スニオン Sounion
<古代のアッティカ>
(周藤芳幸編, 2003による)
<スニオン岬>
(L.D.Loukopoulos, 1973に加筆)
新ポセイドン神殿 1
(写真:1989年4月、北西より撮影)
同上2
(写真:同上、北東より撮影。左手後方に、新ポセイドン神殿、手前右手にプロピュライア(前門))。
スニオン岬の小高い丘の上に、白亜の列柱をさらしているのが、新ポセイドン神殿です。前6世紀には、ここに石造の旧神殿が築かれていましたが、ペルシア戦争の際に破壊され、前440年頃に新たに再建されました。
長辺に13本、短辺に6本というその配置は、典型的なドーリス式の神殿の特徴を踏襲していますが、アテネのアゴラにあるヘファイストス神殿との設計上の共通性が、しばしば指摘されています。
また、この神殿の柱には、トルコからのギリシア独立戦争の際、義勇兵として参加したイギリスの詩人バイロン(メソロンギで病没)の名前が刻まれています。
古典期の城壁
(写真:同上、南より撮影)
ヘレニズム期の城壁
(写真:同上、東より撮影。)
艇庫
スニオンでは、4年に一度ポセイドンの祭典が開催されていましたが、それは、海軍国アテネにふさわしく、三段櫂船(古代の軍船)のレースが中心だったようです。
断崖直下の岩場には、三段櫂船を海上から引き上げて係留した艇庫が発掘されており、それらの規模から三段櫂船の寸法は全長約35m、最大幅約5mと推算できます。
アテナ・スニアス神殿1
(写真:同上、北東より撮影。左手後方に新ポセイドン神殿)
同2
(写真:同上、北西より撮影。)
神殿から浅い谷を隔てた北側の低い丘の頂上に、前5世紀後半建立のアテナ・スニアスの神殿の遺構が残っています。
未確認の神殿
(写真:同上、東南東より撮影。)
アテナ・スニアス神殿の北に位置する未確認の神殿です。(地図参照)
(2017.8.2:改)
ラウレイオン Laurion
アッティカの南側、スニオンの北には、荒涼とした山並みが続いており(広さは200平方km。山の高さは300m以下)、かって、ここにラウレイオンの銀山があり、多くの奴隷たちが採掘作業に従事していました。
アテネの繁栄を支えたこの銀山地帯では、採掘した横坑・竪坑の跡、スレーサ渓谷などの谷間には洗鉱場の遺構、ほかには、溶鉱炉や無数の貯水槽が残っています。
こうした遺構は、アテネ市内のアゴラから出土した鉱山採掘権賃貸碑文ともども、前4世紀の後半のラウレイオン銀山の活気を偲ばせてくれます。
<洗鉱場復元図>
(L.D.Loukopoulos,1973に加筆)
スレーサ渓谷
(写真:1988年6月、北西より撮影)
洗鉱場1
(写真:同年同月、北東より撮影)
同上2
(写真:同年同月、撮影)
貯水槽
(写真:同年同月、東より撮影)
貯水槽は、階段で降りられるようになっています。
鉱山入り口
(写真:同年同月、東より撮影)
坑道の跡
(写真:同年同月、撮影)
(2017. 9. 5:改)
トリコス Thorikos
トリコスは、ラウレイオンの北東に位置する古典期のデーモス(区)の1つです。
ここは鉱山地域の入り口に位置し、また実質的な採鉱のセンターでした。
復元された洗鉱場の跡や、居住区、そして独特の形態で知られる劇場の跡が残っています。
また、ヴェラトウーリ山には、ミケーネ時代のトロス墓が、4基発見されています。
<トリコス>
(C. Mee & A.Spawforth, 2001に加筆)
<劇場>
(L.D.Loukopoulos,1973に加筆)
劇場1
(写真:1988年2月、南西より撮影)
劇場の全体の景観。
後方は、ヴェラトウーリ山。
同上2
(写真:同年同月、東より撮影)
同上3
(写真:同年同月、北西より撮影)
同上4
(写真:同年同月、南より撮影)
劇場の東側の壁。
劇場の祭壇
(写真:同年同月、東より撮影)
ディオニュソスの神殿跡
(写真:同年同月、北より撮影)
劇場近くの洗鉱場(復元)
(写真:同年同月、北より撮影)
職人の住居跡
(写真:同年同月、南東より撮影)
塔
(写真:同年同月、南西より撮影)
トロス墓(第1墳墓)
(写真:同年同月、南西より撮影)
同上(第2墳墓)
(写真:同年同月、北西より撮影)
同上(第3墳墓)
(写真:同年同月、北より撮影)
トロスの入り口部分。
同上(第3墳墓)
(写真:同年同月、南西より撮影)
後方は、火力発電所とその煙突。
同上(第4墳墓)
(写真:同年同月、南東より撮影)
トロスの入り口部分。
同上(第4墳墓)
(写真:同年同月、撮影)
楕円形をしたトロス内部。
幾何学時代の住居跡
(写真:同年同月、東より撮影)
ヴェラトウーリ山中腹の遺構。
壁沿いにコの字型にベンチが並んでおり、「饗宴の間」と推定されています。
港の城壁の遺構
(写真:同年同月、南より撮影。)
港の南側の城壁の遺構。
白い建物は、アイア・ニコラオス教会。
(2017. 9. 5:改)
ブラウロン Brauron
アッティカ(アテネ周辺地域)東海岸線のほぼ中央に位置するブラウロンは、ゆるやかな丘に挟まれたエラシノス川のほとりにあります。
ここは、前8世紀頃からアルテミス・ブラウロニアの女神を祀る聖域として栄えました。
パウサニアス(1.33.1)によれば、タウロス人のところから逃げてきたアガメムノンの娘イフィゲネイアによって、アルテミスの祭神像(木彫)がもたらされたと伝えられています。
この地域は、僭主ペイシストラトスの本拠地でもあり、手厚い保護と援助もあってアクロポリスの神域に独自の区画を占めるようになりました。
やがて、4年に一度大ブラウニア祭も開催されるようになり、そこでは、アクロポリスの神域から、華やかなパレードが繰り広げられるとともに、神域内でサフラン色のローブをまとった良家の少女たち(アルクトイ=雌熊)が集団で「熊のダンス」を踊り、途中でそのローブを脱ぎ捨てる祭事が行われました。
<アルテミスの神域>
(L.D.Loukopoulos, 1973より)
アルテミスの神域
(写真:1988年1月、南西より撮影)
遺跡の南側に隣接するアクロポリスの中腹から、神域の中庭とそれを囲む列柱館(熊のストア)を望む。
写真の左隅の外に、アルテミス神殿、手前の岩塊の割れ目に「イフィゲネイアの墓」の遺構。
列柱館 (熊のストア)
(写真:1988年1月西より撮影)
遺跡で最も目を引く神域の中庭を囲む、ドーリス式の円柱が復元された列柱館(熊のストア)。
アルテミス神殿
(写真:同上。西より撮影)
神域南西部に残る、小さなアルテミス神殿(ドーリス式神殿:前5世紀初)基壇の遺構。
イフィゲネイアの墓
(写真、同上、南より撮影)
アルテミス神殿の南、岩塊の割れ目に残る「イフィゲネイアの墓」と呼ばれる古神殿の遺構(写真、中央奥の遺構)
お籠もり少女たちの部屋
(写真:1988年1月南西より撮影。)
長方形の中庭に面して、北に6部屋、西に4部屋のほぼ正方形のホールが並んでおり、北の部屋のそれぞれの内部には、壁に沿って寝椅子とテーブルが据えられていました。
これは、お籠もり少女たちの部屋と解釈されています。
エラシノス橋
(写真:同上、南より撮影)
神域の西側、エラシノス川にかかる橋。
アルクトイの彫像1
(写真:1988年1月撮影。)
同上2
(写真:同年同月、撮影。)
アクロポリスのちょうど反対側には、ブラウロンの博物館があり、この神域に集まった少女たちの姿を彷彿とさせる彫像などが展示されています。
博物館には、写真のような少女像が何点か展示されていますが、なんともいえず、愛らしい姿です。
(2017. 8. 25.:改)
マラトン Marathon
マラトンは、アテネ市街地から北北東40kmに位置するペルシア戦争の有名な古戦場です。
古戦場は、肥沃な畑の広がる平野部に散在しています。
<マラトン>
(周藤芳幸編, 2003による)
マラトンの塚(ソロス)
(写真:1989年1月、東より撮影)
マラトンの塚(ソロス:高さ6m)は、1884年にシュリーマンが初めて発掘して、先史時代の墓と診断しましたが、その後19世紀末にギリシア人考古学者スタイスの発掘調査によって、前5世紀初めの合葬墓であることが判明しました。
この塚は、パウサニアス(1.32.3)が伝える合戦のアテネ軍戦没者(197名)の塚とみるのが有力です。
それにもとづいて、アメリカ人考古学者ヴァンダープールは、マラトン戦の戦列と戦闘の復元を試み、この塚の地点が、アテネ側に多大な犠牲者が出た最大の激戦地としています。
後世、マラトンの戦い(前490年)に従軍したマラトン戦士は、特別な崇拝を集めました。
現在、このソロスの周辺は公園風に整備されています。
ご存じのように、現在のマラソン競技は、マラトンの戦いの勝利を伝えるために伝令が40kmを走り抜き、アテネ市民に「喜べ、我ら勝てり」と伝えた後に、絶命したというエピソードから来ています。(この話は、後世の作り話のようです。)
現在のマラトン村の入り口には、第1回オリンピックのマラソン競技のスタート地点があります。
ツェピ遺跡
(写真:1989年1月南より撮影)
マラトンは、すでに先史時代からアッテイカでも、非常に有力な地域であったようで、新石器時代の土器が出土したパンの洞窟や、初期青銅器時代の集合墓域である、ツェピ遺跡が発掘されています。
それらの遺跡から発掘された出土品は、ヴラナ地区にあるマラトン博物館に展示されています。
ラムヌウス Rhamnous
<要塞>
(L.D.Loukopoulos,1973 に加筆)
ラムヌウスのアクロポリスと城砦
(写真:1988年6月、南より撮影)
城砦の門
(写真:同年同月、南より撮影)
ラムヌウスは、アッティカ北東端の重要拠点です。
エウボイア島と本土との間の海域を眼下に一望する頂きに、ペロポネソス戦争後半期に築造され、マケドニア戦争の時期に拡張された城砦がよく残っています。
城砦の門(南向き)の内部にもアクロポリスを囲む城壁があり、発掘によってこの内壁と外壁の間に役所や体育所、劇場の施設の存在が確認されています。
ネメシスの神域
<ネメシスの神域>
(L.D.Loukopoulos, 1973に加筆)
(写真:同年同月、西南より撮影)
城砦の南、500mから600mの所には、ネメシスの聖所があり、境内では、南北に隣接してテミス女神の小神殿(写真右:前500年頃)とネメシス女神(写真左:前5世紀中頃)の大神殿が建設されています。
テミス女神の小神殿
(写真:同年同月、南東より撮影)
パウサニアス(1.33.2)には、この神殿の記述はなく、彼が訪れたローマ帝政期には、同神殿は神殿の機能を失っていたと推測されています。
ネメシス女神の大神殿
(写真:同年同月、西より撮影)
中央のネメシス女神に寄り添うように、右側にテミス女神の小神殿が建っています。
ネメシスの祭祀像(推定4.4m)については、パウサニアスによれば(1.33.3)、フェディアスがパロス大理石を石材として製作したとありますが、プリニウス(『博物誌』36.17)はアゴラクリトス(パロス出身の彫刻家)、ストラボン(『地理誌』9.1.17)はアゴラクリトス説とディオドトス説を並記するなど諸説があります。
アンフィアライオン Anphiareion / オロポス Oropos
オロポス(現在のスカラ・オロポス)は、歴史的には古くよりアテネとボイオティアの係争地でした。
パウサニアス(1.34.1)によれば、アッティカとタナグラ領に挟まれたオロポス地方は、元来はボイオティアの領域でしたが、テーベを占領したフィリッポス2世がアテネに割譲して、アテネの領有権が確実になったと述べています。
古代のオロポスには、アンフィアラオス(アンピアラオス)の聖所があります。
パウサニアス(1.34.2)は、この地でテーベから逃れるアンフィアラオス(テーベ攻めの七将の一人で英雄・半神)が、大地が割けて馬車もろとも飲み込まれてしまったという伝承を述べています。
アンフィアラオスは、オロポスの人たちが、彼を神として信仰し,この地に神殿を建立し、アバトン(お籠もり堂)を設け、広くギリシア人の間で神として崇拝されるようになりました。
<アンフィアライオン(アンフィアラオスの神域)>
(L.D.Loukopoulos,1973 に加筆)
アンフィアライオン(アンフィアラオスの神殿)1
(写真1:1988年4月、北より撮影。)
同上2
(写真2:同年同月、西より撮影。)
神殿は、峡谷沿いに北東から南西を長軸とするドーリス式の神殿です(前面列柱6本。14m×28m)。
前4世紀半ばの建設で、内陣東側入り口寄りに聖卓、西よりに祭神像の台座が残っています。
大祭壇
(写真3:同年同月、南より撮影。)
聖なる泉
(写真4:同年同月、北西より撮影。)
泉場
(写真5:同年同月、北西より撮影。)
男性用浴場
(写真6:同年同月、北西より撮影。)
上記の「大祭壇」(写真3)は、前4世紀初めに改修されたもので(8.9m×4.6m)、隣接する右側の遺構「聖なる泉」(写真4)は、アンフィアラオスがそこから再び地上に現れたと信じられていました(正方形:内径0.60m×0.65m)。
「聖なる泉」の北東に隣接して、泉場(写真5)と男性用浴場(写真6)が並んでおり、浴場床面は入浴者の安全のために線条が何本も刻まれています。
劇場
(写真7:同年同月、北より撮影。)
この劇場風の「観客席」は、「小祭壇」を中心軸として同心半円形に築かれていて、この「小祭壇」でアンフィアラオス祭祀の神事が執り行われたと推測されています。
ストア(列柱館)
(写真8:同年同月、北東より撮影。)
アバトン(お籠もり堂)の一室(女性用)
(写真9:同年同月、撮影。左に見えるのがストア。)
前4世紀の半ば、「大神殿」の北東(約73m)に,長大なストア(写真8:110m×13m)が建設されました。
前3世紀には、このストアの両端が改造されて、東端は女性用の「アバトン(お籠もり堂)」(写真9)が、反対の西橋には男性用の「アバトン」がもうけられました。
アンフィアライオンは、アスクレペイオンと同様、「アバトン」で一夜宿泊して夢による神癒に与ろうと,多くの参詣人が訪れました。
アッティカ北西部の塔と城塞
古代のアテネの領域は、その北をボイオティア領と、その西をメガラ領と接していました。特に、アッティカの北西部は、後述のスクウルタ平野などをめぐって、ボイオティアとアテネとの確執が文献史料からよく知られています。ここでは、史実に残るデケレイアやピュレの城砦の他に、そうした国境地域の城砦拠点を紹介します。
<アッティカの道路と要塞>
(J.Ober, 1985に加筆)
カツィミディ
カツィミディの要塞は、下記のデケレイア(パライオカストロ)の北、約3.7kmの険しい丘(カツィミディ山:850 m)に位置。
丘の頂上は比較的平らで広いですが、要塞の遺構はほとんど残っていません。
建設年代は、4世紀の30年代の中頃に推定されています。
また、この要塞の目的は、北のオロポスと南のアテネの道路、またクリディ山道(東カツィミディ山と西ストロンギリ山の間)の監視のためと推測されています。(J.Ober)
カツィミディ1
(写真:1989年10月、南西より撮影。)
カツィミディの丘の遠景。
同上2
(写真:同上、北西より撮影。)
頂上の塔の遺構。
同上3
(写真:同上、北西より撮影。)
丘の頂上よりアッティカを望む。
正面はペンテリコン山。
デケレイア
(写真:1889年10月、北東より撮影。)
アッティカ北東部の要衝デケレイアから、アテネの方向を望む。
遠く右手に見えるのがアイガレイオン山、左手に見えるのがヒュッメトス山。
ペロポネソス戦争末期(前413年)、アッティカに侵攻したスパルタ軍はこの地を占領して砦を築き、アテネに軍事的に圧力をかけました。
トゥキュディデス(『歴史』第7巻、第19章:以下トゥキュディデス,7.19と略)によれば、スパルタ軍がここに砦を築いたのは、平野部を始めこの地方で最も肥沃な地帯に危害を加えるためであり、またここからならアテネ市内までも見渡せるからと述べています。
レイプシュドリオン
レイプシュドリオンは、デケレイアの西、パルネス山の南麓に位置します。
この地に僭主政打倒のために、アルクメオン家を筆頭とする亡命者たちが城塞を築いたものの、僭主らに攻囲されて投降したと伝えられています(『アテナイ人の国制』(19.3))。
レイプシュドリオンの城塞
(写真:1989年10月、南より撮影。)
レイプシュドリオンの城壁跡
(写真:同年同月、北西より撮影。)
アテネの町を望む
(写真:同年同月、北より撮影。)
後方は,ヒュメットス山。
パナクトン
パナクトンの城塞は、アッティカの辺境パルネス山系の南西端のカヴァサラ山頂(713m)にあります。
後述のエレウテライなどと混同されてきましたが、近年の考古学調査の結果、この地がパナクトンであることが確実となりました。
前5世紀後半の、高原盆地スクウルタ平野をめぐるボイオティアとの抗争(トゥキュディデス,5.42)の重要な拠点で、この城塞からは、東側のスタウルタ平野を眼下に一望できます。
なお、パナクトンはアテネ側の城塞拠点であったとはいえ、かなり前線基地的な性格を持っていたと考えられています。
パナクトンの城壁
(写真:1989年10月、南西より撮影。)
スクウルタ平野を望む
(写真:同年同月、南東より撮影。)
スクウルタ平野はパルニス山系の北西に位置する高原にあり、海抜500mの平坦面は東西12km、南北約5kmの範囲に広がっています。
アッティカを望む
(写真:同年同月、北より撮影。)
ピュレ(フュレ) Phyle
<ピュレの要塞>
(L.D.Loukopoulos, 1973による)
ピュレは、パルネス山地南西部の要所で、ここから真南に向かうとペイライエウス港に至ります。
民主派の指導者トラシュブロスは,この地から出撃しペイライエウスに向かい、要衝ムニキアの丘を占領して、ペロポネソス戦争敗北後アテネに誕生した「三十人僭主」を打ち倒し民主政を回復しました。(『アテナイ人の国制』38.1)
ピュレの要塞1
(写真:1989年10月、東より撮影。)
同上2
(写真:同年同月、北東より撮影。)
同上3
(写真:同年同月、北西より撮影。)
ピュレの要塞より、はるかアテネ方面を望む。
手前は、現在のピュレの町。
パライオカストロ
下記の、プラコトの北北東約1,3kmに位置する小高い丘(319m)の頂上にわずかに塔(?)の遺構が残っています。
パライオカストロは、アッティカの防衛システムにとっては、二次的なもの、あるいは永久的な防衛システムの一部ではなく、地元の住民のための避難所などの推測もされています。(J.Ober)
パライオカストロ1(パライオホリ)
(写真:1989年10月、北西より撮影。)
塔(?)の直径は約20m、壁の厚さは約2m。
年代は不明で、古代のものではない可能性も指摘されています。
同上2
(写真:同上、北より撮影。)
手前の山の中腹にプラコトを、後方にエレウシスを望む。
プラコト
プラコトは、ヴェラトゥーリの南東6km、エレウシスの北6.5km、東西に延びたパテラス山の東の端に位置しています。
遺構の年代は、前4世紀の前半と推定されています。
このプラコトの主たる役割は、北の要塞や北西の塔、そしてエレウシスへの合図を送るシグナル・ステーションと推定されています。(J.Ober)
プラコト1
(写真:同年同月、南より撮影。)
円塔(直径6.5m。高さは6層約3m)。
同上2
(写真:同上、北より撮影。)
城壁。
同上3
(写真:同上、南南西より撮影。)
向かい側のパライオカストロ(手前の丘)を望む。
同上4
(写真:同上、北より撮影。)
トリアシア平野と遠くにエレウシスを望む。
ミュウポリス(オイノエ)の要塞
マジ平野の東端、マジの町(現在のオイノイ)から3kmほど離れたところに、ミウポリスの長方形の城壁跡があります。城壁の中で最も保存状態が良いのは北側の壁で、平均125×50cmの礫岩のブロックで造られ規則正しく並べられています。
ミウポリスの砦の軍事的な目的は、マジ平野を通る道路をコントロールすることだったようです。砦は、アテネからカザ平原に向かう道の途中、マジ平原で最初の場所であり、平原に通じる峠を警備するアテネ軍の集中補給基地や集合場所として機能していた可能性が指摘されています。
おそらく平和な時代にも、この要塞はオイノエの住民の少なくとも一部を収容していたと推測されています。
また、古典期におけるボイオティア領とアテネ領は、このオイノエ平野では例外的にかなり明瞭に見て取れ、後述のマジの塔がこの国境と何らかの関わりがあったと指摘する研究者もいます。
ミュウポリス(オイノエ)の城壁1
(写真:1989年10月、南より撮影。)
同上2
(写真:同年同月、北北東より撮影。)
マジの塔1
(写真:同年同月、城壁(東)より撮影。)
写真中央、緑の木の向こうに小さく写っているのがマジの塔。
同上2
(写真:同年同月、南東より撮影。)
オイノエ平野のマジの塔は、エレウシスとテーベを結ぶ、現代の道路の傍らに半壊の姿を曝しています。
この塔は、アテネとテーベと結ぶルートの管理と関係があることが推定されています。
エレウテライ Eleutherai
エレウテライの城壁は、今日、キタイロン山脈の南、山脈の狭間を抜けるドリュオスケファライ街道の出口にそびえる、現在のギプトカストロに同定されています。
前4世紀の始めに創設されたアテネ辺境の城砦で、丘陵頂上部を等高線沿いに東西約300m、南北約100mの範囲で囲む城壁と塔がよく残っています。
古典期にはボイオティアの前線基地となっていました。
パウサニアスによれば(1.38.9)、彼が訪れた時代(後2世紀の中頃)には、すでにエレウテライの城壁、民家は廃墟となっており、町は平野部を越えたやや上手、キタイロン山寄りの所に設営されていたようです。
エレウテライの城壁1
(写真:1988年5月、北より撮影。)
同上2
(写真;同年同月、東より撮影。)
同上3(北壁)
(写真:同年同月、北西より撮影。)
エレウテライの城壁から北を望む
(写真:同年同月、北壁から南より撮影。)
テーベ(ボイオティア地方)に向かう隘路(ドリュオスケファライ街道)。
(2017.8.2:改)
アッティカ南部のその他の遺構 South of Attica
アポロン・ゾステル(帯)の神殿1(ヴーリアグメニ半島)
(写真1:1989年10月、北東より撮影。)
同上2
(写真2:同年同月、西背面から撮影。)
<アポロン・ゾステルの神殿>
(L.D.Loukopoulos, 1973に加筆)
現在のヴーリアグメニ半島の中央で、20 世紀初頭に前6世紀に遡る神殿と祭壇の遺構が発掘され、同神域からの出土碑文によりアポロン神殿と確認されました。
写真1(上)の左手前に写っているのが祭壇で、前4世紀には柱列(4×6の柱)が付け加えられました。
添え名であるゾステル(帯)とは、パウサニアス(1.31.1)によれば、レトがここで子どもたち(アポロンとアルテミス)の出産のためにゾステル(帯)をといた故事から、同所の地名が生まれたとあります。
ヴァリ・ハウスの遺構1
(写真1:1989年10月、南より撮影。)
同上2
(写真2:1989年10月、北西より撮影。)
ヴァルキザを見下ろすヒュメットス(現イミトス)山の中腹のヴァリ・ハウスは、アッティカ南端に広がる代表的な孤立農場の一つです。
田園の孤立家屋の状況や、家屋敷の平面構造がよくわかります。
パンの洞窟(ヴァリ近郊)
(写真1:1989年10月撮影。)
前5世紀にヒュメットス山南麓の中腹に、アルケデーモスによって開かれた洞窟。
パンの洞窟内部に残る浮き彫り
(写真2:同年同月撮影。)
洞窟に残る等身大をこえるアルケデーモスの自画像の浮き彫り。
エレウシス Eleusis
エレウシスは、アッティカ西部に広がるトリア平野の沿岸に位置し、アテネ中心部から西に約30kmほど離れたサラミス湾に臨む町です。現在では、石油コンビナート等の工業地帯ですが、古代のエレウシスは女神デメテルと娘コレ(ペルセポネ)を祀る秘儀宗教の聖域でした。遺跡内で見つかっている先史時代の住居趾は、中期青銅器時代にまで遡りますが、この場所が重要な拠点集落に発展したのは、ミケーネ時代のことです。ミケーネ時代のエレウシスは、独立した一つの王国であった可能性が高いのですが、通説では前7世紀頃に政治的独立を失いアテネに統合されたと言われています。
エレウシスの秘儀は、農業と深く関わっており、伝承によれば、冥界の神ハデスにさらわれた娘コレ(ペルセポネ)を探し回っていた穀物と収穫の女神デメテルは、この地で歓迎され、エレウシスの人々に秘密の秘儀を教え、王子トリプトレモスに穀物栽培の技法を授けたと言われています。
歴史的な秘儀は、おそらく農業に関わるものであったと思われますが、やがて入信者に死後の幸福を約束するものとなり、エレウシスの秘儀は前6世紀頃から隆盛を見せます。前5世紀になると、エレウシスの秘儀はアテネの国家祭儀となり、さらには全ギリシア的な祭典へと発展していきました。
エレウシスの祭は、毎年1回大小の祭典が行われ、春の小エレウシニア祭(アテネ市内)と秋の大エレウシニア祭(非公開のテレステリオンでの秘儀祭)には、ポリスや民族、さらには階級を超えて多くの信者が集まり、アテネによって聖域は大々的に整備されていきました。
入信者は秘密を守らなければならなかったので、秘儀の具体的な内容はわかりませんが、夜間のクライマックスには、秘儀の最高神官〔ヒエロパンテース〕による「聖秘物」の展示があったことが分かっています。
エレウシスの秘儀は、ローマ時代にも流行し、ハドリアヌス帝やマルクス・アウレリウス帝(176年)が入信して、聖域も一層拡張されましたが、その後アラリックの西ゴート族の襲撃(396年)によって境内は略奪破壊され、500年頃には、前庭の直ぐ外側に教会が建てられるなど、その後再興されることはありませんでした。
19世紀の後半から発掘が進められている遺跡には、入信の儀式が行われた大規模なテレステリオン(秘儀堂)を中心に、聖域への正面玄関にあたる大プロピュライア(アテネのアクロポリスを飾るプロプライアの中央通路部分を再現)と小プロプライア(前1世紀)、カリコロンの井戸、聖域を取り囲む城壁の跡(ペイシストラトス時代やペリクレス時代の遺構)が残されています。高台にある博物館には、ミケーネ時代からローマ時代までのさまざまな土器や、有名なオデュッセウスがポリュフェモスの目をつく情景が描かれている埋葬用アンフォラ(原アッティカ様式)、デメテル像などの出土品、聖域の模型などが展示されています。
<エレウシス:平面図>
(周藤芳幸編, 2003による)
<テレステリオン(秘儀堂)>
(写真:Wikimedia Commonsから借用)
聖域の中心であるテレステリオンは、信者のイニシエーション(おそらく死と再生のための儀式)のためのホールです。建物は前5世紀にイクティノスを含む建築家らによって建てられ、ローマ時代に改築・拡大され、170-75年にマルクス・アウレリウスによって最終的な形になりました。この建物は、ほぼ正方形(約56×54.5m)で、屋根は42本の柱で支えられ、四辺を観客席が取り囲んだ構造を持っています。信者はここに座って、中央で繰り広げられた一種の聖劇を見守ったと思われます。
(2023/05/30)
メガラ Megara
<メガラ近郊>
(周藤芳幸編, 2003による)
<メガラ市と近郊>
(パウサニアス/馬場恵二訳,1991による)
アテネの隣国メガラは、現在民家が密集していて、市内の古代遺跡や遺物の発見はあまりありません。
古代メガラ市には二つのアクロポリスがあり、東側(カリア:標高70m)西側(アルカトア:標高98m)両アクロポリスは、それぞれ囲壁をめぐらせ、また町全体も市壁で囲まれ、さらにアテネのように、アクロポリスと外港ニサイアの港を長城で囲んでいました。
テアゲネスの泉
(写真:1989年8月北より撮影)
<テアゲネスの泉>
(L.D.Loukopoulos, 1973に加筆)
前述のように、遺構・遺物は少なく唯一見所といえるものは、「テアゲネスの泉」と呼ばれる泉場です。この遺構は1898年にカリア西麓で発掘されました。
パウサニアス『ギリシア案内記』(第1巻第40章第1節)が規模の大きさと装飾の見事さ、そして柱の多いことを特色の一つに挙げているように、八角柱の林立する屋根付き貯水槽(17.88m×13.69m)で、給水口の壁も一部残っています。建設年代は前500年前後と推定され、僭主テアゲネスの年代から100年以上も後の施設です。
なお、前古典期のメガラは、植民活動に活発で、黒海のボスポラス海峡のビザンティオン(現イスタンブール)は、このメガラの建設した都市です。
アイゴステナの城壁 Aigosthena
<アクロポリスと長城>
(L.D.Loukopoulos, 1973に加筆)
(写真:1989年2月北東より撮影。)
古典期になると、西のコリントス、東のアテネという強国に挟まれて、しばしば戦乱の渦中に置かれることになりました。
従って、国境には堅固な城壁を誇っており、とりわけ、コリントス湾の最奥部に位置する、ボイオティアとの国境近くのアイゴステナ(現在のポルト・イェルマノ)は、林立する塔とそれらを繋ぐ切石の城壁が見事に残っていて、古代ギリシアのもっとも完成された城塞建築の姿を見せてくれます。