J. オゥバ『民主的アテネにおける大衆とエリート』

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<写真:表紙>

ジョサイア・オゥバ 『民主的アテネにおける大衆とエリート —レトリック、イデオロギーと民衆の力』プリンストン大学出版、1989年

献辞

父ナサニエル・オゥバに献ぐ。

彼の実践は、私が仮説を立てるのを助けてくれた。

【目次】

凡例
序文
略語

第一章 問題と方法

A. 民主主義:アテネ人と現代人
B. エリートと大衆
C. 社会政治的安定性の説明
 1. 民主主義の現実の否定
 2. 国制と法律の説明
 3. 帝国
 4. 奴隷制
 5. 中流階級の中庸とアッテイカの資源
 6. 対面社会
 7. 集団および個人の非凡な才能
D. 前提と方法
E. レトリック
F. その他の主な史料

第二章 アテネの「国制」の歴史:通時的概観

A. 序論
B. ソロン以前:出生エリート
C. ソロン:富裕エリートと大衆
D. ペイシストラトスとデーモスの熱望
E. クレイステネスのイソノミア
 1. 市民、区(デーモス)、そしてコンセンサス
 2. 評議会と民会
 3. オストラキスモス
F. 5世紀
 1. 440年頃までの国制上の改革
 2. 改革の背景
 3. エリートのリーダーシップ
 4. ペリクレス
 5. デマゴーゴスと将軍
 6. 反革命
G. 4世紀

第三章 演説者と大衆の聴衆

A. コミュニケーション
B. 演説者の階級:レートールとイディオータイ
 1. 「レートール」と政治家の別の用語
 2. レートールとイディオータイの法的身分
C. 演説者のエリート身分(ステータス)
D. 政治と政治機構
 1. レートールとストラテーゴイ
 2. 政治グループ対個人のリーダーシップ
 3.  政治家と役割分化
E. 議論とコミュニケーションのフォーラム
 1. 人口統計学と生計
 2. 民会(エクレーシア
 3.  評議会(ブーレー)とアレオパゴス評議会
 4. 民衆裁判所(ディカステーリア
 5. うわさ(ペーメー
 6.  劇場

第四章 能力と教育:説得の力

A. 知識人エリート
B. 集団の決定と全体の知恵
 1. 普通のアテネ人の天賦の才能と正式な教育
 2.政治の実践教育
 3. 国家制度の規範的機能
 4. 大衆の知恵
C. レトリックの危険
 1. レトリック対大衆の知恵
 2. レトリックの教育の弊害;ソフィストとシュコパンテース
 3. 無邪気さ、無知,そしてドラマチック・フィクション
D. レートールによる詩と歴史の使用
E. エリート教育の利点についてのレートール
F. 相反する感情(アンビバレント)とバランス

第五章 階級:富、恨み、感謝

A.  平等主義国家の経済的不平等
 1. 定義と専門用語
 2. 階級革命の恐れ
 3. 再配分の方法:(レイトゥルギア)、税金、罰金
 4. 経済的不平等の機能的帰結
B.  嫉妬,恨み,富の弊害
 1. 誇示,贅沢,退廃(デカダンス)
 2. 横柄さと傲慢(ヒュブリス)
 3. 社会関係の腐敗
C.  富と権力の不平等
 1. 寄付金差し控えによる政治的影響力
 2. 法的な優位
D.  富に対する否定的印象の緩和
 1. 中庸と勤勉
 2. 富のイデオロギーにおけるドラマチックなフィクションと緊張
E.  カリス:個人的な気前の良さと公衆の感謝
F. 政治家と富のイデオロギー
 1. 公共奉仕とカリス
 2. 不名誉としての貧困:突然の富の弊害
 3. 賄賂
 4. 富に対する正当な誇り
G. 政治的平等による経済的不平等のコントロール

第六章 身分(ステータス):高貴な生まれと貴族的な振る舞い

A. 身分(ステータス)と社会的な地位
B. アテネの貴族
 1. ゲンネータイと貴族的趣味
 2. 貴族的な特権:現実とイメージ
C. 出生特権の民主化
 1. 生え抜きと愛国主義
 2. 市民権とカリス
D. 奴隷制と労働のイデオロギー
 1. 奴隷の地位と奴隷的行動
 2. 奴隷労働と勤勉の美徳
 3. 政治の舞台における自由と労働
E. 身分(ステータス)のイデオロギーにおける緊張
 1. 政治家の貴族的な気取り
 2. エートス対業績
F.  貴族的精神の打破

第七章 結論:弁証法と言説

A. 政治的平等と社会的不平等
B. 自由とコンセンサス
C. 法の支配と主権を有するデーモス
D. イデオロギー及び、大衆とエリートのバランス
 1. イディオータイと社会的バランス
 2. 政治家と政治的バランス
 3. バランスの起源
E. レートールの政治的役割
 1. 世論の代弁者
 2. 民衆の保護者
 3. 助言者
 4. 指導者,批評家,民意の反対者
 5. エリート主義であることの重要性
F 政治家に対する抑制力
 1. 法的支配
 2. 人格と政策
G. 大衆のイデオロギーの支配権
 1. アテネと寡頭政の「鉄の法則」
 2. 民主主義の言説

補遺:演説の一覧表と引用索引
主要参考文献
索引
……
訳者解題

【凡例】

一 以下は、Josiah Ober, MASS AND ELITE IN DEMOCRATIC ATHENS — Rhetoric, Ideology, and the Power of the People, Pp. ⅩⅧ+390, Princeton University Press, Princeton, 1989の全訳(試訳)である。

一 翻訳にあたっては、本文中のギリシア語(英語音訳表記)はカタカナ(イタリック)で表記して、必要に応じて〔 〕で訳語を補ってある。

一 (  )・[ ]は原文にあるもの、〔 〕は訳者による補足、小括弧( )はルビである。

一 本文中のイタリックは、原文通り著者がイタリック(強調のためなど)で表記した箇所である。

一 ギリシア語の固有名詞の母音の長短は、原則として無視した。

一 年代は、特にことわったもの以外はすべて紀元前である。

【序文】

献呈者の影響のせいで、私は初めてアッティカの弁論家の著作を読むずっと前から、民主的な社会におけるエリートと平等主義の制度の役割について考え始めていた。私は長い間弁論家を研究してきたが、『冠について』の中で、デモステネスがアイスキネスについてコメントをしている際に、そのエリート主義の論調が私の注意を引きつけた。それは、10年前のことであった。この長期にわたる構想期間を考慮に入れれば、アテネの大衆とエリートについて書くにあたっての私の目的と意図は、ことによると、多岐にわたるであろうことは避けられないであろう。第一に、本書は、ギリシア史への一つの貢献を意図している。すなわち、古代の都市国家の政治システムの社会的ルーツと内部の機能性を説明するための試みである。私は、5世紀と4世紀のアテネの歴史と文化を、私がそうであるように、本来興味深く考えている人たちの多くが、この研究を古典期のギリシアの評価を定式化あるいは再定式化するのに、有益であると思うことを望んでいる。

本書を書くにあたっての私の別の主要な目的は、あまり自明のことではないかもしれない。古代ギリシア・ローマの歴史家の中には、私を含めて、古代社会を説明するのを補助するのに、現代の社会科学者によって考案されたモデルを用いる手法を採用している人もいる。しかしながら、そのモデルが粗雑に、あるいは機械的に用いられた時には、その結果は説得力がありそうにもない。私は、今が古典研究者にとって、方法論と理論に対してダイナミックなアプローチを取る時であると提言する。比較的少数の原典に、比較的多くの学者が関わっている分野は、そしてそこでは学際的な研究が不可避であるが、批判的理論や社会的モデルの製作、改良、そして検証のための理想的な環境が提供される。そして、このようなモデルと理論は、ギリシア・ローマ世界やその文化的成果の研究の範囲を超えて、十分に妥当性を持っているかも知れない。それゆえ、本書は古代ギリシア・ローマ史への過激なアプローチの一例として意図されている。私はアナール派の社会史の中心的な教義―普通の民衆の「心性」を理解することの重要性―と現代の文学的な理論を結びつけている。つまり、原典を象徴体系として考察することである。そしてその象徴体系は、それらの受容体との関連で理解されねばならないものであった。その結果は、国制、名士、党派、あるいは外交関係以上に、もっとレトリックや大衆のイデオロギーに関心を持って、古代の国家の政治的発展を解釈することである。私は、アテネの意思決定の過程は、完全には合理的ではないものの首尾一貫していたことを、また事実上のリーダーシップは、真の民衆主権と共存していたことを、そして、イデオロギー上のヘゲモニーは、それはきわめて重要であるが、余暇階級の道具ではなかったことを、明らかにすることを望んでいる。要するに、私は、どのようにして民主的政治文化が生じたのか、またどのようにして、それが、規則(法律や政治制度)や言説(特に公的なレトリック)の発生を通して維持し、かつ再現したのかを論証することを望んでいる。この論証は、きっと政治理論の研究者にとって何らかの重要性を持つであろう。

どのような状況が、安定した民主政を育てるのか、また民主的政治文化を再現するのか、ということを決定することは、理論家の間での議論の問題だけではなく、民主的国家の市民すべてにとって、実際上の重要な問題である。しかしながら、民主的政治文化が、独自に発展した歴史的例はほとんどない。現代の民主政を用いて検証した理論は、問題を含んでいる。というのは、それらのほとんどは、全く未熟であり、そして究極的な形はいぜん未知のままである。さらに、現代の政治指導者が、理論的構成に基づいて政策を考案する傾向によって、検証はいっそう複雑になっている。−(例えば)ケインズ経済学の妥当性の分析は、恐らく、それを履行しようとする政策立案者によって複雑になっている。古代のアテネ人は、現代の政治的、社会的、そして経済的理論に影響を受けていないので、彼らの行動と言説は、民主的な政治行動のモデルのために、実証的な検証の場を提供してくれる。従って、私は、この本を書いている時に、自治の手段としての民主政の、また生活様式としての民主政の可能性に関心のある市民だけではなく、古典学者、歴史家、そして社会・政治科学者を含む読者を念頭においていた。

幅広い読者に手を差し伸べようとするなら、古典学識の伝統的なレトリックからいくらかの逸脱が必要である。私は、古典学者ではない門外漢の理解を助けるつもりで、より専門的な特別な研究だけではなく、色々な研究を注に引用している(これらは、巻末の主要参考文献にアステリスク*をつけて掲載されている)。私は、古典ギリシア語を読まない人が、この本を利用しやすくするために、すべてのギリシア語の節を翻訳しているし、またギリシア語の用語を最初に用いる際に定義している。頻繁に用いているギリシア語の用語は、索引に記載している。そして、その定義が載っているページは、太字体で示している。また、私は、この本の体裁があまり近づきがたくならないように、ギリシア語の句を音訳している。そして、アッティカ弁論家の私の翻訳は、多くの場合、概して非常に読みやすいロウブ古典叢書版に基づいている。

私は、この本を研究して執筆する過程で、多くの物質的、精神的恩恵をこうむっている。私は、以下の研究者たちの未発表の論文や論説の草稿を利用することができた。グレン・ブゥー、ウィリアム・ドレイ、モーゲンス・ハンセン、キャロル・ロートン、カルネス・ロード、ポール・レイヒ、デビッド・スモール、バリー・ストラウス、ロバート・ウォレス、そしてジャック・ウィンクラー諸氏である。これらの草稿は後になって出版されたが、私が結論を早くから利用できたことは、多くの時間と手間を省くことができた。また、モンタナ州立大学の寛大な休暇方針と、それに加えて研究担当副学長室ならびに歴史哲学科の財政的支援により、この研究は可能になった。私が国立人文科学センターのフェローだった間の1983-84年に、一次研究の大部分、仮説の定式化、および執筆は行われた。私のフェローの同僚の中で、マイクル・アレクサンダー、ウィリアム・ドレイ、リンダ・カウフマン、ロバート・レーン、グラディスとカート・ラング、そしてヘレン・ノースには、特に援助を受けた。原稿の最後から二番目の草稿は、私がミシガン大学の客員教授であった間の1986-1987年に完成した。アナーバー〔ミシガン州の都市、ミシガン大学のキャンパス所在地〕では、特にサリー・ハンフリーズ、リート・ヴァン・ブレーメン、そしてチェスター・スターとの会話から恩恵をこうむっている。

私は、ミシガンとモンタナ州での学部ミーティングで、また古典学者や、歴史家、そして政治科学者のもっと大きな会議で、いくつかの章の一部分を発表した時に、専門家のそして建設的な批判を受け取った。ブルック・マンビル、ロバート・ウォレス、モーゲンス・ハンセン、そしてジャック・ウィンクラーとのやり取りと議論は、私を誤りから防いでくれ、初期のアテネ、民主制度、そして公的なレトリックと演劇との関係についての私の思考を洗練するのに役立った。私に対する最も厳しい、そして最も影響力のある批評家の中には、私のモンタナとミシガンでの学生がいる。彼らは、よく額面通りに世間一般の考え方を受け入れるのを望まなかったが、私が思うに、それは彼らが自覚している以上に、私にインスピレーションを与えてくれた。シンシア・コッソは、多くの時間をかけて参照を校閲して、多くの誤りを訂正してくれた。ビリー・スミス、デビッド・スモール、そしてナサニエル・オーバーは、原稿の一部に目を通して貴重な提案をしてくれた。バリー・ストラウスには、後半の草稿全体に目を通して頂いた。私は彼の詳細な、洞察に満ちた論評に感謝している。終始、プリンストン大学出版局のスタッフ、なかんずく、ジョアンナ・ヒッチコック(編集長)とナンシー・ムーア(副編集長)には、特にお世話になった。私はまた、モンタナの人々の助力にも感謝しなければならない。彼らは、過去数年間、私に給料を支払ってくれただけではなく、平等主義の精神エトスによって定義された社会に住むことが、何を意味するのかを教えてくれた。しかしながら、私はいつものように、エイドリアン・メイアーに最大の恩義を感じている。私は、この本の中でのすべての考えを、ほとんど徹底的に彼女と論じたといってもよい。私は、言葉では言い表すことができないほど、彼女の批判的な思考の鋭敏さ、表面的な解決に対するいらだち、そして比較史と政治理論の幅広い学識に多くの恩恵をこうむっている。

ボーズマン、モンタナにて
1月、1988年

【略語】

《古代の作家と原典》

AP = [アリストテレス]『アテナイ人の国制
Aesch. = アイスキネス
And. = アンドキデス
Ant. = アンティポン
Aristoph. = アリストパネス
Aristot. = アリストテレス
Pol. =『政治学
Rhet. =『弁論術
Dem. = デモステネス
Ex. = 『序論集
Din. = ディナルコス
F =「断片」
Hdt. = ヘロドトス
Hyp. = ヒュペレイデス
Is. = イサイオス
Isoc. = イソクラテス
Luc. = リュクルゴス
Lys. = リュシアス
Plut. = プルタルコス
Ps =「偽(伝)」
Thuc. = トゥキュディデス
Xen. = クセノポン
Mem. =『ソクラテスの思い出(追想録)
Hell. =『ギリシア史

《現代の著書と雑誌、碑文集》

アステリスク*は、古典学者ではない門外漢にとって、特に役に立つであろうと思われる著書を示している。

AJA= American Journal of Archeology
AJAH = American Journal of Ancient Hsitory
AJP = American Journal of Philology
Belegstellenverzeichnis = E. C. Welskopf, ed., Soziale Typenbergriffe im alten Griechenland und ihr Fortleben in dem Sprachen der Welt. Vols. 1 and 2 : Belegstellenverzeichnis altgriechischer sozialer Typenbegriffe von Homer bis Aristoteles, Berlin, 1985
Blass, AB = Friedrich Wilhelm Blass,Die attishe Beredsamkeit, 2nd ed., 3 vols., Leipzig, 1887-1898
CJ = Classical Journal
CM = Classica et Mediaevalia
CPh = Classical Philology
CQ = Classical Quarterly
CR = Classical Review
Connor, NP = W. Robert Connor, The New Politicians of Fifth-Century Athens, Princeton, 1971
Davies, APF = J. K. Davies, Athenian Propertied Families,600-300 B.C.,Oxford,1971
*Davies, DCG = J. K. Davies ,Democracy and Classical Greece, Stanford, 1978
Davies, WPW = J. K. Davies, Wealth and the Power of Wealth in Classical Athens, New York, 1981
Dover, GPM = J. K. Dover, Greek Popular Morality in the Time of Plato and Aristotle, Berkeley, 1974
FGrH = F. Jacoby, Die Fragmente der griechischen Historiker, Berlin, 1923-
*Finley, AE = M. I. Finley, The Ancient Economy, Berkeley, 1973
*Finley, DAM = M. I. Finley, Democracy Ancient and Modern, New Brunswick, New Jersey, 1973 (柴田平三郎訳『民主義ー古代と現代』刀水書房、1991)
*Finley, PAW = M. I. Finley, Politics in the Ancint World, Cambridge, 1983
*Forrest, EGD = W. G. Forrest, The Emergence of Greek Democracy: The Character of Greek Politics, 800-400 B.C., London, 1966(太田秀通訳『ギリシア民主主義治の出現』平凡社、1971)
GRBS = Greek, Roman, and Byzantine Studies
Hansen, AECA = Mogens Herman Hansen, The Athenian Ecclesia: A Collection of Articles,1976-1983, Copenhagen, 1983
HSCP = Harvard Studies in Classical Philology
Hignett, HAC = C. Hignett, A History of the Athnian Consititution to the End of the Fifth Century B.C., Oxford, 1952
IG = Inscriptiones Graecae
JHS = Journal of Hellenic Studies
*Jones, AD = A. H. M. Jones, Athenian Democracy, Oxford, 1957
Kock, CAF = T. Kock, Comicorum Atticorum Fragmenta, 3 vols., Leipzig, 1880-1888
LGM = Liverpool Classical Monthly
Ober, FA = Josiah Ober, Fortress Attica,Defense of the Athenian Land Frontier, 404-322 B.C. Mnemosyne Supplement 84, Leiden, 1985
REG = Revue des Études Grecques
Rhodes, CommAP = P. J. Rhodes, A Commentary on the Aristotelian ‘Athenaion Politeia’, Oxford, 1981
SEG = Supplementum Epigraphicum Graecum
SO = Symbolae Osloenses
Ste. Croix, CSAGW = G. E. M. de Ste. Croix, The Class Stuggle in the Ancient Greek World, Ithaca, 1981
Strauss, AAPW = Barry S. Strauss, Athens after the Peloponnesian War: Class, Faction, and Policy, 403- 386 B.C., Ithaca, 1986
TAPA = Transactions of the American Philogical Association
ZPE = Zeitschrift für Papyrologie und Epigraphik

(2021/10/04)


 第一章 問題と方法

 前6・5世紀そして前4世紀の間に、アテネのポリス〔訳注1 〕で発展した政治組織の形態は、ギリシア・ローマ世界の中で最もよく知られており、非常に頻繁に引き合いに出されるものであるが、それはまた同時に、最も理解されていない遺産の一つである。アテネ人の政治生活を現代人が理解するには、大きな障害が行く手をふさいでいる。その問題は、現代が古典期のアテネから非常に年代が隔たっていることで生じているが、古典期のアテネが、感情的に近いことによって問題を一層大きくしている。今日、「民主主義(デモクラシー)」の用語は、ほとんどいつも肯定的な含みを携えている。民主政治—それは前5世紀では例外的なものであり、古代の哲学者にとっては非難される考えであり、18世紀の政治議論では乱用された用語である—は、現在、ほとんど普遍的に人類の政治機構として、(すくなくとも、国家の指導者の公の意見としては)最も望ましい形態として受けいれられている。(註1 )もちろん、現代の民主主義の支持者のすべてが、民主主義に好意的な演説をした時に、まったく同じ事を言ってはいないし、またどんな民主国家の市民も、どのようにして民主主義を操作すべきかについて、古代のアテネ人の見解と完全な同意を見いだすことはほとんどありえないだろう。しかし、またいくらかの共通の土壌は存在していた。

 A. 民主主義:アテネ人と現代人

ギリシア語のデーモクラティア〔訳注 2〕は、文字通り「国家において民衆(デーモス)〔訳注 3〕が、政治的な権力(クラトス)を保有する」と翻訳することができる。普通の言説(ディスコース)では、現代の民主主義者にとっては、「民衆」はアテネ人、つまり市民のすべてを意味し、市民権は財産保有ではなく、生得権によって決定されていた。(註2 )現在と同様に、古代の民主主義の魅力のほとんどは、次の二つの密接に関連した考えから来ていた。第一に、すべての市民は、社会・経済的立場が異なっていても、国家政策の決定に同等な発言権を持つということ。第二に、エリート市民の特権は、エリート全体としては、特権が市民の共同の権利と衝突した時には、あるいは非エリートの個々の権利と衝突した時には、限定され制限されねばならないというものであった。私が思うに、現代の民主主義の擁護者のほとんどは、デモステネス(第24弁論、第171節:以下、デモステネス24.171と略)〔訳注4 〕が民主的アテネのエートス(精神)を次のように特徴づけたのに対して、異議申し立てをしないであろう。つまり、弱者を哀れむこと、強力で有力な人が暴力的に他の市民に対して行動するのを禁止すること、市民大衆が権力に残酷な扱いをするか、または、大衆が権力に従属するかのいずれかを黙認するのを拒絶することなどである。

しかし、原則的には類似しているにも関わらず、実際上は依然として重要な相違点がたくさんある。現代の民主主義は、国家、市民、政府の概念の間に明確な区別を仮定している。現代の民主政治の日常の仕事は、一般にエリートによって運営されていて、そのメンバーが、国家という抽象的存在に、その継続的な存在に必要な経験とリーダーシップを提供している。指導的なエリートのメンバーの中には、民衆によって代表として選挙で選ばれた者もいる。こうして、民衆(一般市民)は、政治権力の大部分をエリート(政府)に委任して、また、エリートのメンバーは、国家の利益のために政策を立案することを求められている。

現代の民主主義国家の統治エリートには、選挙で選ばれた代表者に加えて、通常、行政上の役人も含まれている。少なくとも、一部の者は選出されずに任命された者であり、また専門の司法裁判官が含まれている。政府のそれぞれの役人の職務は、比較的明瞭であり、また多くの場合法的に規定され制限されている。さらに、現代の民主主義の国家公務員の職掌上の任務は、かなりはっきりと弁別される傾向にあった。ゆえに、個々の役人はリーダーシップや行政上の職務を履行することを要求されたが、必ずしも社会全体としてふさわしいあらゆる道徳的価値の手本となることを求められなかった。政府組織それ自体の中においても、概して、立法・行政・司法の分野の間で権力ならびに責任がかなり明確に分割されていた。一般市民は、公務員を投票することで、国家の統治に対する唯一の直接責任があったが、通常、男性と女性両方で構成されている。もはや大規模な奴隷階級はなく、現代の民主主義国家の中には、在留外国人があまり苦労もなく完全な市民権を獲得することができるものもある。(註3 )

一方、アテネ人の方はどうかというと、市民権はアテネ人を祖先に持つ自由民男性に限られていた。女性、奴隷、そして在留外人など成人の総人口の大多数は、政治生活の参加から除外されていた。結果として、アテネの「政治社会」―すなわち、参政権保有者のコミュニティー ーは、現代の民主主義の場合である「全体の社会」と厳密には同じ広がりを持ってはいなかった。次のページで、私は、―明示的かつ暗示的に―それによってアテネの政治社会が機能した規則と手続きを分析するつもりである。また、私は、どのようにしてその政治組織の様式が、アテネのポリスを社会として機能させるのに役立ったかを明らかにするつもりである。しかし、読者はここで、次のことを心に留めていなければならない。アッテイカ〔訳註5 〕では、多くの人が生活していて、彼らはこの本で記述された社会・政治的なバランスの取れた行動の直接の受益者ではなかったということである。実際、市民間のある程度の社会的調和が成功したので、政治権利のない人たちが自らの立場を向上させる可能な手段として、社会的無秩序を利用する機会はほとんどなかったことは確実であった。

市民が政治的に凝集していることは、一つにはポリス内の非市民グループに対する抑圧の所産であった。クルト・ラッフラウプは、次のように言っている。「市民の大多数の忠誠と献身を獲得する際に、民主主義が成功するかどうかは、一方では、市民(たとえ、彼らの社会的地位が何であろうとも)と、他方では、すべての非市民の範疇との間に、顕著な相違点を強調することに主としてかかっていた。」(註4 )「主としてかかっていた」というのは誇張だと私には思われるが、けれども、非市民に対する市民の集団の利益は、間違いなく市民に彼らの間で協力する動機を提供した。また、「他者」についての恐れ(意識しているにせよ、無意識にせよ)は、アテネ人に彼ら自身の中にあった多少の階級や地位の不公平を、大目に見ることを納得させたかもしれなかった。

政治分野からの「他者」の排除は、要するに、ギリシア・ポリスの政治社会の融合において、非常に重要な要素であった。そして、下記(特に第六章C)で、アテネ人の市民団それ自体の定義に関して、いくつかの排他性の影響を考察するつもりである。しかし、排他性が、アテネの民主主義を有効に機能するのに必要であり十分な理由であったこと(すなわち、民主主義は排除の直接の所産であったこと)を立証するためには、在留非市民に対するアテネ人の処遇が、非民主的なギリシア・ポリスの慣行とはかなり異なっていたことを論証する必要があるであろう。ただし、アテネ以外での他のポリスの社会関係についての証拠が不十分な状態を考慮すれば、その問題は厳密な実証に基づいた証拠を適用することは不可能である。しかしながら、注目に値するのは、民主主義のアテネが、スパルタに存在した非自由民に対する組織的なテロリズムの類を行わなかったことである。(註5 )アテネ人の法律と慣習は、女性を下位の社会的立場にとどめ、政治的生活を否定した。しかし、アリストテレス(『政治学』1300a4-8, 1322b37-1323a6)は、労働している(アポロイ)市民の妻が、人前に出て行くのを止めることは不可能だったので、女性の行動を監督する役人の委員会は、貴族制の性格のものであって民主政的ではないと指摘している。(註6 )

政治権利からの女性、奴隷、そして外国人の排除は、古典期のギリシア文明を正しく理解したいと望んでいる誰でもが、直面しなければならない。しかし、非市民の抑圧は、アテネの社会・政治的な発展の独特の方向を説明するには十分ではない。自由民の男性が参政権を制限されているのは、現行の基準では確かに非民主的であるが、ほとんどの西洋の国家が、つい最近に付与した権利をアテネ人が認めないという理由で、アテネの政治体制に民主主義の名前を与えないのは歴史的視点が欠けている。(註7 )アテネ人の排他主義者の態度を遺憾に思うかもしれないが、新しい民主的な政治秩序の基本的な重要性について、道徳的非難でその評価をあいまいにすべきではない。複雑な社会を記録した歴史上、初めて、すべての生え抜きの自由民男性は、才能、家族関係、あるいは富みに関係なく、国家政策を討論し、かつ決定する平等な権利を持った政治的に同等の人であった。

アテネの民主主義が急進的な性質であることは、それが発展した時代の基準と比べた時に明らかである。古代のギリシアの歴史を通して、寡頭政は依然ポリスの政体の最も一般的な形態であった。アリストテレスによれば、彼は色々な政治体制の定義の方法についての問題を考えるのに専念することが多かったが、寡頭政は、市民権のために財産資格があるところはどこでも関係しているので、富裕者層が国家を支配している(『政治学』1279b17-1280a4, 1309b38-1310a2;『弁論術』1365b31-33)。しかし、彼は別のところでは(『政治学』1317b39-41)、寡頭政は生まれ(ゲノス)、富(プルートス)、そして教育(パイデイア)によって定義されると述べている。ギリシアの政治文化の限界(パラメーター)を考慮すれば、なぜ、アテネ人は女性、奴隷、そして外国人に政治的権利を与えることに失敗したのかを尋ねることよりも、どのようにしてアテネ人が成人男性の間で政治的平等を獲得したのか、またどのようにしてエリートの政治特権を制限したのかを問うことの方が有益である。(註8 )

アテネの政治組織の形態が、現代の民主政治と異なっていたのは、強力な統治エリートがいなかった点と、選挙で選ばれた代議員がいなかった点である。選挙は、能力が証明済みの人々に有利であるので、潜在的に非民主的だとみなされた。(アリストテレス『政治学』1273b40-41, 1294b7-9)。ほとんどの役人は抽選によって選ばれた。抽選された役人は、きわめて制限された権力しか持たなかった。役職は一般に同僚制であり、1年任期で、司法の審査を受けねばならなかった。アテネ国家の主要な意思決定機関は、民会〔訳註 6〕であった。民会は、すべての市民に開かれていて、頻繁に(前4世紀の後半には、年間40回)国家の政策を審議し決定するために開かれた。市民なら誰でも、民会で仲間の注意を獲得して引きつけておくことができたならば、仲間に国家の政策についてアドバイスをする権利を持った。プラトン(『プロタゴラス』319d)が述べているように、「誰でもが、立ち上がってアドバイスを提供することができた。大工、鍛冶屋、靴屋、商人、船の船長、富者、貧者、貴族、あるいは卑しい生まれであれ…。」討論の後には、民会に出席の市民は、特定の提案について投票をおこなった。従って、単純多数派が国家の政策を決定した。民会での各会議の議題は、他の役人と同じく毎年抽選で選ばれた500人の市民の評議会(ブーレー)〔訳注 7〕によって設定された。5世紀の終わりまでに、すべての民会の決定は、即座に法的な効力を有した。また、当時、司法審査〔違憲立法審査〕の手続きが制定された。しかし、民会の決定を審査するいくつかの陪審団は、すべてのアテネの陪審団と同じく、ほとんど、アテネ市民の全範囲(スペクトルム)から選ばれた。つまり、陪審団は、広範な(一般的に200人から1,500人の)30歳以上の市民の陪審員団であり、彼らは評決に際して民主的に投票した。デーモス〔民衆〕は、その意志は民会ならびに裁判所両方の判決で表明されたが、アテネの主人であった。政治指導者の役割も、現代の諸国家での規範的役割に比べれば、定義は明確ではなく、その社会的基盤(マトリックス)との区別も少なかった。政治組織の内には、正式な権力分割もなく、国家、民衆と政治組織の間に、どんな明確な区別もなかった。このように、たとえアテネ人が市民権政策で、現代の民主主義よりか包括的でなかったとしても、彼らは統治組織においてより平等主義者であった。アテネは直接民主政であって、その国家組織の様式(モード)は、現代社会には存在していないと思われる。(註9 )

アテネと現代の民主主義の原理と実践との間の、基本的な類似点と相違点のいくつかを確認することは重要である。古代の民主主義に関する現代の研究成果は、その類似点を過度に強調しすぎる傾向が多かった。結果として、現代の西洋民主主義は、議会を背景とした多元的な政党制を基礎としているのが多かったので、学者の中には、アテネの政治家を党派に分類する者もいた。そして党派の綱領は詳細に描写され、「ポリス」での党派の成功と失敗は、苦心して詳細に記録され、際限なく論議された。そして、その結果はアテネの政治生活について完全に誤った見解が生まれている。(注 10)しかし、もしその相違を過度に強調し、原則として類似点を無視するならば、古代の政治活動の研究は、空虚な好古趣味や、死語の専門家による独創性に乏しい思考になるであろう。そして、そのことは、時事問題に関心を持っている人々によって無視されかねない(また、無視されるであろう)。(注11 )こうした状況は、嘆かわしいばかりでなく有害でもある。アテネの例は、社会・政治機構の一つの形態としての民主主義の性質と可能性について、現代世界に語るべき多くのものがある。アテネは、現代の西洋世界の経験だけが、現代的な価値があるという文化的狂信的排外主義者(ショービニスト)の議論に対する矯正手段として有用である。理論と実践における類似点と相違点の両方を明確に識別することで、アテネの民主主義をそれ自体の言葉で説明可能にすると同時に、すでに民主主義国家の市民である人々、または近い将来にそうした国家の市民になるであろう人々によって、政治分析と行動のためのアクセス可能なツールにすることができる。

アテネの民主的「国制」(便利ではあるが、アテネの政体について明白に認められた原理と実践を記述する用語としては不正確な用語)は、生まれつきの賢明さと、集団の決定という拘束力のある性質、市民の自由、そしてすべての市民の平等を強調した信念体系によって支えられていた。しかしながら、自由と平等は共に制限されており条件付きであった。個人の自由は、人は自分自身より集団の利益を大事にするという必然性によって制限されていたし、平等は政治の範囲に限定されていた。アテネ人は、国家に対する個人あるいは少数派の奪うことのできない「拒否権」(個人の問題に関して政府の干渉からの自由)の原則—現代の自由主義(リベラリズム)の中心教義ーを決して発展させなかった。かれらはまた、社会的優位性は財産の平等化からもたらされるーギリシアの哲学者によって論じられた考え、及びマルクス主義の社会政治理論の礎石―ことを確信してはいなかった。(注12 )財産保有の不平等性に加えて、アテネ人は生まれに基づくー貴族の伝統の結果としてーまた能力に基づく―天賦の才と教育の機会の結果として―不平等な身分(ステータス)を受け入れ続けた。アテネにはエリートが存在し、エリートのアテネ人は自分の個人的地位を高めるかもしれないと考えたものは何に対しても、お互いに競い合う傾向があった。地位が上昇したすべての勝者に対して、必然的に地位が下がった敗者がいたので、こうした競争は激戦であった。(注13 )ゆえに、アテネの政治社会の内部には、重要で解決し難い緊張が存在し続けた。そしてそれは、結果としてコミュニティーと個人の間の、大衆とエリートの間の、エリートと非エリート個人の間の、そしてエリートのメンバーの間での不和を引き起こす衝突になったかもしれなかった。集団が政治権力を持つことは、個人の自由と富者の財産に脅威を与えた。富、地位、エリートの能力は、非エリートの個人と集団としての大衆の両方に脅威であった。また、エリート内部の競争は、社会全体の安定性を覆す恐れがあった。

 B. エリートと大衆

アテネの政治社会の文脈の中で、普通の市民大衆とエリートの間の関係が、本研究の中心の関心事である。しかしながら、「エリート」を、そのメンバーが多様な並外れた利益を享受している比較的小さなサブグループ〔訳註8 〕と一般的に定義するなら、あまりに漠然としていて分析の目的には役に立たない。現代のエリートに関する社会学の議論は、2つの方法の内の1つでこの用語を使用する傾向がある。第一に、「エリート」は、組織あるいは国家を運営する凝集力のある支配的寡頭政を指して言う場合がある。この研究では、そうしたグループは、統治あるいは支配エリートと呼ぶつもりである。第二の現代のエリートの定義は、あまりはっきりとは政治権力とは結びついていない。こうした社会のメンバーは、次のような人である。(1) 標準よりはるかに高学歴の人(教育を受けたエリート)、(2) 標準よりはるかに裕福な人(上流階級あるいは富裕なエリート)、あるいは(3) 自らの生得権および/または特定の職業の遂行(あるいは忌避)に基づいて、社会の他のメンバーによって特権を受けるのにふさわしいと認識されている人(華族、貴族、あるいは地位のエリート)。「大衆」という用語は、エリートのメンバーではない、社会のすべてのメンバーを指すのに用いられるが、ここではとりわけアテネの政治的コミュニティーの非エリートのメンバーについてのものである。つまり、政治権利を持ってはいるが、他の点では「普通の人」であった市民である。(注14 )アテネの市民大衆は、古代の史料にはト・プレートス(大衆)、ホイ・ポロイ(多数)、あるいはーもっと侮辱してーホ・オクロス(群衆)と記述されている。(注15 )

恐らく、ギリシアの大衆とエリートの関係を最も良く分析した古代の書物は、アリストテレスの『政治学』である。アリストテレス(『政治学』1291b14-30)は、ポリスの自由な全住民は、普通の市民の大部分(デーモスーこれは「全市民」という通常の意味よりか、もっと限定された意味であることに注意)と、エリート(グノーリモイ)に細分することができると述べている。彼は続けて、後者のグループは、富(プルートス)、高貴な生まれ(エウゲネイア)、アレテー(定義するには難しい用語であるが、一般的に「徳」あるいは優秀さを意味する)、そして文化教育(パイデイア)の要素によって特徴づけられると述べている。

アレテー〔徳〕の道徳的カテゴリーを別にすれば、アリストテレスのリストは、現代のエリートについての研究者が用いたエリートの属性の配列に類似している。教育/富/地位は、多少形を変えてアリストテレスの他の所で、またアッティカの弁論家の幾人かによって繰り返されている。(注16 )3つの主要なエリートの属性は、古代の史料に様々に記述されている。富は(現代の社会の多くと同様に)エリートの地位の最も明確な指標であった。富のエリートの会員資格は、価値ある財産の所有権を証明することで、あるいは、著しく公的かつ私的に気前がよいかのいずれかによって証明されたかもしれなかった。高貴な地位は、それ自体の生得権への直接の言及と、貴族的な趣味、特にスポーツや競技への暗示によって示された。貴族は、ギリシア人が「実利的」と言っていた製造業や商業のような、品位を下げる仕事に参加するのを控えることが要求された。教育は、哲学やあるいはレトリックの正式の訓練からなるかもしれないが、それは文芸文化に精通することで、また人前で言葉巧みに語ることができることで証明された。

古代のエリートとエリートの属性の定義は、現代の定義と全体としてよく類似しており、アナクロニズムの直接の危険に結びつくことなく、現代の分析的なカテゴリーを用いることができる。社会学的モデルとカテゴリーを、慎重にかつ洗練された方法で進んで用いている学者は、アテネの政治社会学の理論的基礎の少なくともいくつかを提示している。(注17 )G.E.M.ドゥ・サント・クロワの記念碑的著作『古代ギリシア世界における階級闘争』は、今までで試みられた最も完全で正確な(少なくとも英語での)マルクス主義による古代社会の評価であるが、そこではアテネ民主主義の階級の役割の分析がなされている。(注18 )M. I. フィンリーは一連の論説や研究論文で、一部はマックス・ヴェーバーの身分(ステータス)と階層制(ヒエラルキー)に関する研究に基づいて、古代の特にアテネの社会・政治生活を解明した。(注19 )階級と身分は両方とも、有用な分析的な構成概念であり、そして市民集団の内での身分と階級の不平等の影響を検討することは、アテネの政治社会学を理解するにはきわめて重要である。けれども、フィンリーもサント・クロワも、アテネの社会生活及び政治生活において、一般市民とエリート市民の間の関係が機能上重要であったことを完全には説明することに成功してはいない。

現代の文献学者は、驚くにはあたらないが、ほとんどすべての現存するアテネの原典(テキスト)の作家は、アテネの教育を受けたエリートであったので、特にこうしたエリートに興味を持ってきた。多くの古典研究者は、主要な著作家は社会に直接の影響を及ぼしたであろうと考えている。ヴェルナー・イエーガーの作品は、特に三巻の『パイデイア』とデモステネスの伝記は、アテネの政治生活の中で教育を受けたエリートの重要性を、文献学者が強調しているそのふさわしい見本として選び出されるかもしれない。(注20 )しかし、イエーガーの思想は、社会学にあまり影響されていなかったし、ギリシア文学の他の研究者は、アテネの大衆が取った行動と教育を受けたエリートが生み出した思想の間の関係に関して、どちらかと言えばほとんど満足のいく研究を行ってきていない。古代の社会に言及している研究のすべては、暗黙の内にエリートと大衆両方を扱っているけれども、アテネ民主主義の分析の重要な要素として、エリートと大衆の相互作用を明確に定義しているタイトルの参考文献は驚くほど少ない。(注21 )

民主的アテネの大衆とエリートの相互作用についての研究が、比較的少ないのは、ある程度アテネのエリートを明確に見分けることが困難であることで説明されるかもしれない。「エリート」に関しては、「名望家(グノーリモイ)」の他に、ギリシア語の色々な一般的用語があった。彼らは「美にして善なる人(カロイ・カガトイ)〔訳註9 〕、「立派な人(カリエンテス)」「優秀な人」(アリストイ)、「幸福な人(エウダイモネス)」「すぐれた人」(クレーストイ)と呼ばれることもあった。ギリシアのポリス(他の場所と同様に)の能力、富、地位のエリートは、重なる傾向があったし、色々なギリシア語の用語で言及されているこれらのものが、ある特定のエリートの属性の所有者と見なされているのか、あるいはより広い属性の一群の所有者とみなされているのかどうかを判断するのは、時には困難である。(注22 )

問題をさらに複雑にしたのは、アテネ人がエリートに正式な政治特権を与えるのを拒否したことである。実際、通常かつ率直に言って、特別な国制上の地位を与えられた唯一の市民団のサブセットは、年長の市民であった。(注23 )富のエリートのメンバーが法的に区別されたのは、特別な特権によってではなく、国家への物質的な貢献に関して特別な義務を引き受けることに対する責任によってであった。(注24 )生まれのエリートは、特別な聖職を務めたかもしれないが、それが重要な特権として見なされていたとは思われない(第六章B 2を見よ)。平等主義のイデオロギーが支配的であったので、アテネのエリートはほとんどの種類の公共での誇示を思いとどまった。トゥキュディデス(『歴史』第一巻、第六章、第3節―第4節:以下『歴史』1.6.3-4と略)は、「富裕な市民は、当代のアテネ人の好みに従って、出来るだけ普通の市民の生活と同じように過ごしていた」と述べている。イソクラテス(3.16:大衆に聞かせる目的ではない弁論の中で)は、民主主義の政体においてその傾向があったように、エリートの人物(クレーストス)が大衆(プレートス)とひとからげにされること(ペレスタイ)を避けることができるゆえに、君主政を称賛していた。以下で見るように(第四章から第六章)、私的訴訟に巻き込まれたアテネのエリート訴訟者は、法廷でよく自らの地位を曖昧にしようとした。けれども、アテネ人は彼らの間でエリートを十分知っていたので、エリート市民が民主的役割を演じる企てに、実際にはめったに騙されなかった。アテネ人は、すべてのアテネ人は政治的に自由であるという確信に固執する一方で、ジョージ・オーウェルの『動物農場』の次の豚の修正されたスローガンのアイロニーを理解していたであろう:「すべての動物は平等である。しかし、動物の中には他の動物よりもっと自由なものもいる」。(注25)

オーウェルの「他のものよりもっと自由な動物」は、結局は、服装や住居の特権によって識別されて支配エリートを構成した。民主的アテネにおいて、同じような支配エリートが存在することは、仮定されることはあったが決して論証されなかった。(注26 )エリート市民は、確かに政治活動で活発な役割を演じた。将軍や専門の公的な弁論家は、概してエリート経歴の出身者であり、アテネの政治家は貧乏ではなかった。(注27 )、しかし、フィンリーが述べているように、「古代のアテネ人にとって、『我々』=普通の市民と、{彼ら}=支配エリートの間にはっきりした線を引くことは容易なことではなかったであろう。そして、そのことは今日の無関心な[民主的国家の市民]に応じて非常に頻繁に言及されてきた。」(注28 )アテネ国家の政治助言者と指導者は(少なくとも、ペリクレス以後)、真の支配エリートの存在にとっては必要であったすべて、つまり、官僚的基盤を継続的に統制することを、大衆に対してグループを凝集することを、そして意思決定と国家政策を統制するための手段を発展させることに失敗した。

上に引用したフィンリーのコメントは、いわゆる政治理論のエリート主義学派の理論〔訳注 10〕に応えていた。エリート主義の学者、特に、ガエターノ・モスカやヴィルフレド・パレートは、強力なエリートが社会制度内で発展し、そして最終的には社会制度を支配する傾向を強調した政治的行動についての見解を公表した。エリート支配は、いくぶんは強者が弱者を支配する自然の趨勢によって、またいくぶんは数の上では勝る大衆の当然の無関心ゆえに可能になった。(注 29)モスカとパレートの研究は、ロベルト・ミヘルスの非常に影響力のある著書『政党』によって補強されその重要性は強調された。ミヘルスの第一の命題は「寡頭政の鉄の法則」、すなわち、「明確な目的の達成のために努めるあらゆる種類の人間の組織の中において」、寡頭政が発展するという避けられない傾向。ミヘルスにとっては、「民主主義は、組織なくしては考えられないし」、その組織は、階層制の官僚制の発展に導くものであったが、それ自体は「保守的な潮流」の源泉であった。そして、その保守的な潮流は「民主主義の平野の上を流れ、そこで悲惨な洪水を引き起こし、その平野を見分けがつかなくしている。」本当の直接民主主義は、その中では純然たる多数が政策を決定するが、物理的要因の理由で(例えば、最も力強い弁論家でさえ、1万人の群衆に声を届かせることは生理的に難しい)また、一集団がそのメンバーの間で大きな論争を解決することができないという理由で、結局は不可能なことと断言された。それゆえに、ミヘルスは次のように説いた。「教育を受けた有能な個人のグループに、責務を任せる必要が常にあった。そしてこのグループは、ますます複雑になる官僚組織を管理下に置くことで、当然支配エリートに進化するであろう。」ミヘルスの「鉄の法則」の実証に基づく根拠は、20世紀初期の民主的な社会主義政党の研究であったが、彼は「法則」は国家の組織にも当てはまると考えた。(注30 )

ミヘルスの「鉄の法則」は(少なくとも暗黙のうちに)現代の政治社会学の中心教義になって、有効な実証に基づく異議申立をほとんど受けなかった。(注31 )アテネ民主主義の研究者は、ミヘルスもまた他のどのようなエリート主義の学者も、あまり引用してはいないけれども、私はアテネに支配エリートの存在を仮定している学者の幾人かは(直接、間接を問わず)彼らの思想に影響を与えられたと思う。(注32 )M. I. フィンリーだけが、エリート理論は、アテネの民主主義の理解に異議申立をし、同様にアテネ人の経験はミヘルスの寡頭政の鉄の法則の一般的な正当性に、経験的に異議申立をするかもしれないということを明確に理解していたように思われる。『民主主義—古代と現代』そして再度『古代世界の政治学』において、フィンリーは精力的にエリート主義の政治理論家の仮説を非難した。特に、民主主義において支配エリートの存在は、不可避のみならず望ましく、民主的国家の市民は生まれつき無関心であるということを論証しようとしている人々の仮説を精力的に非難した。(注33 )

フィンリーは、アテネで凝集力のある支配エリートの存在を否定するには、アテネの政治的リーダーシップの本質を再検討することが必要であることを認識していた。彼は、5世紀後半の上流階級の政治弁論家―民会ならびに法廷で市民に演説した「デーマゴーゴス」(デーマゴーゴイ:逐語的に「民衆の指導者」)ーに専心した。彼は、彼らを直接民主主義の意志決定過程における不可欠な構成要素とみなしていたので。フィンリーの「デーマゴーゴス」についての研究は、重要な突破口であり、アテネ国家における政治弁論家の構造上の役割が、さらに他の学者らによって明らかになった。(注 34)しかし、フィンリーも後に続く学者も、「構造上のデーマゴーゴス」モデルに内在する中心的なディレンマであると思われるものを直視しなかった。つまり、どのようにして、なぜ、アテネのデーモス〔民衆〕はエリート個人の政治的リーダーシップを合法として受け入れるようになったのか?しかも、彼らは明確に公共の演説でエリートの属性を引き合いに出しているのに。アテネの大衆が、色々なエリートのメンバーを指導者として受け入れたことはまぎれもない事実であるが、もし民主主義のイデオロギーが、基本的に平等主義であったならば、自分をエリートと同定するのを選んだ指導者の存在は、かなりの緊張を引き起こしたに違いなかった。さらに、教育を受けてかつ富裕なデーマゴーゴスは、決して支配エリートに進化しなかったので、支配するための「自然の」傾向と欲望のフラストレーションは、さらなる社会政治的緊張の源泉になったに違いなかった。(注35 )この研究の主要な主題は、大衆がエリートのリーダーシップを受け入れるようになったその方法と、大衆がエリート市民を反対勢力に追いやることなく、エリート市民の手に権力が集中するのを制限する手段を説明することにある。これらの方法と手段が明確に定義されて初めて、政治理論と行動の面で、直接民主主義は不可能であるというエリート主義の主張に対する経験上の異議申立として、アテネの例を用いることの実用的な意義を理解することができる。

 C. 社会政治的安定性の説明

ミヘルスの「寡頭政の鉄の法則」に照らして見た、普通の人とエリートアテネ人との間の緊張の確認は、どのようにしてアテネの直接民主主義が長期間にわたって存続できたのかという問題を引き起こす。ほとんど200年間、6世紀の後半から4世紀の後半を通して、アテネ人は多かれ少なかれ、自らを民主的に支配した。重大な中断は、5世紀末の二度の短い寡頭政の政変だけであった(前411/10年と前404/3年〔訳注11 〕)。前411/10年の寡頭政〔訳注 〕は、ペロポネソス戦争の圧力のもとで成立し、前404/3年の寡頭政〔訳注 〕は、ペロポネソス戦争でのアテネの敗北の後で、勝者スパルタ人によって押しつけられた。両方の場合とも、アテネ人は即座に寡頭政支配者を追放して、いつもの政治に戻した。前322年には、マケドニア人は、はるかに優れた軍事的力で、アテネの民主的な政治秩序を寡頭政に取り替えた。しかし、4世紀後半から3世紀初期にかけて、マケドニア軍の示威行動が繰り返された後でさえ、アテネ人は民主主義を回復するために戦い続けた。歴史記録は、民主主義の安定性は惰性や歴史の幸運の結果であったと考えることを不可能にしている。

民主主義の安定性の問題は、次の二つの絡みあっている問題に分けられるかもしれない。最初の問題は、どのようにしてアテネ人は現にある不平等に、特に富裕者と貧乏人の間の不平等に対処することができたのか。階級の対立緊張はギリシアにあっては風土病であって、よく暴力や混乱をもたらす政治闘争(スタシス)の一因となった。そしてその暴力と政治闘争は、アルカイック期と古典期のポリスに共通のものであった。(注36 )民主主義が存在していること自体が、ほんの一部分ではあるが、アテネの社会的安定性の問題に対する解決策を提供している。実際、民主政治は、貧しい市民に富裕な仲間の資産力に対してある程度の保護を与えて、それにより階級の敵愾心を和らげた。(注37 )しかし、エリート訴訟者は普通の相手に対して職務上有利であり、富裕者が享受した社会的特権に対して、貧しいアテネ人の敵意と憤りは決してなくなりはしなかった。そしてまた、民主主義が存在したとしても、それ自体は、富裕層が資産力に見合い貧乏人に対して財産の安全性を保証することができる政治立場を求めて運動するのに積極的ではなかった理由の説明にはならない。

第二の問題は、どのようにして直接民主主義が、制度化された指導者なしで機能することができたのかを説明することである。どのようにして数千の市民が、特別な知識も教育もなしに、長い期間にわたって、複雑な国家のために一貫した合理的な政策を設定できたのか?これらの問題を解決することは、古典期アテネの政治社会学を理解すための鍵である。S. M .リプセットが述べているように、「もし、社会の安定性が、社会学全体の中心課題ならば、特別な制度的構造または政治体制—民主主義の社会的条件ーが、政治社会学の最大の関心事である。」リプセットは続けて次のように指摘している。「安定した民主的体制は、分裂の源が欠かせないので、支配的地位をめぐって闘争があるであろう…しかし、合意ー権力の平和的『行為』を可能にする価値体系―なしには…民主主義はあり得ない」。(注38 )それゆえに、民主的安定性の質問に答えるために、アテネの民衆の権力の本質を説明する必要がある。権力は単純ではない。デーモスのクラトス〔権力〕を正しく説明するには、市民権のより明白な要素と物理的な力の現実と脅威だけでなく、権威と正当性、イデオロギーとコミュニケーション、個人間と人種を異にした集団間の関係性、互恵主義、さらに異種性まで含まねばならないだろう。(注39 )

どのようにして、なぜ、アテネの民主主義がそのようにうまく機能したのか、というのは、私が思うに、ギリシア人による自己を意識した政治理論の発展をもたらした最初の質問の一つである。(注40 )それはギリシアの歴史の主要な問題の一つであり、多くの答えが提案されてきた。文献を完全に通覧することはここでは不可能であり、あまり目的にかなわないだろうが、最近の調査の輪郭のいくつかを、簡潔に概略を述べることができるかもしれない。先に進む前に、私はここでアテネの社会政治秩序の仕組みに関して、十分なまた適切な説明を提供するのに失敗していると非難する多くの作品が、後の章で頻繁に是認して引用されるであろうことを指摘しなければならない。アテネ民主主義についての新たな理解を試みることは、実際、研究成果の面と同時に、その問題の永続的な重要性を明らかにするという道徳的献身のゆえに、こうした巨人である人々の肩の上に立つことである。

C.1 民主主義の現実の否定

アテネの政治秩序の存続を説明する最も単純な方法は、真の民主主義が、かってアテネに存在したことを否定することである。つまり、大衆は決して真の政治権力を持たなかったと主張することである。例えば、ライオネル・ピアソンは、アテネの党派政治についての論文の中で、次のように論じている。「ペリクレスの死の時まで(429年)、重要な外交政策の問題は、10人の将軍の委員会によって処理されていたのに対し、デーモスは国内の政治だけを支配していた」。ピアソンは、次のように示唆した。ペリクレスが何年間も将軍職を勤めたことで国内政策に関与するようになり、そして彼が以前は別々の2つの分野を混合したことが、デーモスに彼の死後国外政策に手を出す気にならせた。その結果は無政府状態であり、そうして「旧い民主主義は死んだ。」(注41 )しかし、アテネにおいて、別々の国内及び外交の分野についての職務が存在したという証拠はまったくなく、また将軍の委員会が、かって独立した政策決定権を持っていたという証拠もない。古典期のアテネは決していかなる期間でも、無政府状態に近づく状態に陥ることさえなく、またその政治はペリクレスの死後、100年以上もの間多かれ少なかれ効率的に機能した。ピアソンの議論は、「自由な言論や民会の権力が、広範な問題に広がっていたなら、アテネの民主主義が1世紀も変わっていなかったことは信じられないことである」というアプリオリな仮定に基づいていた。(注 42)従って、彼の論文は、実際には民主主義が機能した理由の説明ではなくて、アテネの政治の本質がどうであったかについての空論であった。そして、それはアテネの政治は真に民主的ではなくて、それほどうまく機能していなかったであろうという推定に基づいていた。

より詳しいが、同様に不十分な、アテネにおける真の民主主義の存在に対する反対論を、R. A. ドゥ・レイが、アテネの評議会についての本で展開した。ドゥ・レイは、政治において評議会が「上級のパートナー」であり、それゆえ最も重要な政策決定機関であったと論じた。民会は、下級のパートナーとして、評議会が作成した予備審議案(プロブーレウマタ)〔訳注14 〕に目くら判を押すことを担当した。評議会は、5世紀の後半までは貴族や富裕者によって支配され、その後は、「中流階級の」政治家によって支配されていた。こうした政治家は、4世紀には国家の中に国制上の地位を与えられ、支配的エリートを務めた。(注 43)「中流階級の政治家」と推定上の国制上の地位はひとまず置いておいて、私は、そのことは下記(第一章 C. 5)で考察するつもりである。A. W. ゴンムが、ドゥ・レイの本が出版される数年前に発表した論文で論証したように、評議会がアテネを支配したという考えは基本的に誤っている。ゴンムは、主な政治演説は、評議会ではなく民会で行われたと述べることで、民会が真にアテネを支配したと主張した。そして、彼は、団体は会員の連続性や団体のアイデンティティがある場合にのみ支配することができると指摘した。(注44 )どちらもアテネの評議会には無関係であった。すなわち、評議会は会員が毎年変わったのであるから。最近の研究成果は、ゴンムの一般的な結論を裏づけている。評議会の議題設定機能は、確かに民主的な意思決定過程において必要要素であったけれども、また評議会は国家業務のいくつかの専門事項に責任があったが、最終的そして最も重要な意思決定機関は民会であった。すなわち、民会は評議会員が提案した勧告を頻繁に修正したり、変更したり、または完全に拒絶した。(注 45)

C.2 国制および法的説明

M. I. フィンリーは、ドゥ・レイの研究を「国制および法律の罠に陥った」例として引用した。つまり「単なる形式だけの……議会の仕組みだけの分析によって」政治を理解することが可能である、と想像している基本的な誤りの例として。(注46 )M. H. ハンセンは、立法制定と政策決定の間の関係を、広範囲にわたって著述している。例えば、「立法委員(ノモテタイ)〔訳註 15〕」の委員会、民衆裁判所、民会、および個々の市民の間の権限の分割を、アテネ国家の主権の中心を、また概して4世紀のアテネ国家は国制上「過激」な民主主義なのか、あるいは「穏健」な民主主義なのかどうかについて、などを著述してきた。ハンセンは、4世紀の民主主義は、一般に5世紀よりも「穏健」であって、5世紀の後半と4世紀の初頭に精巧に作り上げられた民会と民衆裁判所の権限の分割のせいで、民会はその究極の主権を失ったと結論づけている。(注 47)主権の論争は、多くの議論を生み出した。マルティン・オストワルドは、5世紀後半の国制上の改革の結果として、「法の主権」は民衆の政治的主権に取って代わった、とハンセンに同意している。R. シーリーはデーモクラティア〔民主政治〕は決して大衆の主権を含んではいなくて、むしろ「法の支配」を意味していたと論じた。シーリーによれば、アテネはそれゆえ共和政であり、民主主義ではなかった。(注 48)は、私は以下(第三章E. 4と第七章C)で主権の論争についての問題に戻るつもりである。ここでは、最近の議論の多くが、「国制および法律の罠」に陥っているように思われると言うにとどめておく。権力の分割を提起する試み、主権の単一の中心を見つけるための試み、そして「法の支配」を体系的に述べる試み―その「法の支配」は、表面的で、包括的で、人々の意志に対立していたのだが、それらの試みは、私が思うに、アテネの民主主義の本質を理解するのには役に立たないであろう。というのは、アテネ人自身は、決してこうしたやり方に沿って考えも行動もしなかったからである(注49 )法律と国制の形態は、実際重要であり、私は頻繁にそれらに話を向けるつもりである。なぜなら、それらは両方ともアテネ民衆の政治態度を反映していたし、その後影響を与えていたからである。しかし、法律自体は、いつ法律が執行されるべきであるか、またいつそれらが却下されるべきであるかについての決定に至る思考過程ほど重要ではないかもしれない。国制は、フィンリーの言葉によれば、いぜん「表面現象」であり、アテネの社会政治的安定性のための理由を理解しようとするなら、社会のレベルの、その表面の下に入らねばならない。(注50 )

C.3 帝国

フィンリー自身は、深くそして真摯にアテネの民主主義の社会的ルーツについて考察したが、安定性の問題についての解答を経済の領域に求めた。彼は少なくともある程度まで、アテネ帝国(前478〜405年頃)が存在したがゆえに、民主主義を財政的に可能にして社会的緊張が減少したと仮定した。帝国は、富裕者と貧乏人双方に物質的に恩恵を与えた。前者には投資先を提供することで、後者には土地(海外のクレルーキア、すなわち市民団の植民)と仕事(アテネ海軍のこぎ手として)を与えることによって恩恵を与えた。さらに、国家は自国の地元の財源の外部からの収入源を(特に貢納という形で)利用することができたので、上流階級に極端な経済的圧力を加えることなしに(法外な税という形で)、貧しい市民に政治への参加のための(陪審員や役人のような)給金を支払うだけの余裕があった。(注 51)

アテネの民主主義は、帝国に依存していたという一般論は、古代にまでさかのぼる。(特に、伝クセノポンとトゥキュディデスを参照。)その議論の主要な問題は、フィンリーがその論争を再開する前によく認識されていた。民主主義は帝国の崩壊後に403年に回復して、アテネ国家はその後、80年以上にわたって帝国の収入なしに民主主義として生き残った。(注 52)フィンリーは、帝国が民主主義を推進したという主張の難点を承知していたが、帝国が消滅した時に、そのシステムは「あまりに深く根付いていたので、あえて誰もそれを置き換えることを試みなかった…」と述べた。(注 53)間違いなく、これは問題を巧みに避けている。帝国の崩壊後の10年間の内に、アテネ人は実際には、民会への出席手当を導入することで、貧しい市民が政治に参加できるのを保証する財政的義務を拡張した。(注54 )帝国の収入が5世紀の安定性の重要な要素であったならば、その収入を失った後に、それほど長く安定性が維持できたことは、とてもありそうもないように思われる。恐らく、民主主義の発展の経済的負担を軽減するための帝国がなかったならば、アテネに本格的な「過激な」民主主義は存在しなかったであろう。しかし、4世紀に民主的な形態の政治が継続的に成功した理由について、さらなるいくつかの説明が必要である。実際に、フィンリーが5世紀の民主的国家への帝国収入の社会的意義を確認したので、404年以後の時代のアテネの社会的かつ政治秩序の安定性のためには、いくらか違う説明を見つける必要性を浮彫にしている。

C.4 奴隷制

第二の重要な経済的議論は、民主主義と奴隷制の普及を結びつけることに基礎を置いている。M. H. ジェイムソンは、アッティカでの多数の農業奴隷の存在を主張して、次のように示唆した。多数の田園の市民が政治に参加するには、市民がその義務を遂行するために、都市でかなりの時間を費やすことができる経済的資金を、労働によって提供してくれる奴隷を所有した場合にのみ可能であったであろうと。(注55 )ジェイムソンの議論は(ピアソンの議論と同じく、上記第一章C.1)、政治の安定性を説明するというよりも、その制度なしには安定した民主的政体は不可能であると仮定することによって、制度の存在を示そうとしている。

ジェイムソンの民主主義と奴隷制に関する結論は、サント・クロワによって支持された。彼は広く行き渡った農業奴隷制の存在は、民主主義の社会的安定性を説明するのに役立つと主張した。(注56 )先に進む前に、安定性/奴隷制の議論は、異質の考察から区別する必要がある。サント・クロワがアテネでの広範な数の農業奴隷を確認するのに持った関心は、マルクスの仮説的な古代の「生産の奴隷様式(モード)」の妥当性を実証的に論証したいという願望と、古代ギリシアの最も文書で証明された国家において、明白な階級闘争がなかったことを唯物論の言葉で説明する必要性によって制約されていた。しかしながら、安定性/奴隷制の議論は、マルクス主義の理論から独立して作られたのかもしれない。私が、サント・クロワの民主主義と奴隷制の問題についての議論を力説するのは、私には最近の文献の中で最も洗練されているように見えるからであり、マルクス主義のあやつり人形を打ち負かすためではない。(注 57)より広範囲であるが別の問題は、全体としてのギリシア文明は、奴隷労働に「基づいていた」のかどうかである。この質問は、私は生産の経済様式と文化の間の一般的関連ではなく、アテネの政治経験の明らかな独自性を説明しようとしているので、現在の研究には瑣末な意味しか持っていない。(注 58)

アテネの政治的安定性が直接に、または間接的に奴隷制と関連しているかどうかを決定することは重要である。奴隷制がアテネの政治に重要であったという間接的主張は、次のように形づくられている。多数の奴隷労働者の存在は、経済的余剰を生み出し、その一部は課税を通して国家によって調達されて、民主政体の費用をまかなうために使用された。次の点 、(1)アテネにはかなりの(たとえ、その数を明確にはできないとしても)奴隷人口が存在した。(2) 奴隷は余剰を生み出すことが出来た。(彼らが消費したものより以上の富を)、そして(3) 国家は余剰の富みに課税する権限を有していた。以上の点が確実なものであるとすれば、この間接的主張は反証の余地はない。しかし、それは、必ずしもアテネの社会政治的安定性の根源(ルーツ)について、多くを語ってはくれない。もし、ジェイムソンの結論が正しくないなら、またほとんどの奴隷は、比較的少数の富裕な人の集団によって所有されていたなら(市民であれ、在留外人であれ)、その問題は、経済的なものに関係している。つまり、どのようにしてアテネの富裕者はお金を稼いだのか?この質問に対する答えは、本質的に興味深いものであり、また色々な答えが提案されてきたが、それはアテネのエリートと市民大衆との間の社会的和解も、直接の民主的意思決定決の過程も、どちらも十分に説明しないであろう。(注 59)

安定した民主政体と奴隷制の間に、直接のかつ因果関係があったことを論証するためには、アテネのかなりの割合の市民が奴隷を所有していたことを、そして、それによって、彼らが民主政体に積極的に参加するための十分な余暇を得ていたことを、そして、彼らが私有財産を保護する安定した社会秩序を維持する既得権を手に入れていたことを、証明しなければならない。奴隷所有人口は、民会に出席して、陪審員として席を占め、かつ役人を務めた多くの非エリートアテネ人を含んでいることを明らかにしなければならない。アテネ人の大多数が土地を所有し、少なくとも市民人口の半分が田舎に住んでいたとすれば(下記、第三章E. 1を見よ)、農業奴隷は一般的なことであったことを明らかにすることは、同様に欠くことのできないものである(サント・クロワが認識していたように)。(注 60)非エリートアテネ人によるものでも、平均的なアテネの農民によるものでも、どちらも広範な奴隷所有を証明することはできない。利用可能な証拠が、ジェイムソンとサント・クロワによって整理されたが、どちらも、その問題を実証的に立証することはできなかった。他の学者は、同じ一連の証拠を調べて反対の結論に達した。(注61 )私は、ジェイムソンとサント・クロワが、アッテイカでの広域にわたる農業奴隷の所有に関して(市民参加も、階級闘争がなかったことも、いずれも多くの小自作農が奴隷を所有したという仮定によってでなければ説明できない)、アプリオリな議論に根拠を与えた仮定を、この研究の中で反証するつもりである。その一方で、彼らの仮説は、奴隷所有は耕作地が小さいことや農業労働が季節的な性質である事に照らして、平均的アテネ農民にとっては経済的に意味をもたなかったであろうという強力な議論を敵に回すかもしれない。(注 62)要約すれば、アテネの社会と経済にとっての奴隷制の重要性は、過小評価すべきではないが、動産奴隷制と社会的安定性または民主的決定の間には、直接の因果関係はアテネでは論証できない。(注63 )

C.5 中流階級の中庸とアッティカの資源

複数の専門家からは、すべての重要な統治団体で、特に民会と裁判所において「中流階級」の市民が多数を占めていたことで、民主主義は安定していたと論じられている。ここでの問題は、特定できる階級利害と強力な政治的発言力を持った広範な中流階級が、実際にアテネに存在したかどうかである。古典期のアテネに関して、正確な富/人口曲線を描く証拠はないが、ギリシアの著作家は、中流階級が広範囲に発達したという概念を持ってはいなかったように思われる。概して、史料は「富裕者」と「貧乏人」について述べているが、前者は余暇階級を、そして後者は生活のために働かざるを得ない人々を意味していた。(注64 )ギリシア語の富裕者/貧乏人の用語上の二分法は、富/人口曲線がかなり急勾配であったことを暗示しているが、それでも富の面で中流の領域に落ちる人もいくらかはいたであろう。こうした「中位」の市民が、国家との関係で自らをどのように見たのかを、どのようにして彼らは生計をたてていたのかを、そしてどの程度まで彼らはアテネの社会ならびに政治プロセスを安定化させるのに役に立ったのかを尋ねることは理にかなっているかもしれない。

A.H.M. ジョーンズの著書『アテネの民主主義』は、アテネの仮説上の「中流階級」の影響に関する現代の議論を明確にするのに役立ったが、彼は人口統計学の分析に基づいて中流階級の存在を主張した。ジョーンズは、ペロポネソス戦争によるアテネの敗北後、最貧の市民は経済的圧迫により移住を強いられたと仮定して、アテネの市民人口の規模は、5世紀後半から4世紀前半に急激に減少したと述べた。それゆえに、彼は、人口は約2万1千人の市民で非常に安定していたと論じた。これらの内6千人が戦時財産税(エイスポラー〔訳註 〕)を支払うのに十分安な余剰収入があり、こうした税金の支払者が、政治を引き受けた人たちであった。そこで、人口統計学の要素は「ますます4世紀の民主主義の中産階級の色調」を説明するのに役立った。(注65 )

431年と403年の間に人口減少が見られ、恐らくそれは非常に急激なものであった。そして、その少なくなった人口は、恐らく多少の土地所有欲の圧力を軽くしたし、それによって4世紀初頭の社会の安定性に貢献したかもしれなかった。しかし、403年と322年の間の人口数の曲線が、ジョーンズが信じたように変化しなかったということはありそうにない。(注 66)さらに、4世紀の全住民の中の納税義務団体は、ジョーンズが仮定したよりずっと少なかった。J. K. デーヴィスは、アテネの上流階級の入念な研究の後で、、わずかにアテネの1,200人から2,000人が約1タラントン(6千ドラクマ)か、またはそれ以上の資産を有しており、おおよそこの規模の資産が余暇生活を送るに必要であり、戦時財産税の支払の責任を負っていたと説得力を持って主張した。残りの市民は、生活のために働かねばならなかった。2千人(最大限)の余暇階級の人口数は、あまりにも少なくて民会や法廷といったアテネの平等主義の政治制度を、数の上で支配することはできなかった(注67 )

たとえ余暇階級がありにも少なくて、民主政体を直接に支配することができなかったとしても、共通の職業上の関心や、それゆえ共通の「穏健な」政治的見解が、余暇階級よりは少ないが貧困レベルを十分上回っている人々の間に存在すると推定されるかもしれない。例えば、S. パールマンは、アテネにおいて多かれ少なかれ広範な「中流階級」の存在を当たり前と見なしていたが、彼はその中流階級のメンバーは商業に深く関わっていて、4世紀の大半を通じて、国家を安定した状態に保つのに十分な大きさと影響力のある結束した政治的利益集団を構成したと論じている。(注 68)国家による貿易支援や外国との市場の競争に関心を持つ商業にたずさわる中流階級の存在は、J. ハーゼブルックによって半世紀前に否定されている。彼は、アテネで大規模な取引に関わったほとんどの人は、メトイコイ(在留外人)〔訳注17 〕であったと論じた。ハーゼブルックの貿易に関与した市民の数についての説は、誇張であったかもしれないが、国家の貿易政策に影響を与える市民の結束した商業階級は存在しない、という一般的結論は疑いなく正しい。(注 69)確かに直接的にまた間接的に、商取り引きに関与したかなりの数のアテネ人がいたとしても、こうした人が「階級」(しかしながら、人はその用語を定義するのを望むが)に類するものを構成したり、はっきりした政治目的を持っていたり、あるいはアテネの政治方針に影響を与えるに十分なほど多数であったということを示唆する証拠はない。(注70 )ほとんどのアテネ人は、疑いなく裕福と赤貧の間のどこかのレベルで暮らしていたが、彼らの階級的利害は、彼らがそれを持っていた限りにおいて、生計を立てるために働かねばならず、有閑富裕者たちとの関係で、時には対立して自分自身を考えた人々のそれである。

経済的要因だけでは、アテネの社会・政治的安定性を説明するには不十分であるが、他の答えを捜しながらも、その経済的な背景を心に留めておかねばならない。帝国(5世紀の)と余剰を生み出す奴隷人口は、実際に重要であった。アテネには主要な天然資源があった。南アッテイカの豊かな銀鉱山は特に利益をもたらしたが、粘土層、大理石の採石場、十分な(例え普通の)農業は、国家の富みに貢献した。ピレウスの素晴らしい港には、多くのメトイコイ人口だけでなく多くの輸送貿易が集まった。(注 71)こうした資源の各々は、銀鉱山を賃貸しすることや在留外人(メトイコイ)への課税、そして港湾税を通して直接利益を得ることで、民主政国家の財政基盤に貢献した。(注72 )こうした各種の公共の資源から集める事の出来る歳入が大きくなればなるほど、貧しい者の政治活動を支援するための富裕市民への課税の必要性は少なくなり、その結果(少なくとも可能性としては)、社会的緊張のレベルは低くなった。しかし、4世紀頃には、各種の公共資源からのアテネの歳入は、国家の解決策を維持するには不十分であった。帝国の歳入は失われ、銀の生産は戦争によって中断せられ、340年代まで落ち込んだままであった。(注 73)結果として、富裕市民は理想的には自発的な寄付により、そうでなければ課税により、民主政国家を支援しなければならなかった。それゆえに、アテネ人が市民以外の資源から富を引き出すことができたことは、5世紀の社会的緊張を緩和させたかもしれないが、こうした緊張は決して取り除かれることはなく、国家歳入の低下は、404年以降の時代に階級感情を悪化させたかもしれない。しかも、アッテイカの経済的有利さは、アテネ人が直接民主的手段による政策立案に成功したのを説明するのには役立たない。

C.6 対面社会

物質的な要因では社会的安定性を適切に説明することはできないという認識、あるいは意思決定の説明には少しもならないという認識が、フィンリーをして、アテネを「対面社会のモデル」として特徴付けることに至らせたのかもしれなかった。つまり、その対面社会は、メンバーがお互いに親しく知り合い、お互いに密接に協力し合う社会であった。(注74 )この知り合いと協力は、非公式だが熱心な公衆での訓練、政治生活をもたらし、見知らぬ人のグループでは不可能な方法で、その社会のメンバーが共通の目標に向かって共に働くことを可能にした。対面社会の概念は、フィンリーが産業革命以前のイギリスの村の生活についてのピーター・ラズレットの研究から借りてきたものだが、実際に地方レベルでの社会的統合の過程について語ってくれることがたくさんあるかもしれない。アッティカの区(デーモス)〔訳注18 〕(村、町、都市の地域)についての最近の研究は、区(デーモス)の重要性を、その中での市民の間の関係は、必然的に階級の線を横断して、エリートと非エリートの利益を一体化するのに役立った1つの単位として強調している。(注75 )

地方の社会的安定性における一つの要因として、村の生活の統合機能を過小評価すべきではない。しかし、フィンリーの対面モデルは、ポリスのレベルを推定した時に、重大な欠陥がある。アテネのポリスは、村よりかはるかに大きく、アテネの国家は村の連合として構成されてはいなかった。真の社会的安定性を獲得するために、アテネのエリートは、アテネの大衆と折り合わねばならなかった。そして、地方のレベルでの折り合いは、たとえ、良き慣行やおそらく関係者にとって貴重なメタファー(隠喩)でも不十分であった。あるアテネ人富裕者が、訴訟者として民衆裁判所に入った時にはいつも、彼はたった一人の仲間の区(デーモス)民でさえ、陪審員を務めているのを当てにできなかったであろう。そして残りの陪審員は、彼が故郷の村で行ったかもしれない善行に対して、特別な感謝の念を感ずる理由を持たない見知らぬ人である可能性が高かった。(注 76)

対面社会のモデルが、社会分野に限られているなら、それはましてや政治分野には役に立たない。区は政治的に野心のある市民にとって、訓練の場を提供しなかった。確かに区(デーモス)の民会の経験や、区(デーモス)の一般的な公生活の参加は、普通のアテネ人にとっての政治教育にとっては有益であったろうが(下記、第四章B. 2を参照)、区(デーモス)の民会は、重要な政策を立案しなかった。(注77 )実際の国家の政治活動は、「中央の」評議会、民会、法廷で行われた。そしてここで市民の各々は、参加者のきわめて少数のパーセンテージの人とだけ親密な交流の歴史があった。正確な人口数は求め得られないが、恐らく少なくとも、5世紀と4世紀のほとんどを通して、2万人から4万人のアテネ市民がいたであろう。トゥキュディデス(『歴史』第8巻、第66章、第3節。以下、『歴史』8.66.3と略)は、ポリスの人口の多さを強調し、411年の寡頭政のクーデタの成功を説明する際に、その年までに戦争の敗北はかなりの市民の規模を小さくしていたが、それでも、アテネのデーモス〔民衆〕のメンバーは、お互いに知らなかった(ディア・ト・メゲトス・テース・ポレオース・カイ・ディア・テーン・アレーローン・アグノーシアン)という事実を強調している。(注 )

フィンリーは対面モデルの裏付けとして、『政治学』での理想社会についての適正規模のアリストテレスの議論を証拠として挙げていた。(注79 )アリストテレスは、最初に大規模な市民団に課された物理的な困難さを指摘している。—誰が『イリアス』の有名な大音量の伝令、ステントール以外に伝令である能力を持っているだろうか?(また、同様の音響の問題はミヘルスにも見られた。上記、第1章Bを見よ)アリストテレスは、次に、市民団体は市民がお互いに個人的に知るようになり、そこでお互いの特質に慣れるようにその規模を限るべきであると述べている。このことは、国家の公職に在職するのに、お互いの適合性を判断できねばならないから必要なことである。アリストテレスの理想国家の人口構成の議論は、実際にはアテネの民主的過程を対面の面で説明することに反対する強力な論拠である。アリストテレスは、決して理想的な国家の市民人口の確かな数字を示さなかったけれども、この一節や他の箇所は、すでに見てきたように、アテネは多くの市民がお互いによく知らなかったが、そのアテネよりかもっと小さなものを明らかに意図していたことを示している。アリストテレスが理想とした市民は、ポリスのすべての住民のほんの少数だけを意味していた。つまり、メンバーが「自然な」奴隷農夫や非市民の職人や商人の人々の労働の余剰価値を得ることで生計を立てた有閑の支配エリートである。アテネ人とは異なって、それゆえアリストテレスが理想とした市民は、全時間を教育に、軍事訓練に、そして政治活動に専念することが出来るであろうし、それゆえお互いに親しく知り合いになるであろう。(注80 )

アリストテレスのコメントは、対面モデルはギリシアの哲学的思想に適用した際に時代錯誤ではないことを、またそれが実際に一つの理想と見なされていたことを明らかに示している。しかし、その理想はアテネには存在しなかったし、また存在することができなかった。アテネでは、比較的多数の市民がいて、市民のほとんどは必然的に時間の大部分を利益のある、非政治的な活動に従事するのに費やしていた。アリストテレスは十分このことに気づいていた。例え、彼が『政治学』を書くに際しての実際の目的がなんであれ、彼が考えた理想社会は、現に在るアテネの市民の人々を改革するための青写真として意図されたものではなかった。(注81 )『政治学』の理想都市とは違ってー理想都市は「一目で簡単に見て取れる」(エウシュノプトス:1326b24)ものでなければならなかったが、いまだ誰もすべてのデーモス〔民衆〕が集合したのを見たことがなかったという点で、アテネはいぜん「想像上のコミュニティ」であった。つまり、それは法律とイデオロギーのレベルでは存在したが、個人的な知人のレベルでは存在しなかった政治社会であった。(注 82)

C.7 集団および個人の非凡な才能

時折、著述家は「アテネの奇跡」を説明するために、半神秘的な説明に頼っている。思考を明晰にする強壮剤のような澄んだアテネの空気の効能のような、こうしたいくつかは、これ以上のコメントをすることなく無視してもいいかもしれない。しかし、思慮深い学者が、アテネ人はどういうわけか生まれつき他の人よりか民主主義に適していると示唆している。例えば、ゴンムは、アテネ人は「生まれつき民主的政治のほとんど独特な才能があった」と述べている。(注 83)個々の非凡な才能が人間社会の諸事に影響を与えることに異議を唱えるつもりはないが、もしくは、ある社会が、非凡な才能が示されるかもしれない優れた環境を特に提供することが出来る可能性を否定するつもりはないが、私は、アテネ人が生まれつき他の人々よりも民主的であったとは思わない。どのような人類の集団も、民主主義への遺伝的性質を持っていることはありそうもないと思われるので、「生まれつき民主的政治の独特な才能」のような表現に頼るのは誤解を招く。

民主主義の発展に、特定の個人の影響は否定できないが(下記、第二章を見よ)、民主主義の安定性は、いかなる個々の天才の行動にも帰することはできない。クレイステネスとペリクレスは(例えば)、政治の民主的形態を確立し、推進するために尽力したけれど、アテネ人が政治的行動のために、すでに強力な実行可能な社会基盤を発展させていなかったなら、民主主義はその後長くは続かなかったであろう。(注84 )アテネ国家の存続に関する何らかの説明は、ペリクレス後の時代をも考慮に入れなければならない。というのは、その時代は諸事を支配する指導的な「天才」がいなかった時であるから。アテネの民主主義は、一人の専門家の親方が発明して、そして巻いた時計のように見るべきではない。

本研究は、ミヘルスの「寡頭政の鉄の法則」を検証するためのアテネの実例の理論的意味と同時に、アテネの社会システムの安定性と直接の意思決定機能についての従来の説明の不十分さによって正当化される。アテネの歴史についての大量かつ高品質の研究成果にもかかわらず、我々の時代にあっては不可能と烙印され、その独自の古代の時代にあっては独特な政治システムを維持するのにアテネが成功した鍵は、古典世界の研究者に理解できないままであった。私は、その失敗は、その鍵をなじみがあるが間違った場所で捜す習慣、また間違った分析手段を用いる習慣に起因するかも知れないと示唆唆するだろう。ほとんどの研究者は、(意識してか、無意識か)政治的実用主義(プラグマティズム)、自由主義的多元論、または唯物論の仮説を用いた。それゆえに、その鍵は、ほとんどの場合、「政治家」の間の関係に、個人の権利と国家の権力の国制上の領域に、そしてさまざまな種類の物質的な説明に求められてきた。これらのアプローチの各々は、いくらかの光を当てたが、しかし全体として、私が真の鍵であるとみなしているものを曖昧にしている。すなわち、市民の間のー特に普通の市民とエリートの市民の間のー仲裁的なかつ統合的なコミュニケーションの力である。そして、そのコミュニケーションの言葉は、民衆裁判所や民会、劇場、そしてアゴラなどの公共の場で用いられ、開発されたシンボルからなる語彙の言葉であった。このコミュニケーションの過程が、「アテネ民主主義の言説」を構成した。それが、社会調和を維持し促進するための最も重要な要素であり、それが直接の民主的な意思決定を可能にした。

D. 前提と方法

大衆とエリートの間の関係が、民主主義にとって基本的に重要であったことを仮定するのに加えて、この研究は、次の6つの重なり合う前提に基づいている。すなわち、(1) 政治は社会現象である。(2) 共時的(シンクロニック)〔訳註19 〕アプローチは、前403〜322年頃の時代のアテネの社会政治史を研究するためには、有効に用いられる。(3) すべての人は、人間性、道徳、政治について自らの意見を持っており、またいくつかの意見はどんな社会でも、多くの人々にとって共通である。(4) コミュニケーションは象徴的であり、その象徴はある程度イデオロギーに由来している。(5) 個人の決定、判断、そして行動は、少なくともある程度イデオロギーとコミュニケーションに基づいている。(6) 概して、公式のレトリック、特にアッテイカの弁論集は象徴的なコミュニケーションの例を提供し、社会的発言と原理を再構築することに用いることができる。それゆえ、アテネの一般市民のイデオロギーを理解するのに役立つことができる。これらの6つの前提、ならびにそれらを採用するための私の根拠は、次の段落でより正式に述べられている。

1. 「政治は、社会に埋め込まれた文化的現象である。つまり、社会的背景を除いて、大衆やエリート指導者の政治決定や行動を理解することは不可能である」

ギリシア人の政治思想と行動は、「私生活」の社会基盤から切り離して理解することができると提案されてきたけれども、ー実際にギリシア人は、意識的に政治原理に従って行動すること、また私的な場を拒否することを選んだがー、古代の政治を社会的背景の中で見ることの重要性は、フィンリーや他の人々によって十分に証明されてきた。(注 85)政治と社会構造の密接な関係は、古代のすべての政治的哲学者の中心的な仮定であったように思われる。例えば、アリストテレスの『政治学』は、明確に社会集団と政治の間の一連の相関関係に基礎を置いている。(注86 )

2. 「共時的(シンクロニック)アプローチは、社会歴史的分析を試みる際に有効である。そして、前403年から前322年頃の時代は、大衆とエリートの関係を分析する目的のためには、一つの年代学的単位として取り扱うことができる」

共時性と分析の間の一般的関係に関しては、恐らく歴史哲学者ウィリアム・ドレイの著作に注目できるであろう。彼は、歴史家が分析を行う際に、瞬間よりも時代に言及し、そして歴史的文書は(おそらく、「純粋に」物語さえ、)例外なく分析的であると主張している。(注 87)概して、古代の社会歴史家は、比較的長い時代を扱っている。極端な例では、R. マクマレンの『ローマの社会的関係:前50年から後284年』がある。そしてそれは、3世紀以上の時代を一つの単位として扱っている。(注88 )広範囲の時代を分析的単位として扱うことの正当性は、一般に有用な史料が不足していることであり、たとえ前4世紀のアテネが、他の多くのポリスよりかそうでないとしても(下記、第1章Eを見よ)、それは疑いもなく、古代ギリシア史のすべての時代の要因である。共時的(シンクロニック)アプローチは、急速に発展する社会を静的に扱う可能性があり、それによってダイナミックな社会的現実を誤って伝えるという危険性は残る。それゆえ、比較的長い時代の共時的(シンクロニック)社会分析が、有意義な結果をもたらし得るという仮定を、正しいと証明することは歴史家の義務である。

第二章は、前6世紀から前4世紀までの国制の発展、ならびに大衆とエリートの間の制度上の関係を明らかにするつもりであるが、第三章〜第七章での詳細な社会政治的相互作用の分析は、ペロポネソス戦争の終わりからラミア戦争後のアテネの独立の終焉までの時代(前403年から前322年)に集中するつもりである。この403年から322年の間の時期に、アテネ市民の人口が増大した可能性を認識したなら、この時代を共時的に扱うことに基本的な人口統計上の問題はないように思われる。人口増加の速度または安定性のいずれも論証することはできないが、いずれにしても、それは自然なものであった。つまり、403年以降に、根本的に異なる文化的または社会的想定をもたらした可能性のある、追加された大規模な新しい市民団体はなかった。(注89 )さらに、いくつかの国制上の変化にもかかわらず、アリストテレス学派の『アテナイ人の国制』第四一章、第二節(AP 41.2)の同時代の著者がそうであったように、その時代は政治的発展の観点から、合理的に一単位として扱うことができる。また、史料の点からは、その時代は、アッテイカの弁論家集成によって特徴づけられる。(下記、第一章Eを参照)つまり、真の法的および政治的弁論は、この時代以前はまれであり、その時代以後は皆無であった。弁論の内容は様々であるが、その時代を通じて形式も一般的内容にも劇的な変化はない。K. J. ドーヴァーは、弁論並びにアッテイカの喜劇に基づいてアテネの「大衆の道徳」を分析したが、彼は5世紀終わりから4世紀の終わりまで、社会的態度に高度な連続性があったことを主張している。(注90 )弁論集成は、私に最も重要なテキストを提供するであろう。私は、各テキストの年代学的な背景に細心の注意を払うことを試みたが、ドーヴァーのものと同じ結論に達している。つまり、この時代を通して弁論に表現された大衆とエリートの関係に対する態度は、時間の経過とともにかなり一貫しているように見える。私は、時代の間にこうした態度が徐々に変化をしたことを否定はしないが、かなりの程度のイデオロギーの連続性を実証することができるので、その時代を社会政治的分析の目的のための一単位として扱うことができる。

3. 「特定のコミュニティーの各メンバーは、人間の性質や行動について推測し、道徳と倫理に関して意見を持ち、そして、いくつかの一般的な政治理念を保持している。すなわち、こうしたメンバーの大多数に共通であるこうした推測や意見、そして理念はイデオロギーとして最もよく言い表される」

この主張の最初の部分を厳密に証明しようとすると、認識論や道徳哲学、および認知心理学に、はるかに我々を連れて行くだろうが、私はここではそこに行く準備はない。私はほとんどの読者が、その主張を文字通りの意味で受け入れてくれることを願っている。私のイデオロギーの定義は、フィンリーの定義とよく似ている。彼は、次のように提議している。イデオロギーは、「人々が通常、行動の必要性に応じるための態度と信念の基盤(マトリックス)である、…彼らを態度の根源に戻す推論のプロセスや、反応の正当化なしに…」または、「信念と態度の組み合わせ、多くの場合、定式化されていないし、潜在意識であり、確かに必ずしも一貫性もなく、矛盾しなくもないもの。その根底にあるのは…思考と…行動」である。(注91 )それゆえに、イデオロギーは、意志決定の過程で、必ずしも明確に理路整然とされている、論理的に一貫している、または意識的に用いられているとは限らない点で、哲学と理論とはまったく別物である。さらに、アテネの民主的イデオロギーを語ることは、一連の民主的理論の存在を仮定することではない。つまり、すでに頻繁に指摘されてきたように、5世紀、あるいは4世紀のアテネにおいて、哲学的に表現された民主的理論はなかった。(注92 )一方、私は、イデオロギーを単なる偏見ではなく、「より組織的で構造的に一貫した一連の考え」として定義する際にブレント・ショーに従う。(注93 )

それゆえに、イデオロギーは、決定と行動を容易にするために十分によく体系づけられた一連の観念から成っている。政治的イデオロギーは、政治分野に関わるところのイデオロギーの全体の中の一部である。P. C. ウォッシュバーンは、政治的イデオロギーを次のように簡潔に概念化することを提案している。「それは個人の比較的永続性のある多少共通の規範・価値で結ばれた、一連の信念、価値観、感情、態度である。そして、それは社会報酬の既存の分配と、それらを創造、維持、または変革するための権力と権威の使用に対する人間と社会とそれに関連する方向の性質と関係している」。(注94 )それゆえに、政治的イデオロギーは、内的な情況の重要な部分である。それは問題が外部の環境での変化に対する政治面での適切な対応を判断し、定式化するのを助けるであろう。手短に言うと、それはどのように人が出来事に反応する可能性があるかを定義する。

その主張の第2の部分、人はコミュニティーのほとんどのメンバーに、共通するイデオロギーを口にする可能性があるというのは、より問題が多いかもしれないが、手の込んだ弁明は必要ないはずである。まさしくその「コミュニティー」の用語は、最小限のレベルの共有価値の意味合いを含んでいる。そして、いずれの機能的な社会でも、ある程度の価値の共通性は、現代の社会学者だけでなく、古代の歴史家、哲学者、弁論家もまた仮定している。(注95 )主要な問題は、共有したイデオロギーの範囲と特性の決定にある。特に、イデオロギーは、大衆とエリートの間の懸隔を超えていたのか?私は、少なくとも、ある程度そうに違いないというチェスター・G・スターと他の学者に同意する。(注 96)しかしながら、あまりにイデオロギーの一貫性を仮定することは危険であり、また、エリートによりエリート聴衆のために書かれたテキストは、エリートにより大衆のために書かれたテキストとは異なって論じねばならない。さらに、アテネの政治的イデオロギーの起源を発見し、その運用上の意義を、アテネの市民の大衆とエリートの間のコミュニケーションの中に位置づけることを試みなければならない。大衆の政治的イデオロギーは、エリートからのアイデアと価値観の「滴り落ち」の結果であったのか?それは、大衆の経験と自己決定の所産であったのか?それは、誰の利益にかなったのか?多くの伝統的なマルクス主義者(彼らはイデオロギーを、下層階級の間で虚偽意識〔訳註 〕を促進するために用いられた、支配者階級の考えと見なした)、とギリシの貴族文化についての学者の幾人かは、イデオロギーは実際にエリートの創造物と仮定している。しかし、私の見解は―それは構造主義的マルクス主義者のルイ・アルチュセールによって発展されたイデオロギーの見解と多くの共通点を持っているがー、イデオロギーは、大衆とエリートの概念とイメージの間の闘争の軌跡、制度的構造を変える可能性を持つ闘争の軌跡であるという可能性を提起する。(注 97)

4. 「社会のメンバーの間のコミュニケーションは、特に政治的意志決定の文脈においては、イデオロギーを参照し、かつそれから派生しているシンボル(隠喩(メタファー)、言語記号(サイン))を用いるであろう。」

この主張の理論的根拠は、最終的に認知心理学の記号論的モデルに由来している。そして、その認知心理学は、人間の心はシンボルまたは隠喩(メタファー)によって類推(アナロジー)の過程を通して働いていると仮定している。思考と知覚、そしてゆえに言語は象徴的であり、かつ隠喩的である。従って、コミュニケーションは、複雑に絡み合っている象徴的な参照と相互参照に基づいている。コミュニケーションは単純ではない。というのは、シンボルは静的ではなく、他のシンボルを参照しているから。また、言葉、文、イメージなどの意味は、より広い文脈によって変化した。というのは、任意のシンボルの解釈は、それを他のシンボルと関連付けることに依存しているからである。従って、記号論は、本文の意味が作家の当初の意図だけではなく、その構造と文脈ならびに内容を含む「言説」にもあることを示唆している。読者のそれぞれは、彼あるいは彼女自身のシンボルーネットワークに従ってテキストの意味を解釈するので、受容体(レセプター)(読者あるいは聴衆)とテキストの間の相互作用もまた、言説の一部である。(注 98)

言説としてのコミュニケーションの一般原則は、隠喩的メッセージの解釈は、発信人と受取人両方で用いられた準拠枠(フレーム・オブ・レファレンス)〔訳注 〕と彼らの間の関係性によって影響を受けることに同意する人にはとっては、問題を引き起こさないはずである。ヘロドトス(『歴史』第5巻、第92節:以下『歴史』5.92と略)は、コリントスの僭主ペリアンドロスが、僭主政が成功する秘密を学ぶためにミレトスのトラシュブロスのもとに使節を送った物語の中で、このプロセスの適切な例を提供している。トラシュブロスは、使節に政治の話をするのは断ったが、彼を穀物畑の中に散歩に連れ出し、そこで最も高い茎の頭を杖で切り落とした。困惑した使節は戻ってペリアンドロスに、彼は有益なことを何一つ学ぶことが出来なかったと報告して、そして畑での散歩を説明した。ペリアンドロスは、直ぐにその意味を理解して、コリントスの最も有力な市民を排除することによって教えを実行に移した。トラシュブロスの比喩的メッセージは、使節には不可解であった。彼は適切な準拠枠を欠いていたからである。ペリアンドロスは直ぐに理解した。なぜなら、彼はトラシュブロスと共通の準拠枠を共有していたからである。しかし、そのメッセージは、依然異なる解釈の対象となったままである。—トラシュブロスはその最も高位の人々を殺すことをアドバイスしたのか?または、何か別の方法で彼らを制圧することをアドバイスしたのか?もちろん、そのメッセージが異なった準拠枠を持った人には、まったく異なった「読み方」がなされたかもしれなかった。例えば、農学者には。

5. 「個人の決定、行動、そして彼または彼女の判断は、少なくとも部分的には、イデオロギーと象徴的なコミュニケーションに基づいているであろう。」

私は上記の主張3において、アテネ市民は他のコミュニティーのメンバーと同じく、共通のイデオロギーを共有していたと提議した。すべての他の概念と同様に、シンボルのグループのことばで表現するなら、このイデオロギーは共通の隠喩的枠―相互に「内部の文脈」で合意されたーを提供した。そして、それによって市民は事件や概念に対応した。それゆえに、市民にある一定の方法で行動するよう説得しようとする演説家は、聴衆から特定の反応が引き起こされることを期待して、この共通のイデオロギーに言及している隠喩を用いるかも知れない。あらゆる弁論のテキストは、様々なレベルで機能している多くのシンボルの母体(マトリックス)であり、どのような演説者も聴衆のメンバーの各々が、シンボルそれぞれにどのような反応を示すかを、正確には予想することは出来なかった。アテネの熟練した公的な弁論家(オラトール)は、シンボルを巧みに扱う点で極めて長けていたが、コミュニケーションは、話者が傍聴人に特定の反応を呼び起こそうという意識的な試みに、完全に左右されることはなかった。弁論家と聴衆の間に行われたコミュニケーションのほとんどは、無意識のレベルで機能したかも知れなかったが、それに関してはそれほど重要ではなかった。

アテネの社会的及び政治的決定、行動、そして判断は、民主的政治秩序の環境と外部的事象に応じて機能したイデオロギーと言説の産物であるというアイデアは、この研究の中心となる体系的原理である。コミュニケーションと言説に基づいた分析の採用は、アテネ人の政治行動と社会関係が、主として明確に理解された選択肢の合理的な評価によって動機づけられたことを仮定する理論によっては、民主主義を説明することができなかった事から見て、正当化できるように思われる。こうした合理主義者の仮説は、フィンリーの言う「国制と法の罠」に通じる傾向があった。私はまた、近年、国制上の配置や他の形式的制度の研究は行き詰まっており、制度を創造しそして維持する態度と価値感を理解することなしには、古代の社会と政治生活は解読できないままだろうと論じている人々に同意する。(注 99)それゆえに、ゲーテが『ファウスト』(577-79 行)で指摘しているー「時代精神(ツアイトガイスト)」〔訳注22 〕は、それを知覚する心を単に反映しているに過ぎないー、という危険性を認識しながらも、私はアテネの世論の動向―イデオロギーと言説ーの研究が、アテネの政治生活と社会生活に何らかの新たな洞察を提供することを願っている。

6. 「概して、正式のレトリック、特にアッティカの弁論全集は、上記の主張4の象徴的コミュニケーションについての事例を、また従って主張3のイデオロギーを再構成するための、それゆえ仲間に関して、アテネ市民の決定、判断、行動を理解するための事例を提供する。」

最近の批判的理論は、あらゆるテキスト、文学またはその他に有効に適用できる重要な原則として、中身は捨てられたところの形式やレトリックの概念に集中している。(注 100)どのようなテキストの形式も、それを生みだした社会のイデオロギーを明らかにするのに十分に役立つかもしれないが、私の議論にとってもっとも重要な古代の史料は、より狭い伝統的な用語の意味で修辞的(レトリカル)なので、私は一般的な主張を証明しなければならない立場にはない。

 E. レトリック

アッティカ弁論家集成は、特に、大衆とエリートのイデオロギーの分析のために、価値ある一連のテキストを提供している。ほとんどの古代のテキストは、エリートによって、特にエリートの読者層のために書かれた。多くのこうした「エリート/エリート」のテキストは、大衆とエリートの間の関係の問題を取り扱ってはいるが、例えば、トゥキュディデスまたはプラトンがアテネの市民大衆が持っているとみなした考えと意見は、エリート自身の準拠枠と予想される聴衆の準拠枠によって左右された。エリートの作者が、大衆のイデオロギーについて、エリート読者の予想される聴衆を欺く意図はなかったかもしれないが、非エリートの批評家に直接責任を負わなかった。弁論家はエリートのメンバーであったことは確かであるが(下記、第三章Cを見よ)、彼らは弁論の大半を、大衆である聴衆、一般的に大規模な陪審か民会のいずれかに対して口頭弁論のために執筆した。さらに、ほとんどの弁論の目的は、明らかに大衆である聴衆に特有の方法で行動すること―とりわけ、投票をすることーを説得することであった。アリストテレスが明確に認識しているように、大衆である聴衆を説得することを望んだ弁論家は、聴衆の精神(エートス)―イデオロギーーに順応しなければならなかった。それゆえに、彼は、概して聴衆が良いと思うことを褒めて、聴衆が悪いと思うことを悪く言わねばならなかった。彼は自らの行動と性格を、聴衆の価値と合うものと、論敵のそれを合わないものと提示するであろう。(注 101)弁論家が何を信ずるにせよ、彼らが聴衆を喜ばせるかもしれないことを語る傾向は、心地よいものではなくて、真実かつ必要なものを語ることが話し手の責任であると考えていたエリートの政治哲学者によって非難に値すると考えられた。(注 102)しかし、法廷や民会での実際の言説のレベルでは、弁論家は聴衆のイデオロギーに従わなければならなかったか、次の結果に直面しなければならなかった。つまり、票を失うか無視されるかである。

アテネの弁論家は、大衆である聴衆に演説する際に、演説と隠喩の様式(モード)の形式でシンボルを用いた。そして、そのシンボルは、聞き手の共通のイデオロギーの準拠枠から派生していて、またそれを参照したものであった。少なくとも、いくつかの隠喩は標準化しており、トポイ〔訳註23 〕として記述されている。修辞的なトポイは、徐々に別の弁論家によって繰り返された。従って、それは聞き慣れたものであったが、確かに内容がないわけではなかった。実際、トポイは、象徴的な価値と聴衆に影響を与える力を証明したがゆえに正確に繰り返された。弁論の中のコメントのすべてが、直接に大衆のイデオロギーから派生していると仮定するのは還元主義者(レダクショニスト)〔訳注 24〕だろうが、熟練した経験豊富な話し手が、広く受け入れられている一般的な確信と矛盾する可能性があると考えられるようなコメントをするのを避けることは想定できるであろう。(注103 )従って、頻繁に用いられたシンボルのタイプを発見するために、アッテイカの弁論家の収集された弁論を分析することや、こうしたシンボルに基づいて市民大衆の政治イデオロギーを再構築することが可能である。(注104 )

普通の市民によって、また大衆の聴衆のために書かれた大規模なテキストのコレクションがないので、レトリックの分析は、アテネ人の政治組織と行動のイデオロギーの根源を理解するための最善の策を提供している。しかし、アテネで行われた弁論のうち、ほんのわずかの断片だけがこれまでに出版されて、多分、それらの内現在残っているのは10%以下であろう。さらに、その集成は決してアッテイカの弁論の無作為のサンプルを提供してはいない。(注105 )しかしながら、現存する精選されたものは、すべてのアテネの弁論の分野の中でも、特に価値のあるものである。個々の弁論が成功したかどうかは、滅多にわからないが、現存する集成は主として際立って熟練した、名声を勝ち得た弁論家、すなわち、名声と時には生活がひとえにシンボルを有利に操る能力にかかっていた人の作品を含んでいる。さらに、現存している法廷弁論のほとんど(恐らく、すべて)は、エリートの訴訟者によって、かつ/またはエリートの訴訟者のために準備されていた。非エリートのアテネの訴訟者が、どのように陪審員に話しかけたかを知るのは、非常に有益だろうが、大衆の陪審員と向かい合っているエリート訴訟者が、とりわけ共通のイデオロギーに訴える必要に迫られていたことは合理的な仮定である。

ほとんどの場合、弁論家が任意のレトリックの戦略を用いる主たる動機は利己的であるということは仮定できるー聴衆のメンバーに、自らを有利に投票するように説得したいという欲望。けれども、私が主張するように、エリートのアテネ人が大衆の聴衆に行った演説は、演説者の個々の動機を越えた社会的機能があった。劇場の演劇と通りのゴシップに加えて、裁判所や民会での公の演説は、普通のアテネ人とエリートアテネ人の間で進行中の言語コミュニケーションの最も重要な形式であった。それゆえに、正式のレトリックは、大衆とエリートの関係を公に論じることができた主な手段であった。コミュニケーションは、目的を達成するための手段であると同時に、それ自体が重要な目的であるかもしれない。弁論を通して、潜在的な政治イデオロギーは、特定の一連のシンボルとして表現され、かくして全体としての活動のレベルで機能するようになった。それゆえに、公的なレトリックは、アテネの政治イデオロギーを定義するのに役立つだけではなく、それはアテネ人自身が大衆―エリートの関係を調整するのに貢献した。

私が提案したアプローチは、イメージと外観のレベルで修辞的なテキストを扱う利点を示している。そして、これはアリストテレス(『弁論術』1404a1-12)が、実用的なレトリックの定義に用いた特徴として認識していたものである。(注106 )アテネ史の現代の研究者は、出来事に関する貴重な情報を弁論から得ようとすることより他にレトリックを利用した時に、弁論は多かれ少なかれ社会および政治的現実の正確な鏡であると仮定して、しばしば直解主義者(リタラリストゥ)のアプローチを取っている。私が思うに、このことはかなりの重大な誤りに導く。一方では、(例えば)アイスキネスの経歴についてのデモステネスの説明を、額面通りに受け取る傾向がある。しかしながら、(例えば)富裕な訴訟者が、経済的に対等者として陪審員に演説した時、陪審員は富裕者に違いないと仮定することが、恐らくより有害である(なぜなら、見当違いがあまり明白ではないから)。(注107 )私がこの研究の本論で論証しようと意図しているのは、訴訟者が自分自身と陪審員の両方に、現実と矛盾している役割を割り当てるかもしれないということである。しかし、このことは、話者が意識的に騙そうとしたり、または陪審員が騙されやすいということを必ずしも意味するのではない。むしろ、弁論の言説は二種類の反応を刺激した。それは社会的または政治的現実を明らかにしただけではなく、イメージとシンボルのレベルで反応を引き起こした。訴訟者によって富裕者とみなされた陪審員は、訴訟者が提案した象徴的な平等のレベルで活動することで、そうでなければ、現在の階級や不平等な地位に基づいておこなった行動を抑制したかもしれなかった。繰り返し述べるが、我々が理解したいと思っているテキストの相互作用の、及びダイナミックな性質を心に留めておかねばならない。

私がこの研究で最もよく引用する弁論家ーリュシアス、アンドキデス、イソクラテス、デモステネス、アイスキネス、ヒュペレイデス、ディナルコス、そしてリュクルゴスーらは、皆前404年と前322年の間に活躍した。デモステネスの人生について、最もよく知られているが、それは彼の名前で残っている多くの演説と、プルタルコスの『デモステネス伝』のおかげである。弁論家の社会的背景は、それらが再現できる限りにおいて、下記の第三章(C)で考察している。また、同時代のこうした弁論家や他の弁論家による、いくつかのどちらかといえばわずかな弁論の断片も残っているが、通常文脈が失われているので、幾分完全な演説より利用価値は低い。

前5世紀後半から、トゥキュディデスの『歴史』に記録された演説や、法廷弁論作家(ロゴグラファー)〔訳註 25〕や寡頭主義者の首謀者アンティポンによるいくつかの弁論や修辞学の習作がある。これらのうちのどれも、大衆の聴衆への説明のために書かれたものでないのは明らかであるが、それらは実際のものであると称して本物の演説の形を取っている。トゥキュディデスの演説の中で特に興味深いのは、ペリクレスの葬送演説、アテネの民会で行われた演説(ペリクレス、クレオン、アルキビアデス、そしてニキアスによる)、そしてシラクサの民主的民会で行われたシラクサの政治家ヘルモクラテスとアテナゴラスの演説である(巻末の補遺を見よ)。トゥキュディデスの『歴史』での演説と実際に行われた演説の関係は、(そして葬送演説とアテネの民会の演説の場合、少なくとも、オリジナルが実際に行われたことはほとんど疑いの余地がない)多くの論争があったが、その問題に関する学術的なコンセンサスには至っていない。(注108 )私は5世紀の演説だけからの一節に基づいて、アテネのイデオロギーについての発言をすることを避けるようにしてきた。他方、イデオロギーの基盤は、時には本物の4世紀の弁論のそれに非常に似ているように思われるので、4世紀のイデオロギーに関するいくつかの結論は、少なくとも5世紀の後半までさかのぼって外挿されるかもしれない。

アリストテレス(『弁論術』第三巻)は、レトリックを、審議のための演説(政治的意志決定)、法廷弁論(法律に関する)、および誇示的な演説(誇示)に細分した。つまり、それぞれのタイプの演説が述べられたもとでの異なる条件が、演説者のレトリックの戦術に影響を与えており、それは第三章で詳細に述べられる。審議のための演説は、民会ならびに評議会で行われたこれらのものを含んでいる。現存する法廷弁論は、政治裁判に準備された弁論(通常、専門の政治家によって書かれて演説された)と私的な裁判の弁論とに細分されるかもしれない。後者の種類は、通常、本職のスピーチライター(法廷弁論作家)によって書かれ、富裕な訴訟依頼人によって暗記され、演説された。(注 109)誇示的演説は、公的な葬送演説—それはアテネの大衆の聴衆の前で演説されー、と雄弁の例として本職の修辞学者によって準備された演説—それは聴衆の前では演説されなかったーを含んでいる。後者のいくつかは、次第に変化して政治パンフレットのカテゴリーになっていった。それは多分、個人的に読まれるか、または少数のエリートの聴衆に声を出して読まれることを意図していた。そしてまた、若干の手紙や非公開のテキストも、その言語資料(コーパス)に含まれた。

さまざまな下位区分(サブジャンル)の各々は、イデオロギーの分析のために多少異なって論じられるかもしれない。誇示的な演説の中で、公的な葬送演説は、一般的なイデオロギーの概念を考察するために利用することができるが、大衆とエリートの関係を分析する特定の目的のためには、審議のための演説と法廷弁論よりかは、多くの場合あまり役には立たない。(注110 )イソクラテスの『ヘレネ頌』のようないくつかの誇示的な演説は、純粋に芸術的なものであるように思われる。私はこれらをあまり利用してはいない。政治パンフレットとして書かれた誇示的な演説は、それがエリート/エリート間の文学のカテゴリーに分類されるので、かなりの注意を払って使用されねばならない。イソクラテスの演説の多くは、このような種類のものである。他方、イソクラテスのパンフレット/演説の少なくともいくつかでは、彼はかなり広範囲のアテネ人の見解に影響を与えることを望んでいたようであり、こうした演説はよく大衆の聴衆のために書かれた演説のイデオロギーの前提の少なくともいくつかを共有している。(注 111)例えば、アンティポンやトゥキュディデスの演説のように、イソクラテスのパンフレットは、私はもっぱら問題の少ない資料に基づいて得られた議論を補強するのに用いるつもりである。同じような一般的な考慮は、プラトンの『ソクラテスの弁明』にも適用される。

審議のための演説と法廷弁論は、一括して最も有益であるが、さまざまな下位区分も多少異なる目的に役に立つかもしれない。私訴の弁論は、社会関係を調査するために重要である。審議のための演説と政治裁判の弁論は、私はそれを総称して「政治的レトリック」と呼ぶつもりであり、同様に社会的背景に言及するつもりであるが、それらは特にエリート政治家と大衆の聴衆の間の関係について情報に富んでいる。私訴の当事者と政治家が用いたレトリックの戦術の間の相違は、アテネの国家における政治家の役割について我々に多くのことを教えてくれる。

いくつかの演説の著者に関しての論争は、古代にまで及んでいる。例えば、リュシアスやデモステネスの写本とみなされた多くの私訴弁論が、古典学者らによって他の著者の作であると考えられている。ある場合には、異なる著者の主張が非常に強い場合もあれば、そうではない場合もある。(注 112)しかし、著者が誰であるかは、特に私訴の弁論においてはあまり私の議論では重要ではない。問題の演説が、実際に関心のあるその時代に大衆の聴衆への演説として書かれたのでありさえすれば、それはイデオロギーの分析のために利用することができる。私は現存している演説は、内容と構成において述べられた形態と類似していると全体を通して仮定している。演説のうち疑いなく公表される前に改訂がなされたものもあるが、概してその改訂は、おそらく議論に実質的に影響を及ぼすほど重大ではなかった。(注113 )

多くの演説の年代は、内的または外的証拠に基づいて非常に正確に決定することができる。あまり正確には年代決定できない他の物は、10年間あるいはその程度の内に一括することが出来る。(注114 )繰り返して言うが、例え、場合によっては年代順が非常に重要であったとしても、私が上述した(第一章Dの主張2)共時的仮定は、恐らく正確には年代づけられない演説を用いることを正当化するであろう。また、共時的仮定は、403年から322年の時代にわたる演説の不均衡な配分を考える時に重要である。例えば、年代が決定づけられる演説のうち、355年から338年の時代(年平均2.2回)には、377年から356年の時代(年平均1.0回)の、年平均2倍以上の演説の平均回数であるし、4世紀の民会演説の17回の全体の内、14回は前者の時代(355年〜338年)に年代づけられる(巻末の「補遺」:表Ⅰ)。「補遺」は、伝統的な番号付けの分類に従って、著作家による全集の演説を一覧表にしている。各演説の下位区分〔民会演説あるいは評議会演説など〕と年代(もし明らかなら)は、特に関連性があると思われる文脈の考慮事項(著作家、年代、等々に関して)に加えて表示している。

 F. その他の主な史料

レトリックのテキストは私に主要な資料を提供するが、私は他のさまざまな種類のテキストを引用するつもりである。古代の哲学者の専門書の中で、我々の目的にとってもっとも重要なのは、アリストテレスの『政治学』と『弁論術』である。大衆とエリートの関係に対する洞察とそれらの関係の文脈の両方のためには、『政治学』における政治社会学のアリストテレスの分析、そして『弁論術』における公的な演説の目的、戦略、そして条件の分析は、きわめて貴重である。多くの点で、アリストテレスは、民主主義を好まなかったし、エリートの聴衆のために書いた。それにもかかわらず、彼はまさに大衆のイデオロギーの力に気づいていた。「過激な」民主主義についてのアリストテレスの理論的な分析は、私自身の解釈とは対照をなしている。(注115 )

公的な演説と同様、悲劇と喜劇は、大衆である観客への上演のために書かれた(下記、第三章 E. 6を参照)。劇場は、アテネ人が自分自身を説明しようとすること及び、自分自身の社会についてコメントすることが出来るフォーラムを提供した。(注 116)アッティカの劇作家は、弁論家よりもっと広い視野で仕事をし、人間の(また神の)関係のより広い範囲を扱ったので、彼らの役目と目的は、明白かつ直ぐには政治的ではなかったかもしれない。(注117 )劇作家は、観客を喜ばせる事を期待したし、もし彼がそうすることに成功したならば(名声と賞金に関して)利益を得たが、彼の生命と経歴は、当然ながら政治弁論家のそれと同じような危険な状況に置かれることはなかった。さらに、劇作家は、直接聴衆と自分自身で向き合うことはなかった。それゆえに、演劇は大衆とエリートの間の関係について、レトリックと同じほど直接的なかつ明白な注釈(コンメンタリー)を提供しないかもしれない。しかし、アッティカの悲劇と喜劇の多くのシンボルや、隠喩(メタファー)、筋の構成は、明らかに大衆とエリートの間の緊張によって特徴づけられており、演劇のテキストは、こうした緊張と彼らが調停される方法を解明するのに役立つ可能性がある。この研究で、悲劇と喜劇の引用が比較的少ないのは、決してアテネの政治社会学を解き明かすのに、演劇の可能性が限られているという確信によるものではない。それどころか、その可能性は非常に強いので、別の研究がそれに値する真剣さで、アテネの演劇の政治社会学の主題を論ずるために必要とされるであろう。(注 118)

歴史書と伝記は、大衆とエリートの文脈のための正しい認識を獲得するために重要であり、幾人かの歴史家、とりわけトゥキュディデスは、そのことについて多くのことを述べている。プルタルコスの『英雄伝』(特に、ペリクレスやデモステネス、そしてポキオンの伝記)は、彼が執筆をする際の目的が、歴史的、または社会学的ではなく、道徳的であったこと(プルタルコス『アレクサンドロス伝』1を見よ)を心に留めていなければならないけれども、資料として価値あるものを含んでいる。歴史のみならずまた国制上の資料として特に有益な史料は、恐らくアリストテレスの門弟によって書かれた『アテナイ人の国制』(アテーナイオーン・ポリテイア)である。別の歴史的史料(例えばヘロドトスなど)は、第二章で重要な役割を担うであろう。繰り返して言うが、古代の歴史書と伝記は、エリートの聴衆のためにエリートによって書かれたことを覚えておくことが肝要である。大衆―エリートの関係が発展した環境を提供した出来事についての古代の歴史家の記述がなければ、社会的あるいは歴史的分野のいずれかについての大衆とエリートの関係を理解することはできないが、これらの関係の理由についてのそれらの証言を、かなりの注意を払って見なければならない。(注119 )

民主的アテネの歴史に影響を与える可能性のあった「非文学の」テキストの主たるカテゴリー、つまり、碑文はこの研究では比較的小さな役割しか果たしていない。しかしながら、個々の碑文は法的な問題を明確にすることが多く、また公的碑文の形式や語彙、内容、および図像は、一括して見たときに以下のページで提示される予定の理論のいくつかを解明するのに役立つかもしれない。繰り返し言うが、大衆とエリートの関係に対する碑銘研究や図像学の潜在的な貢献は少なからぬものであり、ここでそれに専念できるよりも多くのスペースに値する。(注120 )

要するに、この書物はアテネの政体史でも、アテネの政治家と彼らの交際史でも、またはJ. K. デーヴィスが『アテネの富裕な家族』の序文で考慮に入れた一般的な「古典期アテネの社会及び経済史」でもない。(注121 )最初の2つのカテゴリーの調査のいずれかの後を継ぐことを意図したものではない。私は、いかにして政治社会学が社会の安定性に寄与したのか、いかにして直接民主的意志決定が、大衆とエリートのコミュニケーションを通して促進したのかを説明することで、第3のカテゴリーの大きな企てに貢献できることを期待する。

調査研究の間に、さまざまなテーマが繰り返されるであろう。大衆とエリートの中心的問題に加えて、個人/コミュニティー、個人の自由/政治的合意、そして法の主権/大衆の意志の主権と言った関連する二項対立がテーマとなるであろう。第二章では6世紀から4世紀を通しての民主的国制の発展の文脈で、そして一つの影響力のあるものとして、アテネのエリートと大衆の歴史的発展を論じる。ここで、本書の適用範囲は、必然的に選択され、M.フーコーが「それがある一定の思考形態を必要とするようになるところの歴史」と呼んだところのものに集中するであろう。(注 122)第三章では、公の弁論家と聴衆の間の関係が、個人的なアテネ市民と専門家の政治家の間の類似点と相違点が、そして政治的議論とコミュニケーションの色々なフォーラムが議論される。第四章から第六章までは、国家と社会においてアテネの弁論家の戦略と弁論の機能上の重要性を共に理解することを試みるために、いかにしてエリートの能力、富、地位が、アテネの弁論術の中で取り扱われているかを論じる。第七章において、社会的調和の維持の中での、またアテネにおける民主的決定の過程の中での弁論術とイデオロギーの役割についてのいくつかの一般的結論を述べるつもりである。


第一章:訳註

1) 「都市国家」という訳語がしばしばもちいられる「ポリス」は、古代ギリシア人によって形成された共同体・国家の一つの形態。その数は1,500にのぼり、比較的平等の相互関係で結ばれた男性市民を中核とした「市民共同体」で、ポリテイア(市民身分、国制)という語はこの語から派生している。

2) デーモクラティア〔民主政〕の原語はδημοκράτία:Democracy(デモクラシー)の語源。

3) デーモスという語は、次のような色々な意味を含でいる。(1)すべてのアテネの人々(=すべての成年男子市民)(2)普通の人々(=貧しい人々) (3)民衆の集会(=民会)(4)民衆の支配(=デモクラティア)。

4 ) なお、他のアッティカの十大弁論家(例えば、アイスキネス、リュシアス、イソクラテスなど)の弁論も同様に略記。

5 ) アッティカは、古代における都市国家アテネの領域。キタイロン山脈によって北方のボイオティアと、ケラタの峰によって西方のメガラと画された、約2,400平方キロメートルの領域。

6) 民主政ポリスにおける最高意思決定機関。市民としての資格を満たしたすべての成年男子が出席でき、政策の当否に一票を投じることができた。すなわち、市民全員に参加・議決権がある市民総会。

7) 五百人評議会。前508/7年、クレイステネスの改革で創設され、抽籤で30歳以上の市民から選ばれた500人の評議員によって構成された。任期1年、生涯に2度務めることが認められ、民会への議案先議・議案提出を担当し、また行政の最高機関として広範な権限を握った。

8) サブグループは、社会学において、一つの文化(社会)の中で、他と区別できる社会的・経済的・人種的特性をもつ集団のこと。

9) 単数はカロス・カガトスカロス(美しい)とアガトス(生まれのよい・勇敢な・有能な・善い等の意味)の合成語。直訳すれば「美にして善なる男」、ギリシア人男性の理想像で、「貴顕な人物」の意味。

10) エリート理論は、マルクス主義理論に対する批判として誕生。エリート主義は、少数者(エリート)が多数者(大衆)を支配するという事実を1つの思想に理論化したもので、社会の中で優秀とされる人物や集団(エリート)の必要性と不平等の正当性を説明。対義語には反エリート主義、ポピュリズム(大衆主義)平等主義などがある。

11) 前411/10年や前404/3年という年代表記は、古代ギリシアの暦法が、今日の暦の7月に新年を迎えたので、当時の1年は西暦の2年に半分づつまたがることになり、公式の年度を表すときには、慣例により前411/10年や前404/3年と表記する。

12) 四百人による寡頭政。

13) 三十人政権(三十人僭主)。スパルタのリュサンドロスの影響のもとで成立した独裁政権。

14 ) 単数はプロブーレウマ(予備審議案)。評議会が予め審議して議題として民会に提出したもの。評議会は民会への議案先議・議題提出を担当した。

15) 前4世紀になると、民会での法律制定議事が廃止され、立法委員会(ノモテタイ)が置かれた(単数形ノモテテースは立法者、法律制定者の意)。立法委員会は、6,000人の陪審員の中から籤で選ばれて構成され(多くは1,000人)、委員の任期は1日限り。彼らは法律の提案および反対の演説を聞いた後、挙手で採決を行った。名前は立法委員会であるが、実質は法律審査委員会。

16) 戦時財産税(エイスポラー)は、戦争時における臨時税で、民会で必要があると決定された場合に、財産評価に基づいて富裕な市民と在留外人(メトイコイ)に課せられた財産税。主に軍事的な目的のために徴収されたが、347/6年からは、年10タラントンの一般税であった。納税義務者は100のシュンモリアー(納税分担班)に分けられた。

17) 単数はメトイコス。在留外人は身分的にはアテネ市民権を持たず、土地所有は禁じられており市民と奴隷の中間に位置づけられた。アテネ市民の身元保証人を立て区に居住登録をし、一定の人頭税納付と従軍の義務を課せられた。

18) 区(デーモス)は、前508/7年のクレイステネスの改革により、アッティカ全土に古くからあった集落が市民団の末端組織として再編成されたもの。前3世紀後半までその数は139あった。区の最も重要な機能は、市民権登録機関で、市民の家に生まれた男子は、18歳に達すると本籍区(先祖がクレイステネスの改革時点で居住していた区)で資格審査を受けた上で市民権を登録した。

19) 現象が継時的変化としてではなく,一定時の静止した構造としてある状態。ここでは、同じ時代に属するという意味。

20) 自分の属さない(支配)階級に共鳴し, それを支持すること[思想] 。自分の社会的存在を誤って認識する意識のあり方

21) 準拠枠(基準枠)は、個人や集団がある事態や状況を解釈し、それに意味づけをする場合の一定の規準、判断の枠組み。

22) Zeitgeist(独):時代精神(思潮)とは、その時代の社会・人心を支配し特徴づけている精神。ある時代を特徴づける思想のこと。

23) トポス(τόπος)の複数:ギリシア語で「場所」を意味する用語。ここでは、定型化した主題(概念)、常套的表現と言う意味。なお、アリストテレス『弁論術』では、トポスは「論法」と言う意味などで用いられている。

24) 還元主義(reductionism)とは、ある事象や存在が、それとは別のものに他ならない、あるいは、それに過ぎないとする立場。また、世界の複雑で多様な事象を単一なレベルの基本的な要素に還元して説明しようとする立場。

25) 原語はロゴグラフォス:この語は初期の散文作家、地誌家、歴史家などを指すのに用いられたが、デモステネスの時代にはもっぱら報酬を貰って弁論(主に法廷弁論)の代作をする者、集会で披露する演説(追悼演説、称賛演説)の作者を指した。


第一章:本文注

1) 特に、「民主的人物」についての古代の悪意ある描写に関しては、プラトン『国家』8.555b-569cと、そのSte. Croix, CSAGW, 70-71のコメントを見よ。民主政についての18世紀の政治討論と現代の容認は、Finley, DAM, 9-10を見よ。Richard Jenkyns, The Victorians and Greece (Cambridge, Mass., 1980), 14-15を参照。一つの理想として、ほとんど普遍的に民主主義を受け入れること、かつ民主的なという定義の相違に関しては、Andrew J. Nathan, Chinese Democracy (New York, 1985)、特にix-x, 224-32を見よ。もちろん例外はある。民主主義についての発言として、ボルネオのブルネイ国の支配者、スルタン・ハサナル・ボルキアの発言は、次のように引用されている(Newsweek, December 22, 1986, p. 24)。「我々は、それを試みたがそれは機能しなかった。」

2) エリートの言説においては、デーモス(民衆)の用語は、全市民団体というよりは、むしろ低い階級の用語として用いられることがあった。Vlastos, ”ΙΣΟΝΟΜΙΑ ΠΟΛΙΤΙΚΗ,” 8 註1;  Ste. Croix, ”Character,”21-26; Whitehead, Demes, 364-68; Raaflaub, ”Democracy, Oligarchy,” 524と註36と、下記、第一章Bのその用語の議論を見よ(以下、本文、並びに注の各章は本書の章)。民主主義についてのアテネ人の考えは、この考えを「民衆による統治」という概念とは別な物として考えることによってのみ理解できるというSealey, ”Origins, ”特に281とAthenian Republic, 特に91-106、146−48は、私には基本的に誤っているように思える。下記、第七章Cを参照。さらに、私は、シーリーの次の主張(Athenian Republic, 5)、アテネの法律は、「権威ある市民」—つまり「平均的な市民」よりかはるかに裕福であり、その価値観と規範が、「社会全体の行動の価値観と規範を決定している」人を念頭に置いて書かれていた、という主張にも納得できない。

3) 現代の民主主義国家におけるエリートたちの影響力と大衆の義務に関しては、Marger, Elites and Masses 特に、209-98を見よ。その分化については、Luhmann, Differentiation, 138-65と下記、第三章D.3を見よ。

4) Raaflaub, ”Democracy, Oligarchy,” 532. 以下を参照、同書544註93; ”Freien Bürgers Recht,” 44-46; Meier, Anthropologie 特に20−22. また、次の研究を参照、Sarah B. Pomeroy, Goddesses, Whores, Wives, and Slaves: Women in Classical Antiquity (New York, 1975), 78. アテネの女性の政治的立場については、同様にLacey, Family, 151-76; Cantarella, Pandora’s Daughters, 38-51; Keuls, Reign of the Phallusを見よ。奴隷に関しては、特に、男性の若者(潜在的市民)と奴隷との間に精神的区別を引くことの重要性については、Golden, ”Slavery and Homosexuality,” を見よ。

5) クリュプテイア〔訳註:「秘密勤務」の意味。スパルタで、役人によって選ばれた青年が、秘密裏にヘロット(国有奴隷)を監視したり殺害する仕事〕:H. Jeanmaire, ”La Cryptie lacédémonienne,” REG 26 (1913): 121-50. Gouldner, Enter Plato, 33-34は、アテネの奴隷は、概してスパルタのヘロットより裕福であったと述べている。

6) 女性の監督委員会の推移については、その委員会がタソスに起源を発していたのは明らかである。B. J. Garland, “Gymnaikonomoi: An Investigation of Greek Censors of Women.” (Ph.D. diss., Johns Hopkins University, 1981) を見よ。女性の監督は、民主主義の終わりの後に、4世紀の最後の四半世紀にアテネで最初に立証されている。ガーランド (11-45) は、その役職はリュクルゴスによって、328−326頃に導入されたと述べているが、この年代に関するその証拠は、ファレーロンのデメトリオスによる通説の317年頃よりか有力ではない。

7) 男子普通選挙権は、19世紀の終わりに現代の西洋の国家では、まだ非常にまれな現象であった。婦人参政権は、20世紀以前には知られていなかった。Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 42-47, 56の既観を参照。「……普通選挙権と市民の自由は、一般に自由な民主主義と結びつけて考えられるが、実際は第一次世界大戦前にはどんな国にも存在しなかった。それはほんの一握りの国家で、かすかに類似していただけであった。

8) 特に、Davies, ”Athenian Citizenship” を参照。彼は、市民権が限定されていたかもしれなかった(また、他のポリスではそうであった)様々なもっと制限された選択肢を指摘している。次の諸研究を参照のこと。同、DCG, 37-38; Ste. Croix, CSAGW, 283-84, ” Character,” 41; Finley, PAW, 9; Reinhold, ”Human Nature,” 24-25 寡頭政の蔓延については、Raaflaub, ”Freien Brügers Recht,” 8 を参照。全ての奴隷人口を40-80,000人と(下記、第一章註59)、成年男子メトイコイ〔在留外人〕を約10,000人と、市民人口を約30,000人(下記、第三章E.1)と仮定すれば、市民人口は、全成年男子人口の約半数と提起することが可能であるが、これらの数字のどれ一つも確実ではない。

9) アテネの政治構造については、優れた紹介がGomme, ”Working”; Hopper, Basis; Finley, ”Athenian Demagogues,” 特に9-13、さらにJones, AD 特に99-133でなされている。最も重要な国制に関する古代の史料は、アリストテレス学派の『アテナイ人の国制』〔訳註:著者がアリストテレス本人か、弟子の誰か、という問題は議論があるが、近年ではアリストテレス本人の説は疑問視されている〕である。Rhodes, CommAPによる広範な解説を見よ。Hignett, HACを参照。様々な政治制度についての、より特別な研究は第二章で引用の予定である。抽選による役職の配分は、国制の民主主義的な特徴と見なされたけれども、(例えば、アリストテレス『弁論術』1365b31-32)いくつかの役職は、特に10人の将軍は選出された。選挙によって任命された財務職の中には、財産資格があるものもあったが、これは個人的な財務説明責任を保証するためのものであった。以下の、諸研究を見よ。Jones, AD , 48-49; Hignett, HAC, 224; Ste. Croix, CSAGW, 602 註21; Gabrielsen, Remuneration, 112-15. Hansen, AECA, 207-26は、アテネの民会とスイスのいくつかの地方の州(カントン)の総会(ランズゲマインド)との間の興味深い類似点を指摘している。しかしながら、その州の総会の法的権限の範囲は、スイス連邦政府の権力によって制限されているし、また州の市民は年に一度だけ総会で集まったので、その類似点は限られている。さらに、Woodhead, ”ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 132, 註9を参照。

10) Loraux, Invention, 1-14のコメントを参照。彼は、「もはや自分たちが、[葬送演説の]演説家〔訳注:ペリクレス〕がアテネを思い出すよう説いた子孫であると、天真爛漫には信じていない(14)」と結論づけている。政治的形態の連続性を仮定する著しい例は、A. B. West, ”Pericles’ Political Heirs,” CPh 19 (1924): 124-46, 201-28もっと最近のアテネの政治的グループについての意見に関しては、下記、本書第三章D. 2を見よ。

11) Meire, Anthropologie, 特に7-26, 46は、いくつかのきわめて価値ある意見を述べてはいるが、私には、古代と現代の政治組織の間の溝を過度に強調しすぎだと思われる。下記、本書第一章 註83を参照。また、「ギリシアのポリスに社会的差別がないことが、古代の政治の経験を現代の経験とは無関係にしている」というHolmes, ”Aristippus,”の仮説の議論に関しては、Ober, ”Aristotle’s Political Sociology,”を見よ。ホームズの論文は、レオ・シュトラウスの考えに基づく政治哲学学派の理論に対する鋭い批判が含まれている。また、そのシュトラウス学派のメンバーは、古代の政治経験の有用性を他に先駆けて提唱する傾向があった。私の観点からは、シュトラウス学派のアプローチの第一の問題点は、エリート文化の哲学的成果だけが、現代的な価値があるという仮定である。私が思うに、アテネの政治組織それ自体の様式は、少なくとも、プラトンやアリストテレスがそれについて何か述べなければならなかったと同じくらい現代世界に関連している。

12) アテネ人の平等と自由、またその限界と否定の考えについては、アリストテレス『政治学』1281a39-b9, 1284a30-34, 1286a25-35, 1317a40-b16, 1318a2-10, 『弁論術』1366a4を見よ。次の研究を参照のこと。Finley, ”Freedom of the Citizen,” 特に13−14; Maio, ”Politeia,” 特に19-20: Jones, AD, 45-50; Larsen, ”Judgment,” 特に3-5; Arnheim, Aristocracy, 130-31, 156; Osborn, Demos, 9-10そして、何よりもRaaflaub, ”Freien Bürgers Recht,” ”Democracy, Oligarchy,” Entdeckung der Freiheit, 258-312 階級の闘争と意識のマルクス主義の観念を、アテネの例に単に当てはめることが困難であることについては、最善の議論がSte. Croix, CSAGWでなされている。彼は階級の闘争と意識の両方とも、実際に関係があると考えているが、率直にそれを実証することの困難さを認めている。次の研究を参照のこと。Dover, GPM, 38-39; Finley, ”Athenian Demagogues,” 特に6-8, 18; Ober, ”Aristotle’s Political Sociology.” 伝統的な自由主義、あるいはマルクス主義の理論もどちらも、十分に民主主義を説明することができないことについては、Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 8-20を見よ。

13) 競争社会としての貴族的社会については、例えば、Gouldner, Enter Plato, 13-15, 45-55 下記、第六章Aを参照。

14) 従って、私の「大衆」の定義は、マルクス主義者が「アテネの大衆」の叙述に含んでいる多くの人物(奴隷、女性、労働者階級のメトイコイ)を除外している。大衆とエリートの現代の定義の議論に関しては、例えば、Mills, Power Elite, 13-18を見よ。

15) 巻末の索引引用箇所のそれぞれの語句を見よ。これらの語句について、プレートス〔大衆〕が恐らく最もあいまいである。「大多数」という制度上の用語から、「デーモス」の政治的同義語へ、「低い階級の一般大衆」(特に、エリートの作家の内で)の社会学的用語への進展の議論に関しては、Ruzé, ”Plethos,” 259-63を見よ。Rhodes, CommAP, 88-89を参照。

16) アリストテレス『政治学』1289b27-1290a5, 1293b34-39, 1296b15-34, 1317b39-41『弁論術』1360b19-30, 1378b35-1379a4『ニコマコス倫理学』1131a24-29; デモステネス19.295; イソクラテス19-36;リュシアス2.80, 33.2, 14.38-44他の出典に関しては、Seager, ”Elitism,” 7を参照。Adkins, ”Problems,” 154は、古代の弁論家は、一般的に、これが生み出す心地よい「三色」効果のために、4つまたは5つではなく3つの美徳を挙げる傾向があったことに言及している。

17) R. Hofstadter and S. M. Lipset, Sociology and History (New York, 1968)の書評であるP. Abrams, ”Sociology and History (Ⅰ), in “ Past and Present 52(1971):118-25は、歴史および社会学の認識論と、きわめて重要な概念化、そして歴史探求への仮説形成の3点を調和することについて、刺激的で洞察力に富んだ議論がなされている。古代史での社会学のモデルの使用については、F. Millar, The Emperor in the Roman World の書評であるK. Hopkins, ”Rules of Evidence”, in Journal of Roman Studies 68 (1978) : 178−86での古典的なお決まりの主張を見よ。Ste. Croix, CSAGW, 81-82; Finley, Ancient History 特に4-6, 60-66, 78-87; Shaw, ”Social Science.”を参照のこと。

18) CSAGW 特に283-300.

19) Finly, AE 特に35-61, ”Ancient History,” 特に88-90. PAW(特に1-10)において、フィンリーは、主要な分析的カテゴリーは変更されてはいないと主張しながら(10、註29)、身分(ステータス)のカテゴリーを、その代わりに「階級」の用語を用いることで曖昧にしている。身分あるいは階級のいずれかが、社会分析にとってふさわしい分析的カテゴリーであるかをめぐる議論については、下記、第六章Aを見よ。

20) Jaeger ,Paideia 特にⅢ.84-85, Demosthenes.

21) しかしSeager, ”Elitism”; Welskopf, ”Elitevorstellung”; Bolger, ”Training.”を見よ。 Finley, DAM 特に3-37; Davies, WPW 特に1−2そして、Starr, Individual and Community 特に89-93これらは、またアテネの政治発展における大衆とエリートの相互作用に非常に敏感である。

22) 巻末の索引引用箇所のそれぞれの語句を参照。Finley, PAW , 2はこれらを階級の用語と見なしている。富はエリートの間の一般的な共通の特徴であることが多いが、これは状況を単純化しすぎである。

23) 例えば、トゥキュディデス『歴史』第六巻、第十三章第一節、第八巻、第一章、第三節―第四節(以下、トゥキュディデス『歴史』6.13.1, 8.1.3-4と略); アイスキネス2.22, 171, 3.2, 4;ヒュペレイデス5.22 を見よ。アテネの陪審員は、(恐らく)役人がそうであったように、少なくとも30歳以上でなければならなかった。R. Develin, ”Age Qualifications for Athenian Magistrates,” ZPE 61 (1985): 149-59を見よ。仲裁係〔訳註:ディアイテータイ(仲裁係)はポリスの役職ではあるが、就任が市民の義務であり、また執務終了後、執務審査に服さないなどの点で、変則的な役職。訴訟において10ドラクマ以上の事件を担当〕は60歳以上でなければならなかった。Sommerstein, ”Aristophanes,” 320-21は、古喜劇は「老人を支持して若者に対して意図的な偏見を示している」と述べている。S.C.Humphreys,”Kinship Patterns in the Athenian Courts,”GRBS 27 (1986): 89-90は、年長者の親戚が陳述を裏付ける証人として好まれたことを指摘している。年齢資格(ステータス)は、長老から市の歴史を学んだという弁論家の主張に何らかの影響を及ぼしたかもしれなかった。下記、第四章Dを参照。

24) 前4世紀には、1タラントンほどの個人財産をもつ1,200人から2,000人の市民が、戦争税〔エイスポラー〕の支払いを要求された。また3タラントンから4タラントンほどを持つ300人ぐらいが、トリエラルコス(三段櫂船の奉仕者)や他のレイトルギア〔公共奉仕〕を行使する責任があった。下記、第三章E 1を見よ。

25) G. Orwell, Animal Farm (New York, 1946), 112.

26) 例えば、アテネの支配エリートの存在は、以下の研究などで仮定されている。 Haussoullier, Vie municipal, 132-33; Larsen, ” Judgment,” 8; Perlman, ”Politicians,” 特に340−41と”Political Leadership,” 特に161−62; de Laix, Probouleusis, 174-77, 191-92; Mossé, “Politeuomenoi, “ 199.

27) Jones, AD, 42; Finley, AE, 37下記、第三章 Cを参照のこと。

28) Finley, DAM, 64; アテネで制度化された支配エリートが存在していないことについては、同書25-26, Ancient History, 97-98; Hopper, Basis, 18-19; Bolger,”Training.”を参照。また、下記、第七章G. 1を参照のこと。

29) G. Mosca, The Ruling Class, E. and C. Paulの編集と翻訳(New York,1962): V. Pareto, The Mind and Society, 4vols., A. Bongiorno and A. Livingstoneの翻訳(New York, 1935, 1963改定)を見よ。エリート主義の政治哲学の簡約な入門書は、Marger, Elites and Masses, 62-86: Burnham, Machiavellians, 81-115 (Mosca), 171-220(Pareto)を見よ。

30) Michels, Political Parties 特に50-51, 61-77, 85-128, 333-71 引用は50, 61-62から。Burnham, Machiavellians, 141-68を参照。

31) Marger, Elites and Masses, 81. Mills, Power Elite 特に3-29は、影響力の大きい現代の研究の一例である。そこでは、何人かの古典的なエリート主義者を批判しながら、エリート主義の構造上のモデルを本質的に正しいと仮定している。Lipset, ”Political Sociology,” 特に91; Washburn, Political Sociology特に50-103を参照。また、下記、第七章G. 1を見よ。

32) 古代史家がミヘルスを引用しているまれな例として、Connor, NP, 94 註11を見よ。注目すべきことには、その引用は是認している(それは「寡頭制の鉄の法則」自体にかかわることではないけれども)。

33) Finley, DAM特に7−16, PAW特に139-40, Ancient History, 97を参照。民主主義のための長所としての無関心に関しては、Lipset, ”Political Sociology,” 95と註20で引用された文献を、古典的なエリート主義の理論についての他の批判に関しては、例えば、Bachrach編Political Elites; Field and Higley, Elitismを見よ。

34) Finley, ”Athenian Demagogues,” DAM, 3-37, PAW, 70-84を参照。Finleyの考えのいくつかを基にした重要な研究の中に、Connor,NP; Strauss, AAPWなどがある。

35) Carter, Quiet Athenian, 10-17の議論を参照。支配をするためのエリートの自然の欲望については、アリストテレス『政治学』 1283b34-1284b34を見よ。Ober, ”Aristotle’s Political Sociology.” を参照。また、下記、第二章F. 6を見よ。

36) アリストテレス(『政治学』特に、1265b10-12, 1296a21-32, 1302b24-25, 1303b13-17, 1304b20-1305a7)は、階級の緊張がポリスの直面する最大の危険の一つと見なしており、イデオロギー面と物質面の両方で、どのようにして緊張が調停できるかについての勧告に多くのスペースを割いている。Ober, ”Aristotle’s Political Sociology.” を参照。Ste. Croix, CSAGW 特に278-300は、当時の階級の役割を過度に強調する傾向はあるが、その問題を最も良くそして最も十分に論じたものである。Fuks, ”Patterns”; Vernant, ”Remarks.” を参照。アルカイック期と古典期のギリシア内部の政治的無秩序と内乱に関する階級の緊張の蔓延と重要性についての異なった見解に関しては、例えば、E. Ruschenbusch, Untersuchungen zu Staat und Politik in Griechenland vom 7.-4. Jh. v. Chr. (Bamberg, 1978) の次の見解を見よ。イデオロギーと階級の緊張は、内乱にはほとんど関与しなかった。闘争はみな貴族の対立するヘタイレイアイ〔党派の仲間〕の間のもので、それは外交問題が原因であった。また、Lintott, Violence, 34は次のように述べている。緊張は「富裕者と貧しいものの間の基本的な不平等から」生ずるが、比較的に「本当の階級闘争がめったにないこと」が「その緊張の著しい特徴」である。ルッシェンブッシュの見解についての批判に関して、同書272-73を参照。また、アルカイック期のアテネの歴史における階級の役割の議論は、下記、第二章 C、Dを参照。5世紀と4世紀のスタシスの一覧表と分析に関しては、H.-J. Gehrke, Stasis. Untersuchungen zu den inneren Kriegen in den griechischen Staaten des 5. und 4. Jh v. Chr. (Munich, 1985)を見よ。

37) 4世紀の階級闘争とそれを調停する民主主義の機能については、以下の研究を見よ。Ste. Croix, CSAGW, 284-87, 293-98; Vernant, ”Remarks”; Fuks, ”Patterns”; Rhodes, ”On Labelling,” 208; Wood, ”Agricultural Slavery,” 9-10,13また、Meier, Anthropologie, 特に18-21の民主的政治秩序の重要性についての幾分か異なった見解を参照。

38) Lipset, ”Political Sociology,” 91-92; 同書83「政治学の研究の中心の関心事は、同意と分裂の問題である…。」を参照。政治社会学の起源については、同書84-91を見よ。そこでは、マルクス、トクヴィル、ヴェーバー、そしてミヘルスを政治社会学の分野の「創始者」として引用している。Washburn, Political Sociology, 27 は、政治制度は独立した社会変化の源であるというヴェーバーの認識に基づいて、彼を政治社会学の真の発明者と見なしている。Shaw, ”Social Science,” 36-47を参照。彼は機能主義者が社会変化または闘争を適切に説明できなくて、そこで均衡を過度に強調したり賛美しがちであることを理由に、機能主義者の社会学モデルをつぶさに批判している。しかし、制度的均衡が望ましいことに関して、構造主義の用語で、優れた主張がなされている。そしてその制度的な均衡は、民主的変化のダイナミックな過程の所産であった。Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 185-88を見よ。

39) 権力の議論の中で、私が特に役に立ったのは、以下の研究である。Meier, Anthropologie, 32-35; Bachrach編Political Elites, イントロダクション: 2-5(権力と権威の関係について); Luhmann, Differentiation, 150-52(権力と意思決定);Lipset, ”Political Sociology,” 105-107(アクセス); Washburn, Political Sociology, 特に19-20(正当性についてのヴェバーの議論); Foucault, History Ⅰ. 41-42, 81-102(関係性); Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 92-120(異種性)。

40) 特に、ヘロドトス『歴史』第3巻第80章―第82章(以下、ヘロドトス3.80-82と略)とそのEhrenberg, ”Origins,” 525のコメント、またConnor, NP 199-206を見よ。Raaflaub, ”Democracy, Oligarchy,” 517-18と註3は、政治思想は、民主主義の刺激的かつ人心を動揺させる現象を論ずるために「早い時期に始まった」と述べている。社会政治的実践と政治的理論の間の関係についての私の考えは、ー実践とイデオロギーは、民主主義を創造するのに相互に作用し、そしてその理論は後であるー多少、例えばMeire, Anthropologie, 7-8, 17, 27-44のそれとは異なっている。彼は、民主主義の考えは実践に先んじたに違いなかったと仮定している。下記、特に第二章Eを参照。

41) Pearson, ”Party Politics” 引用は50.

42) 同書 49.

43) de Laix, Probouleusis、特に139 -42, 189-92上記、第一章註26で引用した、アテネでの支配エリートの存在を仮定した他の研究を参照のこと。評議会の社会構成については、下記、第三章E.3を見よ。

44) Gomme, ”Working.” Marger, Elites and Masses, 82を参照。

45) Jones, AD, 111-22, Rhodes, Boule 特に78−87, 214−15を参照。ドゥ・レイの民主主義に対する評議会の関係の誤った解釈については、Connor, ”Athenian Council,” 特に35−36による重要な批評とH. W. Pleket, Mnemosyne 4th ser. 31 (1978), 328-33特に331を見よ。Hansen, ”History of the Athenian Constitution,” 64はプロブーレウシス〔訳註:先議の原則〕の用語の希少性を指摘し、それはアテネ人によって用いられた専門的な国制上の用語としては証明されていないと述べている。

46) Finley, PAW, 56

47) 例えば、Hansen, Sovereignty 特に15−21(自分の立場についての初期の、かつやや過激な発言)を見よ。下記、第七章Cを参照。Hansen, ”Initiative and Decision,”は、アテネの政治の本質についての多くの優れた考えの要約であり、また「権力の分離」理論の説得力のある発言である。

48) Ostwlid, From Popular Sovereignty, 497-524; Sealy, ”Athenian Concept of Law,” Athenian Republic 特に146−48、91−106 以下の研究を参照のこと。Harald Meyer-Laurin, Gesetz und Billigkeit im attischen Prozess: Graezitsche Abhandlungen 1 (Weimar, 1965); Joachim Meinecke, ”Gesetzesinterpretation und Gesetzesanwendung im attischen Zivilprozess,” Revue internationale des droits de l’antiquité, 3rd ser. 18 (1971): 275-360.

49) ハンフリーによるアテネの法の本質の議論:”Evolution of Legal Process,” ” Law as Discourse,” ”Social Relations,” ”Discourse of Athenian Law”; Maio, ”Politeia”; Osborne, ”Law in Action” ; Garner, Law and Society: そして(いくらかの留保付きではあるが)Holmes, ”Aristippus”118- 23は、私には狭い国制論者の議論よりか、はるかに古代の現実に迫っているように思われる。

50) Finley, DAM, 23国制の研究についての有用性が限られていることについて、色々な型どおりの発言の中で、例えば、以下の研究を見よ。Finley, PAW, 7, 56-58, Ancient History, 99-103; Ehrenberg, ”Origins,” 546-47; Osborn, Demos, 64-65; Connor, NP, 4-5, ”Athenian Council,” 33, 39 Foucault, History,Ⅰ.81-91, 102での「法的・推論的な」権力概念についての精力的な非難を参照。フーコーは、それが制約や制限に集中し過ぎているという理由で非難している。「もし、権力をそれが行使されている具体的かつ歴的枠組みの中で分析したいのであれば、自由にならなければならないのは、すなわち、法律と主権の理論的な特別扱いのこのイメージからである。もはや法律をモデルやコード(規範)として解さない権力の分析論を構築しなければならない」(90)。

51) Finley, ”Fifth-Century Athenian Empire”; 以下を参照のこと。“ Freedom of the Citizen,” 21, DAM 特に48-50, PAW, 33-36,111-14,131-34, Ancient History, 84なかでも、同様のコメントがMahaffy, Problems, 16-17; Ste. Croix, CSAGW, 290-91; T. J. Galpin, ”The Democratic Roots of Athenian Imperialism,” CJ 79 (1983): 107-108によってなされている。

52) 例えば、Gomme, ”Working,” 13; Jones, AD , 5-10, Badian, ”Marx in the Agora,” 50を見よ。

53) Finley, DAM, 49.

54)『アテナイ人の国制』第四一章、第三節(以下、『アテナイ人の国制』41.3と略);下記、第二章Gを参照。

55) Jameson, ”Agriculture and Slavery.”

56) Ste. Croix, CSAGW, 141-42, 284, 505-506.

57) 古代経済における奴隷制度についてのより一般的なマルクス主義者の主張に関しては、Ste. Croix, CSAGW, 120-74, 226-43, 255-59, 504-505; Vernant, ”Remarks.”を見よ。民主主義を奴隷制度に結びつけて考える初期の非マルクス主義者の主張の中では、例えば、Mahaffy, Problems, 16-17; E. Meyer, Kleine Schriften (Halle, 1924),Ⅰ. 193-98 (Finley, Ancient Slavery, 90で引用されている)を見よ。

58) 奴隷社会としての古代ギリシアについての議論の中では、以前の注に引用した研究に加えて、以下の研究を見よ。Gouldner, Enter Plato, 25-27; Finley, ”Was Greek Civilization,” Ancient Slavery (豊富な文献目録付き); Chester G. Starr, ”An Overdose of Slavery,” Journal of Economic History 18 (1958): 17-32; C. N. Degler, ”Starr on Slavery, ” Journal of Economic History 19( 1959): 271-77.

59) もし、ギリシアのポリスで、奴隷の使用がなければ多くの余剰金を生みだすことができなかった、ということが論証されるなら、ギリシア文明は奴隷制に基づいていたことは明らかであろう。しかし、Wood, ”Agricultural Slavery,” 15, 21-31は、自由労働から余剰を引き出す周知の方法があったので、奴隷はアテネの土地から必ずしも富を生み出さなかったということを明らかにしている。Finley, ”Was Greek Civilization,” 150-51は、Lauffer (Bergwerkssklaven, Ⅱ.904-906は約90,000人と推定している:916 注5)にならって、5世紀と4世紀の間アッティカには60,000から80,000人の奴隷がいたかもしれないと推測している、そしてこれは、自由な1世帯あたり平均3または4人の奴隷に相当すると述べている。しかし、Jones, AD, 76-79が行った約20,000人の奴隷というずっと低い評価を参照のこと。フィンリーが暗示したように、確かに奴隷はそれほど均等に分配されていなかった。少なくとも、数人の富裕者の市民は数百人の奴隷を所有した。ニキアスは、1,000人の奴隷を所有していると報告された(クセノポン『政府の財源』第四章14)。富裕者のアテネ人の富の他の史料については、Thompson, ”Athenian Investor”; Davies,WPW, 38-72を見よ。

60) 土地所有の市民と田舎の居住については、Audring, ”Grundeigentum,” ”Grenzen”; Ober, FA, 19-23; Osborn, Demos, 47-63を見よ。下記の第三章E. 1を参照。

61) 特に、Jones, AD, 10-20; Wood,”Agricultural Slavery,” 16, 41-47を見よ。Finley, ”Was Greek Civilization,” 148-49は、ギリシアに存在した農業奴隷の程度については言葉を濁しているが(同書、163-64)、少なくとも象徴的には、民主主義と奴隷制は結びついていたという考えに興味を示している。しかし、フィンリーは、『古代の奴隷制』において、農業奴隷の広範な流布についてのジェイムソンの主張—誤った関連に基づいた主張!―を受け入れながら(同書89註60)、明確に奴隷制と民主主義の間の関連を「明らかに誤った」と否定している。奴隷を所有する平均的市民の実証的事例は、それはアテネの法廷の訴訟者が行ったコメントに一部分挙げられているが(例えばデモステネス45.86)、富裕な訴訟者が、下層階級の陪審員を経済的対等者と呼びかける習慣を考慮すれば、その事例は一層説得力に乏しくなっている。下記、第五章D.2を見よ。

62) Audring, ”Grenzen,” 454; Ober, FA , 22-23; 特に、Wood, ”Agricultural Slavery.”

63) アテネの奴隷制度と民主主義を結びつけるためのより強力な間接的議論が、植民地時代のヴァージニア州との比較でなされるかもしれない。ヴァージニア州では、動産奴隷の増加と共和制支持の感情の発達は同時に起こっていて、明らかに密接に結びついた現象であった。Edmund S. Morgan, American Slavery―American Freedom: The Ordeal of Colonial Virginia (New York, 1957) 特に363−87は、ヴァージニア州における上流階級と下層階級の自由な白人男性の間の政治連帯の共和制主義への重要性を強調している。そして、上流階級の奴隷労働の搾取はこの連帯を可能にしたと論じている。その対比は、もし、完全に発達したなら、アテネ市民の間で階級の境界線を越えるイデオロギー的合意形成のために、富裕者の間の奴隷所有が果たした役割への重要な理解を生み出すかもしれない。しかし、ヴァージニア州とアテネの例の間には重要な相違点がある。アテネと違って、ヴァージニア州においては、田舎の経済は、はっきりと市場志向であり(同書366)、貧しいヴァージニア州人は税金を支払っていたし(同書366)、自由な貧しい人は比較的数として少なかった(同書366, 380, 386)ので、エリートの支配には何の脅威も与えなかった。私はモーガンのビリーG スミスへの照会を感謝しなければならない。また後者には、奴隷制と民主主義の問題に関しての議論に感謝している。また、下記、第二章C、第六章Dを参照。

64) アテネのために試みられた富/人口曲線に関しては、Davies, WPWのグラフⅠ(36ページの反対側)を見よ。デイヴィスのグラフは仮説である。近代以前の経済における富の分配について、統計的に意味のある評価を試みようとする際に伴う現実的な困難の評価に関しては、Smith, ”Material Lives,” “ Inequality.”を見よ。富のギリシアの専門用語については、下記、第五章A. 1を参照。アリストテレスの「中位の市民」の初期の不完全な概念と、政治分析における位置については、Ober, ”Aristotle’s Political Sociology.”を見よ。

65) Jones, AD 特に8-10, 23-37, 80-93引用は10 ジョーンズの「中流階級」の主張のそれ以上の議論に関しては、下記、第三章E. 2, 4 第五章D. 2を見よ。

66) Gomme, Population, Table 1, p. 26は400年には約22,000人から323年には約28,000人の増加を提案している。Hansen, ”Demographic Reflections,” は4世紀の人口は全く安定していたと主張している。同著者のDemography and Democracy 特に9-13, 65を参照。Barry S. Strauss, ”Demography and Democracy in Fourth-Century B.C. Athens”(Annual Meeting of the American Philological Association, December 30, 1986で発表された論文)は、むしろ人口の急激な増加を主張している。ペロポネソス戦争以後の低人口は、大きな政治的影響をもたらしたという主張に関しては、Strauss, AAPW 特に81を見よ。下記、第三章E. 1を参照。

67) Davies, WPW, 28-35 下記、第三章E. 1, 2, 4を見よ。

68) Perlman, “Politicians,” 特に327, ”Political Leadership,“ 特に162−66; de Laix, Probouleusis, 174-77, 191を参照。

69) Hasebroek, Trade and Politics. ハーゼブルックの説は、とりわけ、以下の研究によって異議を唱えられた。Gomme, “Traders and Manufacturers,” in Essays in Greek History and Literature (Oxford, 1937), 42-66; Thompson, ”Athenian Investor”; Marianne Hansen, ”Athenian Maritime Trade in the Fourth Century B.C. Operation and Finance,” CM 35 (1984): 71-92しかし、E. Erxleben, ”Das Verhältnis des Handels zum Produktionsaufkommen in Attica im 5. und 4. Jhr. v.u.Z.,” Klio 57 (1975): 365-98;とTrade in the Ancient Economyに収められた様々な小論文、特にCartledge, ”Trade and Politics.”を参照。一つの折衷案(市民の貿易業者は少なかったが、このことは、アテネ人の貿易に対する不快感よりも、貿易の複雑さのせいであった)がH. Montgomery, ” ‘Merchants Fond of Corn.’ Citizens and Foreigners in the Athenian Grain Trade,” SO 61によって提案された。また、下記、第六章D.2.を参照。

70) 古代の社会史並びに政治史のための分析概念として、”中流階級“の概念が役に立たないことについては、Finley, PAW, 10-11, と注.31; Davies, DCG, 36 ; Ste. Croix, CSAGW, 71-72, 120-33を見よ。デモステネス(例えば、18,46, 24.165)は、中流階級についての観念を持っていないように思われる。

71) アテネの経済における天然資源の価値については、以下の研究を見よ。Isager and Hansen, Aspects, 19-106; Ober, FA, 13-31; Osborn, Demos, 93-126メトイコイについては、Whitehead, Ideologyを見よ。Finley, PAW, 16は、アテネの政治発展において、アテネの多数の総人口と領土基盤、さらにラウレイオン銀山の重要性を述べている。Jones,AD,93-96を参照。

72) 銀鉱山からの国家の歳入の困難な問題については、Hopper, “Attic Silver Mines,” ”The Laurion Mines: A Reconsideration,” Annual of the British School at Athens 63 (1968): 293-326を見よ。Ober, FA, 28-30(引用された文献と共に)を参照。一般的なアテネの歳入については、Andreades, History, 268-363を見よ。Burke, ”Lycurgan Finances.”を参照のこと。

73) 340年代までの銀の生産量:Hopper, ”Attic Silver Mines,” 215-16, 250-52; Ober, FA,2 8-29.

74) フィンリーは、現代の大学のコミュニティを引き合いに出している:DAM 17彼は、“Athenian Demagogues,” 9,13において対面概念についてほのめかしていたが、さらに ”Freedom of the Citizen,” 23, DAM, 17-18, PAW, 28-29, 82-83において、より詳しく述べている。引用文:DAM, 17 フィンリーの対面モデルは、なかでも、Holmes, ”Aristippus,” 121によって取り上げられた。

75) フィンリー(PAW, 28 注9)は、Laslett, Philosophy, Politics and Society (Oxford, 1956)の第10章を引用している。また、Laslett, The World We Have Lost: England Before the Industrial Age2 (New York, 1973), 55-83を参照。区:Hopper, Basis; Daviero-Rocchi, ”Transformations, ”36-40, 44-45; Whitehead, ”Competitive Outlay,” Demes 68-69, 85, 226-233, 248; Osborne, Demos, 64-92. Roussel, Tribu et cité, 157は、同じ様な統合的な役割は、プラトリア〔訳註:兄弟団。アテネ市民の下部組織の1つ。第二章訳註3を参照〕によって演じられたかもしれないと提案している。以下を参照。トックヴィルが、政治的分裂と民主的社会にとって必要な合意の両方を生み出し維持することのできる単位として、地方のコミュニティーに置いた強調は、Lipset, “Political Sociology, ”87-88によって議論されている。

76) Humphreys, Family, 9, ”Social Relations,” 特に350 また “Evolution of Legal Process,” は、関係者が対面関係を持っていた村から、持ってはいなかった都市へ公判決の位置を変えることでのアテネの法律の影響を議論している。Osborn, Demos, 64-65は、ポリスレベルでのフィンリーの対面モデルが不適切であることを指摘しているが、地方の交流が民主政を説明するのに十分であると仮定することで誤りを犯している。Ober, Review of Whitehead, DemesとOsborne, Demosを参照のこと。

77) 区の民会については、Whitehead, Demes, 86-120を見よ。重要なことには、区の民会出席に関して手当はなかった。あるいは、重要な区の役人でさえ支払われなかった。同書161.

78) アテネの人口については、上記第一章の註66に引用した研究と下記、第三章E. 1を見よ。戦争の敗北については、Struss, AAPW, 179-82を見よ。

79) Finley, DAM , 17フィンリーは『政治学』1326b3-7しか引用していないが、8-25もその問題に非常に密接に関係している。

80) 『政治学』第七巻と第八巻。特に1326a5-b25, 1329a17-1330a33, 1332b29-33, 1337a21-26; 0ber, ”Aristotle’s Political Sociology.”を参照。

81) 『政治学』を書くに際してのアリストテレスの目的については、Lord, Aristotle: Politics (Introduction), Education and Culture, 30-33を見よ。Lord, Essaysに収録された論文を参照。

82) 私は「想像上のコミュニティ」の考えを、Anderson, Imagined Community から借りている。それは、広く政治社会について言うべきことがたくさんある現代のナショナリズムの研究である。特に15-16を見よ。国家というものが想像されるのは、「どんな小さな国家のメンバーでさえ、決して仲間のメンバーのほとんどを知り、会ったり、聞いたりすることさえ決してないだろうが、しかしそれでも、各人の心の中に、親しい交わりのイメージが生きているからである。」アンダーソン(同書15-16)は、この種のコミュニティを「対面接触の原始時代の村」と対比させている。

83) Gomme, ”Working,” 24-25しかし、そこでの彼の次のコメントは、概して見識のあるものである。「非凡な才能」〔アテネ人の〕は、富裕者が老人も若人も両方とも、民会に参加する用意があるだけでなく、「彼らが、以前には富と生まれの権利によって主張していたその権力を、今は民衆指導者の手腕によって得ていること」を納得していたという事実によって証明されている。

84) 天才創設者としてクレイステネスを祀る傾向は、Ehrenberg, ”Origins,” 特に540−43がよい例となっている。一般的なギリシアのポリスと、特にアテネの民主主義に関して、カリスマ的なリーダーシップの支配についてのヴェーバー流の「理想的なタイプ」に関してFinley, Ancient History, 93-99による批判を参照。

85) R. シーリーは繰り返し、アテネの政治関係者の動機は、実用主義的であり個人的であったこと、また政治的変化は社会的階級の争いや緊張の結果ではなかったことを主張している。例えば、シーリーの“Athens after the Social War,” ”Callistratos of Aphidona,” Athenian Republic, 148を見よ。政治生活を上に上げ、それを社会的基盤から切り離そうとする試みに関しては、Paul A. Rahe, ”The Primacy of Politics in Classical Greece,” American Historical Review 89 (1984): 265-93 を見よ。幾分似たようなアプローチが、Meier, Anthropologie, 7-26によって取られているが、同様に40−44を参照のこと:社会と政治の分離できないこと。社会の中で政治が埋め込まれた性質であること。Finley, PAW, 特に8-9また以下の研究を参照。Vernant, ”Remarks,” 73; Daviero-Rocchi, ”Transformations”; Osborn, Demos, 8-10; Lipset, ”Political Sociology,” 特に83; Washburn, Political Sociology 特に108, Foucault, History,I. Humphreys, Family,1-32, 61-75は、アテネにおける政治生活と私生活の間の関係の問題についての優れた概論である。彼女は、民主的ポリスによって、私的な利益や忠誠心の影響を政治的背景から排除するという意識的な試みがなされたと述べている。しかし、このことは、私生活が重要ではないと主張することとはきわめて異なっている。

86) Ober,” Aristotle’s Political Sociology”; 幾分より極端なコメントであるHolmes, ”Aristippus,” 特に116を参照。彼は、プラトンとアリストテレス(とりわけ)は、国家と社会を区別しなかったと述べている。

87) W. Dray, ”Narrative versus Analysis in History” (Paper read at North Carolina State University, 1983): idem, ”On the Nature and Role of Narrative in History,” History and Theory (1971): 153-71; idem, ”Point of View in History,” Clio (1978): 265-83構造主義のアプローチと通時的なアプローチの統合の必要性については、Humphreys, “Law as Discourse,” 257-59のコメントを参照のこと。

88) New Haven,1974.

89) Whitehead, ”Thousand New Athenians,” は約1,000人のメトイコイが404/3年の民主的革命の後に市民権を授与されたと主張したが、これは、IGⅡ2  10の異論の多い読みに頼っている。以下、第二章註103を見よ。4世紀には、アテネ人は多くの新しい市民を作らないという一般的傾向については、Hansen, ”Demographic Reflections,”と以下の第六章C.2を見よ。

90) Dover, GPM 特に30-32 また、380年から330年までに、アテネ人の社会的態度に急激な進展があったという別の見解に関しては、Davies, DGG, 165-87を見よ。

91) Finley, Authority and Legitimacy , 17; PAW, 122-41, Ancient History, 4-5でのイデオロギーの議論を参照のこと。

92) Jones, AD, 41-72とHavelock, Liberal Temper は民主的理論を「再構築」する試みの注目に値する例である。Finley, ”Athenian Demagogues,” 9, PAW, 124-25と注7では、この努力が骨折り損であることが述べられている。Loraux, Invention, 173-80, 204-206は、民主的なアテネ人が、首尾一貫した体系的な民主主義の理論を発展させなかったことを奇妙に思ったが、Maio, ”Politeia,” 18-19 n. 7を参照。私は正しいと思うが、彼は次のように述べている。「人は自らの信条を精力的に守る…それが総攻撃を受けている時は。4世紀のアテネでは、民主的信条は、そのような攻撃を受けていなかった」ので、理論がないことは驚くことではない。

93) Shaw, ”Eaters,” 5. またDover, GPM はアテネ人の社会的態度についての重要な資料のコレクションではあるが、後者の方に向かっているように、つまり統合された一連の考えよりも偏見に専念しているように思われる。それゆえ、政治的な意思決定に用いられたアテネ人の態度の重要なニュアンスを曖昧にしているように思われる。「大衆の道徳は合理的に考え抜かれていなかったので、それはまた全く体系を持っていなかった」というドーヴァーの盲目的な仮説についての一般的批判に関しては、Adkins, ”Problems.” を見よ。C. マイヤーと後継者によって創始された「概念史」の研究は、大衆のイデオロギーの研究と伝統的な「思想史」の中間に位置している。Raaflaub, ”Freien Bürgers Recht,” 13のコメントを参照。

94) Washburn, Political Sociology, 234-67 引用は261。
 95 例えば、アリストテレス『弁論術』1368b7-9を見よ。「法律」(ノモス)は個人的(イディオス)であるかーその場合は、それは書かれておりー、または共通の(コイノス)いずれかである、後者は書かれておらず、それは「全ての人が同意しているところのものが正しい」(パラ・パシン・ホモロゲイスタイ・ドケイ)。コミュニティーの精神についてのイソクラテスとプラトンの概念については、Jaeger, Paideia, Ⅲ.119-20, Ⅱ.238を見よ。デモステネス24.121(上記引用)を参照。この「共通の法律」または精神を回復することの困難さは、Osborn, Demos, 66; Gruen, Hellenistic World,Ⅰ.250によって述べられている。

96) Starr, Awakening, 88-89, Individual and Community, 61また、以下の研究を見よ。Finley, PAW, 124-26, ”Was Greek Civilization,” 154; Forrest, EGD, 21-36; Dover, GPM, 39-40 (そのケースを誇張しているように、私には思われる)。Washburn, Political Sociology, 245-46は、J. Huber and W. H. Form, Income and Ideology (New York, 1973)が述べた「特権アメリカ人のイデオロギーは、貧しい市民のそれとは全く違っている。裕福な人々は、経済的システムの報酬が正当に分配され、投票が意義があることを貧しい人々よりも信じがちである。」を引用している。しかし、Washburn (Political Sociology, 245-46)は、また、特定の「イデオロギーの違いは、しばしば、一般的アメリカ人の価値観との明らかな一致の下にすっかり隠されていた」ので、多様な社会的理想は、部分的には明白な社会政治的な対立を伴わなかった、と述べている。

97) Loraux, Invention, 170, 330-37の有用な議論と以下、第7章G.2を参照。イデオロギーについてのアルチュセールに関しては、L. Althusser, Essays on Ideology (London, 1971)、特に、32-60の人間行動における「物質」からのイデオロギーの不可分性について、またイデオロギーとイデオロギー的国家機関(教育並びに宗教機関など)の違いについてを見よ。T. Benton, The Rise and Fall of Structural Marxism: Althusser and His Influence (London and Basingstoke, 1984) 特に、45−49, 96-107を参照。「イデオロギーは〔アルチュセールには〕、それ自身の現実を持っていた。それはイデオロギーを「真実」かまたは「偽り」であるかという「意識」に単純化できないので、イデオロギーの闘争は、「幻想〔真実か誤りか〕の修正」のための行為というより、制度構造や社会的慣習を変革するための、それ自体が「本物の」闘争であると今や考えられるかもしれない」(106)。

98) J. Culler, The Pursuit of Signs: Semiotics, Literature, Deconstruction (Ithaca, 1981) は、優れた一般的概論である。Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 152-63は、言説と社会闘争の関係についての優れた議論である。政治的文脈における記号論とシステム理論の関係に関しては、Luhmann, Differentiation, 166-89を見よ。

99) 例えば、Connor, ”Athenian Council,” 33, 39; Finley, Authority and Legitimacy; Maio, ”Politeia,” 19と註9 (Finley, DAMを引用); Whitehead, Demes, 251. 上記、第一章、註49と50を参照。

100) これらの路線での初期の主張に関しては、Bryant, ”Aspectc Ⅱ” を見よ。William Kluback (Notre Dame, Indiana,1982) 翻訳による、C. Perlman, The Realm of Rhetoric, 特に153-62を参照。

101) 聴衆の意見に順応すること:アリストテレス『弁論術』1367b7-12, 1390a25-27, 1395b1-11, 1395b27-1396a3, 1415b28-32 ; 自らの性格や行動を適切と示し、そしてライバルのそれを適切でないと示すこと:『弁論術』1377b20-1378a3, 1415a28-1415b1, 1416a4-1417a また、非常に同時代のPs-Aristotle Rhetoric for Alexander 29.1436b16ff., 34.1439b15-36, 1440a25-b1; 37.1441b36-1442a14, 1443b14-21, 1444b35-1445a29による同様のコメント、ならびにSattler, ”Conception of Ethos,” 特に56-60を見よ。Bryant, ”Rhetoric,” 413の簡潔な発言:レトリックの機能は「考えを人に合わせる機能、そして人を考えに合わせる機能」である、を参照のこと。

102) 例えば、アリストテレス『弁論術』1354a1-31, 1395b27-1396a3; 1404a1-8;プアトン『ゴルギアス』 452c-454b, 462b-c, 『パイドロス』260a, 『国家』 6.493a-c; トゥキュディデス2.65.8-12; イソクラテス1.36 政治的雄弁家自身は、こうした習慣を非難した。以下、第7章E.4を見よ。レトリックの現代の崇拝者や研究者は、レトリックは単なる甘言であるという非難に反論を試みている。Jaeger, Paideia,Ⅱ.71; Bryant, ”Aspects Ⅰ“ また、第三章D.2を参照のこと。

103) アリストテレス(『弁論術』1403b9-13)は、説得は次の3つの証拠から生じると指摘している。(1)判定者はある意味では影響を受ける。(2)彼らは、演説者はある人柄の持ち主であると考える。あるいは(3)〔弁論によって〕何かが実証されている。最後のものは、必ずしもイデオロギーに依存してはいない。Adkins, “Problems,” 145-47は、雄弁家の演説の中には、哲学的なまた他の「大衆向きではない」考えという一般的な思想のとうとうとした流れがあるのかもしれないと述べている。このことは間違いないが、以下第七章G.2を参照。また、イデオロギーは複雑であり、(哲学に比べて)一貫性がないことを心に留めておく必要がある。雄弁家は、人気のあるイデオロギーが目的に合っているときには、別の側面に訴えるかもしれない。デモステネス20と21における富裕者の別の論じ方をよく考えるべきである。前者は富裕な男の特権を支持し、後者は富裕な男の傲慢さを攻撃している。

104) この一般的な方法については、Ober, FA, 5-6を見よ。Dover, GPM 特に6; Davies, DCG, 124; Finley, ”Freedom of the Citizen,” 10を参照。Loreaux, Invention, 176「…民主的思考によって紛れもなく影響を与えられた唯一のテキストが、これらの4世紀の弁論家のものである…。」文書のグループをまとめて見ることの重要性については、Finley, Ancient History, 44-45(碑文研究についての話)を見よ。

105) 古代において1,700を越える弁論が、10人の最も著名なアッテイカの弁論家の作と考えられていた。Bonner, Lawyers, 4 この数字のうち、約140が現存している。(巻末の付録を見よ。)〔民会などの〕審議演説の保存数が極めて少ない点については、Hansen, ”Two Notes on Demosthenes.” を見よ。また、どれほど失われた演説が、形式において演説全集とは異なっていたかについての理論に関しては、例えば、Adams, ”Demosthenes Pamphlets,” 15-16を見よ。彼は、失われた即興の審議演説は、現在残っている少数のものよりも―これらはすべて事前に書かれていたようであるがー、個人的なコメントが多く含まれていたであろうと示唆している。Bonner, ”Wit and Humor,” はロゴグラファー〔法廷弁論作家〕によって書かれたものではない失われた法廷弁論は、現存する演説よりもユーモアをもっと利用したかもしれないと示唆している。

106) 従って、例えば、ライバルの動機について、弁論家は説明しているけれども、それが客観的に検証可能な現実と一致することを意図したと想定する演繹的(アプリオリ)な理由はない。例えば、トゥキュディデスの事件の説明がそうであったと推測する理由があるように。Finley, Ancient History ,81で賛意をもって引用されたCawkwell, Philip, 19のコメントを参照のこと。

107) 以下第三章E.4を見よ。一般的に、文学作品への断片的なアプローチの誤りは、Shaw, ”Eaters’,” 25-26によって指摘されている。彼は「その背後にある全体の精神構造の力学の理解」のためにテキストの表面下に到達する必要性を強調している。Loraux, Invention 特に338は、テキストを(この場合は葬送演説であるが)単なる現実の説明とみなさない研究の優れた一例である。

108) この問題についての文献はおびただしいが、そのほとんどがトゥキュディデス1, 22の解釈の点にある。その議論の主な概略のいくつかの紹介に関しては、Kennedy, ”Focusing of Arguments,” 131-35; Andrewes, ”Mytilene”; P. A. Stadter, ed., The Speeches in Thucydides (Chapel Hill, 1973) を見よ。

109) Lavency, Aspects 特に195-98 ; Usher, ”Lysias.”を見よ。

110) 公的な葬送演説についての詳細な論述に関しては、Loraux, Inventionを見よ。彼女は、公的な葬送演説を誇示的演説の単なるサブセット〔全体の中の一部〕と考える誤りに警告を発している(11)。

111) イソクラテスの政治的見解と目的についての文献の論評に関しては、Ober, ”Views,” 119 n. 4; R. A. Moysey ,”Isocrates’ On the Peace: Rhetorical Exercise or Political Advice?” AJAH 1 (1982): 118-127(本文の後半の意見に賛成している)を見よ。

112) いくつかの重大な論争の論評に関しては、Dover, GPM, 8-10を見よ。Dover, Lysiasは、リュシアスの全集の演説の多くが、幾分それらが異なった音調をもつ異なったスタイルで書かれているという理由で、その真正を批判している。しかし、アリストテレス(『弁論術』1408a25-32)は、「田舎者(アグロイコス)」は、「教育を受けた男(ペパイデウメノス)」とは違った演説をするであろうと言及して、優れたスピーチライターは、依頼人の話すパターンを真似ることができたに違いないと暗示している。C. D. Benson, Chaucer’s Drama of Style: Poetic Varity and Contrast in the Canterbury Tales (Chapel Hill, 1986) 特に20-22を参照。彼は、チョーサーは色々な物語の中で、きわめて異なった詩のスタイルや音調を用いていることを明らかにしている。デモステネスの全集の法廷演説のいくつかは、確かにデモステネスによるものではないが、十中八九すべてが4世紀の弁論家によって書かれている。例えば、この問題について、「共通の見解(コミュニス オピニオ)」を引用しているHansen, ’Apagoge’ 145を見よ。

113) 蓋然性から推論すれば、政治的弁論家や法廷弁論作家は、彼らが行なった演説と大きく異なった演説を公表すること(少なくとも、デモステネスの場合には、演説は自らの生活の中で公表された:プルタルコス『デモステネス伝』11)は、ありそうにないことを示唆している。それは論敵から嘲られることのないように、または、もし論敵が見つけたなら、依頼人を失うのを恐れてのことである。ある事例では、論敵によって行われた演説を見ることで、相互参照ができる。例えば、デモステネス19とアイスキネス2; デモステネス18とアイスキネス3である。論敵が言うことについての主張は、改訂の証拠ではない。アリストテレス『弁論術』1418b9-11を参照。Burke, ”Character Denigration,” 128と註46は、重要な政治裁判の演説の内容は、前もって公表されたかも知れなかったと提議している。もとの演説とテキストの関係についての一般的な問題については、以下の研究を見よ。Kennedy, Art of Persuasion, 206; Adams, ”Demosthenes Pamphlets”; Usher, ”Lysias”; Hansen, ”Two Notes on Demosthenes”; E. M. Carawan, ”Erotesis: Interrogation in the Courts of Fourth-Century Athens,” GRBS 24 (1983): 209-226.

114) 演説に関する年代については、以下の研究を見よ。全般的には、Blass, AB ; Jebb, Attic Orators; Schaefer,Demosthenes; Wyse, Isaios; Dover, Lysias; Kennedy, Art of Persuation; Sealey, ”Dionysius” そしてロウブとビュデ版の前置き。巻末の「補遺」を参照のこと。

115) 民主主義についてのアリストテレスの見解については、Strauss, ”Aristotle”; Finley, PAW, 125-26 『政治学』の意図された機能と聴衆については、上記第一章註81で引用したC. Lordの著作を見よ。『弁論術』については、以下の研究を見よ。Lord, ”The Intention of Aristotle’s ‘Rhetoric’,” Hermes 109 (1981): 326-339; Arnhart, Aristotle. Riley and Riley, ”Mass Communication,”538-39, 541 n. 15, 545 n. 33 彼らは現代のマスコミュニケーション理論は、アリストテレスによって規定された基礎的原理の詳述であると指摘しているが、現代のモデルは、アリストテレスよりも、コミュニケーションの相互作用の性質を強調していると示唆している(563-69)。

116) 社会的および制度的文脈での演劇へのこの新しいアプローチは、Winkler, ”Ephebes’ Song”; Zeitlin, ”Thebes”; S. Goldhill, ”The Great Dionysia and Civic Ideology,” JHS 107 (1987): 58-76;またWinkler and Zeitlin, edd., Nothing to Do with Dionysusで収集された他の論文などによって例示されている。喜劇は、社会的な論評(コンメンタリー)に強力なルーツがあると長く認められてきた。例えば、Ehrenberg, People of Aristophanesを見よ。しかしながら、喜劇を単純な楽しみとみなす現代の研究者の傾向が、社会に関する喜劇作家の論評の複雑さを、時折曖昧にしている。J. Henderson, ”The Demos and the Comic Competition,” in Winker and Zeitlin, edd., Nothing to Do with Dionysusの批判的意見を参照のこと。

117) アリストパネスの政治的見解と意図をめぐっての長年の議論に関しては、D. M. McDowell, ”The Nature of Aristphanes’Akharnians,” Greece and Rome 30 (1983): 143-62 そして、Ian C. Storey, ”Old Comedy 1975-1984,” Echos du Monde Classique, n. s. 6 (1987): 2-9, 36-37で議論された他の最近の研究を見よ。悲劇の政治学については、Euben, ed., Greek Tragedy and Political Theoryの論文を見よ。

118) その問題に関係のあるいくつかの予備的な議論に関しては、J. Ober and Barry S .Strauss, ”Drama, Political Rhetoric, and the Discourse of Athenian Democracy,” in Winkler and Zeitlin, edd., Nothing to Do with Dionysusを見よ。

119) 史学史への精巧な文学的アプローチのすぐれた例に関しては、Connor, Thucydidesを見よ。トゥキュディデスのエリート聴衆と弁論家の目的との関係におけるトゥキュディデスの目的の紹介に関しては、同書13-17を見よ。

120) 碑文図像学が、民主政の研究にもたらすことのできる非常に重要な貢献は、Lawton, ”Iconography.” によって論証されている。

121) Davies, APF, xxx-xxxi.

122) Connor, Thucydides, 26に引用された”Monstrosities in Criticism,” Diacritics 1 (1971): 60.

(2021/11/10)


第二章 アテネの「国制」の歴史:通時的概観

 アテネの制度史は、アリストテレスが、前4世紀の後半に、おそらく彼の指示のもとに準備された『アテナイ人の国制』のより詳細な論述に基づいて、『政治学』(1273b33-1274a21)で簡単にスケッチして以来、何度も書き改められている。(注1 )アテネの国制の究極の形態を含む多くの側面は、なおも熱心に論じられているが、発展の主要な輪郭はかなり明確である。幸いにも、ここでは、個人的動機と立法家の長期的な意図ー現代の議論の多くの主題ーが、問題になることはほとんどない。目下の議論のためには、(例えば)クレイステネス、あるいはペリクレスによって求められた長期的目的も、改革に含まれた私的な政治課題も、最も重要というわけではない。むしろ、ここでは、どのようにして大衆とエリートの間の発展する関係が制度化されたのか、またアテネの政治社会学において、どのようにして国制上の発展が次々に変化に貢献したのか、あるいは安定性を促進したのかに関心がある。国家の制度的組織は、一つには発展しているアテネの政治的イデオロギーの産物であったが、それはまた外部の出来事の刺激に応じて市民が行動するための形式的な体系を提供するのに加えて、政治的イデオロギーが発展したその環境にも寄与した。

 A. 序論

 前600年頃から前400年頃の時代は、アテネ社会の政治機構にはダイナミックな変化が見られ、それゆえ、その時代は比較的に頻繁で重要な制度的な調整が特色であった。エリート間の闘争は、さまざまな準エリート間でも個々の政治家間でも、初期の改革につながったが、それは民主的イデオロギーの成長に寄与した政治環境の進展をもたらした。結果として、6世紀の終わり頃、大衆の集団的力は、彼ら自身の立場を改善させるのに用いることが可能であるという彼らの間で発展した認識は、国制が取る形態の主要な要因になった。ここで関係する変化は、次の見出しの下におおまかにグループ分けされるかもしれない。(1) アテネの市民であることはどのような意味があったのか?誰が市民であったのか?そして、どのような方法によって、新しいメンバーが市民グループに入ったのか?(2) 国策を決定した意思決定団体の形態(方法、場所、そして集会の回数の点から)および社会構成は何か?(3) 誰が意思決定団体に法案を提出する権限があったのか?また誰がいったん提出された法案を審議する権利を持っていたのか?提案者や審議者の社会的地位はどうであったのか?(4) 決定の実施に関する制限は何であったのか?そして、制限団体の形態と社会構成は何であったのか?(5) 決定を遂行する責任者の社会的地位はどうであったのか?どのようにして彼らは選出されたのか?そして、彼らの権力はどれほど広範であったのか?(6) 法的判決に関して、責任者の社会的地位は何だったのか?彼らの判決の基準は何だったのか?(注2 )
  
 6世紀の初期から5世紀の後半にかけての時代は、概して言えば、特にその後半においては、大衆はエリートに対してより政治権力を獲得した時代であった。400年までには市民権のための財産資格はなくなり、社会的に市民団体の多様な小集団(サブセット)が、新しいメンバーを登録するのに責任があって、全市民による再審査を受けねばならなかった。主要な意思決定団体は市民の民会、立法家の法律制定団体(ノモテタイ)であり、民衆裁判所であった。こうした団体のすべてが公開で開かれ、民会と法廷は頻繁に開かれた。民会はすべての市民に開かれ、立法家と陪審員の委員会は無作為に市民団体からくじで選出された。民会の議題は評議会で決定され、評議会のメンバーは毎年くじで全市民から選ばれた。また通常、エリートのメンバーが民会に最も積極的に参加したけれども、そこでの議論は公開で、すべての市民が参加する権利があった。また、民会の決定はもっぱら民衆裁判所で再審査を受けることがあり、裁判所の決定は最終的なものであった。国家のほとんどの公職はすべての人に開かれており、毎年くじで補充された。行政官は通常、チームの一員として務めていたので、彼らのほとんどの権力は厳しく法ならびに同僚により制限されていた。いずれの行政官の仕事も皆、民衆裁判所で法的監査を受けねばならなかった。実質的には、重要な法的判決のすべては、大衆の陪審によってなされた。彼らは、アテネの法と自身のイデオロギー的な好みに基づいて、法的な紛争に決定を下した。さらに、役職のほとんどの種類に国家の手当が支給されることで、普通の市民は政治への参加がより容易くなった。エリートが国家を支配するための制度上の基礎は、ほとんどの場合、減少したかあるいは著しく弱められた。アテネは完全な民主主義を達成していた。
 
 400年から322年頃の時代は、それ以前の200年に比較すれば、比較的安定しており、ほとんど大きな構造上の修正は必要とされなかった。大衆もエリートも、国制を徹底的に見直すのを不要にするほど、それぞれの立場に十分満足していた。私の論点は、初期の時代はアテネ人が大衆とエリートの立場の間のバランスを探していた時期であり、そして後期の時代には、そのバランスはうまくとられていたということである。この章の主旨は、初期の時代の大衆とエリートの間の関係の進展をスケッチすることと、後期の時代のその関係の比較的制度上の安定性を論証することである。
 

 B. ソロン以前:出生エリート

 ある種の平等主義の精神(エートス)が、初期の暗黒時代(1100年から900年頃)の前ポリス社会に働いていたかもしれなかった。また、その時代を通して経済的余剰はあまりなく、社会政治的な差異は比較的低いレベルであったかもしれなかった。ーまた、それに関しては、問題の多いホメロスの賛歌以外にテキストは見当たらない。(注3 )しかし、余剰も社会的差異も、900年から600年頃までには際だって増えたように思われ、その結果6世紀の初期にはアテネには大衆とエリートの間に明確な区別が存在した。(注 4)7世紀の支配エリートは出生によって定義された。そのメンバーは特権階級の人、または貴族として特徴づけられるかもしれない。(注5 )彼らは(少なくとも後の時代には)エウパトリダイ〔出生貴族:訳註 1〕と総称されていた。すなわち高貴な父祖から生まれた人々である。(注6 )
 
どのようにしてこの貴族エリートが組織されたかは正確にはわからない。確かに、貴族の各々は、自らをオイコス〔家〕のメンバーとみなしていた。そしてオイコスは直系の先祖と、ある意味では未来の子孫の家系を含むひとつの家族の単位であった。(注7 )貴族は皆、確かに密接に結婚や親類を通して、他の貴族のオイコスのメンバーと繋がっていた。しかしながら、拡張した親族関係のこのようなさまざまなネットワークは、正式にローマの氏族(ラテン語:ゲンテス)に類似している単位に組織された可能性は低いようである。氏族(ゲネー)〔訳注 2〕の精巧なシステムの詳細な記述の多くは、後のアテネ人がアルカイック期に存在していたと想像したものであり、4世紀の(または後の)推測の産物であった。しかし、オイコス相互の協力は、確かに初期のアテネにおいて重要な政治的要素であった。(注 8)貴族はプラトリア(「兄弟の間柄」)〔訳注3 〕を支配したかもしれなかったが、プラトリアは間違いなく非貴族のメンバーを含んでいた。実際、初期の頃には、すべてのアテネ人は恐らくプラトリアに属していた。(注 9)エウパトリダイは、クレイステネスの改革以前に、アッティカの全住民が細分化されていた4つのイオニアの部族〔訳注4 〕と結びつけて考えることはできない。(注10 )
 
 どのようにして貴族が正当化され、または、権力を行使したかを正確に確認するのは不可能である。政治的には、彼らは王家の権力を継承していることは明らかである。アテネ人の伝承に従えば、アテネの王は700年頃に退位させられた。彼は、最終的に総数9人の例年選出されるアルコンの団体に取って代わられた。つまり紀年の責任者(「筆頭」アルコーン〔訳注 5〕)、戦争指導者(ポレマルコス〔訳注6 〕)、王家の関与を要した宗教的儀式を執り行う「王」(バシレウス〔訳注7 〕)、そして法的責任を持つ他の6人の役人(テスモテータイ〔訳注 8〕)の9人のアルコンである。アルコンが選出された方法も、アルコンとソロン以前の政治体制の他の制度構造との間の関係も知られていない。しかしながら、エウパトリダイがアルコンの選出過程を監督したこと、また、エウパトリダイの指導者が、公式にあるいは非公式に、その年のアルコンにアドバイスをする評議会として時々集まったというのは妥当な仮定である。思うに、ある種の民会は存在したが、恐らく、事実上または法律上、重装備の戦士として務めた人々に制限された。いずれにしても、民会は権力を持ってはおらず、それは単に前もって支配エリートによってなされた決定にめくら判を押すために、アルコンらによって招集されたに違いなかった。(注 11)

 エウパトリダイが事実上主要なアルコン職を支配しており、それゆえ政治はほとんどあるいは完全に貴族階級によって支配されていたことは明らかである。貴族は、恐らく国家の宗教を支配することで、国家での政治権力の保持を強化することができたし、神々の怒りをなだめ、神々の意思が明らかにされる重要な儀式は、貴族の祭司によってのみ執り行われ得たと推測できる。(注12 )しかしながら、恐らく初期のアテネの社会を支配するための貴族の能力の最も重要な要素は、経済的余剰の大部分を支配することであった。貴族は間違いなく社会の最も裕福なメンバーの一人であった。貴族の富のいくらかは、少なくとも二次的に、貿易や製造業に関連したかもしれないが、富の中心は土地にあった。彼らの財産の影響力は、国家の宗教と公職の支配と共に、思うに貴族に政治権力を維持するための権威を与えた。下層階級のメンバーは、たぶん、ある意味での富裕者の「被護民」であった。つまり、頻繁に彼らに借金をして、彼らを畏れ敬うという意味で。貴族政治の支配のイデオロギーの基礎は、下層階級が貴族の富、生まれ、公職に感じた尊敬に基づいた「敬意の政治」であったであろう。(注 13)

 しかし、貴族だけが初期のアテネ社会で富裕な人々ではなかった。7世紀後半頃には、それ以前ではないかもしれないが、貴族の生まれではないが裕福だった注目すべき人々のグループがあった。彼らは、少なくとも貴族によって「カコイ〔卑しいものたち〕」と呼ばれた。これは単に生まれの卑しさを意味したかもしれなかったが、それは同様に道徳的非難の側面を持っていた。つまり、それを「下品な者」と訳してもいいかもしれない。(注14 )7世紀初期に、キュロンという名の貴族が、僭主(テュラノス:〔訳注9 〕)としての地位を確立しようとした。キュロンの試みたクーデターは力ずくで、どうやら他の貴族と被護民の協調行動により倒された。〔訳注 10〕その後まもなく、法典がドラコンという人物によって書かれた。キュロンの試みたクーデターもドラコンの法律も、アテネの上流階級内の緊張の結果であったかもしれないと推測できる。しかし、その緊張が貴族の支配エリート内の口論に起因するのか、エウパトリダイと国家の中でより大きな政治権力を要求したカコイとの意見の相違に起因するのかどうかは明らかでない。(注15 )

 キュロンの反乱も新しい法典も、必ずしも社会的領域(スペクトル)の最下層の人々、つまり貧困労働者には大して関係はなかった。これらの者は大部分自営農民であり、少なくとも彼らのある者は、土地の生産物で家族を養うことができず、その結果債務と富裕層への隷属に陥っていた。隷属農民(ボンドマン)の身分は不確定であった。彼らはアテネ人の祖先であったし、恐らくプラトリアのメンバーであり、部族のメンバーであり、あるいは両方であったが、もはや自由の身ではなかった。(注16 )彼らは「市民」と見なされるべきであったか?恐らく、裕福な人のほとんどは、この点に気を配っていなかった。「私たちの一人」としての市民(ポリテース)の一般的概念―社会的権利と義務を内在している社会の完全なメンバーーは、古くからあった。しかし、「市民権」それ自体は、前7世紀後半には、それほど有用な政治的または経済的重要性はなかった。(注17 )しかし、誰が「私たちの一人」であり、それが意味したものは何かという問題は、下層階級にとっては関心が高まっている問題であったかもしれないが、実際には、彼らは他の点では外国生まれの奴隷と違ってはいなかった。(注 18)貧しい人々は国家の政治構造の枠の外にはみ出ていた。彼らは政治活動のフォーラムを持たず、恐らくはほとんど政治意識も持たず、それゆえ政治的野心もあまり持たなかった。単純な生存の他に、我々が彼らの身分(ステータス)と呼ぶかもしれないものについて、彼らの主たる関心はあったに違いない(下記、第6章Aを参照)。すなわち、彼らは奴隷より良い状態を欲し、そこで彼らは市民の身分に本来備わっていると期待し得る確かな保護(例えば、債務奴隷身分からの)を望んだ。

 C. ソロン:富裕エリートと大衆

 恐らく、経済成長の加速するペースに刺激されて、7世紀の間に社会的緊張は一層つのり、事態は前594年に、国家の改革のために特別な権力を持ったアルコンとして、ソロンが任命されることで頂点に達した。(注 19)彼が任命されたメカニズムについてはほとんどわからないが、この任命は多分、社会政治的和解の必要性を認めた支配的な出生エリートの同意があったことを仮定しなければならない。古典期に多くの改革がソロンに帰せられるが、間違いなくそれらすべてが本物だったわけではない。しかし、ここでの問題にかかわる二つの主要な改革、すなわち、債務奴隷身分に陥ったアテネ人の立場を修正することと、国家の重要な官職につくことの資格要件の変更は、全く疑いなく立証されている。(注20 )この改革でソロンは、支配エリートのメンバーシップにもまた大衆とエリートの間の社会的そして政治的関係にも、変更を加えるために国制上の改正を断行した。

 支配エリートのメンバーシップの変更は、かなり公正に行われた。ソロンはまさに経済的階級に基づいて官職に就くための資格要件を制定した。アテネの人々は、それぞれ特定の政治的特権がある所得評価(センサス)による四階級に分けられた。それぞれのグループのメンバーシップは、毎年の農業生産高から得られた基準に基づく個人の財産によって決定された。ペンタコシオメディムノイ(五百石級)、ヒッペイス(三百石級〔騎士級〕)、ゼウギタイ(二百石級〔重装歩兵級〕)、そしてテーテス(二百石級以下〔労務者級〕)の四階級である。国家の中心官職であるアルコン職は、第1、第2の最も上流の所得評価階級のみに与えられた。(注21 )富裕エリートは、新しいメンバーにより多くかつより浸透性もあったであろうが、彼らはこうして排他的支配エリートとして出生貴族に取って代わった。富裕エリートの制度化は、政治的流動性を可能にして、かくして、エリートの循環を促進させた。そのことは、パレトが安定したエリート支配の本質と考えたところのものであった。財政的に成功したならば、アテネ人は自動的に支配エリートの仲間と認められたであろうし、財政的に失敗したならばそこからのドロップアウトを意味したであろう。それゆえに、新しい支配階級のメンバーシップは、経済的変化に敏感であったろう。経済的立場と政治的権力へのアクセスの間に隔たりがないことが、エリート間の緊張をかなり和らげたかもしれない。(注22 )

 その対極にある人々に関しては、ソロンの改革は結果として、出生に応じての社会政治的身分の硬直化をもたらした。既存の債務は免除されて、債務奴隷身分は永久にアッティカでは撤廃された。アテネの債務奴隷は解放され、海外に売られていた人々は連れ戻された。どのような経済的意図があったのか、またはこの改革の影響力がどのようなものであったのかについては多くの議論がある。しかし、興味深いけれども、その問題はここではあまり直接関係はないし、ソロンの債務奴隷身分の改革が正式にアテネ市民を定義したという単純な事実を曖昧にする傾向があった。市民と奴隷の間の区別は、今や明確、明白になり、(ふつう)埋められないものになった。たとえ経済的に市民の失敗がどれ程深刻でも、彼は自らの故郷で奴隷になることの究極の不面目な身分を恐れる必要はなかった。しかし、この改革はもしかすると、下層階級の市民の経済的立場を、長い目で見れば自らの「資本」を減らすことで、さらに悪化させることになったかもしれない。下層階級の市民は、自らの身体を担保としたり、奴隷が享受した(いわば)最低限の経済的安全と自由を交換する能力を失った。最貧層の市民は、潜在的な経済的利点を身分の保証と交換し、個人的地位を社会における地位と交換した。(注 23)

 身分改革の立法は、一定の最低限の権利を市民の生まれに固有のものとして明確にしたのだが、それは恐らく幾分下層階級によるアジテーションのゆえに制定された。下層階級のアテネ市民は 、身体の「資本」を捨てることの結果を明確に知っていたかどうかは別として、一見したところ彼らは自らと奴隷の間の区別を明確にし、法制化することを望んだようである。債務の帳消しは、富裕階級のエリートに金銭的面で何らかのものを犠牲にしたので、この点では彼らには不満が残った『アテナイ人の国制』11.2,12.4)。しかし、改革は長期的にはエリートに有利であった。市民と奴隷の間の乗り越えられない障壁の法令を作成したことで、エリートと奴隷の間にあって、前者に味方すると期待される大勢の人が存在し続けることが保証された。こうして、エリートは、社会の潜在的な過度の分極化(ハイパーポラリゼーション)の影響から守られた。もし、アテネの大衆が奴隷の集団と同じ地位の立場に落ちたなら、同質の下層階級を生み出す危険性は一目瞭然であろう。そして、もしその多数の下層階級が、その集団的力に気づくようになったならば、それは現にある社会体制の終わりを多分意味したであろう。それゆえに、エリートの間で多くの人が、その取引が彼らにとって有利であると判断したのももっともであった。すなわち、その地位が保証された市民大衆を創り出すことは、富裕者に階級革命の恐れなしに、彼らが望むように積極的に外国生まれの奴隷を活用することを可能にした。(注 24)

 ソロンが何か別のものを念頭に置いていたかどうかはともかく、彼の二つの主たる社会政治的改革は、どうやら異なったグループの権利と特権を再定義することによって、社会的緊張を和らげることを意味したようである。社会的階級のトップの生まれの絆を緩め、最下部を強くすることで、ソロンは長期的な社会的安定を達成することを、かなりに期待することができた。彼が「民主的」傾向を持っていたと仮定する必要はない。すなわち、富裕なカコイ〔卑しい者〕を支配エリートへ取り込むことは、貴族に対する潜在的大衆の指導者としての彼らを排除し、富裕層の共通の階級の利益に政治的な面を与えた。また、個人の自由に関して、市民権の権利を定義することにより、貧しい者の利益と外国人奴隷の利益とを分けた。その結果としての体制は、支配エリートをより透過性にすること同時に、またその存続に対する潜在的脅威を排除することによって、彼らの立場が強化されたものであった。(注25 )

 民会と民衆裁判所に関しては、ソロンによって開始された政治的変化についての伝承はほとんど確かな証拠はない。しかし、伝えられた変化は、ソロンが確立しようとした社会政治的体制は、わずかの権利を民衆に与えることでエリートの特権が守られた体制であった、という仮定と非常によく適合している。ソロンはテーテスに民会を開くか、開いたままにしておき、民会のために動議を準備する四百人評議会を設置した。(注 26)テーテスにとって民会への参加の権利は、市民権の定義の本質的な部分であったであろう。すなわち、市民は民会に出席することを許された人々であったから。その改革は(もしそうであったならば)、ほとんど実際的な影響をもたらさなかったと思われる。というのは、テーテスは民会で演説するという選択肢を持たなかったであろうし、多分ほとんどの人はその時たまの民会には出席しなかったであろうから。さらに、民会の議題は新しい評議会で準備されたが、それは(恐らく)再構成された富裕な支配エリートによって支配されていたであろう。アルコンは、恐らくその時は民会で選出されたが、任期満了の際は、どうやら国家の法律の全般的な監視(ノモピラキア)の権限を与えられた再構成されたアレオパゴス評議会〔訳注11 〕のメンバーとなった。アレオパゴス評議員は、アルコンが法に従うこと、そして民会で通過された手続きが法にかなっていることに責任があった。(注 27)アレオパゴスの評議員は元アルコンであって、同様に財産階級の第1番目、または第2番目からの出身であったので、富裕エリートは、民会で一般市民によって明示されるかもしれないなんらかの独立傾向をコントールする制度上の手段を有していたであろう。

 ソロンはまた、市民がアルコンの裁定に対して控訴できる新しい裁判所(恐らく、それは単に裁判所として開かれた民会であろう)を設立した。どのように新しい裁判所が設置されたのかはわからないが、その裁判所がエリートの集団の力を制限することを意図されていたのか、または可能であったのかのいずれかを仮定する必要はない。(注 28)これらの調停のすべてにおいて、富裕エリートの実際の政治的権力を少しも犠牲にすることなく、市民の団結、ひいてはアテネ人すべての利益の団結を強調する共通の一貫した特徴があった。市民の団結についての強調は、途方もない長期的な結果をもたらし、最終的には上流階級の政治的立場の力を弱めることに役立った。しかし、ソロンも同時代の人もいずれもその結果を見通すことはできなかった。共通の利益についての強調は、実際はエリートの支配を合法化して永続化させた社会体制を、大衆が受け入れるよう説得することを意図した、エリートのイデオロギーの巧みな操作の一例と見ることができるかもしれない。(注 29)

 D. ペイシストラトスとデーモス〔民衆〕の熱望

 6世紀の半ば頃、アテネ国家は一層の混乱が生じていた。そして、それは546年に、ペイシストラトスが僭主としての地位を確立するための企てに成功すること(二度の出だしを誤った後)で最高潮に達した。ペイシストラトスが、政権を乗っ取るに至った状況に関する史料は不十分で、様々な解釈が可能であるが、大衆とエリートの紛争が主な要因であると仮定する理由はほとんどない。ペイシストラトスの僭主政は、エリート内のライバル関係の結果であったかもしれなかった。つまり、彼の三度のクーデターのいずれにも、大衆による実際の参加はほとんどなかったように思われる。(注30 )ペイシストラトスがアテネの支配者としての地位を確立したことで、恐らく普通の市民よりかエリートのほうがよりはっきり直接の影響を被ったに違いない。ペイシストラトスの敵対者の幾人かは国外に逃亡し、土地は没収されたかもしれなかった。そして、新しい政治体制が支持を得るための一つの方法として、若干の土地は下層階級の市民が使用するために引き渡された可能性があった。(注31 )さらにペイシストラトスは、田舎においてエリートのメンバーと大衆の間の絆を断ち切ることを試みたように思われる。彼は貧しい農民に貸付を行ったと伝えられているし(『アテナイ人の国制』16.2)、田舎の地域に軽微な紛争のための巡回裁判所を設けた。普通の田舎のアテネ人は、財政的援助と法的決定に関して、地方の「大物」にもはや頼る必要はなかったであろう。巡回裁判所の設置は僭主に対して好意を生み出したが、同様に田舎の市民と国家の機構とのより緊密な一体感を引き起こしたに違いなかった。(注32 )

 しかしながら、恐らく最も重要なことは、ペイシストラトスが、アテネ国家と市民全体のより緊密なイデオロギー的一体化を促進することによって、自らの立場を合法化しようとしたことである。ペイシストラトスと彼の息子は、さまざまな方法でアテネ人すべての遺産の共通性を象徴的に強調した。例えば、アクロポリスのアテネ・ポリアス大神殿の刷新〔訳注 12〕や他の建物の建設をはじめ、パンアテナイア祭〔訳注13 〕の正式化と拡張を、またアテネで例年祝われていた今や大国家事業となったディオニュシア祭〔訳註14 〕の一部としての悲劇の劇場の後援などである。ペイシストラトスは同様に、自らと国家のつながりを強調したので、全体的な結果としては、恐らく今や「個人崇拝」と呼ばれるものに近く、彼の個人的支配はかなりの程度の人気があったように思われる。(注33 )

 ソロンと同じく、ペイシストラトスは現在の体制を維持するためのよりどころとして,大衆のイデオロギー的統合の潜在的力を自覚していた。しかし、彼の「プロパガンダ」の間接的な結果として、市民大衆は「アテネ」と「アテネ人」という抽象概念のより明確な概念を考案し、結果としてより大きな意味がアテネの市民権に付け加えられた。アテネの大衆は、国家内の劣った身分グループだけではなく、他の人々やアテネの国家それ自体に関して、ますます自分自身を意識した。市民権はもはや単純に究極の身分の降格からの保護ではなく、何かもっと積極的なそして潜在的により政治的に意味のあるものであった。

 国制上の発展に関しては、ペイシストラトス一族の時代はかなり保守的であったと考えられる。つまり、僭主と後継者(彼の息子)は、ソロンの国制上の形態を維持した。民会は、恐らく四百人評議会によって勧告されて引き続き開かれ、裁判所は依然として法的紛争を仲裁した。(注34 )国制上の外見の背後に僭主が立っていて、彼らは実際の政治権力を持ち続けた。旧支配エリートのメンバーの多くが、いかさまに気づいたであろうし、彼らの中には、比較的無意味な国制上の政治ゲームをすることを拒んだ人もいたかもしれない。しかし、大衆の間では、彼らは決して実際の権力は認められなかったけれども、富裕エリートから僭主の支配への変化を肯定的なものと受け取っていたかもしれなかった。大衆は以前と同様実際の権力を持ってはいなかったけれども、僭主が公に敵対者の自尊心を傷つけたり、さらに階級を横切るイデオロギーのきずなを強調して、敬意を表する行動様式を保つのを弱めることに尽力したので、「保護者」としてのエリートによる効果的支配は、減少したに違いなかった。それゆえに、エリートは、普通の市民の目には、さほど重要でもなく、支配者としての合法性もなく、個人的に印象的でもなくなったかもしれなかった。エリートに関する大衆の畏敬の念は、国家の畏敬の念に取って代わった。国家はあるレベルでは、慈悲深い僭主であるペイシストラトスであったし、他のレベルでは「アテナイ人」―すべての市民―であった。最終的な結果は、W.エダーが、アテネのの「市民の自意識」と呼んだところのものの始まりであった。(注 35)

 525年のペイシストラトスの没後、エリートの抵抗はより組織されたものになり、結局、後継者はそれを封じ込めることがことができなかった。アルクメオン家〔訳註 〕の一族に指導されたその抵抗は、最終的に前510年、軍事的に強力なスパルタ人に息子ヒッピアスを退陣させるよう説得した。スパルタ人は自分たちに有利な統治エリートを就任させることによって、この状況から利益を得ることを望んだかもしれなかった。しかし、その状況は、彼らが対処するにはあまりに不安定であることが明らかとなり、510年と508年の間に公然の内戦と見られるものが起こった。アテネのエリートの内部で、闘争は見たところ、一方は貴族のアルクメオン家、他方は貴族のイサゴラス(508/7年のアルコン)と親スパルタのグループの間であった。しかし、その闘争はすぐに普通の市民を巻き込んだ。恐らく、初めて、アテネの大衆による行動が、国家の政治的方向を変える際の直接的な要因となった。(注36)
 

 E. クレイステネスのイソノミア〔訳注16 〕

 510年から508年の闘争とそれ以前の権力闘争の間の大きな相違は、510年頃には普通のアテネ人は、協調して行動するのに十分に自己を意識していたことであった。大衆がヒッピアスに対する反対運動、あるいは支持する際に、何か重要な役割を果たしたかどうかはわからない。しかし、いったん僭主が追放されてしまったなら、大衆は自由行為者であった。以前のペイシストラトス家への忠誠は、潜在的に誰かほかの人に帰される可能性があった。その人物は、一般市民が自分自身がアテネ人であるという意識の高まりに、細心の注意を払う必要があったであろう。新たに政治に関心を持った大衆を率いた人は、アテネの民衆の指導者の役割を自らに割り当てたに違いない。アルクメオン家のクレイステネスは、イサゴラスの親スパルタの姿勢が(ヘロドトス『歴史』5.70.1)、事実上彼の手に押しつけられた機会を見出した。外国なまりの話し手であるスパルタ人は、アテネとは関係がない非アテネ人のよそ者であった。市民は、アテネ人としての自分の意識を活用した人はだれでも、支持する可能性があった。ヘロドトスが述べているように(5.66.2)、クレイステネスは、デーモスを自らのヘタイレイア(党派あるいは緊密に結びついた交友グループ)〔訳注17 〕に取り込んだ。

 大衆の忠誠を獲得し保持するために、クレイステネスは、市民間のきずなを強調したり、国事での広範囲の大衆参加を規定する一連の国制改革を提唱することで、大衆の高まる政治意識を頼りにした。この表明されたプログラムは、たぶん彼が最終的に立法化した改革の少なくともいくつかを含んでいた(下記、第2章E 1-3)。イサゴラスはそれに応じて、スパルタ人を呼び戻すことで〔訳註 18〕、クレイステネスと最も緊密な支持者らを市から追放した。イサゴラスは明らかに、いったんその頭を切り離したならば、クレイステネスの大衆というヘタイレイアのヘビは死ぬだろうと仮定して行動を起こした。彼は市民が政治化されていた度合いを考慮に入れなかったし、この政治化が可能にした団結した大衆行動を考慮しなかった。ブーレー〔評議会〕によって扇動されて(ヘロドトス『歴史』5.72.2、『アテナイ人の国制』20.3:恐らく四百人評議会、もしかするとアレオパゴス評議会)、民衆はよそ者とその手下に対して立ち上がり、アクロポリスのスパルタの駐屯兵を取り囲んだ。スパルタの指揮官は降伏し、よそ者はアテネを去った。そして、イサゴラスも明らかに彼らと共に出て行った。

 クレイステネスは勝利して戻ってきた。彼は時の英雄であった。周囲の状況は疑いなく高揚していたが、将来は、目下の成功の先が見える誰にとっても恐ろしい見通しであった。もし、クレイステネスが非常に流動的な状況から、—自分自身のために、政治的同盟者のために、あるいはアテネの国家のためにー何らかの永続的な価値を作るつもりであったならば、彼はすぐに行動しなければならなかった。スパルタ人は後になってというより、むしろすぐに報復に出ることが予想できた。脅威に対応するためには、社会体制が必要不可欠であったが、アテネは無政府状態同然であったに違いなかった。主として敬意を表した習慣に基づいた、また大衆が政治的意識を欠如していたことによる支配エリートの権力は、僭主と革命によって打ち砕かれていた。国家の中のどのような組織されたグループも、強制によって権威を行使したり、または力によって体制を強いることは望めなかった。アテネ人の新たに発見された大衆の力を構成する国制上の構造を作る唯一の方法は、増大する政治意識という既存の勢いを利用して前に進むことであった。つまり、グループの団結を、グループとしてのその結束を、そしてその団結された政治的意志を再強調することであった。当時権限が不足していたので、クレイステネスはコンセンサスの政治に訴えた。彼の国政上の改革は、ギリシアでかって見たことのない民主的国家を生み出したが、これは決して彼が本質的に民主主義者であったという証拠ではない。彼が理想主義者であるか、または日和見主義者であるか、民主的空想家であるか、または才気ある政治手腕家であるかは、ここでの目的には重要ではない。重要な点は、彼が明確にその瞬間の緊急性を理解し、その本質的単純さと機能効率の点で簡潔であった新しい国制上の体制の設計と履行に、迅速に動いたということであった。(注 37)
 

E.1 市民、区(デーモス)、そしてコンセンサス

 クレイステネスは、170年後の『政治学』(1274b32-1275a2)でのアリストテレスと85年前のソロンと同じく、市民の定義から始めた。アテネの市民は、今やそれ自体によって定義された団体であったであろう。既存の市民それぞれは、139の区の中心施設のいずれかに登録するよう指示された。通常これは彼の故郷の村か市内の近くであったであろう。区が特定される正確な過程や、村が区の地位を達成するのを決定するのに、どれほど党派的政治が関係していたかはなお不明であるが、この問題はいずれにしても、ここでの目的には実際には関係がない。(注38 )以後、区のそれぞれのメンバーは、新しいメンバーを区の民会で投票することで仲間と認めるのに責任があった。そして区の民会はすべての区民に開かれていた。区民は隣人の見聞に基づいて、市民権の新しい申請者が(通常は父親によって18才の時に区の民会に申請されたが)、自身が区の登録メンバーであったアテネの父親の正当な息子であるかどうかを決定するようになった。そして、新しく登録された市民は、その公式の名前として慣用表現「y区のx」が当てられた。(注 39)いずれの市民も皆、市民仲間に直接に根本的な政治的アイデンティティを依存していた。そして彼のまさにその名前が象徴的に仲間への依存関係を繰り返した。

 市民間のお互いの相互依存の絆は、今や政治的平等の仮定に基づいていた。この仮定は、不平等な階級と身分に基づいていた古い敬意の絆を弱める傾向があった。なぜなら、新しいつながりは出自と富の同一レベルでの階層を越えて広がったからである。尊大な貴族の家の御曹司はー政治生活が始まるという、感情的に緊張の高まった時に、それは彼が少年から完全市民への分水嶺を越えた時であるがー、普通の隣人の決定によって区の一員と認められた。新市民と地元の関心事についての民主的投票は、一層コンセンサスを強調しかつ促進した。すなわち、すべての人が民会で発言権を持っていたので、区民の一人ひとりが、事実上その決議に拘束された。それゆえに、コンセンサスの意思決定は、新しい社会政治的体制を生み出しかつ強化して、十分に有効な敬意を表した社会体制または強制的な政治権威の不足を補った。この点に関して、6世紀の後半ならびに5世紀の初期のアッティカの区の状況は、我々の時代の17世紀の後半、18世紀の初期のマサチューセッツ・タウンに似ている。マイケル・ザッカーマンが、植民地のニューイングランドにおける社会的背景と民主的政治過程の意味についての啓発的な研究で明らかにしたように、マサチューセッツ・タウンの住民は、民主主義に対する何らかの理論的選択からではなく(実際、その時代のエリートは概して民主主義の理論をひどく嫌っていた)、体制を強制できる何らかの外部からの権威がなかったので、幅広い市民権と民主的形態を採用した。(注40 )

E.2 評議会と民会
 
 区の民会でのコンセンサスの意思決定は、そこでは誰もが他のみんなを知っていたので、市民を国家レベルの意思決定への飛躍に向けて準備をさせたであろう(下記、第4章B.2を参照)。こうして、区は国家レベルでの意思決定過程の点において、クレイステネスの改革の基礎であった。各区は毎年、ソロンの四百人評議会に代わった新しい諮問機関である五百人評議会に務めるために(その人口に基づいて)一定数の人を送った。旧評議会と同じく新しい評議会は、民会の各集会での議題を策定し、国家事業の雑多な問題に対処する責任があった。(注41 )

 どのようにして当初の代議員が区で選ばれたかはわからないが、彼らが選挙によって選ばれたことは、十分可能性がある(下記、第2章F.1を見よ)。もしそうなら、地方の名士が、暇があって恐らくいくらかの政治経験があったので、恐らく最初に送られたであろう。それゆえに、最初の評議会はエリートのアテネ人によって支配されたかもしれないが、評議員のすべては、民主的な区の民会で選ばれたであろう。評議員は自分の役職を出自または階級の権利ではなく、故郷の大衆に負っていた。そしてその職務が最高2年間に制限されているとすれば、人口統計学的事実から、ソロンの富裕エリートによる評議会の数的な支配は、すぐに弱められたであろうことは避けられないことであった(下記、第3章E.3を見よ)。決して「地方の代表者」とは解釈できないが、新しい評議員は旧四百人の評議会のメンバーより、はるかに緊密に大衆と結びついていた。

 評議会の会議で、代議員はアッテイカのいたるところからの人と協力しなければならなかった。もはや政治は、過去のように、直接都市の政治専門家の少数の中心グループによって支配されなかったであろう。(注42 )評議会の500人のメンバーは、平均的な区の民会よりもかなり多かったが、彼らは多くの目的のために50人の「部族」のグループであるプリュタネイス〔訳注19 〕の職に分割された。139の区を30のトリッテュス(「3分1」)〔訳注20 〕に配置するシステム、またトリッテュスを10の部族(ピュライ)〔訳註21 〕に配置するシステムは、評議会のこれらの下位集団に、市民の広範な地理的な横断面が含まれることを保証した。(注 43)プリュタネイスにおいて、また全員出席の評議会において、評議員は重要な決議を行わなければならなかったし、このことは見知らぬ人との協力を必要とした。しかしながら、こうした見知らぬ人はアテネ人の仲間であり、政治的に平等であり、こうしたことは重要な基準になった。今やアテネ人を団結させた類似性のイデオロギーのきずなは、評議員に同じ種類の道徳上の拘束力を持つことを許したり、評議会での民主的意志決定を可能にした。そして、その民主的意思決定は、評議員が区の広場のより親密な見慣れているフォーラムで、地方の問題を決定した際に行ったものであった。従って、評議会は重要な社会的そして教育的機能を果たした。すなわち、市民を統合し地方レベルでの社会体制を安定化させたコンセンサスによる政治活動の習慣を、国家の政治レベルに移したのである。

 最後の段階は、デーモス全体として、決定について投票することであった。学者は時としてクレイステネスが討論の自由(イセーゴリア〔訳注22 〕)を民会と評議会に導入したと仮定してる。(注 )もし彼がそうしたなら、彼は本当に民主主義の創始者と見なされるかもしれない。しかし、クレイステネスが自由な討論を奨励したことは、ありそうにない。クレイステネスの新しい体制にとっての重要な要素は、外部の権限によって強制されることのない決定に関する集団的責任の主張であった。この望ましい目的は、多くのまたは何の議論もなしに評議会によって提出された動議について、民会投票を通して達成されたものであったかもしれなかった。実際、イセーゴリアによって暗示される意見の不一致や見解の相違を公に吐露することの正当性は、クレイステネスの区の改革のコンセンサスによる精神に直接反している。市民すべてが同じ様に考えている時に、またコミュニティーの中の個人がコンセンサスによって縛られている時に、開かれた政治的な議論は必要なかった。(注45 )

 クレイステネスが、どれほど広範囲に、行政の役職を抽籤で選択することを活用したかは、不確かなままである。(注46 )彼が一般原則として抽籤を好んだであろうと、必ずしも仮定する理由はない。彼はアレオパゴス評議会の監督権限を弱めたり、(注 47)役職に就くための財産資格を放棄したり、公務のための手当を導入したりはしなかった。抽籤の広範囲にわたる活用や、公開審議、または公務のための手当がなければ、また財産資格が維持されていれば、エリートは間違いなく選出された行政官の地位や、評議会や民会での討論の支配、そしてアレオパゴスの権力と道徳的権威を通して、国家の支配を持続することを期待できたであろう。エリートは前任者〔僭主〕よりも大衆に説明責任があったであろうが、彼らの立場は大衆の支持を通して達成した合法性によって、もっと安定していたかもしれない。

E.3 オストラキスモス〔訳注23:陶片追放〕

 もう一つのクレイステネスの改革は、6世紀の終わりと5世紀の初期のアテネの大衆とエリートの間の象徴的な関係を理解するのに大きな一助となっている。すなわち、オストラキスモスの制度である。(注48 )アテネ人は毎年、オストラキスモスを実施するかどうかを決める機会を与えられた。もし、6千人の定足数がオストラキスモスを実施することを可決したなら、民会が召集され、市民の各々は陶片に最も市から追放したい人の名前を刻んだであろうーまたは、読み書きができる仲間の市民に、刻んでもらったであろうー。市民は、その人物が追放されるのを望んだ理由を文言で示す必要はなかった。動機は恐らく様々であった。投票用紙〔陶片〕は集められて、「勝者」は10年間追放を余儀なくされた。
 
 この特異な制度には、多くの考えられる機能が提案されているが、少なくとも、コンセンサスによる政治の文脈で、その象徴的な意味が明確になる。つまり、オストラキスモスは、コミュニティーから、特に公的にアイデアを提唱したり、政治社会の価値を脅かすような方法で行動することによって、国民的コンセンサスを脅かす個人を追放する一つの方法であった。(注 49)また、オストラキスモスは、個人に対して民主的決定が拘束力のある性質であるという公的なデモンストレーションとしての役割も果たした。区での市民登録の場合のように、大衆は判定して自分らの集団の意志を個人に強要した。オストラキスモスによって追放された市民は、法的だけでなく道徳的に人々の意志に束縛された。彼らの決定は気まぐれで、かつ非合理的であったかもしれないが、彼はそれに従わねばならなかった。しかしながら、オストラキスモスによって追放されたアテネ人は、コミュニティーから永久に除外はされなかった。人々の意志に従い、国家のメンバーすべてを拘束するコンセンサスの誓約を受け入れることで、オストラキスモスによって追放された人は、市民権だけでく身分と財産(すなわち、重要なエリートの属性)をはそのままにして、最終的にはそのグループに戻ることを許された。

 オストラキスモスは、地方と国家の両方のレベルでクレイステネスの改革の中心メッセージを明白にした。すなわち、「我々アテネ人は全員参加であり、我々すべては決定に参加する。そして、我々は皆、相互に同意した解決策を支持する義務がある。積極的な反対は容認できないが、自分に有利でない決定を受け入れる者は、依然としてグループの一員である」。クレイステネスの改革の政治的スローガンである新体制の名前は、イソノミアであるように思われる。そして、その言葉は、反僭主のキャッチフレーズとして、アテネの貴族によって生み出された言葉かもしれない。もしそうであるなら、クレイステネスは新しい意味をその用語に与えた。それは グレゴリー・ヴラストスによって、「法律を通じて維持され、法律によって促進された政治的平等」として定義された。(注 50) 508/7年のアテネ人は、イソノミアをもっと幅広く、「平等を維持しかつ促進し、すべての市民を平等に拘束する決定(法律)をすることに参加する平等」と解したかもしれなかった。しかし、オストラキスモスの実施は、アテネ市民に対する付随的で、より目立った象徴的なメッセージを持っていたかも知れなかった。エリートのメンバーは誰一人、彼がいかに強力に見えようとも、大衆の怒りから安全であったものはいなかった。クレイステネスがその武器を用いるのを意図したのが誰であれ、結局オストラキスモスで追放されることになった人々は、エリートのメンバーであった。目立った市民を気まぐれに追放するという経験は、それは、グループから余りに明らかに突出している単純かつ十分な過ちに関してであったが、その経験は、エリートに適切な公的行動についての一般大衆の概念に、ある程度の順応を課す大衆の集団的力における重要なレッスンであった。(注51 )

F. 5世紀

 クレイステネスの改革とペリクレスの死(前429年)の間に経過した80年間で、エリートの政治的特権のほとんど残りの制度上のとりでは取り壊され、大衆の集団の政治権力が強化された。(注52 )それゆえ、植民地時代のマサチューセッツのタウンミーティングとの類推は失敗に終わるであろう。すなわち、アテネ人は、外部の権威がないために秩序を生みだした民主的形態の使用から、実際の選択肢をめぐる活発な公開討論が、大衆による真の意志決定に先だって行われた国家の創造へとコーナーを曲がった。コンセンサスを理想として放棄することなく、または民主的多元主義の実際の概念を開発することなく、アテネ人は、多数決主義と共同体主義の原則に基づいて運営する手段と、政治的議論の文脈で異議を認め、正当化する方法を開発した。(注53 )植民地時代のマサチューセッツの市民権においては、民主主義は社会組織の点から見れば、重要ではない位置を占めたのに反して、アテネ人にとっては、民主主義と平等は政治秩序と同様に、社会の中心の体系づけられた原理となった。(注54 )

F.1 440年頃までの国制上の改革

 クレイステネス後の最初の重要な改革は、487年に行われたと思われる。それは、アルコンの選出のための抽籤が導入されたことで、おそらく評議員を含んだ他の行政官に関しても同様であった。さまざまな仕事を行う人を選出するための抽籤の起源は、宗教的なものであったかもしれない。そして、ソロンもクレイステネスも、何らかの行政官職に抽籤での選出を用いたかもしれなかった。しかし、487/6年から、9人のアルコンと(恐らく)テスモテタイの書記は、部族か区のいずれかによって「予め選出された」非常に多くのグループの人々(プロクリトイ〔予選された候補者〕:少なくとも100人、恐らく500もの人)から抽籤によって選出された。アルコン職はなお裕福な人々の正当な領分であったが、この改革は、国家の制度化された組織を支配するエリートの能力に、重要な長期にわたるインパクトを与えた。(注55 )政治的に野心のあるエリートは、今や能力や、家族の背景、または富を誇示することによって、政治での強力な立場を得ることが一層難しいことを悟ったに違いなかった。

 多くの人が毎年予備選挙される必要があったので、なかには取るに足らぬ人や、無能な人が、最終的には重要な行政官職に就いたに違いない。さらに、実際のところ個人的に才能のある人々は、6世紀には重要な行政官は持つことを求められたかもしれなかったエリート内部の「コネ」のネットワークを、必ずしも持つ必要はなかった。役職にある者は、もはや意思決定を行い実行する際に、自動的に政治的に経験のある友人や親戚の中心グループに助けを求めることができなかった。つまり、抽籤の導入によって、役人は、結束力のある支配エリートの政治部門として、効果的に機能するのはより困難であると感じたかも知れなかった。結果として、行政官の権力と影響力は徐々に弱まったと思われる。そして行政官は中央の意思決定機関、すなわちアレオパゴス評議会、五百人評議会、民会の権限により密接に結びつくようになる傾向があった。(注56 )

 1世代後の462年に、重要ないくぶん曖昧ではあるが、一連の改革がエリートの直接的な政治権力を弱めた。例のエピアルテス〔訳注 24〕が、アレオパゴス評議会から「付加的権限」を奪い取る行動を主導した。これが実際には何を意味するのか、またはエピアルテスの動機は何だったのかは、正確にはわからないが、アレオパゴスは多分、民会の「違憲」決議を再検討し破棄する権限を含んだ法的権力のいくつかを失った。(注57)これが正しいと仮定すると、民会の意志決定力は、もはや社会学的にみてデーモス自体よりか狭義に構成された機関によっては制限されなかった。すなわち、エリートはもはや大衆の決定を拒否する制度上の手段を持っていなかった。アレオパゴスはなおも富裕エリートの領分であったが、今や国家において政治的重要性は大幅に低下した。

 アレオパゴスの権力が縮小されたので、五百人評議会が国家において唯一の制度化された諮問グループになった。評議会の議題設定機能や民会への勧告(プロブーレウマタ:予備審議案)は、結果としてより重要なものになった。しかし、評議会を民会のブレーキとして機能するものと見ることは誤りであろう。むしろ、狭いエリートではなく、デーモスのかなり幅広い断面を確保することで(抽籤によって無作為に選出されたので)、権限を与える機能を果たした評議会は、民会の会議の議題を決定して、政策に関する提案を行ったであろう。一般大衆の基盤を持つ評議会が、議題を設定していなかった場合、民会は比較的無力であったであろう。すなわち、議題を支配した人々は、ただ脅威になる提案が民衆に提出されないことを確実にすることことによって、制度上の立場を脅かす何らかの動機を阻止する可能性があった。ピーター・バカラックが指摘したように、「エリートは、影響力の範囲内で、政策を開始、是認、または拒否する決定を行う際に、法外な権力を行使するだけではなく、彼はまた自分の利益を脅かす可能性のある問題が公に考慮されることを防ぐことで、強大な権力をも行使する。」(注58)アレオパゴスとは違って、評議員は企業理念(コーポレート・アイデンティティ)を持っていなかったので、防御するための制度上の地位や、またアドバイスするための共通の個人的議題を持っていなかった。彼らは民会の前に、市民に関わるすべての問題をもたらすことことが期待された。

 462年以後の数年以内に、二つのその他の非常に重要な革新により、政治のあらゆるレベルで普通の市民の完全な政治参加が可能になった。一つはイセーゴリア(民会で国家の重要な事柄について演説するためのすべての市民の権利)の導入—−または、少なくともより重視ーであった。(注59)ラウフラウプは、イセーゴリアの概念の起源は、演説するための貴族の間での機会均等として、前クレイステネスの時代のエリート内部の競争の文脈で求められなければならないと説得力をもって主張している。(注60)しかし、前クレイステネスの時代の貴族は、ほとんど役職上の地位を保持しており(例えばアレオパゴス評議員のような)、それは彼に正式な民会で市民に演説する合法的あるいは伝統的(それは、実際には重要ではなかったが)特権を与えた。アテネの政治的エリートの制度上の基礎を継続的に粉々にすることで、民会は権力を得て政治指導者間の競争の主要な場所となった。しかし、今やほとんどの役職は間違いなく抽籤によって占められていたので、政治的に野心的エリートは、彼に民会で演説する権利を与えてくれる公式の立場を確保することはできなかったかもしれない。その結果、エリート社会では、政治的議論の自由度を高めることが得策であるという確信が生まれた。

 イセーゴリアは、後にアテネ人にとって民主主義にとって不可欠なものであると考えられて、そしてそのとおりであった。恐らく、ほとんどのアテネ市民は、―民会に定期的に出席する人々でさえーそこで彼らの演説する権利を行使しなかったであろう。しかし、イセーゴリアは、民会での大衆の経験の性質を、提案された議案を受動的に是認(あるいは拒否)するものから、複雑で対立する議論のメリットを積極的に聞き、判断するものに変えた。(注61)国家政策のすべての重要事項は、民会でなされた演説に基づいて決定されたので、演説の技術は益々重要なリーダーシップの技術になった。市民は提出されたさまざまな政策の選択肢を選ぶことや、それについて考えることを強いられたので、市民の政治生活ははるかに真剣に、また個人的に重要になった。民会は、決定に関する責任が集団的で、それゆえ市民を道徳的に拘束することを確実にするフォーラムから、公の政治的議論、討論、および決定の中心(フォーカス)となった。

 462年の直後の数年間で、特に重要な2つの進展は、役職に就任するための財産資格の緩和と公務に対する手当の導入であった。(注62) 457/6年にアルコン職をはじめ、すべての役職はゼウギータイ(重装歩兵級)ー彼らは余暇階級のメンバーではなかったーに開かれた。アテネの行政官は集合的に、もはや無作為に選ばれた富裕エリートの断面を反映することさえなく、市民人口のかなりの割合に、実際,恐らくすべての市民に開かれた。4世紀には、いずれにしても財産資格に全く注意が払われていなかった。テーテス〔労務者級〕でさえ、役職者になり得たしまたなった。(注63)国政上の変化は、役職者への国家の手当の支給により、意味のあるものになった。今や初めて、生計のために働かねばならなかった人々が、国家の仕事に専念することが可能になった。ほとんどの役職が抽籤によって分配されたので、ここからアテネの多くの役職者は、普通の市民であったと仮定できるかもしれない。ただ、国家の実際の支配にこの進展がどれほど重要であったかは明らかではない。というのは、ほとんどの役職は重大な責任、または権力の中心ではなかったからである。しかしながら、評議員への手当が同時に導入されたと仮定するなら、改革は疑いなく重大な議題設定機関の社会的構成にかなりの影響を与えた。(注64)

 普通の市民が、国家事業のすべてのレベルを運営するということの象徴的価値は、少なからぬものであったに違いなかった。アテネ人が行政官(例えば、バシレウスなど宗教を扱う若干の問題に関して)に向かい合う際に感じたであろう畏敬の念は、今や役職者の個人的地位ではなく、役職自体の働きであった。それゆえ、畏敬の念は、行政官がある意味で象徴していた、その国家の反映された威光にあると思われた。畏敬の念を起させる(彼らはそうであったと仮定して)国家の役職の代表としての姿から、エリートの地位が移動することは、エリートが大衆の精神に及ぼす潜在的影響力を、全体として低下する結果につながった。非エリート市民が、エリートの高貴な生まれや富の理由で彼らに感じたかもしれない敬意は、もはや彼らを国家権力の装飾に見ることによって説得力を与えられなかった。
 
ペリクレスによって提唱された451/0年の新しい法律は、市民権を彼らの父親側と同じく母親側に関しても、アテネ人の息子であることを立証できる人々に制限した。かっては、非アテネ人の母親の息子は市民になることが許されていた。その改革を促す当面の懸念は、アテネのクレールーコス〔訳注 25〕(彼らに関しては、下記、第2章F 2を見よ)が、海外で外人女性と結婚する傾向であったかもしれなかった。5世紀中頃の多くのクレールーキアは、下層階級のアテネ人に非アテネ人女性と結婚する前例のない機会を提供した。クレールーキア以前には、この選択肢はほとんどの場合エリートのより機動力のあるメンバーに限られていた。(注65)新しい市民権法の履行によって、アテネの市民団体は、理論上閉鎖的社会になった。血統を通じて(アテネ人の想像では)伝わるような外国の共感と風潮の混合はもはやなくなるであろう。長い間の象徴的な同族結婚の効果は、純粋なアテネ人の血統の優越や、市民が今や真のアテネ人であると感じた特性の継承性を、アテネ人が確信することを再強調することであった。すなわち、生まれながらの知性、機敏、愛国心、公共心に富むこと、平等への生来の愛、そして国家の伝統を尊重すること、などの特性である。(注66)

 クレイステネス後の一連の大改革は、440年代に、民衆裁判所の陪審員に国家手当が導入されるにおよんで最高潮に達した。(注67)再び、ペリクレスの提案によって、陪審員手当により労働者市民が陪審員席につくことが可能になった。このことにより、事実上、大衆はすべての市民の行動の法的な裁判官としての地位を確立した。今や法律に違反した、または他の市民との紛争に陥った一エリートは、普通の市民によって牛耳られていた陪審に直面したであろう(下記、第3章E 4を参照)。上流階級の訴訟者の生活、行動、態度は、財産や社会的地位そして教育が、訴訟者自身よりはるかに低い人々による綿密な調査の対象になったであろう。陪審員は、自らの良心に従って自由に投票したので、上流階級の訴訟者は彼らの基準によって裁かれた。そして、その規準は、訴訟者自身のものとは異なっていたかもしれなかった。法廷における手当の導入は、大衆に私的な行動と彼らが国家の政策について持っていた法律の解釈をめぐる同種類の支配力を与えた。440年代までに、それ以前ではないにせよ、デーモクラティアはアテネの政治形態を表す標準用語となり、デーモスは実際に、国家において政治権力を所有していた。(注68)

F. 2 改革の背景

 真の民主主義への転換におけるアテネの成功―そこでは、実際の選択肢の間の決定が、公然と大衆によってなされたがー、それに寄与した内的、そして外的要因は確かに複雑である。単一の原因によって、十分な説明が提供されるようには思われないし、活動し始めたさまざまな要因の各々に、割り当てられるべき相対的な重要性を評価することは困難である。一つの重要な要因は、クレイステネスの国制上の配置それ自体である。国家の統治機関から地方の政治機構を切り離すことより、クレイステネスは区のレベルで政治的コンセンサスを達成した経験を、国家の政策決定のレベルへ移すための手段を考案した。立法者の意図は真の民主主義ではなかったかもしれないが、民主的政治イデオロギーは、地方レベルで発展し、それによってそれは国家の民会へ移された。ザッカーマンが、マサチューセッツのタウンミーティングについての論文で指摘したように、

 「皮肉にも、コンセンサスの政治は、一致を保証するためにほとんどの住民との協議を必要としたので、地方の政治は、実際少なくとも政治参加の限られた条件では民主的であったかもしれない。200人、または300人の成年男性が狭いところで、接触を続けながら住む小さな町では、男性たちは、自分たちの行動と態度に対する政治的プロセスに従順な感覚を、非常に広く共有している可能性があったかもしれない。そして、関与しているという感覚は、かなり一般的であったかもしれなかった。」(注69)

 植民地時代のマサチューセッツでは、その感覚がタウンシップのレベルを越えて機能できる範囲には明確な限界があった。しかし、クレイステネスによって発展した評議会と民会の機構では、「政治的プロセスに従順な感覚」は大衆によってすぐにアテネの国家の政治的方向性に大きなインパクトを与えた。

 対外的な出来事の中で、民主的体制の進展を速めるのに役立ったのが、ペルシア戦争(490年から479年)の経験であった。490年に、数で劣るアテネ軍は、アッティカ北東のマラトンの上陸拠点からペルシア軍を押し出した。480年から479年に、ペルシア軍がギリシアを行進してアッティカを占拠した時、アテネ人の決意は再び試された。アテネ人は捕らわれたり、または国土を守ることを試みて虐殺されるよりも、国土を捨てることを選んで撤退した。アッティカのアテネ人の疎開は、自らと世界の他の人々に対して、彼らが本当に国家を構成する国民であり、単に特定の領域の住民ではないことを示した。彼らの犠牲と不屈の精神は、国家の団結と、誇り、そして目的意識に寄与した。

 マラトンは重装備の重装歩兵による勝利であった。しかし、戦争での勝利は海軍の行動にもかかっていた。480年の最初の疎開直後に、ペルシアの海軍はアテネの海岸沖、サラミスで圧倒的な敗北を経験した。他のギリシアの国家もギリシアの艦隊に貢献してはいたが、戦略計画はもちろん、大多数の船はアテネのものであった。アテネの船は下層階級の漕手が乗り組んでいた。アテネと最終的にはすべてのギリシアが救われたサラミスでの海軍の勝利は、アテネの大衆の下級部隊ー歩兵の甲冑を購入する十分な資金を持っていなかった最も貧しい市民―の勝利であった。それゆえに、重装歩兵と漕手の両方が、勝利に貢献した。そして戦争が勝利した後には、国家を救った人々は国家の中でより完全な分け前を要求することができた。(注70)

 ペルシア戦争の後に、アテネは海上同盟〔訳注26 〕を組織して、それを指導した。その目的はペルシア人を処罰し、エーゲ海でのペルシア海軍力の再建を防ぐことであった。その世紀の中頃には、同盟はアテネ帝国になっており、同盟国の軍事奉仕はアテネへのあからさまな貢納になっていた。ついには、アテネの「同盟国」は自国の貨幣を鋳造する権利を失って、さまざまな訴訟はアテネの法廷に移された。海の帝国は、海軍力がアテネの国家の安全保障にきわめて重要であり、それゆえ下層階級の漕手が国家に欠くことのできないものであることを確実にした。その一方で、帝国は多量の財政上の資産を提供した。貢租に加えて、帝国のさまざまな地域に設立された市民の植民地―クレールーキアがあった。そして、クレールーキアは貧しいアテネ人に土地の割り当てを提供した。帝国の被支配者に、アテネで裁判を行うことを強いる法律によって生み出された法的活動は、多くの陪審員の要員を必要としたに違いなかった。そして、彼らは、国家によって手当が支払われた。従って、帝国は大衆が民主化に圧力をかけることができた風潮も、市民が政治に参加するために支払う財政上の資金をも生み出すのに役立った。恐らく、完全な民主主義は、ペルシア戦争と帝国がなかったなら出現しなかったであろうが、その時代の対外発展は、それにもかかわらず大衆の政治意識の継続的な成長の助けとなり、エリートに対して民主化の経済的影響を減らすのに役立った。(注71)

F.3 エリートのリーダーシップ

 民主化への傾向は、実際上は決してエリートによって阻止されなかった。それどころか、エリートは改革のためにリーダーシップを提供した。富裕なかつ家柄のよいアテネ人は、政治的影響力のために互いに激しく、時には野蛮に競争し、彼らは進行中の政治闘争において駆け引きとして大衆に訴えた。(注72)この行動様式は、貴族的精神(エートス)が競争を重視した程度を考えれば、決して驚くべきことではない。アルカイック期以来、ギリシアの貴族は、酒宴に参加した際にワインのかすを標的に投げることから、国家の政治まですべてのことで競争した。彼らはとりわけ貴族同士お互いに競争した。その勝利がかぐわしいものであるためには、当然貴族的な相手である必要があった。(上記の第1章 A、下記の第6章 Aを参照)。大衆が政治的に活動していなかった限りにおいては、エリート内の競争は、国家の政治的方向性に比較的影響を与えなかった。すなわち、その競争は、エリート間で誰が権力を握るかを決定するのに役立ったが、社会の階層的な権力構造に異議を申し立てることはなかった。しかしながら、ひとたび下層階級が政治闘争の中で一要因であることに十分に政治的に気づき始めたならば、つまり、クレイステネスの時代には、エリートは大衆の野心をお互いに対して用いるための新しい武器であると認識した。その結果として、政治的に野心のあるエリートは、積極的に民主化改革を支持した。このことは、彼ら自身国家の中での影響力を獲得し、同様に重要なことは、競争相手のもくろみをくじいた。

 それゆえに、大衆は平等の正当性に関する理論的原理、または大衆への愛情によってというよりは、競争心の精神(エートス)によってつき動かされていた指導者なしでは、決して際だった能力、経験、真の民主主義の発展のつながりに貢献しなかった。皮肉にも、エリートが民主的改革を支持することで、競争相手に対して勝利を獲得するにつれて、彼らが直接支配できる組織は一層少なくなった。一連の民主化改革は、前クレイステネス時代の集団エリート支配の制度的基盤であった役人組織を解体した。その世紀の中頃には、ほとんどの役職はほとんど重要ではなくなり、権限の連続性を提供せず、そしてすべての人に解放されていた。つまり、主要な政策決定は、今や大衆の一団によってオープンに作られるようになった。
 
 エリートが直接権力を行使するのを可能にする制度がないために、彼らはいっそうはっきりと「政治家」にならなければならなかった。結局、大衆は今までどおり、国家にとって最善の政策を考え抜くことができ、評議会、民会においてその政策を提唱する際に、主導的な役割を果たすことを望んでいる指導者、経験を積んだ人物を必要としていた。5世紀の初期には、富裕者や家柄のよい人物が、政治的評判を獲得できるさまざまな方法があった。これらはすでに、W. R. コナーやJ. K. デーヴィスによって立証されている。この時代の政治家は、政治的助力者として働くことのできるエリートの親類や友人のヘタイレイアイ〔訳註27 〕に頼っていた。野心のある政治家は、富と祖先の派手な見せびらかしも公然と行ったかもしれない。さまざまな全ギリシア的競技に勝利することで、富と祖先両方について自慢する機会が提供された。富裕な政治家は、「気前のよさの政治」ー隣人にお金や他の種類の物質的援助を与えたり、またはデーモス全体の利益のために何らかの物質的方法を提供することーに訴えることが出来た。(注73)要するに、5世紀初期の政治家は、前ペイシストラトス時代に得られた敬意と被保護者の形態と多くの共通点を持つ関係に依存する傾向があった。5世紀初期のアテネの政治家はデーモスに訴えたが、彼は6世紀の祖先になじみのある富と生得権のシンボルを通してそうした。

 しかしながら、5世紀の第3四半期までに、アテネ大衆の発展するイデオロギーは、政治的キャリアへの確立された道をより不確かなものにしていた。アテネ人は、貴族や階級権力の古いシンボルをますます疑い深くなり、彼らは普通の市民の仲間より社会的同等者の仲間を好んでいるように見えるエリートを、不信の目で見はじめた。アテネのデーモスが、政治機関をより厳密にコントロ−ルするにつれて、大衆はより適切で社会的および政治的行動のますます明確な、一般的な概念を確認するために、エリートに効果的な圧力をかける用意があり、それを行うことができた。コナーは、ペリクレスは、この傾向を認識し、そこでエリート市民の通常の一連の社会的活動から距離を置いた最初の政治家の一人であったと述べている。(注74)

F.4 ペリクレス

 富裕で名門の出であったペリクレスは、450年頃から彼の死の429年の間アテネの傑出した政治的人物であった。(注75)彼の卓越性は、アテネ人の世論のイデオロギーの動向の正確な評価、アテネに残された一つの重要な選挙による役職(将軍職〔訳注 〕)の賢明で抑制された使用、彼のレトリックの技術、そして新しく登場した「教養のあるエリート」の能力を進んで用いることなどによるものだった。将軍職は、ペルシア戦争中およびその後のアテネの絶え間ない軍事活動の結果として重要な役職になったが、それはペリクレスに継続的に象徴的かつ国政上の権力の制度化された地位を提供した。彼は443年と429年の間、毎年将軍に再任されたが、それは彼が投票する人々に継続した人気があったことを証明する記録である。彼が「第一の将軍職」の役職を占めて、それゆえ毎年選出された他の9人の将軍よりも大きな法的な権限を持っていたかどうかにかかわらず、彼が役職を連続して務めていることが、彼を事実上委員会の議長にしたことは、疑いの余地はほとんどないであろう。(注76)すぐれた将軍として、ペリクレスは民会や評議会で、軍事や外交政策について市民に演説することを期待された。少なくとも430年代まで、ペリクレスが将軍職に連続して務めていたことは、彼にかなりの道徳的権威を与えた。さらに、彼は他の将軍との影響力を利用して、長期にわたって民会の招集を控えることができた。(注77)こうして、ペリクレスは少なくとも四百人評議会の時代の支配エリートを特徴づけていた「非決定の権力」(その用語はバカラックのものである。上記、第2章、E. 2を見よ)の名残をとどめていた。ペリクレスは無期限に意思決定を抑えることは出来なかったが、世論の傾向の比較的短期間の変化について、彼自身の判断次第で、緊急の民会を召集するか、召集しないかを決める将軍の権利を用いることが出来た。
 
 しかしながら、もしペリクレスが他の才能を持っていなかったなら、将軍職で枢要の地位を獲得することは決して出来なかったであろう。つまり、彼は恐らく財政が非常に得意であり、才気あふれる軍事戦略家(偉大なる戦術家とはいわないまでも)であったが、最も重要なことはレトリックにおける技術であった。ペリクレスは、確かに言葉で道を開いた最初のアテネの政治家ではなかったが、彼以前のどんなアテネの著名人よりも、公的な演説の力により注意を払っていたように思われる。歴史家のオロロスの息子トゥキュディデスは、ペリクレスを非常に誉め讃えたが、国家における彼の権威は、大いにレトリックを自在に使う力と相関関係があったことを明らかにしている。彼は「演説と行動において最も力強い、最初のアテネ人」であった(『歴史』1.139.4: プロートス・アテーナイオーン、レゲイン・テ・カイ・プラッセイン・デュナトータトス;参照『歴史』2.65.9。また、プラトン『パイドロス』269eを参照)。トゥキュディデスは、ペリクレスの演説の3つを再現していることを公言している。すなわち、葬送演説と二つの民会演説である。(巻末の「補遺」を見よ)これらは、オリジナルに近いという理にかなった主張のある、アテネの政治家による最も初期の演説である。これは、完全に保存が偶然であったはずがない。すなわち、イセーゴリアの産物である政治的レトリックは、最近になってようやく研究と実践に値する学問分野として認められている。ペリクレスは恐らくすぐれた生まれながらの弁論家であるが、生まれながらの才能は、確かに自己を意識した実践と準備、そして恐らく正式の教育によって磨かれた。(注78)
 
 トゥキュディデス(『歴史』2.65.8)によれば、ペリクレスは絶えず心地よいことを語って、デーモスに影響力を得ようとしたのではなく、むしろ時には大衆の要求に反対した。確かに、このことは真実であった。というのは、つかの間の賞賛以上に何かを成し遂げたいと願う弁論家すべてにとって真実であったに違いないので。(下記、第7章E. 4を見よ。)しかし、葬送演説において、ペリクレスは確かにアテネの輝かしい歴史のテーマを、その偉大なる運命を、市民の団結を、そしてよそ者に対する優越をむやみにかき立てて強調した。(注79 )同様のテーマは、立法(例えば市民権法など)、外交政策ーそれは帝国の拡張、同盟国の支配、そして他の大きな勢力への挑戦を強調したがーまたアクロポリスの壮大な建築計画の推進の中で繰り返された。(注80)彼以前のペイシストラトスと同様に、ペリクレスは市民と国家の一致団結を強調し、アテネ人に彼自身の中に国家の象徴的な具体化を見る気にさせた。(注81)

 ペリクレスは決して、すべてのアテネの政治的に活動的エリートのメンバーが、予期しなければならない競争的な攻撃から自由ではなかった。政敵は、民衆と彼の立場を徐々に弱めるためのさまざまな方法を試みたが、彼は比較的政敵の策略に動じないことを示した。彼が大衆の権力の大義に忠誠心を示したことや、将軍の権威、そしてレトリックの技術は民衆の傾聴を失わなかった。こうして、彼は最も危険なライバルを、オストラキスモスによって追放するようデーモスを説得することで、彼らの存在を取り除くことができた。彼の政治分野の最後の最大の政敵メレシアスの子トゥキュディデスは、どうやらペリクレスに対して、古いエリートを統合しようとしたようである。彼は明らかにペリクレスを古いエリートの集団の利益にとって危険であると見なしていた。ペリクレスが権力と影響力に関して、進行中の競争のすべてのラウンドで勝利する能力を証明したことは、政治的な競争のゲームから楽しさを奪う恐れがあった。エリートは最終的に彼らの特権を守るために協力して行動するよう説得された。しかし、それはあまりに遅すぎた。トゥキュディデスの政治的プランーこれには、エリートが民会で一緒に座り、団結したグループとして大衆に対して投票し、やじりたおし、道徳的権威を行使することが含まれていたーは、 失敗した。彼は、恐らく443年に陶片追放にあった。ペリクレスと大衆の支配に対するエリートの抵抗は地下に潜った。メレシアスの子トゥキュディデスは、しばしば最初の真の党派政治家とみなされているが、彼はむしろ敬意の政治の復活に希望を託していたように思われる。彼にとって残念ながら、アテネの民衆はもはやエリートによる集団の特権の主張を許容する意志はなかった。(注82)

 歴史家トゥキュディデスによれば(『歴史』2.65)、430年代には、ペリクレスは単なる民衆の指導者以上の存在であり、彼は真のアテネの支配者であった。すなわち、名目上、国家は民主主義であったけれども、現実には君主制であった。このことはいくぶん事実を誇張している。トゥキュディデスのペリクレスの肖像は、後者が堂々とした孤立のうちにあって行動したことは、政治的現実の理解においては先見の明があり、デーモスとの関係においては独裁者のようであったことを示唆している。その肖像は、実際にはトゥキュディデス自身の偉大な男に対する若々しい理想像を反映しているかもしれないが、それはペリクレスを、トゥキュディデスが軽蔑した政治的後継者と対照させようとする歴史家の欲求に大いに帰さねばならない。(注83)

 ペリクレスは、今まで見てきたように、デーモスとの個人的連帯を示す方法として、古いエリートとのつながりを抑えた。しかし、彼は必ずしもトゥキュディデスがほのめかすほど全く孤立してはいなかった。彼はどうやら教養あるサークルの人材に頼ることができたようだ。5世紀後半のアテネの「教養のあるエリート」と呼ばれるかもしれない人たちのメンバーの多くは、謎に満ちているが、ペリクレスの友人は少なくとも幾人かのソフィストや、他のギリシャのポリスからアテネへ集まってきた政治的操作の専門家を含んでいた。そのサークルは、ペリクレスが都市や田舎で主唱した世俗かつ宗教的な公共の建物や、アクロポリスの大プロジェクトで働いた芸術家や建築家を含んでいた。ペリクレスの最も身近な仲間の中には、教養のある高級娼婦アスパシアもいた。プラトンは、彼女を伝追悼演説(『メネクセノス』)の話し手にして、またペリクレスの敵が言うには、彼女は陰の実力者であった。そのグループは、少なくとも間接的に、ペリクレスの被後見人のアルキビアデスの身近な友人であるソクラテスを含んでいた。このグループは、たぶんまとまりのあるものではなかったであろうが、共同してペリクレスのために一種の頭脳集団として行動したかもしれない。(注84)

 ペリクレスの教養ある友人は、彼との関係がどうであれ、世間の注目を集めることはめったになかった。彼らはアテネの政治指導者の新しい世代が育つた知的雰囲気を作り出すのを手伝ったが、ほとんどの教養のあるエリートのメンバーは、それは在留外人や女性を含んだが、必然的に政治的社会の周辺にとどまった。彼らは直接にあるいは間接的に政治家の助言者、また教師として務めることで、アテネの政治的発展に非常に重要であったが、彼らはあからさまには国家の統治に参加しなかった。

 はえぬきのアテネの男性だけが、国家で政治的役割を果たすのにふさわしいというアテネ人の確信は、市内で最も教養のある知識人の多くが、依然として境界上の人であることを確実にした。社会では、しかし決してそうではなかった。5世紀の教養あるエリートの最も永続的な政治遺産は、レトリックの理論と実践の公式化であった。特に演説を通して、イメージを操作するペリクレスの技術は、彼がデーモスと親密で個人的な関係をより強固にするのに役に立った。彼の死後、レトリックの教育は、すぐにアテネの政治家にとっては必須の基本となる準備となった。

 コナーが指摘したように、ペリクレスは過渡期の人物であった。(注85)富と生まれの点では、彼は古いエリートに属していた。それにもかかわらず、ペリクレスが結びついたのは、古いエリートや、少なくとも、おおっぴらには新しい教養あるエリートでさえなく、デーモス自体であった。ペリクレスは、特に陪審員のための手当を通じて、民衆が指導者の公的行動を決定するための権力を、個人的に受け入れかつ促進する際に、以前の政治家よりもさらに進んだように見える。レトリックと、公的行動に関して大衆の支配を承認することは、密接に関係していた。すなわち、レトリックは政策を促進し、かつ民衆に「反対する」だけでなく、彼らに大衆イデオロギーへの自分自身の適合性を示す手段を提供した。この種の承認は、トゥキュディデスがペリクレスの言葉で行った演説の中で、正確に特定することは容易ではないし、ペリクレス自身大衆のイデオロギーとレトリックの間のつながりを、十分には利用しなかったかもしれない。(注86 )しかし、エリート社会からの脱退や、陪審員のための手当の発起人、またレトリックの力の立証により、彼は政治的エリートとアテネの大衆の関係を永久に変えた政治へのアプローチの基礎を築いた。

 ペリクレス以後の政治家の誰一人、決して彼に取って代わることはなかった。誰一人、軍事的役職の連続性とーそれは道徳的権威の多くの源であったがー、レトリックの技術、民衆の雰囲気を読む優れた能力、財政の細部の掌握、そして戦略的な見識などを兼ね備えることに成功しなかった。この属性の集団のいくつかの要素は、確かに、まさしく天賦の才と呼ぶことができるものの結果であった。しかし、ペリクレスと政治的後継者の間の断絶は、トゥキュディデスが暗示したほどはっきりしてはいなかった。ペリクレスとその後のアテネの政治家との違いは、すべてがまたは主に、よく考慮した上での政治的方法、社会的背景、または生来の性格などに帰することができるというわけではない。むしろその違いは、ペリクレスがデーモスと同盟を結ぶ際の、また外部状況の変化に対するレトリックの方法に比べて、後続の政治指導者による洗練と精巧さの結果であった。ペリクレスはユニークな政治的天才であったかもしれないが、彼はユニークな歴史的瞬間に身を置いていた。彼の後継者は、天才であろうとなかろうと、いくらか異なる状況に対処しなければならなかった。(注87)

F.5 デーマゴーゴス〔訳注 29〕と将軍

ペリクレスが死んだ時は、アテネは後にペロポネソス戦争(前431年-前404年)と呼ばれるスパルタとの大規模な戦いに巻き込まれていた。戦争はアテネの人々に多大な要求を行い、その過程でアテネの政治指導者が活動する枠組が変化した。特に、長期の政治的発展にとって重要なことは、権力へのペリクレスの道の二分化であった。ペロポネソス戦争において、最善のアテネの将軍の多くが(例えば、デモステネスとラマコス)、熟練の弁論家であったとは思えないし、偉大な弁論家(例えば、クレオンとヒュペルボロス)は、一般に軍事指導者の経歴がなかった。この政治的専門性への傾向は、一つには
ペリクレスが潜在的なライバルを思いとどませること、および戦争自体の緊急性に起因していたかもしれない。ペリクレスと一緒に(あるいはその下で)働いたことが知られている将軍の誰一人、429年以前に非常に政治的に活動的であったようには思えない。つまり、ペリクレスは政治的才能をあまり示さなかった有能な軍人のキャリアを奨励したと推測できるかもしれない。

 彼の死後、戦いは拡大して その定型と交戦の暗黙のルールを伴った苦闘の戦闘の伝統は、放棄されたりまたは修正されたりした。戦略と戦術はより複雑になり、熟練した経験豊富な指揮官を要求した。(注88)戦略的計画に非常に重点を置いた「新しい戦闘」により、アテネ人は軍事的才能に基づいて将軍を選出することが不可欠になった。アテネ人は、クレオンのような口が達者であるが、経験の浅い戦場指揮官に頻繁にチャンスを与える余裕はなかった(トゥキュディデス『歴史』4.27.3-29.1)。さらに、遠方の戦場での一連の軍事行動は、デーモスとの接触から離れて、将軍は長い期間アテネから離れる必要があった。結果として、ペリクレス以後のほとんどのアテネの将軍は、政治的バックグラウンドやレトリックの技術や、または民衆の活動的指導者としての役目を果たす時間を持っていなかった。

 実際、弁論及び軍事上の成功に特有の特別な能力と、性格的特徴は全く異なっていた。ペロポネソス戦争の数年後に、アンドキデス(3.34)は、将軍は軍事的懸念により、計画を秘密にして自分の部下でさえ欺くことを要求されたが、使節(政治家と解される)は、決して隠し立てをしたり狡猾であるべきではなく、すべてをデーモスに委ねなければならないと述べた。イソクラテス(15.131)は、4世紀の最も有名な将軍ティモテオスの尊大さ(メガロプロシュネー)は、将軍職においては彼にとって有利であったが、デーモスとのやり取りには困難の原因となったと述べている。こうした考慮すべき事柄は、5世紀の最後にも十分当てはまった。決して軍事と政治分野の間に完全な分裂はなく、5世紀の終わりには(例えば、ニキアスやアルキビアデスのように)、そして4世紀のはじめには(例えばトラシュブロスやコノンのように)民会で演説する将軍もいたけれども、4世紀の第2四半期と第3四半期には、ポキオンだけがペリクレスのそれに匹敵する役職の連続性とそれに伴う道徳的権威を獲得した。しかし、ポキオンは演説者として、かつアテネの世論を読み取る人としては、ペリクレスよりもはるかに劣っていることが判明した。アイスキネスが、ポリスのために善行を行った将軍が、演説の技術不足によりその成果を人前で十分に説明することが出来なかったので、その冷遇に不満を述べるのももっともだと記した時、念頭に彼のことを置いていたのかもしれなかった。その一方では、演説のできる相手は、価値のあることを何もしなかったにもかかわらず、自分自身を国家の恩人と見せかけることができた。(注89)

 ペリクレスの死から322年の民主政の終わりまでの時代には、アテネの重要な政治指導者は、多くの場合熟練した正式に訓練を受けた弁論家であったが、彼らは概して将軍職がペリクレスに提供した制度上の権力基盤を欠いていた。429年以降、最初に頭角を現した政治家であるクレオンは、上流階級の出身であったが、貴族の出生エリートではなかった。これがどの程度まで彼の見解に影響を与えたかを語ることは難しい。(注90)確かなことは、彼がペリクレスの制度上の地位を欠いていたということである。クレオンは、大衆とのイデオロギーの連携を示すことで、大衆の支持を獲得し維持することに真っ向から取り組んだ。彼は、以前の友人すべてと公然と関係を絶つことで、ペリクレスの上を行ったが、それは、アリストパネスがからかって、しかし、非常に正確に言ったように、彼がデーモスの唯一の愛人であることを示すためであった。(注91)クレオンは彼の愛情をレトリックを通して示した。それは、トゥキュディデス(『歴史』3.37-40)がミティレネの議論でクレオンに語らせた演説が、説得力のある話の傑作である。どれ程正確に、その演説がクレオンが実際に427年に実施したものを再現しているかはわからないが、驚くほどの平等主義の口調はクレオンの型に一致しており、この口調は他の自称政治指導者によって模倣されたと推測できるかもしれない。

F.6 反革命

 大衆のイデオロギーや民衆の支配の正しさを強調しているデーマゴーゴスの演説は、デーモスの気に入ったが、多くのエリートをひどく当惑させた。戦争はすでに富裕者への直接課税を招いていた。(428/7年までには:トゥキュディデス『歴史』3.19.1)平等主義のイデオロギーは、悪化するかもしれなかったーことによると、財産没収という要求を引き起こす可能性があった。その一方で、エリートは、政治的平等に関する目下の圧力はうわべだけだと期待する理由があった。アルキビアデスが、公然と富と祖先を自慢げに語った後で、415年の民会での議論で得た成功は(トゥキュディデス『歴史』6.16.1-4)、大衆は今でもエリートの身分・シンボルによって左右される可能性があることを示しているように思われた。ペリクレスによって政治的地下に追いやられていた上流階級の人や富裕者は、なおも政治的野心を抱いていたし、下層民の目の前で自分の価値を下げるのを望まなかった。戦争の緊張、デーマゴーゴスの成功とアルキビアデスのキャリアは、無制限の大衆支配に対するエリートの恐れと、敬意と政治的不平等に基づいた体制への復帰に対する希望の両方を刺激した。(注92)411年に軍事/財政上の危機の状況で反乱の機会が生じた時、彼らは準備が出来ていた。周到に画策された暗殺とプロパガンダのキャンペーンで、寡頭政治に熱心なエリートのグループが政治の支配権を握った。(注93)

 反革命主義者は、公的に新しい体制は穏健寡頭政であると宣言した。公職への支払いは削減されたであろうが、五千人の市民が法律的には引き続き役職の資格があった。実際には、すべての権力は、四百人のより狭いエリートによって保持されていた。そして、その四百人は五千人の市民に政治への参加を許すことが、完全な民主主義であると信じていた人々であった(トゥキュディデス『歴史』8.92.11)。寡頭政はすぐに崩壊した。四百人は国家がどのような方向を取るべきかについて合意を得ることができず、重装歩兵は寡頭主義者がスパルタに降伏するつもりであるという噂が広まった後、疑い深くなり、サラミスにとどまっていたアテネ艦隊の漕手は、新しい政権の正当性を認めなかった。寡頭政主義者が支配権を失い始めるにつれて、連中の数人は、それぞれ「デーモスの先頭に立つ指導者」(プロートス・プロスタテース・トゥー・デームー:トゥキュディデス『歴史』8.89.3)になろうとして、大衆の機嫌を取り始めた。エリートは、階級内の競争、強いアテネ人の愛国心、およびアテネの政治社会の下層階級が身につけた政治意識などの風潮に直面して、安定した非民主的な政治形態を確立できないことを示した。アテネ社会内部の緊張の深さを明らかにすると同時に、寡頭政クーデターの失敗は、民主的イデオロギーの際だった強さを明らかにした。(注94)

アテネは404年に、ペロポネソス戦争に敗れた。勝利者スパルタは、アテネ人のエリートの三十人のメンバーによって率いられた傀儡政権を立てた。そして、それは411年のクーデターと同じ運命をたどる政権であった。今度の場合も、穏健寡頭政につながる広範なプログラムが宣伝されて、そして捨てられた。つまり、またしても、エリートが団結して行動する能力がないこと、アテネ人の愛国的な感情、スパルタ人と売国奴両方に対する人々の憤り、そして新しい秩序を拒否したエリート指導者の指揮の下で大衆が一つにまとまった意志で行動する能力は、寡頭政政権の破滅を決定的にした。403年にアテネ人は、民主的政権を回復して、全般的な大赦が宣言された。すなわち、国家の統合は、すべてのアテネ人がー少なくとも、民会や法廷での公的活動においてー、ごく最近の出来事を忘れるという法的必要条件によってあらためて言明されるであろう。508/7年のように、社会秩序の再建には、コンセンサスと調和に重点を置く必要があった。(注95)

 G. 4世紀

 403年に民主政は復活した。しかし、それは形態または精神において、5世紀後半の「過激な」民主主義であったのか?確かに、アテネの法律の構成と現状に変更がなされた。法的システムを再編するプロセスは、5世紀後半に始まっていて390年代、そしてそれ以降も続けられた。最初の大きな変更は、恐らく427年から415年に年代づけられるグラペー・パラノモン〔訳注30 〕の手続きの制度であった。それによって、民会で可決された決議の提案者は、後になってアテネの法律かつ民主的原理に反する法案を提案したとして法廷で裁判を受けることがあった。(注96)しかし、何が法律であったか?この問題は、410/09年に、現存するすべての法律を集め、公布するために委員会が設立された時に取り組まれた。その仕事は、誰もが予想したよりむしろ大量であり、またより複雑であることが判明して、399年までには完全には完了しなかった。(注97)403年の民主政の回復の直後、アテネ人は最近集められそして公布された法律が、国家を統治するための適切な法的根拠を構成していないことがわかった。新しい法律を作成するための手順を確立する必要があった。グラペー・パラノモンによって、すでに民会による決議は、法的基準に照らして審査されることが暗黙の内にわかっていたので、民会自体が単に意のままに法を通過させることはなかったであろう。その代わりとして、現存の法の審査のための複雑な手続きや立法委員会(ノモテタイ)による新しい法律の制度が設けられた(403〜399年頃)。結果として、明確な区別がノモイプセーピスマタ〔訳注 31〕の間に引かれた。ノモイは、過去の立法家(例えばソロン)あるいは、立法委員の新しい委員会の一人によって可決された一般的性質かつ恒久的に継続しているこれらの法律であって、プセーピスマタは通例目下の問題を扱った、必ずしも法的判例を確立していなかったそうした決議であった。そして後者は、民会によって可決された。(注98)

 この一連の改革には重大な意義が伴っていた。それらは「古典期におけるアテネの国政上の発展の重要な分岐点」と表現された。(注99)さらに、民会を立法措置から分離しているように見える手続きの発展は、5世紀の「過激な」民主政と一線を画すものと考えられた。回復された民主的政治秩序は、それゆえに時には「穏健」と表現されている。(注100)しかしながら、こうした改革は政治社会学の点から見ると分岐点ではなかった。ノモテタイは明らかに、全デーモスからか、あるいは陪審員として名簿に載っている者から無作為に抽籤で選ばれた。彼らは、間違いなく仕事に対して手当が支払われた(デモステネ24.21)。彼らの人数が知られている一つの例では(デモステネス24.27)、その委員会は五百人評議員すべてを含む1,501人の立法委員からなっていた。陪審員と評議員が、市民総数の幅広い断面図を代表しているのである以上(下記、第3章 E)、立法委員の委員会がアテネの政治社会の社会構成を反映することを意図していたし、またそうであったと仮定する十分な根拠がある。(注101)

 回復した民主主義の国制は、国家の統治に際して、普通の人々が積極的な役割を果たす能力を保証していたすべての主要な制度を維持していた。すなわち、クレイステネスの区の組織、評議会と民会の間の関係、イセーゴリア、抽籤による役人と陪審員の選出、そして役職と陪審員の仕事に対する手当などである。(注102) 403/2年に、参政権を財産所有者に制限するという試みは、三十人僭主に対する反乱を助けた奴隷に市民権を与えることにより参政権を広げるという提案と同様に拒絶された。(注103)こうして、アテネ人は市民間の政治的平等と、市民団体の排他性の両方を再び主張した。両方の議案の破棄は、コンセンサスを助長するためのアテネ人の断固たる信念という観点から見なければならない。市民権を制限することは、国家の財政負担を軽減するだろうが、階級の緊張を悪化させるであろう。奴隷を市民であると認めることは、愛国主義と市民の血の間のつながりを否定することであろう。ホモノイア「心の一致」は、平等と排他性の両方を要求した。

 403年と399年の間のある時点に可決された一つの重要な国政上の議案は、5世紀の「過激な」民主的革命を完成させたとみなされるかも知れない。すなわち、民会に出席するための手当の導入である。恐らく、各集会に顔を出す最初の数千人に制限されたであろうが、この規定は労働者市民に、収入の損失を被ることなく決議のプロセスへの完全参加を可能にした。(注104)

 アリストテレス(『政治学』1274a7-11)も、アリストテレス学派の『アテナイ人の国制』(41.2)の著者も、4世紀のアテネの民主政を、最大限に発達した段階、政治機構の民主的形態のテロス〔終局〕とみなしていた。こうした評価は、「法の支配」および再審理なしで決定を行う民会の「主権」について、「憲法上の」用語で見た時に誤っているように見える。しかし、4世紀の民主主義を、最も完全に発展した、最も究極の、もっと言えば最も「過激」として記述することは、政治社会学の観点から見るとかなり理にかなっている。国家における大衆とエリートの相対的な力の点から見ると、5世紀の後半と4世紀初頭の国制の改革によって、民主主義の有意義な「中庸」はもたらされなかった。政治コミュニティー内部の大衆とエリートの相対的な政治的地位は、権力の分割やあるいは決議と法律の関係についての抽象的な問題ではなく、『政治学』と『アテナイ人の国制』の著者らにとっては―トゥキュディデスや「旧寡頭主義者」(訳註32 )、そしてアテネ人自身と同じくーアテネが実際にどれほど民主的であるかを決定した。(注105)

 すべての階級の市民による参加の可能性を確保するために、国家の財政上の責任を拡大する一方で、完全民主主義を再建することは難しい仕事であった。アテネの社会は、5世紀後半に非常に分極化することになった。コンセンサスは実際上は失われており、403年の大赦の決議が宣言されていたからといって,直ちに単純には回復しなかったかもしれない。階級の緊張は依然高いままであった。アテネ人は、エリートに対して民主政治の財政的重圧を緩和していた帝国の歳入を既に失っていた。さらに、少なくともペロポネソス戦争直後の時代には、公的収入の他の財源(例えば、銀鉱山など)からの国家歳入は大幅に減少した。(注106)結果として、富裕エリートのメンバーが、アテネの軍事力の再建ならびに民主主義国家の支出のための支払いを要求されたであろう。納税義務の富裕者は、今や少なくとも間接的に貧しい人々に助成金を支給し、彼ら貧しい人々は、国家の仕事に対して手当を受け取った。富裕者は、結果として何一つ大きな政治的権力や、または法的保護を得る事はなかったであろう。実際、国家歳入が減少していたので、貧しい人々はこれまで以上に、法廷において課した厳しい科料を通して富裕者を搾り取るための政治権力を用いる誘惑に駆られたかも知れない。貧しい人々としては、実際には富裕者の多くが、5世紀後半の寡頭政の反革命をかって支持したことを忘れることはできなかった。下層階級の怒りと上流階級に対する不信は、アテネの騎兵への国家的な支援を減らすという決議によって明らかにされていたーつまり、騎兵は最も裕福な市民の間で、寡頭政支配者を支持することで団結した。(注107)

 さらに、戦後の世界は外交政策という点では難題であった。アテネの民会は、今や非常に複雑な決定をしなければならなかった。外交と軍事情勢は流動的であった。問題はもはや、どのようにしてスパルタを打ち負かすかではなく、彼らと同盟を結ぶかまたは敵対するかどうかであった。アテネは危険なライバルに直面していた。すなわち、スパルタ、再起したテーベ、小アジアの拡張主義の統治者たち、そして最終的にマケドニアのピリッポスなどである。戦争は複雑さを増し続けて、潜在的にポリスの経済的基盤をいっそう破壊するようになってきた。もしアテネが潜在的な脅威に対抗しようとしたならば、まして地中海世界で大国としての地位を取り戻そうとしたならば、民会は現実的で流動的で、同時に首尾一貫した外交政策を考え出さねならなかった。海軍の再建と国境を防御するための一連の要塞の構築は、不意の攻撃に対して防御の対策を与えたが、財政的負担を追加した。(注108)平等主義の直接民主主義の状況の中で、どれほど効果的なリーダーシップと意志決定が達成できるだろうかという問題は、理論的なものではなかった。効果的なリーダーシップがなければ、国家の生存の可能性はわずかであることは明白であった。

 つまり、ペロポネソス戦争直後の時代、民主的アテネにはかなりの緊張があった。そして、こうした緊張は322年に至るまで外的環境によって大幅には緩和されなかった。340年代には財政状況は良好であったが、外交情勢は複雑さの極地に達していた。(注109)従って、実際にペロポネソス戦争の終わりから322年のラミア戦争に至る時代に、アテネを特徴づけた社会的安定性と効果的民主的意志決定は、当たり前のことと思うべきではない。5世紀においては、経済的豊かさという状況の中で、大衆とエリートの間の制度上の関係の一連の重要な調整は、明白な社会的対立の相対的な欠如を説明するのに役に立つ。効果的なリーダーシップは、最初は改革のためのデーモスの熱心さを利用したエリートによって、次にはペリクレスによって提供された。403年と322年の間、アテネには帝国もなく、大きな社会政治的改革もなく、ペリクレスもおらず―同様に寡頭政のクーデターもなく、富の再配分の要求もなく、そして国家を統治するための民会の能力の失墜もなかった。

 4世紀の間に行われたさまざまな国制上の変更のいずれも、社会的安定または効果的なリーダーシップの維持に実質的に貢献してきたとは思われない。ノモテタイの職務としてのさまざまな変更は、法律制定プロセスを能率的にするための継続的な試みの一環として行われたが、いずれも特に重要であるとは思われない。(注110)市民権政策は、基本的に451/0年のそれのままであった。政治団体自体の定義には大きな修正はなかった。(注111)評議会の活動における二,三の手続き上の変更はあったが、これらは評議会と民会との間の関係の本質的な性質を変えることはなかった。(注112)同様に法廷制度にいくつかの変更が加えられた。これらの中には、陪審団を買収することをより難しくさせた抽選器〔訳注 33〕の導入があった。この改革は、大衆の幅広い断面から陪審員がくじで選抜されることが望ましいことを再認識させた。(注113)

 恐らく、より重要なのは、340年代にデモステネスによって可決された決議であった。それは、アレオパゴス評議会に、特定の階級の犯罪行為を調査する権限を与えたように見える。デモステネスは,明らかに「父祖の国制」(パトリオス ポリテイア)の基本方針での改革を提唱した。そしてそれは、5世紀後半の寡頭政の標語であったものである。「保守的」政治思想と呼ばれるものが、その改革に関わっていたかもしれないが、それはエリート政治家の小競り合いでの戦術的策略として見るのが最善である。その改革は、民衆裁判所の権限を制限していたようには見えない。さらに、この決議を可決する際、人々はノモスとプセピスマの間の機能上の違いに関して国制上の微妙な点を無視して、あからさまに民会におけるデーモスの権限ををあらためて主張した。(注114)ピリッポスとのカイロネイアの戦いの敗北の直後(前338年)、人々がアレオパゴスが反民主的陰謀の発生源であるかもしれないと疑った時に、僭主政に反対するノモスは、アレオパゴス評議員が反革命的な行動にかかわって捕らえられた場合、彼らを停職に処すと威嚇している。(注115)その碑文を飾っているレリーフは、女神デモクラティアによって冠を授与されているデーモスの化身を表現している。(注116)その暗示するところは、必然的にノモスを可決した立法委員は、デーモスの意志を具現化するものと一般に見なされていたことを意味している。

 4世紀における民衆支配に対する最も深刻な国内の脅威は、国家財政を扱う官僚制度の進展であったかも知れない。財政はその世紀の半ば頃には、非常に複雑になってきており、民主主義の存続は、政治が機能するのに十分な金銭を毎年調達する国家の継続的な能力にかかっていた。金銭が徴収されてそれらの分配を担当する行政官に割り当てられたやり方に、さまざまな変更が行われた。(注117)しかし、それらの影響は、観劇手当基金に関して選出された財務官〔訳注34 〕(『アテナイ人の国制』43.1)の管理下に、中央集権化された財務官職の350年代と340年代の発展程重要ではない。エウブロスの下で、観劇手当財務官は重要な公選職となったが、どれほど実際の政治権力、権威、あるいは影響力が現実に与えられたかは不確かである。(注118)確かに、デモステネスはエウブロスと彼の仲間が国家にあまりに大きな影響力があると不平を述べていたが、彼が公然と不平を述べることができたという事実、またデモステネスが、少なくとも一つにはエウブロスと政策に反対して政治的に著名になったという事実は、全権を有する財務官という認識に対する重要な見直しである。(注119)330年代と320年代には、役職の地位の正確な種類や範囲は不明瞭であるが、リュクルゴスと彼の友人の何人かが、同じくアテネの財政に互角の影響力を持っていたように思われる〔訳注35 〕。繰り返して言うが、彼らが、本物の支配エリートを構成したという証拠はない。(注120)アテネの財政の基本的原則は、相変わらず国家による余暇のある階級への課税と、抽籤または選挙された役人による国家財源の分配であった。たぶん、長い目で見れば、財政の役職は実際、ミヘルスのモデルの寡頭政の発展のための制度上の基礎を提供したであろう。たぶん、アテネ人は、この傾向を抑制する方法を見いだしたであろう。しかし、民主政治は322年にマケドニア人によって倒されたので、我々には決して分からないであろう。

 要約すれば、ペロポネソス戦争とラミア戦争の間の時代に、様々な国制上の調整はなされたが、アテネ政治の社会学において大きな変化はなかった。市民団の政治的平等と排他性の、抽籤の、あるいは国家勤務の手当の基本原則に妥協はなかった。財政の役職は、新しい支配エリートを育てることを可能にした環境を発展させる傾向があったかもしれないが、322年までは支配エリートは出現しなかった。5世紀と比較して、4世紀は、その国制上の発展についてよりか、その社会的かつ政治的安定性についての方が注目に値する。国内の緊張と外的圧迫にもかかわらず、アテネ人は、4世紀において平等主義の直接民主主義の原理を変更しなかった。この基本的な変化がなかったことが、前325年頃に書かれたアリストテレス学派の『アテナイ人の国制』の著者が、403年以後の時代を単一の国制上の時代(ポリテイア)、として扱っている理由である。国制上の改革は、4世紀の民主政の性質の説明を提供しない。4世紀において、どのようにして民主的国家が、その社会的安定性と政治指針を維持したのかを理解するためには、大衆とエリートのコミュニケーションの表現形式とフォーラムで、アテネの政治社会学の基礎をもっと詳しく考察しなければならない。


第二章:訳註

1) 特定の家系(父系)に生まれることによって政治的・社会的・宗教的特権を授けられている門閥エリート。

2) アテネ市民団の下部組織。前4世紀後半におけるゲノスは、共通の祖先を持つと信じ、典型的には特定の祭祀の神官職を世襲とする擬制的父兄血縁集団で、アテネでは60以上の存在が確認されている

3) 兄弟団。アテネ市民団の下部組織の一つで、市民各自の合法的出自と家族関係を認定する役割を果たした。全部で30ほど存在したと推測され、古典期においてはどの市民もいずれかのプラトリアに所属し、その成員権がアテネ市民権の必要条件とみなされた。プラトリアゲノスの関係は、異論があるが、前者が後者を包摂する関係と推測されている。

4) イオニア系諸都市に共通する古来の四部族(ピュレー)。すなわち、ゲレオンテス、ホプレテス、アルガデイス、アイギコレイスの四部族。アテネにおける旧四部族は、クレイステネスの部族制改革で廃止された。

5) 筆頭アルコンもしくは紀年のアルコン(アルコーン・エポニュモス)は、国家の最高行政官であり、最も強大な権限を握った。任期一年になって以降は「誰々がアルコンを務めた年」という表現で各年を記憶した。

6) 軍司令官の意味で、王の軍事指揮権を継承した。

7) 文字通りには「王」を意味し、王政期の王と区別するため、アルコン・バシレウスとも呼ばれる。王から主として祭祀の権限を引きついだ。

8) 前述三役の後から導入された司法専門の6名の役人。「掟(テスモス)を立てる者」が字義。三役にこのテスモテタイを加えた9人を広義のアルコンと呼んだ。

9) ギリシア語テュラノスの用語は、7世紀には否定的な道徳の言外の意味は持っておらず、むしろ、「単独の支配者」を意味した

10) キュロンは前640年のオリュンピア祭競技優勝者で、メガラの僭主テアゲネスの支援を受けて僭主政樹立を企て、アクロポリスを占拠したが民衆の支持を得ず失敗、自身は逃亡した。この僭主政樹立未遂事件は、前632年(もしくは、636, 628, 624のいずれかの年)に起こった。

11) アクロポリス北西にあるアレス神の丘、すなわちアレイオス・パゴス(アレオパゴス)で開かれていた、貴族政以来ローマ帝政まで存続した評議会。評議員となるのは退任した9人のアルコンで、任期は終身。少なくともソロン時代以降、前462/1年のエピアルテスの改革に至るまで、法律の監視、役人の処罰、国政全般の監督など重要な権限を行使し、貴族勢力の牙城として重きをなした。評議員は常時150人ほどいたと推定される。

12) アクロポリスは、前8世紀にアテナ・ポリアス(鎮護国家の女神)の崇拝の設立と共に神聖な境内となり、その神殿は丘の北東側にあった。ペイシストラトスは、前529年から前520年頃、現在のエレクティオン神殿とパルテノン神殿の間に、いわゆる「古神殿」(ヘカトンペドン)と呼ばれるアテネ・ポリアスに献じられた神殿を建立している。

13) 守護神アテネ女神の誕生日とされるヘカトンバイオン月28日(今日の8月)に行われた、アテネ女神に捧げるアテネ最大の祭典。4年に一度開かれる大祭とそれ以外の小祭があり、大祭の最大の呼び物は祭礼行列であった。また、各種の文化競技、運動競技も開催された。

14) 大ディオニュシア祭は、エラフェボリオンの月(今日の3月)に行われたディオニュソス神のための祭。ペイシストラトスの時代に、アクロポリスの南麓にボイオティアとの国境にあるエレウテライから招来したディオニュソス神の聖域が設けられた。大ディオニュシア祭の行列では「男根」をかたどった像が運ばれ、神域に接して設けられたディオニュソス劇場では、悲劇・喜劇そして合唱歌(ディテュランボス)が共演された。

15) アテネの名門家系。キュロンのクーデター未遂事件の際、当時のアルコンであるアルクメオン家のメガクレスは、アテネ女神の神域に逃げ込んで助命を嘆願した残党を殺害した責任者として瀆神罪に問われた。彼は告訴され有罪判決を受け、以来、アルクメオン家は、政敵から「穢れ人」との烙印を押されていた。そのため、二度ほどアテネから国外へ退去している。

16) 政治的平等の原理。イソノミアは、法の前の平等ではなく、すべての市民が出自や貧富に関係なく政治的権利を行使する平等な権利を意味している。

17) 党派仲間、徒党、政治的結社を意味した用語。前5世紀には、しばしば政治的性質を持つヘタイロス(仲間)の同盟あるいはクラブなどを意味した。

18) クレオメネス王指揮下のスパルタ兵は、僭主ヒッピアス追放の際にアテネ人に協力して出兵していた。

19) 五百人評議会は、部族ごとに50人ずつ、計10のグループに分かれ、それぞれが輪番で常任執行委員会の役割を果たした。これをプリュタネイス(当番評議員)という。その職務は、評議会や民会を招集し、議長団を構成して議事の進行などにあたった。

20) 字義は「三分の一」。全土を30の部分に分け、10は市周辺の地域から、10は沿岸地域から、また10は内陸部地域から構成された各部分の名称。

21) ピュレー(部族)の複数。ソロンの四部族を廃して、クレイステネスによって創設された十部族。以後のアテネの行政や司法や軍事の基本的単位。アテネの半神、または英雄の名による部族の名称は、公式順にエレクテイス、アイゲイス、パンディオニス、レオンティス、アカマンティス、オイネイス、ケクロピス、ヒッポトンティス、アイアンティス、アンティオキス。

22) 平等な発言権。すべての市民が政治的集会(民会など)で、個人の意見を自由に述べかつ提案する権利。イソノミア〔政治的平等の原理〕とともに、民主政アテネの基本理念。

23) オストラキスモス(陶片追放)は、僭主となる恐れがある人物の名を陶片(オストラコン)に刻んで投票し、国外追放する制度。毎年、第6プリュタネイアの主要民会で陶片追放を行うかどうかを審議し、行うと決まれば、第8プリュタネイアの決められた日にアゴラで陶片追放が行われた。定足数6,000票で最多得票者が10年間国外追放されるが、本人の市民権や財産は失われず、途中で帰国を許される場合もあった。

24) 当時の民衆派の指導者だが、出自は不明。前462/1年のエピアルテスの改革は、アレオパゴス評議会から政治的実権を奪うことによって、貴族的要素を一掃し、アテネ民主政の骨格を完成させて、完全民主政の時代の幕を開けた事件として重要な意味を持っている。

25) 植民者のこと。アテネは前5世紀の中頃以降、同盟市の土地の一部を没収して、その土地にアテネから送り込んだ植民団(クレールーコイ)を定住させた。この一種の植民地がクレルキアで、それは、前古典期に建設された植民市(アポイキア)とは異なり、アテネから政治的に独立していたわけではなく、植民者たちはアテネ市民権を保持し続けた。

26) いわゆる、前478年に結成されたデロス同盟。前454年には、デロス島におかれた同盟金庫はアテネに移され、以後アテネの帝国化が進んで行った

27) ヘタイレイア(友人関係・徒党)の複数。

28) ストラテーゴス(将軍職)は、他の抽籤による役職(アルコンなど)と違って、選挙によって選ばれた。従って、次第に、アルコンに変わって、国家の最高職になった。

29) 民衆指導者の意。この用語はデーモス〔民衆〕と動詞アゴー(指導すること)から由来している。弁論家ならびに民会での動議提案者を意味したが、この言葉は、しばしば哲学者によって軽蔑的な意味(デマゴーグ)で用いられた。デーマゴーゴスの意味については、詳しくは次章Bを参照。

30) 違法提案に対する公訴。民会で違法な提議提案を行った者に対して起こされる公訴。提案が評議会の先議を経ていなかったり、違法な内容を含んでいたり、あるいは提案者に発言資格がない場合に適用された。

31) ノモス(法律)の複数とプセピスマ(決議)の複数。

32) クセノポンの名前で伝わった小品『アテナイ人の国制』の著者。

33) 抽選器(クレーローテリオン)の形状は、基本的に板碑上の柱で、大理石製もしくは木製で、推定される高さは人の等身大、幅は約60cm程度。正面には裁判員の名札を差しこむために縦に5列の穴が空けられ、さらに列の左側には、抽選器上面に漏斗状の開口部を持つ管が取り付けられ、その中に黒白のサイコロを入れ、下端から一つずつ取り出す仕組みになっていた。

34) 観劇手当(テオーリコン)とは、元来、祭典の際に貧しい市民に分配される、主として演劇の入場料補助金。平時歳入の余剰金がこの基金に加えられるようになり、観劇手当財務官(ホイ・エピ・ト・テオーリコン)は、財政一般に強い発言権を持つ重要な役職になった。

35) 前330年代に、リュクルゴスが財務総監(ホ・エピ・テーイ・ディオイケーセイ)の職に就き、指導力を強めると、観劇手当財務官の権限は弱まった。


第二章:本文注

1)『アテナイ人の国制』の著者と『政治学』のその関係については、Rhodes, CommAP, 58-63と引用された参考文献を見よ。

2) こうしたカテゴリーは、確かに人為的で、少なくとも間接的には統治権力の分割の現代理論から推論されている。上記参照。私は、これが、アテネ人が使用したであろう分類の種類であると暗に示すつもりはない。しかし、それは、大衆とエリートの間の進展している制度上の関係のイメージに、なんらかの形を与えるのに役立つかもしれない。

3) Donlon, Aristocratic Ideal, 18-25 , 178を参照。彼は「部族の過去からの深く根深い平等主義の遺産」(178)を新たに見出そうとして、ホメロスの社会を研究している。しかしながら、私はこれが5世紀と4世紀に「階級の自負」が徐々に失われたことの主な要因であったことには同意しない。暗黒時代のギリシアの社会と政治生活のための史料としてのホメロスに関しては、M. I. Finley, The World of Odysseus3  (London, 1978) を見よ。

4) 初期アルカイック期における社会的不平等の増大と経済的発展については、Starr, Economic and Social Growthを見よ。Snodgrass, Archaic Greece 特に143-48; Murray, Early Greece, 38-68を参照。文学における態度の変化について、Donlon, Aristocratic Ideal, 26-51を見よ。

5) 初期のギリシアにおける政治的権力と血統の関係については、Starr, Individual and Community, 59-63を見よ。Finley, PAW, 45の注意を促すコメントを参照。貴族の身分のより詳細にわたる定義は、下記、本書第6章Aを見よ。

6) エウパトリダイ: 『アテナイ人の国制』13.2: プルタルコス『テセウス伝』24-25 トゥキュディデス『歴史』第1巻第13章第1節(以下、トゥキュディデス『歴史』1.13.1と略)は、僭主政以前は、ギリシアのポリスは一般的に特定の特権によって(エピ・レートイス・ゲラシ)支配した「先祖伝来の王」(パトリカイ・バシレイアイ)によって支配されていたと述べている。以下の研究を参照のこと。Wade-Gery, ”Eupatridai”; Rhodes, CommAP, 72, 74-76; Roussel,Tribu et cité 特に55-58. Figueria, ”Ten Archontes”, 454-59は、当然のことながらエウパトリダイをカースト(社会階級)と評するのに反対を唱えており、貴族の身分と同様に富も政治的権力のための必要条件であったろうと述べている。しかし、次の彼の主張である、「エウパトリダイ」は、反僭主の「平野の人々」の「党派」のメンバーによって、彼ら自身で考案されたレッテルであり、6世紀初期の社会階級制度の創設に失敗した試みの一環であったという主張は、アルカイック期の「政治的党派」を再構築するという別の試みと同様に説得力はない。

7) 親族関係と経済的単位両方としてのオイコスの概念についての優れた概論については、Humphreys, Family, 1-21, 31-32を見よ。

8) アルカイック期アテネの社会・政治史におけるゲノスの身分は、Roussel, Tribu et cité , 51-87によって明らかにされている。また、Bourriot, RecherchesInformation Historique 37 [1975]: 228-236のブリオの要約を参照)は、次のように結論づけている。神官団体に属する2、3のグループは別として、非常に古くからの氏族の団体としてのゲノスの概念、また、ただ一人の父祖がすべての子孫を構成して、財産を保有している準国家は、現代の歴史編修の神話である。同様に下記本書第6章B 1を見よ。

9) プラトリアについては、以下の研究を見よ。Hignett, HAC, 55-60; Roussel, Tribu et cité, 139-56 特に146-47(貴族に限らない); M. Golden, ”’Donatus’ and Athenian Phratries,” CQ 35 (1985): 9-13; Finley, Ancient History, 91  Rhodes, CommAP 特に68-71は、A. アンドリューズ(JHS 86 [1961]: 1-15の中で)の「全てのアテネ人はプラトリアに属しており、またクレイステネス以前は、プラトリアは市民権を決定する団体として重要であった」という主張に従っている。

10) 初期のアッティカのイオニアの部族については、Hignett, HAC, 50-55; Rhodes, CommAP, 67-71; Roussel, Tribu et cité, 193-208を見よ。

11) ソロン以前の政治体制については、以下の研究を見よ。Hignett, HAC, 47-85; Rhodes, CommAP, 79-118; Humphreys,”Evolution of Legal Process,” 231-37; Carawan, ”Apophasis and Eisangelia,” 116-18 エウパトリダイの統治についての初期の記述は、Wallace, Areopagos第1章の結論にかんがみて、多分修正されねばならないであろう。彼は、エウパトリダイが有力なアレオパゴス会議を通して支配したという理論に強硬異議を唱えている。しかし、ウォレスはまた(Areopagus第1章)、アルコンにアドバイスするためにプリュタネイオンで開かれた常設委員会があったかもしれないと述べている。『アテナイ人の国制』 4.2-5の「ドラコンの国制」はフィクションである。K. von Fritz, ”The Composition of Aristotle’s Constitution of Athens and the So-Called Dracontian Constitution,” CPh 49 (1954): 74-93.

12 ) 国家宗教の貴族の支配:Davies, WPW, 105-114(アルカイック期のゲノスの実体と権力を認めている); Roussel, Tribu et cité , 65-78, 特に70:「それゆえ、すべては、ゲノスと呼ばれるようになった宗教的な団体は、歴史時代に形成されたグループであったことを示しているように思われる。彼らは何よりも、主要な祭式の独占を確実にするために、新生都市の貴族の中で組織された。…」Finley, PAW, 93-94の過度に慎重なコメントを参照。5世紀を通しての国家宗教の民主化については、Ostwald, From Popular Sovereignty, 137-71を見よ。

13) 初期のアテネの富の影響力、従属関係、そして敬意については、特にFinley, PAW, 44-45(特に、6世紀についての発言); Roussel, Tribu et cité, 57; Rhodes, Political Activity,” 133を見よ。アルカイック期の貴族の富の源泉としての貿易については、C. Reed, “Maritime Traders in the Ancient Greek World: A Typology of Those Engaged in the Long-Distance Transfer of Goods by Sea,” Ancient World 10 (1984): 31-44を見よ。 Humphreys, Anthropology, 165-70; Cartledge, “Trade and Politics.”を参照。従属関係の概念と機能については、Saller, Personal Patronage, 1, 3-4(と引用された文献)を見よ。彼は、保護者—被保護者の関係は、いつも決まって互恵的で、私的で、そして非対称であると述べている。権力、権威、威圧、そして影響力の概念との関係における治的エリートへの服従についての優れた議論に関しては、D. D. Hall他編 Saints and Revolutionaries; Essays on Early American History (New York, 1984), 207-44所収のJ. B. and R. R. Gilsdorf, “Elites and Electorates: Some Plain Truths for Historians of Colonial America,”を見よ。

14) 一般にカコイについて:Starr, Economic and Social Growth, 123-28 6世紀のテオグニス全集でのカコイについては、Adkins, Moral Values, 37-46「ステータスの不一致」の問題:Gouldner, Enter Plato, 16-17.

15) キュロン:トゥキュディデス『歴史』1. 126.3-12; ヘロドトス『歴史』第5巻第71節(以下、ヘロドトス5.71と略); 『アテナイ人の国制』1; プルタルコス『ソロン伝』 12; 以下の研究を参照。Hignett, HAC, 86; Rhodes, CommAP, 79-84 ドラコンの法典:Hignett, HAC 特に305-311; R. S. Stroud, Drakon’s Law on Homicide (Berkeley, 1968); Rhodes, CommAP, 109-18; M. Gagarin, Drakon and Early Athenian Homicide Law (New Haven, 1981);同著者のEarly Greek Law, 86-89, 112-116を見よ。

16) ソロン以前のアテネの下層階級の身分と経済的状況は、ソロンの改革から推定されるに違いない。プルタルコス『ソロン伝』14-15.1と特に『アテナイ人の国制』12.4に引用されたソロンの詩の断片とRhodes, CommAP, 174-78を見よ。Ehrenberg, From Solon to Socrates, 56-62と以下第2章註20に引用された文献を参照。債務奴隷の身分を定義する困難な問題については、Finley, “Debt Bondage,” “Between Slavery and Freedom”; Beringer, “’Servile Status’,” ”Freedom, Family, and Citizenship”; Raaflaub, Entdeckung der Freiheit, 29-54を見よ。

17 ) 共同体への帰属の観念に関連しての、自由と市民権についての初期のギリシアの観念に関しては、特に、Beringer, “Freedom, Family, and Citizenship.”を見よ。Sealey, “How Citizenship and the City Began” (Athenian Republic, 124-25を参照) は、前5世紀の初期以前には、市民(ポリテース)の概念は、とうてい「胚芽」より以上ではなかったと言っている。しかし、この結論が基づいているものは、私には市民権について過度に法律至上主義的な見解であるように思われる。アッティカの住民を表すアテーナイオス〔アテーナイ人〕の用語の初期の使用(例えば、『イリアス』2.551)を参照。その用語の使用は、間違いなく次のことを示唆している。つまり、アッティカに住んでいる者の(少なくとも)ある者は、自分自身をアテーナイオイアテーナイオスの複数〕ではない人々とは、何らかの点で異なる、識別可能な個人のグループを構成していたと見なしていたことである。市民権の観念を強化する際のソロンの法の重要性について:Gagarin, Early Greek Law, 139-40; Meier, Anthropologie, 16-18(28-32参照)は、ソロンを私が考える以上に、もっと自意識的に大衆の側にいると考えている。市民権の重要性と意味については、C. Mossé ; “ Citoyens actifs et citoyens ‘passifs’ dans les cités grecques : Une approche théorique du problème, “ REG 81 (1979): 241-49. の議論とともに、アリストテレス『政治学』3巻を見よ。P. B. Manville, Origins of Athenian Citizenship(Princeton, 1989)による重要な近刊書の主題は、アテネの市民権の起源と推移である。

18) アルカイック期のギリシアにおける奴隷の経済的そして社会的役割については、例えば、Humphreys, Anthropology, 161-64; Raaflaub, Entdeckung der Freiheit, 60, 註133と註134を見よ。国家間の奴隷貿易の存在は、かって外国に奴隷として売られ、ソロン(『アテナイ人の国制』12.4)によって連れて帰られたアテネの債務奴隷によって証明されている。

19) ソロンの改革の年代については、私はR. Wallace, “The Date of Solon’s Reforms,” AJAH 8 (1983): 81-95に従っている。別の年代決定に関して:R. Develin, “Solon’s First Laws,” LCM 9.10 (December 1984), 155-56 ソロンの諸改革の別の議論では、特に以下の研究が役に立った。Hopper, “Solonian ‘Crisis’ “; Ellis and Stanton, “Factional Conflict”; Starr, Economic and Social Growth, 181-87; Gallant, “Agricultural Systems”; Hignett, HAC, 86-107; Forrest, EGD, 143-74; Ehrenberg, From Solon to Socrates, 62-76; Adkins, Moral Values, 47-57また、Rhodes, CommAP, 118-79に引用された別の議論を参照のこと。

20) 債務奴隷の身分とそれについての立法:『アテナイ人の国制』6, 12.4; プルタルコス『ソロン伝』 15.2-16.4; Finley, “Debt-Bondage,” 特に156-57; Raaflaub, Entdeckung der Freiheit, 54-65を参照のこと。 富裕階級の市民の区分と政治権力との関係:『アテナイ人の国制』 7-8, 12.3; プルタルコス『ソロン伝』16.5-19; Rhodes, CommAP, 119を参照。

21) 『アテナイ人の国制』7.3(「‥‥彼らの所得評価高に応じて、[トップの3つの階級の]各々のメンバーに役職を割り当てた。」8.1(第1階級のみから財務官を)26.2(457/6年にアルコン職が第3階級に開かれた。)ソロンがアルコン職を第1の階級のみに認めたのか、あるいは最初の2つの階級に認めたのかどうかについての議論に関しては、Rhodes, CommAP, 148, 330を参照。この改革の重要性に関しては、さらに以下の研究を見よ。Ehrenberg, “Origins,” 538(より古い文献の参考文献目録と共に); Finley, PAW 12-14; Starr, Individual and Community, 78-79. Frost, “Toward a History,” 66は、6世紀のアクロポリスの奉納品は、家柄ではなく富のエリートの存在を証明していると述べている。W. R. Connor, “Tribes, Festivals, and Processions: Civic Ceremonial and Political Manipulation in Archaic Greece, “ JHS 107 (1987): 47-49は、財産階級の起源は、その年の収穫の「初穂」の奉納を祝う公的行列の行進の順序に求めるべきであると提案している。

22) 上層階層への移動の可能性(と所得評価階級の存在)は、ディピロスの奉納によって証明されている。彼はテーステーテスの単数〕からヒッペイスのランクに地位が上昇した:『アテナイ人の国制』7.4; A. E. Raubitschek, Dedications from the Athenian Acropolis (Cambridge, Mass., 1949), no. 372を参照。エリートの循環:V. Pareto, The Rise and Fall of the Elites (Totowa, New Jersey, 1968); Marger, Elites and Masses, 66を参照。

23) 下層階級についてのソロンの改革の意義の私の分析は、ソロンは第一に、反目する貴族に頭を悩ましていたと信じている人々とは異なっている。(例えば、Sealey, “Regionalism”; Ellis and Stanton, “Factional Conflict”)また、彼を下層階級の経済状況を改善することを試みていたと見なす人々(慎重に: Hignett, HAC, 88; 階級闘争をより重視して: Ste. Croix, CSAGW, 278-83)とも異なっている。私のシナリオは、以下の研究と共通の要素がある。Beringer, “Freedom, Family, and Citizenship, “ 53; Gallant, “ Agricultural Systems”(しかし、私は、彼があまりに経済的に未開状態(プリミティヴィズム)の主張を取り過ぎると思うし、債務奴隷身分の深刻さを過小評価していると思う); さらに、特にRaaflaub, Entdeckung der Freiheit, 60-65は、市民の身分と政治的自由のない外国人との間の新しい区別が、当面のイデオロギー上かつ長期にわたって政治的に重要であったことを強調している。身分改革が小作農民に必ずしも歓迎されなかったことは、注目に値する。R. Edelman, Proletarian Peasants: The Revolution of 1905 in Russia’s Southwest (Ithaca, 1987), 70, 82, は南西ロシアの農奴は、彼らを「自由にした」1861年の宣言(マニフェスト)〔アレクサンドル2世による農奴解放令〕によって怒ったことを指摘している。なぜならば、宣言は彼らに土地を与えなかったし、事実上彼らの伝統的な封建的権利を奪ったからであった(例えば、放牧地や森の使用など)。アテネの小作農は、まったく授与されたものにも満足したというわけではなかったかもしれないが、ソロンが求めたのは、実行可能なバランスであって、完全な社会的公平ではなかった。

24) 南北戦争前のアメリカ南部には、いくぶん似通った状況があった。そこでは、下層階級と上層階級の白人男性の間での利益の共同体を維持するのが望ましい状況であったので、そのことが富裕な奴隷所有者が、貧しい白人の隣人が行った財産に対する軽微な犯罪を、高度な判断によって進んで黙許する一因となった。Wyatt-Brown, “Community.”を見よ。「社会の最下層の人」としての奴隷の社会的機能に関して、R. H. Sewell, The House Divided: Sectionalism and Civil War, 1848-1865 (Baltimore, 1988), 13-14を参照のこと。アメリカの状況において、自由な下層階級の一般市民の法的身分は脅かされなかったが、奴隷所有者はそれでも黒人奴隷と下層階級の白人の交流の結果を恐れたことに注意を払うこと。; 上記第1章註61でのFinley, “Was Greek Civilization,”163-64で述べられた奴隷制と民主制との間の象徴的なつながりを参照のこと。

25) もちろん、私はソロンが民主的理論からのもの以上に、エリート主義理論の知識に従って行動していたと示唆するつもりはない。むしろ、ソロンは、ミヘルスとそのほかの者が、どのようなエリートも当然社会の中で彼自身と彼のグループの特権的立場を守るためにするだろうと考えたように行動した。ソロンの対立する集団の間での立っている位置(それは、彼が「中流の階級」であったことや、あるいは彼が「穏健な政治的秩序」を好んでいたということを意味しない)のイメージ(特に『アテナイ人の国制』やソロンの詩編での)の象徴的文脈については、N. Loraux, “Solon au milieu de la lice, “in Aux origines de l’helénisme …Homage à H. van Effenterre (Paris, 1984), 199-214を見よ。

26) テーテスに門戸を開放したソロンの民会:『アテナイ人の国制』7.3. ソロンが民会をテーテスに門戸を開放したか(一部の人が想定しているように)あるいはすべての人が民会に出入り自由になったかどうかは明らかではない。『アテナイ人の国制』 12.1で引用されたソロンの詩は、彼がテーテスの政治的立場を弱めなかったことを暗示しているが、彼らが何か新しい政治的権利を与えられたかどうかについては言及されてはいない。Rhodes, CommAP, 140-41, 172, 174-75; Raaflaub, “Freien Bürgers Recht,” 29-30を参照。 四百人評議会:『アテナイ人の国制』8.4, プルタルコス『ソロン伝』19.1-2; Hignett, HAC, 92-96(四百人評議会の存在に否定的見解); Rhodes, CommAP, 153-54(四百人評議会の存在を主張); Rhodes, Boule, 208-209(参考文献目録と:208の注 2)を参照。Sealey, “Probouleusis,” 266-67を参照。この評議会の社会構成に関しては直接の証拠はないが、おそらく、そのメンバーは(アルコンのように)上位の財産階級から選ばれた。

27) アルコンの選出:アリストテレス『政治学』1273b35-1274a3, 1274a15-18, 1281b32-34;しかし、『アテナイ人の国制』8.1とRodes, CommAP, 146-48を参照。アレオパゴスの新しい権力:Wallace, Areopagos, 第2章、特に2.ii.a. しかしながら、私はウォレスの次の結論(同書第2章ii)、ソロンの政治改革の背後にある動機は、寡頭制を排除し民衆に真の権力を与えることであった、というのには同意できない。

28) ディカステーリア〔民衆裁判所〕がテーテスに開かれる:『アテネ人の国制』7.3. 市民がディカステーリアに控訴が許された:『アテナイ人の国制』9; プルタルコス『ソロン伝』18.3-7.それらについては、以下の研究を参照のこと。M. H. Hansen, “The Athenian Heliaia from Solon to Aristotle,” CM 33 (1981-82): 9-47; Sealey, Athenian Republic, 60-70; Humphreys, “Evolution of Legal Process,” 237-39, 242-47; Ostwald, From Popular Sovereignty, 9-15; Osborn, “Law in Action,” 40-42. Wallace, Areopagos 第2章iiは、アリストテレス(『政治学』1274a15-18, 1281b32-35)は、役人がアレオパゴス評議会ではなく、デーモスによって精査されたと述べた点で正しいと示唆している。もし、このことが正しいのなら、それは潜在的な大衆の権力の際立った例であるが、これが真の民主的改革であるのは、明らかにそうではなかったように、民会が独立して行動できたと仮定した場合に限られるであろう。Hignett, HAC, 96-98; Carawan, “Eisangelia and Euthyna,” 特に168, 182, 188, 191, 207-208を参照。

29) エリートが支配する社会秩序に関して、大衆の支持を獲得するための大衆向きのイデオロギーのエリート操作については、Marger, Elites and Massesを見よ。以下の本書第7章註65を参照。これは私が他のところで用いているものよりも制限されたイデオロギーという用語の使用であることに注意すること。第1章Dを参照。繰り返して言うが、ソロンは必ずしもシニカルに行動したのではなく、単にその状況下で可能な限り最高の社会秩序であると感じたものを確保するために行動した。

30) アテネのペイシストラトスと僭主政:『アテナイ人の国制』14-16; ヘロドトス1.59.4-64 現代の学説の間では、特に以下の研究を見よ。Andrewes, Greek Tyrants, 100-15; H. Berve, Die Tyrannis bei den Griechen, 2 vols. (Munich, 1967), I.47-77, Ⅱ.543-63; C. Mossé, La tyrannie dans la Grèce antique (Paris, 1969), 49-78. ペイシストラトス時代の証拠の優れた批評に関しては、Frost, “Toward a History”を見よ。Hignett, HAC, 110-23; Rhodes, CommAp, 189-24を参照。僭主政の起原については、私は階級闘争を強調する人々(例えば、Ste. Croix, CSAGW, 278-83)よりかは、エリート間の派閥間闘争を強調している人々(例えば、Sealey, “Regionalism”; Hopper,”Plain,”)にほとんど同意している。

31) 亡命:ヘロドトス『歴史』1.64.3 (むしろアルクメオン家の場合の状況を誇張している。)土地の譲渡の可能性:Hignett, HAC, 114-15; Rhodes, CommAP, 214-15.

32) 『アテナイ人の国制』16.5. 地方の保護者への対策としての巡回裁判所: Finley, PAW 46-47; Hignett, HAC, 115を参照。

33) 建築プログラム: Boersma, Athenian Building Policy, 11-27.ペイシストラトスの支配のための支柱として、国家との一体感を促進する試みに関しては、特に Forrest, EGD, 175-89を見よ。市民の団結を推進するための試みとしての「悲劇」の始まりについては、Winkler, “Ephebes’ Song,” 特に45-46を見よ。

34) ペイシストラトスの下での「国政」:ヘロドトス『歴史』1.59.6; トゥキュディデス 『歴史』6.54.6; Hignett, HAC, 115-17を参照。

35) W. Eder, “The Role of Archaic Tyranny and Monarchy in Creating ‘Political’ Identity” (1983年12月28日のAmerican Philological Associationの年次会合で口演された論文) Starr, Individual and Community, 85-86を参照。

36) クレイステネスの改革に至るまでのペイシストラトス家の失脚と内戦:『アテナイ人の国制』 17-19 ヒッパルコスの暗殺:ヘロドトス『歴史』5.55-61, 6.123.2、トゥキュディデス『歴史』1.20.2, 6.54-59. ヒッピアスの追放:ヘロドトス 『歴史』5.62.2-65. それらについては、 以下の研究を参照のこと。Hignett, HAC, 124-26; Ehrenberg, From Solon to Socrates, 88-90; E. David, ”A Preliminary Stage of Cleisthenes’ Reform,” Classical Antiquity 5 (1986): 1-13.

37) クレイステネスに関する主な古代の史料は、『アテナイ人の国制』20-22; ヘロドトス『歴史』5.66, 5.69-73.1である。クレイステネスと改革についての他の議論の中では、特に有益なのは以下の研究である。Ehrenberg, “Origins,” From Solon to Socrates, 90-103; Hignett, HAC, 124-58; Lewis, “Cleisthenes”; Kinzl, “Athens,” 202-10; Andrewes, “Kleisthenes’ Reform Bill”; Meier, Entstehung des Politischen, 91-143; Whitehead, Demos, 3-38; Rhodes, CommAP, 240-72.  F. J. Frost, “The Athenian Military Before Cleisthenes,” Historia 33 (1984): 283-94は、おそらく508年以前は効果的な動員システムがなかったことを指摘し、スパルタの脅威に照らして効率的な軍事システムが緊急に必要であることを正しく強調している。しかし、クレイステネスの改革は、特に動員を容易にするために立案されたことを明らかにするための、P. Siewert, Die Trittyen Attikas und die Heeresreform des Kleisthenes (Munich, 1982)による試みは、区の位置、またはトリッテュスへの区の編成の説明に失敗している。G. R. Stanton, “The Tribal Reform of Kleisthenes the Alkmeonid, “ Chiron 14 (1984): 1-41, 特に3−7を見よ。私は、Zuckerman, “Social Context”から、コンセンサスを達成するための一つの方法として民主的形態の概念を採用した。私はBilly G. Smithに、参考文献とZuckermanの理論についての洞察に富んだコメントに恩恵を受けている。権限と主権(大衆やその他)の間の関係についての、それ以上の議論は、Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 181-82を見よ。

38) 区がもともと地理上の地域としてより、登録センターとして特定されたと仮定すると、私は以下の研究に従う。W. E. Thompson, “The Deme in Kleistenes’ Reforms,” SO 46 (1971): 72-79; Andrewes, “Kleisthenes’ Reform Bill”; Whitehead, Demes, 27-30. 別の理論に関しては、最近のM. K. Langdon, “The Territorial Basis of the Attic Demes,” SO 60 (1985): 5-15を見よ。区の構成要素とその数について:Trail, Political Organization, 73-103.「区(デーメ)」(デーモス)の語とそのデーモス=民衆の関係については、Whitehead, Demes 365-68を見よ。

39) 命名法、登録方法、区の民会: Whitehead, Demes 69-72, 97-109, 258. 市民の観念に対する改革の重要性については、特に、Meier, Entstehung des Politischen 特に129-38, Anthropologie, 12-13を見よ。

40) Zuckerman, “Social Context.” 情報を広めるために、また問題を含む論争についてコンセンサスを生み出すために集会を使用することは、ホメロスとの類似点がある。Starr, Individual and Community, 18-21; Ruzé, “Plethos,” 248-49を見よ。全般的な前民主的集会の機能と手続きについて:Ste. Croix, Origins , 348-49.

41) クレイステネスの評議会の組織と権力については、Rhodes, Boule 特に208−10を見よ。Connor, ”Athenian Council” 38-39は、初期の評議会はローズが想像していたよりか、より広い法的権限を持っていたかもしれないと考えている。また、Woodhead, ”ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 特に138−39を見よ。

42) 都市のエリート:Hopper, Basis, 7; Osborne, Demos 64-92を参照。

43) 区の民会の平均的サイズは、有権者150人と250人の間であったかもしれなかった(総人口約30,000人が、139の区に分割された=216人)。ピュライ〔部族〕とトリッテュスへの区の配置:『アテナイ人の国制』21; Trail, Political Organization 特に56-58, 64-72; Whitehead, Demes, 17-23を参照。評議会における部族のプリュタネイスの活動については、Rhodes, Boule特に16−25を見よ。Hansen, “History of the Athenian Constitution,” 64は、民会の議題は、評議会のプリュタネイスによって作成されたと示唆している。

44) J. D. Lewis, "Isegoria at Athens: When Did it Begin?" Historia 20 (1971): 129-40は、むしろ説得力に欠けるソロンの導入とクレイステネスの復活を主張している。完全なそして最善のクレイステネスの導入に関する論議は、Raaflaub, "Freien Bürgers Recht" 28-34 彼はクレイステネスが、少なくともホプリーテン〔重装歩兵〕階級のメンバーによる公的演説の可能性を導入したと提起している。同様に、Forrest, EDG, 202; Loraux, Invention, 409 n. 22: E. Will, ”Bulletin historique,” Revue Historique 238 (1967): 396-97を見よ。しかし、本書第2章 註59を参照のこと。

45) 以下、本書第7章Bを参照。Zuckerman, “Social Context,” 526-27, 538-44は、マサチューセッツ植民地のタウンミーティングでは、投票の目的は是認、同意、そして調停であって、実際の選択肢の間の論争や決定ではなかったと述べている。「対立、異議、その他の構造上の多元主義が、合法性を獲得したことはなかった…」(526-27)。

46) 例えば、Badian, “Archons,” 21-27; Rhodes, Boule, 6-7, CommAP, 251; Hansen, “Demos, Ecclesia,” 142-43; Finley, PAW, 48を見よ。

47) Rhodes, Boule, 201, 209-10 また、以下、本書第2章F. 1を見よ。

48) オストラキスモスに関して、その起源と目的については、以下を見よ。D. Kagan, “The Origin and Purposes of Ostracism,” Hesperia 30 (1961): 393-401; Ehrenberg, “Origins,” 543-45と註71; Hignett, HAC, 159-66; E. Vanderpool, “Ostracism at Athens,” in Lectures in Honor of Louise Taft Semple, 2nd series, 1966-70 (Norman, Oklahoma, 1973 ), 215-70; R. Thomsen, The Origin of Ostracism: A Synthesis (Copenhagen, 1972); J. J. Kearney and A. Raubitschek, “A Late Byzantine Account of Ostracism,” AJP 93 (1972): 87-91; Roberts, Accountability, 142-44 オストラキスモスとねたみの間の繋がりについて:Gouldner, Enter Plato, 57-58.

49 )オストラキスモスのこの側面は、マサチューセッツ植民地での社会的不適格者への「警告すること」(すなわち、追放すること)と比較されるかもしれない。Zuckerman, ”Social Context,” 537-38.

50) G.Vlastos,”Isonomia,”AJP 74 (1953): 337-66, ”ΙΣΟΝΟΜΙΑ ΠΟΛΙΤΙΚΗ.” 以下の研究を参照のこと。Ehrenberg, ”Origins,” 530-37; Ostwald, Nomos 特に119-20, 137-60, From Popular Sovereignty, 27; Meier, Anthropologie, 29; Whitehead, Demes, 37-38 (Ostwaldに従っている); Raaflaub, Entdeckung der Freiheit, 115-17 私のクレイステネスによるその用語の使用の見解は、恐らくH. W. Pleket, ”Isonomia and Cleisthenes: A Note,” Talanta 4 (1972) 63-81のそれに最も近い。そして4世紀に属するノモス〔法〕のより自由な定義が必要である(以下、本書第2章Gを見よ)。しかし、ノモスは5世紀の半ばでも、成文の「国制上の」法律としてはっきりと定義されてはいなかった。ヘロドトスにおけるノモスの概念に関して、J. A. S. Evans, “Despotes Nomos,” Athenaeum, n. s. 43 (1963): 142-53を参照。

51) 以下の物語(プルタルコス『アリスティデス伝』 7.5-6)を参照のこと。有名な政治家アリスティデスが、読み書きの出来ない市民によって、自身の名前を陶片に刻むことを求められた。彼が問いただした時、その市民は、アリスティデスがいつも、「正義の人」と呼ばれるのを聞いてうんざりしたと述べた。その物語は、アテネ人の読み書きの能力と、アリスティデスの正直さの名声について何らかのことを語っているが、また同様に、エリートが当時対処しなければならなかったであろう憤りの原因についても語っている。Parson, ”Party Politics,” 44は、正確に、オストラキスモスは、望ましいまた合法的な組織的な反対という概念の拒絶を意味していると述べている。これは、その創始者〔クレイステネス〕がイセーゴリアに興味を持っていることに反対する別の論拠であるかもしれない。

52) この時代の国制上の発展に関しては、『アテナイ人の国制』22-27, Rhodes, CommAP, 283-344; Carawan, “Eisangelia and Euthyna”を見よ。Hignett, HAC. 159-260を参照。Ostwald, From Popular Sovereignty, 28-83は、エウテュナイ〔執務審査〕とドキマシア〔資格審査〕の手続きの規則化と民衆の支配(ヘリアイア〔民衆裁判所〕のディカステリア〔民衆法廷〕への精緻化を通して)の重要性を強調している。

53) Ruzé, “Plethos, 247-59は、多数派がコミュニティーを危険にさらすことなく、合法的に少数派を拘束できるという考えは、ホメロスには存在せず、ヘロドトスとアイスキュロスで完全に発展していて、少なくともその間のテキストのいくつかの中に兆しが見えていることを実証している。

54) 重要ではない位置:Zukerman, “Social Context,” 535. Hansen, AECA, 208はニューイングランドのタウンミーティングは、アテネの直接民主政への真の類似点を提供するには余りにも小さなフォーラムであると述べている。これは、特に「対面社会」の議論(上記、本書第1章C 6)から見て、重要な点であるが、私は二つの社会の民主政の機能における相違の問題は、規模における相違と同様に基本的に重要であると思う。17世紀のイングランドは、制度上の文脈はまったく異なっていたけれども、すでにコンセンサスの政治から議論と決定の政治へと同じコーナーを曲がっていたと思われる。M. Kishlansky, Parliamentary Selection: Social and Political Choice in Early Modern England (Cambtridge, 1986)を見よ。

55)プロクシリス〔予め選び出すこと〕と抽籤によるアルコン:『アテナイ人の国制』22.5とRhodes, CommAP, 272-74の議論。そこでは、プロクリトイ〔予選された候補者〕の数と、彼らが区か、または部族で選ばれたかの問題について論議されている。民主主義の抽籤による決定の重要性:ヘロドトス『歴史』3.80. それれについては、以下の研究を参照のこと。Ehrenberg, “Origins,” 528; Hopper, Basis, 7 と特にHeadlam, Election, 4-12, 19-26. Badian, “Archons, “ 特に9; Kinzl, “Athens,” 215-22 そして、Carawan, “Eisangelia and Euthyna,” 207-208は、次のように指摘している。その改革は、本来自覚を持って民主的であったのではなくて、それはその役職をめぐるエリート内部の闘争を制限することで、エリートの立場を強化することを意図していたかもしれない。しかし、アリストテレスの時代までには(『政治学』1274a5, 1294b7-9 )、抽籤は、とりわけ民主的とみなされていた。また、抽籤による決定は、5世紀の中頃までには、区で用いられていた(Whitehead, Demes,114-16)。残念ながら、どのようにして人々が、自分の名前を役職に入れるために調整したのかはわからない(Whitehead, Demes, 320-21)。Carter, Quiet Athenian, 17と註26は、5世紀の役人は皆、富裕なプロクリトイから選ばれたと示唆しているが、458/7年以後のその制度に関しては証拠はない。Hansen,”ΚΛΗΡΩΣΙΣ.”

56) 487年以後、アルコンが、ペイライエウスの要塞化に着手した(トゥキュディデス『歴史』1.93.3)テミストクレス(493年にアルコン)と同様の政治的イニシアティブを取ったというのを聞くのはまれである。その年代に関しては、W. W. Dickie, “Thucydides 1.93.3,” Historia 22 (1973): 758-59を見よ。Badian, “Archons,” は、その改革はストラテーゴイ〔将軍〕の利益となるように、アルコンの権力を弱めるための策略の結果であったという主張を粉砕している。しかし、私は、彼はその長期間にわたる政治的重要性を過小評価しているように思う。また、Sealey, Athenian Republic,128-29; Gabrielsen, Remuneration, 116, 139と註35を参照のこと。Whitehead, Demes, 319-20は、抽籤の使用を考慮に入れれば、地方または都市のレベルのいずれにせよ、役職の経歴を計画することは困難であると述べている。

57) エピアルテスの改革:『アテナイ人の国制』25.2 ; プルタルコス『ペリクレス伝』 9-10, 『キモン伝』15.2-3 以下の諸研究を参照のこと。Hignett, HAC, 193-213; Rhodes, Boule, 202-207; Davies, DCG, 70-72; Ostwald, From Popular Sovereignty, 47-81 そして特に、Wallace, Areopagos, 第3章iii, iv 異なった視点に関しては、Sealey, “Ephialtes.”を見よ。

58 ) Bachrach, Political Elites, 序論6と註11 と引用された文献。評議会が独立した権力の中心(その後衰えたが)として設立されたという考えは、Bonner, Aspects, 4と Woodhead, “ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 特に133で提案された。評議会と民会の関係については、Rhodes, Boule, 64-81, 210-15を見よ。Hignett, HAC, 237-44; Headlam, Election, 56-63を参照。

59) 年代:Griffith, “Isegoria”; Woodhead, “ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 131が従っている。その用語の意味については、またForrest, EGD, 202; Loraux, Invention, 175と、下記本書第7章 Bを参照のこと。

60) Raaflaub, “Freien Bürgers Recht,” 23-28は、クレイステネスの政敵イサゴラスの名前を引用している。

61) 参照。Raaflaub,”Freien Bürgers Recht,“ 特に43とWoodhead, “ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 131.

62) 457/6年のアルコン職に関する財産資格の緩和:『アテナイ人の国制』26.2 アルコンに関する手当:『アテナイ人の国制』29.5, 62.2; 陪審員とブレウタイ〔評議員〕に関して:下記、本書第2章註64と67 また、以下の研究を参照のこと。Hignett, HAC, 219-21; Buchanan, Theorika, 14-22; Finley, DAM, 19(抽籤による選出と公職への手当は、民主的システムの「要」であった); Ste. Croix, CSAGW, 289(公職の手当の導入は、462/1年の改革は別かもしれないが、507-322年の最も重要な民主的革新であった)Markle, “Jury Pay,” 271-72 また、 Loraux, Invention, 409註28(引用された文献と共に)は、手当の重要性は411年の寡頭政によるこの制度への非難と、後のエリート主義者のテキストによって証明されていると述べている。Davies, DCG, 69は、その改革の象徴的な重要性を強調している

63) 所得調査の階級は顧みなかった:『アテナイ人の国制』7.4; Gabrielsen, Remuneration, 112-13を参照。4世紀の後半でさえ、アテネ女神財務官は、トップの所得調査の階級〔五百メディムノス級〕から選ばれた(『アテナイ人の国制』47.1; Gabrielsen, Remuneration, 111-12を参照)が、これは,個人の経済的説明責任を保証することに関して、アテネ人が懸念していたことによって説明されるかも知れない:上記、本書第1章註9 4世紀後半の主要な財政上のアルカイ〔役人〕については、下記本書第2章Gを見よ。

64) 評議員への手当(411年に):Rhodes, Boule, 13-14, 214; 下記本書第3章E 3を参照。

65) プルタルコス『ペリクレス伝 』 37.2-5; Sealey, Athenian Republic, 23-25. Patterson, Pericles’ Citizenship Law, 特に96-115; Hignett, HAC, 343-25を参照。Humphreys, Family, 24-25は、その法律は、エリートが外交政策を操るために個人的な関係を利用するのにつながる国際的な名門同士の結婚をするのを防ぐことを意図していたと述べている。

66) こうした美徳はペリクレスによって葬送演説で強調された(トゥキュディデス『歴史』2.35-46)。Loraux, Inventionを参照のこと。

67) 陪審員手当:『アテナイ人の国制』27.4; プルタルコス『ペリクレス伝』9.2-3; Hignett, HAC, 219-21, 342-43を参照。Davies, DGC, 68-69は、古代の保守的な伝承は、一様にこの改革の機能上の効果を無視しており、単にそれをペリクレスの側の戦術的策略に帰していると述べている。

68) Meier, Entstehung des Begriffs, 44-69, 特に48-49は、440年代にはその用語は一般的に用いられるようになったと主張しているが、Ehrenberg, “Origins” (同、From Solon to Socrates, 209 と註44と共に:そこではアイスキュロスの『救いを求める女たち』の年代を修正している)は、5世紀前半の年代を主張しているのを参考のこと。M.H. Hansen, “The Origin of the term demokratia,” LCM 11.3(1986年3月):35-36は、デーモクラティアはクレイステネスの国制の秩序のもともとの名前であったと述べている。Sealey, “Origins,”は、(私の意見では誤っているが)その用語は404/3年以前には明確な意味合いはなかったと主張している。シーリーの議論は、葬送演説(トゥキュディデス『歴史』2.37.1)におけるデーモクラティアに関するペリクレスの議論を、「弁明」として解釈することに一部基づいている。私はVlastos, “ΙΣΟΝΟΜΙΑ ΠΟΛΙΤΙΚΗ,” 8註1, 28-31と29註2が、この一節の本当の意味に近づいているように思う。

69) Zuckermon, “Social Context” 544. Bowles and Gintis, Democracy and Capitalism, 特に、134, 138-40, 150-51の、より小さな民主的共同体の存在が、民主的政治文化の発展に重要であることについての次の議論を参照。より小さな民主的共同体は,個人と国家の間に位置し、そこで個々の市民は「民主的政治を行う」ことを学ぶことができ(139)、それゆえ「特定の望ましい属性を備えた個人やグループであるとみなされ…または、そのことを自ら再確認する」(138)。

70) ペルシア戦争に関しての最も重要な古代の史料は、ヘロドトス『歴史』特に第6巻から第8巻である。ギリシア人の視点に関しては、Burn, Persia and The Greeksを、ペルシア人を再現する価値ある試みに関しては、A. T. Olmstead, History of the Persian Empire (Chicago, 1948), 151-61, 248-61を参照のこと。民主主義と海軍力の間の関連:アリストパネス『蜂』1093行以下. ; 伝クセノポン『アテナイ人の国制』1.2 ; アリストテレス『政治学』1274a12-15, 1304a21-24, 1321a5-14, 1327a40-b15. J. F. Charles, “The Anatomy of Athenian Sea Power,” CJ 42 (1946): 特に87; Romilly, Rise and Fall of States, 33; Ober, “Views,” 129; Loraux, Invention, 213を参照のこと。「重装歩兵の共和制」としての国家のエリートの反論に関して、Vidal-Naquet, “Tradition de l’hoplite”; Loraux, Invention, 155-71を参照。

71) アテネ帝国:Meiggs, Athenian Empire; クレルキア〔植民地〕:Brunt, “Athenian Settlements.” 帝国と民主主義の間の関連については、特にFinley, “Fifth-Century Athenian Empire” を見よ。上記、本書第1章C 3 を参照。

72) 5世紀の最初の3分の2の年代の政治に関する多くの研究の中では、特に、Connors, NPを見よ。E. Ruschenbuch, Athenische Innenpolitik im 5. Jh. V. Chr. (Bamberg, 1979) と対比せよ。彼は、イデオロギーは5世紀の政治の何らかの一部であり、国制上の発展のすべてを党派主義と進展する外国政策の差し迫った必要に帰すことを否定している。

73 ) Connor, NP, 18-22; Davies, WPW, 96-99, 114-20. Finley, PAW, 39-40; Meier, Anthropologie, 14-15; Whitehead, Demes, 305-13を参照。Stanton and Bicknell, “Voting in Tribal Groups,” 6-77は、5世紀には、民会出席者は部族とトリッテュスに従ってグループ分けされていたと主張している。そして彼らは、この配置により地元の被保護者に対する貴族の指導者による支配が容易になったであろうと推測している。下記、本書第3章註72を参照のこと。

74 ) Connor, NP, 57, 119-22は、プルタルコス『ペリクレス伝』7.4の記述を強調している。

75) 主要な古代の史料:トゥキュディデス『歴史』2.13-65; プルタルコス『ペリクレス伝』。富と家柄:プルタルコス『ペリクレス伝』3.1, 7.1; Davies, APF 118 11を参照。ペリクレスについての多くの研究の中では、特にConnor, NPを見よ。

76) ストラテーゴス・エクス・ハパントーン〔全員の中からの将軍〕の権力については、M. H. Jameson, “Seniority in the Strategia,” TAPA 86 (1955): 63-87; E. S. Staveley, “Voting Procedure at the Election of Strategoi,” Ancient Society: Studies to Ehrenberg, 275-88; Fornara, Board of Generals; Bloedow, “Pericles’ Powers,” の対照的な見解を見よ。将軍は一般的に富裕であった:Osborne, Demos, 70と註17、そして引用された文献。

77) 将軍は民会と評議会に向けて演説をする:Rhodes, Boule, 44-46; de Laix, Probouleusis, 148 他の非ブーレウタイ〔評議員〕の民会への立ち入り制限について:Hignett, HAC, 242-43 ペリクレスは民会を招集することを控える:トゥキュディデス『歴史』2.22.1これを手配する国制上の仕組みは、Hansen and Mitchel, “Number of Ecclesiai”; Bloedow, “Pericles’ Powers.” によって論じられている。

78) ソフィストと政治的レトリックの起源については、以下の研究を見よ。Pilz, Rhetor, 特に13; Wilcox, “Scope,” 128-42; Bolgar, “Training,” 38-40; Kennedy, Art of Persuasion, 26-70; Ostwald, From Popular Sovereignty, 237-50 ペリクレスの演説スタイルと教育:プルタルコス『ペリクレス伝』4-6, 8, 15.3は、彼の思想と演説スタイル両方への影響として、ダモーン、ゼノン、アナクサゴラスを挙げている。Buxton, Persuation, 12-13のコメントと共にEupolis F 94.5-7(Kock, CAFⅠ, 281)を参照のこと。

79) トゥキュディデス『歴史』2.35-46 また、1.70.6, 2.60.2-3.を参照。同様にLoraux, Inventionを参照。

80) 建設計画:プルタルコス『ペリクレス伝』8.2, 12-14. 以下の研究を参照。Boersma, Athenian Building Policy, 65-81; R. Meiggs, “The Political Implications of the Parthenos,” Greece and Rome, Suppl. to vol. 10 (1963):36-45; Wycherley, Stones, index, s. v. ‘Perikles, building program.’

81) プルタルコス(『ペリクレス伝』14.1)によって伝えられた次の物語を参照のこと。アテネ人が、建設計画の費用に不満を述べた時に、ペリクレスは自分がその費用を支払って、「アテネ人の」というより、「ペリクレスの」と書くように碑文を修正することを申し出た。

82) メレシアスの息子は歴史家〔トゥキュディデス〕の親戚であったかもしれない。Finley, Thucydides, 28-29, 33 メレシアスの息子の政治的経歴に関しては、プルタルコス『ペリクレス伝』11, 14を見よ。H. T. Wade-Gery, “Thucydides the Son of Melesias,” JHS 52 (1932), 205-27; Davies, APF 7268と引用された文献を参照のこと。党派的政治:例えば、Roberts, Accountability, 149-50. Krentz, ”Ostracism,”は、(プルタルコス『ペリクレス伝』16.2に基づいて)従来の443年の年代の薄弱さを説明しているが、彼の代案(337年あるいは336年)の可能性はそれほど高くはありそうにない。

83) “Thucydides,” 特に182の私のコメントを見よ。M. H. Chambers, “Thucydides and Pericles,” HSCP 62 (1957):79-92; Jones, AD, 62-64; Finley, “Athenian Demagogues.”を参照。Loraux, Invention, 190と418註127は、ペリクレスは事実上民主的制度の枠組みの中でのみ権威を行使したと述べている。

84) ペリクレスのサークルと彼らの機能:特に、プルタルコス『ペリクレス伝』 4-6, 8, 13, 24 (アスパシア), 31.2, 36, 37.1, 38.3-4 ペロポネソス戦争の直前とその最中に、このグループの幾人かに対する訴訟に至った独特な状況については、以下の研究を見よ。Frost, “Pericles, Thucydides,” 394-95; Krentz, “Ostracism,”502-503; Dover, “Freedom”; Finley, DAM, 85-86; Ostwald, From Popular Sovereignty, 191-98.

85) Connor, NP 特に119-28.

86) ここで、トゥキュディデスの編集という難点に直面する。例え、トゥキュディデスのテキストの演説が、実質的に演説された通りであると仮定しても、その歴史家があまりに扇動的であると思われた句を過小評価(あるいは削除)したかもしれなかった。上記、本書第1章 E を参照。

87) Finley, “Athenian Demagogues”; Connor, NP, 特に139-98; Ostwald, From Popular Sovereignty, 199-224を参照。Davies, DCG, 111-113とWPW, 126-27は、古いエリートは、アテネが当時必要としていた十分な財務管理を提供しなかったと述べている。そしてレトリックの能力は、富や宗教団体と違って直接には相続できないことに言及している。

88) ペリクレスの同僚の将軍:Fornara, Board of Generals, 48-55(443/2年から429/8年までの知られたストラテーゴイ〔将軍〕のリスト); Holladay, “Athenian Strategy.” 戦闘の新しい形態:Ober, FA, 特に32-50.

89) アイスキネス3.229 プルタルコス『ポキオン伝』7.3, 8.2; アリストテレス『政治学』1305a10-15を参照。5世紀の後半と4世紀の弁論家と将軍の間の分裂については、以下の研究を見よ。Perlman, ”Politicians,” 347-48, ”Political Leadership,” 169-72(ポキオンの例を強調している);Hopper, Basis, 10-11; Connor, NP, 143-47; Davies, WPW, 120-25; Finley, PAW, 59, 67. Roberts, Accountability, 171-73は、その分裂の過度の強調を警告している。ポキオンの経歴に関しては、Gehrke, Phokionを見よ。

90) Finley, ”Athenian Demagogoues,” 16は、彼らの非貴族の出自が、ペリクレス以後の政治家に異なる見解を与えたと仮定している。

91) アリストファネス『騎士』、特に723-34; トゥキュディデス『歴史』3.36.6, 4.27.5-28.5, 21.3; 『アテナイ人の国制』28.3; プルタルコス『ニキアス伝』8.3; テオポンポス(FGrH 115) 断片 92を参照。 クレオンの経歴とレトリックの方法については、特にFinley, “Athenian Demagogues”; Connor, NP, 91-101を参照。彼の富と家族:Davies, APF 8674.

92) 「旧寡頭主義者」(伝クセノフォン『アテナイ人の国制』)による政治的パンフレットは、5世紀後半の(正確な年代は論争されている)エリートが、民主主義に抱いていた不満について妥当な考えを示している。Finley, DAM, 73; Ostwald, From Popular Sovereignty, 188-91を参照。

93) 寡頭政治のクーデター:トゥキュディデス『歴史』8.48.3-98; 暗殺:同8.65.2. Gomme et al., Historical Commentaryのその場所に。寡頭政治の組織については、Calhoun, Athenian Clubs; Connor, NP, 25-29, 197を見よ。

94) 寡頭政の政治家の間での意見の相違:トゥキュディデス『歴史』8.89-92; 歩兵と噂:同8.92.5-93.1; サモスの艦隊: 同8.72-74, 81-82. Gomme et al., Historical Commentaryのその箇所に; Ostwald, From Popular Sovereignty, 344-95を参照。G.E.M. de Ste. Croix, “The Constitution of the Five Thousand,” Historia 5 (1956): 1-23(CSAGW , 291-92を参照)は、四百人の寡頭制と完全民主政の回復との間の移行としての機能を果たした「中間の政権は」、民会で投票する権利ではなくて、役職につく権利だけが制限されていたという理由で、基本的には民主的であったと論じている。この見解は、Vlastos,”ΙΣΟΝΟΜΙΑ ΠΟΛΙΤΙΚΗ,” 20-21 n. 6; P.J.Rhodes,”The Five Thousand in the Athenian Revolution of 411 B.C.,”JHS 92 (1972): 115-27によって異議を唱えられている。

95) 三十人僭主と大赦:クセノポン『ギリシア史』2.3.11-4.43; 『アテナイ人の国制』34-41.1(Rhodes, CommAP, 415-82と); Diodorus Siculus 14.3-6, 32-33; リュシアス 12, 13; イソクラテス 18を参照。 現代の研究では、以下を見よ。Hignett, HAC, 285-98, 378-89; Krenz, The Thirty; Cloché, Restauration; Funke, Homónoia und Arché, 1-73; Strauss, AAPW, 89-120; Ostwald, From Popular Sovereignty, 460-96.

96) グラペー・パラノモン:最初の事例は、疑いなく415年に確認される:アンドキデス 1.17; 特に、Wolff, Normenkontrolle; Hansen, Sovereignty; Sealey, “Athenian Concept of Law,” Athenian Republic, 49-50; Ostwald, From Popular Sovereignty, 125-29, 135-36を見よ。

97) Harison, “Law-Making”; A. L. Boegehold, “The Establishment of a Central Archive at Athens,” AJA 76(1972): 23-30; Sealey, Athenian Republic, 35-41, 45-46; Ostwald, From Popular Sovereignty, 405-11, 414-20を参照。

98) Harison, “Law-Making”; MacDowell, “Law-Making”; Hansen,”Nomos and Psephisma,” “Did the Ecclesia Legislate,” “Athenian Nomothesia [1980],” “Athenian Nomothesia [1985]”; Rhodes, “Athenian Democracy,” 305-306, “Nomothesia”; Gabrielsen, Remuneration, 47-49; Ostwald, From Popular Sovereignty, 511-22; Sealey, “Athenian Concept of Law,” 294-95, Athenian Republic, 41-45は、その手続きは399年と382/1年の間に制定されたと論じている。

99) Whitehead, Demes, 287; Garner, Law and Society, 131-44を参照。彼は、「アテネ社会における法律の場の根本的な転換、しかし、その変化は部分的には表面的な連続性によって不明瞭になっている」と論じている(131)。

100) 穏健民主主義(または類似物): Hansen, “Misthos”; Larsen, “Demokratia,” 45-46, “Judgement,” 7; Sealey, “Athenian Concept of Law,” Athenian Republic, 134-38; Ostwald, From Popular Sovereignty, 522-24. 反対意見:Gabrielsen, Remuneration, 35-44(引用された文献と); Rhodes, “Athenian Democracy,” 320-321(しかしながら、323参照:「5世紀の後半に見いだした民主主義の前向きの熱意は消え去った」)。下記、本書第7章Gを参照。

101) MacDowell, “Law-Making” 67-69を参照。Hansen, “Athenian Nomothesia [1985],” 363-65は、4世紀を通してノモテタイディカスタイ〔陪審員〕候補から抽籤で選ばれたと主張している。これに対してRhodes, “Nomothesia,” 57は、350年代には、彼らはすべてのアテネ人から選出されたと提案している。唯一の社会学的違いは、前者のグループは、18歳と29歳の間の市民を排除したことである。下記、本書第3章 E 4を参照。Harrison, “Law-Making,” 35は、簡潔に(そして、私は適切であると思うが)次のように記している。「アテネ人は、実際には宣誓をなした上でのディカステース〔陪審員〕をデーモスの事実上の代表者と見なしていた。なぜ、宣誓をなした上でのノモテタイが同様ではないのか?」

102) 概して、4世紀の国制については:『アテナイ人の国制』42-69 、それと Rhodes, CommAP, 493-735 を。役職のための報酬の問題については、Hansen, “Misthos,” は、Gabrielsen, Remunerationによって反論されている。しかし、同様にM. H. Hansen, “Prequisites for Magistrates in Fourth-Century Athens,” CM 32 (1980): 105-25を参照。抽籤の役人の選出の際のプロクリシス〔予選〕の想像上の再導入について、V.L.S. Abel, Prokrisis (Königstein, 1983) は、Hansen, “ΚΛΗΡΩΣΙΣ”によって反論されている。Gnomon 57 (1985): 378-79のP. J. Rhodes, によるAbelの著書についての書評を参照。

103) 財産所有者に市民権を制限するためのポルモシオスの決議:リュシアス 34. 反乱において,成功を助けた在留外人と奴隷に市民権を与えるトラシュブロスの決議は、グラペー・パラノモンによって起訴された。『アテナイ人の国制』40.2; クセノポン『ギリシア史』2.4.25; これらの、また他の市民権に関した議案については、Ostwald, From Popular Sovereignty, 503-509を見よ。Whitehead, “Thousand New Athenians, “は、IG Ⅱ210の断片は、三十人〔僭主〕を退けるのに手助けした約千人の在留外人が完全市民権を与えられたということ示している、とそのように復元されるべきであると主張している。しかしながら、P. Krentz, “Foreigners Against the Thirty: IG 22 10 Again,” Phenix 34 (1980): 298-306を参照。彼はその碑文の受賞者には、恐らく市民権は与えられなかったであろうと主張している。

104) 『アテナイ人の国制』41.3 また、同62.2 と Rhodes, CommAP, 491-92, “Athenian Democracy,” 307を参照のこと。また、下記、本書第3章E 2, 4を見よ。

105) アリストテレス『政治学』1292a3-37, 1298b13-16と上記引用された句の組み合わせは、アリストテレスがアテネの民主政を、デマゴーゴスと(法律というよりむしろ)決議が支配するところのものと見なしていたこと、また彼がアテネを民主主義の最も過激な形態の一例と見なしていたことを明確に示しているように思われる。Hansen, Sovereignty, 13-14; Strauss, “Aristotle.”を参照。アリストテレスにとって政治社会学の重要性については、Ober, “Aristotle’s Political Sociology.”

106) 国家歳入の減少:Gluskina, “Spezifik,” 425-29; Ober, FA, 13-31; Strauss, AAPW, 特に53-54; Hanson, Warfare and Agriculture, 111-43 の少なくとも農業に関しては、やや楽観的な見解を参照のこと。銀鉱山:上記、本書第1章 C. 5.

107) 階級の緊張:J. Pečírka, “The Crisis of the Athenian Polis in the Fourth Century B.C.,” Eirene 14 (1976): 5-29. 特に10; Strauss, AAPW, 特に55-59; Daviero-Rocchi, “Transformations,” 特に36, 40-41 ; Ste. Croix, CSAGW, 298-99; Markle, “Support.” 騎兵隊の改革とその社会的背景:下記、本書第5章A. 4と註24. Hansen, “Did the Ecclesia Legislate,” 32, 37は、騎兵の手当を下げることによって節約されたお金は、貧しい人や障害をもったアテネ人、寡頭制の支配者と戦って死んだ市民の子供に、少額の(1日1オボロス)年金を支給するために用いられたと述べている。

108) 外交の複雑さ: P. Cloché, La Politique étrangère d’Athènes de 404 à 338 av. J.C. (Paris, 1934); Ryder, Koine Eirene; D. J. Mosley, “On Greek Enemies Becoming Allies,” Ancient Society 5 (1974): 43-50(特に48)海軍: Jordan, Athenian Navy; また、特にG. L. Cawkwell, “Athenian Naval Power in the Fourth Century,” CQ 34 (1984): 334-45; Ste. Croix, CSAGW, 292-93と註37で引用された文献を参照のこと。国境の要塞:Ober, FA.

109) 財政上の改善:デモステネス 10.37-38; Cawkwell, “Eubulus.” 外交の超複雑:例えば、Perlman, ed., Philip and Athens に収載された論文; Hammond and Griffith, History index Athens Atheniansの項目を見よ。

110) MacDowell, “Law-Making”; Hansen, “Athenian Nomothesia [1980],” “Athenian Nomothesia [1985]”; Rhodes, “Nomothesia.” によって提案されたマクドウェルの概要の改良点を参照のこと。

111) Osborn, Naturalization, 特にIV.152, 155-64; Whitehead, Demes, 97-109 以下を参照。イサイオス 6.47, 8.43のコメント; デモステネス 57.30-32, そして下記、本書第6章 C.

112) Rhodes, Boule, 218-19, “Athenian Democracy,” 307-308, 314, 321; Connor, “Athenian Council,” 36-38.

113 4世紀後半の陪審員選抜システム:『アテナイ人の国制』63-66. 4世紀初期の陪審員を買収するのを防ぐためのクレーローテーリオン(抽選器)の導入:Rhodes,”Athenian Democracy,” 315-18; クレーローテーリア〔複数形〕は後に(370-360年頃)、役人に関しても用いられた。同書、318-19; Whitehead, Demes, 270-90. その装置自体については : S. Dow, “Aristotle, the Kleroterion, and the Courts,” HSCP 50 (1939): 1-34 審理前の手続きの変更が含まれていた他の司法改革 : Rhodes, “Athenian Democracy,” 315; 公的仲裁者(60歳以上の市民)の導入:同書、315-16; 在留外人を含む商業事例の裁判に関する特別法廷の規定:Cohen, Maritime Courts; 355年頃に民会から法廷へのエイサンゲリア〔弾劾〕の手続きの移行の可能性 : Hansen, ”How Often”; 403/2年に市内の「巡回裁判所」の裁判官を中心に集めること:Whitehead, Demes, 264. 恐らく、この最後の改革は、民会出席のための手当と関連付けて考える必要がある。民会のために町に来る田舎の市民は、同じ日に彼らのささいな訴訟を解決したかもしれない。

114) 340年代のアレオパゴスの改革: Larsen, “Judgement,” 8-9; Perlman, “Political Leadership,” 167-69; Hansen, “Did the Ecclesia Legislate,” 38と註24; Rhodes, “Athenian Democracy,” 319-20 と註105; そして特に、Wallace, “Undemocratic Ideology,” とAreopagos第4章 ii. C, 第7章ii; Carawan, “Apophasis and Eisangeria,” 124-40.

115) 337/6年の反僭主法:SEG 12.87, 15.95. Ostwald, “Athenian Legislation Against Tranny”; Larsen, “Judgement,” 9; Rhodes, “Athenian Democracy,” 319-20; Wallace, Areopagos, 第7章ii.を参照のこと。

116) 女神デーモクラティアによって冠を授けられたデーモス:本書の口絵; このモニュメントとその意義に関しては、Raubitschek, “Demokratia,” 238; Rhodes, “Athenian Democracy,” 322; Lawton, “Iconogrphy.”を見よ。

117) Rhodes, “ Athenian Democracy,” 309-312によって要約されている。

118) エウブロスと観劇手当:Cawkwell, “Eubulus”; Larsen, “Judbment,” 7; Perlman, “Political Leadership,” 174-75; Rhodes, “Athenian Democracy,” 312-14, 322; Hansen, “Rhetores and Storategoi,” 157.

119) Rhodes, “On Labelling,” 209-10のコメントを参照。

120) リュクルゴスと「リュクルゴスの時代」に関しては、一般的にReinmuth, “Spirit”; Mitchell, ”Lykourgan Athens”; Will, Athen und Alexander, 48-100; そして特に,Humphreys, “Lycurgus,”と引用された文献を見よ。

(2020/01/31)


第三章 演説者と大衆の聴衆

 民主的アテネでの社会と政治の安定性の鍵が、アテネのエリ−トと大衆の間のコミュニケ−ションに求められるのなら、誰がメッセージを送り誰が受け取ったのか、どういった形でメッセージを得たのか、そしてどのような状況でコミュニケーションが行われたのかを、可能な限り決定しなければならない。

A. マスコミュニケーション

 公共のコミュニケーションの状況とその参加者の概念を形づくって初めて、メッセージの実際の内容を適切に評価できる。従って、利用できるレトリックのテキストーアッティカの弁論家全集ーの社会政治学的意義を理解したいと思う前に、まず、弁論家自身の観点から背景の一部を、また、彼らが演説を行ったフォーラムの性質と規則を、そして彼らが演説した聴衆を詳しく説明しなければならない。同様に、コミュニケーションは常に相互的であったことを心に留めておく必要がある。演説者は無論のこと聴衆にメッセージを伝えたが、聴衆もまた同じく演説者に自分の意志を伝えた。すなわち、その場での直接の口頭での干渉(例えば,ヤジ)、言葉によらない合図(例えば、落ち着きのなさ)、また短期的には投票で、長期的には演説者に対するその後の行動で意志を伝えた。アテネのエリ−トと大衆の間の公共のコミュニケーションは、比較的安定したイデオロギーと社会環境の中ではあるが、さまざまなフォーラムで行われたダイナミックで双方向性のプロセスであったと認識して初めて、公の政治的言説とアテネ民主主義の性質を分析するための適切な枠組み(フレームワーク)の構築に着手することができる。(注 1)

B. 演説者の階級:レートール〔訳注 1〕とイディオータイ〔訳注2 〕

 全集に代表される弁論家は、政治家である演説者とそうでない演説者に明確に区別される。多数の演説(132弁論の内59弁論)は、知る限りでは、政治的野心を持っていなかった個人によって行われた。彼らが関わった訴訟は、ほぼ現代のアメリカの民事訴訟に相当する。この種のテキストは、一般に「私的演説〔私訴〕」と呼ばれており、巻末の付録において「I」演説として分類している。その一方で、いくつかの演説は、政治的に活動的な市民によって行われ、または書かれた。そしてこれらの演説は、公然とキャリアを促進することを意図していた。ここでの目的にとって最も重要なのは、巻末の付録に「E」、「P」、そして「R」演説としてリストに載せたこれらのものである。すなわち、民会で行われた演説と政敵に対して政治家(レートレス)によって提起された「公的」訴訟である。

B1. 「レートール」と政治家の別の用語

 専門の弁論家/政治家は、4世紀のアテネでは著名な人物であった。そして、弁論家/政治家を記述するためには、多種多様な用語があった。最も一般的な用語はレートールであった。5世紀の中頃には、これはどうやら民会で動議を提案した人物のための法律用語であったようだ。5世紀の後半から4世紀まで、この用語は通常、活動的な政治専門家として認められた人について用いられた。すなわち、こうした人々は民会でしばしば演説して、そして他のレートールと政治裁判で争った。(注2 )「レ−ト−ル」の用語が、通常弁論で使用される時は、それ自体は多少中立的な価値であるように思われる。(注3 )しかし、確かに否定的な文脈で使用されることもあった。アイスキネス(3.253)は、デモステネスを国家のすべての災いの張本人である「レートールの男」と呼んでいる。他のところでは(2.74)、国家の安全を無視する「結託した」(シュンテタグメノイ)レートールに言及している。同じく、デモステネス(22.37)は、よこしまなアンドロティオンを支持した徒党を組む(シュンエステーコトーン)レートールについて語っている。さらにもっと強硬に、デモステネス(23.201)は、取るに足らないものであるかのように国家による栄誉を売り払った「呪うべき、神々に憎まれた弁論家」を論じている。『冠について』(18.242)において、デモステネスは、アイスキネスは器用さがポリスに役に立たない「えせ」(パラセーモス)レートールであったと主張して、彼に対する侮辱の長口舌を締めくくっている。この最後のことは、本物のレートールは、ポリスの利益のために彼の能力を使うことを期待されたかもしれないことを示唆している。

 同様に、政治家に関する他の用語は、一般大衆の話し手としての本来の役割を反映している。政治的な弁論家は、しばしば、単に「演説者(ホイ・レゴンタイ)」と呼ばれている。(注 4)また弁論家は、有能であり、公共の演説が巧妙な人(デイノス、デュナメノス・レゲイン)と言われることもあった。しばしば、これは否定的な意味合いを持つことを意図していた。(注 5)けれども、もし、ある弁論家が自らを称賛したいと欲したなら、彼はデモステネスが言及したように(18.320)、「最も良い演説をする者(クラテスタ・レゴーン)」と、自分のことを呼ぶかも知れない。他の著名な演説家の記述には、助言と指導性の役割に言及しているものがいくつかある。政治的な弁論家に関する標準的用語として、レ−ト−ルと人気を競ったのはポリテウオメノス〔政治を行う者〕である。「積極的にポリスの仕事に携わっているところの人」が無難な一般的翻訳であるかも知れないが、「政治家」という訳もまた十分使用可能である。(注6 )変形としては、同じ語根の不定詞であるホ・ポリテウエスタイ(デモステネス 22.47)と、ホ・ポリテウエスタイ・カイ・プラッテイン「政治に関与し事に当たる者」(デモステネス 18.45)なども含まれる。伝リュシアス(6.33)は、アンドロティオンは政治に携わる(タ・ポリティカ・プラッテイン)準備をしていたし、彼は既にデマゴーグとして演説して(デーメーゴレイ)、アドバイスを与えた(シュンブーレウエイ)と主張している。その句は、アテネの公的な演説者と関わっている2つの別の用語を紹介している。デーマゴーゴスの用語と密接に関連したデーメーゴリア(公的な、さらに踏み込んで、扇動的な演説)は、しばしば、弁論家が政敵について使用した。(注7 )しかし、両方の用語は、より積極的な意味でも使用された。リュシアス弁論16の中で、演説者は彼自身の利益を守るためには「人前で意見を公然と言わなければならない」(デーメーゴレーサイ:16.20)と主張していた。また、ヒュペレイデス(5.17)は、正しい民衆指導者(ディカイオン・デーマゴーゴン)は、ポリスの救済者であるべきであると主張した。デモステネス(19.251-52)は、アイスキネスがソロンや過去に演説家(デーメーゴルーントーン)として働いた他の人々の散文体をまねしようとしているとあざけっている。4世紀には、ソロンは広く民主主義の生みの親と見なされており、そこで、彼を演説家として描写していることは、アイスキネスについてのデモステネスのパロディーの文脈においてでさえ、その用語が肯定的な意味合いを与えられていたことを暗示している。(注 8)それと同じく、リュシアス(27.10)は、「優れた民衆指導者」(デーマゴーゴオイ・アガトイ)の義務は、緊急の際に国家に惜しみなく寄付することであったと示唆している。

 「助言者」(シュンブーロス)の用語は、一般的に肯定的であり、とりわけこの用語は4世紀後半の弁論家によく使用されるようになっていたと思われる。ヒュペレイデス(5.28)は、カイロネイアの敗北の後でさえ、デーモスはレートールを拒絶せず、助言者ならびに公の提唱者(シュ[ンブーロイス]…カイ・シュ[ネーゴロイス])として利用していたと指摘している。一方では、デモステネス(58.62)は、誰一人としてテオクリネスと友人を、善にして助言者(シュンブールース・カイ・アガトウース:ここのアガトスにも貴族的な意味合いがあることに注意)と考えないであろうと主張している。また、アイスキネス(3.226)は、思慮深い人がアドバイスをするのを妨げようとする人々に対して警告を発している。ディナルコスは、アドバイスと指導をする人々(ホイ・シュンブーロイ・カイ・へーゲモネス)が、ポリスに降りかかった善悪のすべてに責任があったと論じて、弁論家の公的な立場を要約している(1.72)。また、ディナルコス(1.40)は、現在の政治家の一群と前世代の立派な助言者と指導者を対照させている。

 アテネの政治家は、「指導者」、すなわちデーマゴーゴイ(文字通り、「デーモスを指導する者」、またはヘーゲモネス(「指導する者」)(ディナルコス 1.40,72,74)と呼ばれることがあった。しかしながら、アテネの政治家の演説の能力や、アドバイスの機能を強調する記述的な用語が広く行きわたるのは、公的な演説がリーダーシップの役割の主要な側面であった事を示唆している。大統領、統治者、議長、監督などの指導者に関する現代英語の用語の語源と対比できるかも知れない。演説する能力は、現代の政治指導者の持ち札の一つであるかも知れないが、彼または彼女の権力は概して、大部分公衆の視界の外で、彼または彼女が就いている役職の直接の機能として行使されるであろう。(注9 )アテネの政治活動の語彙は、直接の公共のコミュニケーションが、アテネのレ−トールが行使を望んだかも知れない権力、権威、あるいは影響力がどのようなものであれ、それらの主要な中心であったことを明らかにしている。

 さらに、その用語の多くが、頻繁にそして無頓着に複数形で用いられていることは、レートールがポリスの政治生活において特別な役割を果たした見分けのつく人の「集団」であったことを示唆している。(注 10)例えば、デモステネス(4.1、参照『序論集』55.2)は、彼らを「いつもの演説者」(ホイ・エイオートトイ)と呼んでいる。一度に何人の人がその集団に含まれるかはわからないが、その数はかなり少ないと思われる。「メンバーの資格」は、事実上政治へのフルタイムの参加や、かなりの生まれつきの能力、そして(普通は)特別なまた費用のかかる訓練を必要とした。それは、利益をもたらす可能性もあるが(第五章 G.2)、しかし同時にとても危険であった(第三章 B.2)。M.H.ハンセンは、多分、ほんの10人から20人の「専門家」の政治家が常に活動していたであろうと述べている。これはすこし少なすぎるかもしれないが、私はその10倍までの範囲が正しいと思う。前403年から前322年には、アテネでは100人未満のフルタイムの政治専門家が活動していた可能性がある。(注 11)

B.2 レートールとイディオータイの法的な身分
 
 専門家である政治家は、法律上は定義されたグループではなかった。彼らは民会で頻繁に演説する傾向があったが、これはデーモスの好意で与えられた特権であり、法的特権ではなかった。アイスキネス(1.27)は、明確に次のように述べている。アテネ人の誰一人、民会で社会的地位や貧しさゆえに演説することを禁じられてはおらず、むしろすべての市民は、デーモスに演説しようと望めば、何度も繰り返し演壇(ベーマ)にやって来るよう要請された。5世紀の中頃までには、アテネ市民はすべてイセーゴリア(上記、第二章 F.1)の権利を持っていたし、また法律によって、どのようなアテネ人も民会で演説する権利は、他の市民と同等であった。もし、大部分の市民が人前で意見を述べなかったとしても、それは法的な規制があったのではなく自らの選択または習慣がその理由であった。(注12 )デモステネス(22.30)は、「ソロン自身は、ほとんどのアテネ人は人前で演説する権利を持ってはいたが、その権利を行使はしなかったと述べていた」、と主張した。

 民会でのレートールの役割の一部には、市民を拘束する決議(プセーピスマタ)の通過を確保することがあった。従って、レートールは同じく市民を拘束する一般的な法律(ノモイ)を通過させたノモテタイ〔立法委員〕と比較されることがあった。リュシアス(31.27)は、次のように尋ねている。「どんなレートール……、あるいはノモテテースが(プセーピスマまたはノモスでもって)、危機の際に留守をする市民の犯罪を想定できたであろうか?」。しかし、決議を提案する権利は、市民の誰にでも開かれていた。重大な問題についての公的な審議においては、専門家の弁論家が一般的に支配したにもかかわらず、普通の市民も同じように民会で声を上げたし、デーモスに対して動議を提案した。(注13 )イソクラテスの弟子は、『パンアテナイア祭演説』(12.248)の中で、アテネでは時折、最上の思慮を持つと思われている演説者が誤った判断を下し、逆に「取るに足りないと評価され、大体は無視された」普通の市民の一人が、すぐれた案を提案して最善の演説をしていると判断されていると述べている。専門家の弁論家の立場が曖昧であったことは、優れたレートールはどのくらいの頻度で人々に演説すべきかについての議論によって示唆されている。デモステネスの「アイスキネスは民会でめったに相手に対して演説しなかった」という非難に対して、アイスキネス(3.216-20)は、絶えず演説することは寡頭政の特色であるとほのめかして反撃している。すなわち、寡頭政では支配する者(ホ・デュナステウオーン)だけが人々に演説するが、民主主義では望んだ者は誰でも(ホ・ブーロメノス)、それが彼にとって正しいと思われるときはいつでも演説が可能であった。

 専門家の弁論家が、かって他の市民に対して何らかの法的特権を獲得したという証拠はないが、彼らは公的な活動の結果として、さまざまな法律に従わなければならなかった。デモステネス(10.70)は、政治家が法的訴追に直面する可能性があることを示して、政治家アリストメデスは、普通の市民(イディオータイ)の生活は安全であるが、政治家(ポリテウオメノイ)の生活は危険であることを知らねばならないと述べている。デモステネス(24.192-93)は、法律はすべて2つのタイプに分かれていたと主張している。すなわち、私的生活(ペリ・トーン・イディオーン)に関するものと、政治家として行動すること(ポリテウエスタイ)を望んだ人のポリスへの義務に関するものとである。デモステネスは、前者の類いの法は寛大であるが後者は厳しいのが、市民の大多数にとって有利であるので、政治家は大衆に対して不正を行うこと(アディコイエン・トウース・ポルース)が出来ないであろうと主張した。民会で決議を提案した人物は、違法提案に対する告訴(グラペー・パラノモーン)で告発される可能性があった。違法な提案を行ったものは、不適正な提案に対する公訴(グラペー・ノモン・メー・エピテーデイオン・テイナイ)〔訳注3 〕に直面したし、また賄賂を得て公の利益に反する演説を行った者には、エイサンゲリア(弾劾裁判)〔訳注4 〕の手訴訟続きによる告発があった。(注14 )また、特に民会での演説者に適用された資格審査(ドキマシア・レートローン)〔訳注 5〕があり、両親を虐待した者、適切な兵役義務を忌避した者、売春した者、あるいは、遺産を浪費した者、そうした市民はデーモスに演説することが許されていなかった。その最後の手続きに関して最も有益な証言は、レートールであるティマルコスを売春の件で告発したアイスキネス(1.28-32)である。(注15 )

 「ドキマシア・レートローン」の存在や、ヒュペレイデス(特に4.7-8)がレートールと将軍に関するエイサンゲリアの手続きの規定について論じていること、さらにその他の証拠(第三章 D.1を見よ)によって、M.H.ハンセンは、「レートール」の用語は、4世紀には,法律や動議の提案者、そして法廷で公的な訴訟を起こした者の法的/国制上の用語として使用されたと結論づけた。(注 16)4世紀に、アテネの法律の専門用語として「レートール」が特別な専門的な意味を持っていたかもしれないが、信頼できるテキストによる証拠はない。(注17 )その用語は、5世紀の半ば(その時1回のみ)以降は、石碑に刻まれた法律または決議のどれにも使用されていない。ティマルコスに対する訴訟で、アイスキネスが引用した法は、ソロンに帰されているが、そのドキマシア・レートローンの手続きが実際に最初に導入された時を知る術もない。それは4世紀頃には明らかに非常にまれであった。ヒュペレイデス(4.7-8 )はレートール(エー・レートール・オーン・メー・レゲーイ…)に、特別に適用されたエイサンゲリアの手続きを論じているが、その議論は彼が一貫して普通の市民ーイディオータイーと公認の一連の専門的演説家―レートールーの間の区別を強調した演説の文脈で行われた。彼がその法律を引用した時、彼はそれがあたかも、普通の市民とは対照的に専門家の政治弁論家に適用するために特別に書かれたように見せようとした。ヒュペレイデスは,レートールの用語の古い法的意味―それは、5世紀の中頃には明らかに「決議提案者」であったーとその用語が弁論で使用され、陪審員が理解したであろう日常的な意味の間の曖昧さを利用していた。彼は専門的政治家と普通の市民の間には実際に法的差異があったことをそれとなく示して、告発者は無実のイディオーテースであるエウクセニッポスを、レートールを対象としてだけ用いられた手続き(エイサンゲリア)で告発するという大きな不正を行ったということを明らかにしようとした。すなわち、「彼(エウクセニッポス)は、イディオーテースであったのにも関わらず、あなたの彼に対する告訴は彼をレートールとして分類している」(4.30、参照アイスキネス 3.214)繰り返して言うと、イディオーテースの用語は、4世紀には一般的な意味であった。すなわち、それは普通の市民であり、政治的専門家ではなかった。(注18 )しかしながら、もし、リュクルゴス(1.79)の定義を受け入れるなら、アテネ市民すべては、役職や陪審員を務めていない時はイディオータイであった。彼はポリテイア〔国制〕は三つの部分からなっていると言っていた。すなわち、役職者(アルコーン)、陪審員(ディカステース),そしてイディオーテースであった。アイスキネス(2,181)は、4世紀中頃の最も良く知られた政治家の一人であるが、イディオーテースと中流の市民(メトリオス)の両方であると、真顔で主張することができた。

 専門家の政治家と普通の市民の間には、次の点を除けば法律上の区別はなかった。前者は、例えば決議や法案を提案するなどの活動に従事し、また従事しがちであったので、訴訟の対照になったことである。すでに見てきたように、アテネの市民はすべて民会で演説する権利を持っており、決議の多くはー特に顕彰の類いの決議はー「非専門家」によって提案されていたように思われる。(注19 )しかし、上記で引用されたヒュペレイデスのコメントがはっきりと立証しているように、確かに、4世紀のアテネでは普通の市民と政治的専門家の間には認識された違いがあった。アイスキネスと同様に、デモステネス(22.25-27)は、メトリオイとイディオータイを多少同義語であると見なしているが、これらの人々を強力で勇敢な(デイノイ、トラセイス)ー専門家の政治家―と対比している。彼は、市民の種類ごとに適切なさまざまな訴訟があったということを示唆した。すなわち、公訴は大きな報酬を提供するかも知れないが、同時に大きなリスクを伴うものであり、私訴は普通の市民が地位や財産のリスクなしに取り組めるものであった。(注20 )

 専門的な政治家と「アマチュア」―顕彰決議を提案したかもしれないが、論争中の問題は避ける可能性が高かったーの機能上の相違点は、ある程度は政治活動の後にもたらされた増大したリスクの結果であった。つまり、論争を招くような決議を提案した人が直面したかもしれない複雑でわかりにくい法的なもめごとは、重要な問題に関する激しい議論の間に、ほとんどの市民をおじけさせて演壇から遠ざけるに十分であったろう。(注21 )政策決定に失敗したときに続くかもしれない一般的な不名誉も、考慮すべき問題であった。トゥキュディデス(『歴史』8.1.1)もデモステネス(1.16)も言及しているように、上手くいかなかった政策に賛成演説をした弁論家は、後に政策に賛成投票した民会出席者によって、便利なスケープゴートと見なされたかもしれない。ほとんどのアテネ人は、積極的に民会に参加する常連や政治問題に関心の深い人々でさえ、法的なもめ事や同僚の怒りを恐れていたので、アテネの統治システムにとって、専門家を構造的に必要なものとした。つまり、彼ら専門家なしには、ほとんど大胆なそして独創的な政治的発議はなかったであろう。(注22 )

C. 演説者のエリート身分(ステータス)

 民会で積極的に論争したり、または重要な政策を新しく提案することは、危険が伴っていたし、平均的な市民は必ずしもハイリスクな公の訴訟に関わる必要はなかったので、アテネのイディオーテースが演説した最も一般的な公共のフォーラムは、私訴(ディケー)の弁護または起訴の過程での法廷であった。アテネ人はとりわけ訴訟好きの民族であるとうわさされたが(アリストパネス 『蜂』、『雲』を参照)、平均的アテネ人が訴訟に巻き込まれるのが、どれ程一般的であったかはわからない。その一方で、おそらくアテネのエリートのメンバー、特に富裕なエリートが比較的訴訟に関与する可能性は高く、エリートのアテネの訴訟当事者が現存する私的弁論を代表していることは想定することができる。被告の中には個人の富の程度をごまかす者もいたけれども、演説の内的証拠は、しばしば、演説家は余暇階級のメンバーであることを明らかにしている(第五章 D.2を見よ)。さらに、すべてではないにしても、ほとんどの場合、現存する私的弁論は専門的なスピーチ・ライターー法廷弁論作家(ロゴグラファー)―が書いていた。法廷弁論作家の料金表はわからないが、繰り返し言うと、一般的なアテネ人は弁論集に保存されているものの中で、平均的な質の弁論を購入する余裕はなかったであろうと想定しても差し支えない。(注23 )

 現存する私的弁論の製作を依頼して演説した演説者が、教育を受けたエリートのメンバーであると見なすべきかどうかは議論の余地がある。一方では,彼らは、幼児期のしつけのゆえに、平均的なアテネ人よりかは教育されていたであろうことは多分に想定できる。(注24 )他方、おそらく正式に哲学またはレトリックの訓練を受けた人は、比較的少なかったであろう。いずれにせよ、前者は非常にまれであったし、後者の内訓練を受けていた人は、たぶん法廷弁論作家に依頼する必要はなかったであろう。問題を複雑にしているのは、個人的な訴訟者が人前で話す際に、自分の能力や経験を控えめに述べる傾向にあったことである(第四章 C.3を見よ)。少なくとも、私的な訴訟当時者の何人かは、自らの表明により出生エリートに帰すことができる。

 政治的な裁判や民会での論争のための演説を書き演説した専門家の政治家が、エリートの身分(ステータス)であったことは非常に明瞭である。彼らの背景については、決定するのに望めるだけの十分な伝記データはないが、いくつかの一般化は可能である。まず第一に、彼らは自明のこととして、能力のエリートのメンバーであった。演説のスキルは、政治家にとって必要条件であった。このことは、言葉をまとめるだけではなく、理解させるスキルを意味していた。イソクラテスは、古典期アテネの最も優れた散文作家の一人であったが、大多数の聴衆に届くには声の大きさが十分ではなかったので、政治的なキャリアを放棄せざるを得なかった。(注25 )弁論家の生来の能力は、必然的に実践によって磨かれた。プルタルコス(『デモステネス伝』 5-8,11)によれば、デモステネスは、ほかの弁論家(とりわけ、アピドナのカリストラトス)に耳を傾け、個人的な裁判(後見人に対する)で技術を磨き、ほかの弁論家(特にエウノモス)からアドバイスを受け、喜劇役者のサテュルスから朗読のレッスンを受けた。彼は色々な種類の激しい肉体的な訓練を試みたが、その中には練習の間口に小石を一杯に含んで熱弁を振るうというのもあった。彼が地下の練習場で何時間も過ごし、それも半分頭を剃ることで、見た目の恥ずかしさからこつこつ練習することを自らに強いたという話は、捏造されたものであるかもしれないが、それは4世紀のアテネの競争の激しい政治的雰囲気の中で、有能な政治演説家になるためには、どれ程の献身が必要かという心構えを見事にとらえている。

 多くの場合、政治弁論家志望者は、正式なレトリックの訓練を通してスキルを磨かねばならなかったに違いない。プルタルコス(『デモステネス伝』 5.4-5)は、デモステネスは、イソクラテスの謝礼が払えなかったので、イサイオスのところで学んだという言い伝えを残している。しかし、プルタルコスは同様に他の説明も読んでいた。彼は、ヘルミッポスがデモステネスはプラトンの弟子であったと書いてあった、筆者不詳の回想録を引用しているのに触れている。プルタルコスによれば、ヘルミッポスはさらに、クテシビウスを引用して、シュラクサのカリアスやその他の人々がひそかに、デモステネスにイソクラテスとアルキダマスの弁論術の体系を提供したという物語を述べている。これのどれも、イサイオスとのレッスンの可能性を除いて、一見したところとてもありそうには無いように思う。多分、ほとんどは、おそらく一部は文体の分析に基づいた古代の憶測に起因するであろう。(注26 )遺憾ながら、伝記上の伝承は、他のほとんどの有名なレートールの教育の背景に関してと同様に,混乱しかつ矛盾しており(たとえ豊富ではないとしても)、あまり知られていない人物に関しては、その伝承は皆無である。伝プルタルコスの『十大弁論家の生涯』は、誰が誰に師事したかについて、時には矛盾するさまざまな憶測を行っているが、全体としてはこの証拠は役に立たない。(注27 )

 それにもかかわらず、次のような二つの疑いようのない事実に直面する。政治弁論家によって残されたテキストは、多くのレトリックの洗練さを示していると言う事実、そしてレトリックの学校が4世紀のアテネに存在したという事実である。イソクラテスの学校は最も有名であった。そこでの勉学プログラムはおそらく4年間続き、イソクラテスはそのコースに1,000ドラクマの定額料金を請求したと言われている。どちらの数字も疑わしいが、イソクラテスが学生を受け入れ、彼らはかなりの期間学び、そして十分な支払いをした。それによって、イソクラテスはペロポネソス戦争で失った家産を回復することができた。彼と息子は,たとえ不本意であったとしても、両者とも公共奉仕者〔訳注 6〕であった。(注28 )さらに、S.ウィルコックスが明らかにしたように、イソクラテスと仲間の修辞学教師らは、政治的なレトリックを教えた。(注29 )確かに、野心のある法廷弁論作家の中には、修辞学教師の授業に通う者もいたり、そのカリキュラムには法律に関するレトリックも含まれていたが、4世紀の修辞学教師の学生のほとんどは、5世紀のソフィストの学生と同じく、多分、政治的に野心を抱いていたがゆえにレトリックを学んだ。(注 30)こうして、イソクラテスや他の修辞学教師の学生は、必ずしもすべての者がアテネ市民ではなかったし、または成功した政治的キャリアに進んだわけではないが、4世紀のアテネの専門の政治家の多くは、5世紀末のソフィストの学生のように、後にはレトリックの正式な学校でレトリックのスキルを磨いたというのはもっともな仮定である。さらに、アテネでの正式な高等教育が比較的まれで、大部分哲学(プラトンが定義したように)か、またはレトリックに限られていたことを考慮すれば、政治専門家は4世紀のアテネの市民の「教養のあるエリート」の比較的かなりの割合を占めていたと推測できるかもしれない。(注31)

レトリックの正式な教育は、政治での実習を積むことが出来る手段が十分ではなかったので、特にアテネの政治家にとっては重要であった。学者はかって通例、区(デーモス)や部族など地方レベルで役職を務めたり一般的に政治的に活動することが、有望な政治家に最初の政治的経験を与えたと仮定した。(注32) しかし、アテネの区の近年の詳細な研究は、この仮定に部分的に反証を挙げている。区の職務の個々の活動家のプロソフォグラフィーの分析は、特にデマルコス〔訳注7 〕は、地方の政治活動と「国家」の政治活動の間には何の結びつきもないことを明らかにしている。実際、2つの活動範囲は相互に排他的であったように思われる。有名なレートールのだれも、政治経歴の始まりの前後のいずれにおいても、故郷の村の政治活動に積極的に関わっていた証拠はない。(注33 )繰り返して言うと、このことは,現代の政治家と際だった対象をなしている。現代の政治家は、おおむね政治経歴を地方のレベルから初め、全国的に有名になるまで地方の支持者と頻繁に密接な繋がりを維持している。政治機構が連合的でないことや、アテネの国家のほとんどの役職が比較的重要でないことが、民会と民衆裁判所を比類のない機関にしている。アテネで政治家志望の男性は、民会で演説しなければならなかったし、法廷で積極的にならなければならなかったが、地方政治の先行経験は、これらの活動にはほとんど役に立たなかった。

 政治弁論家は、またアテネの富裕エリートのメンバーであった。全般に、裕福なアテネ人は統計的に一般市民よりか政治的に活動的である可能性が明らかに高かった。(注 34)1983年に、M.H.ハンセンは、前403年と前322年の間に、将軍職を務めた人、民会で演説した人、決議あるいは法律を提案した人、または、公的な訴訟に関わった人、そうした活動で知られているすべてのアテネ人の一覧表を発表した。(注35 )こうした人物の内約30%(114人)は、デーヴィスの『アテネの富裕な家族』(APF)で、公共奉仕者として一覧表に挙げられており、そこで、3タラントン〔訳注8 〕から4タラントン、あるいはそれ以上の家産を有していた。ハンセンとデーヴィスの一覧表は、両方とも数量化できない不確定要素を免れなくて、その30%の数字は多分あまりに低すぎる。デーヴィスの評価によれば、そして私はそれを受け入れるが、公共奉仕者は4世紀にはアテネの全人口のわずか約1%または2%にすぎなかった。さらに、ハンセンの一覧表に挙げられた多くの市民は、例え公共奉仕者ではなかったとしても、おそらく余暇階級であったろう。というのは、公共奉仕を務める階級は事実上余暇階級のほんの約15―30%であったからである(下記、第三章 E.1を見よ)。こうした数字のいくつか、あるいはすべてにかなりの誤差を認めたとしても、一般的な結論は次の通りである。すなわち、全市民の数に比べると、余暇階級は明白に政治的に活動的なすべての市民仲間の中で、非常に不釣り合いに多く含まれていたことは確実である。(注36 )

「明らかに政治的に熱心」な市民が富裕者である可能性が高いのなら、なおさら、専門の政治家はそうであった。従って、驚くにはあたらないが、4世紀のアテネの特に有名な政治家の多くが、デーヴィスの『アテネの富裕な家族』で公共奉仕者として表に挙げられている。例えば、アンドキデス(APF 828)、アンドロティオン(同913)、アポロドロス(同11672)、カリストラトス(同8157)、デマデス(同3263)、デモステネス(3597)、ヘゲシッポス(6351)、ヒュペレイデス(13912)、リュクルゴス(9251)、メディアス(9719)、ティモクラテス(13722)などである。政治家の中には、デモステネスのように、明らかに富裕な家の出身者もいた。他方、例えば、デマデスやアイスキネスは、キャリアの過程で富を築いたかも知れなかった。多くの弁論家の初期のキャリアの問題を複雑にしているのは、敵対者の富は悪しき方法で作られたと示唆することで、彼らを侮辱する政治家の傾向である(第五章 F.2-3を見よ)。しかし、知られているいずれの場合も、ある弁論家が政治専門家として認められる頃には―民会で重要事項について頻繁に演説を行い、高い知名度で公的訴訟に関与する頃にはー、彼が余暇階級であったことは疑いの余地がなかった。政治家が富裕なグループの一員であるという一般的な印象は、デモステネスの次のような誇張されたレトリックの一文によって強められている。彼は(23.208)、公務をになう人々は非常に多くの富を持っていたので、私宅は公共の建物よりも壮大で、彼らの中には「この法廷にいるあなた方(陪審員)すべてを合わせた」よりも多くの土地を所有している者もいたとコメントしている。そうした発言は、陪審員にある特定のインパクトを与えることを意図していたし、文字通りの意味に取ることは出来ないが、それらはその状況の現実を偽造するというよりは誇張している。デモステネスは、ここで、個人的な富があまりに多いのは、政治的指導者としては相応しくないことをそれとなく言っているが、4世紀のアテネで政治家であることは、フルタイムの仕事であったことを考慮すれば、余暇階級のメンバーであることは事実上前提条件であった。(注37 )そして、デモステネスが別の所(22.27)で指摘したように、貧しい人は、とても公的な訴訟で敗者に課せられた高額な罰金の危険を冒す余裕はなかった。(注38 )少なくとも、出生エリートをゲノスのメンバーに限定するならば、かなり弱い繋がりではあるが、レートールを出生エリートに結びつけている(下記、第六章 Bを見よ)。リュクルゴスはエテオブタダイ〔訳注 9〕のゲノスの一員だった。ヘゲシッポスと兄弟ヘゲサンドロスー彼もまた政治家と見なされているが(ハンセンの一覧表を見よ)、彼らはサラミニオイ〔訳註 10〕のゲノスだった。学者の中には、デモステネスとアンドロティオンもゲンネータイ〔氏族員〕であるかも知れないと主張する者もいるが、しかしながらこのことは確実なものではない。(注39 )しかし、次章で見るつもりであるが(第四章 E.1)、アイスキネスのような政治家でさえ、彼は間違いなくゲンネータイCENTER:ではなかったが、貴族との関係と自らの貴族的な職業を強調したがった。

 

D. 政治と政治組織

 要するに、4世紀のアテネの専門家である政治家は、法的には定義されていなかった。そして、その仲間から、判定が微妙な人物を含めたりまたは除外できる確固たる基準もなかった。しかし、レートールは容易に同時代の人によって見分けがつき、ひとまとめにして語られる可能性があった。彼らは比較的数において少なく、富と能力において常にエリートであり、通例教育においてもそうであり、そして時折ゲンネータイであった。専門家のレートールの多くは、他の市民がそうしたように、時折抽籤で選出された役職に在職した。(注40 )しかし、財政担当アルカイ〔公職者〕のエウブウロスとリュクルゴスを除いては,彼らは普通行政官職を連続しては務めなかった。彼らレートールの政治的影響力は,地方の選挙区、選挙によって任命された職、または合法的に与えられた権力に依存してはいなかった。

D1. レートールとストラテーゴイ〔訳注11 〕

 弁論家は時折、演説の中であたかも選出された役人と同等であるかのように言及されている。これは、3つのタイプのドキマシア〔訳注 12〕へのリュクルゴス(断片V.1a[コノミス] = 断片A.2.1[バート])の参照の中で暗に示されている。すなわち、一つ目がアルコンが受けるドキマシア、二つ目がレートールに対するもの、そして三つ目が将軍(ストラテーゴイ)に対するものである。ここで、リュクルゴスは、上記(第三章 B.2)で論じたティマルコスに対してアイスキネスが用いたやり方を参考にしているようである。アイスキネスのように、リュクルゴスは、レートールの用語の一般的意味とその法的意味の間の混同を利用している。さらに問題なのは、ディナルコス(1.71)による次の趣旨の証言である。それは、法律(ノモイ)は、どんなレートールまたは将軍でも、もし彼が「デーモスの信頼に値する」と見なされたいならば、嫡出子とアッティカに自分の土地を所有しなければならない。しかもそれだけで「デーモスを導くのに値する」(アクシウーン・プロエスタナイ・トウー・デームー)であろうと言明している。もし、これが法律の正確な言い換えであったならば、民衆に演説する者は、財産資格を受けねばならなかったこと、そして法的に将軍と同等であったことを仮定しなければならないだろう。しかしながら、ディナルコスは当該のノモイを引用しておらず、また言い回しは、誰が人々を導くのにふさわしいとみなされるべきかを強調しており、間接的にでさえ、アテネの法的言説を反映してはいないように思われる。公的な演説に対するこの種の制限に関する他の証拠の不在(ここでは、レートールが民会で演説した人を意味すると理解して)、そしてはっきりと財産資格の可能性を排除すると思われる他の証拠のゆえに、ディナルコスの証言は、演説家が嫡出子と自らの財産を所有することを要求された成文法の存在の証拠として受け取るべきではない。(注 41)

ディナルコスのコメントは、弁論家についての一般的傾向の文脈で、つまりレートールとストラテーゴイを類似の機能を果たし、また「イディオータイ」の一団とは対照的な「政治的に有力な」一団を集合的に構成するものとみなす、そうした文脈の中で見なければならない。例えば、ヒュペレイデス(5.24)は、イディオータイの犯罪は、レートールやストラテーゴイの犯罪に比べれば、それほど重大ではないと主張している。既に見てきたように(第三章 B.2)、ヒュペレイデスはエウクセニッポスの告発者に対し、無実のイディオータイを放っておき、「犯罪を犯すレートールまたはストラテーゴイを待ち構える」(4.27)よう主張している。同様の調子で、ディナルコス(3.19)は陪審員に、デーモスは特定の収賄を受け取るレートールやストラテーゴイと共に堕落してはいなかったことを、すべての人に明らかにするよう熱心に説いた。デモステネス(18,171)は、339年にピリッポスがエラテイアを陥落させた後、「ストラテーゴイやレートールが皆出席していた」という事実にも関わらず,自分以外誰も進んで演壇にやってこなかったと強調している。その並立は、特にアリストテレス『弁論術 1388b17-18』のコメントの中で明らかである。多くの者に利益をもたらすことができるアルコンテス〔訳註13 〕は、ストラテーゴイであり、レートールであり、一般にすべての有力な人であると述べている。アリストテレスがはっきりとわかっていたように、ストラテーゴイは国制上の役人であり、レートールはそうではなかった。アリストテレスや他の弁論家によるレートールとストラテーゴイの融合は、国制上の事実ではなく、政治的現実を描写している。(注42 )

 確かに、4世紀のレートールはアテネの軍事政策に大いに関係していたし、将軍の中には、ポキオンのように、かなり頻繁に民会で演説した者もいた。しかし、上述したように(第二章 F.5)ペリクレスが獲得していた政治権力の二重の道は、彼の死後すぐに二またに分かれ始めて、政治と軍事の専門家の間の区別は、4世紀には非常に明白になった。アリストテレス(『政治学』1305a10-15)が述べているように、当時の「デマゴーゴス」〔民主指導者〕は軍事ではなく、レトリックに熟練する傾向があり、将軍はその反対になる傾向があった。(注43 )まさに、専門分野が異なり、国家の政策と個人の政治的な生存の両方に共通の関心があるために、将軍と弁論家は,密接に共に働く傾向があった。将軍は、弾劾裁判―彼らが4世紀に非常に頻繁に被っていたーを支援して、民会で命じられた軍事遠征を実行するために必要な資金を提供する法案を提案するための、熟練した弁論家が必要であった。政治弁論家は、自らの長期にわたる外交政策の目的を支援するために、熱心に軍事行動を遂行してくれる協力的な将軍が必要であった。さらに、将軍は、他の弁論家と一緒に、公的な裁判で優れた性格証人(シュネーゴロイ)〔訳註 14〕になった。もっとも対立する側は、証人の信用を落とすことを試みたかも知れないが。ディナルコス(1.112)は、デモステネスに有利に話すかも知れないレートールやストラテーゴスは、収賄の罪を犯したと聴衆に断言している。『クテシフォン弾劾』(3.7)で、アイスキネスは陪審員に、将軍は特定の弁論家と長い間協力者(シュネルグーンテス)であって、それ自体が国家の法を犯していたと主張して、デモステネスの申立に好意的な将軍の取りなしで影響を受けることのないようにと力説した。(注44 )
 
 将軍と弁論家の間の共益関係は、言うまでもなくペリクレス後のアテネの政体の機能性として重要であり、疑いなく特定の将軍と弁論家は「協力者」として行動する傾向があった。さらに弁論家は他の弁論家と特別な問題について協力したのは明らかで、時にはかなり長い期間に渡るときもあった。政治家は通例、公の裁判に巻き込まれた時、親しいレートールをシュネーゴロイとして依頼した。また、政治的な訴訟は、しばしば、政敵を積極的に支援していることで知られたこうしたレートールに向けられた(例えば、ティマルコスとクテシポンに対するアイスキネスの訴訟)。しかし,これらの関係を重視しすぎる傾向は慎まねばならない。私が上述したように(第一章 B、第二章G )、4世紀の政治家と将軍は支配エリートを構成しなかった。弁論家同士かつ弁論家と将軍の間の協力は限られたものであったので、お互いの激烈な競争によって十分にバランスが崩れていた。彼らが行使するどんな権限も、民衆の継続的な承認に依存していた。すなわち、ストラテーゴイは毎年の再選挙と常に裁判に直面した。レートールは民会で演説のために立ち上がるたびに、また公的な訴訟にかかわるたびに判定を下された。

D2. 政治グループ対個人によるリーダーシップ

 弁論家と将軍の間の関係は、現代の政党政治とは似ても似つかなかった。アテネの政治家と将軍の政治グループについての最近の研究は、アテネの政治に関しての党派モデルの誤りを明らかにしている。もはや、推測に基づく寡頭政治や民主政治の「政党」の盛衰をたどる学問上の熱意はなく、今では専門家の文献には組織化された保守的、穏健、そして急進的な利益集団への言及は、かっての場合よりも少なくなっている。4世紀の政治についてのほとんどの専門家は、私が思うに、アテネの政治党派の盛衰での主義、実用主義、交友関係、家族関係の相対的な重要性については、今もなおあまり合意はないが、存在したことが証明できるような、そのような弁論家と将軍のグループは流動的であったことに同意するであろう。(注45 )政治専門家と軍事専門家の間の変わりやすい同盟は、たとえその基盤が何であれ、4世紀アテネの公的生活の一要因であったことは確かである。そして、その分野の継続的な研究は、その状況をさらに明白にすることに役立つであろう。しかし、政党や,グループ、そして党派を明確にすることへの過度な学問的関心は、他の恐らくもっと重要な、政治的現実から注意をそらす傾向があった。

 政治と軍事の専門家が支配エリートを構成したならば、エリート演説家と将軍の間の関係は、確かにアテネの政治生活の中心的な機能となったであろうが、そうではなかった。さらに、政治的グループが忠実な大衆の支持者を支配していたのならば、彼らの関係もまた非常に重要な鍵であったであろうが、そうではなかった。アテネの政治グループについての最近の研究は、アテネの政治党派は組織的なあるいは継続的な大衆の支持者を持っていなかったことを明確に論証している。結局、大衆は党派を構成した政治家を作り上げ、解職した。従って、政治的グループについての全面的な強調は、誤った方向に向けられている。それは、短命な附帯現象のエリート間の関係に注意を集中しており、アテネの政治生活の主たる現実であるエリートと大衆の間の関係から注意をそらしている。デマゴーゴス(民衆指導者)についての、次のフィンリーのコメントは適切である、

 人は、彼の個人的な、そして文字通りの意味で、民会自体の中で非公式な地位の機能としてのみ指導者であった。彼がその地位を保持していたかどうかの試金石は、単に民会が彼が望んだように投票したかどうかであった。従って、試金石は各議案について繰り返された。(注46 )

 弁論家が民会や法廷で演説する時には、彼は人々の前にただ一人で立った。デモステネス(18.171)は、339年の重要な瞬間を述べる際に、「ピリッポスの反対派だけが、信用できるスポークスマンを立てることができた」とか、それに類したことを言ってはいない。例え、デモステネスが、外交政策の見解を共有する人々を党派と考えていたとしても、そうした主張をすることは逆効果であったであろう。アテネ人は、個々の政治家が特定の議題について、意見の異なる他の個人との公開討論で自分の意見を述べることを期待した。政治家が積極的に有力な仲間から支援されていたと言う示唆は、しばしば、その政治家の信頼性に反する論拠として用いられた。(注 47)後で述べるように、政治弁論家は概して、熱心に自らをさまざまなエリート・ステータスに属すると述べて、決して特別な利益を提唱する組織化された政治家グループに属するとは描かなかった。民会でのデーモスや民衆裁判所の陪審員は、決議の提案者やあるいは訴訟者に対して、提案者や敵対者の口頭の議論や市民としての価値観に基づいて賛成票または反対票を投じた。

 民主的アテネの最も重要な政治的つながりは、政治家と将軍の間ではなくて,演説家と大衆である聴衆との間であった。5世紀末と4世紀のエリート作家は、政治的プロセスでの個々のデマゴーゴスの重要なポジションと、アテネの意志決定でのレトリックの基本的な重要性を十分に理解して心から不満を示した。デマゴーゴスに対するエリート作家の反対の理由の一つは、彼らが演説において合理的な知性に訴えたのではなく、聴衆の卑しい感情や根深い偏見という形での非合理性に訴えたということであった。(注 48)この一般的な議論は、マックス・ヴェーバーによって再構築された。彼は、アテネの政治的リーダーシップを、感情的訴えに基づいた「カリスマ的」タイプとして特徴づけた。(注49 )M. I. フィンリーは、民主主義についての古代の批評家とヴェーバーの両方に反論して、この分類に異議を唱えた。そして彼は、デマゴーゴスは単に感情的な訴えに基づいてリーダーシップを競ったのではなく、彼らが果たすと期待されていた「実質的な約束」を通して競ったと主張した。フィンリーは「政治を道具として見る見解」を主張しているが、それは、アテネのリーダーシップの働きの説明を、ヴェーバーが強調した「神秘的な『信仰』」の中にではなく、「プログラムと政治の分野の中に」捜し出している。フィンリーは、ヴェーバーとギリシア都市国家の論文を、「一般にギリシアのポリス、とりわけアテネを不合理として片付けてしまうことは、理解を進めることができない」と主張することで締めくくっている。(注 50)

 確かに、フィンリーがアテネのリーダーシップの純粋なカリスマ的見解を、単純化しすぎて誤解を招くとして非難しているのは、また卑しい感情へのデマゴーゴスの訴えについての古代の批評家を、過度に強調しすぎていると指摘しているのは正しい。しかし、フィンリー自身は、反対方向に行き過ぎているように思われる。彼は民主主義の批評家の正体を暴くことに熱心のあまり、聴衆への弁論家の訴えの性質を過度に合理的に説明している。もし、優れたプログラムと堅実な政策がアテネでリーダーシップの地位を達成するのに十分であったなら、デモステネスと他のレートールは彼ら自身とデーモスの時間を、レトリックのスタイルを完成させることや、実質的な提案の議論が主ではなかった高度に精巧に作られた演説を行ったり、書いたりすることに費やした多くの時間と労力を浪費したことになる。弁論家の全集を注意深く読めば、アテネの政治家の成功は、純粋に道具的としてのアプローチに基づいていたという考えを支持しないだろう。むしろ、ヴェーバーのカリスマ的感情論主義とフィンリーの機械的合理主義の間の中間の場所を探すべきである。そして、その中間の場所は、私がイデオロギーとして記述した(第一章 D)中に求められるであろう。成功した弁論家は、実行可能な政策や自らの政策の弁護を、または政敵の政策への批判を提供する際に、一貫して途切れることなく、大衆のイデオロギーから引き出された考えと道徳的信念かつ実用主義とを兼ね備えることができた人であった。民会または法廷でのアテネの投票者は、卑しい感情に対する見え透いた訴えに対して予測可能で単純な方法で反応しなかった。彼は論理学者でも、あるいは純粋に実際的な政治評論家でもなかったので、純粋に利益についての合理的な計算を基に選択肢を評価および判断した。

 アテネ市民が民会議場や法廷に入った時に、彼は国家の法律や慣習への義務や、自分自身とアテネの現在かつ未来の利益に対する決定の重要性に気づいていたことは疑いない。しかし、彼は入り口でイデオロギーの固定観念をチェックしなかったし、できなかった。陪審員として彼は次のように誓った。「私は原告と被告の両方を公平に聴きます。そして、厳密に事件に関連する証拠に基づいて投票します」。(注51 )しかし、現存する弁論が何らかの手引きであるなら、彼は関連を非常に広く解釈し、市民としての演説者あるいは訴訟当事者の一般的印象を排除することを決して考えなかった。投票具を投入する時または、挙手採決をする時がやって来た時に、市民投票者は可能な限りどちらかの側の議論のメリットを評価したが、彼の判断は法律と国家の利益かつイデオロギーの前提の両方と、それらの議論を比較検討することを含んでいた。弁論家は、十分に聴衆の心の中の現実主義の、信条の、そしてイデオロギーの相互作用に気づいていて、それに応じて演説を作成した(アリストテレス『弁論術』 1354b4-11, 1375a27-31)。しかしながら,アテネの弁論のイデオロギーの内容は、必ずしも演説者側のシニカルな打算の作品と解釈されるべきではない。個人的な性格や法的かつ道徳的信念と、政治的イデオロギーの間の境界線は、『弁論術』でのアリストテレスにはかなり興味があったけれども、4世紀アテネのほとんどの演説者または、聴衆にとっては特に明確ではなかったと思われる。(注 52)この明確さの欠如は、少なくとも部分的には、4世紀アテネに生じた政治的役割分化が比較的低いレベルが原因であった。

D3. 政治家と役割分化

 ニクラス・ルーマンは、一連の重要な論文の中で、現代の産業社会の重要な社会学的および政治的な現実の一つは、非常に高度なレベルでの役割分化であると論じている。従って、政府で政治的役割を実行している間に企てられた現代の政治家の行動は、彼が個人として行動していると認識された時に用いられたものとは異なった基準で判断された。それゆえに、現代の政治家の政治的および社会的役割は、彼自身の心の中と、社会の他のメンバーの心の中で区別されている。当然の帰結として、ルーマンは、単純な社会においては、分化は非常に低いレベルであり、それゆえ、政治指導者は普通の社会的価値によって判断されたであろうと示唆している。つまり、指導者としての彼の役割は、市民としての役割からは区別されなかった。(注53 )アテネが単純な社会でなかったことは確かであったし、弁論家によって強調されたイディオータイとレートールの間の区別は、実際に何らかの役割分化が存在したこと、そしてそれが機能上重要であったことを示唆している。(注54 )しかしながら、アテネの政治的役割が,現代社会によくあったケースに比べて、普通の市民の役割から区別されないという認識は、個人の性格及び提案者の行動と政策提案を、不道徳な行為と法的な過失とを、または大衆のイデオロギーと抽象的な政治的信条とを区別する際に、アテネ人によって示された比較的関心のなさを説明するのに役に立つ。

 デーモスは、政治家の政策を少なくとも、一部は性格や市民としての価値を参照して判断した。ゆえに、政治家が政策提案をデーモスによって共感を持って歓迎されることを期待したならば、デーモスに自らの個人的価値を示すのが彼の責任であった。もし彼が、敵対者の性格に対するデーモスの信用を密かに傷つけることができたなら、彼はさらに相手の政策のイニシアティブを弱めることができた。修辞マニュアルと現存の弁論の両方が、性格の弁護と性格の名誉毀損に置いた強調の度合いが、読者を当惑させた。というのは、彼らは 4世紀のアテネにふさわしかった以上に、公的生活と私的生活の間の役割分化の度合いがもっと大きいと予期するようになっていたからである。(注55 )しかし、性格に対する名誉毀損は、比較的等質のアテネ人にとっては、完全に自然で全く正しいように思われた。確かに限度はあって、目下の(法的あるいは政策の)実質的な問題の議論を排除して完全に性格に集中することは、聴衆の気持ちを遠ざけるかも知れない。しかし、ドキマシアー・レートローンのプロセスは、とりわけ性格と政策の間の関係の密接なつながりを認識していた。ティマルコスへの告発で、アイスキネス(1.30)は、その手続きの由来を、「私的な生活(イディアイ)で悪党(ポネーロス)である者が、公的な生活(デーモシアイ)で優れた人物(クレーストス)ではありえない。」という立法家の確信にあるとしている。その演説の後半で、アイスキネス(1.179)は、次のようにコメントしている。法律は力を失っていて、民主主義は崩壊してしまった。というのは、「あなた方(陪審員)は、時々、立派な生活に支えられていない(アネウ・クレーストウー・ビウー)単なる演説(ロゴス)を思慮なく受け入れていた」からである。立派な政治的行動のためには立派な性格が必要であるという強調は、実際、当然のこととして政治家の生活全体に対して、公の監視を快く受け入れることにつながった。アテネの専門の政治家にとっては、政治はフルタイムの職業であった。それはレトッリクの技術を完成させるのに費やす時間や,法廷で引き受けた危険性という理由だけではなく、すべての活動が公共財産であり、一般的な道徳の基準に照らして判断されるという理由からである。家族や初期のキャリア、そして個人的な関係すべてが、政治家にとって法廷や民会で重要であり、あるいは不利な要因となったであろう。

E. 討論とコミュニケーションの公共のフォーラム

 アテネの公共生活のフォーラムは、そこでは一人一人のアテネ人が集まり、コミュニケーションをとり、審判をし、仲間により審判されるかもしれない場所であった。こうしたフォーラムは、民会、裁判所、評議会議場、アゴラ、そして劇場を含んだ。法廷と民会の演説は、大量のレトリックの全集を生み出したが、他の公共のフォーラムの演説も同様に考慮に入れられなければならない。一般的に、大衆とエリートの間のコミュニケーションの政治的重要性についての意見をまとめるためには、それぞれの公共空間のコミュニケーションの性格を理解しようとしなければならない。そして、これには各フォーラムの政治的機能や、聴衆の社会的構成、メッセージの送信者と受信者の両方の行動を律する規則と手続きに関するある程度の基礎知識が不可欠である。最初にアテネの経済的および地理的人口統計と4世紀のアテネの生活費を簡潔に考察しなければならない。これらは大衆である聴衆の構成についての評価において、重要な不確定要素となるであろう。

E1 人口統計と生計

 最も基本的に必要な人口統計データは、もちろん、アッティカの総人口の規模とアテネ市民の数である。残念ながら、どちらも簡単には決定できない。4世紀のアテネの人口統計には、多くの関心が集まっているが、それらは市民団の規模に関心が集中していた。しかし、今までのところ、コンセンサスはなく、同じ限られたデータを用いている学者らは、むしろ異なった解答を見いだしている。しかしながら、4世紀の大体のアテネの市民人口に関しては、2万人から3万人の範囲であったと(恐らく、ペロポネソス戦争直後の10年間には、いくらかより少なかっただろうが)、そしてアッティカの総人口は15万人から25万人の範囲であったと想定しても、それほど大きくは間違ってはいないであろう。(注56 )現在の目的にとっては、例え理論上は可能であっても、それ以上の精度は実のところ必要ではない。とにかく、市民人口はたぶん総人口の約15%から20%以上では決してなかったし,または成年男子人口の半分以上ではなかった。しかし、上記(第一章 A; 第二章F.1を参照)で述べたように、古代民主主義の本質を理解するためには、そのパーセンテージは、完全な政治参加のための財産資格のないことに比べれば重要ではない。

 アテネの富裕なエリートの相対的な規模についても、同様に学者の間には合意は存在していない。私は正しいと思うが、J. K. デーヴィスは、アテネの最も裕福な市民を公共奉仕の財政負担義務階級と定義し、公共奉仕負担者の財産の最も最小限の規模を3タラントンから4タラントン(18,000ドラクマから24,000ドラクマ)と特定した。私は同様に、4世紀には約300人から400人の公共奉仕負担者がいた、という彼の見解を受け入れる。(注57 )再度、私の考えでは正しいと思うが、デーヴィスはまた、「家族を余暇階級と評価するには、約1タラントン(6000ドラクマ)の財産が必要であり、総計約1,200人から2,000人の市民(家族では多分総計4,800人から8000人)が余暇階級であり、余暇階級の市民が時折、戦時の臨時税(エイスポラーを支払った人々であった」と提案している。(注 58)余暇階級の規模に関して、他の学者によって示唆されたかなり高い数字は、奴隷人口の規模と分布(第一章 C.4を見よ)、投資に対する推定の収益率、家族の財産の維持費と生計費などの誤った概念に基づいているように思われる。(注 59)

 それゆえ、余暇階級の市民は、市民人口のおよそ5%から10%の範囲を構成していた。他の90%から95%の市民は、少なくとも全時間の一部は自らの生計のため、また、家族を養うために働かねばならなかったであろう。(注 60)こうした労働に従事する市民のうち、多分総計7,000人から8,000人は、約2.000ドラクマあるいはそれ以上にのぼる財産を所有しており、それゆえ重装歩兵身分であった。これらの「中流」の市民の多くは、農場の生産物から自分自身と家族を養うことが出来た自給自足の農民であったろう。(注61 )市民の残りの住民は、もっと貧しい自給自足の農民が含まれていたであろうー彼らの中には、農業生産を賃金労働または生産物取り引きからの別の収入で補充しなければならない者もいたであろうー、そして、都市の住民は、小さな店や家内労働の工場を所有していたかもしれないし、または、雇われ人として働いていたかもしれない。労働賃金は、4世紀には一日にあたり1ドラクマから2.5ドラクマの間の範囲内であったと思われるが、これらの数字の意味は議論の余地がある。(注62 )経済階層の最下層は、真の貧困者であり、不動産を持たない恐らく働くことができない市民であった。少なくとも、こうした人たちの内の何人かは、国家の直接の支援を受けた。(注63 )

 また、かいつまんで、住民の地理上の分布も考察しなければならない。評議会議員の定数を用いることで、クレイステネスが区(デーモス)のシステムを制定した当時の、508/7年の市民の地理上の分布について、かなり良いアイデアが手に入るかもしれない。しかし、区のメンバーシップは世襲であったので、これらの定数は4世紀の実際の人口分布については、望み通りには教えてくれない。ロビン・オズボーンは、評議会議員の定数から、アテネ人の約39%が、都市〔アテネ〕から24キロメートル(15マイル)以上離れて暮らしていたと計算した。この距離は、徒歩で各道程4時間、ゆっくりの牛の荷車ならもっとかかった小旅行であったろう。従って、真夏でさえ、市民はこの距離を一日で往復することはほとんどありえなかったであろう。(注64 )おそらく、クレイステネスの時代以来、田舎の区のメンバーの一部は都市へ移動した者もいたであろうが、トゥキュディデス(『歴史』2.16.1)によれば、ペロポネソス戦争以前から、アテネの大多数は田舎に住んでいた。これが、おそらく4世紀でもなお実情であったろう。(注65 )思うに、市民のかなりの多くは、当時、依然として一泊の滞在の計画をしないで都市を訪れるには不便なほど、都市から遙かに遠く離れたところに住んでいた。

 4世紀アテネの平均生活費を計算しようとする試みには、特に、アテネ経済の多くが自給自足的な生活、物々交換、交換のレベルであると仮定するならば、多くの不確定要素がある。(注66 )住宅は、確かに貸間を借りねばならない貧しい都市の市民にとっては重要な要素であったが、全く自分の家を持っている田舎の住人にはそうではなかった。アカルナイの北の炭焼き作りの地方に住む市民にとっては、どちらかと言えば、燃料にはそれほど費用はかからなかったであろう。都市では燃料は高価であったかもしれない。(注 67)おそらく、羊を所有して家内が織り手である田舎の市民と、アゴラで同じ品目を購入した市民の年間の衣服の費用はかなり差があった。明確に出来る不確定要素の一つは、穀物の費用である。穀物は、ほとんどのアテネ人のカロリーとタンパク質両方の基本的源であった。小麦(1メディムノス〔訳注15 〕につき6ドラクマ)と大麦(1メディムノスにつき3ドラクマ)両方の費用は、5世紀と4世紀のアテネでは、かなり安定していた。生活最低限の食物についての現代の統計学は、4人家族で最低限の生活を獲得するためには,一年間に約小麦23メディムノス、あるいは大麦28メディムノス最低限消費する必要があるだろうと示唆している。従って、家族の必要最低限の食料物資のための固定した最低限の年間費用は、安い大麦が貧しい人のほとんどの共通の食料とすれば、約80から90ドラクマであったー家族が大量に購入できたと仮定して。一日あたりの費用は約1/4ドラクマあるいは、2オボロス未満であったであろう。(注 68)

E.2 民会(エックレーシア

 4世紀後半には、民会の集会は通常プリュタネイア〔訳注16 〕ごとに4回開かれた。従って、毎年全部で40回開かれた(『アテナイ人の国制』43.3)。355年から346年頃には、集会の固定数は毎年30回であったかもしれない。以前は、緊急事態に対処するために必要とするだけの集会が招集されたが、プリュタネイアごとに1回の集会だけが義務づけられていた可能性がある。(注69 )集会は一般にプニュックス〔訳注17〕で開かれ、そこでは劇場のようなエリアが作られて、もっぱら民会の集会のために使用された。しかしながら、民会は別の場所、特にディオニュソス劇場でも開かれた(『アテナイ人の国制』42.4)。4世紀のプニュックス(第Ⅱ期)は、約6,000人から8.000人の人数が難なく収容可能であり、ハンセンは、4世紀には、平均的な集会は6,000人かまたはそれ以上の出席者がいたであろうと、そして私は可能性は低いと思うが、入場は最初に到着した6,000人の市民に制限された可能性があると主張している。(注70 )従って、特定の民会に出席した人々は、多分、市民の総人口の1/5と2/5の間に相当したーもし、集会の頻度を考慮に入れれば、極めて高い出席者数である。(注 71)座席の配置は、部族に応じて、また(少なくとも5世紀には)トリュットスごとであったかもしれなかった。346/5年のノモス〔法律〕は(アイスキネス1.33;上記、第三章 B.2)各部族のメンバーに、輪番で民会の集会で秩序を維持することを要求している。そして、これらの者は,演壇のそばの聴衆席の前列を占めていたのかもしれなかった。そのことを除けば、特権を与えられた席順はなかった。座席は平等主義であって、貧乏人も富裕者も、エリートも平民も、社会的に等質の大衆として一緒に席に着いた(テオプラストス『人さまざま』26を参照)。集会へのアクセスは入場口で管理された。(注 72)これは出席した市民への支払いを容易にした。まず、最初390年代の終わりまでに、少なくとも民会にやって来た数千人の市民が3オボロスの手当を受け取った。そして、320年代までには、通常の集会の民会出席手当は1ドラクマに、年10回の主要民会は11/2ドラクマに値上がりしていた。(注73 )

 民会は早朝に始まり、神々への祈りで開始された。それから、民会の議長(ブーレウタイ〔評議員〕の間から抽籤で選ばれた)が、評議会によって設定された議事日程に従って討議事項を提出した。もし、評議会議員がその問題について、勧告を策定していたなら、民会に対して提案という形で読まれたであろう。議長は、それから(伝令を通して)、「アテネ人のうち誰かアドバイスはありますか」と尋ねただろう。審議(もしあれば)の後、議長は投票を実施した。通常、投票は挙手採決によって行われたが、非常事態には無記名投票が行われた。(注74 )その法案が可決したなら、それは決議(プセーピスマ)になったが、それは首尾よく民衆裁判所で提案者への有罪判決(グラペー・パラノモーン〔違法提案告発〕で、上記、第二章 Gを見よ)を通して、既成のノモイ〔法律〕に抵触しているとして異議を申し立てられない限りであり、またそれまで法律の効力を有した。少なくとも、350年代の中頃までは、民会は重要な国家への犯罪(エイサンゲリア)の告発を審理するための陪審として開かれたかもしれなかったが、これは非常にまれであったように思われる。民会が審理した裁判のために保存された弁論(リュシアス28)は、一つだけであった。(注75 )ハンセンは、通常の集会は日中の約半分くらい続いただろうと説得力をもって主張している。(注76 )

 民会は、国家の政策を決定する特別な義務と意図を持って、共に集まったアテネ市民団を代表した。資格を有する正式な市民なら誰でも、民会に出席することが可能で、投票は出席している他の各市民の投票と同等であった。民会出席者は、ホ・デーモス〔民衆〕と呼びかけられる可能性があったし、しばしばそう呼びかけられたー彼らは、抽象的な意味において、アテネ人であった。つまり、彼らの決定は、アテネの国家の決定であった。(注77 )民会出席者は、選挙区やまたは特別な利益集団の代表ではなかった。彼は自らが最善と思ったことを、自らのイデオロギーの前提に従って、また国家と自分自身の最善の利益でもって投票した。意志決定の手続きが直接なので、民会の社会構成についてできる限りのことを決定することが重要になる。もし、民会の社会的構成が、概して、著しく市民団体全体の社会構成と異なっているなら、このことは、民会で政治家によってなされた議論の性質についての、及び民主主義全体の意志決定システムについての解釈にかなりの影響を与えるであろう。(注78 )

 学者の中には、民会の集会に出席した市民のほとんどがかなりの裕福か、あるいは少なくとも推測に基づく「中流階級」のメンバーであったと仮定している者もいる。(注 79)しかし、もし上記(第三章 E.1)で提案した人口統計学の分析が、いくらかでも正解に近いのならば、2,000人以上の余暇階級はいなかったし、確かに彼らのすべてが、ある特定の集会に出席したわけではなかったので、余暇階級が数の上で支配している民会はなかったであろう。そして、平均的な民会の出席者数を、6,000人あるいはそれ以上と仮定するならば、出席者の内4,000人または,大部分は生活のために働かなければならなかったアテネ人であったと想定しなければならない。アテネの神話的な「中流階級」は、すでに上記(第一章 C.5.)で論じている。しかし、少なくとも、国家の補償が賃金に代わるには不十分で家族を養うには少なすぎたという理由で、多くの貧しいアテネ人が、民会から(また陪審法廷から)締め出されたという議論を検討しなければならない。M. M. マークルは、富裕者が民会または陪審のいずれかを支配したという考えに精力的に異議を唱えた論文の中で、平均4人家族を一日に3オボロス未満で養うことができたということを明らかにしようとした。(注80 )マークルの総生活費の数字は、いくらか少ないかも知れないが、貧しい人々が民会に出席できなかったという考えを反証するために、家族全員が民会手当によって扶養できたということを論証する必要はない。第一に、必ずしも男性の「世帯主」が、収入を生みだすことができた労働階級の家族の唯一のメンバーであったと仮定する必要はない。多くの証拠は、余暇階級ではないアテネの女性が、生産的な労働に従事していたこと、そしてある程度成長した子供が遊んでいたと仮定する理由はないということを示唆している。(注81 )従って、トリオーボロン〔3オボロス〕が、それだけで一日の家族を養うに十分であったことを証明する必要はない。第二に、集会はどうやら半日だけ続いたので、その日の残りの時間は賃金を稼ぐ活動のために自由であった。少なくとも、都市の住民は、午前中民会に出席し、そしてその日の残りは定期的な仕事をするのをあてにできたであろう。

 民会出席手当と労働賃金を同等とみなすことは、いくぶん誤解を招きやすい。アテネ人は、他の個人によって支払われた賃金のために働く市民の妥当性について、相反する感情(アンビバレント)を持っていたーその行為は奴隷と主人の関係が感じられた。たとえ市民が望むときにいつでも仕事が見つけられると仮定しても、選択肢が与えられたなら、個人によって提供された高賃金よりか、市民としてふさわしい義務を行使するための国家からの少ない手当を選ぶかも知れない。そして、この最後の点は必ずしも憶測ではなかった。(注82 )市民の最も貧しい人々―老人、障害者、不運な人、そして未熟練者―は、他では得ることのできないお金を受け取るために、おそらく定期的に民会に出席したであろう。これは、次のデモステネスのコメント(24.123)の要点であった。「アテネ人は高潔であった。というのは、あなた方は、民会に出席したり、あるいは陪審員をつとめた市民権を奪われた市民に対して、『あなた方[陪審員]は、ある人がこうしたことをするのは貧困(ペ二ア)のゆえだからこそと知っていた』けれども、厳しい罰則を規定した法律を持ち続けた」。

 また、国家の支払いを賃金と同価値のものとして論ずる議論は、田舎の状況にはうまく通用しない。なぜなら、農業は季節ごとの活動であり、一年のある時期には(特に、収穫期と播種期の間の夏)、田舎の市民の農場での仕事は、望む時に町に旅行することを可能にする1年のうちのいくつかの期間があった。1年の農業のもっとも多忙な時期でさえ、田舎の市民は恐らく連続して2.3日村を離れることが可能であったろう。実際、彼は多分、町で用事を済ませるためにそうしなければならなかったであろう(ここには、地元で手に入れることの出来ない品物の購入資金のために、季節の生産物を売却することも含まれていたかも知れなかった)。さらに、彼は民会の集会後の半日の自由時間を計画を立てることができたので、市民の仕事と私的な仕事を組み合わせることができたであろう。つまり、民会出席は、どのみち彼が行おうとしていた旅行に補助金を与える足しになったであろう。自給自足の農民は、家族を養うのに労賃には頼っていなかった。一晩滞在して、町で泊めてくれる親戚や友人を持っていなかった場合、彼は都市にいる間食事を取り、宿泊費を支払うに十分な給料だけが必要であったろう。(注 83)後に残っていた家族のメンバーは、農園の生産物によって扶養された。

 いかなる民会の集会でも、市民のどれくらいのパーセンテージが、田舎の居住者であったかを決定することが出来ないのは言うまでもないが、農民がかなり出席したことはありそうである。『女の議会』(280-81)で、アリストパネスは、町の人々が自分の民会手当を受け取る見込みを脅かすほどの十分な大人数で、田園から(エク・トーン・アグローン)プニュックスにやって来ている「民会出席婦人」(夫を装って)に言及している。(注84 )たとえ平均的にアッティカの農夫が、ほんの年4回の内1回民会に出席した(それは、もっぱら毎年10回の町への旅行が必要であるし、または、もっと遠い区の住民にとっては、家から20日ほど離れることが必要であった)と仮定したとしても、それでもやはり、田舎の住民が非常にかなりの数で民会に出席したであろうと推測できるかもしれない。田舎の住民の地理的な「不利」は、少なくともある程度は、定期的な都市の雇用形態での時間のための競争がないことでバランスが取れていた。(注 85)

 民会の個々の集会での人口構成は、おそらく公表された議題や、その年の季節、そして経済状況を含むが、決してこれらに限定されないさまざまな要素によって、おそらく異なるであろう。全体的に見て、余暇階級の市民よりももっと多くの労働者が出席したであろう。もしかすると、田舎の人々がある集会では比較的少なかったかもしれないが、田舎の著しい代表不足が、標準であったことを証明することはできず、また先験的(アプリオリ)に仮定する必要もない。非常に裕福な者は、あり余る余暇のために、また非常に貧しい人々は、必要のためにやや不釣り合いに多く含まれていたかもしれなかった。しかし、民会がアテネ市民団全体の社会構成を全く代表していなかった、ということを示唆するような証拠はない。民会で下された決議は、すべてのアテネ人に直接に影響を与えた。つまり、特定可能な社会的下位集団(サブグループ)のメンバーが、組織的に集会を避けたと想定する理由はない。実際、民会で下された決議の重要性と、民会に関するエリート作家の一般的な軽蔑の両方、さらにその意志決定の方法が、プニュックスに座っているデーモスが、人口統計上「想像上の」デーモスー誰も決して招集されたのを見たことはないが、一般的なイデオロギーとエリートの政治理論のレベルで存在していたデーモス、つまり全市民団―と非常に類似していたことを示唆している。(注86)

アテネの民会で演説をする仕事は、訓練を受けた弁論家にとってさえも悲観的な見通しであったに違いなかった。聴衆は大人数であり、そのために演説者は太くて大きな声が不可欠であった(アリストテレス『弁論術』 1414a16-17)。『弁論術』(1358b6-10)において、アリストテレスは審議弁論(ト・シュンブーレウティコン)を、それは民会と評議会の弁論を含むのだが、弁論術の主要な三類型〔訳注18 〕の一つと見なしている。彼は『弁論術』(1418a21-29)で、次のように述べている。「審議弁論は法廷弁論よりはるかに難しい。というのは過去より未来を扱うので、また、余談や自分自身について、または敵についてコメントする機会があまり許されていないから」。デモステネスが気づいていたように、デーモスはいらいらさせられたり、あるいは時間を浪費する演説家を、やじり倒すことになんらためらいを感じなかった(アリストテレス『弁論術』1355a2-3を参照)。政敵は聴衆が退屈になってきたと気づいたならば、すぐに口を差し挟むであろう。デモステネス(19.23-24,46)は、346年の重要な会議中に、どのようにしてアイスキネスとピロクラテスが、彼をあざけるために傍に陣取っていたかを、幾分苦々しさとともに思い出させている。さらに悪いことに、民会出席者は演説者の気の利いた言葉(辛らつな言葉)に楽しみを見いだしていた。この種の行為が、346/5年の「綱紀粛正」のノモス(上記、第三章 B.2)に帰着したのかもしれなかったが、ヒュペレイデス(5.12)は、322年の演説で、演説者をじゃまするために騒動を引き起こす専門家であった「二流のレートール」を雇い入れることがなおも可能であったことを主張している。民会で行われた4世紀の現存する演説はわずか17だけで、3つを除いてすべて355年から338年の間のものである。審議演説が法廷演説より頻繁に出版されなかったことは明白である(上記、第一章 E)。(注87)
 

E3 評議会(ブーレー)とアレオパゴス評議会

 五百人評議会での演説は、アテネの審議弁論の第二の主要部門を構成した。民会のための権限付与機関としての評議会の重要性にもかかわらず(第二章 E. 2を見よ)、わずかに5つの評議会演説しか保存されておらず、いずれの場合にも、演説は政策提案というよりかむしろ法的申立の形である。民会演説と同じく、政策についての評議会の演説は滅多に(あるとしても)出版されなかったのは明らかである。しかしながら、評議員(ブーレウタイ)はプロブーレウマタ〔予備審議案〕の準備をしている時に、彼らの前で話すことを個人に要請することができたことや、民会や民衆裁判所で有名であった専門の政治家が評議会の任期を務めたことはよく知られている。(注88)弁論での技術は、多分議題とプロブーレウマタの評議会の決定に影響力を及ぼすことを望んだ評議員にとっては有利であった。343/2年後半、評議会はデーモスにその年の最高の弁論家を顕彰することを要請した。(注89)

評議会は、アゴラの特別な建物(ブーレウテーリオン)で、一年の内60日の公的な祭日と不特定の吉兆の悪い幾つかの日を除いて毎日開かれた。320年代にはすでに、評議員は出席した一日につき5オボロスを受け取った。ただし部族が1年の内の10分の1の期間であるプリュタネイアには1ドラクマを受け取った。評議会の平均的な会議がどれくらいの時間続いたのか、あるいは定期的にブーレウタイがどれくらいの割合で出席したのかは不明である。ただ30歳以上の市民だけが就任資格があった。(注90)
 
 アリストテレス(『政治学』1299b30-38)は、民会への議題を準備するための予備審議団体の現実的必要性に言及し、その構成は国制の性格に大きな影響を及ぼすことがあると述べている。アテネの評議会の社会構成については、今まで多くの論争が行われてきた。1906年にズントヴァルは、既知のブーレウタイのプロソポグラフィーの分析をもとに、富裕な市民が優勢を占めていたと主張したが、デーヴィスは,ズントヴァルの富裕者の身分を決定する基準が誤っており、それゆえ彼の結論は疑わしいと論証した。(注91)今なお、積極的な証拠もないにも関わらず、富裕者の評議会の支配が,なお当然のことと仮定されている。(注92)このことは人口統計学的理由からだけでもありそうにない。市民は法律上二度だけ評議員を務めることができ、多くの市民が一任期以上務めたと信じる理由はほとんどない。500人の評議員は毎年必要であったから、市民人口の大部分が任期を務めたに違いない。とにかく、学者の推定範囲は、ゴンムは少なくとも市民の四分の一から三分の一が評議員を務めたと推測し、ウッドヘッドは半分以下、オズボーンは約70%と推量し、ルッシェンブッシュとハンセンに至っては、ほとんどすべての市民が務めねばならなかったであろうと提起している。(注93)

 もし、ほとんどすべての市民が評議員を務めたという高い評価が正しければ、富裕な評議員以外のすべての市民が、義務に対してまったく怠慢であったと仮定しない限りは、富裕なエリートが数に関して優勢であったという問題は論じても無意味である。しかし、たとえわずかに市民の三分の一が評議員を務めたとしても、仕事を持つ市民が優勢を占めていたに違いなかった。確かに、多少の農民や多少の都市の市民ーもっと良い収入を得ることができたり、また公共心による重荷がなくなった人々―は、抽籤で評議会員に選ばれた時に、評議会の仕事を忌避したり、または定期的に出席するのを怠ったりする者もいたかもしれない。しかし、その一方で、経済的に恵まれていない市民は、その役職は他では手に入れられない一年間の定期雇用を提供してくれるので、その仕事に熱心であったろうと推測できる。農民や「中流」の市民が、通常の会合で多少比率的に少なかったかもしれないけれども、P. J. ローズが、評議会は「公平に政治問題に関心の高い市民の代表者」であったと示唆しているのは正しいに違いない。そして、私は市民の総人口の大多数が、このカテゴリーに属するに違いないと思う。(注94)

 市民が評議会で演説した時は、民会でよりかもっと少ない聴衆に向けて演説をしていた。しかし、18歳から30歳までの人々がいないことを別にすれば、その評議会の少数集団の社会構成は、おそらく民会の多数集団のそれと大きく異なることはなかったであろう。さらに、ブーレウタイも弁論家も分かっていたように、評議会は民会に奉仕するために存在して、デーモスによって監視されていた。リュシアスの依頼人(26.12-14)は、彼が次のように評議員に尋ねた時、このことを非常に明確にした。「あなた方評議員は、もし、あなた方がこの寡頭主義者を無罪にしたなら、市民大衆(ト・プレートス)の態度はどうなると思いますか?あなた方[ブーレウタイ]は、ここでポリス全体の前で公判中であるということを忘れないでください」。

 アレオパゴス評議会は、特定の部類の殺人事件を審理し、いくつかの政治問題を含む(344/3年以後)他の活動を調査した。しかし、アレオパゴス評議会で行われた演説は3つしか保存されておらず、すべて4世紀の初期のものである。法律上は、ゼウギータイ〔農民級〕の身分とそれ以上の市民だけがアレオパゴス評議会を務めるのを許されたが、この規定は、明らかに広く無視されていたようである。概して、アレオパゴス評議会で行われた演説の社会政治的状況は、恐らく、他のアテネの法廷と根本的に異なることはなかったであろう。そのことについては、ここでより詳細に検討することができるかもしれない。(注95)

E4 民衆裁判所(ディカステーリア

 民衆裁判所は、毎年150日から200日も開かれたが、エリートの一般市民にとっても政治家にとっても極めて重要な公的な討論の場を提供した。(注 96)被告として、市民は、一般的に自分の行動を弁護することを求められたかも知れない。また、政治家は、政策や民会で支持した提案を正当化することを期待されたかも知れない。告発者として、市民は敵対者の人格や行動を攻撃することが可能であった。つまり、彼らが政敵であったならば、政策の効力を弱めることができたであろう。上記で詳述したように(第三章 B.2)、裁判訴訟は公訴(グラパイエイサンゲリアイ、そして他に何か特別な訴訟)と私訴(ディカイ)に分けられるかも知れない。前者は,しばしば、専門の政治家または将軍が主役として取り上げられ、告発者には必然的に深刻な財政的リスクを伴った。そして、通例、裁判には丸1日かかった。後者の種類の裁判は、普通は2、3時間だけ続いたが、一般的にイディオータイの問題にかかわった。公訴に巻き込まれた専門の政治家は、しばしば自分で演説を書いたと想像できるが、私訴に巻き込まれた裕福な訴訟者は、通例法廷弁論作家(ロゴフラファー)に仕事を頼んだであろう。しかしながら、すべての訴訟において、告発者と被告は、内容ではないが長さが厳密に制限された準備された演説を用いて、大勢の陪審団の前で自ら自分の言い分を主張した。(注97 )

 希望する30歳以上の市民は、陪審員候補の年次リストに自分自身を登録することができた。5世紀のリストには通常約6,000人の名前があり、一見したところ4世紀のリストも同様の長さのようであった。所定の日に聴聞される訴訟の陪審員は、当人がその日の朝に出頭したリストに載っている人々から選ばれた。複雑な選出手続きは、すべての陪審員候補が、法廷に割り当てられる平等な機会を持つことを、そして、十部族すべてからの個人が、それぞれの陪審団を代表することを保証した。陪審員は、1日の仕事の手当として3オボロスを受け取ったが、その金額は5世紀の終わり頃から、4世紀の後半まで変わらないままであった。普通の陪審は、私訟は200人あるいは公訟は500人から成っていたかもしれないが、時折、特に重要な訴訟に関しては、もっと多くの陪審員が陪審名簿から選ばれた。原告・被告両方の側からの主張が審理された後に、被告が有罪かまたは無罪かの投票が秘密投票で行われた。陪審員の間の正式な協議は行われず、法廷の判決は単純な多数決で決定された。(注 98)

  陪審員の社会構成については、今までいくつかの論争がなされている。(注99)陪審員は主に富裕者からなっていたと論ずる学者は、いくつかの演説の中には、訴訟者が裕福な人である聴衆に演説をしているのを暗示すると思われるコメントを行っていると指摘しているが(下記、第五章 D.2を見よ)、経済的地位についての誇張した発言は、必ずしも文字どおりの意味に受け取ることはできない。陪審員手当の妥当性の問題については、平均的家族のための基本的な1日の大麦の配給量は、2オボロス以下であっただろうし、貧しい世帯の他の家族のメンバーも、家族の総収入に貢献することが期待できたであろう(第三章 E.1,2を見よ)。こうした要素に照らせば、3オボロスは決して生活できないほどの低い手当ではない。確かに、320年代までに、陪審員手当は,通常の民会手当の半分であり、また公的な裁判訴訟は、平均的な民会の集会より長く続いたかもしれない。しかしながら、この手当の規模の相違は、裁判所と民会の手当を労賃と同一視する場合にのみ問題であるように思える。むしろ、国家の手当が、参加者に最低限の生活の糧の食料を与えることを意味していたと仮定するなら、3オボロスは,穀物の価格の安定性を考えると、疑いなく320年代にその意図した機能を果たしていた。320年代の頃には民会手当の増額は、物価のインフレの調整でも、義務の行使に非協力的な市民を引きつける手段でもなくて、むしろ、国家の余剰歳入の再配分の手段であったかもしれない。アテネの歳入は320年代の頃には比較的高水準で、エックレーシアスティコン〔民会手当〕の増額(正確に年代付けることはできないが)は、国家政策を立案することに時間を費やしたアテネ人が、国家の繁栄から直接利益を得ることを可能にする最も公平な方法と考えられた。(注100)

 陪審員の社会構成の問題に向けることのできる直接の証拠がほとんどないことが、貧しい市民が陪審員の職に就いていたことや、彼らが陪審員の仕事として受け取った手当は彼らにとって重要であったことを示唆している。4世紀の初期に、リュシアス(27.1-2 参照イソクラテス20.15)は、陪審員に対して、被告であるエピクラテスは、以前は告発者であって「陪審員が裕福な被告を有罪にかけなければ、3オボロスの手当を受け取ることはできなくなる」という彼の主張を思い出すよう促している。リュシアスは、現在国庫には資金が欠乏していることを指摘し、この事実はエピクラテスが、この主張を用いることで得られた有罪判決から、国家が受け取るべきお金を横領したことを証明していると示唆している。アテネの陪審員が、実際に国家の財源を埋めることを期待して、有罪判決に投票するよう説得されようとされまいと(下記、第五章 A. 3)、ほとんどの陪審員にとって手当が手に入るかどうかの問題に関心がなかったなら、リュシアスの発言には意味がないであろう。

 デモステネスのコメント(上記、第三章 E.2で引用した23.123 参照21.182)―市民権を喪失した人の中には、貧しさゆえに手当目的で陪審員を務める者もいたという趣旨のコメントーは、4世紀の中頃には貧しい市民が陪審員を務めていたことを暗示している。348年に、デモステネス(3.34-35)は、市民が貧困(エンデイア)ゆえに恥ずべき(アイスクロン)状況に陥るのを防ぐために、国家による支払いの徴兵制を提案している。彼は自らの提案を、陪審手当の現行のシステムの点から説明している。つまり、それぞれの市民は軍隊、法廷、あるいは年齢に応じた必要がある他のどこででも務めることができるように、標準的な俸給を受け取ることになっていた。デモステネスの提案は、老齢の市民が特にディカスタイ〔陪審員〕として務めていた可能性があることを示唆しているかも知れないが、同様にそれは、手当は経済的に陪審員にとっては必要であると見なされていたことを示している。

 要約すれば、既知のアテネの陪審員は、社会構成において平均的民会や評議会と驚くほど異なっていた可能性があると想定する理由はほとんどない。多分、アリストパネスが『蜂』で5世紀後半には老齢者が陪審員を務めていたことを暗示しているように、老齢者がより頻繁に出席する傾向があったであろう。農民は、「都市」での限られた時間を民会で過ごす方を好んだかも知れない。なぜなら、民会決定は彼らにとってより重要であったか、手当がよかったという理由からである。しかし,法廷が開廷していたのは一年の内多くの日数があったので、そのことは農民に対して、時には民会に出席するよりか陪審員として務めたり、または,民会出席に付け加えたりするならば、町への旅行の計画に大きな融通性を与えたであろう。熟練した職人は、もっとお金になる仕事を見つけることができるので、陪審員よりも、民会で求めに応じられる「市民義務」の時間を過ごすことを好んだかも知れない。というのは、法廷では丸1日公訴のために席に座って動けなくなるかも知れないからである。また一方では、マークルが指摘しているように、法廷はしばしば民会よりも刺激的だった。(注101)レトリックの鑑定家にとっては―多くのアテネ市民は確かにそうであった(下記、第四章 Dを参照)―、デモステネスとアイスキネスのような人の間の弁論の勝負を判決する機会は、収入に損失があっても十分価値があったかもしれない。

 同様に、アテネの法廷の「主権」と民会との関係の問題を、簡潔に考察しなければならない(下記、第七章C参照)。アテネの陪審員の判決は、原則として最終的なものであり、有罪判決を受けた被告が上訴することができるより高い権威はなかった(例えば、デモステネス42.31)。この意味では、ディカステーリオン〔裁判所〕は主権と見なされるかもしれない。しかしながら、オズボーンが指摘しているように、ほとんどのアテネの陪審員の判決は、両方の当時者がその訴訟行為を辞めることに同意するまでは、実際は最終ではなかった。なぜなら、当初は不首尾に終わった訴訟者が、訴えることができる多種多様な法的措置があるためである。ある訴訟での告発者が、陪審員の無罪判決に満足できない場合、彼は同じ人物を同じ罪で、別の種類の訴訟を用いて、別の陪審員の前に訴えるかもしれなかった。同様に、有罪となった被告も、告発者の心を変えさせることで訴訟行為を伸ばすことができた。オズボーンは、訴訟の同じ配役による多様な再審は、アテネの法的手続きを、最終的に公的な見せ物と社会の不均衡を是正することを目的とした一種の「社会ドラマ」にしたと述べている。(注102)

 アテネの法律の「開かれた特性(オープンテクスチャー)」についてのオズボーンの主張は、大衆とエリートの関係の点から見た時に特に重要になる。エリートの訴訟者だけが,多様な再審を要求する時間的余裕があった可能性はある。しかし,エリートは最大限に社会的バランスを脅かしたので、一連の大衆陪審員の前に財政困難を公表することは特に有益であった。訴訟が頻繁に再審になればなるほど、ますますアテネ市民はそこで裁判員として活躍する機会をもつことになり、エリートと大衆のコミュニケーションの程度と複雑さもまたより大きくなった。アテネの法律は、この分析によれば、正式な法的基準に訴えることによって、個々の市民間の対立を解決することを目的としただけではなく、恐らく、もっと重要なことは、訴訟はエリート個人の活動や行動を判断する大衆の力を明確にした文脈の中で、アテネ人の間の継続的なコミュニケーションを保証した。

 「言説(ディスコース)としての法律」(S. C. ハンフリーの明確な表現の使用)〔訳注 19〕の文脈から眺めた時、民衆裁判所と民会の相対的「主権」を決定する問題は、さほど急を要する問題であるとは思えない。ハンセンが、裁判所と法律が、それに劣る民会の「直接の」主権に対して「究極的」主権であったと論じている際に、デーモスという語が、しばしば民会に用いられているのに対して陪審員のためには滅多に用いられていない、と指摘しているのは確かに正しい。(注103 )しかし、陪審員は、すべての市民の代わりに、そしてすべての市民を代表して行動した。ディナルコスは、デーモスとディカステーリオンの間の法的な区別を認識していたが(例えば、1.105, 3.16)、次のように記述している(1.84)。陪審員は、「民衆の代わりに集まって(ヒュペル・トゥ・デームー・シュネイレグメノーン)、ノモイとデーモスのプセーピスマタの両方に従うことを誓った人々」であった。(注104 )さらに、陪審員は実際、少なくとも間接的に、民会出席者自身を意味していると考えられた。従って、デモステネスは(例えば、19.224)、国家の政策の誤りに関して陪審員を非難することができたし、またヒュペレイデス(1.17)とリュシアス(19.14)は、「あなた方陪審員が」、どのように人をピュラルコイ〔訳註 20〕やヒッパルコイ〔訳註21 〕、また将軍に選出したかを論じることができた。もちろん、実際の選挙は民会で行われたのであるが。メディアス弾劾の演説において(21.214-16)、デモステネスは、デーモスがすでに民会での予審(プロボレー〔訳注22 〕)で、メディアスを起訴したことを陪審員に思い出させて、次のように主張している。「[民会において]犯罪があなた方の記憶の中で明白であった時には……、あなた方は私に釈放しないように叫んでいて、……しかるに、結局あなた方が、法廷で無罪にしたなら」それは恐ろしいことであろうと。アイスキネス(2.84)は、法廷にいるすべての陪審員が、デモステネスが(プロエドロス〔議長団の1人〕として:民会の各集会の議長を務めるために抽籤で選ばれた9人のブーレウタイの一人〔訳注23 〕)、決議案を投票にかけることを妨げようとしたが、「あなた方〔陪審員〕は、大声で叫び(ボオーントーン・デ・ヒュモーン)、演壇にプロエドロイを呼んで」、そうして強制的に決議案を投票にかけた民会を覚えていると確信していた。ディナルコス(1.86)は、陪審員のメンバーに、「民会において」デモステネスは、「あなた方」を証人にしたと述べている。ディナルコスは、別の所で(3.19)、有罪判決に投票することにより、陪審員は「民衆の大衆」(ト・トウー・デームー・プレートス)が腐敗してはいなかったことを証明するだろうとコメントしている。イサイオスの依頼人(5.38)は、陪審員に、告発者は「あなた方が民会で団結した時に、あなた方全員を」騙すことができるほど利口ではなかったと語っている。こうした発言は、かなりの法廷と民会の間の人々の重複があった(実際にあったのは、デモステネス21.193-194と22.10 ディナルコス3.1であるが)という事実では単純に説明できず、むしろ、それらは陪審員に選任された市民は、デーモスの代理として、またデーモスの利益を代表するものと見なされていたことを示唆している。

 訴訟者当事者は、しばしば、陪審員に大多数の市民の利益のために行動した責任を思い出させた。デモステネス(21.2)は、陪審員に、民会全体が満場一致でプロボレーでメディアスに反対票を投じたことを指摘している。また、その後の演説で(21.227)、陪審員に「デーモスが喜ぶこと」をするよう強く促している。ディナルコス(1.106)は、陪審員に、彼らーすべてのことに主人であった(キュリオイ・パントーン)―が、デーモスにふさわしいと思われていたことを、無視する役目を買って出るのかどうか尋ねた。陪審員は、彼らの判断が何であったかついて尋ねる仲間の市民にとっては、彼らの行動は大きな関心事であったことを記憶に留めるよう警告されるかもしれなかった(例えば、リュシアス 12.91と22.19)。ディナルコス(1.3 参照2.19)は、陪審員自身が、彼らが正しく決定したかどうかによって彼らを判断する他の市民の前で裁判を受けることを要求した。恐らくそれは脅迫的なものではないが、必ずしも効果が弱いものではなく、陪審員が市民によってきわめて重大な信頼を与えられており、またポリス全体の安全に責任があったことを思い出させるものであった。(注105 )法廷は,抽象的な法律用語では「主権」とみなされていたかもしれない。しかし,アテネ人は概してそうした抽象的な法律用語では考えないし、どうやらその法廷の権威は、法律を解釈するデーモスの役割と同様に、民衆の意志から由来すると見なされたようである。文学用語では,デーモスとディカステーリオンは提喩法(シュネクドキ)〔訳注24 〕の関係であった。つまり、一部分(ディカステーリオン)は,全体(デーモス)を表し、まれに民会が陪審として機能した場合には、全体が一部の役割を果たした。演説者が,民会または法廷で演説した時には、聴衆はアテネの人々の利益を代表していた。それぞれの場合、デーモス全般の社会構成を広く代表する大勢の聴衆が、演説者の審判を務めた。(注106 )

 審議弁論と法廷弁論との間には、かなりの類似点と相違点が存在した。最も重要な類似点は形式である。つまり、どちらの場合も、個人が演説して、そして大勢の聴衆によって判断された。さらに、訴訟当時者は、民会での演説者と同様、聴衆の関心を引き付けたいと思ったならば、見事なパフォーマンスを見せなければならなかった。もし、訴訟当時者が陪審員をいらいらさせたなら、彼は陪審員からやじり倒される目にあった。(注107 )しかし、訴訟当時者は、水時計の水が流れている間〔訳註25 〕は、陪審員の注目を引くために、相手との直接の争いについて心配する必要はなかった。恐らく、審議弁論と法廷弁論の最も顕著な相異点は、法廷は演説者に自分自身と相手について論じる大きな機会を与えた。それゆえ、個人的な性格(エートス)に基づいた議論を、より詳細に展開することができた。アリストテレス(『弁論術』1377b20-1391b6と1416a4-37)は、成功した法廷弁論のレトリックの要素として、自ら自身の性格を確立することの重要性と相手の性格を非難することの重要性を強調している。イディオーテースの場合、訴訟当時者に対する陪審員の印象は、全く彼自身と相手の道徳的な議論を通して形成されるかも知れない。つまり、訴訟の事実が何であれ、イディオーテースは、自分は陪審員の尊敬に値するような種類の人物で、相手はそうではないということを証明しなければならなかった。もし、法的な訴訟事実が証拠不十分な場合、唯一の希望はエートスに基づいた議論を通して陪審員の心を動かすことかもしれない。

 訴訟当時者としての政治家にとっては,状況はやや異なっていた。多くの陪審員は、すでに彼および政敵に対する見解を形成していたであろう。そして、その見解は、訴訟の結果にかなり関係があったかもしれないし、またどちらの側も色々とその見解を補強したり、弱めようとしたであろう。さらに、法廷への出廷は、政治家のキャリアに長期的な影響を及ぼした。法廷ドラマの重要性は、彼が単に勝訴したか敗訴したかの問題だけではなく、継続的な一連の法的争いの特定のラウンドであった。また、それぞれの法廷への出廷は、彼のイメージを高める機会でもあった。例え、彼が事実に基づくまたは法的な訴訟事実が証拠不十分で、そのラウンドに敗訴したとしても、彼はいくつかの政治的ポイントを獲得したかもしれなかった。彼の性格に好印象を受けた陪審員は、民会での彼の政策演説に熱心に耳を傾けることが期待されるかもしれない。もし、非常に感銘を受けた場合は、陪審員は友人に伝え、そして友人も彼らの友人に伝えるかも知れなかった。それゆえに、政治家にとって、陪審員の前へのあらゆる出廷は、法的な紛争という性質だけではなく、市民団全体の尊敬と是認を求める継続的な追求という性質もあった。

E.5 うわさ(ペーメー

 法廷での政治家の発言は、仲間の市民の心の中に自分自身の肯定的なイメージを作り出すための継続的なキャンペーンの一部であった。つまり、その肯定的なイメージは、将来の法的争いおよび民会で役に立つであろう。しかし、「公式の」周知の外観は、大衆によって抱かれた著名な市民の全体のイメージのほんの一部分を形成したにすぎなかった。多くのことがうわさやゴシップに依存しており、そのことは、組織的なマスメディアを欠いている社会においては特に重要であった。どのようにうわさがアテネで広まったかを正確に明らかにすることは不可能ではあるが、それが急速に広まり、階級の境界線を簡単に越えたことは知っている。例えば、シチリアの大惨事のニュースは、最初その話が語られた床屋から町の隅々まで、あっという間に広まっていた(プルタルコス『ニキアス伝』30.1)。アゴラとその周辺の店は、エリートと非エリートが自由に交わることができた自然なニュースセンターであった。リュシアスの依頼人(24.19-20)は、「みなさん」アテネ人は、「香料商、床屋、靴屋、あるいはそのような類いの店」のいずれかの店で、しばらく時間を過ごすのが習慣であったと述べている。イソクラテス(7.15)は、アテネ人は目下の政治体制に不平不満を言いながら、店(エルガステーリオン)の中で、漫然と時を過ごしがちであったと述べている。不平不満は、特にイソクラテスのエリート仲間によくあったかもしれなかったが、政治的議論は恐らく社会のすべてのレベルで一般的であった。喜劇詩人エウポリス(断片 180 [コック『アッティカ喜劇断片集』1,308])は、「5世紀後半の政治家ヒュペレイデスは、床屋の中で『そこに疑われることなく座り、理解できないふりをしながら』無為に過ごすことから多くのことを学んだと主張している」と記述している。(注108 )

 多分、より親密なプライベートな形の社交も、階級の境界線を越えてニュースを拡散させるのに役立った。リュシアスの依頼人(24.11)は、国家の名簿に障害のある貧困者として載っていたが、時折富裕な友人から乗馬用の馬を借りていた。彼は自分が主張するほど貧乏ではなかったかもしれないが(第五章 D.2を見よ)、陪審員が貧しい市民も富裕な友人を持つことができることを信じることを見込んでいた。売春婦と芸能人は、階級間のゴシップの仲介者であったかもしれない。4世紀後半の作者不明の冗長なのろいの板には、呪われた個人のリストの中に、公共奉仕階級の政治家とただの売春婦(男と女)両方が含まれている。多分、呪い板の作者の個人的な知り合いのサークルには、両方のグループのメンバーが含まれていたのであろう。(注109 )イサイオスの依頼人(6.19)は、すべての陪審員は売春婦アルケーを知っているだろうと述べている。アポロドロス(伝デモステネス59.108-11)は、アテネ人とその妻は悪名高いネアイラをよく知っていて、数人の政治家は彼女の代わりに演説したことを当然のことと決めてかかった。売春婦と同様に笛吹きや他の職業的芸能人は、一般にエリートの酒席の宴会で主役を演じて、恐らく、その過程で晩餐の雑談のいくつかを耳にしたであろう。(注110 )

 アテネの演説家は、しばしば、聴衆に訴訟当時者の性格や活動を、正直な人生を生きていた善人か、または、悪事をしていた悪人かのいずれかであったにしろ、「あなた方すべてはよく知っている」と語っていた。(注 111)誰もがみな何かを知っていたという発言は、聴衆を操作しようとして用いられた。アリストテレス(『弁論術』1408a32-36)は、「演説作家は、それを知らなかった人々でも同意を得るために、誰もがみな何かを知っているという発言の戦術を用いた。なぜなら、それを知らなかった人は、周知の事実であったことを知らないことを恥じるであろうから」と述べている。ヒュペレイデスの発言(4.22)「アテネの学童でさえ弁論家が賄賂で買収されていたことを知っていた」は、この観点から解釈されるかもしれない。

 しかしながら、民主的アテネにおいて、「誰もがみんな知っている」というトポスは、単に知らない者を恥じ入らせて黙認させるだけではなかった。そのトポスは、全ポリスは一種の直接対面したコミュニティーであるー実際には区のレベルでしか存在しなかったのだがーというフィクションを生み出した。そして、そのトポスは、村レベルの裁判の意志決定にルーツがあったかもしれなかった。(注112 )しかし、誰もが何かを知っていたという表現は、また直接的に平等主義のイデオロギーと結びついていた。ヒュペレイデス(1.14)が、どのような人もポリスにおいては、「あなた方大衆(ト・プレートス・ト・ヒュメテロン)」を欺くことが望めなかったので、法的防御はその人の生涯に基づくべきであると論じた時、彼は広く知られたうわさに基づいた議論は、正当でかつ民主的であることをそれとなく言っていた。ヒュペレイデスは、賢明な演説家は陪審員のメンバーを騙すことが可能かも知れないが、「すべての人をいつも」騙すことは望めないだろうという仮定を議論の基礎としている。陪審員の決定は、社会全体の決定を意味していたので、陪審員によって社会の意見が考慮されるのは正しいと見なされた。これは、なぜアイスキネス(2.145)が、ペーメー(うわさ)の神性を賛美して、うわさは「多数の市民が誰言うともなく自分の意志で…、事実はこれこれだと言う時」の場合であった、と言ったのかを説明するのに役に立つ。極端に解釈すると、この推論の線は法廷でなされた口頭の議論よりも、世間のうわさに大きな重みが与えられるべきであることを暗示していた。アイスキネスは、陪審員は弁論家の演説(ロゴイ)よりも、弁論家の生活全体にもっと関心を持つべきであるだけでなく(1.179)、実際に生活全体に関心をもっていた(2.150)と語った時にこの解釈を力説した。ヒュペレイデス(4.40)は、陪審員に、投票による採決の時が来て陪審員にとってもっとも正しいと思われる一票を投じる際には、法廷でなされたすべての議論は無視するよう力説した。(注113 )

 世間のうわさは民主的性質であるという認識は、特に、法廷でうわさから自分の身を守るのを難しくした。有効であると認められていた考えられる防御策の一つは、世間のうわさと中傷とを対比することを根本に据えていた。アイスキネス(2.145)が語ったように、中傷は「密告行為の兄弟」であり、「耳より先には」届かなかった(2.149)。アリストテレス(『弁論術』1416a36-38)は、同様のアプローチ、訴訟当時者が判決を汚す悪として中傷を攻撃することを試すことを提案している。彼はまた、(『弁論術』1400a23-29)で、誤った意見の出所を示すことで、中傷と戦うことができるかもしれないと示唆している。デモステネスの弁論全集の演説の中で(37.55-56)、原告は訴訟相手が悪い性格として常に示していた「速く歩き、大きな声で語る」習慣について、「あなた方〔陪審員〕の誰一人、あなたがたは大多数であるけれども、私の邪悪さを確信している人はいない」のだから、その習慣は一般的な評判とは対照的に、抑えきれない自然な特徴であったと説明しようとしている。そして、最も優れた防御は、常に優れた攻撃であった。アリストテレス(『弁論術』1416a26-28)は、誰も自分自身が信頼できない(アピストス)男の演説を信じないだろうから、訴訟者に対して告発者の評価を汚そうと反撃することで、自分自身から周知のあるいは隠された偏見の汚れを取り除くことに関心を持つよう勧めている。これは政治演説家のお気に入りの手法であった。

 現代の政治形態と比較すれば、アテネ人は相対的にほとんど世論と意志決定ー国策の形成のレベルと法的な裁判のレベルどちらでもーの間に区別をつけなかったし、またほとんどその間に効果的な緩衝装置を置かなかった。客観性は可能であると考えられておらず、特に望ましいものでもなかった。大多数の意見と国策および法的決定との間に、比較的直接的でその時々の関係があることが、アテネ民主政と現代の統治システムとの間の基本的な相違である。(注114 )この直接的でその時々の関係が、アテネの政治的な弁論家の社会的機能の評価の主要な要因であるに違いない。人前で演説する時には、アテネ人は二重に難しい課題があった。彼は大多数の意見が彼に好意的であった場合に限り、または、少なくとも相手よりかより好意的な場合にのみ票を獲得した。彼はレトリックの力でその意見に影響を与えようとすることも可能であったが、演説の持ち時間はいつも制限されていたし、イデオロギーの前提に基づいたいくつかの意見は容易くは変わらなかった。そこで、抜け目のない演説家は、彼への賛成票が既存の価値観と一致していることを聴衆に説得することにより、イデオロギーを彼の有利になるように用いようとした。この手法では、演説作家は市民大衆に共通する政治的態度にぴったりと合わせる必要があった。

E.6 劇場

 最後の「政治的フォーラム」とみなされるべきは劇場である。アテネ市民は、単に弁論だけではなく、演劇や他の形式の演技にも目が高かった。6世紀の後半以来、ディオニュソスの祭典は、毎年アテネ市内において一週間にわたって祝われたが、そこではディテュランボス〔訳注 26〕の合唱や悲劇、サテュロス〔訳注27〕劇、そして喜劇が上演された。4世紀の中頃には、旅の役者一座が区の小さな劇場で演劇を上演していた。(注115 )演劇はアテネでは非常に人気があり、5世紀には国家が観劇手当の資金を通して演劇の祝祭入場料の費用を負担した。(注116 )従って、劇はエリートに限定された芸術の形式ではなく、市民全体で経験された公的および政治的な催し物であった。ディオニュソス劇場は(330年代に改築されたが)約17,000人の観客を収容することができたが、席の大部分はどうやらアテネ人自身に確保されたらしい。(注117 )毎年、非常に多くの市民が参加した。それゆえに、民会や法廷の聴衆には、非常に多くのいつもの「芝居の常連」のメンバー ー恐らく明らかに大多数ー を含んでいたであろう。

 アテネの演劇は、激しい競争と政治的統一の矛盾する社会的価値観を解決する試みと密接に結びついていた。(注118 )こうした価値観は、弁論家にとっても大きな関心事であり、それゆえ劇場におけるアテネのデーモスの経験は、弁論の聴衆としての経験と大きく関わっていた。その結果として、私的訴訟における訴訟当時者及び公的裁判および民会での政治家、に対する平均的なアテネ人の反応は、劇場での観客の一員としての経験に影響を受けた。そして逆も同様であった。おそらく必然的ではあるが、民衆の大集会の物理的環境は、すなわちプニュックスとディオニュソス劇場は、その空間的構造において非常に類似していた。劇場の座席は平等であり、それはまた民会と法廷も同様であった。それぞれの場合、多数の聴衆は個々の演説家に向かい合い、話を聞き、積極的に反応した。すべての場合において、個々の演説家と多数の聴衆との間の協力だけではなく、聴衆のメンバーの間の協力も必要であった。しかしながら、それぞれの状況は同様に色々なレベルでもまた競争を含んでいた。コレーゴイ〔合唱隊奉仕者〕、劇作家、そして役者の間のコンテストは、訴訟者や政治的弁論家の間のこれらのコンテストといくらか類似点があった。いずれの場合にも、結果は競争するエリートに対して(直接的に、あるいは間接的に)判断をする一般の観客によって決定された。(注119 )

 アテネの演劇は,エリートの作家によって、とりわけ民衆的な一般の観客に上演するために作られ、またそれはアテネ人が自分たちの社会の性質を距離を持って考えることを可能にした。悲劇や喜劇での人間社会のイメージは、面白くまたは恐ろしく、理想化された。(注120 )悲劇の場合、話の展開は概して疑いもなくエリートとして特定されたが、難局に苦しんでいた人物の問題に関わっていた。エリートを悲劇の性格と同一視するその過程は、アテネ人に象徴的な範例を提供して、大衆である陪審員のメンバーにエリートの訴訟当時者を人間味のあるものにする傾向があったかもしれなかった。(注121 )

 アテネの演劇の常連は、自己を意識した役者の演技について、自己を意識した目撃者であった。役者は演劇の舞台の重要な一部分であり、演技に関する賞が5世紀の中頃には授与されていた。5世紀の終わり頃には、役者は確実に本職になるための道を進んでいた。4世紀のアテネ市民は、仮面の後ろの人物が役者であることを知っていたが、その知識は演技を楽しんだり、または彼に感動を与える演技の力を損なうことはなかった。むしろ、仮面の後ろの役者を認識することで、劇的な体験を二倍にしかつ豊かにして、結果としてそれをより有意義なものにした。(注122 )これはいくつかのレトリックの戦略―それは法廷のレトリックが、アテネ社会の率直な記述を提供していると仮定する歴史家を困惑させてきたーを理解することを可能にする象徴的な背景を示唆している。演劇好きの市民は、一時信じ込むことを「学んだ」。劇場の観客は、劇作家と劇場体験が行われることを可能にした役者との間で共謀を結んだ。この「訓練」が、陪審員がエリートの訴訟者が自らの状況やアテネの大衆との関係について行ったフィクションの描写を受け入れるのに役立った。社会的身分(ステータス)に関する演劇的なフィクションを、生み出し受け入れるための演説者と聴衆の間の共謀は、アテネの社会的均衡の維持にとって重要な要素であった.

 すでに見てきたように、4世紀頃には政治的弁論家は、役者と同じように専門家になっていた。アテネの政治家は、確かに、政治と劇場の間の連続体を強く感じていて、彼らは民会と民衆裁判所の張り詰めた競争の舞台でそれを利用した。(注 123)劇場の舞台の役者とプニュックスの演壇での弁論家と、それぞれの聴衆との実際の関係は類似していた。少なくともある一つの事例では、役者と弁論家は同一であった。アイスキネスは政治的キャリアに乗り出す前は(どれくらい前かを知ることは興味深いだろう)、本職の役者であった。デモステネスは彼をトリタゴーニステース、つまり端役を演じる人と評しているが、それは単なる中傷だったかもしれない。アイスキネスは、同世代のよく知られている役者の一人だったかもしれない。(注 124)すでに見てきたように(第三章C)、デモステネス自身は、人前での話し方についてサテュロス劇の本職の役者の指導を受けていた。それゆえ、民会あるいは政治的訴訟の陪審での聴衆は、アイスキネスまたはデモステネスのいずれかを聞いた時、彼らはドラマチックな役者の抑揚やゼスチャーの間接的な反響を聞いていた。アイスキネスとデモステネスの例は、多分、唯一のものではなかった。4世紀の最も有名な2人の政治家が、明白な劇場との結びつきを持つ唯一の政治家であることは、やはりほとんどないであろう。(注125 )空間と主役の行動の両方によって、劇場と民会の間の一致点は強化された。(注126 )

 政治的弁論家は、「演劇的」装いで見られることから多くを得ることができた。役者―弁論家は、舞台で激しい競争に携わっているエリートの人物による長い複雑な演説を注意深く聞いた際の聴衆の経験を呼び起こすことができた。さらに、悲劇および喜劇において、主役(プロタゴニスト)はここでは合唱歌舞団に代表されるグループと協力したり、時には積極的に対立した。古喜劇においては、役者は時折聴衆を厳しく非難すらしたし、からかったりした。従って、アテネの劇場通いの市民は、合法的にグループに対峙して反対した人物を扱った経験がいくらかあった。

 政治的弁論家は,私的な訴訟当時者と同じように、一時信じ込もうとする聴衆の気持ちに依存していた。しかし、ここで繰り返すならば、政治家の仕事はより要求の厳しいものであった。成功するためには,政治的弁論家は市民に、自分は平均的な市民―イディオーテス〔私人〕およびメトリオス〔中流〕―であると同時に、自分は政治的特権、特に大衆の前に立ち、そして大衆に反対さえする特権の仮定を正当化する能力と属性を持っているということを説得せねばならなかった。政治家は複雑な二役を演じなければならなかったし、その間ずっと、厳しい公衆の視線と政敵の嘲りの言葉に直面しながら、長期間にわたって、両方の役割の信頼性を維持しなければならなかった。大衆の劇場での「訓練」は、アテネ人が自分たちの価値体系を政治指導者となる人々に課した奇妙な二役を演じるのを受け入れることに慣れるのに役立った。劇場は社会における弁論家の役割のための有益なメタファーを提供しており、それはエリートの演説者と大衆である聴衆の間のコミュニケーションの複雑さの一部を解明するのに役立つであろう。


第三章:訳註

1) レートール(複数:レートーレス)は職業的演説家で、後述のように弁論家/政治家を意味した。政治弁論家、弁論政治家などと訳出されている。政治的文脈では、民会・評議会などで演説・提案を、または民衆裁判所で告発・弁護を行う市民。

2) イディオータイ(単数:イディオーテース)は、一般に「私人」を意味し、政治家とは対照的に、提案・公訴、または役職勤務を通して、たまにしか公務に参加しなかった市民。

3) 不適正な法の提議に対する公訴。ノモテタイによる立法手続きにおいて、既存の法に反する不適正、不公正および国家に対して不利益は法案を提案、あるいは制定した者に対する公訴。

4) エイサンゲリア(弾劾裁判)には、いくつかの種類があったが、最も重要なのが民主政転覆や売国罪など国事犯に対するもの。民会の弾劾提訴決議を経て民会もしくは民衆裁判所で最終審が行われ、有罪の場合は死刑がほとんどであった。

5) 弁論家の要件を規定する法律は、(1)両親扶養の放棄、(2)兵役放棄あるいは楯投げ棄て、(3)男色売買、(4)相続財産蕩尽のないことからなっており、これらに抵触する弁論家は、民会などで演説ないし提案することを禁じられていた。

6) 公共奉仕(レィトルギア)とは、さまざまな公共の経費を富裕な市民が指名されて負担するという仕組み。すなわち、富裕市民に課される財政負担義務であり、三段櫂船の艤装・修理と船の指揮を私費で担当する三段櫂船奉仕(トリエラルキア)、および祭典における合唱隊編成と練習の費用を負担する合唱隊奉仕(コレーギア)がその主なものである。

7) 区長。ペイライウスを除き、毎年各区の選挙で選ばれていたと推定されている。その職務は区民会の招集、直接税の徴収、市民権登録簿(レークシアルキコン・グラマテイオン)の作成・保管、区の祭祀、区の財政管理、死者の埋葬など多岐にわたった。

8) 1タラントン=6,000ドラクマ=25,86kg(1ドラクマ=4,31gを規準とした場合:4世紀アテネでの標準単位)なお、貨幣単位は、タラントン=6,000ドラクマ、ムナ=100ドラクマ、スタテール=20ドラクマ、オボロス=1/6ドラクマ

9) エテオブタダイは、アテネ市外西方のブタダイ区を本拠地とする貴族の家系で、アテネ最古のゲノスの一つ。エレクテウス王の兄弟ブテスを祖とし、アテナ・ポリアス神とポセイドン・エレクテウス(またはエリクトニオス)神の神官職を世襲した。

10) サラミニオイは、アッティカで最もよく知られたゲノスの一つ。ヘゲシッポスの家はゲノスの一員として、4世紀に2人のアテネ財務官を輩出しており、5,000メディムノス級の富裕な家族であった。

11) ストラテーゴイ(将軍)は、抽籤ではなく、選挙で選ばれ、再任が認められた10人の軍事最高官職。ペリクレスなどの前5世紀の有力な政治家はたいていこの職についており政治指導権と不可分であった。しかし、4世紀に入ると政治の主導権は、レートール〔弁論政治家〕や財政専門家に移り、同世紀後半のストラテーゴイは軍事に専念するか、あるいは政治家と提携しながら政界で一定の地歩を築くかのいずれかであった。

12) ドキマシア(資格審査)には各種あり、ここではアルコン、レートール、ストラテーゴイが問題になっているが、他には、アルコンだけではなく全役人と評議員などが就任前に資格審査を受けた。候補者の資格に異議申立があった場合、評議会や民衆裁判所で審議がなされ、最終的に失格と判定されれば就任は拒否された。

13) アルコンの複数。ここでは、権力者の意。

14) 単数はシュネーゴロス。シュネーゴロスは、①弁護人、②法改正の提案に対しノモテタイの前で旧法を弁護する役、③会計監査役、④公共の問題に訴追を行う役などを指したが、ここでは①の弁護人の意。なお、性格証人は、法廷またはその他の訴訟手続きで、被告の品性・評判・行動について証言する人。

15) 1メディムノス=51.84リットル(4世紀アテナイの単位)

16) 評議会暦で、1年を10等分した各期間をプリュタネイアと呼び、プリュタネイアごとに当番評議員(プリュタネイス)が交替した。前5世紀は一年を365日とする太陽暦に従って、一プリュタネイアの長さは37日ないし36日であったが、前407年より太陰太陽暦に従って、一プリュタネイアは36日ないし35日となった。

17) アクロポリス西方の丘(107m)。民会議場は、この丘の岩盤を刻んで作られた露天の集会場で、演壇を要の位置に置いて聴衆席が扇形に作られている。

18) アリストテレスの弁論術の三類型は、議会での審議弁論(シュンブーレウティコン)、法廷での訴訟弁論(ディカニコン)、劇場での演示弁論(エピデイクティコン)である。

19) 概してアテネの法律は、書かれただけではなく、演説家(弁論家)などによって、大衆のために語られていた。従って、法律は言語で表現された内容の総体(言説)であった。

20) 部族騎兵長官。各部族より1名(計10名)挙手により選出され、部族ごとの騎兵を指揮した。

21) 騎兵長官。全市民から2名挙手により選出され、それぞれ5部族ずつ分担して、騎兵を指揮した。

22) プロボレーは民会への告発で、祭礼に関する不正行為、告訴常習者(シュコパンテース)、民会での公約違反者を告発する際に適用された訴訟手続き。民会での申立から開始され、民衆裁判所で判決が下される。民会でも予審判決が下されるが、あくまで仮のもので、実行力はもたず、民衆裁判所での判決を拘束しなかった。

23) 前4世紀、議長と議長団を務めたプロエドロイ(議長団)は、当番評議員以外の各部族の評議員から1人、計9人が抽籤で選ばれた。

24) 提喩法(synecdoche)は修辞法の一つ。全体と部分との関係に基づいて構成された比喩の一種。一部(さくら)で全体(花)を表す技法。また、その逆の全体で部分を表す技法。

25) 法廷用水時計(クレプシュドラ)は、底部に青銅製の管を付けた鉢型の陶器で、管から一定の速さで水を流し、減った水量で時間の経過を図った。ここでは訴訟弁論の持ち時間の間のこと。なお、訴訟弁論の持ち時間は、訴訟の種類によって異なっていた。

26) ディオニュソス信仰と深い繋がりをもつ合唱舞踏歌。ヘロドトス『歴史』(1.23)には、ディテュランボスの創始者・命名者として竪琴(キタラ)弾きの名手アリオンの名前が挙がっている。

27) ギリシア神話に登場するサテュロスはディオニュソスに従う半人半獣の怪物で, 酒と女が大好きな山野の精。ローマ神話のファウヌスに当たる。


第三章:本文注

1) 公共の演説の相互的な性質については、Riley and Riley, “Mass Communication,” 537-78, 特563-68を見よ。Buxton, Persuasion, 10-18は、アテネの政治生活の公開討論の重要性を指摘している。

2) 一般的な4世紀の使用:例えばリュシアス 31.27; アンドキデス 3.1; デモステネス 24.123, 51.20, 58.62; アイスキネス 2.176, 3.231 専門用語として:IG I3 46(=I2 45), 21行; Harrison, Law, II.204 n.1 を参照。その用語とその起源の完全な議論が、Pilz, Rhetorにあるが、私は彼とその用語の一般的な意味については、大筋において意見が一致しているが、その否定的な意味合いについてはそうではない。第三章 註3を見よ。同様に、Wilcox, “Scope,” 127-8; Connor, NP, 116-17; Hansen, “Politicians,” 39-49を見よ。

3) 中立:Wilcox, “SCOPE,” 127-8(デモステネス 21.189, 18.280を引用); Hansen, “Politicians,” 36-37, 46-49. 「レートール〔弁論政治家〕」の否定的な使用:例えば、デモステネス 23.184-85イソクラテス 8.129-31; ヒュペレイデス 4.33-36.

4) 例えば、リュシアス 18.18, 28.9, 29.6; デモステネス 1.28, 22.37, 24.198, 25.41.

5) ホ・デイノス・レゲイン 〔演説が巧みな者〕: リュシアス 12.86; イソクラテス 21.5; トラシス・カイ・レゲイン・デイノス〔大胆で巧妙な演説家〕:デモステネス22.66; デュナメノス・レゲイン〔演説に長けている〕:リュシアス 14.38, 30.24; デュナスタイ・レゲイン〔演説ができる〕: ディナルコス 1.113; デイノス・デミウールゴス・ロゴーン〔恐るべき演説の業師〕:アイスキネス 3.215; ホイ・デイノタトイ〔最も有能な人〕: デモステネス『序論集』45.2

6) 例えば、アンドキデス 2.1; デモステネス 3.31, 10.70, 19.285, 23.4,『序論集』42.1; アイスキネス 3.235. Mossé, “Politeuomenoi.” を参照。
Hansen,”’Politicians’,” 特に37は、アテネの政治において「政治家」の用語は避けるのが最善であると論じている。確かに、現代と古代の「政治家」の間の相違は心に留めておくことは重要であるが、私は、他に良いものがないのでその用語を使用し続けている。

7) 例えば、リュシアス 25.9; デモステネス 22.48, 51.9; ディナルコス 1.99, 113; Ostwald, From Popular Sovereignty, 201-203を参照。デーマゴゴスはデーモスと動詞アゴー(指導する)に由来し、デーメーゴリアは、デーモスと動詞アゴレイオー(公の集会で演説すること)に由来しているが、その2つの語根の動詞自体は密接に関連している。

8) 民主主義の父としてのソロンの神話については、例えば、Mossé,”Comment.”を見よ。

9) 舞台裏の権力としての現代の政治指導者たち:例えば、Mills, Power Elite 特に229-35.しかし、現代の民主的国家における政治的リーダーシップにとって、演説の卓越が重要であることについて、Michels, Political Parties, 98-100 を参照のこと。

10) 見分けのつくグループとしての弁論家については、Cloché, “Hommes politiques” ; Ehrenberg, People of Aristophanes, 351; Perlman, “Political Leadership,” “Politicians”; Seager, “Lysias,” 177; Finley, PAW, 140を見よ。

11) Hansen, “Number of Rhetores.” Buxton, Persuasion, 14-16を参照。バクストンは、マーク・ホーバートのバリ島での公的集会の人類学の研究—そこでは、数人の村人が「演説の専門家」に指定され、集会また一般的に共同体で高い名声と広範囲の影響力を持った「非公式のエリート」を構成しているーを引用して、「かなり少数の個人のグループが、民会の問題を支配する傾向があった……。」と論じている。

12) エウリピデス『救いを求める女たち』430-42のコメントと同じように、プラトン『プロタゴラス』319d(上記、第一章Aで引用)が、明らかにしている。また、Finley, DAM, 24-25とPAW, 139-40を見よ。上記、第二章F.1参照。

13) Hansen, “Number of Rhetores,”は、約700人から1,400人が355年から322年の時代に決議を提案したとことを示唆するいくつかの統計を提示している。私はその統計上の議論に特に説得力を見いだせないが、彼が「政治専門家」として同定されない多くのアテネ人が、決議を提案したと主張するのは確かに正しい。

14) 利用可能な訴訟手続きのタイプについては、Hansen,”’Politicians’,” 39-41を見よ。グラペー・パラノモーン〔違法提案告発に対する公訴〕:上記、第二章 G、註96 グラペー・ノモン・メー・エピテーデイオン・テイナイ〔不適当な法の提議に対する公訴〕:Hansen, Sovereignty, 44-48; Wolf, Normenkontrolle, 40ff. エイサンゲリア〔弾劾裁判〕: 下記、第三章、註75 他の種類の公的訴訟に関しては、Hansen, ‘Apagoge.’, de Laix, Probouleusis, 189-90失礼ながら〔不賛成〕、 そしてPerlman, “Politicians,” 354を見よ。ハルポクラティオンに挙げられたレートリケー・グラペー〔弁論家に対する公訴〕とグラペー・パラノモンに確実に言及している後の他のテキスト:Hansen,”’Politicians’,” 39-41.

15) Harrison, Law, Ⅱ.204-205. 同様にMacDowell, Law, 174; Hansen, “Politicians’,” 40-41を見よ。

16) Hansen,”’Politicians’,” 39-42. しかし,彼はまた、その用語〔レート−ル〕が仮定の国制の用語として用いられるのと、それが通常用いられる間の「ギャップ」に言及し(48−49)、このことは、国制とそれがいかに機能するかの間の「ギャップ」に帰されるに違いないと述べている(49)。

17) アイスキネス(1.33-34)は、346/5年に可決されたノモスに言及しているが、その法では一部族のメンバーが、民会ごとに秩序を守るために抽籤によって任命されていた。〔訳注:前346/45年頃に設けられたこの民会綱紀粛正のための法律は、聴衆からのヤジ、はやし立て、拍手・喝采など議事進行の妨害を防ぐため、演壇に最も近い聴衆席を当番部族に割り当て、輪番で監督させるというものであったらしい〕彼は、これは特に弁論家をコントロールするためのものであったと述べている(アイスキネス 3.4; デモステネス2.90参照)。しかし、その本文(アイスキネス 1.35)に含まれるその「法」は偽物であり、また(Hansen, “’Politicians’,” 40には失礼ながら)それが,文字どおりか、あるいはその法の要旨であったかどうかを知るすべはない。このノモスがもたらした席の配置の異なった見解に関しては、Hansen, “Athenian Ecclesia and the Assembly-Place,” 246-48; Stanton and Bicknell, “Voting in Tribal Groups,” 58-65;また下記、第三章 D.1.を見よ。

18) 例えば、アイスキネス3.233 時折(例えば、デモステネス 18.45)ホイ・イディオータイホイ・ポロイ〔大衆〕とは対照的に余暇階級を記述するのに用いられた。Mossé ; “Politeuomenoi et idiōtai.”を参照。レートール〔弁論政治家〕/イディオーテース〔私人〕の二項対立は、アプラグモーン〔政治に関わらない〕のトポスを説明するのに助けとなるかも知れない。以下、第四章 註37を参照。

19) イディオータイによる政治的活動:Hansen, “Numbers of Rhetores ,” Rhetores and Strategoi,” 159-80 (カタログ)、また”’Politicians’,” 特に45-46と註37 Dover, GPAM, 25-26によって仮定されたイディオーテース〔私人〕とレートール〔弁論政治家〕の間の差異についての非常に際だった強調; Perlman, “Politicians,” 328-30を参照。

20) Osborn, ”Law in Action,”42-44による、この句の独創的な議論を参照。

21) 極端な一例:デモステネス 18.171. Connor, NP, 23は、ミティレネの論争でクレオンの反対者であったディオドトスは、普通の市民であり、目下の問題に憤慨した「一時的な政治家」であったと述べている。しかし、もし、トゥキュディデスがディオドトスの口を借りて語った演説が、何らかの点で、実際に行った演説そのものであるなら、彼はソフィスト的レトリックの熟練者であったに違いない。R. A. Knox, “’So Mischievous a Beaste’? The Athenian Demos and Its Treatment of Its Politicians,” Greece and Rome 32 (1985): 132-61は、アテネの政治家の法的「破滅」の証拠のいくつかを列挙している。そして活動的な政治家の間の高い死亡率が、民主政の機能にダメージを与え、とりわけ、それゆえ市民の一部を政治に関わるのを遠ざけたと論じている。しかし、下記の第七章 E.5を見よ。

22) Montgomery, Way to Chaeronea 特に66-95は、ポリスにおいて政治的弁論家が果たした重要な政治的役割についての有益な紹介とともに、彼らが意志決定の過程において、立場の正当性をデーモス〔民衆〕に示すために用いたレトリックの戦術の評価を提供している。Hansen, “Initiative and Decision,” 359-65の発議に対するより法律至上主義的なアプローチを比較対照せよ。

23) 法廷弁論作家(ロゴグラファー)と依頼人については、Kennedy, Art of Persuasion, 126-45; Lavency, Aspects; Dover, Lysias, 148-74; Usher, “Lysias.” を見よ。

24) Wilcox, “Scope,” 130-31と“Isocrates’ Fellow Rhetoricians,” 174-75が指摘するように、富裕者だけが高等教育を受ける余裕があった。Finley, PAW, 28; Raaflaub, “Democracy, Oligarchy,” 529-30を参照。また、個人の教育の長さは、両親の富の程度と比例するであろうという考え(プラトンとイソクラテスの)に関して、Jaeger, Paideia, III.120-21を見よ。

25) イソクラテス 5.81-82 下記、第三章 E.2 に引用したアリストテレス『弁論術』1414a16-17を参照。弁論家のための訓練に関しての生来の能力の重要性について:イソクラテス 13.14-15とJaeger, Paideia, Ⅲ.63.

26) デモステネスのレトリックの教育についての古代の証言の議論に関しては、Blass, AB, Ⅲ. 1.10-20; Jaeger, Demosthenes, 31-32を見よ。

27) 彼はイソクラテスは、プロディクス、ゲオルギアス、テイシアス、そしてテラメネスのもとで学んだと述べており(Jaeger, Paideia, Ⅲ.48-49, 314註35を参照)、さらにイサイオスは、イソクラテスのもとで学んだかも知れなかったと述べている(837D)。デモステネスは、イソクラテスに授業料の1,000ドラクマのお金を持っていなかったといわれているが(837D-E)、イサイオスに個人レッスンとして10,000ドラクマの巨額の授業料を支払っていた(837F; また844Cを参照)。アイスキネスは、ある説ではイソクラテスとプラトンと学んだと伝えられているが(840B)、別の説によればレオダマスと学んだと(840B)、さらに別の所では、まったく誰とも学ばなかったと伝えられている(840F; Kindstrand, Stylistic Evaluation, 68-75は、ほかの最新の史料を論じている。彼は、アイスキネスは実際には正式な訓練を受けていなかったと結論づけている)。リュクルゴスとヒュペレイデスは、プラトンとイソクラテスのもとで学んだと考えられていた(841B, 848D; Davies, APF, p.518を参照)。ディナルコスは、テオフラストスのもとで、後にはパレーロンのデメトリウスのもとで学んだと伝えられている(850C)。有名なギリシアの詩人について、同じような疑わしい伝記の伝承に関しては、Mary R. Lefkowitz, The Lives of the Greek Poets(Baltimore, 1981)を見よ。

28) イソクラテスの授業料の総額は、伝プルタルコス『生涯』837D-Eとプルタルコス『デモステネス伝』5.4に言及されている。両方ともデモステネス第35弁論40節-43節からの引用を手に入れたのかも知れない。イソクラテスの個人的な財産:Davies, APF 7716 イソクラテスの学校について、幾分憶測に基づく議論に関しては、R. Johnson, “A Note on the Number of Isocrates’ Students,” AJP 78 (1957): 297-300; 同, “Isocrates’ Method of Teaching,” AJP 80 (1959): 25-36. Jaeger, Paideia, Ⅲ.46-70を参照。

29) Wilcox, “Scope,”と”Isocrates’ Fellow Rhetoricians,” は、また4世紀のレトリックの学校と5世紀のソフィストとの間の密接な関係を論じている。Jaeger, Paideia, III.102-103を参照。デモステネス自身、レトリックを教えていたかも知れない。そしてそれは、彼が発表した民会の演説の数が相対的に多いことを説明するのに役立つであろう。Blass, AB, III.1.34-35; Adans, “Demosthenes Pamphlets,” 11と注2.

30) Pilz, Rhetor, 13; Wilcox, “Scope,” 特に128-31; Bolgar, ”Training,” 38-40. Wilcox, “Isocrates’ Fellow Rhetoricians,” 175, 182-84は、いくぶん不承不承ながら、いくつかの法廷弁論は学校で教えられたに違いないと認めているが、彼はそれでもほとんどが政治的な活動のためのものであったろうと示唆している。

31) Bolgar, “Training,” 42-47を見よ。彼は、哲学とレトリックの学校の両方とも、効果的な支配エリートを形成することができる学生を生み出せなかったことを非難している。同様に、M. S. Warman, “Plato and Persuasion,” Greece and Rome 30 (1983): 48-54を見よ。

32) 例えば、Haussoullier, Vie municipal, 133; Hopper, Basis, 16.

33) Whitehead, Demes, 236-41と、特に315-24; Osborn, Demos,83-87を参照。オズボーンは、区が「政治活動の避けられないチャンネル」であったことを証明できていない(189)。上記、第一章 C.6を参照。

34) 「明らかに政治的に活動的な市民」に関しては、私は下記の第3章註35でのハンセンのリストに含まれる人々を言っている。私は、「明らかに活動的」でない市民が政治に無感動、または無関心であったことを暗に意味するつもりはない。それに反して、私が示唆したいのは、民会で演説したことも、将軍を務めたことも、公的訴訟を起こしたこともない非常に多くの市民が、それにもかかわらず、定期的に民会に出席し、陪審員として座り、市民の他のすべての通常の活動に参加し、そして深くポリスについて関心を持っていたということである。

35) Hansen, “Rhetores and Strategoi” 総計368人の名前。ハンセンほど包括的ではないがCloché, “Hommes politiques”の 一覧表を参照。Roberts, “Athens’ Politicians,”は、私が政治家あるいは政治専門家と評する人物に限定している。

36) 富裕者が都市の政治において活動的であるという傾向は、区のレベルでの富裕者の活動的な傾向を反映している。そこでは、富裕者はーたとえデーマルコスやまたは他の定期的な区の役人でなかったといえども、動議提案者としてまた、区の住民からの顕彰受賞者として活動した。Whitehead, Demes, 236-41, “Competitive Outlay”; Osborn, Demos, 66-68, 83-87を見よ。しかしながら、後者の結論(68)、「依然、4世紀には政治権力は事実上、どちらかと言えば制限された富裕な社会グループにあった」というのは根拠がない。

37) フルタイム:デモステネス(19.226)は、政治家を「あなた方のために人生を生き、あなた方の名誉を切望する人々」と記述している。Larsen, “Judgment,” 8; Jones, AD, 55; Perlman, “Politicians,” 333-36と註38;Finley AE, 37とPAW, 37を参照のこと。下層階級のアテネ人が、富裕なかつ政治的に影響力のある地位に登るかもしれないその方法の評価に関しては、Rhodes, “Political Activity,” 142-44を見よ。

38) Osborn, “Law in Action,” 特に42-43参照。

39) MacKendric, Athenian Aristocracy, 14-15(ヘゲサンドロスとヘゲシッポス)、22-23(リュクルゴス)、巻末の「索引」の名前の項(デモステネスとアンドロティオン)を見よ。

40) Roberts, “Athens ‘ Politicians,”を見よ。彼は、確かにGomme, “Working,”16には失礼ながら、アテネの政治家は、しばしばキャリアの間に役職を務めたことを明らかにしている。

41) アイスキネス 1.171(上記、第三章B.2で論じた)と第三章註12で引用した証拠を参照のこと。Rhodes, CommAP , 511は、ディナルコスの一節について議論し、その資格は「多分アルカイック期からの国制の遺物」であると結論づけているが、また「レートレス」に関する法は、5世紀の末より前の可能性は低い」と記している。Hansen, “History of the Athenian Constitution,” 62は、ローズのこの節の議論に同意している。

42) 他の証言に関しては、デモステネス 23.184とHansen, “Rhetores and Strategoi,” を参照。Hansen, “Politicians’,”は、アテネの「政治家」(彼は使用しないほうがいいと思っている用語)は、レートール(国制上の意味に解釈された)とストラテーゴイであったと提唱している。Perlman, “Politicians,” 353-54を参照。彼は、世論は弁論家を「ストラテーゴイの地位と類似または同一の地位」を保持していると見なしたことを示唆している。

43) Hansen, “Politicians,” 49-52は、レートールとストラテーゴイの間の「明快な」区別を強調している。

44) リュシアス 14.21; デモステネス 12.19を参照。アイスキネスは、シュネーゴロイ:性格証人について駄洒落を言っている。レートールとストラテーゴイの間の一般的な密接な協力については、Perlman, “Politicians,” 347-48; Hansen, “Politicians,” 52-55を見よ。アテネの裁判での性格証人については、Harrison, “ Law, Ⅱ. 158-60; Humphreys, “Social Relations,” 特に355-38(レートールとシュネーゴロイとしてのストラテーゴイ)

45) 4世紀の政治グループの最も優れた最近の研究は、Strauss, AAPW 特に11-14である。他の有益な議論の中では、例えば、以下の研究を見よ。J. de Romilly, “Les modérés Athéniens vers le milieu de IVe  siècle: Échos et concordances,” REG 67(1954): 327-54; Cloché, Hommes politiques”; Sealey, “Athens after the Social War,””Callistratos”; Perlman, “Politicians,” 349-53と”Athenian Democracy and the Revival of Athenian Imperial Expansion at the Beginning of the Fourth Century B.C.,” CPh 63 (1968): 257-67; P. Harding, “Androtion’s Political Career,” Historia 25 (1976): 186-200; Roberts, Accountability, 55-83; Rhodes, “On Labelling.” Humphreys, Family, 2-3は、民主政治において親族関係や個人的な友情が相対的に重要でないことに留意している。

46) Finley, “Athenian Demagogues,” 15, PAW,63-64を参照。

47) 例えば、リュシアス 14.23; デモステネス 21.139-40, 208-10, 213, 23.206; アイスキネス 3.188, 255; ディナルコス 1.99; 下記、第七章 F.1を参照。デモステネス(2.29)の次の趣旨の有名なコメントーアテネ人は政治を、一人の弁論家と彼の配下の一人のストラテーゴスによって率いられて、他の300人が喝采を挙げていた「シュンモリア」〔訳注:前378/77年に戦時財産税徴収のために創設された「納税分担班」〕によって運営していたーは、この観点からまたホモノイア〔コンセンサス〕の理想の観点から読まれなければならない。以下、第七章 B; またMontgomery, Way to Chaeronea, 23-25を参照。最近では、グループ政治のモデルは疑問視されている。特に、マイヤーの刺激的な小論文 “Les groupements politiques dans l’antiquité classique,” in Anthropologie, 45-62を見よ。マイヤーは、次のように論じている。アテネ人の政治的一体感は政党を不必要に、また望ましくないものにした。その結果、党派は常に否定的な観点で見られていた。

48) 例えば、アリストテレス『弁論術』1404a1-8、『政治学』1291b29-1292a38; プラトン『国家』493a-d しばしば、クレオンは、この害悪の創始者であったと見なされている。第二章 註91を見よ。現代の議論の中では,以下の研究を見よ。Sattler, “Conceptions of Etos”; Solmsen, “Aristotle”; Wilcox, “Scope,” 145-48; J. de Romilly, Magic and Rhetoric in Ancient Greece (Cambridge, Mass., 1975), 25-32, 37-43 (レトリックについてのプラトン); Arnhart, Aristotle 人々のお世辞としてのレトリックに対する古代の批判:第一章 E、第七章 E. 4を参照。

49) ビブリオグラフィーに関して、Finley, Ancient History, 93と註21を見よ。アテネの指導者に関するヴェーバーのカリスマ的モデルは、Montgomery, Way to Chaeronea, 92-93に受け入れられている。また、Michels, Political Parties, 64-65, 93-102を見よ。

50) Finley, “Max Weber and The Greek City-State,” in Ancient History, 88-103: 引用は、98-99、103。「道具の」(教育的な/情報を提供する)と「表現に富む」(感情的な)コミュニケーションの議論に関しては、Riley and Riley, “Mass Communication,” 571-72を見よ。

51) Lipsius, Recht und Rechtsverfahren, 152-53 n.56によるデモステネス 24.149-51からの改作。Bonner and Smith, Administration, Ⅱ.152-56; Maio, “Politeia,” 43を参照。

52) アリストテレス 『弁論術』特に、1355b25-1358a35、それと第2巻の諸所に。Sattler, “Conceptions of Ethos,” 特に63-64; Arnhart, Aristotle, 特に9-10, 112-14を参照。Solmsen, “Aristotle,”は、4世紀後半のアリストテレスの専門書の前には、弁論家の強調は説得の抽象的な性質についてではなく、演説の部分についてであったので、倫理上の議論は独立した分析の対照ではなかった、と指摘している。

53) Luhmann, Differentiation, 特に139-42. アテネの役割分化の別の側面に関しては、Humphreys, Anthropology, 250-65, Family, 21:「……古典期アテネの社会は、複雑な現代社会に通じる分化の過程が始まったばかりであった。……」を見よ。

54) Holmes, “Aristippus,”は、ポリス社会の未分化の性格を、強調しすぎる傾向にあると思う。Ober, “Aristotle’s Political Sociology.”を見よ。

55) Sattler, “Conceptions of Ethos,” 55-56,60-61; Kennedy, Art of Persuasion, 229を参照。一般的には、Burke, “Character Denigration.”を見よ。

56) 特に、Strauss, AAPW, 70-86; Hansen, “Demographic Reflections, “ Demography and Democracyと引用された文献を見よ。第一章 註66を参照。古い計算の中で、Gomme, Population, 同, “The Population of Athens Again,” JHS 79 (1959):61-68とMossé, Fin de la démocratie, 139-85はなお有益である。上記、第一章 C.5を参照。

57) Davies, APF , xx-xxx, WPW, 9-37.

58) Davies, WPW, 6-14, 28-35, 特に28(余暇階級のステータスとして1タラントンを、デモステネス42.22を引用して挙げている), 34-35; 余暇階級は約1,200人。Mossé , “Symmories, “ 37 ; とE. Ruschenbusch in ZPE 31(1978): 275-84を参照。ルッシェンブッシュは、約1,200人の公共奉仕義務者がいたこと、そしてそれらは、エイスポラ支払者と同一視されると述べている。P. J. Rhodes, “Problems in Athenian Eisphora and Liturgies,” AJAH 7 (1982): 1-19, 特に8は、約1,200人の公共奉仕義務者がいて、そしてこれよりいくらか多く,恐らく2,000人のエイスポラ支払い者がいたと主張している。エイスポラの編制については、下記、第五章 A.3を見よ。

59) Ste. Croix, “Demosthenes’ TIMHMA,” 33は、約6,000人の市民のエイスポラ支払い者の数字を非常に信頼できる数字として受け入れた。また、その数字は、Jones, AD, 9-10によって提案されていた。Brun, Eisphora, 19-22は(参照64-65, 68-73)、約6,000人から9,000人のエイスポラ支払い者がいたこと(メトイコイを含む)、責任は2,000から2,500ドラクマの財産の人に及んだこと、それゆえに、ほとんどのエイスポラ支払い者は金持ちと見なされないと推測している。約6,000人の支払者の数字は、Markle, “Jury pay,” 282によって受け入れられている。彼は、これらの6,000人の市民(と家族)が余暇階級であるだろうことを論証しようとしている(295-97)。マークルは2,500ドラクマの財産は、家族を労働の必要性から解放したであろうと論じた。これは、私には全くあり得ないように思われる。Thompson, “Athenian Investor,” は,非常に楽観的に、土地への投資は年間8%までの利益を生んだと計算している。奴隷や、鉱山、海外貿易への投資はもっと利益が上がったが、より危険を伴った。そして、土地は最下層と最上層の間のほとんどのアテネ人にとって、財産の大部分を形成したのは確かである。年間8%は1タラントンの価値の土地で480ドラクマを生んだ。2.500ドラクマの価値の土地で200ドラクマを。しかし、家族の財産のかなりの部分は、多分、財政的に「営利的」(例えば、家屋やそれに付属の土地、嫁資として与えられた財産など)ではなかったであろう。そして、かなりの蓄えを緊急事態(例えば,法的な紛争や、不作や、税の査定など)のために備えておく必要があったであろう。1タラントン(6,000ドラクマ)の財産のある家族が、1日1ドラクマ以上をはるかに上回る可処分所得を実現するであろうことは、ありそうにもないと思われる。これよりも大幅に少ない収入が,家族を余暇階級として見なす可能性はほとんどないと思われる。なぜなら、食物や他の消費物資のために余暇階級ヘの志願者の支出は、多分生活水準を大きく上回っていたであろうから(例えば、大麦よりかはむしろ小麦を、肉を、品質の良いワインや油を、多くのより良い衣服をと。リュシアス 32.20を参照。ここでは、ある後見人が、2人の少年と1人の少女のトロペー〔食料〕を1日5オボロスと計算している。—これは相手の主張だけれども、誇張した数字であった)。これらすべては、デモステネス 42.22の演説者が、4,500ドラクマの財産で暮らすことは容易くはないと主張したとき、誇張してはいなかったということを示唆している。

60) Gabrielsen, Remuneration, 126には失礼ながら、ペネーテス〔貧乏人〕をデーモス全体と同一と見なすエリート作家の傾向は、この文脈では重要ではない。富の用語については、下記、第五章 A.1を参照のこと。

61) 重装歩兵の地位については、Jones, AD, 142 n. 50を見よ。自給自足農業については、Ober, FA, 19-28と引用文献を見よ。また、G. Audring, “Über Grundeigentum und Landwirtshaft in Attika wahrend des 4. Jh. v.u.Z.,” Klio 56(1974): 445-56を見よ。Ste. Croix, CSAGW, 208-18を参照。アッティカの平均穀物生産高は、自給自足農業の質問の大切な要素であるが、しばしば、ひどく過小評価されてきた。P. Garnsey, “Grain for Athens,” in Cartledge and Harvey, edd., Crux: Essays Presented to Ste. Croix, 62-75を見よ。

62) 一般的に、以下の研究を見よ。Y. Garlan, “Le travail libre en Grèce ancienne ,” in Garnsey, ed., Non-Slave Labour, 6-22 ; E. C. Welskopf, “Free Labour Exchange in Ancient Athens,” in ibid〔同書〕23-25; A. Fuks, “Kolonòs místhios: Labour Exchange in Ancient Athens,” Eranos 49 (1951): 71-73; Wood, ”Agricultural Slavery,” 23-24参照。5世紀末の熟練労働者の賃金は、平均して一日につき1ドラクマぐらいだと思われる。R. H. Randall, “The Erechtheum Workmen,” AJA 57 (1953): 199-210を見よ。そこでは、労働者の賃金は、その当時の軍事手当と似通っている(トゥキュディデス『歴史』3.17.3)。4世紀の後半には、賃金は1日につき1 1/2と2 1/2の範囲であったと思われる。Markle, “Jury Pay,” 293; Rhodes, CommAP, 691を見よ。しかし、その数字は次の点で問題を含んでいる。まず第一に、それらが年代的に甚だしく隔たっていた点で。次に、宗教的モニュメントの仕事という状況であった点で(従って、労働者の中には、公共奉仕の種類よりか少ない賃金を受け取っていた者もいるかも知れない)。最後に、建設業に限られていた点で。

63) 『アテナイ人の国制』49.4; リュシアス 24  以下の文献を参照のこと。Rhodes, CommAP, 570; Hansen, Demography and Democracy, 18-19; Buchanan, Theorika, 1-3, 38-48.

64) Osborn, Demos, 68-72, 88. Hansen, “Political Activity,”の次の提案「403/2年頃に、評議会議員の定数の再査定があったかもしれない」は、説得力はない。移動手段の基本的な形態としての牛車:A. Burford, “Heavy Transport in Classical Antiquity,” Economic History Review, 2nd series 13 (1960): 1-18; スピード:D. W. Engels, Alexander the Great and the Logistics of the Macedonian Army (Berkeley and Los Angeles, 1978), 14と註15(約時速2マイルで、一般に一日あたり約5時間しか使えない)。

65) リュシアス 34のハリカルナッソスのディオニュシオスのヒュポテシス〔梗概〕によれば、403年には、5,000人のアテネ人だけが土地を持っていなかった。もちろん、土地を所有するアテナイ人全員が田舎に住んでいたわけではないが、多くはそうであった。4世紀の初期までには、アッティカの土地は少数の富裕な市民の手に集中していたと言う理論は、最も完全にMossé , Fine de la démocratie, 39-67によって詳述されたが、その理論は今やほとんどの学者によって放棄された。Ober, FA, 20-22と引用された文献を見よ。Hansen, “Political Activity,” 234-35はむしろ、ひかえめに都市へのかなりの割合の移動を主張しているが、その数量化が不可能であることを認めている。

66) 古代のギリシア経済がどの程度貨幣社会化されていたかはわからないが、私は、古代ギリシア経済が多くの原始的特徴を保持していた、と想定している学者らにどちらかというと同意する。一般的に、Finley, AE, 特に123-49とTrade in the Ancient Economyに収録された小論を見よ。

67) 炭焼き人:アリストパネス『アカルナイの人々』(合唱歌舞団:コロス);アンドキデス 断片Ⅲ.1 (メイドメント)を参照。富裕なパイニッポスは、4世紀アッティカの有名な最も広い地所の所有者であったが、彼は材木を町に運ぶために6匹のロバを用いていた(多分、製材。しかし、よりありそうなのは燃料)。そして、このことから相手の主張によれば、パイニッポスは一日につき12ドラクマ以上の利益を得ていた。デモステネス 42.7とR. Meiggs, Trees and Timber in the Ancient Mediterranean World (0xford, 1982), 205-206.

68) 計算に関しては、Ober, FA, 24-25を見よ。Markle, “Jury Pay,” 277-280によって達した同様の数字を参照のこと。家族当たりの穀物の費用=約1.65オボロス。古代の穀物消費のより詳細にわたる議論に関しては、L. Foxhall and H. A. Forbes, “Σιτομετρεία: The Role of Grain as a Staple Food in Classical Antiquity,” Chiron 12 (1982): 41-90を見よ。

69) Hansen, “How Often,” とHansen and Mitchel, “Number of Ecclesiai,”は、4世紀の中頃には、プリュタネイアごとのエクレーシアの回数は4回と固定されていた(これ以前の数年に関しては、3回)、そしてこれ以上は法律上招集されなかったと主張している。反対意見:Rhodes, CommAP, 521-22; Markle, “Jury Pay,” 274 と註18; Edward M. Harris, “How Often Did the Athenian Assembly Meet?” CQ 36 (1986): 363-77. ハンセンは、ハリスに” How Often Did The Athenian Ekklesia Meet. A Reply,” GRBS 28 (1987): 35-50で返答している。

70) プニュックスの発掘:H. A. Thompson et al. in Hesperia 1 (1932): 90-217, 5 (1936): 51-200, 12 (1943): 269-283. 3つの時代の年代については、以下の概要を見よ。Thompson and Wycherley, Agora, XIV.48-52; H.A. Thompson, “The Pnyx in Models,” Hesperia Suppl. 19 (1982), 134-47; R. A. Moysey, “The Thirty and the Pnyx,” AJA 35 (1981): 31-37; Stanton and Bicknell, “Voting in Tribal Groups.” 出席者の人数:Hansen, “How Many,” “Athenian Ecclesia and the Assembly-Place”; Stanton and Bicknell, ”Voting in Tribal Groupe,” 68-69 入場制限:Hansen, “Athenian Ecclesia and the Assembly-Place,” 234-44, “The Construction of Pnyx II and the the introduction of Assembly Pay,” CM 37 (1986): 89-98; Krentz, The Thirty, 63; 反対意見:Rhodes, “Athenian Democracy,” 307. ディオニュソス劇場の集会:『アテナイ人の国制』42.4(定期的なエフェボイ〔見習い兵〕の閲兵のため);トゥキュディデス『歴史』8.93-94(411/10年の異常な状態で); W. A. MacDonald, The Political Meeting Places of the Greeks (Baltimore, 1943), 47-61参照。

71) Osborne, Demos, 65,91は、すべての市民が定期的に出席したわけではないという事実を強調しているが、Raaflaub, “Freien Bürgers Recht,” 39-41は対照的である。

72) 部族による座席配置:Staveley, Greek and Roman Voting, 81-82; 参照Boegehold, “Toward a Study,”特に374 反対意見:Hansen, “How Did the Athenian Ecclesia Vote?” 135-36. Stanton and Bicknell, ”Voting in Tribal Groups” (ハンセンへの返答)は、プニュックス第1期と第2期における部族とトリッテュス、およびプニュックス第3期における部族による細分化を主張している。スタントンとビックネルによるプニュックス第2期のトリッテュスの細分化の議論(80-86)は、私には不十分であるように思われる。入場口:Hansen, “Two Notes on the Pnyx.”

73) 民会手当の導入と金額:『アテナイ人の国制』41.3 同じく、Markle, “Jury Pay,” 273-76 上記、第二章 Gを見よ。390年代の後半には、アリストテレスが『女の議会』を書いた時には(183-88行、289-310行、383-95行; 年代はStrauss, AAPW , 143と149註85を見よ)、支払いは早くやって来たある一定の数に制限された。手当の総額の値上がりについては、同じく下記、第三章 E.4を見よ。

74) 全般的に、Staveley, Greek and Roman Voting, 83-87; Boegehold, “Toward a Study”; Hansen, “How Did the Athenian Ecclesia Vote?”を見よ。

75) 5世紀と4世紀のエイサンゲリアの手続きの発展についてのさまざまな見解に関しては、以下の諸研究を見よ。Hansen, Eisangelia, 特に37と註2; Rhodes, “ΕΙΣΑΓΓΕΛΙΑ”; Roberts, Accountability, 15-17, 21-24; Hansen, “Eisangelia. A Reply”; Carawan, “Eisangelia and Euthyna.

76) Hansen, “Duration.”

77) エクレーシアの同意語としての「デーモス」については、Hansen, “Demos, Ecclesia,”130-31を見よ。民会の主権の問題については、下記、第三章 E.4、第七章 Cを見よ。

78) この点に関する完全な議論は、次の論文である。Ernst Kluwe, “Die soziale Zusammensetzung der athenischen Ekklesia und ihr Einfluss auf politische Enstscheidungen,” Klio 58 (1976): 295-333, “Nochmals zum Problem: Die soziale … Entscheidungen,” Klio 59 (1977): 45-81 クルーヴェは、エリート支配に賛成を唱えている。Gomme, “Working,” 12; Finley, “Athenian Demagogues,” 10-11; Rhodes, Boule, 79を参照。

79) 例えば、Jones, AD, 35-36; Perlman, “Political Leadership,” 163.

80) Markle, “Jury Pay,” 特に277-81 彼は穀物価格以上に生活費を過小評価しているように思われる。穀物についての数字は、非常に妥当だと思われる。上記、第三章 註68を見よ。18世紀のフィラデルフィアでの生活費を構成した色々な要素の周到な分析は、Smith, “Material Lives.”を見よ。

81) デモステネス54において、訴訟当事者の母親は、アゴラでリボンを売っていた。同じ訴訟当事者は、経済的困窮の折には、上流階級の女性でも乳母として働くことがあったと述べている。この一節の議論は、下記、第六章 D.2を参照。「ソクラテス」は、財産を失った友人に、機織りのために働く女性を家に入れるように勧めている(クセノポン『ソクラテスの思い出』2.7)。またアリストテレス(『政治学』1300a4-8, 1322b37-1323a6)は暗黙裏に女性労働(または、少なくとも家を出る必要性)とアポリア〔困窮〕を結びつけている。Lacey, Family ,170-71; Keuls, Reign of the Phallus, 220-64, 特に231-32を参照。他の前工業社会との比較は、女性労働が下層階級世帯にとって重要であることを示唆している。都市の女性に関しては、Smith, “Material Lives,” 特に201を見よ。彼は、18世紀後半のフィラデルフィアの未熟練労働者の間で、「女性と子供は滅多に自活することは出来なかったが、世帯主の賃金を補うものとして、彼らの収入は家族の生計のため必要不可欠であったことを論証している。田舎の女性に関しては、R. O. and P. Whyte, The Women of Rural Asia (Boulder, Colorado, 1982), 159-77, 特に159を見よ。「社会経済的に低いレベルの家族は、全収入の非常に大きな割合を女性が貢献している。…アジアの女性の貢献は、しばしば無給の形であった—さもなければ、夫だけの能力を超えた自給自足の地所で働いた。」同書160頁。女性もまた家族の家計に現金を貢献した。「大土地所有地での労働の賃金として受け取った穀物の売却、…多種多様な二次的な仕事、例えば機織り、縫い物、むしろ作りなどから得られたわずかなお金など。…」私はミッシェル・マスキエルに、この文献、および前工業社会の女性の経済的役割についてのコメントに感謝している。

82) 個人のための仕事よりか公共の仕事(例えば、役人として務めることなど)を選択:Raaflaub, “Democracy, Oligarchy,” 531-32; 下記、第六章 Dを参照。Markle, “Jury Pay,” 296-97は、熟練した労働者でさえ、毎日は働かなかったであろうと指摘している。

83) 富裕な市民は、町への訪問のために個人の家の部屋を、仮宿として賃借したかもしれない。アンティポン 1.14.

84) いつものように、アリストパネスに関しては、喜劇の誇張表現と歪曲を考慮に入れなければならない。Dover, GPM, 20-22を参照。しかし、この場合、性的役割の逆転のユーモアは、きっと別のレベルの本当らしくないことが導入されたなら弱められたであろう。もし田舎の男性の民会出席者がすでに風変わりと見なされていたならば、民会出席婦人の「転換」は、理屈に合わないものになったであろう。

85) 田舎の住民と政治参加の問題については、以下の諸研究を見よ。Strauss, AAPW, 59-60, 69 註97と引用された文献、Carter, Quiet Athenian, 76-98; Osborn, Demos, 特に184-85; Hansen, “Political Activity,” 233-38 また、Wood, “Agricultural Slavery,” 13-15は、(Jameson, “Agriculture and Slavery”に反対して)は、地主に借金のない小作農は、市民としての仕事に利用できるかなりの非生産的時間を持っていたと主張している。私は、アリストテレスが過激なアテネのタイプの民主主義よりか、より良いものと見なしていた「農民の民主主義」の議論(『政治学』1319a4-19)—それはある程度、農民が都市にやって来る頻度が少なくなる傾向があるであろうという理由からーは、適切であるとは思わない。というのはアリストテレスは、とりわけ既存のアテネの秩序と対照をなしていた仮定の理想化された国家を論じていたのであるから。

86) 民会とその方法に関しての軽蔑;上記、第三章D. 2. 「想像上の社会」:上記、第一章 C. 6. ; Loraux, Invention, 特に336-38を参照。

87) 演説者を嘲笑し、やじり倒すこと:プラトン『エウテュプロン』3b-c ;プルタルコス『デモステネス伝』6.3; アイスキネス 2.4. おおむね、審議弁論について:Kennedy, “Focusing of Arguments,” Art of Persuasion, 203-206, デモステネスの審議演説の議論: Montgomery, Way to Chaeronea, 39-63.

88) Rhodes, Boule, 3-4; de Laix, Probouleusis, 147 及び上記、第二章 註77を見よ。アイスキネス(3.3-4)は、いつのまにか評議会に入り込み、プロエドリア〔議長〕の権利を自分で手に入れている悪党をののしっている。

89) IG Ⅱ2 233. Rhodes, Boule, 14 註9を見よ。
Perlman, “Politicians,”344は、アッティス〔アッティカの地誌〕の著者であるパノデモスを顕彰したこの決議は、政治グループを支持した投票を意味したと述べているが、これに関しては何ら証拠はない。

90) ブーレウテリオンと関連施設:Thompson and Wycherley, Agora, XIV.29-47 評議会の日数と手当:『アテナイ人の国制』62.2; Rhodes, Boule, 13-14, 30. Hansen, “Political Activity,” 229は、デモステネス 22.36を引用して、「かなりの数の」評議員は評議会に出席しなかったと論じている。

91) J. Sundwall, Epigraphische Beiträge zur sozial-politische Geschchte Athens. Klio Beiheft 4 (Leipzig, 1906); Davies, APF, xix-xx, WPW, 3-6.

92) 例えば、de Laix, Probouleusis, 149-53; Daviero-Rocchi,“Transformations,”39, 44 Osborn, Demos, 66-72, 81による「ブーレーにおける活動は、よく知られた一般的に富裕者次第になった」(引用:68-69)ことを、定量分析によって論証する試みは説得力はない。彼のサンプルはあまりに少なすぎて、統計的に重要な数字をもたらさない。統計分析を不適切に用いる傾向は、これとは別の刺激的な研究のいくつかの議論の中で欠陥の原因となっている。Ober, “Review of Whitehead, Demes and Osborn, Demos,” 73-75を参照。

93) ブーレウタイが2期に限定された証拠:Rhodes, “Ephebi,” 192註7; Osborne, Demos, 45 評議会員を務めた市民の割合:Gomme, “Working,” 20; Woodhead, “ΙΣΗΓΟΡΙΑ,“ 133; Osborne, Demos, 91 (「ほとんどの市民が」少なくとも一度は務めたに違いない), 237註56(市民の約70%が務めた); E. Ruschenbusch, “Die soziale Zusammensetzung des Rates der 500 in Athen im 4. Jh.,” ZPE 35 (1979): 177-80, “Epheben, Bouleuten und die Bürgerzahl von Athen um 330 v. Chr.,“ ZPE 41 (1981): 103-105, “Noch einmal die Bürgerzahl Athens um 330 v. Chr.,“ ZPE 44 (1981):110-112 彼の説はHansen, “Political Activity,“ 229-30に受け継がれている。Rhodes, “Ephebi,“は、人口統計上の要因の理由から30歳以上の有資格の市民はすべて候補者であり、名前は抽籤にかけられたというルッシェンブッシュの主張には反対している。ローズ(同書、193)は、ブーレーは事実上すべての30歳以上の有資格の市民に開かれていたというルッシェンブッシュの意見には同意しているが、なお彼は何らかの選択肢が含まれていることを、また「ブーレーは、全体としての市民団より、いくぶん富裕な人の割合が高い可能性があるように思われる」ことを信じている。ただし、ローズの立場は、他の人がふさわしいに違いないと考えている金持ちによる完全な支配からはほど遠いことに注意。

94) Rhodes, Boule, 3-6引用文:215.

95) アレオパゴス評議会の権限の内に該当した法的裁判と調査の種類:Wallace, Areopagos, 第4章 ii 4世紀のアレオパゴス評議会の規模と構成:同書、第4章i, iv(おそらく平均200人またはそれ以下の人で、平均年齢はおそらく47.5歳。彼らの勤めは無給であった); アレオパゴス評議員の社会的身分:同書、第4章 iv. アレオパゴス評議員によって裁判を受けた訴訟当事者の、「アレオパゴス評議員は他の裁判官よりもより公正で、より価値のある(など)」という趣旨のコメント(例えば、リュシアス 3. 2, [6].14)は、あまり証拠としての価値はない。

96) 日数:M. H. Hansen, “How Often Did the Athenian Dicasteria Meet?” GRBS 20 (1979); 243-46.

97) 公訴と私訴の間の相違点:Hansen, “Rhetores and Strategoi,” 152-55; Sealey, Athenian Republic, 54-55; Osborne, “Law in Action,” 48-52. 裁判の長さ:Harrison, Law, Ⅱ. 47, 161-63.

98) ディカスタイ〔陪審員〕の数:アリストファネス『蜂』662. 『アテナイ人の国制』24.3; IG 2 84 , 20行。また、Rhodes, CommAP, 302-303, 702-703 を参照。陪審員の選出:『アテナイ人の国制』63-69 また、以下を参照のこと。Harrison, Law, 44; Maio, “Politeia,” 29, 44; Rhodes, CommAP, 697-735. Hansen, “Initiative and Decision,” 367は、平均的な「法廷の日」には、約1,500人から2,000人の陪審員が選出されたであろうと見積もっている。陪審員手当:『アテナイ人の国制』27. 2-5, 62. 2; アリストテレス『政治学』1274a8 また、Harrison, Law, Ⅱ. 48-49, 156; Rhodes, CommAP, 339-40を参照のこと。陪審団の規模:Harrison, Law, Ⅱ. 47; MacDowell, Law, 36; Hansen, “Rhetores and Strategoi,” 154, Eisangeria, 10 註14 アゴラ地区の法廷に関する限られた考古学の証拠の概要及び、法廷の設備として同定された遺物の解釈に関しては、以下の研究を見よ。J. Travlos “The Lawcourt ΈΠΙ ΠΑΛΛΑΔΙΩΙ,” Hesperia 43 (1974): 500-11; A. L. Boegehold “Philokleon’s Court,” Hesperia 36 (1967): 111-20; Thompson and Wycherley, Agora, XIV. 52-72; Garner, Law and Society, 39-41.

99) ほとんど陪審員は裕福: Jones, AD, 36-37; Dover, GPM, 34-35; 反対意見: Adkins, “Problems,” 156-57 と註7; Markle, “Jury Pay.”

100) 『アテナイ人の国制』41.3は、3オボロスを超える手当の増額ではなく、エクレーシアスティコンの導入のみを、民会の集会へ市民を引きつける必要性と関連づけている。アリストパネス『女の議会』185-89を参照。高水準の歳入:Humphreys, “Lycurgus,” 204-205; Burke, “Lycurgan Finances.” 祭典のための観劇手当の配分は、余剰金の分配の別の方法を提供した:ディナルコス 1. 56; ヒュペレイデス3. 26; Markle, “Jury Pay,” 290と下記、第三章註116を参照。

101) Markle, “Jury Pay,” 285.

102) Osborn, “Law in Action,” 特に52-53.

103) Hansen, “Demos, Ecclesia,” 131-35. 陪審員は,本質的にデーモスであった、という伝統的な見解は、例えば、Larsen, “Judgement,” 3; Finley, DAM, 80; MacDowell, Law, 40を見よ。「主権の中心」の問題は、単一の国家権力としての政治権力の狭い定義を仮定している。この概念に対する説得力のある批判と単一の主権と権力の分離の観念の歴史的起源(16世紀から18世紀における)の議論に関しては、Bowels and Gintis, Democracy and Capitalism, 特に、22-24, 167と註27を見よ。

104) ヘリアイア〔民衆裁判所〕の誓いに対するディナルコスのコメントに関する問題の分析に関しては、Harrison, Law, Ⅱ. 48を見よ。

105) 例えば、リュシアス 12.94; アイスキネス 3.8; ディナルコス 1.107, 3.16; リュクルゴス 1.4.

106) 代表制に関する問題については、Rhodes, CommAp, 318, 545とHansen, AECA,159-60による返答を、とりわけ、以下のMaio, “Politeia,” 特に24を参照のこと:法廷は一般的な政治文化の規範に従って行動した市民によって構成されていたため、判決は概して、ポリテイア〔国制〕の「所産としもべ」であった。また、同書30:民衆裁判所は、「外見と実体の両方共にポリスを代表し、従って、合法的に主権を行使する市民団体」であった。

107) 陪審員が、優れた演説を要求したり、また演説者の邪魔をしたりする傾向については、例えば、リュシアス 1.52; プラトン『エウテュプロン』9b-cを見よ。V. Bers, “Dikastic Thorubos,” in Cartledge and Harvey, edd., Crux: Essays Presented to Ste. Croix, 1-15参照。

108) 引用と翻訳は、Ehrenberg, People of Aristophanes, 354.

109) D. R. Jordan, “A Survey of Greek Defixiones Not Included in the Special Corpora,” GRBS 26 (1985): 164 no. 48(323 B.C.頃). 富裕な政治家は、クセノクレス(デーヴィス, APF 11234)とデイノメネス(デーヴィス, APF 3188)私は、この文書の存在について注意を喚起し、それの改善された読み方(未公開)のコピーを提供してくれたデヴィッド・ジョーダンに感謝している。

110) 饗宴での売春婦については、Keuls, Reign of the Phallus, 160-68を見よ。笛吹き女:C. G. Starr, “An Evening with the Flute Girls, Parolo del Passato 183 (1978): 401-410.

111) 善行:例えば、リュシアス 21.19; デモステネス18.10 悪行:イサイオス 3.40; デモステネス 19.199-200, 226; ディナルコス 2.8; 同様に、以下を参照のこと。リュシアス 29.6; イサイオス 3.19; デモステネス 21.149.

112) 上記、第一章 註76を参照。Haussoullier, Vie municipal, 179-80は、そのトポスを文字通りに受け取り、ゆえに区とポリスの経験をあまりに直接に同一視している。

113) 下記、第四章 B.4を参照。グループの価値観の遵守を保ち実施するための、またグループの結束を促進するためのゴシップとスキャンダルの重要性については、Max Gluckman, “Gossip and Scandal,” Current Anthropology 4 (1963 ): 307-16を見よ。Starr, Individual and Community, 53は、遵奉に対する高いレベルの関心が、初期のポリスの典型であったことに言及して、規範から逸脱した行為についての市民からの容赦ない非難に関する抒情詩人を引用している。彼はまた(113註1)現代のギリシアのコミュニティーの中で遵奉を実施する手段としてのゴシップの役割について、J. Du Boulay, Portrait of a Greek Mountain Village (Oxford, 1974), 181-82, 200-211を引用している。同様に、以下を参照のこと。Garner, Law and Society, 16-18; Ostwald, From Popular Sovereignty, 特に133(5世紀後半についての話)「……主権を有する民衆によって確立した法律は、社会の道徳的基準を設定することに寄与した。……主権を有する民衆は、規範を政治的行為のみならず道徳的行為にまで定めた」

114) 世論と意志決定過程の間に緩衝装置を設置する現代の政府の傾向については、G. E and K. Lang, The Battle for Public Opinion: The President, the Press, and the Polls During Watergate (New York, 1983), 10-25を見よ。

115) ディオニュソス祭については、一般にPickard-Cambridge, Dramatic Festivals, 57-125を見よ。区の旅の一座については、同書、52とGhiron-Bistagne, Recherches, 193-94を見よ。

116) Buchanan, Theorika, 28-93とSte. Croix in CR 14(19649)190-92の書評を見よ。導入の年代については、Rhodes, Boule, 105と註6およびCommAP, 492, 514を参照のこと。

117) A. W. Pickard-Cambridge, The Theater of Dionysus in Athens (Oxford, 1946) 特に140-41(収容力); Travlos, Pictorial Dictionary, 537-52 座席配置について:Pickard-Cambridge, Dramatic Festivals, 269-72.

118) Winkler, “Ephebes’ Song.”

119) 劇場の座席配置の社会政治的意義については、Webster, Theater Production, 2; Winkler, “Ephebes’ Song,” 30-32; Small, “Social Correlations”を見よ。私は、この問題について議論をしてくれたデヴィッド・スモールに感謝している。競争と判断:Pickard-Cambridge, Dramatic Festivals, 特に95-99; Maurice Pope, “Athenian Festival Judges-Seven, Five, or However Many,” CQ 36 (1986): 322-26.

120) 演劇における社会の表現に伴う複雑さに関しては、例えば以下の諸研究を見よ。Vernant, “Tensions”; Segal, “Greek Tragedy”; Zeitlin, “Thebes”; H. P. Foley, “The ‘Female Intruder’ Reconsidered: Women in Aristophanes’ Lysisitrata and Ecclesiazusae,” CPh 77 (1982): 1-21.

121) アリストテレス『詩学』1452a, 1453a, 1455aを見よ。悲劇は、明らか幸運な人が被った衝撃的で恐ろしい不幸に基づいている。Segal, “Greek Tragedy,” 66-67; Salkever, “Tragedy,” 297, 300参照。

122) 賞:Pickard-Cambridge, Dramatic Festivals, 90. 専門化:Niall W. Slater, “Vanished Players: Two Classical Reliefs and Theatre History,” GRBS 26 (1985): 333-44; 市民の経験と役者の認識の関係:Ghiron-Bistagne, Recherches, 160.

123) 政治の場と劇場の経験の連続性は、デモステネス 21. 226-27で強調されている。Rowe, “Portrait,”特に404-406; Buxton, Persuasion, 特に17-18; Garner, Law and Society, 82-83, 95-130を参照のこと。Sattler, “Conception of Ethos,” 59は、次のように述べている。「弁論家が演説を通して自らの性格を明らかにする方法に集中しているアリストテレスの『弁論術』でのエートス(精神)の議論は、一般的な倫理学的教義(例えば、『ニコマコス倫理学』1113b)だけでなく、演劇の登場人物が議論(ディアノイア)を通して自らのエートスを明らかにする方法の『詩学』(1450a29-33)での議論にも密接に関連している。」また、North, “Use of Poetry,” 6-7は、『詩学』と『弁論術』の間の、特にメタファー(隠喩)の主題について、相互参照が頻繁であることに注目し、アリストテレス学派の『アレクサンドロス宛てへの弁論術』のエウリピデスからの引用の共通性を指摘している。また彼女は、『弁論術』において、アリストテレスは悲劇からの多くの引用を用いており、彼は詩の知識は弁論家にとって「不可欠」なものであると仮定していると述べている。Salkever, “Tragedy,” 293-94は、アリストテレスは悲劇をレトリックの一部門であると見なしていたとさえ述べている。下記、第四章D、第六章D.3を参照のこと。

124) Dorjahn, “Remarks” ; Ghiron-Bistagne, Recherches, 158-61を参照。トリタゴーニステースの用語については、Kindstrand, Stylistic Evaluation, 20と註15を見よ。

125) 例えば、役者であるアリストデモスとネオプトレモスは、重要な外交上の経歴を持っていた:Dorjahn, “Remarks” 228 ; Ghiron-Bistagne, Recherches, 156-57 現代の類似は、インドの政治家・映画俳優の経歴に求められかも知れない:C. D. Gupta and J. Hoberman, Film Comment 23.3 (May-June 1987):20-24を見よ。

126) アリストテレス(『弁論術』1403b24-26, 1413b8-14)は、詩とレトリックの話し方の間には一定の類似点があることを認識していた。Pickard-Cambridge, Dramatic Festival, 168を参照。レトリックと悲劇の関係は、後にヘレニズム期のレトリックの理論に取り入れられた:キケロ『弁論家について』1. 128は、弁論家は「ボックス・トラゴエドルム〔悲劇的な言葉〕」を所有する必要があることを示唆しており、彼は2人の役者に学んだと言われていた(プルタルコス『キケロ伝』5)。North, “Use of Poetry,” 11と註34を参照。

(2022/02/27)


第四章 能力と教育:説得の力

 弁論の能力は、ミヘルスが指摘したように、民主主義における政治的リーダーシップの必要条件であった。(注1)アテネの政治家はいつも、人前で話す優れた能力を持っていたし、生まれながらのレトリックの技術は、たいていレトリックの学校での正式な教育を通して洗練された(上記、第三章 C)。

A 知識人エリート

 政治弁論家は、全体としてアテネの「知識人エリート」のもっともよく目にする分野であったが、上記で論じたように(第一章 B, 第三章 D. 1)、彼らは決して支配エリートにはならなかった。公けの言説において、能力と教育のトピックがどのように取り扱われたのかを分析することによって、アテネの政治的経験と現代の民主主義の機能性との間の連続性と非連続性の両方が明らかになる。アテネ人は多数の聴衆に意見を伝える優れた能力を持っている人びとをどのように考えていたのか、また誰が説得の技法で教育されていたのか?大衆は知識人エリートの野心をどのようにしてコントロールし、そしてミヘルスが民主的組織の不可避の運命と見なした寡頭政への流れと戦ったのか?
 

B 集団の決定と衆知

 重要な政治的決定を下すためのアテネの手続きでは、立法のレベル(民会やノモテタイ〔立法委員会〕による)や司法のレベル両方共に、常に多数の市民集団の前で公開討論を伴い、その後に集団投票が行われた。結論に達した決定は、一般に社会全体を拘束していた。それゆえ、アテネ人の意志決定は、集団の決定は正しい決定である可能性が高いという信念に明確に基づいていた。その結論の言外の意味、およびそれを支えた仮定は広範囲に及んでいた。

B.1 普通のアテネ人の天賦の才能と正式な教育

 大衆によってなされた集団的決定の知恵に対するアテネ人の信頼の一部は、アテネ人は生まれつき他の民族より知的であるという確信に基づいていた。例えば、アイスキネス(1.178)はー彼の考えではー、アテネ人は生まれつき他の民族より賢明で(エピデクシオイ)であり、それで自然により優れた法を作ったと明言していた。デモステネス(3.15)は、アテネ人は他の人より演説の意味を掴むのが早かった(オクシュタトイ)と述べていた。イサイオスの依頼人(11.19)は、陪審員は聡明な人(エウ・プロヌーシ・ヒューミン)であり、自分自身で十分に事の良し悪しを判断できるため、目下の主題についてこれ以上語る必要はないと述べた(エウリピデス『メディア』826-27, 844-45を参照)。

 自分たちが賢明な仲間だというアテネ人のイメージは、時々演説者が聴衆に恥ずかしい思いをさせて有利に投票をしようとするのに利用された。デモステネス(23.109)は、オリュントス人はピリッポスに対して前もって計画を立てることができたことをはっきり示していたと述べて、「政治審議ですぐれた能力を持っているという評判の」アテネ人が、単なるオリュントス人よりも劣っていることが証明されたならば、それは確かに恥ずべき事(アイスクロン)でしょうと主張した。また、他の所で(18.149)、デモステネスは、アイスキネスはアンピクテュオニア〔訳注1 〕の評議会のアテネ人以外のメンバーが「演説に慣れていない人たち」であったため、アイスキネスが騙すことができたと述べている。つまり、デモステネスは、現在の経験豊富なアテネ人聴衆は、そう容易くは騙されないだろうと、それとなくほのめかしている。ディナルコス(1.93)は、陪審員の中で、誰がデモステネスに投票をするほど盲目的に楽観的であり、無知(アロギストス)で、あるいは、事情に通じていない(アペイロス)のかと疑問に思い、デモステネス自身は、自分の演説能力と陪審員の単純な精神(エウエーテイアス)に過度の信頼を置いていたと示唆した(1.104)。ヒュペレイデス(3.23)は、訴訟相手が陪審員を自分の厚かましさを見抜けない愚か者(エーリティウース)と見なしていると主張した。

 一般のアテネ人の生まれつきの知性は、少なくともいくつかの正式な学校教育によって強化されたかもしれなかった。アテネが教育において卓越していたことは、葬送演説のトポスであった。(注2 )しかし、実際はヘレニズム時代以前のギリシアのポリスの初等教育についてはほとんど不明であるし、非エリートの教育については、事実上何もわかっていない。(注3 )基本的なリテラシー -若干の単語を読み書きできる能力- は、少なくとも4世紀頃には、おそらくもっと以前に、アテネの都市の住民の間では一般的であったように思われる。(注4 )市民として職務を果たすためには、確かに、多くの公職の責務を果たすためにも、アテネ市民は基本的な文字を使いこなす力を必要とした。その一方で、多くのアテネ人が楽しみや、教育のために簡単に頻繁に読書をするという意味では、完全に読み書きできたとは考えにくい。どちらかと言えは、書物は希少で、そして高価であった。書物は5世紀後半には、もはや珍しい物ではなかったであろうが、多分、まだ多くは教育されたエリートの所有物であった。そして、アテネの政治文化は、その本質は依然として口承文化であった。(注5 )従って、葬送演説において(トゥキュディデス『歴史』2.40.2)、ペリクレスは、アテネ人は演説(ロゴイ)は行動の妨げになることはなく、むしろ行動を起こす前に公開討論で十分な指導を受けないことが不名誉であると考えていたからこそ、良い政治的決定を下したと強調した。(注 6)

 たとえ、一般のアテネ市民が、完全には読み書きする事ができなかったとしても、広く文学の教養の成果に触れていた。パンアテナイア祭やディオニュシア祭での国家の補助金付きの上演は、平均的な市民に詩や音楽、そして舞踏などを経験させた(上記、第三章 E.6)。アテネ市民はまた、ヘロドトスがうわさでは自らの『歴史』を朗読したような公開の朗読会に出席したかも知れない。(注7 )平均的な市民は、少なくともホメロスの物語や古きアテネに関わる神話や伝説を知っていたことは疑いの余地はなかった。両親や親類から多くのことを学んだであろうし、他の人、特に区の年長者の話に耳を傾ける過程で何気なく聞き覚えたであろう。

 アテネ市民は民会に出席し、陪審員として法廷に参加することで、洗練されたレトリックをかなり経験して、自分たちが議論の真価とそれが述べられたスタイルの両方を判断する能力があると考えた。ミュティレネの討議において(トゥキュディデス『歴史』3.38.2-7)、クレオンは、陪審員がポリスの運命に影響を与える重要な決定に関与する者のように振る舞うというよりは、レトリックの通のように考えていて、あたかもソフィストの言い争いを聞いているかのように行動しているのを非難している。この洗練されたレトリックに対する好みは、確実に4世紀まで続いた。デモステネスのスキルのレベルに達する演説家は多くはなかったが、アッティカの弁論家の全集は、その時代に審議的かつ法的なレトリックが達していた高い水準と、洗練された演説に対するアテネ民衆の鑑賞力の両方の証しである。(注8 )概して、一般の市民は、恐らく、より高度な正式な教育を受けたエリートの仲間の市民が、区別するよう教えられていたかもしれなかった詩、舞台芸術、歴史、そしてレトリックの分野の区別をしなかったとしても、これらの細かな点の多くを正しく評価できたと仮定できるかもしれない。

B.2 政治の実践教育

 ペリクレスは、葬送演説の有名な一節で(トゥキュディデス『歴史』2.41.1)、アテネの都市を市民に対する、またヘラスのすべてに対する教育と称賛した。ポリスによって与えられた教育は、決して文学上の教養やその大衆的な副産物に限られてはいなかった。市民の教育の大部分は、政治的役割の履行を通してもたらされた。(注9 )民主政体に関する市民の最初の正式な経験は区〔デーモス〕においてであり、それは彼が区民に紹介され、彼らが彼に市民権を付与するために投票をした時であった。区の政治機構は、理論と実践両方でポリスの政体にならって作られた。区の民会は、ホワイトヘッドが「共同の意志決定と責任」の「基本原則」と呼んだ市民にとっての訓練の場であった。(注10 )上記で示唆したように(第二章 F.1)、異なった区のメンバーは、アッティカの他の場所からの住民との協力の仕方を、部族集会や特に評議会で学んだ。そして、そのことが、市民に政体の多くの側面の広範囲なかつ詳細な外観を伝えた。(注11 )他の公職での仕事は −500人の評議員〔ブーレウタイ〕に加えて、毎年約700人の他の役職が補充されー、市民に国家や社会の異なる要素に関係するなお一層の経験を与えたかも知れなかった。(注12 )兵役もまた、重装歩兵の行進や三段櫂船を漕ぐ人々の協力の必要性と共通の目的の感覚を徐々に教え込むのを促進することによって有益な教育を提供した。(注13 )少なくとも4世紀末の1/3世紀〔330-300年〕には、多分もっと早い時期に、国家はエペボイ〔訳注 2〕-年齢が18歳と19歳の市民-に2年間の道徳、宗教、そして正式な軍事訓練を提供した。(注14 )最後に、上記で述べたように、陪審員および民会出席員としての仕事の経験は、市民の実践的な政治教育において最も重要な点であった。

B.3 国家制度の規範的機能

 ポリスの教育的機能は、個々の市民に提供された政治的過程での「実践的な」訓練に限られてはいなかった。恐らく、大衆のイデオロギーとエリートの政治理論の両方において、政治制度の組織と活動を通して表明されたポリスの精神(エトス)の規範的な役割がより有効であった。良い人生は良いポリスでしか送ることができない、それゆえ、市民の道徳的義務はポリスの精神を向上させることであり、良い国家の精神は、その制度によって例証され維持されるであろうという確信は、プラトンとアリストテレスの政治思想の中心である。(注15 )イソクラテスも、完全に同じ意見であった。つまり、彼の理想のパイデイア〔教育〕が重点を置いたのは、子供の正式の教育のみならず、優れた制度が大人の市民に教えこんだ道徳的教育でもあった。(注16 )エリートの政治理論と大衆のイデオロギーの間のように、イソクラテスとプラトンの間の意見の相違は、国家とその制度が道徳的善の反映であるべきかどうかについてではなかった。(注 17)論争はむしろ、善をどのよう定義すべきか、誰が善を達成できるか、そして善は教えられるかどうかといった問題に関わっていた。

 アテネの大衆は、エリート理論家と違って、現状は素晴らしく、たとえ不完全でも改良は可能であると仮定しがちであった。それゆえ、国家制度は本質的に優れたものであり、それは市民を向上させる上で、主要な教育的および規範的な役割を果たすことが当然期待された(プラトン『ソクラテスの弁明』24d-25aを参照)。民主主義の直接性を考慮すればー政府が民衆と国家の間に介在していないことーこのことは、法律はできるだけ公正で民主的でなければならないというだけでなく,民会および法廷で下された決定は、重要な教訓的役割があったということを意味していた。良い決定は市民をよりよくするであろう。つまり、悪い決定は市民を一層悪くさせるかもしれなかった。従って、例えば、デモステネス(19.343)は、「アイスキネスとその仲間に有罪判決を下さないと、すべての市民が悪い状態を招く結果となるでしょう。というのは、個人の財産を公共の利益のために費やした人だけが悪し様に扱われる一方で、すべての人は裏切り者が富と名誉を受け取るのを見ることになるでしょうから」、と主張することができた。重大な政治的役割を果たした市民は、規範的な意志決定の重要な焦点であった。デモステネス(22.37)は、現在の評議員〔ブーレウタイ〕が、レートールによって騙された罰として名誉の冠を失った場合、将来の評議員は勤勉に任務を遂行し、政治専門家に議事を任せるのを拒否する気になるだろうと力説した。しかしながら、裁判の決定の教訓的例は、男性市民の政治的行動に限られてはいなかった。アポロドロス(伝デモステネス59.113)は、娼婦ネアイラを無罪放免にすることは、貧しい女性市民に嫁資のお金を得るために娼婦になることを奨励することになるだろうと論じている。

 民主主義が機能するのを可能にした政治的価値とイデオロギーの教訓において、きわめて重要な点は都市の若者の教育であった。アイスキネス(3.246)は、レスリング場(パライストライ)や、正式な教育制度(ディダスカレイア)、また叙情的な詩歌(ムーシケー)は、それだけでは都市の若者を教育(パイデウエイ)しない、より重要な点はデーモスの決定(タ・デーモシア・ケーリュグマタ)である、と論じている。リュクルゴス(1.10)は、若者の教育は国家が不正を罰し、高潔さを報償することから成り立っていたので、陪審員は投票が若者に刺激となるに違いないと十分に知っていた、と主張した。イソクラテス(20.21)は、陪審員に自ら集団で不正を行わないように、さらに傲慢の罪で告発された金持ちを無罪にすることで、市民大衆を軽蔑することを(カタプロネイン・トウー・プレートゥース・トーン・ポリトーン)若者に教えないようにと促している。

 イソクラテスの若者と傲慢な金持ちについてのコメントや、デモステネスの評議員〔ブーレウタイ〕と政治専門家についてのコメントは、大衆の決定の規範的機能が、現存する社会政治学上の不平等の光に照らして特に重要であったことを示唆している。リュシアスの依頼人(30.24)は、上手に演説できない者を罰することは、手本としては役に立たなかったが、演説に優れた者(デユナメノイ・レゲイン、上記、第三章B.1を参照)に処罰を行うことは、他の者に対しては立派な手本(パラデエイグマ)であると述べている。(注18 )そして、デモステネス(21.183)は、陪審員にかって彼らが同情せずに、穏健(メトリオス)で民主的な価値に従った男(デーモティコス、下記、第五章Fを参照)を有罪にしたにもかかわらず、メディアスの裁判で、金持ちを容赦するという例(デエイグマ)を作らないように熱心に説いた。さらに、陪審員の決定は、エリート市民を大衆によって確立された規範に従うことを強制する手段と見なされることがあった。リュシアス(14.45)は、若きアルキビアデスを有罪判決することは、自ら民衆指導者になろうと計画している友人(ピロイ)にとって良い例になるでしょうと力説している。デモステネス(51.22)は、アテネ人が金持ちに国家に最低限しか支払わず、法廷で弁護するために多くのレートールを雇い入れることを教えるのを恐れて、陪審員に専門の演説家の説得に依存して国家に物質的に貢献しようとする人の名誉心(ピロティミア)を許さないように力説している。もっと肯定的な記事としては、アイスキネス(2.183)は、陪審員がデモステネスから自分を救ったならば、ほかの多くの人々がポリスの共同の利益のために働く準備ができているのに気づくでしょうと述べている。

 アテネ市民にとっては、民会決議や法廷の判決は、問題となっている特定の事例を越えて、正式な国制上または法的判例の法規以上の意義を有していた。民主主義は、市民住民の間でイデオロギー上のコンセンサスを維持することをよりどころにしていた。正式な国営の正式な教育システムが欠如していたので、デーモス自身が、民会や法廷を通して、市民に社会的価値を浸透させるという仕事の大部分を引き受けた。いまだ完全には社会化〔訳注3 〕されていない若者や、民主政体に相反する価値体系の影響を受ける可能性のあるエリートは、法律や法的判断を通しての規範的教育の多くが向けられた特定の集団だった。しかし、市民は皆良かれ悪しかれ、国家の法律だけでなく民会と陪審の正しい決定と間違った決定によって教育を受けた(アイスキネス 1.192-95を参照)。

B.4 大衆の知恵

 民会と法廷の教育機能は、正しい決定を下すことをますます重要にした。さまざまな意志決定機関は、生まれつきの高い知性を持った(あるいはそのようにアテネ人が信じることを好んだ)市民からなっていて、少なくとも基本的には読み書きができて、全体として文学的な文化を十分に理解しており、政体の仕組みや共通の目的に向かっての協力での高度な実地経験を持っていた。しかし、これらの要因は、集団の意志決定におけるアテネ人の信念の強さを十分には説明していない。むしろ、その信念は大規模な集団の衆知は、その一部分の知恵よりか本質的に大きいという仮定に基づいていた。この確信は,アテネの政治的イデオロギーの中心的平等主義の信条の一つである。それは意志決定プロセスの構造と、アテネ人が個人の性格と行動の指標として「共通の報告」に積極的に重点を置いたことの両方に暗に含まれている。それゆえ、「すべての人が知っている」ということはーあるいはすべての人が信じていることはー正しいように思われた(上記、第三章E.5)。

 専門的な技術や教育を受けていない個人で構成された集団が、賢明な判断をもたらす傾向があったという仮定は、プラトンによって、時にはエリートのテキストの他の著者によっても明確に、断固として、繰り返し拒否された。(注19 )しかし、エリート作家の中には、進んで衆知の概念を真剣に検討する者もいた。「ソフィスト」を非難する小論の中で、イソクラテス(13.8)は次のように述べている。一般の意見(ドクサイ)に頼る人々は、お互いの意見に一層同意する(マロン・ホモヌーンタス)傾向があり、しばしば、正確な知識(エピステーメー)を持っていると公言する者よりか誤りがない。ゆえに、イディオータイは専門的学問を軽蔑する正当な理由がある。この一節は、より高度な教育をめぐるエリート内部の議論の文脈で書かれたもので、必ずしもイソクラテスの一般的信念を表わしてはいないが、それは彼が論争の目的のためには大衆のイデオロギーのトポイを進んで、かつ使用することができたことを示している。(注 20)恐らく、より印象的なのは、アリストテレス(『政治学』1281a39-b9)のその問題の扱い方である。民主主義の長所の議論の文脈で、アリストテレスは、大衆(プレートス)が、優れた少数よりも恐らく良い国家の主人(キュリオス)だろうという可能性を唱えている。彼は大衆を構成する個人は、優れた人(スプーダイオイ・アンドレス)ではないが、彼らは少数の人よりか全体として良いかもしれないと論じていた。それゆえに、アリストテレスは、大衆は満場一致で、音楽、詩、そして他の分野での最善の審査員であったと指摘している。つまり、大衆はその多くの意味で、その特徴(タ・エーテー)や意志決定能力(ディアノイア)に関して、一人の人間のようになっていると。この観点にはいくつかの異議もあることに留意しながらも、アリストテレス(1281b9-1282a41)は続けて、個々に劣った人の部分が集まった全体は、実際には非常に優れているので、法廷、評議会、そして民会に重要な問題の責任が任されるべきであると指摘している。(注21 )

 イソクラテスやアリストテレスが、少なくとも進んで衆知についての考えを熟考していたならば、政治弁論家が通常それを当たり前のことと思ったのは驚くことではない。大衆の意志決定についてのエリートの非難は、トゥキュディデスによるシュラクサのアテナゴラスの演説によってはっきりと論駁された(トゥキュディデス『歴史』 6.39.1)。彼は民主主義は賢明でも真に平等主義でもないという論議に対して、大衆(ホイ・ポロイ)は賢者(クシュネストゥース:自分のような人気のある演説家を意味した)の審議に耳を傾けていたので、平等の正しさと有益性が何であるかの最高の審判員であると主張することで反論した。(注 22)デモステネス(『序論集』44.1)は、次のように述べている。もしアテネ人すべてが、目下の問題に同じ意見を持っていたならば、たとえ私自身の意見が違っていても、民会の前にはやってこなかったでしょう。というのは、「私は、一人であるということは、あなた方皆さんよりも間違いを犯しやすいでしょうから」、そして、再度(『序論集』45)、デモステネスは、良い演説を行うことと,健全な政策を選択することは同じではないと論じた際に、前者はレートールの仕事であり、後者は知性(ヌース)を持つ者の仕事であると述べている。それゆえに、彼は次のように続けている。「あなたがた、一般大衆」は、弁論家と同じように演説することを期待されてはいないが、「あなた方は、特にあなた方の年配の者は、演説者の知性以上のあるいは同等の知性を持っていることを期待されている。というのは、まさに経験と多くのことを見てきたことが、知性を生み出すのであるから」。年配の市民への訴えは見え透いているが、その一節は同様に、一般大衆による全体としての判断は個人の認識より優れており、単なる演説よりも重要だという確信を肯定している。陪審員の無定見さを厳しく非難している時でさえ、デモステネス(23.145-46)は、陪審員のすぐれた判断を強調し、あらゆる人(ハパンテス)が、収賄の政治家が国家で最悪の者であることを十分に正しく同意していると主張した。

 レートールが演説していた特定の集団の大衆の知恵に対する訴えは、アテネ人が全体としての市民団の集合的な知識、経験、判断に対して持っていた一般的な信頼に基づいていた。ヒュペレイデス(1.14、上記第三章、E.5で引用)は、ポリスにおいては誰もが「あなた方の大多数」を欺くことはできないという仮定に言及することで、その人のすべての生活に基づいた法的弁護の有効性に関する議論を支持していた。ディナルコス(1.33; 参照2.2)は、「あなた方〔陪審員〕は」、デモステネスの人生の事実を「私より以上に」「すっと良く見ているし知っている」と述べている。ディナルコスは、続けてかなり詳細にデモステネスの悪事に言及しているので、彼は聴衆がすべての陪審員または個々の陪審員の誰かが、彼自身よりも実際にデモステネスの人生についてもっと知っていると信じることは期待できなかった。むしろ、彼は個々の知識よりも集団に重点を置くイデオロギーで連帯を表明していた。アテナゴラス、デモステネス、ヒュペレイデス、そしてディナルコスらは皆、意志決定のプロセスにおいては専門の政治家に役割を委ねるが、各自大衆の衆知が最終的な決定者であるに違いないと断言している。(注23 )

 集団としての衆知に対するアテネ人の信念は、法律の知恵の信頼と矛盾するとみなす必要はない。法律は大いに尊重された表現であり、そして大衆の知恵の「具現化」であった。法律は場合によっては少なくとも、アテネの数世代にわたって認められてきて、それゆえ時間の経過とともに大衆の衆知の縮図を表していた(下記第七章Cを見よ)。法律はデーモスの判断とは関係のない、あるいはそれをチェックするものと見なす必要はなく、むしろ、最も大事にされかつ時の試練を経た理想のいくつかの部分的な表現と見なさなければならない。

C. レトリックの危険

 アテネ人の集団の決定についての強調は、訴訟相手の二枚舌の議論は衆知、知識、経験について疑問を呈していたと陪審員を説得しようとする法廷の弁論家の戦術の文脈で見なければならない。陪審員は、不当に集団の意志に反対しようとした一人の個人(敵対者)と対峙した統一された市民団体の役割を割り当てられた。そもそも、アテネ・モデルの直接民主主義において、集団は個人に必ずまさっていたので、聴衆に集団対個人という気持ちを生み出すことに成功した弁論家が勝利した。これがデモステネスが陪審員に、法廷では「今日まで、誰であれ諸君、あるいは法律、あるいは誓約にまさる力を持った者はいなかった」と思い出させ、陪審員にアイスキネスが彼ら自身よりもまさる力を持つことにならないようにと促している際の戦術であった(19.297)。もちろん、訓練を積んだ有能な演説家のエリートが、陪審員の意志に反対しようとする可能性は最も高かった。デモステネスの依頼人(39.14)は、「あなたがた陪審員は」、最も賢明な人々(トゥース・パヌ・デイヌース)でさえも、出過ぎたことをしようとする時には、彼らを管理下に置いておく方法を知っていると主張している。リュクルゴス(1.20)は、「あなた方陪審員」は、被告が用いた事前準備(パラスケイアス)について無知ではないと確信をもって主張している。

C. 1  レトリック対大衆の知恵

 しかし、大衆の知恵についてのアテネ人の一般的な信頼にもかかわらず、疑念は消えずに残った。公開裁判や多くの民会の審議の敵対的性質により、投票者は二人の演説者の間で(あるいは可能性としては、民会ではもっと多くの演説者の間で)、最善の決定を唱えることのできた1人だけを選ぶことを余儀なくされた。陪審員または民会出席者がより巧みな演説者に騙され、あまり巧みでない演説者が正しかったとしても、彼を拒否するということが非常に現実的な可能性としてあった。これは、特に、アテネ人が民会と法廷が持っていると考えた規範的役割に照らしてみれば、潜在的に重要な政治的問題であった。結果として、アテネの陪審員は、弁論家Aによって弁論家Bの雄弁を用心するように何度も警告された。アイスキネスは陪審員にデモステネスのレトリックのトリックに気をつけるように促している。つまり、「あなた方は、体育場の競技において、拳闘選手がポジションをめぐって互いに争っているのを見るように、ちょうどそのように、ポリスのために、あなた方〔陪審員〕は、彼〔デモステネス〕と一日中、彼の演説に関して意見をめぐって争わねばならない」そしてデモステネスのごまかしの戦術に注意しなければなりません(3.206)。

 レトリックの技術は、民主主義の意志決定プロセスの有効性に対する潜在的脅威であるという認識は、専門的な演説家を難しい立場に置いた。演説の力を利用して、大勢の聴衆を騙して全体の利益に反する投票をさせようとした弁論家は、明らかに大衆よりか,優れていると公言していたし、デーモスが嫌悪の対照と見なさなけらばならない状況であった。それでは、もしレトリックが欺瞞を含んでいるのなら、そもそもどうして専門家のレートールが、デーモスに演説することが許されたのか?『冠について』(18.280)で、デモステネスは、熟慮の上での意見によれば、レートールの価値を構成したものを明確に説明している。アイスキネスは美声とレトリックの能力を、公に見せびらかすためだけに告発を開始したと非難した後で、デモステネスは「しかし、アイスキネスよ、弁論家の価値は、その声量でも、言葉(ロゴス)にあるのでもなく、むしろ多数の市民と同じ選択をして、祖国と同じ敵を憎み、同じ味方を愛することにあるのだ。そうした心構え(プシュケー)でいる者は、すべてを愛国心から(エぺエウノイアイ)語るであろう」と公言している。この一節は、文字通りに取れば、正当な政治的または法的な議論の余地を残していない。つまり、尊敬すべき弁論家は、多数の市民と同じことを選択し、それゆえ、人前で話す際には、彼は単に大多数の聴衆の要求を声に出している。集団の知恵は個人の知恵に優るが故に、大衆の要求は正しい要求であり、これらの要求を言葉に表す弁論家は、それゆえ正しい判断を主張している。デモステネスの政敵は別の判断を主張するので、彼は間違っているし故意に民衆の選択に敵対しているに違いない。

 デモステネスの言明は、政治的議論の基礎としての意見の正当な違いを排除することによって、弁論家が自分とはかなり違っている立場を主張した演説者に、考え得る最悪の動機を帰することを可能にー要求さえーした。大多数の願いと一致しない見解を取るのは正当な理由がないので、そうすることに固執した人は誰でも、非合法かつ利己的な個人的な利益によって動機付けられたに違いなかった。こうして、弁論家の共通の策略は、政敵や政敵の支持者は、彼らが行ったことを言うために賄賂を受け取ったか、または雇われていたことを示唆することであり、いずれの場合でも、彼らは真実を語ることよりかお金を儲けることを明らかに好んだ。個人的な豊かさが大衆に同意するよりも価値があると判断した収賄者は、言うまでもなく民主主義への愛を持っていなかった(下記、第七章 F. 2を参照)。実際、収賄者は民主主義を嫌悪して、恐らく民衆の権力を破壊する革命を支持したいと考えていたと言ってもさしつかえないかも知れない(例えば、リュシアス25.26-27)。大衆に同意することは正しいことであるという仮定は、相手を裏切り者と見なさなければならないという意味にたやすくなった。アテネの政治的な非難の容赦ない性格は、この推移を踏まえて見なければならない。

 大衆に同意することについてのデモステネスの言明は、極端な見解であり、後で(第四章 E)見るように、『冠について』の終わりの方で、彼は非常にさまざまな弁論家の役割の解釈を示唆している。彼の言明は、演説者は正確に民衆の選択に気づいていたことを仮定している。いくつかの問題について、大ざっぱに言って、弁論家は大多数が好むと思われたものを知っていたのは疑いない。しかし,大衆の意志が実際にデモステネスが暗示したように自明のものであったならば、イセーゴリアは必要がないだろうし、アテネ人はわざわざ長い議論を聞く必要や、投票する必要さえなくなるであろう。つまり、すべての決議はコンセンサスによったであろうし、拍手喝采で公表される可能性もあり得るだろう。しかしながら、民会集会や陪審員裁判の構造は、議論が正当でありかつ必要である問題が存在しているという前提に基づいていた。デモステネスの言明は、演説者と聴衆の間の関係の主題について、イデオロギーの範囲(スペクトラム)の一端を定義するのに役立つ。それは、実際にはめったに達成できない普遍的なコンセンサスによる意志決定の理想を表している。しかしながら,コンセンサスに基づく政治形態の理想は、4世紀にも生き残っており(その起源に関しては、上記、第二章 Eを見よ)、その理想は弁論家は単に物言わぬ大衆の意志の代弁者であるべきであるという概念を強化した。この一連の思想は、アテネの政治イデオロギーの重要な側面であり、お互いの隠された動機に関する弁論家による非常に極端な発言の正当化をもたらした。

 通例、民衆の採択は少なくとも正式には表面には出ないままであり、それゆえ投票が行われるまでは、議論は正当であると見なされた。しかしながら、民会または陪審員の投票は、明瞭な民衆の意思の表明であった。議論に続いて行われた投票の後では、デーモスは少なくとも、ある演説者は後に正しかったことが判明した立場に反対していたことが、またある演説者は大多数の意志を表明したことが分かった。弁論家は一人として、あらゆる投票に勝利することは望めなかった。そもそも、頻繁に公開裁判に携わり、民会で何度も演説した専門の政治家は、時には敗れたに違いなく、敗れた時には、公然と集団に反対していたという苦しい立場にあった。弁論家はどのように自らの失敗を説明し、大衆が反対した政策を進んで提唱し続ける意向を正当化したのか?デモステネス(9,54)は、邪悪な悪霊がアテネ人を自分よりか、ピリッポスによって買収された手先の方を選ぶように駆り立てていると示唆したが、これは何度も使いたいと思う主張ではなかった。(注 24)より一般的なのは、衆知にも関わらず、ずる賢く表面的には説得力があるが、邪悪で人を迷わす相手の演説に、民衆は騙されていた(あるいは、かもしれない)と示唆することであった。

 それゆえに、デーモスを納得するのに自ら失敗したことや、相手の成功を少なくともある程度正当化するために、弁論家は民会や陪審そして国家全体を誤りに導くレトリックの力を認めた。例えば、デモステネス(51.20)は、レートールの演説(デーメーゴリアイ)のせいで、国家の多くの問題は悪い状態からさらに悪い状態に進んでいったと述べた。(注25 )この傾向は,財政的に困難な時代に一層酷くなる可能性があった。リュシアス(30.22)は、そうした時代は、評議会はレートールの悪辣なアドバイスに説得されて、エイサンゲリアイ〔弾劾〕を承諾したり、市民の財産を公表する気にさせられたと述べている。しかし、市民自身はイディオータイとして、全体としてはデーモスとして、結局は被害を被った。アイスキネス(3.233)は、民主的ポリスでの正しい状況は、イディオーテースが法律と投票を通して支配する(バシレウエイ)ことであったのに、デモステネスに賛成の投票をした陪審員は、自らを弱体化させてレートールを強化するだろうと主張した。(注26 )

 人々を欺いて不当に投票をさせることが可能であった弁論家は、他の市民すべてに対する明白な脅威であった。(注27 )ヒュペレイデス(5.25-26;参照4.27)は、次のように述べている。もし、彼らが被告であるなら、イディオータイであり、経験不足の陪審員のメンバーは、現在起訴された人々のレトリックの能力(カ[タレー]トレイテイス)に法廷で圧倒され、その後、彼らは無実にもかかわらず、有罪判決を受け、処刑または追放されることになるであろう。演説の能力を非常に重視する弁論家は、無益と思えないばかりでなく、国家全体にとって脅威でもあった。(注 )彼は自らを民会決議より優位に置いて(例えば、デモステネス 51.22)、上手に語る能力は彼に訴追からの免責を与えると信じていた(アリストテレス『弁論術』 1372a11-17)。アイスキネス(3.253)によれば、デモステネスは雄弁であったので、言葉の船でポリテイア〔国制〕を航行することが可能であった。デモステネスは、自ら民主主義の擁護者と名乗りながら、それはすべての人に共通するはずだが、実際には、彼は真の民主主義者であることから最も遠かった(アイスキネス3.248)。一方、デモステネスは、アイスキネスは演劇で役を演ずるかのように気楽に告発を行い、制限時間内に証人を用いずに相手を有罪にする能力は、演説でのずる賢さの証拠であったと主張した

 たとえ、アテネ人がレトリックの表現を楽しんでいたとしても、専門の弁論家と言葉の技術に疑惑の念を抱き続けていたことは、ほとんど疑いの余地がない。政争に巻き込まれた弁論家は、自分自身もまた汚名を被るという明らかな危険性にもかかわらず、相手に対してレートールについての世間一般の不信を利用したかもしれない。ディナルコス(1.98)は、アテネ人に警告を示唆して、レートールを用心させた神託を陪審員に思い起こさせている。ヒュペレイデス(断片80 [ジェンセン] = B.19.5 [バート])は、レートールはみんな蛇のようで、それゆえにいとわしい存在であると公言した。彼が言うには、人に害をなすマムシのような者もいれば、一方でそのマムシを食べる毒蛇の役目をする者もいた。多分、ヒュペレイデスは、聴衆に自分の相手は前者のカテゴリーで、自分は後者であると考えることを望んでいた。しかしながら、聴衆がなぜ蛇を我慢しなければならないのかと自問するのも道理にかなっていたかもしれなかった。弁論家は、相手の信用を傷つけるために、レトリックに騙されるというデーモスの危惧を利用した。そして、レトリックの力は、政治家になぜ政策が時に民衆によって拒絶されたのかという説明のための便利な言い訳を提供した。しかし、専門の政治家が、アテネの政治の舞台で開業するのが許されるべきだった理由の中心的な疑問は、まだ答えられていない。実際、上記で弁論家によって引用された議論は、民主的意志決定のプロセスから、レトリックの専門家を除外するのを支持する強力な事例の資料を提供するように見えるかも知れない。

C.2 レトリックの教育の弊害:CENTER:ソフィスト〔訳注 4〕とシューコパンテース〔訳注5 〕

 聴衆をだまして、誤って投票させる弁論家の力は演説能力にあった。そして、そのことは、一般に少なくともある程度は専門教育の結果であった。レトリックの教育は、大衆の不信感の潜在的な焦点であった。つまり、最悪の場合、それは国家の腐敗と破壊的な影響力として特徴づけられることがあった。『ラクリトス弾劾』(35.40-43)の演説で、デモステネスの訴訟依頼人は、レトリックの訓練に対する陪審員の不信を利用した。彼は「私自身は、ソフィストになりたくて、その目的のためにイソクラテスに法外なお金を支払う人に悪意を抱きはしないが、そうした人々が、他の者を軽蔑する(カタプロヌーンタス)権利を持っているとか、自らを有能である(デイヌース)と考えたり、他の市民をだますために自分の演説を当てにする(トーイ・ロゴーイ・ピステウオンタス)のが正しいとは思わない」と主張した。彼が言うには、これらは狡猾な熱弁で陪審員を惑わすことができると信じている、不誠実(ポネーロス)なソフィストの態度や行動であった。被告ラクリトスは、自らを陪審員をだます名人であると考え、同様のことを教えることで他の人からお金を徴収した。しかしながら、告発者は、ラクリトスが雄弁とイソクラテスに支払った1,000ドラクマを信じて、現在の陪審員をだますことができたなら、相手は確かに最高のソフィスト(ソポータトス)であると認めねばならないことを認めた。

 この一節は非常に巧妙に構成されている。告発者は、レトリックの教育のトピックに関する中立性の主張で始めて、被告のレトリックの訓練がいかに彼を尊大にかつ危険にしたかを明らかにしている。このことは、必然的に、もし陪審員が被告を無罪にするならば、彼らは特別な訓練のおかげで、自分たちが大衆よりも優れており、有罪判決から安全であると考えた邪悪なソフィストのやり方を黙認することになるだろうという結論に導く。ラクリトスはイソクラテスの弟子だけでなく、独自に教師であったので、彼の無罪判決は、おそらく他の人に陪審員をひっくり返す彼のやり方を学ばせる気にさせたであろう。この観点から見れば、レトリックの学校は、ヒュペレイデスの比喩を借りれば、全国家を毒するマムシの巣であった。正しい社会的行動のモデルを確立し実施するという教訓的な陪審員の機能は、ソフィストによってレトリックの説得力を、生徒になりそうな人に証明するのを助ける物の一つに歪められた。(注29 )

 イソクラテス自身は、敵対者が彼に公共奉仕を負わせることに成功した時に、自分が想像していたほどアテネ人の間で人気の無いことを悟った。その件のイソクラテスの弁明によれば(15.30)、財産交換〔訳注 〕の裁判で、相手は彼の演説の力(テーン・トーン・ロゴーン・トーン・エモーン・デユナミン)に対する陪審員の不信を利用し、かつ生徒数の多さを強調した。さらに(15.30)、彼らはこうした生徒の間には、イディオータイのみならず、レートールや将軍、加えて王や僭主までいたと強調した。(注30)

 ソクラテスの処刑は、例外的なケースであり、例外的な歴史的状況で実施されたが、ソフィストおよび危険な人物の教師とレッテルを貼られることは、アテネでは決して良いことではなかった。(注31 )アイスキネスは『ティマルコス弾劾』(1.173)で、デモステネスに対して、高等教育に対する世間一般の不信という棍棒を利用している。「おお、アテネ人よ。あなた方は、ソフィストであるソクラテスを、民主主義を廃止した三十人僭主の一人であるクリティアスの教師であるという理由で処刑したのではないのか?…今度は、デモステネスが、あなた方の手から仲間(ヘタイロイ)をかっさらうのでしょうか?イセーゴリアに関しては、イディオータイや民衆の友(デーモティコイ)に報復しているのは、彼ではないのか?」アイスキネス(1.173)は、次にデモステネスの生徒の何人かは、巧妙な演説のレッスンを受けるためにやって来て、裁判に参加していたと述べている。彼は陪審員に、自分たちを犠牲にして「ソフィスト・デモステネス」に笑いの源と、指導例(ディアトリベー)を提供しないようしきりに促している(1.175)。アイスキネスは、引き続き次のように語っている(1.175)。「想像してみて下さい。彼が弟子と家にいる時に、狡猾な演説で、陪審員から訴訟をいかにうまく盗んだかを自慢するのを」。

 この節は多くのテーマが心に浮かぶが、それぞれのテーマは陪審員の怒りを喚起することを計算していた。デモステネスはソフィストである、ソクラテスのように。アテネ人は、ソクラテスを三十人僭主の一人であるクリティアスに、政府転覆のわざを教えるという役割を理由に正当に処刑した。デモステネス自身も生徒を教えているので、陪審員はソクラテスがクリティアスに教えたのと同じような事を、彼は弟子に教えていると仮定できる。それゆえに、デモステネスには同様の運命がふさわしい。逆に、デモステネスが、ソフィストの先生であるにもかかわらず無罪であるなら、それならソクラテスは無罪であって、当時の陪審員は不当な処刑に関与しているであろう。これは50年前の話であるが、アイスキネスがソクラテスを処刑した人々に対して、二人称複数を用いていることに注目してもいいかもしれない。さらに悪いのは、デモステネスの演説の力は、普通の市民のイセーゴリアを制限している。それゆえ、彼の弁論の技術は、民主主義の基本原理の力を弱めている。もし、陪審員が被告を無罪にするなら、ラクリトスの裁判での陪審員と同じく、彼らはレトリックを教える手助けを黙認している。アイスキネスは、この黙認の知らぬ間の進行を、デモステネスによって裁判がレッスンとして利用されていたと主張することによって明確にしている。さらに、踏んだり蹴ったりの目に遭わせて、デモステネスの生徒は、人目につかぬ家の中で陪審員のだまされやすいことを笑っているであろう。ー彼らがアテネ人を生来の抜け目ない者とみなしていないことは明らかでありーデモステネスは、以前にも増してさらにうぬぼれやすく、かつ危険になるであろう。(注32 )

 デモステネスはこの種の毒舌に反論を加えずにはいられなかった。それで彼は『使節職務不履行について』において、相手に逆襲している。彼が言うには(19.246-48)、アイスキネスは、他人を侮辱して法廷弁論作家やソフィストと呼んでいるが、彼自身同じ非難を免れることはできない。デモステネスは、アイスキネスが演説の中で、自分自身では演じなかったエウリピデスの『ポイニクス』から引用していることを指摘して、このことを証明しようとした。しかも、彼は何度も演じたソポクレスの『アンティゴネ』からは決して引用しなかった。そこで、デモステネスは次のように質問している(19.250)。「アイスキネスよ、あなたはソフィストではないのか?…、または法廷弁論作家ではないのか?というのは、あなたは今まで舞台で一度も語ったことのない詩を捜し出して(ゼーテーサス)、市民をだますのに用いたのだから」。デモステネスの答弁の根底にある議論は、専門教育に対するアテネ人の態度について多くのことを語っている。デモステネスによれば、アイスキネスは、議論を補強するために、精通してはいなかった演劇から引用文を「捜し出している」ので、ソフィストである。明らかに、たとえ平均的なアテネ人がそれらを望んだとしても、引用文を捜し当てる立場にはなかったであろう。普通の市民が詩を引用したかったならば、彼は記憶している詩句に、多分、劇場で演じられるのを見た劇からの詩句に頼るであろう。デモステネスは、個人の記憶の内容や経験から学んだ一般的知識は、申し分なく民主的かつ平等主義的であったということをほのめかしている。これに反して、法廷での議論を支持するために行われた専門的な調査研究は、ソフィスト的でエリート主義的である。アイスキネスがなすべきであったことは(そして、デモステネスが暗示しているように、彼がソフィストでなければやったであろうことは)、彼が記憶していた劇を引用すべきであった。彼は知っていた劇を無視して、知らなかった劇から詩を引用したので、彼は陪審で平均的な市民をだましていたソフィストの訓練を受けていることが証明された。特別な知識の証拠を披露した弁論家は、聴衆をだますためのエリート教育を利用しているという非難に身をさらした。(注33 )

 レトリックの能力に対する世間一般の不信や、それを悪用した巧みな演説家は、私的な裁判の訴訟当事者が、相手を邪悪な目的のためにレトリックの能力を用いている口先のうまい演説家として描いている熱意がそれを証明している。イサイオスの依頼人の一人(10.1)は、能力のある演説家であり(レゲイン・デイノイ)、十分に準備ができている(パラスケイアサスタイ・ヒカノイ)相手とは同等ではないと語った。原告自身は、今まで法廷で演説の練習をしたことはなかったと主張し、一方で敵は経験を積んだ訴訟当事者であった。またイサイオスの別の依頼人は(9.35)、「陪審員諸君、私を助けて下さい。[相手の]クレオンが、私より優れた演説家であったとしても(レゲイン・エムー・デュナタイ…マロン)、この事実が法や正義より強くなることを認めないで下さい」と叫んでいる。

 デモステネスがアイスキネスに対して詩の引用で用いた「事前準備の不当性」という考え方は、他の訴訟当事者によって、相手は無知なイディオーテースに対して「レートールを用意した」と厳しく非難された時に使われた。(注34 )法廷で他の市民を論破するためにレトリックの技術を用いるこれらの人々は、多くの場合相手によって告訴常習者、訓練された演説家、そして、ただ金銭を得るためだけに告発を行った経験豊富な訴訟当事者と同一視された。告訴常習者は、買収された政治家に似ていた。両方とも違法な個人的利益のために、国家の政治機構を利用したが、買収された政治家は、報酬のために信念を売り渡したのに対して、告訴常習者は、そもそも信念を持ち合わせていなかった。その結果、告訴常習者は社会の寄生虫と見なされ、真実や訴訟の権利を考慮せず、中傷の名人であった(例えば、デモステネス5.34)。

 何よりも悪いことには、告訴常習者は民主主義において制御できない分子であった。彼らは国家の法的機構を、私的な目的のために悪用することで金持ちになったが、彼らは告発に個人的な利害関係をもってはいなかった。告訴常習者は主に陪審裁判の不確実性に面と向かうのではなく、むしろ金を払うのを選んだ犠牲者―彼らはそこではレトリックの上で不利な競争をさせられるであろうーから金をゆすることで生活していた。従って、たとえ賄賂を受け取ったとしても、心から陪審員が賛成票を投じることを望んだ政治家とは違って、告訴常習者は、犠牲者が強硬姿勢を示して裁判沙汰になることを余儀なくされた時に、個人的に有罪判決を獲得することを必ずしも気にかけなかった。(注35 )こうした理由で告訴常習者は彼らが訴訟に勝った時に、アテネのデーモスにしかるべき感謝の念を感じることはなかった(例えばデモステネス58.63)。それゆえ告訴常習者は教養あるエリートの中で最も魅力に欠ける分子に属した。人生の多くを演説に費やした専門の政治家は、国家に奉仕したいという愛国的欲求によってというより、むしろ個人的利益のための欲望によって動機づけられた単なる告訴常習者の汚名を着せられる恐れがあった。告訴常習者と政治家の間の線はいくぶん曖昧であった。そこで、リュクルゴス(1.31)は、レオクラトスが自分を「レートールにして最も恐ろしい告訴常習者」の餌食になったイディオーテースとして描こうとすることを予想していた。(注36 )

C.3 無邪気さ、無知そしてドラマティック・フィクション

 「私の相手は熟練した演説者である」というトポスの論理的な帰結は、自分は演説では熟練しておらず、かつ経験不足であるという演説者による主張であった。例えば、リュシアスの依頼人(19.2)は、彼を知る人は皆、彼が上手く話すことができないこと(アペイリア)を承知していると法廷に断言した。また別のリュシアスの依頼人(17.1)は、陪審員の中に、彼が野心家なので他の人より上手く話せる(エペイン…マロン・ヘテルー・デユナスタイ)という考えを持つ人がいるかもしれないと懸念していた。彼が陪審員に保証したように、彼が上手く話すということは、真実ではなかった。実際に、彼は自分自身のために、ましてや他人の事に関してはなおさら上手に話すことはできなかった。(注37 )

 これらの能力不足の告白には、かなり明白な偽善が含まれていた。デモステネス(21.141-42)は、陪審員が、正確に話すことができない(CENTER:メー・デュナスタイ・レゲイン)という主張は、個人が法廷で自己弁護できなかったことを正当化した無数の口実の一つであることに気づいていると確信していた。現存する演説は、弁舌巧みな文学作品として、その品質の高さゆえに保存された。演説のいくつかは、他の者より演説者の技術がより優れていた例である。演説の中には狡猾に無技巧さの印象を与えようと書かれたものもあった。しかし、弁論全集の中のどの演説も、「話すことに不慣れな」教育を十分に受けていない人物が、無意識に創作したものであると、万一にも解釈される可能性はない(上記、第1章E参照)。それゆえに、たとえ、その演説を行った実際の訴訟当事者が経験を積んだ演説者でなくとも、保存された演説に関しては、少なくとも「私は、レトリックの能力と訓練に不案内である」というトポスは、フィクションを描写している。しかしながら、すでに見てきたように、アテネ市民はレトリックの鑑識眼について、いくらかの自負を持っており、また、陪審員の多くは演説を聞いた時に、それが法廷弁論作家の文筆による創作と認識したのは疑いなかった。しかし、どうやら法廷弁論作家は、4世紀を通して活躍し続けていたようなので、そのトポスは陪審員の検閲を通過したと結論づけねばならない。それゆえ、それがよりどころにしたフィクションは、彼らに受け入れられたと想像できるかもしれない。(注 38)フィクションの際だった透明性は、参加者にとっての重要性を示しており、陪審員がよく構成された弁論に対して感じた美的評価と共存した、レトリックに対する深い不信を明らかにしている。民会と同様、法廷は洗練されたレトリックの燃料で動いていたが、アテネ人はそれが国家機構を腐敗させる可能性があることを認識していた。従って、無学な男がデーモスの代表にありのままの真実を物語り、そしてそのデーモスは、公正な票決に至るために集団的な知性を適用するだろうという幻想が維持された。全体のプロセスは、演劇と多くの共通点があった。というのは、そうすることが自分自身や国家のためになるのであれば、陪審員は喜んで不信任を保留する、という観点から最もよく理解できるかも知れない(上記、第3章E.6を見よ)。

 レトリックの技術によって圧倒される陪審員の傾向と、レトリックに対する彼らの不信の間の相互作用は、特にデモステネス全集の中の二つの演説に十分詳しく述べられている。テオクリネス弾劾において(デモステネス 58)、エピカレスは陪審員に次のように促している。
「告発者がデモステネスではなくて、ただの少年であるという事実を気することなく、私を助けて下さい。あなた方の誰一人、法律が日常的な話し方で朗唱された時よりも(トーン・ホポース・エテュケン・レゴントーン)、ある人が注意深くレトリックの言葉で提示した時の方が(エウ・ティス・トイス・オノマシ・シュンプレクサス)、より拘束力があると考えるべきではない。……あなた方は、未熟な者や若い者に対して、より積極的に援助するべきだ。なぜなら、彼らはあなた方をだます可能性がより少ないのだから(58.41)。」

さらにまた、演説の締めくくりで:
「我々は非常に不平等な裁判を争っているので、どうかあなた方に援助を請い願います。そして、少年でも、老人でも、どんな年齢の人でも、法律に従ってあなた方の前に現れば、完全な正義を得られるであろうことを、すべての人に明らかにして下さい。陪審員諸君、あなた方にとって名誉ある道は、法律やあなた方自身を専門家の演説者(エピ・トイス・レグーシ)の力に委ねるのではなく、演説者をあなた方自身の力で操作するために、うまく明晰に語る(エウ・カイ・サポース)人々と正しいことを語る人々の間を区別することである。なぜなら、あなた方が投票に際して誓ったことは、正義にかかわるものだからです(58.61)。」

デモステネスの熟練した演説『アリストクラテス弾劾』(23.4-6)において、告発者エウテュクレスは「私はあなた方を悩ます(トーン・エンオクルーントーン)弁論家の一人でもないし、あなた方に信用されている政治家(トーン・ポリテウオメノーン・カイ・ピステウオメノーン)の一人でもない」と言って、陪審員の注意を引きつけている。しかし、陪審員が好意的に耳を傾けてくれるなら、「国家に貢献することを望んでいるが、公の場で演説するのは難い」と恐れる「我々の中の一人」の自然なためらいを克服する助けになるでしょう。ところが、彼が続けるには、演説に劣ってはいるが、雄弁な者より優れた多くの市民は、法廷の訴訟行為の恐怖に怯え、公の裁判に参加することなく暮らしている。

 上記で引用した三つの節のそれぞれにおいて、演説家は若く/未経験で/憶病な自分と、陪審員を惑わせるのに慣れていた経験豊富で雄弁な相手とを対比させている。演説者は陪審員が彼の不器用であるが真実の話よりか、相手の洗練されかつ惑わすレトリックの方を好むことを本当に懸念していると公言している。(注39 )演説者は、一般市民や法律の側に陪審員を戻すために、レトリックが彼らに広く及ぼしていた魅惑的な支配力を打破しようとする立場に身を置いた。これは演説者だけでなく陪審員自身と全体としての国家にも利益があると見なされた。(注40 )レトリックの披露によって陪審員が惑わされる傾向があるということを、演説者が自認することは、危険な戦術であるかもしれないが、実際には訴訟を強化した。演説者は陪審員に対して、相手の説得力を誇張することで、また自分自身の口べたさを強調することで、どんなに説得力があろうとも、彼に対して行われたいかなる論議にも不信を抱くように、またどんなに支離滅裂であろうとも彼自身の議論を信じるように仕向けた。もちろん、いずれの場合にも、「経験不足の」演説の弁論の著者は、熟練した修辞学者であった。この策略が成功するのは、レトリックが正義を歪める危険性を認識し心配していた陪審員が、彼らに危険性を警告した者が、彼らが主張するようにレトリックの技術と準備に無知であるというフィクションを維持しようとした場合にのみであった。
 

D. レートールによる詩と歴史の使用

 レトリック、レトリックの能力、そしてレトリックの教育というテーマ全体に対するデーモスの極めて両価的(アンビバレント)な態度は、レートールの役割をより複雑で解決の難しいものにした。有名な政治弁論家が、民会あるいは法廷で演説のために立った際に、聴衆は演説での技術に関する評判に気づいていた。彼らは、彼の影響力を恐れながらも、高度に競争的で洗練された芸術の名人に楽しませてくれること、また指導されることを切望していた。彼らは、あまりにあからさまに彼が腕前を明かすと、不信感を持つかも知れないが、もしそのショーが期待はずれならがっかりしたであろう。その一方で、専門家の話し手は、聞き手を疎んじたり失望させたりしないことが、自分の政治生命を左右することを知っていた。アテネの弁論家は、聴衆の注意を引きつけるために、趣旨が簡潔で、文体が魅力的で、スムーズに伝えることができるように、演説の構成に何時間も何日もかけたかもしれなかった。(注41 )しかし、彼の雄弁は準備からではなく、信念と義憤の情熱から生まれた、というフィクションを保つことが期待された。デモステネスの相手は、「深夜の油の悪臭」(プルタルコス『デモステネス伝』7.3, 8, 11)がする彼の演説をあざ笑ったので、即席で話すのが苦手という評判だったデモステネスは(事の是非はさておき)、演説の原稿を書くのに一生懸命取り組んでいるという非難を克服せねばならなかった。(注 42)アテネ人は政治家に対して非常に高い水準の演説を要求したが、弁論家が一般市民よりも優れた能力と訓練を持っている教養ある専門家であることを、頻繁に思い出させられることは必ずしも好まなかった。

 良いショーを演じながらも、不快感を与えることを避けねばならなかった弁論家が直面した困難さは、政治家の詩と歴史的な例の使用によってよく説明されている。詩の引用と歴史的先例の援用は、演説に活気を与えて、議論を詩の霊感を受けた知性と過去の経験の権威によって補強するのに役に立った。しかしながら、そのテクニックは、話し手にとってあるリスクを負った。すでに見てきたように(上記、第4章 C.2)、デモステネスは、アイスキネスが記憶する正当な理由がなかった引用句を「探し出している」ことを理由に彼を非難している。また、弁論家は、彼が聴衆の教育レベルを軽蔑しているという印象を与えることを十分注意深く避けねばならなかった。弁論家の役割は、本質的には、説教的なものであった。つまり、彼は審議中の問題の事実と、これらの事実の彼自身の解釈の正確さで聞き手を指導しようとした。しかし、詩や歴史の例を使用する際には、弁論家は無知な大衆に、文化を教授する教養ある人の姿をとることを避けねばならなかった.

『ティマルコス弾劾』において、アイスキネスの一連の詩の引用に先行する一節は、詩を引用する際に弁論家が直面した落とし穴を明確にしている。

「しかし、あなた方[私の敵たち]がアキレスとパトロクレス、そしてホメロスと他の詩人を持ち出して、あたかも陪審員が教養がなくて(アネーコオーン・パイデイアス)、それにひきかえ、自分たち自身は、学識(ヒストリア)においてデーモスをはるかにしのいでいる(ペリプロヌーンテス)優秀なタイプ(エウスケーモネス・ティネス)であると言わんばかりであるから、ー我々も(カイ・へーメイス)今まで注意深く聞いて、そして多少のことは学んでいたことをあなた方に見せるために、これらの事柄について一言語りましょう。(1,141)」

 アイスキネスは詩句の引用を用いる意図を、彼に対して詩を引用した相手の計画に言及することで正当化している。彼は相手を、自分たちはデーモスよりも優れた文学的教養を把握していると思いこんでいる教養ある俗物(スノッブ)と特徴づけている。アイスキネスは、詩人についての知識を疑われたデーモスの一人であることを示唆するために、一人称複数を使用している。彼は、「私たち」ーアイスキネスと少なくとも暗に民衆ーは詩人に耳を傾けたのであって、彼自身が文学の特別な研究をしたわけではないことを示唆している。こうして、アイスキネスは、デーモスのスポークスマンとなり、陪審員があまり教養がないという中傷的な含みから陪審員を守るよう求められた。それゆえに、陪審員はアイスキネスが相手に帰したエリート主義的な主張を反証するために暗唱する一連の引用に、好意的に耳を傾ける用意があった。アイスキネスの巧妙な正当化は、その引用が陪審員を納得させるのに役立つと信じている場合にのみ価値があると思われるが、同時に彼は、陪審員が自分の詩の挿話を、まさに彼が相手が夢中になっていると非難した知的俗物(スノッブ)的行為のようなものだと解釈する可能性を心配している。(注 43)

 別の演説において(3.231)、アイスキネスは、悲劇作家がテルシテスをギリシア人によって戴冠されたと表現したならば、「あなたがた〔陪審員〕の誰一人、それを許さないだろう」、なぜならホメロスはテルシテスは臆病者で、告訴常習者であったと語っているのだから、と述べている。このときに、アイスキネスは、聴衆がホメロスの詩について、かなり詳細な知識と敬意を持っていたことを認めている。彼の選択した例は、特に興味深い。というのは、テルシテスは、アカイア人の戦士の民会でずうずうしくも発言して、厚かましさのために貴族オデッセウスに打ちのめされた平民であった(『イリアス』2.211-78)。アイスキネスは、不思議なことに、テルシテスの物語の不平等主義の特徴が、聴衆が詩の例で感じる共感を弱めるかもしれないという可能性に無関心のようである。(注44 ) 恐らく、彼は聴衆がテルシテスが憶病者とレッテルを張られたことを思いだし、その事件で社会的地位が果たした役割にあまり注意を払わないと確信していた。しかし、もしアイスキネスが、自分に守ることを期待されたイデオロギーが、無条件の平等主義であると仮定すれば、これはかなり不必要なリスクであるように思われる。以下で(第四章 F)、このテルシテスの一節の話題に戻るつもりである。

 デモステネスは、アイスキネスに対する演説で詩からの引用も用いたが、しかしながら、詩の引用を行うのは非常にまれで、常にアイスキネスの以前の引用によって自分を正当化していた。典型的な例では、彼はただアイスキネスに、相手が以前に引用した一節を言い返しているのみで、彼自身の詩の知識の方が、聴衆のそれより優れていると示唆することを注意深く避けていた。(注45 )デモステネス(19.247)は、聴衆が芝居の常連からなっていると仮定していた。彼はアイスキネスの悲劇役者としての経歴をあざける時に(19.247)、僭主の役を演ずるのは、アイスキネスのような二流役者(トリタゴーニスタイ ー第6章 D.1を見よ)の特権であることを、「あなた方[陪審員]はとてもよく知っている」と語った。こうして、弁論家は聴衆よりか劇場の演技のより詳しい知識を持っているという印象を避けるために、「すべての人が知っている」というトポスを用いている。

 リュクルゴスは、唯一残っている弁論の中で、詩の引用を多用している。彼は、スパルタ人が若者の徳の育成に努めるために、ティルタイオスをアテネから連れて行ったことを、「知らない人がいるだろうか?」(1,106)と仮定して尋ねることで、ティルタイオスの一節を紹介している。さらに、エウリピデスからの長い引用の後で、彼は「諸君、これらの詩は、あなた方の先祖(パテラス)を教育した(エパイデイエ)」、と述べている(1.101-102)。彼はまた(1.102)、陪審員に「あなたがたの先祖が」パンアテナイ祭で吟唱されるに値する唯一の詩人と考えたホメロスを勧めている。リュクルゴスの勧告調のコメントの潜在的なエリート主義的発言は、話し手の詩人に対する伝統的なアテネ人の敬意の強調と、公共の祭典に含まれることによって証明されている詩の価値への言及によって回避されている。

 弁論家は、歴史やまたは神話から例を引用する際に、同様のアプローチを用いた。デモステネスは、たいてい「私はあなた方すべてが、知っていると確信している……」と前置きすることで、平均的な市民以上に過去について知っているという印象を避けて、歴史的余談を紹介している。(注 46)同じような調子で、デモステネスの依頼人は(デモステネス40.24-25)、「彼らが言う」には、多くのスパルタ人を捕らえて、ポリスで高い名声を得た民衆指導者(デマゴーゴス)クレオンの経歴を論じている。アイスキネス(2.76)は、足枷の奴隷として「多数の人が記憶している」、「竪琴造り」のクレオポンを引用している。人は歴史の専門的な知識を主張することは望まなかったが、アテネの長老の記憶への訴えは受け入れられた。例えば、コリントス戦争中の亡命者を論ずる際に、デモステネス(20.52、参照19.249)は、「あなた方の間の年長者の市民」から聞いていた出来事に言及した。アイスキネス(2.150)は、パイアニア区の年長者の区民が、義父が若いデモステネスを市民として登録するのを手伝ったことを確証することができるだろうと示唆している。また彼は(2.77-78,3.191-92)、どれ程自分の父が―彼は95歳まで生き、ペロポネソス戦争に続く偉大な闘争に参加したがー、何度も息子にその戦争の悲惨な歴史と、戦後の陪審員の高潔な行動と厳格な基準を話したかを詳しく語った。(注47 )年長の市民やまたは自らの先祖自身の記憶への引喩により、弁論家は、教育を受けた人が目下の人を指導する役割を引き受けることを避けることができた。長老の言及には明らかに権威へのアッピールが含まれているが、とりわけ長老はデーモスの中で唯一、明確に定義された法的及び政治的特権を持つ小集団(サブセット)であった(上記、第1章 Bを見よ)。

 アテネ人が生まれつきの知性について示した関心や、エリート教育への不信,そして長老の権威に関する尊敬は、アリストパネスによってパロディ化されている。彼は女性の民衆指導者(デマゴーゴス)リューシストラテーの演説で、レトリックのトポスをまねている。

 「私の言葉をお聞き下さい。
 私は女ですが、思慮分別は十分持っています。
 実際、私の知性は少しも劣ってはいません。
 父や年寄りたちの会話を聞いたおかげで、教養もないわけではありません」。
 (『リューシストラテー(女の平和)』1123-27)

E. エリート教育の利点に関するレートール

レトリックの潜在的な力は、国家の民主的プロセスを腐敗させるという一般市民の思い込みは、私的訴訟当事者と専門の政治弁論家の両方が、相手を巧妙な演説者、ずる賢いソフィスト、不誠実な告訴常習者として描く理由の一端をなすものであり、その説得力は民意を破壊する悪徳と背信的意志にのみ匹敵するとした理由にもつながるものであった。同様にそれは、イディオータイが自らをレトリックの能力または訓練がまったくないとして描いた理由を説明している。私的な訴訟当事者は、基本的なシナリオを複雑にしようとうすることはめったになかった。つまり、彼は、人前で話す経験も技術もない一般市民であり、個人と国家の両方を脅かす訓練を受けた経験豊富な演説者と対峙した。

 アテネの政治家は、自分と相手のレトリックや教育との関係について、かなり複雑な描き方をしていた。『冠について』の痛烈な一節で、デモステネスは、アイスキネスの徳や知性、教育に訴える権利について疑問を投げかけている。

 「汚らわしいあなた〔アイスキネス〕よ。あなたやあなたの家族が、徳とどんな関係があるんだ?どうやってあなたは、よく知られたうわさと中傷を区別するのか?どこであなたは教育について語る権利を得たのか?真に教育を受けた者は、自らについてそのような言葉を用いはしなかったであろうし、むしろそれを他人から聞いたなら赤面するでしょう。しかし,あなたのような人は、全くない教養を愚かにもふりかざし、口を開けばいつも、皆をうんざりさせることには成功しても、自分が望むような印象を与えることは決してできないのだ」(18.128)

 この一節は、訓練された明晰な弁論家として、相手を描くトポスのまさにアンチテーゼである。アイスキネスは、まったく聴衆に感動を与えることのできない無教養な粗野な男として性格づけられている。それでは、どうして彼が危険なレートールであり、その雄弁は陪審員をだまして、正義と彼ら自身の利害に反する投票をさせる可能性があるのだろうか?

 アイスキネスは教育不足であるというデモステネスの非難は、一度限りの事例ではない。事実、政治弁論家は、かなり一般的に相手は愚かで、無知で、粗野であると主張した。デモステネス(22.5)は、政治家アンドロティオンを美徳のシンボルと単なる富の区別を見分けることができないほど頭の鈍い者(スカイオス)と評している。アンピクテュオニア評議会での記述で、アイスキネス(3.117)は、彼を非難した一人のアンピッサ人は、教育を受けていない(ウーデミアス・パイデイアス)のは明白であったことを記している。これは、教養あるアテネ人と残りのギリシア人とを対照させる例として説明されるかもしれないが、アイスキネスは他のところで(1.166)、他の望ましくない特徴に加えて、デモステネスは粗野(アムーソス)で無教育(アパイデウトス)であったと主張している。さらに、彼は(3.241)、傲慢な自画自賛で、デモステネスとその盟友クテシポンは教養がないこと(アパイデイシア)を明らかにしている、と主張している。リュシアスの依頼人(20.12)は、父が寡頭主義者のプリュニコスと子供時代に友人であったという主張に対して、プリュニコスは田舎で羊の世話をして貧乏な少年時代を過ごしたが、その一方で依頼人である原告の父は、市内できちんとした教育を受けていた(エン・トーイ・アステイ・エパイデウエト)と主張して、その議論の効果を弱めようとしている。自分の政敵が教育水準の低い悪党であるという主張は、彼が巧妙な話し手であるという一見矛盾した主張と、直接に結びつけて考えられる可能性があった。

リュシアス(20.12)は、続けて次のように述べている。羊と野原で少年時代を過ごした後で、プリュニコスは告訴常習者になるために町にやって来たが、その一方で、依頼人自身の父は、田舎での農場主の生活のために隠遁した。アイスキネスに対して惜しみなく与えた侮辱の中で、デモステネス(18.242)は、アイスキネスを「野暮な田舎者の悲劇王」(アルーライオス・オイノマオス)と呼び、また、その巧妙さ(デイノテース)が国家にとって役に立たない偽りのレートールとしている。これらの節は、アテネ人が話し手にとって飾りのないことを演説者の純粋な美徳と見なしていたという見解と調和させることは困難である。(注 )

 恐らくさらに驚くべきことには、政治家は時には自らの育ちと教育を自分で称賛することもあった。デモステネス(18.257)は、あえてアイスキネスの教育不足と、自分の非の打ちどころのない生い立ちとを対比させている。「アイスキネスよ、私の少年時代、私は立派な学校に通うという有利な点があった(ポイタン・エイス・タ・プロセーコンタ・ディダスカレイア)。そして私の資産は、貧困によって恥ずべき活動に従事する必要がないようなものであった」。これは、少年時代を父親のいかがわしい学校で、奴隷のするような墨をすったり床を掃除して過ごしたと言われている(デモステネス18.258)、アイスキネスとは対照的であった。デモステネスが自画自賛し、アイスキネスを嘲笑する演説の節全体は(18.256-67)、非常に詩的な言葉で書かれている。内容はもちろんこの文章のレトリックの構造も、話し手が自分の生い立ちと正式な教育の質に対する誇りを示している。(注49 )

 デモステネスは、「私が誇りに思っている」(18.258)という有利な点について、あまりに多くのことを語るのは気が進まないと主張し、彼は聴衆に、「不謹慎に見えるかも知れないが許して欲しい」という言い訳で発言を始めている(18.256)。しかし、エリート主義的な感性へ訴えかけていることは紛れもなかった。ここにおいて、デモステネスはイソクラテスと意見が一致している。イソクラテスは、マケドニアのピリッポスに宛てたパンフレットの中で(5.81-2)、「誰かが、それを言うのは田舎者(アグロイコテロン)というでしょうが、私は実際に思慮分別とすぐれた教育(プロネイン・エウ・ペパイデウスタイ・カロース)を主張しますし、他の者と比べて、私は自分を末席にではなく、第一人者に数えるであろう」と述べている。未分類の(多分演示的)断片で(断片 XV.5[コノミス]=E.6〔ブルット〕、ラテン語の翻訳でのみ保存)、リュクルゴスは、意志強固な人物は勤勉である可能性が高いので、非常に高い地位に上がった人物を見つけても、彼は驚かなかったと言っている。この資質が知識へとつながり、そこから、自然に真の名声を得るための演説の能力が生まれる。『クテシポン弾劾』演説のアイスキネスの結語(デモステネスが激しく反論した箇所)は、すなわち、「私は、おお大地よ、そして太陽よ、そして徳よ、そして知性(シュネシス)よ、良いことと恥ずかしいことを見分ける教育(パイデイア)よ、私は〔国家〕を援助してきたし、発言してきた」(3.260)は、弁論家が能力と教育に誇りを感じているという文脈で見なければならない。(注50 )
 もちろん、熟練した弁論家が自分の教育と演説の能力に、個人的な誇りを心に抱くべきではないという理由はない。アリストテレス(『弁論術』1378b35-1379a4)は、すべての人は、自分が優れているあらゆる点に応じて、劣っている者から尊敬される権利があると感じていると主張している。彼はその例として、上手く話すことのできない者(アデュナトス・レゲイン)より、自然に優れていると感じる修辞学者(ホ・レートオリコス)を挙げている。しかしながら、ある弁論家の公の場での発言が、一般大衆のイデオロギーを綿密に、そしておおむね正確な解釈で限定されていると仮定するのが正しいのならば(上記、第1章E)、ある場合には、少なくともレートールはアテネ市民が、相手の教育に関する学識の欠如を冷笑するだけではなく、自分たち自身の教育を称賛するのを快く容認するだろうと感じたと仮定しなければならない。

 弁論の危険性や簡素に生まれついた美徳を訴える平等主義的な攻撃と、教育水準の高くない政治家への攻撃とエリート教育を賞賛するエリート主義をどう調和させればいいのだろうか?確かに、パイデイア〔教育〕は、広義に解釈すれば、正式なレトリックの訓練以上の意味を持つ可能性があった。(注51 )パイデイアは、アテネの過去の高潔な指導者と結びついていた。イソクラテスは,『パンアテナイコス』(12.198)の中で、ペルシア戦争世代の「生まれのよい、立派に育てられ、よく教育された」アテネ人のリーダーシップを称賛している。これらのコメントは、イソクラテスのエリート主義の見方に帰されるかもしれないが、アイスキネス(3.208)は、もっと最近の例では、三十人僭主の独裁政権を廃止した「ピュレからの男たち」〔訳注7 〕は、彼らのパイデイアによって、403年の恩赦をポリスのための最良の政策として推進したと述べている。

 しかしながら、弁論家の自画自賛には、「抽象的に見ても、あるいは歴史的文脈で見ても、パイデイアは良いことだ」という一般的な考え以上のものがあった。アテネ人は、レトリックの力に対する不信感にもかかわらず、結局、民会と法廷両方での訓練された弁論家の演説を喜んで熱心に聞き続けた。もし、彼らがそう望んだならば、アテネ人はレトリックの訓練に反対する法律を可決することが可能であったし、あるいは演説がレトリックの詭弁めいていると感じた人の話を聞くことを、単に拒絶することも可能であった。上記で述べたように(第4章 C.1)、弁論家自身のレトリックの潜在的弊害についての攻撃は、専門家の話し手を意志決定プロセスから除外するための根拠を提供するものと受け取られる可能性があった。

 けれども、アテネ人はレートールを追放しなかった。それどころか、彼らは頻繁にレートールに公の名誉と尊敬を授けた。アッティカ弁論集成の重要な演説の二つ(アイスキネス3とデモステネス18)は、デモステネスが合法的に公の冠の名誉を与えられたかどうかについてのものであった。また、リュシアスの若い依頼人で野心的なマンティテオス(16.20ー21)は、アテネ人が真に価値ある人物(アクシオイ)とみなしたのは、政治に活動的に参加する人々だけであると気づいたと言う理由で、民会で熱心に民衆に演説を行った(レゲイン・エン・トーイ・デーモーイ)。アテネ人はこのような見解(グノーメー)を持っていたので、彼は「誰がポリスの利益のために行動を起こし、はっきり意見を言わないでいられるでしょうか?」と尋ねている。彼は、アテネ人自身が自らの審判員であったので、そもそも彼らが政治家に腹を立てることがあるであろうか?といぶかっている。より経験豊富な話し手は、さらに大胆な発言を行っている。リュクルゴス(1.3)は、公の裁判に進んで参加する人物を手元においておくことは、ポリスにとって特権(オーペリモン)であると示唆した。彼は、「大衆」が告発者にいらだちを感じたり、詮索好き(ピロプラグモーン)と見なすのではなく、彼に対して適切なピランソローピア〔博愛の念〕の感覚を感じるべきであると考えた。ディナルコス(1.102)が、デモステネスを、かっての仲間であるデマデスを反逆罪での告発で起訴しなかったとして攻撃した時、「〔デモステネスの〕どこに、弁論家の保護力の証拠が見られるのか?」と尋ねた。その意味するところは、弁論家の演説能力は、国家にとって有益なものであり、またそうであるべきであるということのようである(下記、第7章 E.2-4を参照)。

 弁論家は時折、演説をする際に常に潜在していた教師然とした役割を、進んで明示しようとした。ヒュペレイデス(5.21ー22)は、若い弁論家はデモステネスや年老いた世代の演説家によって教育される(パイデイエスタイ)べきなのだが、結果的には、若者が年長者のトレーナー(ソープロニズーシン)を務めたと語ったときに、このことをほのめかしている。さらにリュクルゴス(1.124)はもっと大胆に、陪審員に「多くの例(パラデイグマタ)に裏打ちされた私の指示(ディダスケイン)のために、あなた方の決定を容易にした」反逆者に関する法律が刻まれたブーレウテリオン〔評議会場〕の石碑を、説明するつもりですと語っている(デモステネス 21.143を参照)。

 上記(第4章 C.1)で引用した『冠について』(18.280)の節で、デモステネスは、弁論家の価値は、民衆の大多数と同じことを選択することにあると定義した。しかしながら、デモステネスの見解は、レートールの政治的役割の正当化としては不十分であり、イデオロギー的に極端であったことは明らかである。同じ演説の後半で、デモステネスは国家での自ら自身の役割について、まったく異なった解釈を示唆している。「ポリスが最良な政策を自由に選択することができた頃、祖国への愛国的行為を誰もが競い合えた頃、この私は最も優れた演説家であることを示し(エゴー・クラティスタ・レゴーン・エパイノメーン)、あらゆる事柄は私の決議、私の法令、そして私の外交使節団によって行われた…」(18.320)。デモステネスが何もしない政敵と自分を対比させているとはいえ、また自分の優位性が、ポリスが様々な政策を選択する自由と一致していることに言及しているにもかかわらず、彼の言葉が意味する極端なエゴイズムと虚栄心は、真の平等主義的なイデオロギーの文脈には当てはまらない。デモステネスは、危うく国家を運営した男と自己宣伝しそうになっており、自分の優位性は優れた演説の能力に負っていると言う事実を隠そうとしなかった。演説の前半の別の重要な一節で、デモステネス(18.172)は、前339年の秋の危機の瞬間に―ピリッポスがエラテイアに到達した時―、人々にアドバイスするために彼が持っていた独特な資格を論じている。当時、「国家の声」は単に裕福で愛国的なだけではなく、「最初からの出来事を綿密に調査し」、「ピリッポスの意図と決定を正確に見抜いた」人を必要としていた。すべてのアテネ人の間で、唯一デモステネスがその要件を満たした。なぜなら、彼だけがピリッポスと彼の動機について、十分な個人的リサーチを行ってきたからである。このリサーチは、デモステネスがアイスキネスが行ったと攻撃している文学的リサーチに匹敵すると見なされるかも知れない(上記、第4章 C.2)。(注52 )しかし、デモステネスは、どうやらそのことについては無関心であるらしい。つまり、彼は対策と演説の能力のゆえに、時の人であったと自己宣伝している。弁論家は民衆の代弁者であるべきであるという提案とは対照的に、これらの二つの節において、デモステネスは、弁論家は専門家、助言者、そればかりではなく、まさに国家の指導者でなければならないと指摘している。

 政治弁論家が、アテネ人は弁論家の貢献に感謝すべきであると提言したり、反対者の教育をけなしながら、自らの豊かな学識を進んで称賛することは、彼らが国家で特別な地位を与えられるべきであると信じていたことを意味している。さらに、彼らはこの特別な地位は、ある程度特別な能力とエリート教育によって正当化されると感じていた。弁論家はポリスの保護者、助言者、指導者と信じていたし、聴衆が彼らをそのように見なすことを期待した。演説の能力とレトリックの教育は、こうした色々な役割を行う彼らの能力の基礎であった。従って、レトリックの教育は、少なくとも教育を受けた演説家が、多数の聴衆に演説する時に、国家の最良の利益を念頭に置いていた愛国的市民である限りは、民主政体に有益であると見なされたかもしれなかった。民主主義の時代を通じて、アテネ人は専門の演説家に耳を傾け続け、頻繁にそのアドバイスに従った。そしてそのことは、実際、デーモスは民主政体の枠組みの中で、能力と教育のエリートに特定の暗黙の特権を与えることをいとわなかったことを示唆している。大衆は、個々のアテネ人は政治的特権を与えられ、それらの特権はそれらの個人の功績によって正当化されるという命題を受け入れたように思われる。

F 相反する感情(アンビバレント)とバランス

 しかしながら、専門家の演説者の特権的な立場は、常に微妙なものであった。というのも、彼が争わなければならなかったレトリックに対する不信感が強く底を流れていたからである。『クテシポン弾劾』の中で、アイスキネスは、国家での弁論家の特別な席を強調しているが、その演説はまた、彼が政治家が疑心暗鬼のもとに活動したことを認識していることを示している。

 「あなた方陪審員が、彼[デモステネス]の演説の心地良い響きに注意を払うならば、ちょうどあなた方が過去と同じようにだまされるでしょう。しかし、あなたがたが、彼の性格(ピュシス)と真実に注意を払えば、あなたがたはだまされないでしょう……。あなたがたの助けを借りて、私は民衆の友(デーモティコス)と規律正しい個人の必要な特性を数え上げましょう」(3.168)。

 アイスキネスは、デーモティコスは自由身分でなければならないこと、民主主義への愛情を祖先から受け継がねばならないこと(下記、第6章 C. 1を参照)、そして節度を守るような生活を送らねばならないことを示唆している。そして、

 「第四にその人〔デーモティコス〕は、良識(エウグノーモーン)と有能な演説者(デュナトス・エイペイン)でなければなりません。というのは、彼の見識(ディアノイア)が最善なものを選び、レトリックの訓練と雄弁(テーン・デ・パイデイアン・テーン・トー・レートロス・カイ・トン・ロゴン)が、聴衆を説得するのは適切であるからです。しかし、彼が両方を兼備するのが無理な場合は、良識の方が常に雄弁よりか優先されるべきです」(3.170)。

 アイスキネスは、良き政治家は、民衆を決して見捨てないようなそうした勇気ある者でなければならないと結論づけている。(3.170)

 それから、アイスキネスは、まさに彼が設けた基準に照らしてデモステネスへの検証を始めている。そして、驚くことではないが、彼の相手がまったく不十分であると判定している。彼は最初に、デモステネスのうさんくさい経歴と、家族は利益のために野蛮人の家柄との結婚を進んで行ったという大いに脚色された物語を語っている(下記、第6章 C.1を見よ)。次に、デモステネス自身に関しては、「三段櫂船艦長(トリエアルキア)から突然法廷弁論作家(ロゴグラファー)として出現した。しかし、この仕事でさえ信頼に値しないと評判になった。というのは、彼は演説を依頼人の訴訟相手にも見せたからである……」。しかし、良識と演説の能力についてはどうか?「熟練した演説家であるが、邪悪な生活を送っている者……。彼の言葉は心地よく聞こえるが、行動は価値がない」。そして、彼はその上に憶病者である(3.173ー5)。

 アイスキネスは、演説のこの節を過去にそうであったように、デモステネスの雄弁によって誤り導かれるべきではないと陪審員への警告で始めている。聴衆の助けを求めて、アイスキネスは、デーモティコスにとって適切な背景と性格を列挙している。とりわけ、そのリストはレトリックの正式な教育を含んでいる。レトリックの訓練と雄弁は、デーモティコスに完全にふさわしいと称賛されているが、その称賛は条件付きであった。つまり、雄弁は常にすぐれた判断の補助でなければならないし、問題の人物が立派な生活を送っていなければ価値のないものであった。その節は、デモステネスを可能な限り最悪の位置に置くよう構成されていたが、アイスキネスは良き政治家の属性の定義の個々の要素は、聴衆の大多数にとって異を唱えるにあたらないと仮定していたにちがいなかった。デーモスのための利益としてのレトリックの教育と雄弁の肯定的な面と、雄弁の力を制限する必要性、その両方はー洞察力に富んだ穏健な市民のみが使用できるようにすることでーアイスキネスの定義に暗に含まれている。(注53 )

 アイスキネスのデーモティコスの議論は、レトリックとレトリックの教育に対する二つの外見上相反する態度―それはアッティカ弁論集の多くの演説で明らかであったがーその関係を分析するための基礎を提供している。一方では、説得の技術の教育は国家にとって危険であった。というのは、それは正しい決定に達する民会の大衆や陪審員の能力をだいなしにすることで、民主主義の制度の有効性を危うくする恐れがあったからである。これは次には社会組織にとっての恐れとなった。なぜなら、法律に加えて民会と裁判所の決定は、規範的機能を果たし、特に若者を教育したりエリートを抑制する際に重要であったからである。他方、アテネ人は熟練の弁論家が役立つ可能性があることを認識していた。専門の演説家は、アテネの意志決定の多くの面に参加していた。とりわけ、彼らは動議を提出しかつ公開裁判を開始した。民主主義的意志決定の性質とアテネの国家の国政上の組織は、多くの公の審議を必要とした。そしてレートールは耳を傾けるのに、有益であるだけでなく楽しかった。

 アテネ人が弁論術に対して抱いていた不信と、弁論家は有益な機能を行使するという認識の間の不協和音は、民主主義の構造と機能性に本来備わっているイデオロギーの闘争と密接に結びついている。平等主義のイデオロギーは、平均的アテネ人の生まれつきの知性、集団の決定の知恵、個人が大多数の決定に従うことを保証する必要性、そして特別な能力と訓練を有する人々の有害の可能性を力説した。エリート主義のイデオロギーは、一部の人は並外れた技術を持っていて、これらの技術は高度な教育によって洗練され、国家にとって有益であると強調した。それゆえ、能力と教育のエリートは、社会と国家の政治組織において特権的地位に値した。これらの各イデオロギーに言及する節が、演説家によってかなりのスペースが割り当てられていることが、二つのイデオロギーが民主主義的精神(エトス)の中で共存していたことを示唆している。

 この文脈において、「アテネ人が、悲劇作家がテルシテスの戴冠を描くことを許すのはありそうもない」というアイスキネスの言及の二重の真意が明らかになる(3.231、上記第4章 D)。アテネ人がホメロスを台無しにする一シーンを許さないほど十分教養があったという仮定は、平等主義的な感情に対する働きである。平民であるテルシテスは、ホメロスによって、憶病だけではなく低い地位のゆえに、集まったアカイア人に語りかける価値なしと描かれている。そのテルシテスを選ぶことは、現在の話し手〔アイスキネス〕が自分が当然受けるべきものと考え、相手には否定したエリート特権について述べている。この印象は、その後すぐ後でアイスキネス(3.237)が、クテシポンに次のように語っているときに補強されている。デモステネスに冠を授けることで、クテシポンは無知な人(アグヌーンタス)をだまし、知識のある人及び十分に情報に通じた人(エイドタス・カイ・アイスタノメノース)に対して冒瀆(ヒュブリス)を犯している。さらに彼は、デモステネスに対してポリスに属する名誉を、「我々」がこのことが分からないと考えて与えている。再度、ここにはエリート階層(無知の人をだますことは知識のある人への侮辱と対照をなしている)と、平等階層(名誉はポリスに属しており、個人にではない)が存している。「我々」は、アイスキネに、アイスキネスと聴衆の「十分に情報に通じた」人々に、あるいは「我々アテナイ人すべて」に言及しているのかもしれない。その曖昧さは意図的なものに違いない。

 矛盾したイデオロギーの共存は、教育を受けた演説家のエリートの要求と演説家の話を聞く大衆である聴衆の感情との間に緊張を生み出した。この緊張は、ある程度、弁論家と聴衆が維持するために共謀した巧妙な「ドラマチック・フィクション」によって調停された。すなわち、法廷弁論作家から購入した美辞麗句を並べた演説を行った一私人は、陪審員に雄弁さの欠如を大目に見ることを頼む無学な男を装って姿を現した。そして、熟練した政治弁論家は、最後のニュアンスまで苦心して演説を準備したが、信念とその瞬間の情熱から自発的に演説した社会問題に関心のある市民であった。レトリックの訓練を得るのにかなりの時間とお金を費やした弁論家は、彼の演説を聴く普通の市民と同じく、劇場で詩を、そして年長者から歴史を学んだとして、彼ら以上に詩や歴史に通じてはいないと称した。このようなフィクションは、見え透いていて、アテナイ人がそれらのどちらにも「だまされた」と仮定する必要はない。むしろ、大衆である聴衆のメンバーは、イデオロギーの不協和音を和らげるために、信じがたいことを進んで受け入れた。

 ドラマチック・フィクションは、エリート・レートールと大衆である聴衆との間の一時的妥協を生み出した。そのフィクションは、政治的に口述での言説に依存していた社会で、演説能力の差が必然的にもたらす権力の不平等を調停することで、アテネにおける直接民主主義の存続に必要なイデオロギーの均衡を保つのに役に立った。知識人エリートのメンバーが、デーモスまたはその一部に語る時に、彼らは普通の人の役割を演じ、平等主義の理想との連帯を表明することを求められたドラマに参加した。このドラマはエリートの政治的野心を社会的にコントロールするメカニズムとして役に立った。エリート政治弁論家は、民衆の役割をうまく演じた場合にのみ、「役柄の殻を破って」特別な配慮を主張することが許された。こうして、アテナイ人は、教育を受けた人が国家のアドバイス役として活躍することで利益を得ていた。同時にアテナイ人は、十分な教育を受けたアドバイザーを厳しく管理し、知識人エリートが支配的な寡頭政に発展する傾向を抑制した。


第四章:訳注

1)アンピクテュオンは、「周りに住む」の意味で、特定の神殿聖域を中心に、その祭儀の維持・管理を目的に結ばれた地域共同体連盟が、アンピクテュオニア(隣保同盟)と呼ばれた。なかでもデルポイにあるアポロン神の聖域を軸とするアンピクテュオニアが有名である。

2)壮丁:18際から20歳になるまでのアテネの青年市民。その期間彼らは、正市民になるために主に国境警備などの任務に服した。

3)集団の規範や文化に従って社会的共同生活が営めるような行動を発達させること。

4)原義は「知恵のある者」。ソフィストは教授料を取って、富裕者の子弟に弁論術・修辞学・哲学などを教えた教師。前5世紀頃にギリシアに出現して、ギリシアの各地を巡回して教授活動をしていたが、特に民主政期アテネで活躍した。

5)告訴常習者:アテネでは、公訴の訴追は第三者にも可能であったため、常習的にこれを行う者がいた。そのような者をシューコパンテース(「濫訴者」「職業的告発者」「提訴常習者」「不当提訴者」などの訳語も常用)という。彼らが目的としたのは、勝訴した場合に得られる報奨金や、訴追をしないことにするという条件で相手側から脅し取る金銭や、対立する二者の一方から依頼されて訴追することで得る礼金などであった。

6)財産交換(アンティドシス)は、公共奉仕者に任命された富裕市民が、自分より富裕な市民が不当に公共奉仕を免れていると考えた場合、相手を指名してその者が公共奉仕を務めるか、さもなければ自分と全財産を交換するよう訴える制度。示談で解決できない場合は、最終的には、民衆裁判所での審理で、より富裕と判定された側が公共奉仕を命じられた。

7) ピュレは、パルネス山地南西部の要所で、ここから真南に向かうとペイライエウス港に至る。民主派のトラシュブロスらは、この地から出撃しペイライエウスに向かい、要衝ムニキアの丘を占領して、ペロポネソス戦争敗北後アテネに誕生した「三十人僭主」を打ち倒して民主政を回復した。「ピュレからの男たち」は彼ら民主派の人々の意。


第四章:本文注

1)例えば、Michels, Political Parties, 67, 98-100; Marger, Elites and Mass, 196-98を見よ。

2)トゥキュディデス『歴史』2.40-41; リュシアス 2.69; デモステネス 60.16; ヒュペレイデス 6.8; またLoraux, Invention, 151を対照のこと。

3)特にプラトン『プロタゴラス』325e-26aを見よ。Marrou, Education, 63-146, 特に65; Pélékides, Éphébie, 31-32, 62を参照。

4)特に、Harvey, “Literacy”; Burns, “Athenian Literacy.”を見よ。Davison, “Literature”; Woodbury, “Aristophanes’ Frogs,” 特に355-57を参照。さらにもっと難解な女性のリテラシーの問題に関しては、S. G. Cole, “Could Greek Women Read and Write?” in H. P. Foley, ed., Reflections of Women in Antiquity (New York, 1981), 219-45を見よ。

5)リテラシー、市民権、そして文学との間の相互関係については、以下の諸研究を見よ。Harvey, “Literacy”; Burns, “Athenian Literacy,” 特に384-85; Whitehead, Demes, 139 (読み書きできるデーマルコス〔区長〕); Finley, Authority and Legitimacy, 9-10; Davison,”Literature,” 219-21.

6)リュシアス 2.19の同様な意見を参照。コルキュラの内戦において、概して演説と如才のなさについての不信の雰囲気のトゥキュディデスの議論(3.83)を対比せよ。そこでは、トゥキュディデスは、事前に考える連中とすぐに行動する連中を対比している。また、同様に、この節についてConnor, Thucydides, 14-15を見よ。

7)アテネでヘロドトスが公開朗読会を行ったという証拠についての批判的な論評に関しては、A. J. Podlecki, “Herodotus in Athens?” in K. H. Kinzl, ed., Greece and the Eastern Mediterranen jn Ancient History and Prehistory. Studies…to F. Schachermeyr (Berlin, 1977), 247を見よ。Starr, Awakening, 132-33参照。

8)これは周知のレトリックが、意味を締め出してしまうほど極度に修辞的であるということではない。上記、第三章 D.2を参照。アリストテレス(『弁論術』1404a25-28)は、ほとんどの無教養な人々は、なおゴルギアスによって展開されたレトリックの詩的なスタイルを一番立派なものであると考えていると軽蔑して述べている。しかし、これはきっと演示的なレトリックへの言及である。

9)例えば、Finley, DAM, 29-31, PAW, 27-29; Loraux, Invention, 144-45を見よ。

10) Demes, 120, 同書, 92-96, 313-15; Raaflaub, “Freien Bürgers Recht,” 41-43を参照。Hopper, Basis, 13-19は、Whitehead, Demes, 315-24が示すように、その事実を誇張している。

11) 部族集会:Hopper, Basis, 14-16. 評議会:Gomme, “Working”; Woodhead, “ΙΣΗΓΟΡΙΑ,” 133-35; Funley, PAW, 71-74 評議会を務めた市民の数に関しては、上記、第三章 E.3を見よ。

12) 役人数:Hansen,”Seven Hundred Archai.

13) Ridley, “Hoplite”を見よ。上記、第三章 F.2を参照。

14) エペボイの制度については豊富な文献があるが、Pélékidis, Éphébie, がなお最も有益な概要である。私は、FA, 90-95で、エペボイの特別な軍事訓練は、4世紀の第2四半期に遡ると論じたが、とりわけその制度の教育的側面は、4世紀後半の展開であるかもしれない。E. Ruschenbusch, “Die soziale Herkunft der Epheben um 330,” ZPE 35 (1979), 173-76は、18歳と19歳のすべての者がーホプリーテン階級のみならずーエペボイであったと論じているが、それは可能性が高いと思う。この問題についての討論に関しては、上記、第3章 註93を参照。

15) 特に、『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、アリストテレス『政治学』第3巻と第6巻; Jaeger, Paideia, Ⅱ.150, Ⅲ.67参照。
16) 特に、イソクラテス 7.37, 48-50; Jaeger, Paideia, Ⅲ.119-22参照。

17) しばしば、「大衆」文学とエリート文学の思想の類似性は、エリート思想家の思想が大衆文化に「徐々に浸透」したことに起因すると考えられることがある(例えば、Adkins, “Problems,” 145-47)。しかし、エリート作家の思想のいくつかは、むしろ彼らが住んでいた社会の大衆的なイデオロギーの形式化や精緻化とみなすことができるかもしれない。

18) リュシアス 14.12, 27.5参照。

19) 例えば、プラトン『クリトン』47a-48a, 『プロタゴラス』317a; 伝クセノフォン『アテナイ人の国制』1.5-10; エウリピデス『アンドロマケ』470-85.

20) Jaeger, Paideia, Ⅲ.58-59を参照。

21) 『政治学』1284a30-34, 1286a25-35を参照。最終的に、『政治学』第7巻と第8巻の理想国家論において、アリストテレスは、大衆の知恵を否定して、狭義のエリート貴族政を支持することになるが、その理由の一つは、比例平等の正しい形態をどのように作りだすかの問題を解決することができなかったことにある。下記、第七章Aを見よ。アリストテレスが大衆の知恵の可能性を考慮しようとしたことは、『弁論術』において、共通の意見は少なくとも部分的には真理を把握しており、従って、合理的な政治的言説の一部として合法的に用いられる「省略三段論法」の定式化に使用できるという仮定にも示されている。「省略三段論法」の合理性と共通の意見からの主張の合理性に関しては、Arnhart, Aristotle, 特に5-7, 28-32, 183-88を見よ。〔訳注:省略三段論法(エンテューメマ):例:ソクラテスは人間なので死を免れない。この文は三段論法では次のように分析される。すべての人間は死を免れない(大前提)。ソクラテスは人間だ(小前提)。ゆえに、ソクラテスは死を免れない(結論)。ここでは小前提と結論のみが述べられて、大前提は暗黙の前提として省略されている。〕

22) Jones, AD, 43は「シチリアの」演説は、民主主義の原理に言及しているが、多分アテネの原型にならって作られていると述べている。同じ一般的な考えはー普通の人々が一緒に決定したことの方が、才気活発な個人よりか賢明であるー、クレオンのミティレネの演説の中で極端な形で現れている(トゥキュディデス『歴史』3.37.3-5)。

23) Humphreys,”Discourse of Athenian Law,” は、第23弁論にて、デモステネスは非専門用語でそして、殺人法に関連して「あなたがたすべての人が知っているところのもの“という語義を用いていると述べている。そして彼女はこれをリュシアスの慣用と対照させている。デモステネス 24.123; アンティフォン 2.4.1参照。

24) アイスキネス 3.117を参照。恐らく悪霊的な何かが、教養のない連中をアンピクテュオニアの会議での演説を邪魔する気にさせた;アンドキデス 1.130-31. Mikalson, Athenian Popular Religion, 19, 59-60は、事件の結果を神や悪霊、幸運の女神のせいにすることは、演説家がその事件によってどのように影響を受けるか次第であるように思えると述べている。K. J. ドーバーは、ミカルソンに関する書評(Phoenix 38 [1984]: 197-98)で、明らかな例外はいくつかあると述べながらも、この結論の重要性を強調している。

25) リュシアス 18.16, 27.4-6, 28.11; アイスキネス 3.168, 228; ヒュペレイデス 4.36参照。

26) リュシアス 28.9, 29.6; デモステネス 23.184, 201, 51.1-2; アイスキネス 3.220; リュクルゴス 1.138参照。

27) この心配は、アッティカの喜劇において、弁論家に対する攻撃のための、少なくとも偏った文脈を提供している。それについては、Ehrenberg, People of Aristophanes, 350-53を見よ。

28) 例えば、イソクラテス 18.21; アイスキネス 2.22, 3.228; ディナルコス 1.113.

29) よく似た類例に関しては、次のアンティポン 5.80を見よ。「あなたがた陪審員は、邪悪な告訴常習者にあなたがた自身よりか偉大である(メイゾン・ヒュモーン・アウトーン・デュナスタイ)と教えることを拒否することによって私を助けなければならない。なぜならば、彼らがこの裁判に成功した場合、それは犠牲者にとって教訓となり、犠牲者は屈服し支払いをする可能性が高くなるでしょう。しかし、告訴常習者が、法廷で邪悪な男であることが明らかになったなら、「あなた方」は本来あなた方の権利である名誉と権力(デュナミス)を享受することになるでしょう。」

30) 色々なタイプの「ソフィスト」の不人気については、トゥキュディデス『歴史』 8.68.1; イソクラテス 13.1とJaeger, Paideia, Ⅲ.56; アリストテレス『弁論術』1399a11-18を参照。法廷弁論作家の職業に対する軽蔑に関しては、下記、第六章 D.1を参照。

31) ソクラテスの裁判についての政治的背景に関しては、M. I. Finley, Aspects of Antiquity2(New York, 1977), 60-73; G. Vlastos, “The Historical Socrates and Athenian Democracy,” Political Theory 11 (1983): 495-516とアイスキネス 1.173の議論(495-96)を見よ。民主主義についてのソクラテスの見解に関しては、Stone, Trial of Socratesの活発なかつ論争を引き起こす記述は、Kraut, Socrates 特に194-244のもっと哲学的なニュアンスを含んだ議論によって、バランスが取れているかも知れない。Finley, DAM, 96では、ソクラテス裁判の後、反知性偏重の「悪意に満ちた雰囲気」は明らかに弱まり、実際に弁論家(例えば、アイスキネス 3.257)は、ソロンのようなそうした尊敬された人物に言及する際に、ピィロソポス〔哲学者〕という用語を用いることができたと述べている。同様に、Dover,”Freedom”を見よ。

32) アイスキネス 2.148とDover, “Freedom,” 50-51参照。

33) 弁論家が、正式な訓練、実施、事前準備を利用するのが不当であることを強調する別の節に関しては、Dover, GPM, 25-28; Kindstrand, Stylistic Evaluation, 18-19を見よ。Ostwald, From Popular Sovereignty, 256-57, 273を参照。

34) 例えば、イサイオス 1.7、断片 1.1(フォースター); デモステネス 44.15.

35) 例えば、アンティポン 5.80; イソクラテス 21.8; デモステネス 55.33, 58.33; ヒュペレイデス 1.2を見よ。喜劇における告訴常習者に関しては、Ehrenberg, People of Aristophanes, 343-47を見よ。

36) アイスキネス 2.145を参照。彼は告訴常習者の密告行為を次のように定義している。ある人がすべての民会や評議会で、彼を中傷することで、人々の心に別の誤った印象を巧みに植え付ける時であると。ヒュペレイデス 1.19, 4.13を参照。Osborn, “Law in Action,” 44-48は、報酬を得る可能性のある公的訴訟の存在は、実際に、直接的に告訴常習者の密告行為にはつながらなかったと指摘している。

37) リュシアス 31.2, 4, 断片 24.1.4(ジェルネー-ビゾー); デモステネス 55.2, 7; ヒュペレイデス 1.19-20, 4.11; アイスキネス 3.229; プラトン『ソクラテスの弁明』17a-dを参照。公務にあまり関わらなかったアプラグモーン〔政治に関わらない〕市民に関連したトポスについては、Hansen, “Politicians’,” 43-44; D. Lateiner, “’The Man Who Does Not Meddle in Politics’: A Topos in Lysias, ” Classical World 76 (1982-83): 1-12と、特にCarter, Quiet Athenian, 105-10を見よ。アプラグモーンのトポスは、関連したトポイ、レートールとイディオーテースの間の区別、および富裕者に対する一般的不信の文脈で読む必要がある。私の意見では、それは一般のアテネ人または、とりわけエリートによる「市民世界」の拒絶の明確な証拠にはならない。

38) 容認されたフィクションと社会的秩序の概念については、C. Wright Mills, White Collar: The American Middle Classes (New York, 1951), 33-59; Edmund S. Morgan, Inventing the People: The Rise of Popular Sovereignty in England and America (New York, 1988)特に、152-73の議論を参照。

39) アイスキネス 1.30-31を参照:ドキマシア・レートーロン〔レートールの資格審査〕の手続きを確立した立法家は、善人による演説は、たとえ不器用で単純であると言われても、聞き手にとっては有益であると思われ、悪人の言葉はたとえ上手く演説しても、何の利益もないと考えた。アンティポン 3.2.1-2は、「未熟な演説家」のトポスについての洗練されたやり方である。アンティポン 5.1-7において、被告は若さと演説の技術の欠如を強調している。彼は、一方では口の達者な人が無罪となっているのに、多くの口べたな訴訟当事者が、以前不当に有罪判決を受けていたことに言及している。また彼は陪審員に演説の誤りを大目に見るように頼み、たまたま彼が上手く話すことができたとしても、彼らがそれが利口さであるとは考えないことを願っている。

40) 無知な個人が意志決定者を、第三者の巧妙な演説に騙されることから救うというトポスは、4世紀より前に生じている。例えば、ヘロドトスが語るクレオメネスの娘とミレトスの使節の物語(『歴史』5.51)。恐らく、432年のスパルタでのステネライデスの演説(トゥキュディデス 『歴史』1. 86)は、同じ見地から見られるかもしれない。ミティレネの議論(トゥキュディデス『歴史』 3. 38. 2-7)におけるクレオンのコメントを参照のこと。アリストテレスのコメント(『弁論術』1395b20-1396a4)は、教育を受けていない人(アパイデウトイ)の演説は、彼らが知っていること(具体的なこと)と聴衆に関係すること(一般的なこと)をより直接に語る傾向があるので、大衆にとってはより心地よいという趣旨であるが、それは「未熟練の演説家」のトポスを完全に説明するには不十分であるように思われる。

41) イソクラテス(4.14)は、白眉の演説を仕上げるのに、数年費やしたと公言している。

42) A. P. ドルジャンは一連の論文で、デモステネスは実際には即興で演説する能力があったと論じている。例えば、” A Third Study of Demosthenes’ Ability to Speak Extemporaneously,” TAPA 83 (1952): 164-71を見よ。Kenedy, Art of Persuasion, 210と註113を参照。準備された演説に対する、修辞学者による詳細な非難に関しては、アルキダマス断片 6(ソープ)を見よ。Jaeger, Paideia, Ⅲ.60を参照のこと。Bryannt, “Aspects Ⅰ,” 172は、「一般大衆や演説者には、常に自然に沸き上がる雄弁という印象に関する確かな愛着があった…。」と述べている。

43) North, “Use of Poetry,” 27; プラトン『ソクラテスの弁明』26dを参照。

44) 特に、クセノポン(『ソクラテスの思い出』1.2.58)は、次のように述べている。ソクラテスの告発者の一人は、(恐らく、ポリュクラテス、パンフレットで)反民主的態度の証拠として、『イリアス』のこの節を哲学者が特別に好んでいることを引用している。Stone, Trial of Socrates, 28-38のコメントを参照のこと。その場面に暗示された不平等な社会関係についての簡潔な議論に関しては、Raaflaub, “Freien Bürgers Recht,” 25を見よ。Donlon, Aristocratic Ideal, 21-22を参照。

45) 例えば、デモステネス 19.243, 245. North, “Use of Poetry,” 24-25; Perlman, “Quotations,” 特に156-57, 172を参照。

46) 例のリストに関しては、Pearson,”Historical Allusions,” 217-19を見よ。一般的に、弁論家の歴史の使用については、Perlman,”Historical Example”; Michel Nouhaud, L’utilisation de l’histoire par les orateurs attiques (Paris, 1982)を参照。ちなみに、後者は、弁論家は通常、聴衆は彼らが語ったこと以外に、歴史に関する正式な知識を持っていなかったと考えていたと(354)、また、出来事が現在の政治から歴史の領域に移るのに約20年かかったと(369)記している。

47) 以下を参照。アンティポン 5.70-71:被告は9人のヘレノタミアイ〔同盟財務官〕の不当な処刑を論じて、次のように結論づけている。私が思うに「あなた方の」年長の者は、それを覚えているでしょうし、若い人はそれを「私と同じように」聞き知ったでしょう。リュシアス 19.45:私は父や他の年長者から「あなた方が」以前には金持ちの富の大きさを誤って評価したことを聞いた。

48) 侮辱と嫉妬については、アリストテレス『弁論術』1418b23-25を参照のこと。

49) Perlman, ”Quotations,” 171-72 を参照。この重要な一節の詳細に関しては、下記、第五章F. 2, 第六章 E. 1を見よ。

50) Kennedy, Art of Persuasion, 239は、次のように言っている。アイスキネスは、「彼にはいくらかキケロの独りよがりや、あるいは他の自力でたたき上げた人のようなところがあった。彼らは、過度に自らの言葉を引用するのが好きで、そして自らの教育を誇っていた」。間違いはないが、デモステネスの教育での同様なプライドに照らして、このコメントは、より一般的な点を見逃しているように思われる。

51) 特に、Jaeger, Paideiaの、必ずしも説得力があるわけではないが、すばらしいそして詳細で長大な「ギリシアのパイデイアの全体の発展を調査し、そしてその問題とその意味の内在する複雑さと反体性を研究する」(Ⅲ.47)その試みを参照。

52) 重要な決定が下された情報は一般にアテネでは公共財産であったことを考慮すると、古代の弁論家は秘密の情報源を参照して―選挙区民〔訳注:本文ではconsituenciesと誤植〕が利用できない多くの情報に、実際にアクセスしている現代の政治家の普通の戦術であったがー自分の立場を擁護することはめったにできなかった。私はこの点について、John Jacobに負うている。

53) 下記、第七章 E.4で論じたトゥキュディデス『歴史』3.42.5-6(ディオドトスの演説)を参照。特に、アリストテレスのデーモティコスの用語については、Ste. Croix, “Character of the Athenian Empire,” 22-26を見よ。

(2022/05/31)


第五章 階級:富、恨み、感謝

 市民間の富の不平等な分配は、民主的アテネに関連する社会的不平等の中で、おそらく最も政治的に問題のある状態であった。アテネの社会は、明らかに階級によって分断されていた。ほとんどの市民は生活のために働かねばならなかったが、そうでない人も少なからずいた。アテネの有閑階級は、総市民人口のわずか約5〜10%で構成されていたに過ぎないが、アッティカの弁論家の全集に代表される演説者の大多数、恐らくすべては、個人的な訴訟当事者も専門の政治家もこの有閑階級のメンバーであった(上記、第三章 C)。富裕な演説者は(少なくとも、聴衆によって富裕であると知られた人は)、金持ちが集合的に善であると受け取られたならば、その階級的地位によって利益を得ることになるであろう。(注 1)もし、それらが悪であると受け取られたなら、彼はその階級のメンバーであることが自分にもたらした汚名に、レトリックで対処しなければならなかったであろう。富裕なエリートと社会及び政治で果たした富裕層の役割の正当性について、アテネ人が抱いた見解は複雑であった。能力と教育のエリートの場合のように、富裕な政治家は富裕なイディオーテス〔私人〕よりはいくらか異なった、そしてもっと複雑な基準によって判断された。従って、階級としての富裕エリートについてのアテネ人の考えと、その階級の下位集団(サブグループ)としての富裕なレートール〔弁論家〕についてのアテネ人の見解は、時に分けて考える必要がある。

A. 平等主義国家の経済的不平等

 『政治学』(1279b17-1280a4、参照1309b38-1310a2)において、アリストテレスは民主主義を「貧しい人々の支配」と定義している。ギリシアのポリス世界では、常に有閑階級の人よりか貧しい人がずっと多かったから、貧しい人々の支配は必然的に大多数の支配を意味した。しかし、アリストテレスは続けて次のように語っている。「金持ちが国家の過半数であり、貧しい人々が少数派である場合、その国家は貧困の少数派が政体を支配した場合にのみ、正当に民主主義と呼ばれるべきである」。アリストテレスは、定義上、民主主義と富裕層の支配であった寡頭政を対比している。富裕層は一般的に少数派であったが、アリストテレスは、富裕層が大多数であって、支配した場合、その政体はやはり寡頭政と呼ばれるに違いないとためらうことなく語っている。従って、アリストテレスは、5世紀と4世紀の他のエリート作家と共に、民主主義と貧しい人々による政治領域の支配を、はっきりと同一とみなした。エリート作家は、貧しい人々の支配を不条理とみなした。なぜなら、彼らはこの状況を、質や美徳よりも単なる数に不公平な利点を与えていると見たからである。従って、民主主義は、彼らによって、僭主制の裏面であり政治的極端とみなされていた。(注2 )

 アテネのデーモスは、明らかに異なる見解を示した。アテネでは大衆が支配して、多数派の決定は少数派を拘束していた。普通のアテネ人は、民主主義と貧しい人々の支配との必然的な相関関係に関するアリストテレスの推論に(そもそも、彼ら自身がその問題に悩んでいたとしても)同意しなかったであろう。しかし、紛れもなく、アテネ人の大多数は、有閑階級に代表される少数派よりも貧しかった。アテネの民主的国制は、寡頭政国家で富裕な少数者が享受する明白な法的および政治的特権が、アテネでは最小限に抑えられることを保証した。市民権の権利を行使するための財産資格がないことは、アテネの政治体制の基本原理であった。公職者や政治参加に対する報酬、抽籤による役人の選出、民会での自由な演説の権利は―これらすべては、大衆の決定が全住民を拘束することによって保証されていたー、富裕な市民による国家の政治機構の支配をより困難にした。 

財産所有と政治参加の分離が、民主的な政治形態にとって重要であることは、葬送演説でペリクレスによって強調されている(トゥキュディデス『歴史』2.37.1)。ペリクレスは、アテネの政治形態が広く模倣された理由の一つは、貢献する価値のある何かを持っている市民が、貧乏によって(カタ・ペニアン)意志決定プロセスから除外されなかったためであると述べている。(注3 )アテナゴラス(トゥキュディデス『歴史』6.39.1)は、シラクサでの民主主義を擁護する演説で、民主主義は決して賢明(クシュネトン)でも平等(イソン)でもなく、富を所有する人が支配するのに最もふさわしいと言う者もいると主張している。アテナゴラスは、強硬にこの解釈に反論している。彼は金持ちは、確かに富の最高の守護者であるが、一般大衆は国家にとって何が正しいかについての最高の裁判官である(上記引用、第四章 B.4 なお、下記第五章A.2を参照)。リュシアスのパンフレット『民主主義を破壊すべきでないこと』(リュシアス34)はーそれは民会での演説の形をとっているがー、財産資格のない民主主義についてのメリットについての広範囲にわたる議論である。イソクラテスでさえ、『パネギュリコス〔民族祭典演説〕』(4.105)の中でこの理想に言及し、アテネ人は「多数者が少数者によって支配されるのは恐ろしいことであり、財産がなくても(トウース・タイス・ウーシアイス・エンデエステルース)悪人ではない人々が、貧困によって国家の公職から閉め出されるのも同様に恐ろしい」と判断したことを理由にアテネを賞賛している。

A.1 定義と専門用語

 もちろん、個人の貧富の差は、アテネ市民すべてにとって明白であった。5世紀後半の頃には、富裕者のほとんどは、長い麻のキトーン〔訳注1 〕を身に着け、頭髪を黄金の「蝉」型留め金で留める習慣(トゥキュディデス『歴史』1.6.3)―彼らと貧しい隣人とを区別したマーク ーをやめていたが、金持ちはそれでも別の社会階級として簡単に識別できたであろう。公的な演説家もエリートの聴衆に話しかけていた作家も、社会を二つの階級に分ける傾向があった。すなわち、多くの富(プルートス)を持つ「金持ち」(プルーシオイ)と、富を持たない「労働者」(ペネーテス)であった。(注4 )アリストテレス(『弁論術』1361a12-16)は、弁論術のために、富(プルートス)を、たくさんの(プレートス)お金や土地を持ち、土地家屋などの不動産、家具、家畜、そして大量かつ高品質の奴隷を所有する特質と定義している。従って,貧困(ペ二ア)は、多くの立派な財産を持っていないという特質になるであろう。しかし、アリストテレスは、人が正当に金持ちと呼ばれることができるのに、どれくらいの財産が必要であったかを告げていない。明らかに、プルーシオイペネーテスも、経済的に均質なグループを構成しなかったし、4世紀のアテネの富と人口の曲線に一本の線を引いて、プルーシオス〔金持ち:単数〕とペネース〔貧乏人:単数〕の用語のレトリックの使用をすべて適切に説明することは不可能である。確かに、約300人から400人の公共奉仕(レイトゥルギア)の支払人は、―彼らは3〜4タラントンあるいはそれ以上の財産を管理したが―、あらゆるアテネの基準によっても富裕であった。プルーシオイに対するレトリックの言及の中には、明確にそしてもっぱらアテネのこの最富裕層のみに言及しているように見えるものもある。(注5 )しかし、プルーシオイの最も一般的かつ最もわかりやすい意味は「余暇階級」であり、およそ1タラントンかあるいはそれ以上の家産を所有していて労働の必要性から解放されていた人々であった。(注 6)

 プルーシオスではなかった人は誰でもペネースであり、プルーシオスの定義次第で、人は公共奉仕負担義務の財産以上を持っていないという理由でペネースと、または、余暇階級のメンバーでなかったという理由でペネースと同一視されたかも知れない。約2タラントンの家産を持つ人(余暇階級ではあるが,公共奉仕の負担義務の階級以下)は、それゆえ、ある定義によればプルーシオスであり、別の定義によればペネースである可能性があった。しかし、どちらの定義にせよ、ペネーテスが市民の大多数を占めていたことは明らかであった。富に関する語彙は、アテネ人が自分たちの社会を大きく二つの階級に分け、重要な区分は生活のために働かねばならない人々と、そうでない人々の間にあると見なしていたという考えを裏付けている。(注 7)

 ギリシア人は、経済分析のための専門用語を開発することはなかったけれども、アテネ人の大半は、一般的にプルーシオスを、生産手段を支配し、他人の労働を搾取し、彼らの労働の余剰価値を得ることによって生計を立てている個人と定義しても、異議を唱えることはなかったであろうと思う。しかしながら、アテネの上流階級の人々が余暇のための余剰資金を得るための労働力として、しばしば奴隷だけでなく労働者市民も含まれていたことを念頭に置くことが重要である。金持ちのアテネ人は、鉱山業、製造業、そして海上貿易の融資などに深く関わっていたけれども、生産手段には概して農耕地が含まれていたであろう。対照的に、ペネースは、通常、自分の労働と家族の労働に大部分を頼って生計を立てる人であった。彼はプルーシオスに雇われる場合もあるが、多くの場合「自営業」であった。―ことによると、小規模な製造業者または商人であるかもしれないが、おそらく最も一般的なのは自給自足の農民であった。(注8 )

 前述の定義は、弁論家全集のペネースプルーシオスのほとんどの使用を説明するように思われるが、すべてというわけではない。特定の状況下では、公共奉仕負担義務の財産を所有していたので、上記のいずれかの定義に従ってプルーシオイの階級に分類される個人が、それにもかかわらず演説でペネーテスだと自称することができた。彼らは公共奉仕負担義務の財産を所有しているが、プルーシオイと呼ばれた(同じく公共奉仕負担義務の)訴訟相手よりも、財産は少ないと主張した。従って、プルーシオス/ペネースの用語は、二つの異なる意味で使用される可能性があった。絶対的には、演説者がある階級または別の階級のメンバーとして測定可能な基準の存在を仮定した階級定義として、または、相対的には、その場合は、演説者はプルーシオスペネースよりも豊かであるが、ペネースプルーシオスが必ずしも異なる経済階級に属しているとは限らないということを意味している。(注 9)最初の、絶対的意味が、富の主題についての一般的なアテネ人の考えを支配していたように思われる。暗黙の了解として、アテネの社会は経済階級に基づいた二つの利益グループに分かれていた。それぞれのアテネ市民は、通常自分をペネースかまたはプルーシオスと見なし、自分の階級の利益を自分の利益と見なすことが求められたかもしれない。第二の、相対的意味は、そのような区分を意味せず、ただ個々の市民が、ほかのどの市民よりも豊かであるか、貧乏であるかのいずれかであったかの認識だけを意味していた。この後者の意味は、富裕な訴訟当事者が、自分と自分に判決を下す人との間の階級の区別を曖昧にするために用いた(下記、第五章 D.2)。ここでの目的のためには、ホイ・ペネーテスが、ホイ・プルーシオスの階級とは異なる階級を記述する可能性があることに注目することで十分である。富の用語は、絶対的意味で用いられようと相対的意味で用いられようと、不平等が一般的で集団的なものであろうと、特殊で個人的なものであったかに関わらず、常に不平等の意味を含んでいた。

A.2 階級革命の恐れ

 平等主義の支配的なイデオロギーが存在することを考慮すれば、より貧しいアテネの多数派は、法令によって全市民の間で富を平等に分配することを検討したと予想するかも知れない。また、彼らが不平等な経済階級の存在を認識し、政治的にはすべての市民は理論的には平等であり、多数派はその意志を少数派に強いる国制上の手段を持っていたコミュニティに住んでいたことを考慮すれば、アテネ人はマルクスの理想とする階級なき社会での富の分配に似た何かを、実践しようと考えたかもしれない。(注10 )富の強制的な再分配につながる階級闘争は、、古代ギリシア人にとっては、単なる理論上の問題ではなかった。アルカイック期には、土地改革に関して金持ちにはかなりのプレッシャーがかかっていたと思われるし、僭主の中には恐らく土地改革を施行した者もいた。5世紀の後半から4世紀にかけて、幾つかのポリスでの社会革命家は、金持ちによって蓄積された富を貧しい市民に再配分しようとした。(注11 )政治社会学について著述したギリシアのエリートは、貧しい人々の間での階級の不平等の恨みが、社会的動乱を導くことに深い関心を示していた。アリストテレスによれば、カルケドンのパレアス〔訳注2 〕は階級革命を避ける最善の方法は、富裕なエリート自身が財産の均等化のプログラムに着手することであると示唆した。アリストテレス(『政治学』1266a31-1267a1)は、パレアスは度を超していると主張したが、彼自身は、国家は貧しい人々に最低限の財産を提供するべきであると主張した(『政治学』1267a10-11, 1320a32-b13)。そして、彼は支配的エリートがイデオロギー的、法的手段によって階級的緊張を拡散させる他の様々な方法を提案した。(注12 )アテネの富裕エリートは、デーモスがその政治力を使って経済的平等化を押しつける可能性に特に懸念を抱いており、エリート作家は、民主的な政治形態の正当性を否定する論拠として、社会的平準化の亡霊を利用した。(注13 )リュシアスは、403年に書かれた『民主主義を破壊すべきでないこと』というパンフレット(34.5)で、財産の没収は、民主主義ではなく、寡頭政治の下で最も頻繁に行われたと述べて、このような上流階級の恐怖の正当性に反論した。リュシアスは、アテネの富裕層は民主的政治秩序によって、彼らの財産が脅かされることはないのだから、彼らが参政権を制限しようとする理由は何もないと結論づけた。

 結果的には、リュシアスの言うとおりであった。アテネのデーモスは、階級としての金持ちから富を奪うような行動は一切しなかった。政治的・法的な平等を維持することに関心があるのにも関わらず、アテネ人は市民の経済的平等の知恵を信じるようになることはなかった。アテネの法律は、貧しい人に金持ちに対してある程度の法的保護を与えたが、国制そのものは、事実上ではなくとも、法律上のソロンの財産階級を維持し、経済的区別がアテネ社会に深く根付いていることを認めていた。デモステネス(22,25-27)は、ソロンが富または能力のいずれにおいても、真の平等は不可能であることをはっきりと悟り、貧乏人が公訴のために必要な1,000ドラクマの補償金を支払わなくても、金持ちに対して法的判断を下すことができる法的仲裁の形式〔訳註3 〕を考案した知恵を称賛している。(注 14)『メディアス弾劾』において、富に由来する権力の不正な行使に対する痛烈な非難の中で、デモステネス(21.210)は、「彼ら[金持ち]はたくさんの富(ポラ・アガタ)を持っており、誰も彼らがそれを享受することを禁止できない。それゆえ、彼らは我々[デーモス]が、共通の財産―法律―が与えてくれる保証(アデイア)を享受するのを禁止するべきではない」と述べている。演説を通じて、デモステネスは、金持ちによる特別な法的、政治的特権が発生することを攻撃しているが、同様にはっきりと彼らが富を保有する権利を持っていたことも述べている。『シュンモリアーについて』(14.25-28)の民会演説で、デモステネスは、「戦争で国家が必要とする時まで、お金は私人の手に委ねるべきであり、私は戦争の時には金持ちは気前良く提供するだろうと信じている」と主張している。アテナゴラスも、上記で引用した節で(第五章A:トゥキュディデス 『歴史』6.39.1)、金持ちは富の最善の守護者(ピュラケス)であると述べているので、同意しているように見える。上流階級と下流階級の緊張にも関わらず、4世紀アテネでは、表だった階級闘争は驚くほど少なかった。(注15 )

A.3 再配分の方法:公共奉仕(レイトルギア)、税金、罰金

 経済的不平等に基づく階級の相違は、アテネ人にとっては本質的に非民主的とは見なされなかった。しかしそれでも、アテネ人は上流階級のメンバーが享受した過剰な富の一部は、国家の安全を守るため、そして一般市民の総体的利益のために用いるべきであると考えていた。強制的な経済的平等の原理を導入しなかったとはいえ、アテネのデーモスは、富裕な個人が社会全体の利益に、富のある程度の部分を費やすことを奨励し、最終的には強制する方法を見つけ出した。国家はいろいろな方法で金持ちに税を課した。最も重要なのは、公共奉仕(自発的または任命されて)、戦時財産税(エイスポラー)、そして民衆法廷で徴収された厳しい罰金であった。

 公共奉仕は、国家の活動を支援するために個人によって寄付された資金で、三段櫂船の艤装(トリエラルキア)や国家の祭典での演劇のグループ、あるいはその他の種類の上演の費用の負担(コレーギア)があった。公共奉仕は、かっては主として自発的な寄付であり、国家に対する愛国心と個人的善意の印として役立っていたかもしれなかった。4世紀には、市民の中には自発的に公共奉仕の履行を続ける者もいたが、国家は通常公共奉仕を定期的なローテーションで割り当てた。公共奉仕を課せられた人が、別の人に財産の交換を申し込むことができるアンティドシス〔財産交換〕の訴訟は、公共奉仕に独自に責任を負っている超富裕層の市民(および在留外人(メトイコイ))の階級に、多少負担が均等に分散されることが保証された。(注16 )

 エイスポラーは、通常軍事上の緊急時に時折有閑階級に課せられた。エイスポラーは資産の単純な割合として評価されるという点で逆進的な税であり、いずれにせよ、貧しい市民は免除された。(注17 )エイスポラーは、特に、兵士の給与の資金を提供することにより、金持ちに戦争の資金を調達させた。給与の支給により、もしそうでなかったなら従軍するとことが出来なかった貧しい市民に、国家を守るための役割を果たすことを可能にした。(注18 )

 エイスポラーと公共奉仕のシステムは、どちらも金持ちの市民からお金を受け取り、より貧しい人々に(間接的に)それを与えたので、経済的再配分の道具と見なすことができる。この制度は外部からの力だけでなく、経済的不平等によって引き起こされる、内部の緊張からも国家の安全を保証するのに役立った。課税の再配分の機能は、4世紀のアテナイでは十分に理解されていた。それは、デモステネス(22.51)が、通常以上に精力的にエイスポラー支払いの滞納金を徴収していた、アンドロティオンの裁判のために書いた演説で聴衆に説明したとおりである。「どうか私の言ったことを誤解しないで下さい。私もまた、エイスポラーは滞納者から取り立てるべきであると思っています。…法が命ずるように「他の市民の利益のために」(トーン・アローン・ヘネカ)。これは民主的方法(デーモティコン)です」。他の所で(1.28)、デモステネスは「金持ち(エウポロイ)が幸いにして持つことになったかなりの総額に照らして、彼らが安心して残りの財産を享受する(タ・ロイパ・カルポーンタイ・アデオース)ことができるようにするためには、彼らは進んでエイスポラーで財産のほんの一部を拠出するべきである」と述べている。ここには、言外の脅迫があるように思われる。つまり、金持ちが進んで与えないならば、財産は没収されたかもしれなかった。しかしながら、その脅迫は一般的な財産の再分配をもたらす階級革命のことではないが、それによってお金を富裕な忌避者から取り立てるとのできる法的手段に訴えることを暗に語っていた。(注19 )

 アテネ国家がとった最も苛酷な経済的再配分の方法は、訴訟での有罪判決による罰金の支払いのために個人の財産を没収することであった。なかには極端に高額の罰金もあり、明らかに懲罰を意図していた。富裕な訴訟当事者に高額の罰金を課した陪審員は、貪欲が動機であったと見えるかも知れないし、富裕なアテネ人は、民衆裁判所が金持ちを有罪にしたのは、国庫に支払われる財産を得て、そこから貧しい人々の政治参加の報酬に充てるためだと不満を口にすることもあった。(注20 )アテネ人は、確かに、金持ちに課せられた罰金を潜在的にデーモスに利益をもたらすものと見なしていた。『ティモクラテス弾劾』の演説において(24.111)、デモステネスは、ティモクラテスが「デーモスの利益のために」起草したと主張した新しいエイスポラーの法律は、アテネ人から正当な罰金の返済を奪い、新しい法の下ではそれは減らされると主張している。結果として、新法は事実上、「諸君ら大衆」(ト・プレートス・ト・ヒュメテロン)を攻撃しているのである。

 恐らく、アテネの陪審員は、特に経済的に困難な時代には、国庫の支払い能力を確保するために富裕な被告を有罪にする誘惑にかられたことは間違いない。さらに、いくつかの有罪判決は、少なくとも部分的には、陪審員の側の利己的な行為による可能性があり、それらの陪審員報酬は国家の財源から支払われた。他方、訴訟当事者が民衆裁判所でこの傾向を非難する気持ちがあったということは、陪審員自身が富だけを根拠に有罪判決することの不当さを認識していたことを示唆している。ヒュペレイデス(4.33-36)は、アテネのデーモスを、告訴常習者(シューコパンテース)によって攻撃された金持ちを有罪にすることを拒否したので、すべての人々の中で最も偉大な精神の持ち主(メガロプシュコテロン)と呼んでいる。彼は60タラントンの財産が起訴されたエウティクラテスの例を引用しているが、その訴訟で陪審員は、「その告発を是認したり、または他の財産を要求するどころか」告発者に5分の1の投票さえ投じることを拒否した。ヒュペレイデスは、金持ちはもはや富を投資することに恐れを感じなくなったため、あるレートールが、以前は法廷で金持ちをあざむいて有罪判決させることで損なわれていた国家歳入は(通常の課税で獲得することで)増加したと指摘している。実際、法的罰金を課することが、階級としての富裕層への大きな脅威であったり、あるいは罰金が広範な経済的混乱を引き起こしたことを示唆するような証拠はあまりない。(注 21)罰金をテーマにした、弁論家全集の中で最も過激な発言は、多分デモステネスの『メディアス弾劾』(21.211)での 「メディアスが、今、乞食(プトーコイ)と呼ぶにもおこがましい、もっと貧しい市民と同じ程度の財産を所有させられたとしても、何もひどいことはないだろう」というコメントであろう。これは、ほとんど経済的平等のイデオロギーの訴えのように聞こえるが、結局、デモステネスはメディアスのひどい傲慢の鼻を折るためだけに、富を奪うことを望んでいることが明らかになる。(下記、第五章 B.2)

 要約すれば、アテネ国家はさまざまな経済的再配分のための法的手段を用いた。富裕層は、民主主義の体制が機能し、国家が外交政策を実行できるようにするために、蓄積された十分な余剰財産を寄付することを期待されていた。娯楽に提供された寄付でさえ、貧しい人々への金持ちの義務の見地からみる事ができた。デモステネスの依頼人(42.22)は、彼が言うには、金持ち(エウポロイ)は、市民の利益のために財産を用いなければならなかったので、パイニッポスの二人の父親(実の父親と養父)が、非常に裕福でそれぞれが合唱隊奉仕の記念碑〔訳註4 〕を建てることができたという事実を嫉みはしない(ウー・プトノー)と述べている。貧しい人々は、間接的に金持ちによって、軍隊で戦うために支払われた時だけでなく、彼らが役人としての務めを果たし、民会に出席し、そして、民衆裁判所で陪審員としての務めを果たすため国家の報酬を受け取った時にも援助を受けていた。民主主義が貧しいメンバーのために、ある種の経済的利益を提供することは、一部のエリートアテネ人によってさえ、正当と認められていた。イソクラテス(15.151-52)は、次のように主張した。自分自身は国家が市民に提供している色々な種類の国家の報酬(レーマタ)を受け取るのを辞退してきた。それは自らの資産で生活できる私のような者は、困窮している人々にもっと適切に使われるかもしれない資金を奪うべきではないと配慮してのことであった。

 前348年の『オリュントス情勢(第3演説)』(3.34-35)で、デモステネスは、兵士や陪審員が支払いを受け取れるだけではなく、すべてのアテネ市民がそれぞれ、自分の年齢と状況に最も適したあらゆる国家の義務を実行できるようにする定期的な給付金を受け取れる、―つまり、「窮乏のゆえに恥ずかしい状況に陥ることを避けられる」―より包括的な国家の福祉システムを提案している。デモステネスが民会にそのような提案をすることが可能であったことは、アテネ人は貧しい市民に対する社会の義務の範囲の問題にある程度の注意を払う意志があった事を示していた。しかしながら、その提案は決して採用はされなかった。そのことは、現存のシステムが十分であるとみなされたか、または、提案された案が実行不可能であるとみなされたかのいずれかを示唆している。民主政体の再配分の機能は、市民の困窮度を改善し、その結果、経済的平等を実施するためのより徹底的な試みを支持する感情の高まりを抑制した(注 22)
 

A.4 経済的不平等の機能的帰結

 アテネ国家による限定的な富の再配分は、古代ギリシアに蔓延していた貧富の間の緊張を緩和するのに役立ったが、決して解消されることはなかった。そして、アテネでは、その緊張は平等主義の政治イデオロギーと財産所有の明らかな不平等との間の不協和音によって悪化した。大多数の貧しい人々は、階級としての富裕層から富を奪うことまではしなかったが、明白な不平等が民主主義に及ぼす影響については懸念し続けた。金持ちは、概して貧しい人より幸せな人生を送っているように見え、そしてそれが、当然のこととして貧しい市民の間の嫉妬の原因であった。市民の間の富の不平等は、また平等主義に基づいた法律制度にとって問題を生み出した。法の下での平等は実際に可能だったのか、というか本当に公正であったのか?法律の中には、ある階級より他の階級に利すると思われるものもあった。例えば、イソクラテスの依頼人(20.15)は、泥棒に対する判決は、失うべき財産を持っていない貧乏人には何の役にも立たないと主張した。従って、陪審員が泥棒に有罪判決をした時には、彼らは富裕層だけに利益をもたらした。

 私訟で勝利した貧しい人が、同じ立場の金持ちと同じ賠償を与えられるのは、道理にかなっていたのだろうか?イソクラテスの依頼人(20.19)は、「自分が貧しい大衆(トゥ・プレートゥース)の一人であると言う理由で、陪審員が被告が自分に支払わなければならない罰金を減額するのが適切であると考えるかもしれないことを恐れる」と公言した。彼は「無名の人々(アドクソイ)」の一人が「有名な人々」よりも賠償として受け取る額が少ないのも、貧しい人(トゥース・ペノメノゥース)が富裕な人よりも劣っていると考えるのも正義に反することである」と主張した。実際、彼は続けて次のように言っている。「あなたがた陪審員が、大衆市民についてそのように判断するなら、あなたがたは自分自身の利益に反する投票を行うことになるであろう」。しかし、もし貧しい原告が、首尾よく金持ちを起訴することによって、莫大な示談金を得ることができたならば、結果として濫訴(シュコパンシー)の横行が生じるかもしれない。またその一方で、貧しい犯罪者が、富裕な犯罪者と同じ厳しい基準で判決されることは正しいのか?リュシアス(31.11-12)は、それは正しくないと論じている。富裕な個人を非難する際に、彼は、特に富で悪事を避けることが可能であった富裕な犯罪者には怒りを感じるが、不本意ながら必要から悪事を行うことに陥ったかも知れない貧しい人々や障害を持った者を大目に見るのは、人として普遍的な慣習であると主張していた。

 政治的側面については、たとえ金持ちの投票は、貧しい隣人のそれよりも数の上では多くは数えられないけれども、金持ちは財産の提供を差し控えることによって、国家の政策へ影響を及ぼすことができたかもしれない。彼は自発的な公共奉仕の行使を拒絶することにより、または、強制された公共奉仕や戦時財産税の支払いを免れるような形で財産を隠すことによって、この目的を果たすことができた(下記、第五章 C.1を参照)。金持ちの多くが、上手く税金の支払いを回避したならば、例えば、軍事予算が信頼できる軍隊を維持するのに不十分であることが判明した場合など、国家政策の選択は厳しく制限されたかも知れない。さらに、金持ちは国家の防衛より、自己の財産の保護により関心を持つ傾向がある可能性はなかったのか?金持ちは、敵から自らの財産が保障されるという約束が得られれば、裏切り者になる可能性はなかったのか?たとえ、不面目な平和でさえ、もし、それが彼に抑圧的な戦時財産税を支払う要求から自由になるなら、彼は平和を望むようなことはなかったのか?この一般的な推論によれば、財産を所有することで、上流階級は「国家の中の国家」になった。彼らの利益は、少なくとも潜在的には、貧困層の大多数の利益とは相反するものであり、彼らの富は大衆の希望に反して、彼らの特別な利益を促進する力を与えた。

 金持ちは、軍隊への貧しい市民の参加のために資金を提供するのを助けたけれども、少数の人々の手に富が集中すると、戦場でさえ不平等が生じた。戦闘における密集隊(ファランクス)戦術〔訳注5 〕は、同じ装備で武装され、個人というよりはむしろ一つの単位として肩を並べて戦った重装歩兵の間で、平等と協調のイデオロギーを強化する傾向があったかもしれない。(注23 )それでもなお、アテネの金持ちは多少の有利な立場を持ち続けていたように思われる。最も注目すべきことには、アテネの金持ちは、密集隊(ファランクス)としてではなくて、騎兵隊として軍務に就くことがあった。アテネの騎士は、最も裕福な市民の階級から募集された。そして、結果として、騎兵隊は富裕なエリートの軍事的部門とみなされた。グレン・ビューが論証したように、少なくともペロポネソス戦争後の数年間は、大衆の間には、5世紀後半の寡頭政体を支持した富裕な騎兵〔訳註 〕に対して、恨みも相当あった。(注24 )騎兵の軍務は、(正しいか、そうでないかは別として)重装歩兵の階級の軍務よりか安全であるとみなされた。リュシアスの若い依頼人で、政治に野心のあるマンティテオスは、395年にアテネ人がハリアルトスで戦っていたときに〔訳註7 〕、騎兵のリストに載っていたが、それよりも歩兵として軍務につくことを選んだ。「なぜなら、私はもし、大衆(ト・プレートス)が危険であるかもしれないのに、安全な軍務の準備をすることは恥ずかしいと考えたからである」(リュシアス16.13 )

 生計のために働かなければならなかった兵士は、特に、都市部での職業を持つ人々は、長期間にわたって収入源から切り離される目に会ったかも知れなかった(例えば、リュシアス14.14)。金持ちは、必要な限り家を留守にする余裕があったであろう。もし、金持ちが戦争捕虜になった場合、親族は通常彼を金銭によって解放することができた。しかし、労働者階級の兵士は、友人や親族が彼を捕らえた人に支払う身代金の額を用意することができなかったなら、奴隷に売られてしまう危険性があった。(注25 )

 つまり、金持ちの政治的特権については、国制上の制限があったにも関わらず、貧しいアテネ人は、富裕な同胞と機能的に同等ではなかった。この機能的不平等は、必然的に富裕エリートへの恨みを生み出した。アテネ人は、経済的平等を進める効果的な法的仕組みも、経済的流動性を進める社会的仕組みも発展させなかったので、平等主義の政治体制によって支配された社会での富の不平等な配分のパラドックスは、その解決はイデオロギーのレベルに残された。(注 26)アテネ人は、富裕な市民が政治権力を集積する傾向を制限し、逆に富裕層が享受する利益に対する貧困層の恨みが、公然たる階級闘争に発展しないような社会統制の方法を開発しなければならなかった。弁論家は、富裕層と貧困層の間の緊張を十分認識しており、彼らの演説は、富裕層と貧困層の市民が民主政体の文脈の中で共存し、共同の政治行動に従事することを可能にしたイデオロギー的妥協について分析するのに多くの有益な資料を提供している。

B.  嫉妬、恨み、富の弊害

 平均的なアテネの市民が、金持ちを子細に眺めたとき、感情は複雑であったが、それらの中で顕著なのは、あからさまな嫉妬(プトノス)の感覚であった。貧しい人は、金持ちの財産や、財産が与えてくれる素晴らしいものを所有したいと思ったであろう。アリストテレス(『弁論術』1387a6-15)は、人は勇気や正義などの達成可能な美徳によってではなく、むしろ、獲得することが期待できない属性、特に富や権力などによって怒ったり、嫉妬する傾向があると示唆している。(注27 )このことは、恐らくアテネの歴史のすべての時代において真実であった。アルキビアデスが(トゥキュディデス 『歴史』6.16.2-3)、国内やオリュンピアの祭典両方で、披露した豊かな富や盛大な振る舞いを自慢したときに、彼はその行動が国内の住民の間に嫉妬を生み出すことを認めたが、それが他国人に与える影響という点から、その振る舞いを正当化することができた。アルキビアデスは、私的な支出も、ポリス全体が恩恵を受けるならば無駄ではないと主張した。一世代後、デケレイア戦争(前413-404)〔訳注 〕の敗北とその直後では、アテネ人はそのようなあからさまな誇示を、我慢することができなくなった。アテネの将軍カブリアスは、伝えられるところによれば、アテネに長く居住しなかった。なぜなら、彼は洗練された生活スタイルに対する嫉妬が、自分を破滅に導くことを恐れたからであった(コルネリウス・ネポス『カブリアス』3)。もちろん、カブリアスが恐れたのは、政敵によって起訴され、憤慨している陪審員に有罪宣告されるということであった。デモステネス(23.208)は、相手は「この法廷のあなた方〔陪審員〕全員を合わせたより、さらに多くの土地を所有している」と主張した時、金持ちに対する陪審員の自然な嫉妬を利用していた。

B.1 誇示、豪華さ、退廃(デカダンス)

 ほとんどの陪審員は、金持ちの家の外観は知っているかもしれないし、公の場に姿を見せる有名な金持ちは分かるかも知れないけれども、個人的に贅沢を経験したことはなかったであろう。デモステネス(19.314)は、アイスキネスをピュトクレス(非常に裕福な男:デーヴィス,APF 12444〔訳注 8〕)と歩調を合わせてアゴラを大股で歩いて、かかとまで垂らした上着を身につけて、ほほを膨らませて気取って歩いているように描いている。しかし、おそらく法廷は、多くのアテナ人にとって、上流階級の生活を初めて身近に見ることができる場所であったと思われる。訴訟当事者が富裕な訴訟相手を描写するのは、しばしば、以前には有閑階級の生活を遠くからしか観察していなかった貧しい人の羨望の的を、露骨な恨みと言ってもよいほどにあおることを意図していた。それゆえ、法廷弁論家は、通常訴訟相手の人目を引く富の特徴と生活習慣を強調した。アポロドロス(デモステネス45.81)は、もし彼がポルミオン〔訳注10 〕を国家の牢獄に連れて行き、彼が今まで盗んだお金のすべてを彼の上に積み上げることさえできれば、ー「それが何らかの方法で可能であるなら」ーポルミオンは、もはや窃盗を否定することはできなかったであろうと述べた。陪審員は、確かに、元奴隷が元主人から盗んだことの厚かましさに憤慨したであろうが、ポルミオンの富に対する彼らの嫉妬や恨みは、不正利得の山の下に埋もれた被告を想像するよう求められた時に発揮された。

 金持ちの派手な生活スタイルは、法廷の弁論家に富裕層への聴衆の嫉妬を有効に利用できる多くの明らかな材料を提供した。デモステネス(18.320)は、アイスキネスと仲間を、「各人、立派なきらびやかな(カイ・メガス・カイ・ラムプロス)馬持ち」と述べている。アポロドロスの生活スタイルへのデモステネスの非難(36.45)は、もっと入念であった。「あなたは意匠をこらした上衣(クラニス)を身につけ、そして一人のヘタイラ〔訳注11 〕を身請けし、別のヘタイラを結婚させ…、そして三人のお付きの奴隷を従えて、知らない者がいないほど放蕩に暮らしていた」。『書簡』3 (29-30)で、デモステネスは、汚職のレートールであるピュテアスを挙げている。彼は政治活動を通して非常に金持ちになり、その結果、おおっぴらに2人のヘタイラを連れて歩き回り、以前には5ドラクマを費やしたと同じくらいわけなく5タラントンを費やした。デモステネスは、この章で重要な位置を占めている演説『メディアス弾劾』で、最も徹底して誇示を非難している。(注28 )

 「彼はエレウシスに邸宅を建て、それがあまりに大きかったので、その近隣のすべての家が日陰になってしまうほどであった。彼は妻をエレウシスの秘儀〔訳註12 〕に連れてきて、それ以外のどこでも彼女の望む所に、二頭立てのシキュオン産の白馬〔訳註 13〕で連れて行った。彼はまたアゴラを3,4人の仲間と共にふんぞり返って歩き、高級カップ(キュンビオン)やリュトスや大杯(ビアレー)といった高価な杯〔訳注14 〕の名前を、通行人に十分聞こえるような大声で口にしていた」(21.158)。

 メディアスは戦場においてでさえ、自分の富を下品に見せびらかしていた。「あなた[メディアス]は、エウボイアから輸入した銀の馬飾りのついた鞍にまたがり、すばらしい上衣を身につけ、高級カップ(キュンビオン)とワイン用大型容器(カドス)を備えていた……。(21.33)」メディアスの意匠をこらした装備は、もちろん、他のアテネ兵士の資産を越えていた。そして、かれの誇示は見過ごされなかった。「こうしたことは、われわれ重装歩兵のもとに伝わってきた」(ホプリータス・ヘーマス:21.133)。デモステネスは、聴衆に信じさせた戦場のスキャンダルのこの話を、たまたま聞いた重装歩兵の一人に過ぎないことを示すことで、メディアスや他の富裕な騎兵との関係を否認した。従って、話し手は、金持ちの個人的な富のとてつもない誇示を、共に目の当たりにした平均的な市民である聴衆と一体になった。デモステネスが、メディアスの法外な富を繰り返し述べたのは、相手を意見や生活様式がグループの規範とは反する個人という弁護できない立場に置くことを目的としていた。

 過度の富から、金持ちは見苦しい誇示だけではなく、目障りな贅沢や退廃(デカダンス)の生活を送った。デモステネスの依頼人の一人(42.24)は、皮肉をこめて次のように述べている。訴訟相手である富裕な農場主パイニッポスは、アテネ人からの称賛を熱望していたので―若く、金持ちで、力強くでもあったのでー彼は馬を飼育することを始めた。「その大きな証拠は何でしょうか?つまり、彼は軍馬を手放し……、徒歩で歩く必要がないように……2輪戦闘馬車を購入した。そうしたことは,彼の贅沢好み(トリュペース)である」。この種の贅沢の習慣は、必然的に浪費と放蕩につながった。デモステネス(38.27)は、祝宴を開きワインを暴飲することで、財産を使い果たしている悪党に言及している。マンティテオス(デモステネス40.50-51)は、贅沢三昧に育てられたが、義兄弟ボイオトスが、自分はそのような恩恵を受けていないという主張の信憑性を失わせようと、ボイオトスの母親であるプラゴンは、父親のお金を奴隷と贅沢な生活で使い果たしたと指摘した。アイスキネス(1.195)は、陪審員に父親の遺産を恥ずかしげも無く放蕩したデモステネスの支持者の連中に、何かまっとうな仕事をして(エルガゼスタイ)生計を得るように命ずるようアドバイスした。(注29 )

B.2 横柄さと傲慢(ヒュブリス)

 金持ちの物質的な優位に対する貧しい市民の嫉妬は、十分に現実的なものであったが、上流階級によって享受された優位が、もっぱら物質的なものだけであったならば、富が私的に集中することは、民主主義の政治秩序を直接脅かすことはなかったであろうし、金持ちを社会的にコントロールする複雑なシステムも、必ずしも必要とはされなかったであろう。しかし、巨大な富はまた暴力と横柄さを招く可能性があった。アリストテレス(『弁論術』1390b32-1391a19)は、金持ち(プルートス)の自然の特徴は誰にとっても明らかであると述べている。すなわち、彼は傲慢さでいっぱいであり、横柄(ヒュペレーパノス)である。それゆえに、彼は不作法にふんぞり返って歩き回る。富、傲慢(それは、言葉または身体による暴力的な侮辱と定義されるかも知れない)、そして横柄さは、富裕層に対するアテネ人の認識に密接に結びついていた。(注30 )リュシアス(24.6)は、ほとんど持っていない(リアン・アポロース)貧しい人は、傲慢な振る舞いに及ぶ可能性は低く、むしろ必要以上に所有している人々が、傲慢な振る舞いに及びがちであると述べている。
 
 アリストテレスによれば(『弁論術』1378b28-29)、金持ちは、とりわけ自分が優れていることを示すために傲慢になっている。従って、富は上流階級が大衆より良い生活をすることを可能にしただけではなく、それはあたかも彼らが普通の市民よりか優秀であったかのような行動を起こさせた。優越的な態度は、平等主義の政治原理の正当性を認める人々には、容易に容認できるものではなかった。まさに富の不平等の存在は、民主主義的エートス(精神)に照らしていくつかの問題を提起したが、こうした問題は臨機応変に処理されたかも知れない。しかしながら、富裕な市民が思うままに、貧しい市民を侮辱し、攻撃をして、これは彼らの権利と特権であると信じていたなら、民主主義の存続が危ぶまれるのは明らかであった。

 デモステネスの演説『メディアス弾劾』は、ある富裕な弁論家〔メディアス〕の告発のために書かれたものであるが、彼は法外な富を持っていたのでその傲慢さから、ディオニュソス劇場でコレーゴス〔合唱隊奉仕者〕を務めていたデモステネスを、あえて殴打するほどであった(デモステネス21.16-18)。メディアスは、とりわけ傲慢な男の悪例として選ばれたが、演説の至るところで、デモステネスは、陪審員に階級としての金持ちに対する恐怖心をむやみにかきたてている(特に、21.212)。その演説は、富裕なエリートに対するアテネ人の態度のスペクトルの一端の優れた描写を提供している。(注31 )その演説がいくつかの節でヒステリーに近い傾向があるならば、それは民主主義の基本原理をむしばむ富の潜在力に関するアテネ人の恐怖の深さを暗示している。

 メディアスの傲慢さは、色々な方法で明らかにされている。彼は言葉の上で横柄であった。彼はすべての民会で立ち上がって、国家への寄付行為を自慢して、とても不愉快でかつ配慮に欠けるやりかたで話した。「我々は公共奉仕の奉仕役である。我々はあなた方に特別な戦時財産税(プロエイスポラー)〔訳注15 〕を支払っている者である。我々は金持ちである」(21.153)。デモステネスは、陪審員を確実に憤慨させる言葉をメディアスに言わしている。何度も繰り返された「我々、我々、我々」(金持ち)は、とりわけ「あなたがた」(デ−モス)と対比され、メディアスは、自分自身と公共奉仕階級をデーモス全体から意図的に切り離しているとみなされた。暗黙のうちに、金持ちの利益はデ−モスの人々の利益とは異なっていた。従って、少数派は圧倒的多数派とは対立していた。その演説の後半で、デモステネスはさらに踏み込んで次のように言っている。「メディアスは、他の金持ちでさえも怒らせてしまったようだ。同僚の騎兵士官たちは、もう彼に我慢がならなかった」。(21.197-98)最も親しい支持者でさえ、彼が町で唯一の金持ち(プルートス・モノス)であると主張したので、彼に敵対するようになった。彼はほかの人すべてを貧乏人(プトーコイ)及び人間以下の人(ウーダントローポイ)であるとみなした。恐らくデモステネスは、陪審員として座っているかもしれない富裕な市民の共感に訴えるためにこの一節を挿入したのであろうが、演説の前半の猛烈な反エリート主義の発言は、富裕な市民をすでに彼から切り離していたと思われる。この文章は訴訟相手を市民グループから完全に孤立させ、彼の利益を他の市民の利益と不倶戴天に対立する裏切り者として描くという、おなじみの戦術の一例として解釈するのが最も適切であろう。

 傲慢な行動は、言葉よりももっと雄弁である。デモステネスは、「どんな言葉も、あなた方大衆(トイス・ポロイス・ヒュモーン)にとっては、誰かが通りで偶然出会った人を乱暴に攻撃するような行為に比べれば、受け入れがたくはない」と述べている(21.183)。メディアスが他人を傷つけることなく、自分の富を自分の私利のために使用したなら状況は異なっていたであろうが、彼が優先したことは他人を破滅させることであり、終始ありあまる富を持っていて自分を幸運と呼んでいる(21.109)。デモステネスは聴衆に、かってメディアスに不利な判決を下して、彼の怒りに触れた無実の公的仲裁人〔訳註 16〕ストラトンの事例を検討するよう求めている(21.83-97)。

 デモステネス(21.83)は、ストラトンを「貧乏人であり、公務には従事していないが、悪党ではない。」(ペネース・メン・ティス・カイ・アプラグモーン、アロース・ドゥー・ポネーロス)と紹介している。そして、その言い回しは、その演説の少し後で(21.95)、ほとんど一語一語そのまま繰り返されている。ストラトンはペネース〔貧乏人〕であっても、悪党〔ポネーロス〕ではないというこのコメントは、一部の注釈者によって陪審員の上流階級の偏見に訴えるものとして受け取られている。この推論によれば、その逆の保証がない場合、陪審員は通常ペネースポネーロスである可能性が高いと想定したのであろう。(注 32)しかし、この解釈はその文脈の重要な部分に十分な注意を払っていない。つまり、メディアスは、ストラトンから合法的に市民権を奪うことで彼を破滅させて、ストラトンは法廷で話すことを禁止されている(21.95)。ストラトンに対するメディアスの訴訟は、陪審員が明らかにストラトンが罪人であると決定した民衆裁判所で執り行われた。そしてそのことが、デモステネスが彼の悪党ではない性質を繰り返し述べる必要を感じた十分な理由であった。ストラトンの比較的貧乏な暮らしも強調される必要があったが、しかし、別の理由からであった。デモステネスは、特に、ストラトンが貧乏であったがゆえに、攻撃されたこと示すことを切に望んでいた。この非難は、最初の「貧乏人であるが、悪党ではない」(21.83)からそれとなく示されたが、その物語が最高潮に達するまで(21.96)―デモステネスがモラルを披露した時までー、明らかにはならなかった。「そしてこれらすべては、彼[ストラトン]がメディアスから、メディアスの富と横柄な態度から被ったことであり、[ストラトン]が貧乏であり、支持者がいないせいであり、また彼が大衆の一人であったがゆえに被ったことであった」。

 つまり、ストラトンは、メディアスがちょうど金持ちで、傲慢な男の典型であるように、平均的なアテネの労働者の典型であった。金持ちが労働者を攻撃した時には、どんな結果が待っているか?労働者は、エリート個人の野放しの暴力から彼を守るはずの一つの属性―市民グループでのメンバーシップーである市民権を失う。その言外の意味は明らかであった。個人の市民権が、有力な金持ちの気まぐれで無効とされる可能性があるなら、それは単に市民それぞれが脅かされていたのではなく、市民の共同の権利、すなわち、民主主義そのものが富裕な少数の人々の過剰な力のために危うくされていた。

 デモステネスは、ストラトンの物語が生み出すだろうと期待した効果に即座に追い打ちをかけている。メディアスの振る舞いに正当な理由はない。「そのこと[富]が傲慢の大きな原因である」ので、富は確かに言い訳にはならない。「平均的な市民にとっての唯一の頼みの綱は、メディアスから傲慢の根源(すなわち富)を奪うことであった。というのは「そんな無責任な輩に、多大な財産を自由に行使することを許すことは、メディアスにあなた方自身に対して武器を準備させることになる」(21.98)からである。さらに、メディアスの裁判は、他の市民すべてにとっての一例であったに違いない。「あなた方〔陪審員〕がメディアスに哀れみをかけ、ペネースが不正に破滅させられることが許されるなら、いったい誰が傲慢を減らすでしょうか?一体誰が傲慢な行為から生み出した財産(クテーマタ)を、みすみす奪われるでしょうか?明らかに、誰もいません」(21.100)。

 デモステネスの前提を考慮に入れれば、彼の結論は必然的であるように思えるし 、また彼は個人と国家の安全を守るために、メディアスから富を奪うことの必要性を繰り返し述べている。メディアスが富を奪われてしまえば、傲慢にふるまうこともできなくなるか、または彼が何者であるかに関しては、今後の陪審員に「あなた方の間で最低(ミクロタトウー)以下の価値しかない」と見られるでしょう。彼が犯したどのような悪行に関しても、「ほかの私たち」とまさに同じように、罪を償うことになるでしょう(21.138)。デモステネスは、その後でアルキビアデスの追放の例を持ち出している。デモステネスは,アルキビアデスをメディアスと同じ傲慢な人物と評している。なぜかというと、「アテナイ人諸君、私はあなた方に以下のことに気づき、知ってもらいたい。生まれであれ、富であれ、権力であれ、もし、それが傲慢と結びつくのなら、あなた方大衆が我慢するのがふさわしいような、そのようなものは決して今も未来も何一つないということを」(21.143)。

 『メディアス弾劾』のデモステネスのコメントは、イデオロギーの極端な一例であるが、彼だけが富者の傲慢を非難している唯一の弁論家ではない。イソクラテスの依頼人(20.15)は、傲慢という反道徳的行為を罰することは、金持ちや貧乏人、すべてのアテネ人の利益になると述べている。そして、彼は陪審員に労働者として自らの利益を考えるように、また傲慢な敵に対して有罪判決の投票をするように主張している。リュシアス(24.17)は、金持ちは貧乏人より傲慢を犯しがちと述べながら(アリストファネス『福の神』564を参照)、この状況は、次の理由にあると付け加えている。つまり、プルーシオイは金でもって危険を退けられるが(合法的な脅迫を意味している)、一方で、ペネーテスは、資産がない(アポリア)ために、控えめに(ソープロネイ)行動することを余儀なくされたからである。

B3. 社会的関係の腐敗

 激しい暴力は、よそ者や敵に対して行われれることが多いが、弁論家は、富への過度の関心が友人や親族との関係も、同じように腐敗させると主張した。例えば、イサイオスの依頼人(5.35)は、訴訟相手は金持ちであり、国家に対してのみならず(公平な負担金を支払うことを拒否することで)、親族に対しても(遺産相続で分け前をだまし取ろうとして)、最も卑劣な人物(ポネーロタトス)として行動したことを熱心に証明しようとした。国家と家族への背徳行為の結びつきは全く自然である。ポリスは、拡大家族・親族のネットワークの拡大モデル(マクロコスモス)として見なされていたので(第六章 C.1)、家族を騙すような人は誰でも、社会全体にとって潜在的に危険であると見なされた。デモステネスの依頼人の一人(48.52-55)は、義理の兄弟であるオリンピオドロスが、派手好きなヘタイラとの交際を好むことにより、自分の妹と姪を粗末に扱っていると論じている。原告は、この二人の女性(妹と姪)が「ヘタイラが、礼儀(カロース)をわきまえず、多くの宝石や美しい外套(ヒマティア)で着飾って、贅沢な外国旅行をして、正当に我々の物であるものに対して傲慢な態度を取っていながら、一方で、妹と姪らはあまりに貧しくてそのようなことを楽しむこともできなかった」ことを見た時に、この二人の女性が不当に扱われたりひどい目にあっていることを否定できる人はいるだろうかと怪訝に思っている。ここで、親族は不適当な人が派手な誇示をしている姿に憤慨している。明らかに、原告は、陪審員がヘタイラが被告の富を用いるよりか、被告の妹と姪がそれを用いる権利があると考えることを期待した。少なくとも、オリンピオドロスには、へタイラに狂わされていたという言い訳があり、一族の富は暴挙の原因ではなく、単なる手段にすぎなかった。いっそう悪いのは、富への欲望が家族の忠誠心を破壊してしまう人々であった。例えば、イサイオス(5.39)は、自分の富を分けることを望まないで、親族に困窮の極みから海外に傭兵軍務を求めるようにさせた悪党を描いている。ディナルコス(2.8)は、金持ちのアリストゲイトンに対して、自分の父親に必要最低限の生活しかさせず、彼から適切な埋葬も奪ったことを「誰が知らないでしょうか」と尋ねて、彼を痛罵している。

 『ステパノス弾劾』において(デモステネス45)、アポロドロスは、適切な社会関係を破壊するものとして、お金のテーマを大きく扱っている。その演説は、アポロドロスの父パシオンの所有の銀行の業務を引き継いだ解放奴隷ポルミオンに対して向けられている。アポロドロスによれば(45.80)、ポルミオンが正直であったならば、彼は依然としてペネースであったであろう。しかし実際は、ポルミオンは金持ちであって、状況はパシオンの未亡人との結婚と結びついた時に、適切な社会秩序をグロテスクに逆転した。ポルミオンは人間嫌いと見なされており、援助を求めて当然の市民から助けを求められないように、不機嫌そうな表情で歩き回った(45.68-69)。彼が人間嫌いであった証拠は、たくさんの富にもかかわらず、今まで彼によって助けられたアテネ人はいなかったことである。ポルミオンは、それよりもむしろ利子つきで金を貸して、他人の不幸から利益を得るのを選んだ。ポルミオンの狂った金銭欲は、また当然の家族感情を破壊した。すなわち、彼は自分の叔父を家から追い出し、義理の母の金を盗み、そして、債務者に容赦なく支払いをしつこく催促した(45.69-70)。アポロドロスは、ポルミオン自身の親族の軽視と、貧しい市民に対する適切な行動の不履行を共に組み立てた。こうして、いかに不正な手段で得た富による腐敗した権力が、親戚のメンバーと市民のグループの間の相互扶助に基づく社会組織を腐敗させるかを示した。

 それは、アポロドロス自身の家族に対するポルミオンの不当な扱いに容易に移行する。「彼を野蛮人ではなくギリシア人にし、奴隷ではなく名士にし、あれほどの富の主人にした我々を、彼はこれほど豊かでありながら、貧乏のどん底(エスカタイス・アポリアイス)で生きるよう」(45.73)我々を放置するのは、言語道断ではないのか?ポルミオンはパシオンの妻を娶っておきながら、アポロドロスの娘たちを資産(エンデイア)がないという理由から、嫁資のない状態のままにしておき、未婚のままにしておくのは正しいことなのだろうか?(45.74)アポロドロス(45.75)は次に、陪審員に、ポルミオンの行動の邪悪さを示す仮定上のシナリオを検討するよう求めている。それは、ポルミオンが貧乏でアポロドロスが金持ちで、アポロドロスが突然死んだとしたら、ポルミオンの息子はアポロドロスの娘の(〔ポルミオンとパシオンの未亡人との〕結婚によって)叔父であり、彼女たちを妻として要求することができるだろう、というものである。〔訳註17 〕「奴隷の息子が、主人の娘を妻に持つ!」しかし、アポロドロスが貧乏な親族である「現実の」世界(実際には精巧なフィクション:第五章 D. 2)に戻れば、ポルミオンは娘に嫁資を与える援助を拒絶している。さらに、ポルミオンは、厚かましくもアポロドロス自身が所有している財産の額を計算している(45.75)。ポルミオンの富の腐敗した影響は、彼と接触する人々に伝染する。「彼〔ステパノス〕は、親族の要求よりもポルミオンの富の方を一層重要とみなした」(シュンゲネイアス・アナグカイア: 45.54)ので、ポルミオンの支持者であるステパノスは、アポロドロスの妻のいとこでありながら、アポロドロスの子供に嫁資を与えるのを同じように嫌がっていると想定されている。

 アポロドロス自身が、アテネの中で最も金持ちの一人であったので、彼の話は見え透いたフィクションに基づいているが (デーヴィス、APF 1411, 参照11672)、彼の物語は、裕福な親族から多少の援助を期待する境遇にいたかもしれなかった貧しい陪審員の同情を利用することをもくろんでいた。生まれながらの市民として、陪審員もまた彼らの自由の身に生まれた娘が、奴隷の息子と結婚することを考えるとぞっとしたはずであろう(下記、第六章Cを参照)。ポルミオンとステパノスの血縁関係よって課せられた義務の不当な軽視は、メディアスの傲慢と同じように、過度な富が間違った手に渡ったことによる腐敗の影響であることが明確に示されている。

C. 富と権力の不平等

 デモステネス(『書簡』2.3)は、デーモスが何物も所有せず、デーモスに対立する人々があり余るほどの富を所有するのは、驚くべきでかつ恐ろしい(タウマストン・カイ・ポベロン)状況であると主張した。確かに、平等主義の精神(エートス)に照らせば,驚くべきことであるが、なぜ恐ろしいことなのか?これ見よがしの振る舞いや傲慢さ、そして好ましくない社会関係は、潜在的に重大な問題ではあったが、多くのアテネ人にとっては、彼ら自身が直接の犠牲者でなかったならば、取るに足らないままであったかもしれない。求める効果を生み出すために、こうした問題に言及している話し手は、通常イメージや、暗示、外挿に訴えている。そうした戦術は、金持ち相手に裁判をするための基礎作りにはなるが、必ずしも問題に決着を付けるには十分ではなかった。しかしながら、国家の政治プロセスの一要因としての富に関連した特定の問題は、具体的であり本当に恐ろしいものであった。アテネ人のすべては、一握りの富裕層が、その相対的な数に比例しない影響力をポリスに及ぼしていたことを知っていた。問題はその影響がどのように、そして誰のために発揮されたかであった。すなわち、積極的に、デーモスのためであったのか?あるいは、消極的に、エリートのためであったのか?残念ながら、アテネ人には後者が実情であるように思われることが多かった。

 これまで見てきたように(第五章 B.3)、富によって引き起こされた腐敗は、家庭で始まり、そして、デモステネスの依頼人の一人(57.58)を信じることができるなら、それは簡単に区のレベルに広がる可能性があった。彼によれば、ハリムース区において、区民は資産のない老人の名前を市民名簿から抹消したが、息子たちを名簿に残した。これは、非市民の息子は通常市民ではあり得なかったので、政治的な腐敗の明らかなケースであった。しかし、富裕な区民は、確かに区の公共生活や部族の重要な役割を果たしたが、彼らの活動の多くは明らかに善意からであり、貧しい仲間から感謝された。(注 33)しかしながら、弁論家全集に含まれる演説のほとんどは、より直接的に国家の問題に関わるものであった。富の力は、それがポリスの政治レベルで活用された時には、民主主義にとって重大な危険性を意味した。

C1 寄付金差し控えによる政治的影響力

 金持ちが国家の政策を弱体化させることを可能にした最も明白な方法は、本来なら税や自発的な寄付金によって国家に支払うべきお金を差し控えることであった。(注34 )訴訟では、相手が自分の巨額の財産を国家に分け与えなかったか、資産に比して少額の雀の涙ほどの寄付しかしていないと主張することがよくあった。(注35 )もし、相手が国家にお金を寄付していたとしても、それは自分自身の利益のためだけにそうしたと断言することができた(例えば、リュクルゴス 1.139; リュシアス 19.57)。別の金持ちは、公益のために正当な分担を支払うことを求められるのを逃れるために、国家の目から個人的な財産を隠していると訴えられた。(注 36)

 公共奉仕忌避の最も単純な動機は、単なる貪欲と利己主義(例えば、デモステネス38. 25, 27)であったが、利己主義と国家の利益以上に個人の利益を選択することは、反逆に陥る可能性があった。リュシアス(31.6)は、生まれ(プセイ)ながらに市民でありながら、自らの選択(グノーメーイ)により、財産を所有している地域を祖国(パトリス)と考える人々を非難している。そうした人は、進んで公共の善(コイノン・アガトン)を個人的な利益(イディオン・ケルドス)のために切り捨て、その結果ポリスではなく、富(テーン・ウーシアン)そのものをパトリス〔祖国〕にした。デモステネスは、メディアスの特に国家の支払いに関する悪質な行動を非難している。デモステネス(21.203)によれば、メディアスは、しばしば「人々がエイスポラーを支払わず、従軍して行進しないのであれば、自分自身の支払いを差し控えるだろう」と言っていた。このような発言は、メディアスが「あなた方大衆に密かな憎しみ」を抱いている証拠だと、デモステネスは指摘している(21.204)。デモステネスのコメントは、金持ちによる差し控えは、実際には、民衆に対する嫌悪の証拠であるというデーモスの根深い恐怖の急所を突いていて、それは反民主的で革命的活動をもたらすと思われたかもしれない(アリストパネス『福の神』569-70を参照)。この恐れの感覚は、金持ちと彼らの国家への貢献に関して、レトリックのほとんどに潜在的に含まれていた。メガラの政治家プトエオドロスについてのデモステネスの記述(19.295)は、ちなみに彼はメガラで最も金持ちの男であり、マケドニアのピリッポスの扇動で革命の陰謀を起こした人物であったが、本国の富豪に対するアテネ人の不信感を煽るものであった。

 潜在的な反逆罪の観点から見た場合、金持ちが国に課された税金を免れようとする試みは、きわめて卑劣なものに映った。金持ちに対して、強制的に税金を支払わせる法律を立案するのは、明らかに正当な理由があった。『冠について(第18弁論)』の中で、デモステネスは、彼の三段櫂船奉仕制度の改革〔訳註18 〕に対する上流階級の抵抗を政治的好機として利用した。すなわち、かっては(彼の法案以前)、プルーシオイ〔金持ち〕は少額の寄付金ですんでいたが、中程度の財産を持つ者、あるいは少ししか持っていない者(ミクラ・ケクテーメノイ)は、彼らが持っていたわずかな資産を失っていた。デモステネスのノモス〔法律〕は、金持ちに正当な分担を支払わせることで悪習を終わらせ、彼らがペネーテスに不正を行うことをやめさせた(18.102)。金持ちは、デモステネスの改革に震撼し、彼に贈賄することを試みた(18.103)。これは予想通りであった。なぜなら、古いシステムのもとでは、金持ちはほとんどお金を支払っておらず、貧しい市民を抑圧する機会があったから(トゥース・アポルース・トーン・ポリトーン・エピトリブーシン:18.104)。もちろん、彼はその賄賂を拒絶した。そして彼の法律は、古いシステムのもとでは、不当に公共奉仕を支払わねばならなかったぺネーテスにとっては、大いに助けとなった(18.107)。そして今や、その義務は財産のない者(アポロイ)から、富裕層エウポロイ: 18.108)へ移された。(注37 )

 この一節でのデモステネスの金持ちと貧しい人々の用語の使用は、余暇階級内に存在した相対的な経済的不平等を強調した一例である(上記、第五章 A.1)。聴衆の大半は、新しい法律のもとでも、または古い法律のもとでもいずれにせよ、個人的には三段櫂船奉仕に寄与する必要はなかったであろう。しかしながら、デモステネスは、聴衆は最も 裕福な者が重い支払いを強要されるべきであって、「貧しい人々を抑圧する」ことが許されるべきではないという考えに共感するであろうと想定していた。問題の「貧しい」 人々がすべて余暇階級のメンバーであり、従って、陪審の平均的アテネ人よりもはるかに富裕であったことは気にする必要はなかった。つまり、アテネ人が大金持ちと金持ちの権力に感じた不信感によって、デモステネスは、これは傲慢で利己的な金持ちが、愛国的であるが虐げられた貧しい人々の権利を支持して、謙虚になったケースであるというフィクションを生き生きと描くことができた。(注38 )

 三段階船奉仕の改革におけるコメントにおいて、またより極端な形にした『メディアス弾劾』において、デモステネスは、金持ちが持てるものはすべて保持し、恵まれない同胞の苦しみを顧みないことが当然とみなされるような世界を呼び起こしている。一般市民が富の権力から身を守るには、民主的国制によって保証された集団的権利が唯一の手段であった(デモステネス 45.67)。この確信は、金持ちの中で最も悪質な人々は、これらの権利を制限し、その体制を破壊することに関心を持っているという推定を強めた。従って、デモステネス(21.124)は、メディアスが「我々」すべてのイセーゴリア〔平等な発言権〕と自由(エレウテリア)を攻撃することに熱心だったと主張することができた。

C2 法的な優位 

 メディアスや彼と同じ金持ちを牽制できる唯一の方法は、一般大衆の投票を通してであった(デモステネス42.31を参照)。しかし、金持ちが、大多数の意見に注意を払わないならどうだろうか?民会で実施された予備審問(プロボレー〔訳注19 〕)での有罪裁決の後も、メディアスは傲慢に振る舞い続け(デモステネス21.199)、反対票を投じられても自分は悪くないと考えていた(21.200)。「そのような行為は、まったくもって許されるものではありませんでした」。すなわち、「あなた方[アテネ人]を恐れていると思われるのを恥ずかしく思うような男は、また、あなたがたを無視することが男らしいと考えているような男は、そのような男は十死に値するのではあるまいか?というのは、彼は、あなたがたが彼をコントロールできないと信じていたからです」(21.201)。デモステネスと聴衆は野放しの個人が、民主的体制にとって非常に危険であることを知っていた。さらに、どうして、メディアスは民会でのデーモスの投票を突っぱねることができたのか?アテネに正義があるなら、法廷で有罪判決に直面するのは確実なのに、どうして彼はそんな傲慢な自信に満ちた行動を取ったのだろうか?

 民衆裁判所は、大衆がそれによって金持ちの権力を抑制することが期待できる主要な道具であったので、法律と司法が上流階級に有利ではないということが何にも増して重要であった。イソクラテスの依頼人(20.20)は、「もし、民主的ポリスにおいて、役職に就く価値があるとみなされ、戦争の危険を分かち合った 『我々』(普通の市民)が、富を持つ者に有利な裁判をすることによって、法律に関する正義を奪うことを選ぶとしたら、それは想像しうる最も恐ろしいことだろう(パントーン…デイノタトン)」と述べている。デモステネスの依頼人の一人(51.11、 参照21.183)は、聴衆に同じような意味の質問をしている。もしあなた方陪審員が、窮乏(エンデイア)によって軽犯罪を犯したペネースは重大な刑罰に服すべきであるとし、一方、個人的な利益の欲望(アイスクロケルデイア)によって罪を犯したプルーシオスは、同じ刑罰に服し恩赦を勝ち取るようなそのような決定を下したならば、「すべての人のための平等と民主的な方法はどこにあろうか?」(プー・ト・パンタス・エケイン・イソン・カイ・デーモクラテエイスタイ・パイネタイ)。別の箇所で(24.112)、デモステネスは、会計検査で、下級の役人や、ペネース、抽籤で選ばれたイディオーテスの誤りを見つけたときに、10倍の賠償を要求するくせに、国家予算を横領して捕まったプルーシオスを守るために、法律を変えようとする人物には、どのような処罰も厳しすぎることはないと主張している。

 『メディアス弾劾』(21.209)で、デモステネスは、陪審たちに、金のためにメディアスを釈放することが、いかに誤っているかを示すために反実仮想的な例に訴えている。デモステネスは述べている。「それが起こることはないかもしれないが、実際、決して起こらないでしょうが」 金持ちが国家の支配者になって、「多数を占めるあなた方、民主派の一人」が、彼らの一人を少しばかり怒らせ、金持ちの陪審員によって裁判にかけられたと想像してみてください。貧しい男は、どんな同情を得ることができるでしょうか?もちろん、何一つありません。陪審員の金持ちの言葉は,次のようではないでしょうか。「中傷者!厄介者!こいつは傲慢な行為をしながら許されて、しかもなお息をしている!命があるだけでも、身に余る幸せというべきである」。

 デモステネスが、この恐ろしい架空の例によって、上流階級の利益は貧しい人々の利益とは正反対であったこと、また前者は後者に激しい憎しみを抱いていたということを示すつもりであったことは明らかである。デモステネスは、陪審員が、もし金持ちがチャンスがあれば彼らを扱うように、金持ちを扱うのは完全に正当化されると述べることができる立場にあった。どんな場合でも、金持ちは法律に抵触することが許されてはいないし、その法律はすべての市民の共通の財産であり(21.210)、それは、暗に富の力に対してすべての市民を守っていた。明らかに、金持ちの権力に対する防御としての法廷の重要性に照らして、富裕層に対する法的特権は茶番であり、民主主義に明白な危険をもたらすものであった。この点について、デモステネスは明確に述べている。すなわち、メディアスは非常に強力なので、通常は個人が満足するのを妨げることができるが、「今、彼は捕らえられたので、ポリテイア〔国制〕の共通の敵(コイノス・エクトロス)であるので、すべての人の代表として行動するあなた方全員で、共同で彼を罰しましょう」(21.142)。

 しかし、メディアスはそれにもかかわらず無罪判決を確信していた。明らかに、彼は自分の富で法制度を曲げることができると考えた。不幸なことに、デモステネスによれば(21.112)、金持ちは、現実に法律に関して多くの有利な点を持っていた。そして、「我々他の人々」(金持ち以外のすべての市民)は、「何ら平等でも、また同一でもなかった」(ウー・メテスティ・トーン・イソーン・ウーデ・トーン・ホモイオーン)。「そうです!まったく事実その通りなのです!」金持ちは裁判のための日程さえ、彼ら自身意のままに選べるが、残りのアテネ人は、直ぐにでも法廷に出向かねばならなかった。金持ちは前もって準備された証人を持っているが、しかるに、デモステネスの証人の中には、進んで真相を証言したくないという者さえいた。メディアスの富は、砦(テイコス)であり、それは彼を法律上の攻撃から守っていた(21.138)。そのため、彼は法制度の支配の及ばないところにいた。メディアスは特別なケースではなかった。アリストテレス(『弁論術』1372a11-17)は、罰を受けることなく不正を働くことができると信じている人たちのグループの中には、金持ちも含まれていると述べている。

 しかし、いったいどうやって上流階級のメンバーは、法的プロセスを曲げることができたのか?最も明白な方法は、関わった人物に賄賂を贈ることによってである。例えば、反対側の証人に賄賂を与えて偽証させたり(デモステネスが、メディアスが行っていたと暗示しているように)、証言をしないこと、あるいは虚偽の証言を行うことなどである。また、告発者は賄賂で告発を取り下げたかもしれなかった。デーモス全体でさえ、同情を得るために金銭が提供されたかもしれなかった。(注39 )より油断のならないのが、裕福なエリートのメンバーと対決した時に、貧しい市民が時々感じる畏怖の念あるいは恐怖でさえあった。リュシアスの依頼人(7.21)は、訴訟相手から、「権力とお金があるから、誰一人進んで私に対して証人になろうとはしない」と言って、誹謗中傷されたと述べている。リュシアスの依頼人は、権力とお金が潜在的な証人を思いとどまらせるかもしれないということを否定しなかったが、彼は次のように問うている。「なぜ、告発人は、アルコンやアレオパゴスの評議員を、その犯罪(聖なるオリーブの切り株を掘り起こしたこと)の証人として署名するために連れてこなかったのか」と。これらの名士は、あまり威圧されそうではないことは明らかであった。(注 40)デモステネス(21.20, 137)は、「多くの人々は、メディアスの暴力、訴訟好き、強力な後援者、富が彼を強く恐ろしくしていることを認識して、メディアスに対して発言すること恐れた」と、コメントしている。

D. 富に対する否定的な印象の緩和

 上記の文章は、アテネのポリスで富が果たした役割の暗いイメージを示している。富は金持ちにうぬぼれた見栄や贅沢をもたらし、それは貧しい市民から嫉まれかつ恨まれた。過度の富は、親族の間でさえ、適切な社会関係を損なった。上流階級は傲慢であり、普通の市民に対して激しい暴力行為を犯しがちであった。金持ちは国家に金を提供せず、利己的で、貧しい人々への憎悪ゆえ、少なくとも、彼らのうちの中には、反逆罪の計画を心に抱いていると疑われている者もいた。金持ちの権力は、貧しい市民の自由を脅かし、金持ちは罰金を支払うことなく罪を犯すことができると信じていた。さらに悪いことに、どうやら彼は時には自分に不利な立場の告発者や、証人、陪審員を買収したり威圧したりすることで、そうしたことを可能にしたようである。従って、金持ちに対する貧しい人々の闘争は、民衆裁判所でさえ不平等なものであった。なぜなら、上流階級のメンバーは、機能的に一般市民より優れていたからである。(注 41)その結果、金持ちはあまりにも強力であり、その権力は平等主義の理想に対する侮辱であると同時に、民主政体に対する非常に現実的な脅威であるという結論に達するかもしれない。デモステネス(21.205)がメディアスと彼の支持者について語ったように、「彼らはあまりにも強力になったので、我々一人一人の利益と合わなくなった」。

 富についての否定的な見解を認めるとすれば、貧しい陪審員は富裕な訴訟当事者に疑念を抱く理由が十分あった。富裕な市民は、彼らとしては、富で彼らが陪審員に偏見を持たれるかもしれないという心配をするだけの理由があった。イソクラテス(15.142-43)は、友人から法廷で人生について正直に語らないように警告されたと主張している。というのは、「彼ら[陪審員]の中には、ねたみと困窮で心を占められ、敵意により、悪事ではなくてむしろ繁栄に対して宣戦を布告するそうした者もいるからである」。イソクラテス(15.159-60)は、続けて「アテネでは金持ちを敵視していたため、どんな人も金持ちであるとわかったならば、たちどころに完全に破滅させられたので、あたかも、富が犯罪や犯罪よりもっと悪いものであるかのように、富の非難から身を守らねばならなかった」と述べている。

D1 中庸と勤勉

 イソクラテスは、『アレオパゴス評議会演説』において(特に、7.31-35)、アテネの過去の古き良き時代を思い起こさせている。その時代には、貧しい人は金持ちを嫉まないで、むしろ、彼らを敬い感謝して彼らの手から仕事と政治的特権を受け取った。4世紀のアテネのデーモスは、イソクラテスが過去の時代を階級間のより良い関係の時代と見ることに同意したかも知れないが、現代の衰退を大衆ではなく、エリートの性格や習慣の中に捜し出す可能性が高かった。4世紀には、デーモスは見栄、傲慢、そして非民主的な権力を富と結びつけて考えたが、おそらく、古き良き時代には、エリートの間では質素倹約が普通であった。デモステネスによれば、実際こうした最上の美徳を、アテネ人の祖先は持っていた。昔の栄光の時代には、国家は共通に裕福であり(エウポラ…デーモシアイ)、一個人が、私的にでも多数より偉大であると自負する者はいなかった(23.206)。ミルティアデスまたはアリスティデスの私宅が荘厳ではなかった(ウーデン・セムノテラン)のと同様に、隣人宅も荘厳ではなかった(デモステネス3.26、参照23.207)。4世紀の金持ちの訴訟当事者は、同じ様に気取りのなさを主張するのが得策であると悟った