「思い出すことなど、など」(第7話)

第7話:

 大学2年の時に、西武池袋線の「江古田」に引っ越しました。
どんどん、大学から離れて行きましたが(笑い)、この辺りが、家賃が安かったことも一つの理由です。
 「江古田」は、日大芸術学部、武蔵野音大、武蔵大学と、3つの大学がありました。本当に学生の街で、結構、物価も安く住みやすかったですね。

 この江古田で、結婚するまでの10年間近くを過ごしました。
 ある友人が、あるとき、この時代を振り返って、「この時代を青春時代と呼ばずに、いつを青春時代と呼ぶのか」と、真面目な顔で私に語ってくれましたが、本当にその通りですね。

 とりあえず、アパートからお話ししますと、下に大家さん(工務店)が住んでいましたから、本格的なアパートとは違っていました。
 もともとは、工務店で働く、従業員のためのものだったようです。
 道路に面した入り口のドアから入ると、すぐに靴を脱ぐ玄関(二人の人が立って一杯)があり、そのまま結構きつい傾斜の階段を上った二階に二部屋あり、手前は大家さんの親戚の人、その奥が私の部屋で、廊下の突き当たりが共同トイレでした。

 部屋に入ると、右手に小さな流しと、お湯を沸かすコンロがありました。このような作りは、以前の「新井薬師」のアパートと同じですね。部屋は、四畳半でした。もちろん、お風呂は銭湯でした。

 ちなみに、この部屋で初めて電話を契約して引きました。
電話が入った当初は嬉しくて、誰かから電話がかかってこないかと、いつも待っていましたね。もちろん、ほとんど、私の電話番号を知っている人はいなのですから、電話が鳴ることはありませんでした。(笑い)

 お部屋の入り口の上の、電気メーターの上に、部屋の鍵を置いていましたので、いつの間にか、友人たちのたまり場になりました。
私が帰宅すると、いつも誰かが部屋にいましたね。
 以前、浪人時代に上京して、一緒に新宿で遊んだブラバンの友人O君は、私のアパートから歩いて5〜6分先のアパートに引っ越して来ました。私が居たから、そこに引っ越して来たわけではないでしょうが(偶然でしょうが)、ほとんど毎日、自分の家に帰る前に、私の部屋を覗いてくれていましたね。(笑い)

 考えて見れば、遠くに自宅のある友人などは、終電が間に合わないときの、都合の良い宿泊場所として、利用していたのでしょうね(笑い)。
 あるとき、コップに入っている名前の書いてある歯ブラシを数えてみれば、7〜8本ありました。(笑い)
 こちらも、一人暮らしで孤独だったですから、まあ、お互い様でしたね。

 このような状況ですから、勉強からは、通学距離と比例するように遠ざかって行きました(笑い)。こうして、大学2年・3年は、あっという間に過ぎていきました。

それでは、今日はここまでにします。

*私のお気に入りの言葉

今の願いは私の仕事が、
作ったものというより、
少しでも多く生まれたものと
呼べるようなものになってほしいと思う。

ー濱田庄司(陶芸作家:人間国宝)の言葉より