イスタンブール(ビザンティオン)
イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの接触点で、黒海とマルマラ海に挟まれたボスポロス海峡に臨み、人口1410万人を擁しバルカン半島では最大の国際都市です。
歴史的には、前660年頃、ビザスの指導の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡ります。
ビザンティオンは、ペルシア戦争後のデロス同盟、そして、第二次アテネ海上同盟に参加し、その後(後1世紀)、ローマの支配下に入りました。
330年には、この地にコンスタンティヌス大帝により、新都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)が創建され、以後ローマの新たな首都として繁栄しました。
ローマ帝国が東西に分裂し西ローマ帝国が滅んだ後も、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)は、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の都として約1000年にわたりローマ文化の後継者として存続しました。
1453年、オスマントルコのメフメト2世により、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)は、征服され、ここにビザンティン帝国は滅び、以後、この都はイスタンブールと改称され、今に至っています。
<コンスタンティノープル略図>
(渡辺金一『コンスタンティノープル千年』岩波新書、1985年より)
ボスボラス海峡
(写真:1989年5月、西より撮影)
トプカプ宮殿(かってのコンスタンディノープルのアクロポリス)から、撮影したボスポラス海峡。
蛇の円柱1
(写真:1989年5月、北東より撮影)
同上2
(写真:同年同月、南西より撮影。後方はテオドシウスのオベリスク)
プラタイアの合戦(前479年)後、ギリシア諸国が共同で、デルポイに奉納したもの。
後、コンスタンティヌス大帝が新都コンスタンティノポリスに移し、現在も聖ソフィア教会の近くのヒッポドロミア(戦車競技場)跡に立っています(約5m)。
円柱には、ペルシア戦争に参加したギリシア諸国31各国の名前が刻まれています。
テオドシウス大帝のオベリスク
(写真:同年同月、南東より撮影)
エジプトのオベリスクは、前16世紀のもの。
4世紀にコンスタンティのポリスに運ばれて破損し、そのまま放置されていたものを、390年にテオドシウス帝がヒッポドロミア(戦車競技場)に建てさせたものです。
同上の台座
(写真:同年同月、南東より撮影)
オベリスクの台座中央の貴賓席には、一族、護衛隊、楽隊(下)にかこまれ、花冠を手にしてテオドシウス帝が立ち、その左右に息子のホノリウスとアルカディウスが立っています。
テオドシウスの城壁
(写真:同年同月、北より撮影)
413年、テオドシウス帝によって、コンスタンティヌスの城壁の西方1〜1.5kmのところに築かれた大城壁。
テオドシウスの城壁は、本来三重の構造を持っていました。
一番外側に幅60mの壕、そして内(25フィートの高さ)外(約60フィートの高さ)に二重の城壁からなっていました。
現在残っている城壁は、三重構造のうちの内壁だけです。
ヴァレンス帝の水道橋
(写真:同年同月、西より撮影)
イスタンブール旧市のおよそ中央部、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間にかけられており、地下大貯水槽(地下宮殿)へと中継する役割を果たしました。
本来の全長はおよそ1kmありましたが、現存するのは800mほどの部分です。
水道橋はコンスタンティヌス大帝の時代に、当時の市域であった現イスタンブール旧市街地区東部に新鮮な水を渡すために建設が始められ、ヴァレンス帝が368年に完成しました。
地下宮殿(地下大貯水槽)1
(写真:同年同月撮影)
同上2
(写真:同月撮影)
ユスティニアヌス大帝によって作られた大貯水槽。
貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石の円柱を備え、それぞれがレンガ造りの穹窿を支えています。
約78,000立方メートルの水を貯えることができました。
恐らく不要となったコリント式のアカンサスの柱頭を持つ円柱などや、中にはメデューサの顔が彫られた古代の石像(写真2)なども土台に利用されています。
アレクサンドロス大王の石棺1
(写真:同年同月、イスタンブール考古学博物館にて撮影)
シリア(現在レバノン)沿岸シドンの「王墓」で他の一連の石棺と共に出土した前4世紀末の大理石の石棺。
ヘレニズム貴族のこの石棺に、アレクサンドロス大王が彫刻されているところからこのように命名されています。
同上2
(写真:同年同月撮影)
上記(写真1)の反対側のレリーフで、獅子狩りのアレクサンドロスの一部。
聖(ハギア・アヤ)ソフィア寺院
(写真:同年同月、南南西より撮影)
現在の聖ソフィア寺院は、537年にユスティニアヌス大帝によって建立されました。
1453年、オスマントルコにより征服され、4本のミナレット(尖塔)も加えられ、イスラム教のモスクに改修されました。
(2018. 06. 03)
トロイ(トロイア)
ホメロスに歌われたトロイ戦争は、多くの芸術作品、文学作品の題材として取りあげられてきました。
トロイの遺跡は、ミケーネの発掘などでも有名なシュリーマンの名前を抜きにしては語れませんが、彼以前にすでにフランク・カルヴァートが、ヒッサルリクの丘(トロイの遺跡:長さ約220m、高さ約15m、卵形の小丘)の発掘(試掘:1863,65年)を行っています。
トロイの発掘の歴史は、以下の通りです。
1870年にシュリーマンは、発掘に従事し、その後1871〜73年、1878〜79年、1882年、1890年とヒッサルリクの遺跡を発掘しています。
シュリーマンが1890年に没すると、彼の協力者であったヴィルヘルム・デルプフェルトがその後を継いで、1893〜94年にかけて発掘作業を続行しました。
1932〜38年にかけては、カール・ブレーゲンを責任者とする新たな発掘調査が、アメリカのシンシナティ大学の支援を受けて行われました。
さらに、1988年からは、ドイツのテュービンゲン大学教授のマンフレート・コールマンを団長とする国際チームによって、また新たな発掘調査が続けられています。
さて、シュリーマンについては、「シュリーマン論争」と呼ばれる彼の功罪が問われています。
ここでは、この問題に深く立ち入りませんが、貧窮から身を起こし「いつかトロイアを発掘する」と言う幼年時代の夢を実現したという「シュリーマン神話」は、今は偽りであったことが明らかにされています。
ただ、トロイが世界的に注目を浴びたのは、彼がいわゆる「プリアモスの宝」を発掘したからであり、彼の業績は評価されてしかるべきという見解が妥当な所でしょうか。
(デイヴィッド・トレイル著/周藤芳幸・澤田典子・北村陽子共訳『シュリーマンー黄金と偽りのトロイ』青木書店、1999年を参照)
さて、トロイの歴史ですが、通例9つの時代に大別されています。
簡単に時代区分すると以下のようになります(年代は現在も議論の対象)。
トロイ第Ⅰ市(紀元前3000年頃〜2600?年)
第Ⅱ市(紀元前2600年頃〜2150?年)―堅固な要塞都市。
シュリーマンが発見した「プリアモスの宝」が作られた時代。
彼は、この時代をホメロスの描いた「トロイ戦争」の時代と考えました。
第Ⅲ市(紀元前2150年頃〜2000?年)
第Ⅳ〜第V市(紀元前2000年頃〜1700?年)
第Ⅵ市(紀元前1700年頃〜1280?年)―全盛期
デルプフェルトは、この時代をホメロスの時代と想定しました。
第Ⅶa市(紀元前1280年頃〜紀元前1200年)
ブレーゲンは、この第Ⅶa市を「トロイ戦争」で滅んだ市と推定し、現在通説
となっています。
第Ⅶ市b(紀元前1200年頃〜1000?年)-a市の継続
第Ⅷ市(紀元前800年頃〜紀元前1世紀)―ギリシア人の入植。
要塞都市の再建。前85年ローマ軍の攻撃で炎上。
第IX市(紀元前1世紀頃〜紀元後5世紀の終わり頃)―ローマ人再建。
ローマ時代
このように、トロイは市が滅んでは埋没し、その上に再び市を建設するという興亡を繰り返しました。
ちなみに、アレクサンドロス大王も、前334年東方遠征の途上トロイに立ち寄り、神々に供儀を行っています。
<ヒッサルリクの断面図>
(デルプフェルト, 1902年より)
<トロイの復元プラン>
(E. Akurgal,1985に加筆)
第Ⅰ市の城壁
(写真:1989年5月、南東より撮影)
紀元前3000年頃に並行に築かれた城壁。
第Ⅱ市FO(南門:以下、略語は上記の復元プランを参照)
(写真:同年同月、東より撮影)
王宮のメガロン(大広間)に通じる門。
第Ⅱ市A(メガロン)
(写真:同年同月、南より撮影)
第Ⅱ市FM(南西門に通じる斜面)
(写真:同年同月、西南西より撮影)
第Ⅱ市FM(南西門)
(写真:同年同月、北北西より撮影)
第Ⅵ市h(東側の塔)
(写真:同年同月、南より撮影)
第Ⅵ市(東側の城壁)
(写真:同年同月、南より撮影)
第Ⅵ市 F(家屋)
(写真:同年同月、北東より撮影)
第Ⅵ市E(家屋)
(写真:同年同月、北西より撮影)
第Ⅵ市M(家屋)
(写真:同年同月、東より撮影)
第Ⅶ市の住居跡(左側に第Ⅵ市Eの壁)
(写真:同年同月、南南東より撮影)
第Ⅶ市の住居跡(左手後方にヘレニズム時代の聖域)
(写真:同年同月、東より撮影)
アテナ神殿(第Ⅷ市)
(写真:同年同月、南より撮影)
ヘロドトス(7.43)によれば、ここにペルシ戦争の折に、クセルクセス大王が、神々に千頭の牡牛を犠牲として捧げたとあります。
また同じく、前述したように、アレクサンドロス大王もここを訪れ、神々に犠牲を捧げています。
ヒッサルリクの丘からの風景(アテナ神殿付近から)
(写真:同年同月、南東より撮影)
ヘレニズム時代の聖域(第Ⅷ市)
(写真:同年同月、南より撮影)
劇場C(オデオン:第Ⅸ市)
(写真:同年同月、南より撮影)
ローマ時代のハドリアヌス帝によって修復されたオデオン(音楽堂)。
劇場B(評議会議場:第Ⅸ市)
(写真:同年同月、南より撮影)
(2018. 07. 11)
アッソス
ペルガモン
エリュトライ
テオス
サルディス
ノティオン
アフロディシアス
ヒエラポリス
ラオディケイア
エフェソス
プリエネ
ミレトス
ディデユマ
ラティモスの下のヘラクレイア
イアソス
ミュラサ
ハリカルナッソス
小アジアの半島南部は古くはカリア地方と呼ばれ、北はマイアンドロス川(現メンデレス川)をもってリュディアと接し、東は広大な山なみを背負ってエーゲ海にのぞんでいます。
その海辺にギリシアのコス島に対峙して古代のハリカルナッソス(現トルコ共和国ボドルム)が位置しています。
ハリカルナッソスは、ペロポネソス半島のトロイゼンからのドーリス人の植民者によって建設されたギリシア諸都市の一つで、他の五つのドーリス系の都市クニドス、コスとロードス島の三都市リンドス、カミロス、イアリッソスとの間に「六同盟都市」を結び、六都市の代表者は、クニドスのアポロン神殿で会合を開いていました。
街は小アジアとエーゲ海の間に立つ中継貿易港となって賑わい、アクロポリスには神殿、劇場など大小の公共建築物が建ちならび、美しい装いを見せていたといいます。
ハリカルナッソスは、「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスの生誕の地としても名高く、彼は前484年頃にこの市の名家に生まれ、僭主リュグダミスとの党争を経て亡命するまでこの地に住んでいました。
この地域の最初の住民はカリア人(レレゲス人)で、ギリシア人との通婚も盛んだったようで、ハリカルナッソス市民にはカリア系の名前を持つ者も多く(ヘロドトスの父リュクセス)、ギリシア人とカリア人とが混住するポリスであったようです。
ハリカルナッソスは、リュディアにクロイソス王が出現するとリデユアに従属し、やがてペルシアがリュデイアを滅ぼしイオニア地方に勢力を伸ばしてくると、前6世紀の中頃からはペルシアの支配下に入り、ペルシア大王に臣従するカリア人の王族によって支配されました。
その中には、ペルシア戦争のサラミスの海戦(前480年)で勇名をとどろかせたアルテミシア1世のような女傑もいます。
その後、ハリカルナッソスは一時アテネの支配下に入り(ヘロドトスの党争はこの時期のこと)、さらに再びペルシアの手に落ち、短い自治の後(前394年頃〜前377年)アレクサンドロスの遠征まで、ミュラサのサトラップ(ペルシアの太守)ヘカトムノス家の支配(前377年〜前334年)のもと、カリアの中心都市として大いに繁栄しました。
ヘカトムノス家の支配者のうち最も重要な人物が、マウソロス王(前377年〜前355年)で、彼は都をミュラサからハリカルナッソスに移し、新しい都市計画に従いこの都市を第一級の都市に仕立て上げました。
ハリカルナッソスが繁栄の絶頂に達したのはこの時です。
また彼の墓が「世界の七不思議」(前2世紀ビザンティオンのフィロンによる)と称えられた下記のマウソレウムです。
その後の歴史は、ヘレニズム時代、ローマ時代、中世を経て、11世紀にはセルジューク=トルコがカリアを支配しましたが、まもなくビザンティン帝国によって奪回されました。
(しかし、後期ビザンティン時代には、ハリカルナッソスは衰退して町は放棄されていた可能性があります)
そして15世紀になると聖ヨハネ騎士団が、この地を占領しサン=ピエトロ城を築き、以後100年間にわたって支配しましたが、オスマン=トルコによってこの地を追われ、現在に至っています(サン=ピエトロ城のあとには、トルコのボドルム城が築かれています)。
<ハリカルナッソス(ボドルム)のプラン>
1) 古代の城壁 2) ミンドス門 3) 古代の劇場
4) マウソレウムの境内 5) ミュラサへの道 6) 港
7) 現代の町の中心 8)サン=ピエトロ城(ボドルム城)
(Kristian Jeppesenより)
ハリカルナッソスの港と街並み
(写真:1989年6月、南東(ボドルム城)より撮影)
マウソレウムの復元模型
(写真:同年同月撮影)
マウソロス王と王妃の霊廟(マウソレウム)は、1857年、チャールズ・ニュートンによって発掘が開始され、細部は異論がありますが、その設計はほぼ明らかになっています。
おおよそ 42m×20m の大きさで、石壇、周柱、ピラミッド型屋根、四頭立ての戦車などからなり、表面は彫刻を施された大理石で覆われていました。
周囲には一連の彫像が並んでいたと見られています。
王妃アルテミシア2世が、亡き夫のために当代有名な建築家ピュティオス、サテュロス、彫刻家スコパス、レオカレス、プリュアクシス、ティモテオスを招いてこの廟墓の建設に当たらせました。
アルテミシアは、前351年、この霊廟の完成を見ずに死にましたが、その後前350年頃に完成したと言われています。
<マウソレウムの遺跡のプラン>
A) 埋葬の供儀場 B) ―C) 廊下 D) マウソロス以前の時代の墓室
E) ペリボロス(周壁)の北側の壁 F) 墓室の地下水を取り出す導管
G) マウソレウムの建物敷地(32×38m)
(Kristian Jeppesenより)
マウソレウムの発掘現場1
(写真:同年同月、南東より撮影)
今世紀になって、デンマークの考古学者クリスティアン=ジョプセンによって、マウソレウムのペリボロス(構内を囲む壁)の数カ所が発掘されました。
彼によればマウソレウムの境内は南北約242m、東西は105,5mの白大理石のペリボロスの壁によって、長方形に取り囲まれていました。
同上2
(写真:同年同月、北東より撮影)
中央にマウソレロス以前の時代の墓室。右後方屋根の下が供儀場。
同上3
(写真:同年同月、南東より撮影)
供儀場に上る階段。
同上4
(写真:同年同月、西より撮影)
マウソロス時代以前の墓室と奥に排水路の導管。
同上5
(写真:同年同月、東より撮影)
手前、排水路の導管、奥にマウソロス時代以前の墓室。
同上6
(写真:同年同月、南東より撮影)
ペリボロス(周壁)の北側の壁
マウソレウムのフリーズの一部
(写真:同年同月撮影)
中心の基壇の上にはギリシア人とアマゾネスらを描いたスコパスの彫刻群がはめこまれていました。
マウソレウムの出土品は、現在大英博物館とボドルム博物館に保存されています。
古代の劇場1
(写真:同年同月、北西より撮影。写真右手奥にボドルム城)
山の斜面を利用して古代の劇場(ローマ時代)が作られています。
同上2
(写真:同年同月、北東より撮影)
同上3
(写真:同年同月、南より撮影)
サン=ピエトロ城(ボドルム城)
(写真:同年同月、北西劇場より)
現在、ボドルム城は博物館になっていて、マウソレウムからの出土品やボドルム一円で発見された出土品などが展示されています。
(2019.9.24)
クニドス
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