「思い出すことなど、など」(第6話)

第6話:

今日は、大学1年の頃の話をします。

当時、私は大学から紹介された、世田谷代田の下宿(2階)に住んでいたのですが、下宿のおばさんに嫌われまして(笑い)、というのは、当時トロンボーンを買うために、(高校時代は、学校の楽器を使用していました)、毎晩、アルバイト(渋谷駅のフランス料理店で、ウェイターをしていました)で帰りが遅く、寝ているところを起こしてしまい、玄関で小言を言われていました。おばさんは、四国の両親に、親切にも「私の行状」を手紙で知らせてくれました(笑い)。

 今思えば、下宿のおばさんも、年金生活者の一人暮らしで、生活にそれほど余裕もなかったのでしょうね。私がいつも夜遅くまで起きているので、あるとき、「もう寝てください」と階段の下から叫ばれて、突然、下で電気を切られたこともありました。これには、さすがに参りました。(笑い)

結局、そうそうに退散することにして、引っ越しました。次の引っ越し先は、西武新宿線の「新井薬師」でした。

今度の部屋はアパートで、玄関を入ると右側に共同トイレ、左側が靴箱、ピンクの共同の電話が置いてあり(部屋に電話はありませんでした)、左手に2階へ上がる階段があり、私の部屋は1階の突き当たりでした。
 部屋の広さは四畳半で、入って直ぐ左側に小さな流しと、ガスコンロが置いてありました。当時、学生はほとんどそうでしたが、部屋にシャワーがあるわけはなく(今の学生の生活は、当時の私には想像もできませんね。笑い)銭湯に通っていました。

 3畳間の浪人時代よりかは、少し部屋の方は出世しました。(笑い)でも、机とこたつを置くと、やはり一杯でしたね。(こたつは、四季を問わず万能でした)。アパートは1階に2部屋、2階に2部屋だったように記憶しています。
結局、そのアパートも2年の春に引っ越すことになるのですが。

新井薬師には、「史学科」の友人(同級生)のK君がよく訪ねてきてくれました。
「君の家を訪ねるときは、来る途中に自然と足が速くなる」とお世辞を言っていましたが、新井薬師の駅からアパートまでは、下り坂だったので、それが原因でしょう(笑い)。
 K君は卒業後、おもちゃ会社に就職しましたが、ある早朝、ゴルフに行くと奥さんに言って、交通事故で帰らぬ人になりました。その時、お子さんは1歳になっておらず、葬式の際に人が多いのが嬉しいのか、はしゃいでいたのが今も記憶に残っています。その彼女も、今は一児の母親になっています。本当に、時の経つのは早いものです。

 ところで、アパートの方ですが、隣に、大型マンショの建設工事が始まり、朝などは杭を打つ「ドーン」という音で、布団が少し浮き上がるような状態になりました。というわけで、当時、大家さんからお見舞い金のようなものを頂き、そのお金で引っ越しました。

 今度は、西武池袋線の「江古田」に引っ越しました。
 今思えば、「江古田」が、私の青春時代ですね。

 それでは、今日はここまでにします。

*私のお気に入りの「詩」

もはや
できあいの思想には椅りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には椅りかかりたくない
もはや
できあいの学問には椅りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも椅りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
椅りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

ー茨木のり子「椅りかからず」より