意味もまた曖昧である。というのは、その表現は「順番に」あるいは「階級に応じて」と意味し得るから。スパルタの例は、司法機関の細分化を考えさせる。カルタゴのそれは、裁判所ではなく、裁判をすることを求められた人々、専門化の方向に進んだ。
4. 『政治学』1275b20;その決まり文句は、451年のペリクレスの例の決議を思い起こさせる。しかし、『アテナイ人の国制』42.1では、アリストテレスは、「市民身分(アストイ)の両親から」といっている。母親もまた示すためのポリテースの使用は、特筆すべき例外的なことである。
5. 『政治学』1275b36-37 ;参照、『アテナイ人の国制』21.2そこでは、部族の数の増加に関して、アリストテレスは、クレイステネスはポリテイア〔国家〕にもっと多くの人を参加させるためにアテネ人を混合することを欲していたのだと述べている。『政治学』のこの句はさまざまに解釈されている。P. Lévêque et P. Vidal-Naquet “ Clieisthè l’ Athénien” 2e éd., p. 45以外に、J.-H. Oliver (Historia, 1960), D. kagan (Historia, 1963)そして、J. Bicknell (La Parola del Passato, 1969)を参照。アリストテレスが、クレイステネスのそれを唯一の例として考慮に入れたのは不思議である。たとえ同時代の経験が、彼クレイステネスに革命的な僭主の政治に対してネオポリティアイ〔新市民〕の創出につながる可能性を提供したとしても。
6. トゥキュディデス『歴史』第8巻47以下を参照。そこでは、特に、次のように言われている。アルキビアデスは、アテネが民主政を寡頭制に取り替えるなら、ペルシアの報奨金の約束をアテネ人の目にちらつかせたと。
7. 『アテナイ人の国制』第29章、3節; それは、クレイステネスによって確立されたパトリオイ・ノモイ『父祖の法』の復活を要求したクレイトポンの有名な修正案に関することである。アリストテレスは、そうすることで、クレイトポンは「クレイステネスの国制は、真に民主的ではなくて、むしろ、ソロンのそれに類似していた」と考えていたと付け加えている。イソクラテスの『アレオスパゴス評議会演説』16においては、クレイステネスのイメージは、ペイシストラトスの僣主政治の後のソロンのポリテイア〔国制〕の単なる再建者になっている。それは、アリストテレスが『政治学』や『アテナイ人の国制』で与えた改革者のイメージとはかなり際だって異なっている。
8. 411年の革命については、重要な文献目録がある。私は、Ed. Will, Le monde grec et l’Orient ; t. I, Le Ve siècle, Paris, 1973, p. 367-368によって与えられた記載の本を参照させる。
9. 『アテナイ人の国制』第40章第2節。「…その決議によって、彼(トラシュブロス)は、ペイライエスからの帰還に加わった者全員に、市民権を分け与えようとした」。
10. 特に、Syll.3, 120を参照。そして、…彼並びに子孫に、市民権があるべし。
11. リュシアス第34弁論、3; しかしながら、弁論家の発言の意図(目的)があいまいであることを言っておかねばならない。彼は、もし、その決議が可決されたならば、何人かのアテネ人の一部は、「祖国を締め出された」であろうとまで言っている、従って、そのことが、祖国を守るための勢力を失ったであろうと(第34弁論、5)。同じく、第13弁論、47(403年の寡頭制の革命についての発言で)
12. 第20弁論、34.従って、人はここで、市民権喪失に関して、弁論家によって第34弁論、5また、第13弁論47で用いられたのと似たような表現に再び出会う。それは、政敵同士の「仕返し」の文脈の中でみられる弁論上の誇張であるのか(言及する)。あるいは「法的な(裁判上の)」現実であるのか(言及する)?立場を明らかにするのは(意見を述べるのは)難しいが、最初の仮定が、より本当のようである可能性がある。
13. 『アテナイ人の国制』第33章1;同じく、トゥキュディデス『歴史』第8巻、72, 1を参照。そこでは、五千人がホイ・プラソンテス〔統治者〕と呼ばれ、またクセノポン『
ギリシア史』第2巻、第3章,18では、三千人がトゥース・メテクソンタス・デ・トーン・プラグマトーン〔国事に関与する者〕として規定されている。
14. パトリオス・ポリテイア〔父祖の国制〕については、多くの研究がある。私が『ギリシア世界とオリエント』第2巻、パリ、1975年、191頁で示したビブリオグラフィを参照の程。私は、「建国の父」の表現をアメリカ革命から借りており、またアメリカ連邦の「祖先の国制」とアテネのパトリオス・ポリテイアの間に置かれた対比を借りている。M. I. Finleyが非常に暗示に富む彼の論文のなかでの、すなわち、The Use and Abuse of History, London, 1975,p.34以下での「「祖先の国制」である。
15. 『アテナイ人の国制』の最初の章は、多くの注釈の対象となった。もっとも豊富な一つは、私には、J. Day et M. Chambers, Aristotle’s History of Athenian Democracy, Berkeley-Los Angeles, 1962 のそれ(注釈)であるように思われる。
16. 注釈者の大半は、『アテナイ人の国制』の第4章に挿入された、いわゆるドラコンの国制について、疑わしい性格を認める点で意見が一致しているし、それについて5世紀の最後の10年間の穏健寡頭制のプロパガンダの産物であることを理解している。実際、その国制と411年と404年に持ち出された規定の一部との間の類似に驚かざるを得ない。しかし、多分、その偽造の年代確定の問題は、見かけよりももっと複雑である。
17. 『アテナイ人の国制』第7章―第8章。そのソロンのポリテイア(国制)の記述が、確かに留保が必要なのは明らかである。私は、別の研究でその問題を繰り返すつもりである。Annales,XXXIV, 1979, 425-437を参照。
18. 『アテナイ人の国制』第9章、1; まさにそのソロンの改革に関して、イソクラテス『アレイオス・パゴス会演説』26-27を参照。
19. もし、人が5世紀の最後の10年間の間にアテネの人口は約3万人に達していたということを認めるならば。
20. トゥキュディデス『歴史』第8巻53,3は民会の前でのペイサンドロスの言葉を伝えている。
21. 4世紀に入念に作られた伝承が明言しているにもかかわらず、人はクレイステネス以前に、テーテスが実際に民会に参加しているかどうか(当時まさに彼らが存在していたことを知らねばならない裁判所の言及がないので)、怪しむかもしれない。例えば、権力の所有者、ペイシストラトスの最初の行為が、民会に召集された民衆から武器を取りあげたことは重要である(『アテナイ人の国制』XV,4)。それは、当時、ホプリーテン(重装歩兵)だけが民会の一部をなしていたことを示している。
22. S.E.G. IX, 1,1 そこでは、デーモス(民衆)つまり、市民団のグループと、ポリテウマつまり全部で1万人の能動的市民のグループの間に区別がなされている。
23. プルタルコス『ポキオン伝』29,5; 32,1 :ポリュペルコーンは王(ピリッポス・アルリダイオス)のスポークスマンであったが、彼はアテネ人すべてが父祖に従って政治をすること(ポリテウエスタイ・カタ・タ・パトリア)を命じていた。
24. アリストテレスが、同様にスパルタ、そこでは、完全な権利を持った市民、ホモイオイ〔同等市民〕とは別に、自由な人たち、ペリオイコイが存在したスパルタのことを考えることができたであろう。彼がラコニアの制度を長々と批判して、何一つ後者(ペリオイコイ)について、彼らの身分は確かに曖昧であったが、言及していないのは驚くべき事である。その点と、イソクラテスによるラケダイモン人のデーモスとペリオイコイの同一化に関しては、私の論文「ラケダイモン人のペリオイコイ。イソクラテスの『パンアテナイア祭演説』177以下」Ktéma, 2, 1977, p. 121-124を参照。
25. 機能と身分の間の違いに関しては、Ph. Gauthier, Un commentaire historique des Poroi de Xénophon, Paris, 1976, p.247のtrophè-misthos の関連に関してのコメント(注)を参照。
(2023/05/31)
ピーター・J・ローズ 「アテネの民会と評議会:継続する問題」(リポート)
P. J. Rhodes, " The Athenian Assembly and Council: Continuing Problems"(Report)
《翻訳》
私はアテネの民会から始める。M. H. ハンセンHansenによる 前世紀の永続的で徹底的な仕事の結果として、我々は先人たちよりはるかに、どのようにアテネの民会が機能したかについて精通している。 機構について知ることが、私たちが知る必要のすべてではないが、機構が十分に整備された都市に関しては、アテネのように、機構や政治的に活発な人のために提供した機会と限界について知ることは、我々が知る必要のある重要な部分である。―それは、ハンセン自身が、他の種類の質問がより重要だと考える学者の批判に対して、アプローチを正当化する論文で強調しているように。しかし、まだいくつかの不確実な問題と一致していない問題が存続している。そしてここで、私はそれらのいくつかに焦点を当てたいと思う。
デーモスdemos〔民衆〕、民会、そして裁判所の関係については、ようやく長く続いた意見の不一致が解決されたように見える。多くの学者は、実質的には合意のもと、色々な独特な表現で「アテネ人は裁判所と民会を彼ら自身のデーモスの代表としてみなした。」と主張してきた。そして、おそらく裁判所とデーモスの間の[一つの]対置を意識することはなかった。ハンセンはこれに対して、アテネ人は、民会についてデーモスという言葉を使ったが裁判所についてではない、デーモスと裁判所は融合されるべきではなく、4世紀には、グラペー・パラノモンgraphe paranomon〔違法提案告発:民会で違法な提案を行ったものに対して起こされた公訴〕のような手続のおかげで、究極の権力はデーモス=民会ではなく裁判所にあったと主張してきた。その内容については、私は民会での大部分の決定は、裁判所で異議申し立てをされることなく、その決定は最終的には受け入れられたということ、また裁判所は時々民会の決定を覆すためにグラペーパラノモンを引き起こしたけれども、また時には決定を覆したが、ほとんどの場合、そういうことは起こらなかったと強調するであろう。民会をアテネの最終的な意思決定だと言うのは、承認できる単純化である。そのこと以上に、ハンセンのその主題の最近の研究は、議論の大部分は実体ではなくむしろ言語に関するものであることが明らかになった。アテネ人はそんな風にデーモスの語を民会と結びつけたが、それはデーモスの語を裁判所とは結びつけることができなかったという点で同じであった。民会と裁判所両方を「デーモスを表現したりあるいは具現化している」とみなすことはできないが、ハンセンは我々に両方を「ポリスを表現したりあるいは具現したりする」とみなそうとしている。そこで、今でも民会と裁判所を互いに対立するものと考えるべきではないというのは正しいが、民会と裁判所はそれらを通して、アテネの人々が、アテネのポリスそれ自身を支配した2つの機関であった。
アゴラとアレオパゴスの南西、アクロポリスの西側にある、プニュックスに関する議論があり、そこでは民会が開かれた。考古学的には、3つの段階がわかっている。第1段階はおそらく前6世紀の終わりに属し、僭主ペイシストラトスの終結後、民会の重要性が増したことと関連づけられるのは妥当であろう。2番目の段階は5世紀の終わりに属し、通常、研究者はプルタルコスの発言の、404-403年に、三十人僭主がプニュックスの配置を逆転したという記述を信じてきた。その結果、演説者は南ではなく、海から離れて、海の方へ、北に面しているようになった(そのことは、もちろん、聴衆席に座っている市民は、北に面することから南に面することになった)。しかしながら、それはモイセイMoyseyによって次のように合理的に反対された。三十人僭主は長い間権力を持たず、民主的会合の会場を改装するのに、大きな関心を持っていた可能性は低い。そこで、プルタルコスは間違っており、プニュックスの改装は、403年後の回復された民主政の仕事であるということがありそうである。
第3段階の年代は、リュクルゴスの時代から紀元前330年、紀元2世紀の皇帝ハドリアヌスの時代までの長い期間が論じられてきた。しかし、研究によって、この地域からの大部分のローマ時代の陶器は、後3世紀頃までであることが明らかになった。しかし、 それはこの第3段階に関しての証拠ではなく、むしろこの遺跡への後からの割り込みである。この段階の壁のフォキスのパノパエオスとの類似性は、(もし壁が正確に年代づけられるなら) 346-338頃の年代が指摘できる。この仕事は340年代に計画されたが、実際には330年代に完成した可能性がある。この第3段階は未完成のまま残されていたが、これはディオニュソスの新しい劇場がより便利な会議場であることが分かったからと示唆されてきた。 それは、330年代に建てられ、320/19年に終了した。
学者はまた、何人の人が民会に出席したか、また何人の人がさまざまな段階のプニュックスで受け入れられたかを問うてきた。出席のための文献証拠は限られている。 411年の寡頭制支配者は、出席は決して5千人に達しなかったと主張したと言われている。しかしそれは真実ではない可能性があり、たとえそれが真実であっても、それはペロポネソス戦争の最後の年の特別な状況にあてはめられるであろう。アテネの海軍がサモスに拠点を置いていたときで通常の状況ではなかった時に。4世紀には、恐らくアテネ市民の数は、ペロポネソス戦争が始まる前の半分になったであろう。恐らく380年代に制定された法案では、これは、市民権は次回の会合で少なくとも6,000人の有権者によって批准されるべきである、という決議が要求された。 6000票が得られない機会があったというしるしはないので、4世紀に6,000人以上の市民(約3万人の市民のうち)が出席したと仮定できる。しかしながら、ハンセンは、330年代から320年代の『アテナイ人の国制』Athenaion Politeia〔62.2〕による、民会への出席に対する日当が裁判所の出席日当よりも高かったという事実から、6000人の出席に達するのは簡単ではなく、通常の出席者は6,000人を超えていなかったと論じている。
プニュックスが収容できる人の数は、プニュックスのサイズだけでなく、アテネ人が混雑した会合でどのくらい緊密に詰め込まれるのを受け入れるかについてもかかっている。ハンセンは、第1段階で約6,000人、第2段階で8,000人、第3段階で最大13,800人の最大容量を主張している。 1人あたりのスペースをより少なく認めるスタントンStantonは、より大きな数字、第1段階10,400人、第2段階14,800人、そして第3段階、24,100人を主張している。ここでは、ほとんどの民会でハンセンの数字がより現実的だと思うが、スタントンの高い数値は、例外的に十分に出席した数回の会議で達成されたかもしれない。
420年代、市民はアゴラからプニュックスに赤い染料で染められたロープを持った人によって集められた。そして、ロープでマークされたが出席しなかった人々は、罰金を課せられた。403年の民主的回復の後、出席のための日当が導入された。アリストパネスの『女の議会』Ecclesiazusae〔185-8, 282-92, 380-91〕から、あまりにも遅く到着した人は報酬が支払われなかったということは明らかである。 日当を支払われた人が固定した数であったこと、おそらく6000人が、決定を有効にするために幾度か必要とされた定足数であったと思われる。P. ゴーティエGauthierは、カリアのイアソスからの碑文を研究して、支払われた人が固定数ではなく、決まった時間で到着し、彼は目標がより多数の出席ではなく定時の出席を奨励することであったことを示唆し、アテネでは時間よりも数が固定されたけれども、同じことがアテネにも適用されたと提起した。ハンセンは、返答として時間厳守の目的と大きな〔出席の〕数字の目的は矛盾すると言及した。 私には民主政回復の直後に、民会出席手当の導入の時期は、定時よりもむしろ〔出席の〕数字を暗示しており、より重要な動機として、その目的は民会への出席を確保することであり、411年と404年で行ったように、民主政を廃止するよう投票を説得されないことであったと思われる。
引き続き問題のある議論は、民会がどれほどの頻度で開かれたかである。『アテナイ人の国制』には、民会を直接扱った節はないが、評議会の節の中で、各プリュタネイア(各年の10分の1の期間中、50人の評議員が10の部族が常任委員会の役割を果たした)、民会の4回の会議が詳述されている。そこでは、特定の仕事が特定の会議に割り当てられた。 私は正しいと信じているが、伝統的な見解は以下の通りである。4回の内の一つの名称エクレーシア・キリアekklesia kyriaは、つまり主要民会(必ずしもプリュタネイアの内4つの民会の最初ではなかったが)は、エクレーシア・キリアが唯一の定期的な会合であった時代から存続していること、また、各プリュタネイアにおける一つの民会から4つへの増加は、462/1年のエピアルテスの改革後しばらくしてなされたが、おそらく431年のペロポネソス戦争の始まり前であったこと、そして、定期的な会合に加えていつも特別な会合、エクレーシアイ・シュンクレートイekklesiai synkletoi〔特別民会〕があったということである。
これに反して、ハンセンは次のように論じている。355年までには、エクレーシア・キリアは、唯一の定期会合であったが、エイサンゲリアイeisangeliai〔弾劾裁判〕を決するための民会の使用は、色々な数の特別会合を必要とした。そして、その後、各プリュタネイアにて、しばらくの間、4回の定期会合ではなく3回の定期会合であった。ハンセンは次のように信じている、347/6年頃に、3回の定期会合が4回に増加した。(彼は、347/6年の第8プリュタネイアに4回の会合を論じるが、その時は、他の人々は4回以上開かれたに違いないと考えていた)。そして、特別な会合はそれから可能ではなかった。
しかし、エクレーシアイ・シュンクレートイは、347/6年に立証されている。彼は、これらは定期的な会合に追加された特別の会合ではなかったに違いなく、むしろ、5日前の告知ではなく、特別な方法で招集された定期会合であったに違いないと論じている。 その議論において、伝統的な見解が特にE. M.ハリス Harrisによって唱えられた。
ここで、私は、ハンセンは言い分を立証することに成功しなかった思う。彼自身は、民会がエイサンゲリアを決める際に臨時の会合が可能であったに違いないと考えていた。緊急の仕事の可能性が常にあったので、私は臨時の会議を禁じる改革を考えるのは難しいと思う。デモステネス『ティモクラテス弾劾』 の一節〔24. 25〕では、「第3の民会」は、単に挿入された法律でプリュタネイアの中で3番目として数えられている。それは多分偽造として排除されるべきであろう。デモステネス自身の言葉では、最初のディアケイロトニアdiacheirotonia〔挙手による採決〕による3番目の民会である。それはカネヴァロCanevaroによって理解されたように、〔挙手採決の民会の〕カウントを含まない3番目かもしれない。つまりディアケイロトニアの後の3番目の民会。しかしたとえ、カウントを含んでいても、それはディアケイロトニア後の2番目の民会を意味する。これは、350年代の一つのプリュタネイアにどれだけの民会が開かれたかについて、私たちには何も教えてくれない。 346年の春に、デモステネスとアイスキネスが語ったところのものは、どのような民会も定期的な民会に付け加えられなかったということを証明しない。もし、人がエラペーボリオーンの月〔アテネ暦による第9番目の月〕18日と19日の民会を2日間に渡った単一の民会とみなさない限りは、 347/6年の第8番プリュタネイアに民会が4回しかなかったことを支持することは難しい。
エクレーシアイ・シュンクレートイに関しては、辞書編纂者と古典注釈者は、それらをいつも追加の会合と理解している。彼らは初期のヘレニズム時代を参照して書いているが、10の部族ではなく12部族の時であり、毎月/プリュタネイアに3回の定期的な会合があったようである。そして、彼らは定期的な会合に言及するのに様々な言葉を用いているが、 それらの基本的な点を無効にはしなかった。ハンセンが、通常の方法で召喚されていない民会がシュンクレートオスのレッテルの資格があったかもしれないと主張するのは可能性として正しいかもしれないが、もしそのことが正しければ、その意味と通常の民会に追加された特別な民会であると言う意味の両方で、いくつかの民会はシュンクレートイであったかもしれない。
さらに、R. M.エリントン Erringtonが、各プリュタネイアの4回の定例会のスケジュールは330年代の新制度だと主張したときに複雑さが増した。彼は証拠の解釈をひどく誤解していたと私は思う。そして私はその見解には反対してきた。
『アテナイ人の国制』は、それぞれのプリュタネイアの4回の定期的な会合の中から特定の民会のための仕事の特定の項目を明記している。キリア・エクレーシアに関しては、役人の信任の投票、穀物、防衛、没収、相続が扱われた。そして第6プリュタネイア〔の主要民会〕では、オストラキスモスおよびプロボライprobolai〔民会告訴:民会で申立られ、民衆裁判所で判決〕が、〔各プリュタネイアの〕第二の民会のために、嘆願が。他の2つの民会では、他の仕事「神事3件、伝令と使節のために3件、俗事3件」の項目の下に議事が取りあげられた。ハンセンと私は、これらは特定の項目は指定の時に処理しなければならないという必要条件であり、他の機会に処理してはならないというものではないことに同意している。しかし、エリントンは論文で、必要条件はきびしく制限されると取った。特定の事項は、指定された会議でのみ扱うことができ、他の会議では扱えないと。碑文史料の証拠にもかかわらず、これを支持することは困難であり、各プリュタネイアの4つの定例会合のうちの1つが嘆願を除いて何にも当てられていなかったと考えるのは難しい。
民会の典型的な会合では、多くの仕事の項目が検討されたであろう(特に、エクレーシア・キリアは、規定項目のリストが長い)。問題は第3と第4の民会で規定された議題について提起されてきた。「神事3件、伝令と使節のために3件、俗事3件」これらのカテゴリの最後に関して、『アテナイ人の国制』によって使用された用語はホシアhosiaであり、それは一般的に聖なるヒエラhieraと正しいhosiaとは対照されたとき、世俗の(しかし神々に不敬ではない)を意味すると一般に同意されている。411年の寡頭制の文脈において、同じカテゴリーに言及する一節は、ホシアではなく、他の事タ・アラta alla を使用している。しかし、ひとつの別のテキストは、それはこうしたカテゴリに言及しているものだが、アイスキネス『ティマルコス弾劾』での一節は、ホシアを用いている。
最近、J. H. ブロックBlokは、次のように論じている。ホシアは常に神々の意にかなっている意味を保持しており、『アテナイ人の国制』の後の節とアイスキネスのカテゴリーは、民会の仕事のすべてを網羅していない。また同様に、ホシアではなかった世俗の仕事のカテゴリーがあり、そしてそれは、民会の特別な会合には規定されてはいなかったと論じている。 宗教的側面についての彼女の見解の中には、アテネ市民団体に所属することに関わる重要な部分がたくさんあり、私が確信するに正しい。しかし、私はこのホシアのような文脈において、事実上世俗の意味になり、そして、ホシアと性質の異なる世俗の仕事のカテゴリーはなかったと依然考えている。
同様に、扱われる項目の数についても意見の相違があった。これらのカテゴリを使用している他のテキストには数字は記載されていないが、『アテナイ人の国制』でのこの節は、各カテゴリの3つを明記している。ハンセンは3つを最小限と解しているが、 それぞれのカテゴリーで3つの項目の同数が提案されるであろうことが必ずしも起きるとは限らないであろう。 6番目のプリュタネイアのエクレーシア・キリアのスケジュールでは、アテネ人と在留外人に対するプロボライの受付は「各種類の3つまで」であり、これらの項目についても3つは最小ではなく最大であると考えられる。 ヴィラモーヴィッツは、411年の〔寡頭制のもとでが起草された〕「将来の国制」においては、審議の項目は抽籤によって選ばれたと言及した。また下記で見るように、彼は、プロケイロトニア〔予備採決:民会が審議に入る前の何らかの採決〕の手続きを、評議会が3つ以上を提出したときに議論すべき項目を選び、それらを議論するためにどのような順序で選ぶのかという民主主義的な方法であると解釈した。それが正しいか否かにかかわらず、私は、特別な状況で必要と考えられれば、アテネ人は自らのルールを破り、一つのカテゴリーの中で3つ以上の項目を検討するのではないかと思う。
デモステネスの一節〔19. 185〕は、アテナイ人の慣例と独裁制の慣例を対照している。彼は、アテネにおいては、すべてが正当な手続に従わなければならないと述べている。評議会は、伝令と使節が議題となったときには、プロブレウマProbouleuma〔予備審議案:民会に送付するための予備的な決議〕を作成しなければならなかった。そして、次に法律が規定した時に、民会が開かれねばならなかった。 我々は評議会が特別な日のために規定された特別な仕事があったというほかの証拠を持っていない。ここでデモステネスは、法律を遵守しているアテネと他の種類の体制との間の最大の対照を生み出すために、手続きの情報の断片を統合していると思う。次のことが追加できる。それは、第2の民会で、市民権の付与が承認される必要があるとき(上記参照)、『アテナイ人の国制』で挙げられた特定の会合に関する特定の仕事への言及なしに、いつもきまったように、「最初の」あるいは「次の」会合で行われるべしと言われた。
『アテナイ人の国制』は、「時には、彼らはプロケイロトニアprocheirotonia〔予備採決〕なしで仕事を行う」といういらだたしいで所見で民会の仕事の概観を終えている。 プロケイロトニアが何であったか、それがいつ用いられたかのなんら他の表示を与えることなしに。その語はおそらく何らかの種類の「予備投票」を意味したであろう。 現存の演説の中に、プロケイロトニアについて2つの言及がある。 そしてリュシアスの演説からの断片は、プロブレウマが評議会から民会に持ち込まれた時に、プロケイロトニアが、それが議論されるベきか、単に受け入れるべきかどうかを決定するために用いられたと主張している。 学者の意見は多岐に渡っている。ある者は断片が言っていることを受け入れ、 あるものは、その選択は、プロブレウマを審議することとそれを拒否することの間と考えて、その断片を破棄した。 そして、他の者はそれを再解釈した。411年の〔寡頭制のもとで起草された〕「将来の国制」において、審議項目は抽籤で選ばれるべきと構想されことに注目し、評議会があまりに多くの審議のための項目を提案した時にプロケイロトニアはそのうちの審議すべきものを投票したと提起した。 私は態度を明らかにするのにはちゅうちょするが、最後の見解には若干の同意を明らかにしている。ハンセンは、スイスの州民集会Landsgemeindeとして知られる大衆会議を引用して、仕事を効果的に扱う方法として、リュシアスの断片が言っているところの解釈を、強力に支持することを主張している。プロブレウマに特定の勧告が含まれている場合には(すべてのプロブレウマタはそうではないが、)また、プロケイロトニアが最初に提起された場合には、そして誰もそれに反対投票しなかったならプロブレウマは討論なしで受け入れられるだろうが、もし少なくとも1人の男がそれに反対したらプロブレウマは議論されなければならないだろう。 私が知っている限りでは、それ以後のプロケイロトニアの別の議論はなかった。私の最近の『アテネ人の国制』版では、選択の態度を明らかにすることなく種々の見解を述べている。 我々の証拠の状態では、どのような説明も正しい事を証明できないが、ハンセンの説明は信頼できるものであり、それが最も明確な証拠の断片を公平に評している。
議論のための議題が民会に紹介されたとき、伝令は、τίς ἀγορεύειν βούλεται; 〔誰が発言する者はありませんか?〕と宣言した。アイスキネスの2つの節〔1. 23 , 3. 4〕は、昔は50歳以上の男性が最初に話すように求められたが、そのうち、345年と330年の間には放棄された。 ハンセンはこれを受け入れた人々の中の一人である。しかし、高齢者への優先的な招待状があったというなんらかの機会の説得力のある証拠がなかった結果に終わった。そして、R. J. レーン・フォックスLane Foxはそれが単にアイスキネスによって考案されたことを提起した。他の者は、それがソロンの法律で規定されたが、461/2年のエピアルテスの改革までに無効になったか、実施が停止されたと考えた。私は、この規則がアイスキネスの時まで実施されていれば、それの明確な証拠を見つけることを期待しなければならないと思う。そして、我々は、別の説明の間を選ばなければならない。それは決して本物の規則ではなくアイスキネスによって発明されたか、あるいは初期の規則であるが、エピアルテスの時代までに使用されなくなったかどちらかを。そして私は、レーン・フォックスのそれが創作されたという提案がもっとも可能性が高いと考えている。アテネには18歳以上、30歳以上の最低年齢を必要とした地位があったが、アイスキネスを除いて誰も言及しておらず、またかって適用されたことが知られていない、50歳以上の男性に民会での発言優先権を与える法律を仮定しない方がよい。
約6千人の集まりで、話したい人はどのようにして議長職の注意を引き付け、演説ができるために、自分自身演壇に呼び出されたのか? いつもの演説者の一人は、おそらく会合の前に役人の一人に近づいて言葉をかけるであろう。そして、彼は特定の問題について話したいと言い、いつもの場所に座るであろう。例えば、前方左側に。 しかし、ハンセンは、民会での定期的な演説者はほんの少数であり、より多くの人が、時折提案や提案をおこなったことを明らかにした。どのようにして、たまに演説をする人は、彼が望んだときに首尾良く呼び出されたのか?我々はわからない。 私たちが言うことのできることは、人が演説を欲して、しかし、呼ばれなかったのでできなかったと主張しているテキストは存在しないと言うことである。
多分、どれだけの数の演説者が呼ばれ、いつその討論を終えるかを決定するかは議長団の責任であった。ハンセンは、演説者の数やあるいは演説の長さの法的制限はなかった(ところが、法廷においては時間制限はあった)と述べている。トゥキュディデス〔1. 139. 4〕は、報告するために選んだ討論から、1つまたは2つの演説を続ける前に、「他の多くの人々が進み出ては発言したが、彼らの意見でどちらかの側を支持して」というそうした明確な記述を用いている。
討論が終わったとき、投票が行われなければならなかった。 議長団はどのようにして票決に付する動議を決定したのか?プロブレウマが特定の勧告をした場合、投票はおそらくそれを受け入れるかどうかであろう。 改正案が提案されていれば、おそらくプロブレウマの投票の前に、一つづつ投票されたかもしらない。 しかし、もしも議論の過程で、3つまたは4つの別の提案が別の演説者から提出されたなら何が起こったか? ハンセンは、提案者はプロエドロイ〔議長〕に書面による提案書を提出しなければならないと書いている。そして、アイスキネスから3つの節を引用している〔2. 64-8, 83-4, 3. 100〕。 おそらく、法廷のように、4世紀が進むにつれて書かれたテキストをより多く使用する傾向があった。そして、その傾向は、ある時期に法によって強化されたかもしれない。アリストパネスの『テスモポリアサイを営む女たち』Thesmophoriazusaeは、そこではミカーが彼女の演説を次のように終わらせている、「以上が、私が公に言わんとするところです。付帯事項その他は、書記と合議の上起草します。」
A.H . ソマーシュタインSommersteinは、その節についての注解において、次のように示唆している。「民会の演説者が、話した後まで待つことは珍しいことではなかった。そして投票するために正式な動議を提出するかどうかを決定する前に、彼の見解に対する一般的な反応を判断することができた。」 私は、4世紀になっても、事前に提出されていないが、討論の途中でなされた提案の可能性を考慮しなければならないと考えている。
多様なオプションを伴う単一の投票はありそうもない。おそらく、アテネで起こったことは、ローマの元老院で起こったことであり、それについて、タルバートTalbertは次のように書いている。
相反する提案が数多くなされたとき、議長は投票に選ばれる物やどのような順序であるかについての選定に関して唯一の裁量権を持っていた。 … 通常の状況では、彼はいくつかの支持を引き付けるように思われた提案を無視することはほとんどなかった。… 彼らが作った順序でsententia〔提案〕を提言するのは、たぶん普通のことだった。それぞれは個別に投票され、最初に多数の支持を得たのが承認を得た。
ハンセンは、説得力を持って、次のように論じている。市民が挙手で投票したとき(6,000票の定足数が必要な時以外は行ったように、また定員が達成されたことを証明できるために投票具が用いられた)、正確な数を数えることはできなかったが、単純に大多数が賛成か反対かのどちらかの評価であった。 もし、結果が不確かであったり、異議申立された場合は、2度目の投票が行われたと思われ、2度目の投票では明確な過半数があることが期待された。プラトンは『法律』で、軍事役職の選挙に関して、「異議申立は2度まで」を認めている。これにより度重なる投票の要求があったことを意味しているのは明らかである。というのは、3度目の異議があった場合に、別の手続きを規定しているから。私たちは、クセノポンのアルギヌーサイの戦いの後の、406年の手続きの説明で最も良く知らされている。問題を議論するための民会の最初の会議は、決定することなく閉じられた。なぜなら、 「それは遅かったので、彼らは〔挙〕手を見ることができなかっただろうから」。2度目の民会では、もともとエウリュポレモスによる代替提案を支持して投票が行われたが、メネクレスという人物が宣誓の下で異議を述べた。おそらく、議長が結果と宣言したものに異議を唱えた。第二回の投票が行われ、今回は将軍たちすべてを総括的に非難した評議会のプロブレウマが受け入れられた。
民会の会合は早朝に始まった。会合は一日中続けられたと考えられたこともあるが、ハンセンは、一般的に会合は正午までに終わったと主張し(そして、評議会の会議は続いただろう)、彼は再び、類似点としてスイスの州民集会での手続きを引用した。 これに関して、私は彼が正しいと確信している。通常の民会はいくつかの仕事を処理するだろうが、その多くは議論にならなくて、迅速に対処されるであろう。 ―特に、もしハンセンがプロケイロトニアを、誰も反対していない評議会からのプロブレウマを、審議なしに承認する機会とみなしているのが正しいならば。
私たちはアテネの民会によって制定された多数の刻まれた決議を持っているが、それでも、それらは制定されなければならなかった決議のほんの一部を意味している。通常、すべての決議が刻印されたのではなくて、いくつかの理由で、特に公告に値すると考えられたものだけが刻まれたと仮定されてきた。
これは最近M. J. オズボーンOsborneによって異議を申立られてきた。S. D. ランバートLambertは通常の仮定を擁護することで答えている。私はランバートが原則的に正しいと確信しているが、そうした項目で条約や重要な外国人の顕彰が通常公告されたであろう。
…
さて、私は博士論文を書いた五〇〇人評議会に話を変える。ここにはまだ確かな答えがない興味深い問題がある。
最初に、評議会の議員についての問題がある。 『アテナイ人の国制』〔43.2〕は、アテネの10の各部族から50人のメンバーからなっていたことを私たちに伝えている。(実際に、ヘレニズム時代、10人以上の部族があった時代には、いぜん各部族から50人のメンバーであったので、評議会の規模が増えた。)
4世紀以降は、評議会のすべてのメンバーをあるいは1つの部族からのメンバーすべてを記載する多くの碑文がある。これらから明らかなように、部族内の個々のデーモス〔区〕のメンバーの数は固定されていた。小さな区からは1人のメンバーと大きな区からは数名のメンバーと。しかし、そうした碑文は5世紀からは1つか2つしかない。一つは、408/7年に奉納をなした一部族のメンバーのリストである。そこでは、50人のメンバーが記載されるのに十分なスペースがなかったが、奉献を行うのに参加した人だけが含まれたように思われる。もう1つはおそらく全体の評議会のメンバーのリストのほんの一部である。
必然的に生じた問題は、私たちが4世紀から知っているさまざまな区のメンバーの数は、6世紀末のクレイステネスによる評議会の設立以来同じであったのか?直接的な証拠はないが、間接的な証拠によれば、その答えは否に違いないことが示唆されている。数字は、私たちが4世紀から知っているのと初めからとでは同じではない。さまざまな区の相対的な人口が、1世紀以上にわたって同じままであったであろうというありそうもないことはさておき、いくつかの具体的な特別なしるしがある。アテネの港町であるピレウスは、4世紀には9人のメンバーがいたが、5世紀初頭までは港町としては確立されなかったが、 9人のメンバーがもっともと思える大きさに成長するまでには時間がかかった。また、アッティカの南東にあるスニオン近くのアテーネーには、4世紀に3人のメンバーがいたが、考古学的調査では、6世紀の終わりにはまだ人が住んでいなかった。
4世紀には、メンバーは抽籤によって任命され、市民は人生で2度評議会に務めることができた。一般的なルールの例外として、なんらかの特別の公的な役職は一度だけ務めることができた。(もちろん、別の年には別の役職に就くことができたが)。 こうした規則が、クレイステネスにより評議会が設立されて以来適用されたのか?ここで、 確かではないが、私が思うに答えはおそらくそうではないはずである。 アルコンの任命に関しては、487/6年に、選出された候補者名簿からの抽籤による二段階の任命システムが、直接選挙システムに取って代わった。評議会はおそらくデロス同盟の加盟国の1つであるエリュトライに抽籤で任命された評議会を強要したとき、450年代後半に、抽籤で任命されるようになった。しかしそれは、もともとは選挙によって任命されていた可能性がある。
人が〔評議会を〕生涯で2度務めることができることについては、さまざまなギリシャの国家は、任命される可能性のある人を見つけることを難しくすることなく繰り返しを制限する規則を用いた。7世紀のクレタ島のドレロスは、10年以内のコスモスkosmos〔クレタの行政長官の称号〕の役職の再任を禁止した。エリュトライについてのアテネに強要された評議会は再任が4年間禁止された。アテネでは、一人の人が2度務めるようにすることは、4世紀には必要な譲歩であった可能性がある。その時には、市民の数はペロポネソス戦争以前の半分に過ぎなかった。また、もともとは生涯一度だけ務めることが許されていた可能性がある。私が『アテネの評議会』を書いたとき、誰も2世紀まで2度以上務めたという証拠はなかったが、むしろ最近では、前3世紀に3度務めた人が数人いたことが明らかになってきた。おそらくその変更は、2つの追加部族が創設され、評議会が500人から600人に増えたとき、あるいはその直ぐ後、307/6年に行われた可能性があった。それは、十分なメンバーを見つけることが難しくなっていたのであろう。
しばしば、評議会で2年間、連続して務めることはできないと主張された。実際、2年連続で務めた人の確かな事例はないが、任期満了後の会計報告期間で、エウテュナイeuthynai〔執務審査〕を受ける必要性によって即時の再任が妨げられたであろうという論拠は十分ではない。というのは、他の役職のような将軍はエウテュナイを受けなければならなかったが、彼らは次の年に頻繁に再任された。
古典期から、500人のメンバーに加えて、さらにエピラコンテスepilachontes補欠が任命されたという証拠がわずかながらある。エピラコンテスは、任命された男性のうちの1人が、例えばアテネで何らかの仕事に任命されたときにすべての人に課せられた検証であるドキマシア〔資格審査〕で拒絶された場合、その空席を埋めたであろう人である。したがって、ヒュペレイデスが421/0年のメンバーとして任命されたとき、喜劇作家のプラトンの一節は、彼のエピラコンepilachonがメンバーになることを義務づけられたことを示唆している。
単純な事実として、各メンバーに一人一人のエピラコンが任命されたということを単純な事実として受け入れている人もいる。従って、毎年、1000人の務める資格のある人が、メンバーとしてあるいはエピラコンテスとして任命されたという事を受け入れている。しかしながら、そうしたことが実際に起こったと信じるのは難しい。私は、より少人数のエピラコンテスが任命されたのではないかと、彼らの各人は数人のメンバーのための可能性のある補欠として行動したのではないかと、あるいは、エピラコンテスは、実際任命される必要がある人々よりかもっとふさわしい人物であったときにのみ任命されたのではないかと思っている。
ほとんどすべてのギリシャの都市には、資格のあるすべての市民に開かれた民会があり、そして、より小人数の評議会が、民会で処理される仕事を準備した。 重要な問題は、アテネ並びに他の都市において、その2つの団体の関係であった。民会は、強力な団体であり評議会はその奉仕者だったのか?あるいは、評議会が強力な団体で、民会の権力は大きく制限されたのか? この問題に対する1つのアプローチは、どのくらいの仕事とどのような種類の仕事を民会が処理したかを見ることである。 アテネでは、碑文決議や他の証拠から、民会が頻繁に開かれ、重要な仕事と同様ささいな仕事まで、多くの量の仕事を決定したということは明らかである。 評議会は自らの意思決定を行う権限を持っていたが、これは副次的な問題に関する決定であったし、民会の決定と矛盾しない限りの補足的な決定を行うことを、評議会に許可している民会のいくつかの決議があったことは明らかである。
とりわけ4世紀以降、アテネ人は決議の本文の中で、我々が民会によって制定された2つのタイプの決議を区別することができる言葉を用いた。〔一つは〕評議会のプロブレウマ〔予備審議案〕の中で提起された提案を受け入れることを決定したところの決議。〔もう一つは〕そうしなかったところの決議。つまりそれは、プロブレウマに特別な提案がなかったか、またはプロブレウマに特別な提案があったが、民会が何か別なものを決定した決議である。『アテネの評議会』で、私は2つのタイプの決議を研究し、263/2年のクレオメネス戦争が終わるまでは、両方の種類の決議は豊富であったと結論した。そのことは、評議会と民会両方がアテネの決議決定に積極的に参加したことを示唆している。
しかし、それ以降は、評議会のプリュタネイスの一つが顕彰されるべきことを推薦する決議は、プロブレウマでの提案ではなかったことが慣例の問題であったように思われる。しかし他の点では、民会の決議のほぼすべてがプロブレウマの提案を受け入れた。そのことは、民会はその過程において、もはやそうした積極的な役割を演じなかったことを示唆している。
小規模なこの種の分析を、短い期間に適用することは危険である。というのは、確実に年代付けることができる現存の決議の数は少なかったから。しかし、時々試みが行われ、データの集まりが増加するにつれて、その試みはより価値のあるものとなっている。G. J. オリバーOliverは、「寡頭制」の時代322/1年―319/8年に、より強力な評議会とより弱い民会が予期されたかも知れないときに、評議会が弱体化したように見え、民会の決議の大半が評議会の提案を受け入れなかったように思えると述べている。4世紀の初期には、私は回復した民主政の全期間、403 /2年―322 /1年、碑文決議はほぼ同等に二つのタイプの間に分けられたことがわかったけれども、ランバートはこの期間の後半では、352/1以降、碑文決議の大半は、再び民会が評議会からの提案を受け入れておらず、評議会からの提案を受け入れた碑文決議は、ほとんど議論の的にならないような種類の顕彰決議であったと述べている。
そこで、オリバーが321年から318年までの寡頭制期に気づいたのは、それほど予期せぬ評議会の弱体化ではなく、民主政の以前の30年間に広まった慣習の継続であった。評議会は、それは区のメンバーから募集された方法のために、市民団の断面であり、毎年変わった。一方民会は、最も影響力のある市民が、毎年活動し続けることができた団体であり、そこでは重大な問題や意見の相違があるかもしれない事項が決定された。 対照的に、ランバートは、229/8年から198/7年の間に(アテネがマケドニアのアンティゴノスの従属から免れた後に)、私が以前に見出したように、民会が評議会から提案を受け入れることはずっと頻繁であり、 評議会は決議決定過程においてより重要となり、民会の重要性は低くなったことを見いだした。
評議会についてのもう一つの問題は、「プリュタネイスprytaneis〔当番評議員〕のトリッテュスtrittys(三分の一)」に関してである。『アテナイ人の国制』〔44. 1〕は、私たちに、次のように物語る。その日の議長であるプリュタネイスのエピスターテスepistates〔筆頭〕は、プリュタネイスの本部であるトロスtholosに当番でとどまった。全24時間の間彼が議長を務めていた間、そして彼と共に「彼によって命じられたプリュタネイスのトリッテュス」が当番としてとどまった。しかし、プリュタネイスのトリッテュスとは何なのか?もしそれが数学の3分の1の近似値であったなら、それは正確な3分の1でありえない。なぜなら、50人も49人も(もしエピスターテスを除外すれば)3で割ることができない。この節を除いて、私たちがアテネでトリッテュスに出会う唯一の文脈は、部族のトリッテュスである。クレイステネスによって制定された10の部族の各々は、3つのトリッテュスに分けられた。1つはアティカの都市地域に、1つは沿岸地域に、そして一つは内陸地域に設けられた。 そして、最も明白な解釈は、『アテナイ人の国制』は、これらの〔部族の下部集団である〕トリッテュスのうちの1つに所属するプリュタネイスを意味しているというものである。しかし、私たちは4世紀また後の評議会の議員数から、各部族が50人のメンバーを派遣したが、個々の区と同じく、トリッテュスは全く同じサイズではなかったことがわかっている。
いくつかの部族では、評議会のメンバーの前4世紀のリストの配列は、部族の50人のメンバーの3つのグループへのより均等な配分を反映しているかもしれないパターンの印を示しており、幾人かの人々は、ここでは部族のトリッテュスとは違う「プリュタネイスのトリッテュス」とみなした。これは私が以前いくらか同意していた見解であるが、そのための強力な主張を唱えるには碑文に十分な規則性がない。ハンセンは、ここでは4世紀には評議会員の改正のしるしがあったこと、クレイステネスの元の制度では、部族のトリッテュスはほぼ均等であったこと、4世紀の改正では、沿岸地域または内陸地域に位置したいくつかの区は、その平等性を守るために、都市のトリティスに再び割り当てられたと提起した。ここでは私が思うに、我々はただ憶測するしかできない。つまり、個々の区から評議会のメンバーの数は、最初は4世紀の数字とは異なっていたことはありそうであるが、元の数字がどのようなものであったかは推定できず、区が均等のために異なったトリッテュスに再び割り当てられたかどうかは疑わしい。私は今、「プリュタネイスのトリッテュス」とは、部族が分けられたところの3つの地域のトリッテュスの一つからのプリュタネイス〔部族の下部集団である各トリッテュスに所属するプリュタネイス〕を意味するというのが可能性があると思う。そして、私は、例え時に3分の1より多かったり、時に3分の1より少なかったとしても、大した問題ではなかったというC. W. J.エリオットEliotに同意する。M. H. チェンバースChambersは、エピスターテスは、通常、彼自身が属しているトリッテュスからのメンバーに呼びかけるだろうと示唆している。
『アテナイ人の国制』〔45. 1〕は、かって、法廷としての評議会は、死刑を含む罰則を科す無制限の権限を持っていたと主張する。一人の男が民会が死刑を宣告した人のために民主法廷での裁判を主張したエピソードの後は、民会は、評議会が課すことを望んだ罰則は法廷で承認されなければならないと裁決した。他の証拠から、4世紀には評議会がいぜん500ドラクマまでの科料を科すことができたことがわかっている。それは、個々の役人が彼らに関する問題の下限まで課すことができたのと同様である。 そして、多分このことは、絶対的な権利であり、これらの科料は控訴の対処にはならなかった。 また、状況によっては、人を刑罰としてではなく、裁判にかけられたり、罰金を支払う前に逃亡することを防ぐための予防措置として投獄することができた。
しかし、いつ評議会が『アテナイ人の国制』が過去について主張した無制限の権限を持っていたのか? 『アテナイ人の国制』〔41. 2〕は、国制の11回の 「変化」の最後に関連して、「だから、評議会の判決についてもデーモスに委ねられた」と述べている。P. クローシュClochéを含む幾人かの学者は、4世紀までは、評議会が無制限の権限を失うことはなかったという意味と主張したが、5世紀後半に評議会の権限が無制限だったという見解を支持する証拠はない。そして、そのくだりは、11回目の変更についてではなく、最初から11回目の変更までのアテネ国制の全体的な発展についてのコメントとして読むのがより妥当である。ソロンの四〇〇人評議会が、6世紀にその権力があったとは考えにくい。 クレイステネスの五〇〇人評議会が、最初に作り出されたときに強力な団体であると考えた人も中にはいるが、その権限は、501/0年にその五〇〇人評議会の宣誓が制定された時に、改革のわずか数年後に縮小された。しかし、私は、五〇〇人評議会の宣誓は、その重要な変更としてよりむしろ、クレイステネス改革の頂点として解釈されるのがより妥当であると思う。私は、462/1年にエピアルテスによってアレオパゴス評議会から権限が奪われる前に、評議会が罰則の権限を持っていたと確信してはいない。そして、その時に与えられた権限は、最初から制限されていたと考える。評議会は決してそれから取り除かれたと言われる無制限の力を持ってはいなかった。しかし、古代ギリシャ人は、現代の学者の幾人かが結論したように、その宣誓が課せられるまで、あることを行わないことを保証したメンバーの宣誓の条項から、評議会はこうした事柄を行ったと結論したかも知れない。また処刑から救われた人の話が、もともとはアレオパゴス評議会に関連して言われた話か、あるいはメンバーの宣誓で保証されたものを説明すために用いられた全くの作り話かのいずれかである。
この少し後で、『アテナイ人の国制』〔46.1〕の正しいテキストがどのようなものであるべきかについての疑問が生じている。 「評議会はすでに建造された三段櫂船、船具と軍船格納庫の監督にあたり、デーモスがどちらを投票しようとも、新しい三段櫂船と四段櫂船を建造する。」ギリシャ語のテキストは、ποιειΐιται καινὰσς δὲ τριήπεις ἢ τετρήειςと書いてある。その位置のδὲは確かに間違っているが、それは単に削除する必要があるか、それともそれはなんらかの他の言葉の改悪であるか。 ― 多分、評議会が毎年、その数の新しい船を建てることを義務づけられたことを意味した数字の?
別の時期にギリシア人が使用した別の数字法に基づいて、4または10のいずれかがδὲに転化した可能性がある。確かに、新しい船を建設する要件は真摯にに取り組まれた。アンドロティオンは、彼が(おそらく)356/5年に務めた評議会が造船の必要条件を満たしていなかったのに、顕彰されることを提案したときに、明らかに失敗してグラペーパラノモン〔違法提案に対する告発〕を起訴された。しかし、その告発に対するデモステネスの演説もそれについての古代の注釈書も、毎年建造されねばならない定期的な船の数があったということを断言してはいない。『アテナイ人の国制』が書かれた当時、330年代から320年代にかけて、アテネの海軍は近代化され拡大していたが、碑文の船の一覧表は、毎年建造されねばならない定期的な船の数があったことを示唆していない。造船プログラムについては、D. J. ブラックマンBlackmanによって議論されている。彼は、別の時代に定期的な造船割当が存在したことを提起している。私が考えるに、また最も最近のトイブナーのテキストで、M. H. チェンバーズChambers も考えているが、ここでは単純にδὲを削除して、数字を復元すべきではないと思う。
後の章〔49章〕では、評議会が関与している様々なドキマシアイdokimasiai〔資格審査〕のプロセスの検証が扱われている。これらとともに、「評議会は、かってはパラデイグマタparadeigmata〔公共建築の模型か?あるいはデザインか?〕とペプロスpeplos〔アテナ女神像の着衣〕を判定していたが、今は抽籤によって選ばれた民衆法廷がそれを行っている。というのは、評議員が情実によって判定を下すと考えられたからである。」ペプロスは、アテナ女神像のために作られた新しい着衣で、4年ごとの大パンアテナイア祭の行列で運ばれた。しかし、ここでのパラディグマタとは、どういう意味か?その言葉は、建物、彫刻、絵画またはその他の技能の作品を意味する。また、ほとんどの注釈者は、ここでは一般的な公共事業の計画であると言及している。しかしながら、なかには、パラディグマタとペプロスを結びつけて、評議会がそれぞれの機会に新しいペプロスのためのデザインを承認したことを意味する節と想像した者もいる。―そして、F. ブラスBlassはその意味をより明確に表現するためにテキストを修正した。他に関連した証拠は何もなく、これは決定するのが難しい問題である。もともと私は最初の解釈、一般的な公共事業の計画に賛成したが、『アテナイ人の国制』の私の版では、テキストを修正することなしに、私はペプロスとの関係〔つまりペプロスのデザイン〕を選んだ。またチェンバーズは、注釈書にて同じ立場を取っている。
他の点では、これは『アテナイ人の国制』の中の、フラストレーションを引き起こす短い記事の一つである。いつこの義務が評議会から民衆法廷に移されたのか、またそれが単一の改革であったのか、一連の改革の一部であったのかを知りたいと思う。そして新しい制度では、どの役人がその問題を法廷に提起したのかを知りたいと思う。評議会から裁判所への移転については、私たちは推測するしかできない。しかしながら、後の節〔62. 1〕には、次のように述べられている。アテネにおいては、かって、抽籤によって任命された多くの役人の一部は、アルコンも含めて部族から任命されていたが、他のものは区の間に割り当てられた。しかし、区が彼らの役職を「売っている」ことが分かったので、そこで、これらのほとんどは部族全体に移された。 これは評議会が情実を示したのを理由に、評議会から法廷へのペプロスについての決定の移転と同じ種類の改革である。もちろん、必ずしもそれらが同時に作られるべきであった必要はないが、もし2つの移転が同時になされたなら道理にかなうであろう。そして、任命の移転は、少なくとも370年頃以前に年代づけることができる。なぜなら、その時に抽選器(クレーローテーリア:kleroteria)を用いた抽籤制度が導入されたからである。
これらの事項を裁判所に提出した役人に関しては、後の節が我々に次のように語っている。『アテナイ人の国制』の時代に、アトロテタイathlotheyai〔競技委員〕として知られている特別な役人がいた。彼は、1年ではなく、4年間務めたので、各役人は、大パンアテナイア祭の祭典の責任を負った。彼らの責任には、祭礼行列が含まれており、そこでは新しいペプロスがアクロポリスに運ばれた。そして、はっきりと、彼らが、「ペプロスを作った」と明言されている。その仕事は、エルガスティナイergastinaiと呼ばれた女性によって行われた。また、アレポロイarrephoroiとして知られている7歳と11歳の間の上流階級の少女らが、多少それに関わっていたが、アトロテタイが、おそらく総合的な責任を負った。ひとたび 彼らがその責任を獲得すれば、(彼らの名前はもともと彼らが競技会だけに責任があったことを示唆している)、彼らはペプロスのデザインの選択を法廷に提起する明白な役人であろう。
…
アテネの民主政は魅力的な現象であり、それについて、たくさんの証拠がある。 それは様々な方法で研究することができる。 形態上の制度の研究は、一つの価値ある方法である。 私が民会と評議会に関して示してきたように、私たちは答えが必要な問題がまだあるが、私たちが確信できる答えをいまだ得ていない。
《解題と要約》
この論文" The Athenian Assembly and Council: Continuing Problems". は、2018年9月11日(火)、「古代史の会」(東京大学文学部第3会議室)にて、ピーターP. J. ローズRHODES氏によって報告されたものです。
この翻訳は、個人的に試訳したもので、脚註は割愛しています。
なお、本文の( )は原文どおり、〔 〕は訳者の補足です。
年代はすべて前世紀です。
報告者のピーター・J・ローズ氏は、現在、英国学士員、ダラム大学名誉教授。
氏は、この報告でも問題にしたアテネの評議会を扱ったThe Athenian Boule, Oxford, 1972.『アテナイ人の国制』の注釈書A commentary on the Aristotelian Athenaion Politeia, Oxford, 1981. rev. ed.,1993. R. Osbornとの共著書Greek Historical Inscriptions 404-323 BC., Oxford, 2003 などの著書の他に、多数の論文を発表しています。
脚註によると、この論文は、The Institute for the History of Ancient Civilisations, Northeast Normal University, Changchun(長春)とThe Centre for Classical and Mediaeval Studies, Peking University, Beijing(北京)ですでに報告されています。また、民会を扱った部分は、V. Goušchinによってロシア語に翻訳され、“Афинское народное собрание: нерешенные проблемы”, in O. L. Gabelko, A. V. Makhlauk & A. A. Sinitsyn (edd.), πεντηκονταέτια: Festschrift for I. E. Surikov (Moscow & St. Petersburg, 2018), 110–6 として出版されています。
論文では、前半で民会、後半で評議会が扱われており、副題のとおり、民会・評議会について、今でも継続している諸問題に対して、氏の見解が述べられています。
以下、氏の見解を箇条書きに簡単にまとめてみます。
最初の民会に関しては、まずハンセンの主張する「権力はデーモス=民会ではなく、裁判所にあった」という意見には同意せず、民会をアテネの最終的決定意志と認めて、民会と裁判所を対立機関とは考えずに、その2つの機関によってアテネ人がポリスを支配したと考えています。
民会の会議場であったプニュックスについては、その3つの発展段階の年代は、第1段階は前6世紀の終わり、第2段階は前403年の民主政回復後、そして、第3段階は前330年代の完成を推定しています。
また、民会出席数に関しては、ハンセンの主張した第1段階で6,000人、第2段階で8,000人、第3段階で最大13,800人の収容を現実的とみなしています。
そして、民会の開催頻度に関しては、伝統的な見解を支持して、自らは各プリュタネイアにおける1回の民会から4回への増加は、おそらく431年のペロポネソス戦争の始まり前であったこと、そして、定期的な会合に加えていつも特別な会合、エクレーシアイ・シュンクレートイ〔特別民会〕があったと考えています。
『アテナイ人の国制』(43.4−6)に記述された、プリュタネイアの4回の定期会合に規定された項目については、必要条件であり、別の機会に処理してはならないことを意味してはいないと考え、さらに民会で扱われる議題の項目数である各カテゴリー3つについても、アテネ人は、一つのカテゴリーの中で3つ以上の項目を検討していたと推定しています。
従来、意見の分かれていた「アテナイ人の国制」(43. 6)のプロケイロトニア(予備採決)の解釈については、リュシアスの「プロブレウマ(予備審議案)が評議会から民会に持ち込まれた時に、プロケイロトニアが、それが議論されるベきか、単に受け入れるべきかどうかを決定するために用いられた」という断片の記事を支持したハンセンの主張を、この論文では受け入れています。
さらに、民会で伝令が「誰か発言を望む者はいませんか?」と発言を求めた時、アイスキネスの「50歳以上に発言優先権があった」という記述に関しては、それを否定して、演説を欲した人はそれが可能であったと考えています。
演説者の数やその演説の長さ(法的制限はない)、討論終了や決定の責任は、議長団にあり、議論の途中で別の演説者からの別の提案については、ハンセンの「議長に書面による提案の提出の必要性があった」という主張に、4世紀には書面による使用の傾向を認めています。
また、討論の途中で未提出の提案がなされた可能性を、考慮しなければならないと述べています。
投票に関しては、挙手採決の場合、それが正確な数は数えることはできなかったが、単純に多数者が賛成か反対かを判断したというハンセンの提案を支持し、異議申立の2度目の投票があったこと、その場合は過半数が要求されたことなどを推測しています。
また、同様に民会の会合は半日であったというハンセンの主張を支持しています。
最後に、民会決議碑文に関しては、通常の仮定である、刻印された碑文は決議された物の限られた一部、つまり条約や重要な外国人の顕彰などが通常公告されたであろうと考えています。
…
次に評議会に関しては、まず、500人の議員について論じられています。
『アテナイ人の国制』(43. 2)は、評議会はアテネの10の各部族から50人のメンバーからなっていたことを伝えています。
そして、部族内の個々のデーモス(区)のメンバーの数は固定されていて、小さな区からは1人のメンバーを大きな区からは数名のメンバーが選ばれていたと推測されています。
まず、4世紀のさまざまな区のメンバーの数は、6世紀末のクレイステネスによる評議会の設立以来同じであったのかという問題については、直接的な証拠はないが、間接的な証拠によって、その答えは否に違いないと推測しています。
また、評議会員は抽籤によって任命され、生涯に2回務めることができたが、それに関しても、もともとは生涯一度だけ務めることが許されていたが、ペロポネソス戦争による市民数の半減により、4世紀には譲歩により2度務めた可能性があると考えています。
さらに、補欠のエピラコンテスについては、数人のメンバーのための可能性のある補欠として少人数のエピラコンテスが任命されたのではないかと、あるいは、エピラコンテスは、実際任命される必要がある人々よりかもっとふさわしい人物であったときにのみ任命されたのではないかと推測しています。
次に、重要な問題として、民会と評議会の2つの団体の関係については、碑文決議などから、民会が頻繁に開かれ、重要な仕事を担ったことは明らかであり、評議会は自らの意志決定を行う権限があったものの、副次的な問題に関してであり、民会の補足的な決定を行ったと考えています。
また、碑文決議の形式の分析から、3世紀の中頃までは、両方の種類の決議は豊富であり、そのことは、評議会と民会両方がアテネの決議決定に積極的に参加したこと、それ以降は民会は積極的な役割を果たさなかったと結論づけています。
さらに、『アテナイ人の国制』(44. 1)で記述された「プリュタネイス〔当番評議員〕のトリッテュス」の問題については、部族の下部集団である各トリッテュスに所属するプリュタネイスを意味するという可能性があると考えています。
評議会の権限については、4世紀には評議会が500ドラクマまでの科料を科すことは認めていますが、『アテナイ人の国制』(45. 1)で述べられた死刑を含む罰則を科す無制限の権限は持ってはいなかったと、この記述を虚構とみなしています。
次に、『アテナイ人の国制』(46. 1)のテキスト「新しい三段櫂船と四段櫂船を建造するποιεΐιται και νἀσς δὲ τριήπεις ἢ τετρήεις」に記されたδὲについては、最近のトイブナーのテキストでM. H. チェンバーズChambers が考えているように、ここでは単純にδὲを削除して、4、あるいは10の数字を復元すべきではないと主張しています。
最後に、『アテナイ人の国制』のその後の章(49. 3)の記事について論じられています。
「評議会は、かってはパラデイグマタparadeigmata〔公共建築の模型か?あるいはデザインか?〕とペプロスpeplos〔アテナ女神像の着衣〕を判定していたが、今は抽籤によって選ばれた民衆法廷がそれを行っている。というのは、評議員が情実によって判定を下すと考えられたからである。」
ここでは、2つの問題が議論されています。
まず、パラデイグマタとは何か。
氏は、ペプロスの語句にかけて、ペプロスのデザインと考えています。
また、記事の後半の評議会から民衆法廷にこの仕事が移ったという問題に関しては、第62章の第1節の記事との類似性から、その年代は370年頃以前に、またペプロスのデザインの選択を法廷に提起する仕事などは、アトロテタイ(競技委員)が、おそらく総合的な責任を負ったと推測しています。
(2018-09-18)
クロード・モセ 「 ポリテウオメノイとイディオータイ」
クロード・モセ, 「ポリテウオメノイ<政治指導者>とイディオータイ<私人>—紀元前4世紀のアテネにおける政治的階級の確立」
R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200
《要約》
前4世紀の後半のいくつかの政治演説の中で、弁論家は普通の人を指すのにイディオータイという用語を用い、政治指導者に対してはポリテウオメノイと呼んだ。政治的階級の存在は、新しい事実ではなかった。新しい点は、その存在と、いかにそのメンバーが普通の市民のすべてと異なっているかを意識しており、普通の用語に入れたことである。
《翻訳》
二つの明らかな事実から始めなければならない。第一に、アテネは前5世紀の60年代以来民主主義の国家であり、それは必然的に次のことを意味している。つまり、デーモス<民衆>の民会は主権を有し、そして市民共同体を拘束するすべての決議は、その民会の多数決の投票から発している。民会決議の冒頭の頭書<「民会と評議会の決議」という定型>は、この民衆主権の現実のもっとも明確な印である。これこそが(民衆主権)、アングロ・サクソン系(英・米系)の歴史家が旧寡頭主義者と呼ぶところの(風刺)作家<いわゆる偽クセノフォンと呼ばれる作家>の敵意をかき立て、民会の大衆の無知の名のもとに4世紀の哲学者や作家が問題にしているものである。
第二の事実は、アテネの政治的"階級"の存在である。前5世紀においてペロポネソス戦争の突発までずっと、そうした階級は、伝承によって保持された名前、ペリクレスからテミストクレスまで、アリスティデスからキモンまでの人物が属していた古い家柄の貴族の家系と混同されている。ペロポネソス戦争は、政治の舞台の上に新しいタイプの指導者の出現を見いだした。アリストファネスが嘲笑しているあの"デマゴーゴス<民衆指導者>"である。彼は彼らの胡散臭い血統とその評判の悪い仕事の実行を非難している。ずっと以前から、その不満については反証を挙げて論破されてきた。確かに生まれにおいては若干見劣りするが、しかし、彼らは奴隷の作業場の経営から得た固定所得を享受し、従って、前任者と同様の生活を送っていた人たちであると訴えることで。(註1)
前4世紀に結婚の同盟の働きで、こうした指導者の階級(指導者層)が均一化する傾向は明らかであり、またイギリスの歴史家J.K.デーヴィスの表現を借りれば"アテネ人の富裕な家族(階層)"の間で、彼らの生まれあるいは彼らの財産に結び付けられた何らかの対立を捜し求めることは人を欺くことであるのは明らかだ。つまり、彼らはその財産に対して、レイトルギア<公共奉仕>やトリエラルキア<艦隊の艤装>を課せられた"金持ち"の小さな少数派を形成しているからだ。都市の財政的均衡は、大部分彼らの財産の上に成り立っているのだ。(註2)
人は同様に以下のことを知っている。つまり、ペロポネソス戦争の敗北と帝国がもたらしていたフォロス<貢租>の喪失によって悪化したその財政上の問題は、財政の役職であるディオイケーシス<国庫の管理の役人>の専門家の形成の出現を引き起こした。そして人は直ちに次の三人の名前を思い起こす。彼らは前4世紀のアテネの歴史を画したのだが、まずアフィドナのカリストラトス、かれは前378年の後のエイスフォラ<臨時財産税>を組織し直した。そしてエウブーロス、彼には多分、前356年以降のラウレイオン銀山の採掘の再開の功績とテオリコン<観劇手当>の発展に功績が帰せられるであろう。最後に、リュクルゴス、彼はカイロネイア後、"ディオイケーシスの担当者"という肩書きを持ってアテネの財政を復興した人物である。ちょうどその頃、戦争の新しい状況や傭兵に頼ることの一般化の理由で、ストラテーゴスはだんだん、将軍たちとしての戦争の専門家になる傾向があった。人は都市の"財政家"のリストに対して、たやすく次の将軍たちのリストを比較対照できるかもしれない。ティモテオスとイフィクラテスで始まり、続いてカレスとカブリアス、そしてラミア戦争の英雄レオステネスで終わる人物たちのリストと。(註3)
アイゴスポタモイの戦いの敗北の後で、アテネが置かれた新しい状況が、アルカイ<役人>のその専門化の増大の原因であることは、疑いの余地はないだろう。そして、前4世紀のアテネ人の間でもっとも洞察力ある精神の持ち主の、哲学者プラトンがこのような機能の必然的専門化を、市民団についての考察のテーマの一つにしたのは偶然ではない。ソクラテスが、アルキビアデスが公共建築物や軍艦、あるいは穀物の調達のすべてに無知であるのに(『アルキビアデス』,106c以下.)、政治の道に進むことを望んだのに驚いたときに、プラトンが考えているのは、彼の同時代の政治家たちが直面しなければならなかった問題なのである。そしてソクラテスと同様にアルキビアデスも同時代の問題を例証するためだけに登場させられたにすぎない。
同様に、最近の研究論文で強調されているのは、アテネの民主政の政治の働きの別の側面である。前5世紀初めの“貴族主義者”は、ペロポネソス戦争の時の“デマゴーゴス”あるいは前4世紀の“財政家”やストラテーゴスらと同様に、彼らが民会の前で彼らが強く進めた政治を守るために、自ら時々発言したが、 “仲間や”“友人”やさらにその上スポークスマンとして彼らに奉仕したところの“賃金労働者”らに取り巻かれるのを好んだものであった。失敗やデーモスの豹変の場合には、彼ら貴族主義者らは大衆の不平不満の犠牲になった。(註4)プルタルコスが触れ回っている伝承によって、ペリクレスのもとでエピアルテスがその役割を演じたことになっている。(註5) 人は“ヘタイラ<仲間>”のようなもの、あるいは永久的党派をイメージする必要なしに、そのような結びつきの多くの例を引用することができるかもしれない。(註6) そして、もし結婚の絆が時々政治的性格の結びつきを強化するようになるかもしれないが、それでもその重要性を誇張すべきではない。それはローマにおいて共和制の最後の数世紀に、見られるものと比較できる家族的政治とは違っていたからだ。
ここで再び取り上げたばかりのものすべては、既知のことであるが、たとえ、そうした現実を基礎にして、アテネの民主制についての一つの解釈を打ち立てる傾向が多分あまりに強すぎたにしても、フィンレイーは強くそれに対して異議を唱えた。つまり、政治的クラスの存在は、だからといってデーモスの“無関心”を意味しない。デーモスは政治的特権並びに都市の生活のすべてをコントロールする権利に執着を持ち続けていた。(註7)
しかし、確かにアテネの民主政がアンティパトロスの前での敗北まで、5世紀の終わりの二つの寡頭政の革命は除いて、中断をまったく経験することなく、機能していたが、そして政治的クラスの存在が古代の現象で、体制の性質自体と結びついているが、アテネの独立の最後の数年のあいだにその政治家クラスと市民団のマスとの間に溝が掘られたことは明らかである。私には4世紀の弁論家の用語がそのことについて説明してくれるように思われる。
しかしながら、私はこの用語の問題に手を着ける前に、思想家や理論家の方に回り道をしたいと思う。イソクラテスと同様プラトンは、民主政の批判に手を着ける時に、粗悪な指導者の市民集団と弁論家さらにもっとも低劣なへつらいが主要な武器であるデマゴーゴスとを区別することを好んだ。つまり、デマゴーゴスはデーモスをだますために、また自分たちだけが利益を引き出すことができる冒険の中に、デーモスを引っ張っていくためにその武器を用いるのだ。イソクラテスとプラトンはその悪い導き手を示すために、たいていの場合デマゴーゴスたちあるいはレートールたち、同様にまた時々プロエストーテス(イソクラテス、『パナギュリコス』172節)あるいはプロスタタイ(イソクラテス、『平和について』3-5節)の用語も用いている。興味深く、かつ強調すべき事実、それは、理論家が、政治家を非難するとき、まさに弁論家の彼らの機能が、まず第一に前に置かれるという事実である。そして彼らの“説得力”こそが多かれ少なかれ大きなそして概して有害な彼らの影響力の原因であるという事実である。(註8)プラトンがペリクレスに言及するとき、問題とされているのは弁論家としてなのであり、ペロポネソス戦争にアテネを引っ張っていった過失の責任を問われ得たところの将軍としてではないのである。言い換えれば、デーモスに影響を与え、政治を運営する人々を非難しているのであり、アルケー<権力>の保持者を、問題としているのではないのだ。(註9) 個人が、彼が果たす機能以上に重要である。まさに、民主主義がかなりの数の市民に、アルカイ<官職・役人>に到達するのを許す限りにおいて。たとえその交代が、それが都市の公務についての経験に基づく知識の獲得を許さないという点で、時々異議申し立てられたとしても、(参照イソクラテス、『ニコクレス』17節)それでもなお、それは多くの人々には政体の土台であり続けている極端な場合には能力の欠如よりも、(プラトンは別として)弁論家の説得的な巧妙さのほうが重要なのである。そうした人たちはたいてい、公務上の責任がなかったので、会計報告の提出の義務がないのだ。(註10)
理論家の方へのこの回り道は、都市の中で役割を果たしている人々の間で、二つのグループを区別することを我々に許す。つまり、一つのグループはアルケの保持者で、彼らは交代によってかなりの数存在し、もう一つは弁論家である、彼らは民会と裁判所で語り、そしてデーモスに対して何よりもまず“耳を傾ける”人であることを求める。(註11) さて、その時代の終わりのあるいくらかの弁論の中には、別の区別が明らかになっているように思われる。すなわち、ポリテウオメノイとイディオータイを分けて考える区別である。デモステネスの二つの演説とヒッペリデスの演説で、我々に伝えられたものは、まず第一に問題となる演説のすべてが、カイロネイアの戦いに続く時代にすなわちアテネの独立の最後の数年にさかのぼることを書きとどめながら、その区別を我々に正確に述べることを可能にさせてくれる。
我々は『冠について』の演説から始めよう。人々はどんな状況でデモステネスが、クテシフォンに対してアイスキネスによって表明された告発の返事として、その演説をするために召還されたのかを知っている。クテシフォンは、デモステネスの一般的政治活動と彼が城壁の修理をすることを任された委員会のメンバーとして、エピドシス<寄付>として総額5ムナという金額を提供したので、その報酬としてデモステネスに冠を授与するよう要求した人物であるが。『冠について』の演説は、デモステネスが政治生活に入って以来のデモステネスによって行われたすべての活動の概要である。18節において、フォキス人との争いの時には、デモステネスは未だ政治家でなかった。つまり“私自身はポリテウオメノイではなかった。”ことを思い起こさせることから始めている。もっと後の、45節でフィリッポスが享受している罰せられないことに言及しながら、買収されるがままであった“(市民の中で)政治を行うもの”と何も予測をたてず、つかの間の暇を享受することしか考えない“イディオータイと多数の者”の間に区別を設けている。次に彼は彼の個人的活動に言及する時、それがまさにたいていただ“レゴントーン<演説する者たち>とポリテウオメノイ”の間で彼はあえてフィリポスに対抗して弁論を行ったということを強調するためなのである。(173節)それ故に、一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイがいて、他方危険を前にして聞くのみで依然受け身のままでいる人々つまり、イディオータイがいた。
その区別は、デモステネスの作ではない可能性が大いにあるが、デモステネスに帰されている『アリストゲイトン弾劾、第2演説』の中でさらに激しく表明されているのが再び見いだされる。信憑性はこの際ほとんど重要ではない。つまり問題は多分、同じ問題に関して、別の告発者から公言された実際の演説であろう。(註12)アリストゲイトンは、政治家の代表としては最もふさわしくない者たちの一人であったが、政治家たちを示すために弁論家によってかなりの数の表現が用いられたことが、考慮に値することである。最初の句から直ぐにこうした政治家たちは、“アルカイを持つ者<権力を有する役人たち>とポリテウオメノス”と呼ばれ、この言い回しは、最初にあげた政治家たちを示すために、5節の中で再び見いだされる。2節で同じ男達は、“公共の事柄に手を出す”とそしてさらに3節で“アルコンとポリテウオメノイ”となっている。両方とも第4節の“イディオータイ”と対峙されている。ここにおいて、次のことがわかる、つまりポリテウオメノイは“アルコン達”と区別され、(註13)しかし両方とも、アルケーの保持者であるにせよ、あるいは単に弁論家であるにせよ、彼らは同様にイディオータイと対峙されていることを。
同じ対立はヒッペリデスの作品の中にも見いだされる。『エウクセニッポス擁護』の演説の中で、彼は向こう見ずな政治の責任がイディオータイに降りかかるその弁論家の無責任さを問題にしている。(『エウクセニッポス弁護』9節)前者は、それはエウクセニッポスの敵の弁論家たちであるが、彼らは常自分たちに有利に弁論してくれる人々がいて、他方、後者は、“イディオータイであり”彼らの近親の者達に助けてもらうことさえできない。(『同上』13節)彼は彼の敵に対して、敵とは政治で成功することを切望しているポリュエウクテスであるが(『同上』.27節“彼がポリテウオメノイであることを選んだからには”)、彼に対して、彼があたかも弁論家のタクシスの一部をなしているかのように扱う、エウクセニッポスのような単なるイディオーテス(『同上』27節;30節)よりむしろ、弁論家や将軍を非難するよう勧告している。弁論家や将軍は、ある時は結びつき、ある時は敵対し、(註14) 一方は公の責任のない者であり、また他方はもっとも重要なアルケーの保有者である。従って彼らはイディオータイに対して一つの政治クラスを構成する。そして、ヒッペリデスによるタクシスという用語の使用は、さらにそうした考え、政治を行うことにあこがれるすべての人によって、すべてのポリテウオメノイによって構成された閉鎖的なグループという考えをさらに補強する。
一方では、弁論家と将軍と、他方ではイディオータイの間に同じような対立を、ヒッペリデスがハルパロスの事件に際して語った『デモステネス弾劾』の弁論の中に再び見いだす。その演説は、断片の形で我々に届いているが、まさに断片IVの中に、なお『エウクセニッポス擁護』の中でよりもっとはっきりと書かれている対立が見いだされる。アレクサンドロスの会計係のお金の一部を、受け取ったかあるいは取ったかした人々に言及しながら、ヒッペリデスは彼の目に映る罪状は、一方のイディオータイの場合いと他方の弁論家と将軍の場合が同じではないことをまず第一に強調する。前者は彼らの個人的使用のために黄金を受け取り、後者は振る舞うためであった。ここにおいて、ヒッペリデスの論拠の価値は問題ではない。ここで我々の注意を引くことは、またもやそれが語彙のレベルにおいて、あたかもはっきりと区別されたグループであるように、市民の二つのカテゴリーの対立なのである。そして、もしくじによる偶然がイディオータイをアルケーに到達させるならば、彼らがイディオータイではなくなってしまうことに反論することはできない。P.198このような場合でさえ、たとえ法廷を構成するイディオータイの一人がある役職に就いたからといって、彼はその政治家の階級の特権を共有はしない。そしてもし彼が何らかの違反を犯したならば、彼は死かあるいは国外追放の刑が課せられるであろう。一方では政治家らは安全にそして不正に都市に対して行動することができるのに。さらにもう一度、そうすることでヒッペリデスが悪い指導者に対する批判という、おなじみのテーマを繰り返していたかどうかを知ることは問題ではない。また、彼の告発の正当性について自問することが問題なのではない。重要なのは、陪審員たちに語りかける彼らを都市を指導する人々より対峙させるために、弁論家は彼らをイディオータイと呼んでいることである。そしてどうやらその形容語は自明のことであるらしいということである。同様に重要なことは、アルケーを授けられていても、そうしたイディオータイは、弁論家たちや将軍たち、彼らは唯一政治家とみなされたのだが、かれらとはあいかわらず別のままでいるということである。
例えば、ヒッペリデスにおいてと同様にカイロネイアの戦いの後のデモステネスにおいて、その時までは暗黙であったその区別が、“政治家”である少数者とイディオータイのままである市民の多数者の間でそれ以降認められる。さて、そうすることでイディオータイの用語が、その習慣的用法とは若干異なった、新しい意味になっていることは十分明らかである。
さて次に、我々が指摘することを試みるべきことはその用法である。これが前4世紀の後半とそれ以前の時代の間のその差をよりよく測定する唯一の方法である。確かに、この論文の制限上、イディオーテスの用法の網羅的な分析に身をゆだねることは不可能である。私は、歴史家ヘロドトス、トゥキュディデスそしてクセノフォンに留めよう。ヘロドトスにおいて、イディオータイの用語は一般に、論述の展開が著名なこれこれの人たちに対して無名の人物を示すために用いられている。さらに、1巻32節で、クロイソスは幸福な人生のシンボルとして、ソロンが彼よりかイディオートン アンドローン
<私人としての男たち>であるクレオビウスとビトンを選んでいることに怒っている。同様に、I巻70節3において、イディオータス アンドラス<一私人としての男>がラケダイモン人がクロイソスに贈るために作らせたところのクラテール<混酒器>を購入した。それらはサルデス並びにリュディア王国の陥落を聞き知った後に売り払われたものだが。I巻124節では、まさにハルパゴスが、イディオーテスとして行動する人と呼ばれている。従って、どこにもその用語が“単なる一私人”という意味以上のはっきりしたより明確な意味を持ってはいない。トゥキュディデスに関しては、我々はある時はより一般的に、ある時はより正確にイディオーテスの使用を見いだす。数多くの節の中で、イディオーテスはポリスと並置されて用いられている。例えば、I巻82節6句で、アルキダモスは戦争を終わらす方が、都市の人々と私人(ポレオーン カイ イディオートン)に関する訴訟を解決するより難しいという見解を表している。数多くの別の節のなかに、同様なポレイス カイ イディオータイ<都市の人々と私人たち>の並置を再び見いだす。例えば、1巻124節1、同144節3、2巻82節2、同64節6、4巻114節3句等々において。しかし、他の場所では、トゥキュディデスは公務に責任を持つ人と比較してイディオーテスに私人の意味を与えている。例えば、1巻114節(原文では115節と誤植)2において、ミレトスの使節と一緒にアテネに赴いた民主主義者のサモス人たちは、アンドロス イディオータイ<私人としての男たち>と呼ばれている。それは、彼の都市からの使節として派遣されたのではなかったことを意味している。同様に3巻70節10句において、トゥキュディデスはケルキュラでの富裕なケルキュラ人によって評議会の中で行われた虐殺に言及している。そこで彼らは“ブーレウトン<評議会員たち>やイディオートン<私人たち>”の内で60名を殺した。ここではイディオータイは、たとえ最もささやかなものであるにしてもアルケーを保持していない単なる一私人であるとして評議会員と区別されている。人は、またイディオータイのこうした用法と我々がデモステネスやヒッペリデスの著作の中に指摘した用法とをつい比較したくなるかもしれない。しかし、すぐにそれらを区別するところのものに気づく。一方の場合は、イディオータイは時間を限られたアルケーの保持者と区別されたが、他の場合では、イディオータイはアルケーに就くことはあっても、政治的階級になることはなく、その公の職務の所有によって決定されない政治的階級と区別されている。
クセノフォンに、トゥキュディデスの著作と同じ用法を再び見いだす。『ヘレニカ<ギリシア史>』1巻7節7で、アルギヌサイの海戦の件に関して、クセノフォンは次のように報告している。将軍たちの弁護を聞いた後で、“イディオータイの多くの人たち”が決心して将軍たちの保証人になる準備ができていた。2巻4節36句では、第2の寡頭政の革命を終結させた交渉に関して、彼は明確に次のように述べている。スパルタへ派遣した使節には、ピレウスと“都市の中のイディオータイからの人たち”の人々が代表として含まれていた。この場合、アッツフェルドの訳では“権限を持たずにやって来た都市の人々”。どちらの場合にも、イディオータイは公務を保持する人々と対照的に、まさに単なる一私人である。他の場所で、『ヘレニカ』においてイディオータイの使用を再び見いだす。それは、我々がヘロドトスやトゥキュディデスにおいて重要な人物に相対して無名の人を示すための使用であるが。(たとえば3巻4節7にて、アゲシラオスはリュサンドロスに相対して、単なるイディオーテスとして見なされたと語られるときに)、あるいは都市の人々と区別するためのイディオーテスの使用を見いだす。(第2巻4節28、第4巻5節40)しかしながら、『家政論』においてイディオータイは将軍に対照して“一兵卒”(註15) という意味を持って用いられている。その文脈は次のことを示している。クセノフォンはこのようにして、イディオーテスが将軍がなったところの軍事的専門家に対照的に、服従することが役目である人であることを強調している。従って、将軍の前で兵士たちがイディオータイであるのは、将軍がアルケーの保持者であるからという理由だけではなく、専門家の前では彼らは非専門家であるという理由によるものだ。(『家政論』第20巻6節と第21巻6節)この分析の初めに、私は軍事機能のこうした専門化を想起させた。それに前4世紀を特徴づけるところの市民のある種の機能をも。『家政論』の二つの節の中で、クセノフォンがイディオータイに与えているその意味は、従ってトゥキュディデスが医者と単なる私人を区別したときにそれに与えた意味と比較されるべきであるだけではない。その意味は、同様に、弁論家である政治の専門家と相対して、また戦争の専門家、それは将軍であるが、それと相対して、民会や、評議会あるいは裁判所に出席して、そしてたとえ決議決定を行うことが最終的に彼らに属しているとしても、都市の政治の方向付けを専門家に委ねるところの人々である大衆を示すために、より明確な用法を示すこともまた可能である。
クセノフォンによるイディオーテスの別の用法は、注意をとどめるに値する。『ポロイ<国家の財源>』の第4章で、クセノフォンは次のプロジェクトを想像している。その計画によればつまり、都市アテネの市民全員に3オボロスの日々の所得を保証することが可能になるであろう。すなわち市民の人数の3倍の数の奴隷を手に入れ、鉱山において、一日一人につき慣習的な法定利率の1オボロスで奴隷を貸し出すことを。(註16) 何度も繰り返して、クセノフォンは都市の市民団にニキアスやヒッポニコスのようなかって彼らはこのように奴隷の賃貸で金持ちになった特別な(イディオータイ)を手本にすることを促している。(第4章14節、同17節—19節、同32節)ここでは、イディオータイは都市の人々と区別されている(第4章14節)さらに正確に言えばデーモシオン<公共のもの>と。(第4章18節—19節)従って、それはもはや単なる市民であるだけではなく、むしろタ・イディア<私事>に没頭する者らでもある。直ちに、人は政治的クラスに属していない人々を示すためのイディオータイの特殊な意味が、その最後の2つの用法と関係ないのではないかと自問するかも知れない。先に見たように、将軍はアルケーの保持者の間で、名を挙げてポリテウオメノイと結びついている唯一のものである。彼らと彼らの兵士の、その兵士たちは市民であるかもしれないし、そうでないかもしれないが、その兵士との間の関係は、ポリテウオメノイを市民全体、イディオータイに結びつけるところの関係と同じ性質のものである。つまり、彼らは指揮し命令し、他方の者達は耳を傾ける、そして従う。なるほど、人は決議に関して彼らの投票による裁可を求めるが、しかし、その決議は知識のある人々によって、彼らのあずかり知らぬところで準備された草案を対象としている。彼らに関しては、より彼らに興味のある彼らの私事に関心を向けることを好む。ここで、デモステネスが彼の市民仲間に語っている非難が思い浮かぶ。彼ら同胞は単に彼ら自身隷従を拒絶するのみならず、主人であった彼らは、今やポリテウオメノイによって召使いの状態にさせられ(『オリュントス情勢第2演説』30節、『オリュントス情勢第3演説』31節)そして、テオリカ<観劇手当>の配給やボエドロミオンの月の行進のようなわずかな利益を受け取ることで満足している
論文の制限上、こうした無関心の理由の分析を問題にはしかねる。つまり、一方の人々においては悲惨であり、逆に他方の人々においては、個人的活動に専念して金持ちになる可能性を、それらは新喜劇の中で言及されたいくつかの状況が、いくぶんかの光を投じるかもしれない。(註17) まさに問題は大きいので、前4世紀の末の弁論家の著作でのポリテウオメノイとイディオータイの間の対立についてのこの論文の範囲を超えている。
私は結論を下すためにアリストテレスに向かおう。『政治学』の中では、イディオータイが我々がこの分析で指摘した3つの意味で共に用いられているのを見いだす。たいていの場合は、イディオータイは、公的責任を保持した“役人”と対立して互いに用いられている。(1272b4;1300b,21;1304a35、参照『アテナイ人の国制』45節2、48節2)しかし、またイディオータイがエイドーテス、技術に精通した人々との対照で用いられているのを見いだす(1282a11)。最後に、イディオータイはアリストテレスがホイ・ポリティコオイ<政治家>(1266a31)あるいは、さらに“公共の事業に携わり、国政に従事する者(ポリテウオメノイ)”と呼んだ人々と区別される。以下のことを確認するのは、興味のないことではない。つまり、デモステネスやヒッペリデスがこの考察の出発点であった演説を行っていた時にアテネで教えながら、都市の人々と市民の定義を練り上げることに努力した人が、政治的階級と単なる市民の間の違いを示すために弁論家が用いていたまさにその用語を自分の責任で繰り返したということを。交互に“支配し、支配される”可能性がある人として「完全な」市民を定義した彼は、アテネのような民主主義の都市の中でさえ、実質的な権力がポリテコイやポリテウオメノイによって行使されたのである以上、ますます“支配される”市民が存在したということを確認することを忘れるわけにはいかなかったのかもしれない。しかし少なくとも、これらの「受け身」の市民たちには民会や裁判所への参加という“アルケー・アオリストス(不確定の漠然とした権力)”が残されていた。そして、まさにそれこそが市民たちの大多数から奪われることになるものである。ヒッペリデスやデモステネスに対する勝利者、アンティパトロスがアテネの市民たちに納税額に基づく政体、それは過半数の市民たちから政治上の諸権利を奪うことになるのだが、その政体を押しつけるようになるときに。 (註18)
《註》
1. 前5世紀のアテネの政治家の発展についての問題に関しては、W. R. Connor, The New Politician of Fifth Century Athens, Princeton University Press, 1971. を参照。
2. La fin de la démocratie athénien, Paris, P. U. F. 1962とJ. K. Davies, Athenian Propertied Families, 0xford, 1971; Wealth and the Power of Wealth and the Power in Classical Athens, Salem, 1984参照。
3. La fin de la démocratie athénien, pp. 303以下参照。
4. その点に関しては、前述の註1のConnorの著作に見られる。同様に以下の研究を参照。F. Ghimatti, I gruppi ateniesi fino alle guerre persiane,Rome, 1970; F.Sartori. Le eterie nella vita politica ateniese del Ⅵ e Ⅴ secolo a Cr., Rome, 1957 ; C. Pecorella Longo, Eterie e gruppi politic nel’Atene del Ⅳ secolo a.C., Florence, 1971, 同じく R. Sealey, Essays in Greek Politics, New Yoek, 1965と最近のM. I. Finleyの著作, Politics in the Ancient World,Cambridge, 1983(翻訳:L’invention de lapolitique, Paris, Flammarion, 1985)
5. 『ペリクレス伝』7節, 7-8
6. 恐らく、前4世紀と前5世紀の間の変化を考慮に入れなければならないだろう。プルタルコスによってもたらされた伝承の中では、概してフィロイ<友人>あるいはヘタイロイ<仲間>が問題になっている。(話題に挙がっている)前4世紀には、「友人」と「同僚」は同じように言及されたが、しかし、何よりも有名な政治家の防御のために発言する俸給者の行いが特に強調されている。デモステネス『平和について』第5節参照。アイスキネス『使節について』第71節では、περὶ τὀ βῆμα καὶ τὴν έκκλησίαν(演壇と民会で)将軍カレスのミストホロイ(俸給者)と言及されている。
7. 上記の註4での著作の中で、また以前にはDemocracy Ancient and Modern, London, 1973(翻訳:Démocratie antique et dέmocratie modern, Paris, 1976)
8. 特に、イソクラテス『平和について』54節、75節;123節以下。『パンアテナイ祭について』12節以下参照。
9. 『ゴルギアス』515d-516d.
10. ここで、デモステネスが、弁論家の役割を定義している『冠について』245節—247節の議論の好奇心をそそる句を思い起こさねばならない。つまり、弁論家は、これから生じるであろうことを予感し、人々を調和や活動へと駆り立てる。しかし、次の事実、弁論家には実行の遅れや誤りについての責任があるとは見なされず、従って、そうしたことについて説明する必要はないということを強調している。
11. その定義は、再度『ピリッポス弾劾 第2演説』第5節において、デモステネスに繰り返されるものであり、あるいは、「演説する者」(τοῖς λὲγοθσιν )と「聴衆」(τοῖς ἀκούουσιν)を対立させている。
12. デモステネスに関しての略述、G. Mathiey, Plaidoyers politiques, T. Ⅳ, Paris, 1947, pp129以下参照。
13. 人はイソクラテスが『アンティドシス(財産交換)』の中で、将軍ティモテオスが好意を保持した方が賢明であった演説家のことを示すのにポリテウオメノイを使用しているのに気づくであろう。(『アンティドシス(財産交換)132-134節』)
14. 弁論家と将軍の間の繋がりに関しては、アイスキネス『クテシフォン弾劾』7節;『使節について』71節参照。
15. P. Chantraine, Xénophon, Economique, Paris, p.108, n.3の注釈を参考。
16. そのテキストの重要性と解釈は、Ph. Gauthier, Un commentaire historique des Poroi de Xénophon, Genève-Paris, 1976を参照のこと。
17. 私はLa fin de la démocratie athénien, 133以下や論文“La vie économique d’Athenes au Ⅳe siècle : crrise ou renouveau ?”で、その問題に取り組んできた、F. Sartoによって集められたPraelections Patavine, Rome, 1972, pp.135-144参照。私は次の論文の中でメナンドロスの証言を再検討するつもりである。その問題に関しては、同様に、J. Pecirka, « The Crisis of Athenian Polis in the Forth Century B.C. « , Eirenè, XⅣ, 1975, pp.5-34に見える。
18. その問題に関しては、私の次の2つの論文を参照すること。”Citoyens actifs et citoyens passifs : une approche thèorique », R. E. A., LXXXI, 1979, pp241-249 ; « Citoyens actifs et citoyens passifs à Athènes au Ⅳe siècle av. J.-C. », Vorträge zur griechishen und hellenistishen Rechtsgeschichte, Cologne, 1982, pp.157以下。
《解題》
原題: POLITEUOMENOI ET IDIOTAI:
L'AFFIRMATION D'UNE CLASSE POLITIQUE A ATHENESAU IVe SIECLE,
Par Claude Mosse, R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200
※ 本文中の< >は原文のギリシア語等の訳語である。
論文の著者クロード・モセ女史は、1924年12月24日生まれで、1956年までレンヌ大学文学部の助手を務め、クレルモンーフェラン大学文学部の講師、教授を歴任し、ヴァンセンヌ中央大学古代史教授(パリ第8大学)として活躍した。著書には『アテナイ民主政の終焉』(La Fin de la Démocratie Athénienne, 1962, P.U.F)、『ギリシアとローマにおける労働』(Le Travail en Grèce et à Rome, Q.S.-J.? No.1240,1966,P.U.F.)福島保夫訳『ギリシアの政治思想』1972年《文庫クセジュ》白水社(Histoire des Doctorines Politiques en Grèce, Q.S.-J.? No.1340,P.U.F.,Paris,1969)など多数ある。
アテネでは、周知のように前5世紀のペリクレスの時代に民主政が完成した。そこでは成年男子市民全員が平等の参政権を持ち、重要な決定は彼らの全体集会である民会でなされた。民会ではすべての出席者に平等な発言権と一票の投票権が認められ、ここに直接民主政が実現した。
前4世紀になるとアテネの民主政のシステムは緻密さを増し、民会出席者には手当が支給されるなど、市民団の政治的平等は一層徹底されたが、しかし、経済的不平等は依然残ったままであった。民会では弁論家と呼ばれた政治家達が活躍するところとなり、演説でのレトリックなどの専門的技術を要する彼らの多くが、比較的富裕な階級に属していたと考えられている。
モセ女史は、この論文において、「ポリテウオメノイとイディオータイ」というキーワードを検討することで、前4世紀の政治的状況を明らかにしようと試みている。すなわち、前5世紀においてはヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンの三者のこの用語の使用の例と前4世紀のデモステネスに代表される弁論家の使用を比較検討しその相違点を明らかにしている。結論としては、前4世紀には一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイ<政治家たち>がいて、他方危険を前にして聞くのみで以前受け身のままでいる人々、つまりイディオータイ<私人>がいたことを確認している。しかし、こうしたことがアテネ民主政が事実上寡頭政であったと論じることはできない。例えば、オバー(J.Ober,”Mass and Elite in Democratic Athens”,Princeton,1989)はこうした弁論家(政治家)と民衆(大衆)の緊張関係、両者の相互依存、また両者のバランスが民主政を安定させていたと考えている。いずれにせよ、この論文の重要な点は、前4世紀には両者の間の溝を市民が認識していたことを明らかにしたことであろう。
(2017.11.6)
a:4857 t:1 y:0