「おもいだすことなど、など」(第3話)

第3話:

さて、上京編となります。

当時(1971年の春)は、新幹線が新大阪までしか開通しておらず、初めての上京は寝台特急でした。
 もちろん、瀬戸大橋が開通するのは、まだまだ先のことで、地元の観音寺から高松駅まで電車で行き、そこから岡山の宇野駅(ここから、電車を引き継ぎ岡山駅まで行きます)まで、「宇高連絡線」というフェリーが運航していました。ちょうど、フェリーは1時間の船旅でした。

 このフェリーの面白い所は、甲板に「立ち食いうどん屋」さんが店を開いていました。
 私にとって、この甲板のうどんは、それからの上京・帰省の際の通過儀礼になりました。
 上京する際は、海を見ながらうどんを食べながら、「さて行くか」と少し高揚し、帰省の折は、ちょうど夕陽が瀬戸内海に沈む頃に時間を合わせて、夕陽を見ながら、「帰って来たな」とうどんを食べながら、少し感傷に浸るのが常になりました。(笑い)

 上京して、早稲田にある某予備校に入学しました。学校から紹介された、歩いて5〜6分ぐらいの所にあった下宿に落ち着き、楽しい(笑い)浪人生活が始まりました。
 浪人時代は、ほとんど、予備校と下宿の往復の毎日で、特筆することもないのですが、下宿のことや生活のことなど、思いつくままに書いてみます。

 まず、最初に散髪代がかかるし、髪の手入れも面倒なので頭を丸めました。(笑い)特に、知り合いがいるわけでもなく、なかなか坊主も便利で良かったですね。
 坊主になって「学成らずんば、死すとも帰らず」なんて張り紙をしている思考方法が、すでに危ない方向に向かっていました(笑い)。まあ、「星雲の志を抱いて上京した18歳」の春ですから、結構テンパっていたのでしょうね。

 下宿は、1階に大家さんが住んでいて、2階が下宿人の部屋となっていました。私を含めて6人の浪人生(2浪2人、1浪4人)が廊下を隔てて住んでいました(暗いデスね。笑い)。
 それでも、同じ境遇のせいか、直ぐに皆と親しくなり、結構楽しく暮らしていました。

 階段を上がった突き当たりに、2〜3人が同時に使用できる長い流しと、湯を沸かす小さなコンロが置いてあり、角に共同トイレがありました。
 私の部屋は一番奥で、何もない三畳間の空間でした。机と、布団を敷くとそれで一杯でした。今時、そんな部屋を捜すのは、難しいかも知れませんね、(笑い)
 窓を開けると、向かいのアパートの部屋とは、2メートルぐらいしか離れておらず、時々、隣の住民と目が合ったりしました。田舎の広い家に住んでいた私には、壁が薄くて漏れてくる音などに驚きながらも、どうにか徐々に都会の生活に慣れていきました。

それでは、今日はここまで。
次回は、浪人生活の話をもう少し話してみます。

*私のお気に入りの言葉

人生はできることに
集中することであり、
できないことを
悔やむことではない。

ーホーキング博士、オフィシャル・ウェブサイトより