「思い出すことなど、など(第2話)

さて、今日はブラバンの話の続きです。

 そもそも、私がブラスバンド部に入部するきっけは、クラブ活動のオリエンテーションでした。
色々なクラブを見て回っていて、たまたま音楽室でのブラバンの演奏に出会ったことでした。
当時、私は大学進学のために、ゆるい楽な部に入ろうと思っていたのですが(笑い)、音楽室での実演演奏が楽しそうだったので、ついふらふらと、それに引かれて入ってしまったのが運の尽きでした。(笑い)

 お話ししたように、夏・冬・春の休みも、毎日練習で休日は一切なく、朝から夕方まで体操着を着て、音楽室でトロンボーンをブカブカ吹いていました、ただし、頑張った甲斐あって、一年生の時に、四国大会で優勝することができて、当時は東京の普門館ではなく、京都で開かれた全国大会に出場することができました。
 まあ、お話しからお分かりのように、勉強もしないで、ブラバンに熱中して、三年間、音楽準備室をたまり場とし、クラスでの私の存在感は、まったくなかったと思います。(笑い)

 3年生の時に、新任のM生が芸大を卒業して、我が校に赴任してきました。
学校の朝の朝礼での紹介で、一方の肩を下げた挨拶が印象的でした(笑い)。
M先生は芸大の学生の時、夏休みなどには、トレーナとして来て頂いて、面識はありました。
また、年齢もほとんど離れていないので、部員の皆んなもそうであったと思いますが、私にとっては少し上の兄のような感じでした。
 
 M先生はブラバンの顧問になり、学校の近くのブラバンの部員のお家の離れの一軒屋に下宿しました。
M先生の下宿が、放課後の新たなたまり場になるのも時間の問題でした。
中には、先生の下宿に布団を持ち込んで、度々そこで寝泊まりしている剛の者もいました。

 本当にブラバン一色の高校三年間でしたが、それでも、中学からの「歴史」を学びたいと言う気持ちは、少しは残っていて、三年の進路相談で、担任の先生(日本史担当)に進路を聞かれたとき、「史学科」希望と告げました。
先生は、一言「止めとけ、食べられないから」と言われました。
生意気だった私は、「自分は大丈夫」なんて思い上がっていましたが、それから、長い苦労が始まりました。(笑い)

結局、現役受験は失敗し、浪人時代に突入します。
次回は、上京編です。

*「日記」」だけではつまらないので、次回から、私の「お気に入りの言葉」「格言」「詩」なども、ついでに最後に載せてみようかと思っています。(以前、他のブログで載せた物も、転載させていただきます。)