アクロポリス Akropolis
(写真:1988年2月フィロパポスの丘・南西より撮影)
写真はフィロパポス(ムウサイ)の丘からのアクロポリスの眺めです。
丘の上の中央にそびえるのが、前432年に完成したパルテノン神殿、その左はエレクティオン神殿、その左端に、プロピュライア(前門)とニケ神殿が見えます。
手前の建物は、ヘロディス・アッティコスのオデオン(音楽堂)で、パルテノン神殿に隠れた背後の三角形の山はリュカベトスです。
アテネのアクロポリスは、西側を除く三方を断崖で守られた要害の地で、周辺からの高さは100mほどの石灰岩の丘です。
この丘は、すでに後期新石器時代から居住の跡が確認されていますが、ミケーネ時代中期(前14世紀)になると、その上には宮殿が築かれ、周囲には城壁もめぐらされました。
王宮からはアクロポリス北壁の岩塊の間を縫うように通路が下町に通じていて、また西側にも西寄りの洞窟に通じる階段が岩肌に刻まれています。
ミケーネ時代の末期(前13世紀)には、アクロポリスの岩山全体が城壁でかこまれました。
そして、歴史時代になると、ここには守護神アテネの神殿が置かれ、都市アテネの中心的聖域となりました。
現在のアクロポリス南壁の石組みは、前5世紀半ばのペリクレス時代のもので、城壁で囲まれたアクロポリスの東西の最大長径は約300m、南北の最大短径は135mと、長方形の形となっています。
<アクロポリス>
(周藤芳幸編, 2003による)
<アテネ市内>
(橋場弦訳『アテナイ人の国制』,2014による)
プロピュライア(前門)
(写真:1988年11月西より撮影)
アクロポリスの正面玄関にあたるのが、丘の西側のプロピュライアです。
前5世紀のプロピュライアは、ペルシア軍によって破壊され、現存するのは、ムネシクレスの設計(前437年着工、前432年工事中断)によるもので、ドーリス式とイオニア式の列柱を配した中央の門と左右両翼からなっています。
左翼には、ピナコケー(絵画館)があり、トロイ戦争などに関わる神話を題材とする絵画が展示され、アクロポリス参詣人の休息所となっていました。
右翼には、アテナ・ニケ神殿が建っています。
アテナ・ニケ神殿
(写真:1988年11月北より撮影)
プロピュライアの右翼は、一部が削られており、その丘の端に東西両面に4本ずつイオニア式円柱をもつ、アテナ・ニケ神殿が建っています。
神殿は、前427年に造営着工、前425/4年に竣工して祭神像が奉納安置されました。
この神殿は「翼のないニケ(ニケ・アプテロス)の神殿」とも呼ばれました。
パウサニアス『ギリシア案内記』(第1巻、第22章、第4節ー第5節:以下、パウサニアス,1.2.4-5と略)は、「アイゲウス王は、息子テセウスがクレタの「ミノタウロス」を退治して帰国した際に、船が黒い帆を掲げているのを見て(テセウスは、退治したときには白い帆を父に約束)、息子は死んだものと思って、この場所から身を投げて死んだ。」という伝承を述べています。
(以下、パウサニアスの訳並びに当該の遺跡の解説は、多くをパウサニアス/馬場恵二訳『ギリシア案内記』の訳注などに負っています)
(また、下線部の前425/4年という表記は、古代ギリシアの暦法が、今日の暦の7月に新年を迎えたので、当時の一年は西暦の二年に半分づつまたがることになり、公式の年度を表すときには、慣例により前425/4年のように表記します。)
パルテノン神殿
(写真:1988年11月西より撮影)
(写真:1988年11月西南より撮影)
<パルテノン神殿の東正面の復元図>
(G.Dontas,The Acropolis and Its Museum, Athens, 1987に加筆)
<パルテノン神殿の西正面の復元図>
(同上)
<パルテノン神殿の平面図>
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)
<アテネ女神祭神像(模刻)>
(M.コリニョン著/富永惣一訳『パルテノン』岩波書店、1978より)
(後2/3世紀のローマ時代の模刻で、通称「ヴァルヴァキオンのアテネ像」。アテネ国立考古学博物館蔵)
プロピュライア(前門)をくぐると、右手前方に勇姿を現すのが、新パルテノン神殿です。
ペルシア戦争で工事が途絶した古パルテノン神殿(その礎石がパルテノンとエレクテイオンの間に残っています)にかえて、ペリクレスによって建てられました。
パルテノン神殿が着工されたのは前447年のこと、前438年には祭神象が納められたが、最終的に破風彫刻まで完成したのは、前432年のことでした。
名匠フェイディアスの指揮・監督のもと、イクティノスによって設計されたと伝えられ、すべて郊外のペンテリコン山から切り出された大理石(推定約3万トン)が使用されています。
中央に膨らみのあるエンタシスの円柱は、東西の面に8本ずつ、南北の面には17本ずつ周柱式に配されており、基壇上部の幅は30.88m、長さは69.53mを計り、円柱は10.43mあります。
神殿の外側は重厚なドーリス式ですが、内陣の外壁にはイオニア式のパンアテナイ祭の行列を描いたフリーズ(浮彫り)を持つなど、優雅さを加味しています。
また、東のペディメント(破風)には、アテナ生誕の場面、西のペディメント(破風)にはアテナとポセイドンの争いが浮彫りにされていました。
さらに、神殿外側には東側に巨人族とオリュンポスの神々の戦い、南側にラピテス族とケンタウロス族の争い、西側にギリシア人とアマゾン族との戦闘、そして、北側にトロイ戦争の場面が表現された計92枚のメトープ(浮彫石板)が飾られていました。
こうした、レリーフや破風の一部は、現在アクロポリス博物館や、大英博物館に保存されています。
内部構造に目を向けると、パルテノン神殿は、イオニア式の6本の柱が立つ前室(プロナオス)とアテナ・パルテノス(処女神アテナ)像(アガルマ)の安置された神室(ネオス・へカトンペドス:ナオス)、パルテノン(処女の間)、そしてイオニア式の4本の柱が立つ後室(オピストドモス)から構成されています。
台座からの高さ約11mを計るアテナ・パルテノス像は、フェイディアスの手になる黄金象牙製で、その製作費用はパルテノン本体の建造費を凌駕するものでした。
また、その黄金板は脱着可能で、軍事資金に転用できたようです。
このアテナ・パルテノス像は、パウサニアス(1.24)が記すところによると、
「ヘルメットの中央にスフィンクスの像があり、それの両側にグリフィン(半獅子、半鷲の怪物:クノッソス宮殿の玉座の間などに描かれている)がいる。
像は立像で足まで垂れる外衣(キトン)を纏う。
胸には象牙彫のメドゥサの頭をつける。
勝利の女神(4ペキュス:178センチほど)を右手で支え、もう一方の(左)手は槍を持つ。
その足下には一枚の楯があり、槍の側には一匹の蛇(エリクトニオス:神話上のアテネの王)、台座にはパンドラ誕生の場面が浮彫にされている。」
なお、奥室はパルテノン(パルテノイ:処女の間)と呼ばれ、それが、この建造物の名称の由来となったと考えられています。
パルテノイとは、パンアテナイア祭において、アテネ女神に献じる上衣(ペプロス)を織る重要な役割を演じたアテネの上流家族の少女らのことです。
ただし、前5世紀の公文書には単に「殿堂(ホ・ネオス)」あるいは、「大殿堂(ホ・ネオス ホ・メガロス)」と呼ばれており、前4世紀以前には常用される名称ではなかったようで、デモステネス(22. 76)に見いだされるのが、最初の例です。
また、この部屋もパルテノイにあてられていたのではなく、実際は宝物などを保管していたところであろうと考えられています。
つまり、神殿はいわば金庫のような機能を果たしており、中には様々な高価な聖財が保管されており、このような祭神像や内部構造から、「パルテノン神殿」と呼び慣わされているこの建物は、本来の意味での神殿であったかどうかは疑わしいようです。
特に、神殿に不可欠の祭壇を欠いていることや、専門の神官の不在などは、この建物が神殿の姿を取ったモニュメンタルな宝物庫であったことを強く示唆しています。
パルテノン神殿は、ローマ時代までその姿をとどめ、中世にはキリスト教会として、さらにはオスマン帝国の占領下に入ってからはイスラムのモスクとして余命を保ってきました。
しかし、1687年にアクロポリスを包囲していたヴェネチア軍の砲撃により、火薬庫として使用されていたパルテノンは爆発して吹き飛び、大きな損傷を受けました。
19世紀に始まった修復作業は、現在もなお続行中です。
(2017.8.11:改)
エレクテイオン神殿
(写真:1988年11月南西より撮影)
(写真:1988年11月カリュアティデス模刻、南東より撮影)
<エレクテイオンの平面図>
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)
パルテノン神殿の北側には、前5世紀中頃(前421年)に起工し、同世紀末(前406年)に完成したエレクテイオン神殿(公式名称は、「古い祭神像の安置されたアクロポリス所在の神殿」)が建っています。
アテネ女神、ポセイドン神、伝説上のアテネ王エレクテウス、ヘファイストス神などを祀ったこの合祀神殿は、正面玄関が東と北の両方にあり、北側は一段低く、さらに内陣が2つに分かれるという複雑な構造を持つイオニア式建築です。
アテネの守護神アテネ(アテナ・ポリアス)の木彫りの像が、この神殿の中に安置されていました(祭壇などの位置は不明)。
神殿の南側には、パルテノンに面して有名なカリュアティデス(6人の少女柱)の柱廊があります。
今日見られる像は複製で、オリジナルの1体(東側:列柱右端)はエルギン卿によって、大英博物館に運ばれ、残りは破損が激しいため、取りはずされアクロポリス博物館に収蔵展示されています。
また、西側の一画には、現在オリーブの木が植えられていますが、これはかってこの場所(パンドロソスの聖域)に生えていた、アテネ女神が市民に授けたオリーブ樹にちなんだものです。
(2017.8.11:改)
ミケーネ時代のアクロポリスへの道
(写真:1989年10月、西より撮影)
アクロポリスの北側の城壁外に残る、ミケーネ時代の上り坂。
(2017.8.17:追加)
アクロポリス南側斜面 South Slope of the Akropolis
<アクロポリス南側の斜面の平面図>
(C.Mee & A.Spawforth, 2001に加筆)
ヘロディス・アッティコスの音楽堂
(写真:1988年2月北西より撮影)
アクロポリスの南西の斜面には、ローマ帝国の執政官を務めたギリシア人へロディス・アッティコスが妻の死を悼んで161年に建築したヘロディス・アッティコスの音楽堂が修復されています。
現在、この音楽堂は、夏のフェスティバルなどで使用されており、毎夜、ギリシア悲劇・喜劇、それにヨーロッパのオーケストラの演奏会などが催されています。
エウメネスの列柱廊
(写真:1988年2月東より撮影)
へロディス・アッティコスの音楽堂に隣接して、前2世紀に小アジア(現トルコ)のペルガモン王国の王エウメネス2世が建造した列柱廊が残っています。
アスクレピエイオン
(写真:1988年2月東より撮影)
劇場西隣、エウメネスの列柱廊の北東に、医神アスクレピオスに捧げられた二つの神域アスクレピエイオンがあります。
アスクレピオス神の祭祀は、ペロポネソス戦争開始直後に疫病が流行した際(前420-19年)、エピダウロスからテレマコスという人物によって同神がアテネに勧請され、聖所と祭壇が設けられました。
それぞれの神域には神殿と祭壇、アバトン(お籠り堂)、聖なる泉があり、病人は聖なる泉で身を清めてから犠牲を捧げ、お籠り堂で眠りにつき、アスクレピオスから夢のお告げを受けました。
パウサニアスは(1.21.4)は、「伝承によれば、この聖なる泉のほとりで、ポセイドンの息子ハリロティオスがアレスに殺され、この殺害事件めぐって裁判というものが初めて行われた。」と記しています。
ディオニュソス劇場
(写真:1988年2月北より撮影)
アクロポリスの南側の斜面には、ディオニュソス劇場が残っています。
エレウテライ出自のディオニュソスを祭神とする、前6世紀後半の神殿の付属施設に起源を持つ劇場で、アテネの財政再建に貢献したリュクルゴスによって前330年頃に大理石で改修され、さらに後1世紀のローマ皇帝「暴君ネロ」の時代に改築されました。
オルケストラ(歌舞場)は円形で、座席の収容能力は、1万7千人ほどと推測されています。
上部は崩れていますが、アクロポリスの城壁直下までが座席として加工されており、最前列の席は、神官やポリスに特別の貢献のあった者だけが着席を許される特別席となっています。
現在、舞台の部分に残っているのは、後400年頃のファイドロスの演壇(ベーマ)で、その前面にはディオニュソス神の生涯が浮彫りにされています。
(2017.8.16:改)
アゴラ Agora
アクロポリスの北西麓に、古代アテネ市民の生活の中心であったアゴラが広がっています。アゴラとは、ポリスの中心にある公共広場のことで、本来は集会場を意味していましたが、やがて市場としての機能も持つようになりました。
現代ギリシア語では、アゴラの動詞形アゴラゾーは、「買物をする」ことを意味しますが、古代アテネ市民にとっては、アゴラは買物だけでなく、色々な商取引の場であり、政治談義に興じたりする場所でもありました。
市民たちは木陰などで、現に起きている戦争や、政治の話を自由に語り合いました。ソクラテスやプラトンなどの哲学者も、アゴラの木陰やストア(列柱廊)で弁舌をふるっていたことでしょう。
<アゴラの俯瞰図(後150年頃)>
(パウサニアス/馬場恵二訳, 1991による)
<アゴラ(後2世紀)>
(同上)
<アゴラ(前4世紀)>
(橋場弦訳『アテナイ人の国制』,2014による)
ヘファイストス(ヘパイストス)神殿
(写真左:1987年12月南東より撮影)
<平面図>
(J.M.Camp,1986より)
アゴラの北西部、コロノス・アゴライオス(『市場の丘』の意)の一角に、鍛冶屋の神へファイストスを祀ったヘファイストス神殿が建っています。
この神殿は、パルテノン神殿とほぼ同時代(前5世紀半ばに着工、ペロポネソス戦争期に完成)に造営されました。
パルテノンと同じ、ペンテリコン山の大理石で作られた、長さ32m、幅14mの美しいドーリス式の神殿です。
紀元後7世紀以降、教会として転用されたため、ギリシアでもっとも保存状態の良い神殿で、屋根と神室の一部が改造されているのを除いては、ほぼ当初の姿をとどめています
<アゴラの北西図>
(J.M.Camp,1986に加筆)
ストア・ポイキレ(彩画列柱館)
(写真:1987年11月、南西より撮影。)
ストア・ポイキレとアフロディーテ・ウラニアの祭壇
(写真:1992年8月、撮影)
右端に見えるのがストア・ポイキレの左端の一部。
中央左寄りの南北に細長い遺構がアフロディーテ・ウラニアの祭壇。
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
アゴラの北端を飾っていたストア・ポイキレは、1980年に発掘され、現在も民家に囲まれている限られた区域で発掘が進められており、遺構は道路から見下ろすことができます(写真は、西端の基壇部分)。
前475から460頃に建造された物で、アテネの栄光を伝える数々の戦争画や戦利品が展示されていました。
絵画は、正面の奥壁(40m以上)にパネル板で飾られていたようで、一説によると「オイノエの戦い」、「アマゾン族との合戦」(ミコン筆)、「トロイア陥落」(ポリュグノトス筆)、「マラトン合戦」(パナイノス筆)の順で左(西)から右(東)に並んでいたようです。
前3世紀の前半には、キプロス生まれの哲学者ゼノンらがここで講義をし、それが、ストア学派(現在のストイックの語源)と言う名称の由来となったことが知られています。
スパルタ兵士の楯
(写真:1989年3月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
<模写>
(J.M.Camp,1986より)
パウサニアス(1.15.1)に記された、ストア・ポイキレに奉納されていた青銅の楯の一つの「スパルタ兵士の楯」。
「アテネ人がラケダイモン(スパルタ)人から、ピュロスから」と銘文。
この丸楯は、ペロポネソス戦争さなかの前425年のピュロス(スファクテリア)の戦いで、アテネ軍が投降したスパルタ人から捕獲した戦利品です。
ちなみに、この丸楯は、ヘファイストス神殿南側の貯水井戸の蓋に転用された状態で発見されました。
アフロディーテ・ウラニアの祭壇
(写真:1992年8月撮影)
写真中央手前の南北に縦長い遺構が、アフロディーテ・ウラニアの祭壇。
右端中央に見えるのがストア・ポイキレ。
ストア・バシレオス(王の列柱館)
(写真;1989年3月西南より撮影.)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
南北両端に張り出しの翼部が増設されて改造された新しい神殿(前300年頃)。
中央部にテミス像(前330年頃)。
アゴラの北西端。
1970年の発掘調査によって、後述の「ゼウスのストア(ゼウスの列柱館)」の北側に隣接して、東を正面とする「ストア・バシレイオス(東西7.6m、南北20m)」が、アルコン(最高役人)が宣誓の際に使用した「アルコンの石」※(伝アリストテレス『アテナイ人の国制』第7章、第1節と第55章、第5節に詳述:以下、『アテナイ人の国制』7.1; 55.5と略)と共々姿を現しました(上記アゴラの北西図参照)。
ここには、ソロンの法律を録したキュルベイス(木製の回転板:異説有り)が置かれていたと伝えられています。(『同書』7.1)
前6世紀末、アゴラにおける最初のストアとして建造されたもので、主として祭祀に関することを司るバシレオス(王)と呼ばれる高位の役人が詰めていた役所です。
前4世紀に改造されて、南北両端の正面東側に張り出しの翼部が増設され、中央前方にテミス(掟)女神の大きな石造が据えられました(上記、復元図参照)。
現在、テミス女神の胴部は回収されて、アゴラ考古学博物館(1階柱廊の北端寄り)に展示されています。
このストアは、ソクラテス裁判の際、彼が出頭して予審がおこなわれた場所と伝えられています。
※アルコンの石:
大きさは0.95×2.95×0.4mの石灰岩で、ミケーネ時代の墳墓の石を転用したとの推測もあります。
ソロンの時代にこの石がどこに置かれていたかは不明ですが、「王」の列柱廊建設時(前480年以降)にはすでに現在の場所にあったようです。
(橋場弦訳『アテナイ人の国制』2014, 第7章注3より)
十二神の祭壇
(写真:1989年3月西北より撮影)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
アゴラの北側。
僭主ペイシストラトスの同名の孫によって、前522/1年に奉納されたと伝えられる「十二神の祭壇」、その南西部分の基壇と奉納像の台座です。
1934年に発見されて、この地がアゴラであることを確実にした重要な遺構です。
アゴラの最初の宗教的施設で、この祭壇は命乞いをする人々が、神々にすがって救いを求める場所であり、また、アテネ郊外のアッテイカ地方の距離を測る際の起点となる道路里程標の役割も果たしていました。
まさしく、アゴラの中心としての機能を担っていました。
ホロス(境界石)
(写真:1989年9月撮影)
<模写>
(J.M.Camp,1986より)
「我はアゴラのホロス(境界石)なり」と刻文されたアゴラの境界石です(文字は上端の右から左へ、そして左端で上から下に続いています。高さ1m程)。
アゴラは、前6世紀末神聖で公的な空間としてその境界が明確に示されることになりました。
この境界石は、神聖かつ公的な本来の「広場」としてのアゴラを守る役割を果たし、兵役を拒否した者や親を虐待した者などは、その内側に入ることを固く禁じられました。
アレス神殿の跡
(写真:同上、東から撮影)
<平面図>
(J.M.Camp,1986より)
オリジナルな神殿は前5世紀にアッティカのある場所に建てられましたが、ローマ時代初期に分解されアゴラに再建されました(デザイン、サイズはヘファイス神殿に類似)。
後方にヘファイストス神殿。
<アゴラの西側(ヘレニズム時代)>
(J.M.Camp,1986に加筆)
ゼウスのストア(ゼウスの列柱舘)
(写真:1989年3月南東より左翼を撮影。)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
前述の「ストア・バシレイオス」のすぐ南側に、前5世紀の20年代(ペロポネソス戦争初期)に建設された「ゼウスのストア」の遺構の基礎部が残っています。
このストアは、左右両端に張り出し翼部をもつという斬新なスタイルで、ゼウス・エレウテリオス(自由のゼウス)に捧げられたもので、へファイストス神殿と同様、ペンテリコン山の大理石で作られています。
ストア・ポイキレと同じく、アテネの栄光にまつわる絵画やアテネの戦士の盾などが飾られていました。
このストアは、市民たちが自由に行き来する社交場としての性格が強く、ソクラテスもここで好んで哲学論を交わしたと伝えられています。
アポロン・パトロオス神殿と神像
(写真:アポロン・パトロオス神殿。1989年3月、西より撮影。)
(写真:アポロン・パトロオス像:1987年11月撮影。)
<平面図>
(J.M.Camp,1986より)
ゼウスのストアの南側に、前4世紀後半に、小さなアポロン・パトロオス(父祖神アポロン)神殿が建立されました。
この神殿に安置された大理石のアポロン・パトロオス像(2.5m)が神殿跡の南側で発見され、現在はアゴラ考古学博物館(1階柱廊の南端)に展示されています。
評議会場とメトロオン
(写真:1989年10月南西より撮影:手前、新評議会場。後方、メトロン)
<旧評議会場:平面図>
(J.M.Camp,1986より)
<新評議会場:平面図>
(J.M.Camp,1986より)
前6世紀末のクレイステネスの改革によって創設され、その後のアテネ民主政において、実質的な中枢機関の位置を占めた新・旧五百人評議会場(ブーレウテリオン)跡です。
旧評議会場は前500年頃に建設され、その後、前415年から前406年頃の間に旧評議会場のすぐ西側に新評議会場が建設されました(新しい建物の建設理由は不明)。
パウサニアス(1.3.5)に記されている「五百人」の評議会場は、新評議会場のことです。
ここでは、各部族から抽選で選ばれた五百人の評議員が集い、アテネの最高決議機関「民会」に提出する議案などを先議しました。
会議は、祭日を除く毎日開かれました。
どちらも、礎石しか残っていないため、座席がどのように配置されていたかは正確にはわかっていませんが、半円形もしくはコの字形に着席するつくりになっていたと推定されています(上記、平面図参照)。
旧評議会場の建物は、前5世紀末に諸神の母レアを祀る小さな神殿(メトロオン)に吸収されました。
メトロンは、聖所と公文書館の機能を兼ね備えており、現在見ることができるのは、四つの部屋とイオニア式柱廊からなるヘレニズム時代のメトロオンの跡です。
トロス
(写真:1989年1月北西より撮影.)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
前470年頃、旧評議会議場のすぐ南側に、トロスと呼ばれる円形の建物が建てられました。
トロスは、五十人の当番評議員が常駐する詰め所で、アテネの行政の実務的な中心となった重要な役所です。
当番評議員たちは、このトロスで毎日公費で会食をしながら実務に携わり、そのうち三分の一のメンバーは、夜間も常駐して24時間体制で緊急の事態に備えていました。
評議会議場とトロスが建ち並ぶアゴラの西側は、アテネの政治の中枢を担う重要なエリアでした。
エポニュモイ(名祖半神)像の台座
(写真:1989年3月北東より撮影.)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
アゴラの南西端。
旧評議会議場の遺構の向かい側に、エポニュモイ(名祖半神)像の細長い台座(長さ、16.6m)が残っています。
エポニュモイとは、アテネの民主政の基礎を築いたクレイステネスの改革によって設けられた十部族の名前のもとになった、十人のアテネの半神もしくは英雄です。
この台座の上に十人の名祖の青銅像が横一列に並んでいましたが、現在は、台座(その壁面に後述するように公式文書が掲示されていました)とそのまわりの文章保護用の石柵の基壇が残っているだけです。
このモニュメントは、市民への掲示板の役割を果たしていて、政治や軍事、裁判などの通知事項が掲示され、アゴラに集う市民は、民会や裁判の開催通知、民会の議事の告示、徴兵名簿など、さまざまな情報を得ることができました。
つまりこのモニュメントは、情報開示のための重要な装置でした。
クレイステネスの改革は、「オストラキスモス(陶片追放)」が有名ですが、民主政を基礎づけたと言う意味では、この十部族からなる「部族改革」がより重要です。
彼の設けた地域的十部族の制度は、以後のアテネの行政や司法や軍事の基本的単位となりました。
十の部族の名称は、公式順にエレクテイス、アイゲイス、パンディオニス、レオンティス、アカマンティス、オイネイス、ケクロピス、ヒッポトンティス、アイアンティス、アンティオキスです。
牢獄跡
(写真:1989年4月北東より撮影.)
<平面図>
(J.M.Camp,1986より)
ソクラテス小像(?)
(写真:1989年3月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
牢獄跡で発見された大理石の小像。
ソクラテス像の可能性が推測されています。
薬瓶(毒薬?)
(写真:1989年3月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
アゴラの南西端。
長い廊下を挟んでいくつもの小部屋が連なった珍しい建物跡で、恐らく、牢獄の跡であると推定されています。
ソクラテスもここに投獄され、毒杯を仰いだと考えられており、この遺構からは、小さな薬瓶(毒物の瓶か?)が十数個発見されており、こうした薬瓶の出土品も、ここが牢獄であったと推測する根拠となっています。
ちなみに、毒薬は毒人参のエキスだったと思われます。
アグリッパの音楽堂
(写真: 1989年9月北西より撮影。後方にアクロポリス。)
<断面図>
(J.M.Camp,1986より)
前1世紀の後半に、新たに「ローマ時代のアゴラ」が建設され、アゴラの景観は一変します。
ローマ人がアゴラに築いた最も印象的な建造物が、広場の中央に設けられたローマの将軍アグリッパが前15年頃に寄贈した「アグリッパの音楽堂」で、約千人収容できる巨大なコンサートホールでした。
その後、約2世紀半ばに大々的に改修され、その際に、写真の音楽堂のファサードを飾る「トリトンと巨人の像」が作られました。
水時計
(写真:同上、北西より撮影。後方にアクロポリス)
<復元図>
(J.M.Camp,1986より)
中央ストア
(写真:同上、西より撮影)
南ストア
(写真:同上、東より撮影)
<中央ストア・南ストア平面図>
(J.M.Camp,1986に加筆)
貨幣鋳造所(手前)と南東泉場(後方)
(写真:同上、東より撮影)
<平面図>
(J.M.Camp,1986に加筆)
アッタロスのストア(列柱館)
(写真:1987年12月南西より撮影。)
<平面図>
(J.M.Camp,1986に加筆)
アゴラの北東部。
アゴラの北側の入り口を入るとすぐ左側に、前2世紀(前150年頃)、青年期にアテネで学んだペルガモン王アッタロス2世によって寄進された、ギリシアの遺跡でただ一つ完全に復元された建物アッタロスのストアがあります。
(長さ115m、幅20mの2階建ての細長い柱廊です。)
外側には45本のドーリス式円柱、内側には22本のイオニア式列柱が建ち並び、柱廊の奥には各階に21、合計42の店舗が連なる大ショッピングモールでした。
このストアの前が、アゴラ一の繁華街であったようです。
このストアは、ロックフェラー財団の資金を得て、アゴラを発掘したアメリカ古典学研究所の手によって、1952年から56年にかけて完全に復元されており、今は、アゴラの様々な出土品を展示するアゴラ考古学博物館として現代によみがえっています。
(2017. 8. 19:改)
アテネ民主政のための諸道具(アゴラ考古学博物館蔵)
アテネ民主政の特徴は、現代の民主政と違って、将軍を除くほとんどの役職(官職)が抽選で選ばれる点によく現れています。
現代の高度に発達した官僚制に慣れた我々には、とても奇異にそして新鮮に感じられます。
例えば、裁判所の陪審員(いわゆる裁判官はいなくて、全員がアマチュア)も抽選で選ばれ、複雑なそして巧妙な抽選システムで、陪審員の買収などの不正を防いでいました。
アゴラ考古学博物館には、有名な陶片追放の陶片や裁判で用いられた水時計、珍しい抽選道具、そして数多くの投票用具など、アテネ民主政の実態を生き生きと伝える遺物が多数展示されています。
陶片追放(オストラキスモス)の陶片(オストラカ)1
(写真:1989年3月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
アクロポリス北麓から大量出土した、テミストクレスの名を記す陶片。
反テミストクレス派の工作した「組織票」と推定されています(前480年代)。
同上2
(写真:同上)
上記の陶片の中で、「プレアッリオイ区のテミストクレス」の刻文のあるもの。
同上3
(写真:同上)
「プレアッリオイ区のネオクレスの子テミストクレス」の刻文。
同上4
(写真:同上)
「クサンティッポスの子ペリクレス」(有名なアテネの将軍ペリクレス)の刻文。
同上5
(写真:同上)
「ミルティアデスの子キモン」(ペリクレスに対比される政治家)の刻文(前461年)。
同上6
(写真:同上)
「リュシマコスの子アリステイデス」(「清廉の士」と呼ばれた政治家)の刻文(前482年)
上記、テミストクレス、ペリクレス、キモン、アリステイデスの4名は、当時のアテネを代表する政治家ですが、「オストラキスモス」によって追放されなかったのはペリクレス一人です。
抽選器(クレーローテーリオン)の一部分
(写真:同上)
<復元図>
(橋場弦訳『アテナイ人の国制』、2014、202頁より)
抽選器の形状は基本的に板碑上の柱で、大理石製もしくは木製。
推定される高さは人の等身大、幅は約60cm程度。
正面には縦に5列の穴が空けられ、それぞれの穴に裁判員の名札を差し込む。
さらに列の左側には、抽選器上面に漏斗状の開口部を持つ管が取り付けられ、その中に黒白のサイコロを入れ、下端から一つずつ取り出す仕組みになっている。
(『同書』、補注73「抽選器」より引用)
抽籤の方法は、各人が後述の裁判員の名札などを5列の穴に差し込み、孔から白が出ればその列(5人)は当選、黒が出れば落選、これを上から順に繰り返しました。
裁判員の名札(ピナキオン)(青銅製)
(写真:同上)
<模写図>
(裁判員と役人の抽籤に使ったもの:前360年代)
「エウピュリ(ダイ)区のリュサニアス」の刻銘。
左上に部族内小集団を示すHの文字。
左下に日当3オボロスを示す記号。
(『同書』、202頁より引用)
投票具(プセーポス)(青銅製)
(写真:同上)
<模写>
円盤面にはプセーポス・デーモシア(国有投票具)の刻印。
左が有罪、右が無罪を表しています。
(『同書』、202頁より引用)
投票具は、中央の芯が空洞(左)と中央の芯が詰まり(右)の2種類があり、投票者は芯の両端を指で押さえ、投票箱に投票しました(秘密投票)。
投票箱(素焼き)
(写真:1989年8月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
<投票箱>
(J.M.Camp,1986より)
アゴラの北西の角、アッタロスのストアの下で発見された投票箱(中に6個の投票具)。
法廷用水時計(クレプシィドラ)
(写真:1989年3月、アゴラ考古学博物館にて撮影)
<断面図>
(橋場弦訳『アテナイ人の国制』、2014、202頁より)
訴訟内容により原告・被告の持ち時間は異なっていましたが、訴訟が長時間に及ぶ場合は、上の容器が空になったら下の容器と交換して続けました。
(2017.8.18)
ローマ時代のアゴラとその周辺 Roman Agora and Library of Hadrian
<アテネ市内中心部>
(パウサニアス/馬場恵二訳, 1991による)
<ローマ時代のアゴラとハドリアヌスの図書館平面図>
(C.Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)
ローマ時代のアゴラ
(写真:1989年10月、西より撮影)
ローマ時代のアゴラは、前1世紀後半に、カエサルとアウグストゥスから寄贈され、アテネの民会が、前10年頃にアテナ・アルケゲティス女神に奉納した新広場です。
旧アゴラの東約100mに立派な舗装道路で結ばれて建設されました。
東西に111m、南北に98mほどの規模のアゴラで、中央の広場の四方をイオニア式のストアが取り囲み、東側の柱廊の奥には店舗が連なり、ローマ時代には商取引の市場として機能しました。
この遺跡は、現在19 世紀の古い街並みが残るプラカ地区の一角に広がっています。
オリーブ油供出に関するハドリアヌス帝の法典
(写真:1989年10月撮影。)
ローマ時代のアゴラの西門わきに立つ石柱。
この法令は、アッティカのオリーブ油生産者に、生産額の3分の1を生産地価格でアテネ公用のために供出することを命じています。
風の塔
(写真:1989年10月西より撮影)
「ローマ時代のアゴラ」の東側には、風の塔と呼ばれる美しい八角形の大理石製の塔がそびえています。
高さ14mのこの塔は、八角形の各面は、東西南北と、北東、南東、南西、北西の八つの方角を正確にさしており、それぞれの上部壁面には、八体の風の神のレリーフが施されています。
かっては、日時計、水時計、風向計の三つの機能を持った塔だったといわれていますが、後6世紀以降、礼拝堂として転用されてよく保存されています。
ハドリアヌスの図書館
(写真:1989年10月南西より撮影)
「ローマ時代のアゴラ」の北側には、後132年にハドリアヌス帝が建造したハドリアヌスの図書館の遺構があります。
この建物は、「ローマ時代のアゴラ」とほぼ同じくらいの面積を占める壮大な施設で、現在
よく残っている7本のコリントス式円柱が並ぶ西壁の北半分とプロピュロン(門)の一部を、道路から間近に眺めることができます。
(2017.8.16:改)
屋外トイレ
(写真:同上、南南東より撮影)
風の塔の北側に残る、屋外トイレの跡。
(2017.8.17:追加)
オリュンピエイオン(ゼウス・オリュンピアスの神殿)とその周辺 Olympieion
<オリュンペエイオン周辺>
(パウサニアス/馬場訳, 1991による)
オリュンピエイオン1
(写真:1989年10月南西より撮影)
同上2
(写真:同年同月、南東より撮影。左手後方にアクロポリス)
アテネ市のこの地域は古来ゼウスの聖地で、前6世紀初めには既に神殿が建てられていました。
前6世紀に僭主ペイシストラトスによって着工されたオリュンピエイオン(ドーリス式神殿:107.7m×42.9m)は、僭主政の崩壊とともに、作業は中断され未完成のまま放置されました。
前2世紀にセレウコス朝のアンティオコス4世が、コリント式に改めて神殿の建設を再開しましたが、王の死によって中断され、その後、290年間の空白期間を経たのち、上記のハドリアヌス帝により造営再開が命じられ(後124年:第1回アテネ訪問の際)、最終的には、後129年に自ら落成式を主催して(第2回訪問のアテネ滞在中)完成されました。
後131年には、ハドリアヌス帝によって(第3回アテネ訪問の際)黄金象牙作りの巨大な祭神像が奉納されました。(パウサニアス,1.18.6)
巨大な神殿な基壇の上には、かっては104本の柱が林立していましたが、現在では15本が残るだけです。
この神殿は、ハドリアヌス門の南側に建設されており、ここからは、門の向こうにアクロポリスを望むことができます。(写真2)
クロノスとレアの神殿
(写真:1989年10月、東より撮影)
オリュンペイオンの南の壁とイリソス河床との中間地点で発掘されたローマ帝政期の神殿。なお、古代のイリソス川は、現在バシレオス・コンスタンティヌー大通りの暗渠(あんきょ)となっています。
デルフィニオン(アポロン・デルフィニオスの神殿)
(写真:同年同月、東より撮影)
現在、オリュンペイオン南壁の直ぐ南に発掘されたこの神殿(前5世紀:ドーリス式)が、パウサニアス(1.19.1)にデルフィニオスを添え名とするアポロン神殿と言及されたデルフィニオンと同定されています。
デルフィニオン法廷
(写真:同年同月、西より撮影。)
同様に、上記デルフィニオンの西側に数室の部屋を備えた付属建造物が、デルフィニオンの法廷と同定されています。
パウサニアス(1.28.10)は、この法廷では正当な理由があって殺人を犯したと主張する者たち(合法殺人)の審判が行われると述べています。(『アテナイ人の国制』57.3にも同様の記事が見られます)
ハドリアヌスの門
(写真:1989年10月南東より撮影)
ハドリアヌスの門は、アクロポリスの南東、後2世紀のローマ皇帝ハドリアヌス帝時代に建てられた高さ約18mの簡素な凱旋門です。
アクロポリスに面した側には「これはテセウスの古都アテネである」と、後ろ側には「これはテセウスのものではなくハドリアヌスの都市である」という碑文が刻まれています。
ギリシア文化の熱狂的愛好家として知られるハドリアヌス帝の思いが、この碑文によく現れています。
また、彼はローマ皇帝としては珍しく、ギリシア風の髭を生やしていました。
大英博物館保存のミュロンの「円盤投げ」の模刻も、彼の別荘跡から発見されました。
現在、この門は,自動車の行き交う大通りの脇に立っています。
リュシクラテスの合唱隊記念碑
(写真:1988年2月撮影)
リュシアスクラテスの合唱隊記念碑は、前334年にアカマンティス部族が少年合唱隊の部で優勝した際に、出資者であったリシュクラテスが建立した物です。
円筒状の記念碑の外壁にはコリント様式の円柱が配され、その上部には鼎の浮彫が、さらにその上のフリーズには海賊をイルカに変えるディオニュソス神の姿が表現されています。
アテネでは、大ディオニュシア祭など、年に何度か催される祭典で劇の上演や合唱競技が行われました。
合唱競技では、部族ごとに合唱隊が組織されて優劣を競いましたが、その際、それぞれの合唱隊には富裕市民が一人ずつ合唱隊奉仕者として割り当てられ、出資者もしくはプロデューサーの役を果たしました。
この競技で優勝するのは、合唱隊奉仕者にとっては大きな名誉だったので、しばしば、こうした優勝記念碑が建立されました。
また、ここは19世紀初頭に、バイロンが一時書斎として使い、『チャイルド・ハロルドの遍歴』の執筆の場となったことでも知られています。
その他のアテネ市内の遺跡
フィロパポスの記念碑
(写真下:1988年2月撮影.)
アクロポリスの南西には、フィロパポスの丘(ムウサイ)の丘があり、その頂には後116年に建てられたローマ時代の執政官フィロパポスの記念碑があります。
ここは、アクロポリスとパルテノン神殿の雄姿を一望する絶好の場所となっていて、最初に掲載した「アクロポリスの全景」の写真も、ここから撮影したものです。
<プニュックスの丘>
(C.Mee & A.Spawforth, 2001に加筆)
民会議場の演壇
(写真:1988年2月北より撮影.)
アテネの民会議場は、前460年頃、オリーブ林に囲まれたアクロポリスの西のプニュックスの丘に建設され、以後2度にわたって拡張改修がなされました。
ちなみに、民会は、アテネの成年男子市民が集う全体集会で、名実ともに国政の最高決議機関であり、民会議場は岩盤を刻んで作られた露天の集会場で、演壇を要の位置に置いて、聴衆席が扇形の形をしています。
その面積は、5,550平方m、収容人員は約13,800人ほどと見積もられています。
写真の演壇は、石灰岩の岩盤を階段状に切って作ったもので、1mぐらいの高さで、3段の階段の上に演壇があります。
現在、民会の遺構は自由に入ることができ、演壇の上に立つとはるか右手背後にパルテノン神殿を眺めることができます。
(2017. 8. 16:改)
ケラメイコス Kerameikos
<ケラメイコス>
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001を一部改変、加筆)
ケラメイコスの墓域
(写真:1988年5月、西より撮影)
アゴラの北西にケラメイコスと呼ばれる地区があります。
この名称は、古代にケラメウス(陶工)の工房が集中していたことに由来していると言われていますが、パウサニアス(1.3.1)には、ケラメイコスの名称は、ディオニュソスとアリアドネの息子の半神ケラモスに由来すると言う伝えを記しています。
(ただし、パウサニアスの時代には、ケラメイコスは前述の市内のアゴラのことを指していました。)
このあたりは、都市壁(港ピレウスまでの長城を含む)によって囲まれた古典期のアテネ中心市の北西端にあたります。
城壁の主門であった「二重門ディピュロン(トリア門)」や秘儀で有名なエレウシスの聖域に通じていた「聖門」の跡も発見されています。
しかし、ケラメイコスの遺跡としての重要性は、その城壁外に前11世紀から古代末期まで、アテネの最も重要な墓域が存在したことです。
遺跡は、1868年にギリシア考古学協会によって発掘が開始され、その後、20世紀初頭から在アテネドイツ考古学研究所によって調査が進められ、さまざまな時代の墳墓の発掘は、古代アテネの葬制についてきわめて重要な知見をもたらしました。
テミストクレスの城壁
(写真:同上、東より撮影)
遺跡は城壁の外と内に大きく別れています。
このテミストテレスの城壁は、ペルシア戦争後の前478年に将軍テミストクレスによって最初に構築されてから、数次にわたって改修が加えられたもので、その過程は、基礎部の石積みの様式の変化によって追うことができます。
ディピュロン(二重門)
(写真:同上、北西より撮影)
アテネの中心市を囲む城壁の主門であった「トリア門」は、その入り口が二重構造になっていることから、「ディピュロン(二重門)」と呼ばれていました。
外から門をくぐると市内側左手(東側)に泉場が付属し、西側には隣接してエレウシスに通じる「聖道(ヒエラ・オドス)」のくぐる「聖門」があります。
また、市門ディピュロンから郊外アカデミアに至るアカデミア街道(1.5Km)の左右沿道は、前5世紀以降、国葬被葬者(戦没者や国家功労者)を弔う国営墓地となっていました。
パウサニアス(1.29.3-6)は、最初にトラシュブロス(前403年の「三十人僭主」打倒の中心人物)の墓を、次にペリクレス、カブリアス(前4世紀前半の著名な将軍)、フォルミオン(前5世紀中頃の著名な将軍)の墓を、さらに少し離れてクレイステネスの墓の名を挙げています。
市門寄りの一角には、トラシュブロス以下の特別の国家功労者の個別墓が集中していました。
ポンペイオン1
(写真:同上、南東より撮影)
市壁内のディピュロン門と聖門との間の区画で発掘されたポンペイオンの遺構(55.3m×30.1m)。
写真は、プロピュライア(前門)と列柱廊(前4世紀)。
同上2
(写真:同上、南東より撮影)
中庭に面した列柱廊(西側)の一部(前4世紀)。
後方に見えるのが、アイア・トリアダ教会。
同上3
(写真:同上、東より撮影)
中庭に面した列柱廊(東側)の一部(前4世紀)。
後方に見える遺構は、前86年のスラによる破壊の後に、2世紀半頃(ハドリアヌスの時代)に再建されたもの。
アテネでは、毎年8月の夏の盛りに、守護神アテネの生誕を祝ってパンアテナイア祭が執り行われました。
その際に、このポンペイオンを出発して、大通り「ドロモス」からアゴラを通ってアクロポリスまで、選ばれた人々が着飾って祭礼行列(ポンパイ)を行いました。
前6世紀中頃からは、4年に一度の大祭(大パンアテナイア祭)もおこなわれるようになり、大祭では選ばれた少女たちによって綴られた外衣(ペプロス)がアテネ女神に奉納されました。
パウサニアス(1.29.1)は、祭礼行列のために作られた船に言及していますが、ある時期以降、アテナ女神に捧げる外衣を帆のように張って行列の先頭を行く船が、最大の出し物となりました。
泉場
(写真:同上、南西より撮影)
ラケダイモン人(スパルタ人)の墓
(写真:同上、東より撮影)
前403年に殺害されたスパルタ人の司令官の墓。
境界石(ホロス)
(写真、同上、北西より撮影)
ラケダイモン人の墓の側の境界石。
石の表面に「ホロス・ケラメイクゥ(ケラメイコスの境界石)」と刻まれています。
こうした、境界石が遺跡のあちらこちらに見られます。
聖道
(写真:同上、南東より撮影)
トリトパトレイオン
(写真:同上、南より撮影)
トリトパトレイオン(トリトパトレスの神域)の遺構。
トリトパトレス(言葉の意味は「曾祖父」)は、風の神や人類の始祖とも言われ、その高い生殖能力が崇拝され、恐らく、オルフェイス教の儀式として、未婚の少年たちのために祈りが捧げられました。
墓の道
(写真:同上、北西より撮影)
デクレシオスの墓碑
(写真:同上撮影)
デクレシオスの墓碑(ケラメイコス博物館蔵)。
騎上の若者は、碑文から前394年に戦死したトリコス区リュサニアスの子デクレシオスであることがわかります。
アテネでは戦没者は合葬されるしきたりでしたが、デクレシオスの親族はそれに満足せず、ケラメイコスに空墓を造営しました。
こうした墓碑が道路の脇に建ち並んでいました。
大きなレキュトス型の墓碑(複製)
(写真:同上、撮影)
白地レキュトスは葬式で供え物の油を入れるのに使われた陶器で、こうした大きなレキュトスなども飾られています。
このレキュトス型墓碑は、表面に描かれた人物アリストマケ(腰掛けている人物:死者)のもの。
ケラメイコスの遺跡は、少し市内の喧噪を離れた郊外にあり、静かな古代の墓域の雰囲気を今に残していて、付属のケラメイコス博物館も、小さいながらここから発掘された貴重な遺物が多数保管されています。
また、この静謐な墓域の一角で、前431年冬に催された戦没者国葬の式典で、将軍ペリクレスが行った演説(トゥキュディデス 2.35-46)は、アテネ民主政の理想を説いたものとして広く知られています。
(2017.8.9:改)
ピレウス Piraeus
アテネの中心から地下鉄で20分ほどの所にあるピレウスの港は、大港(カンタロス港)、ゼア港、ムニュキア港という三つの港からなっていて、現在も大型船がひっきりなしに出入りする、ギリシア第一の港として活況を呈しています。
古代には、ペイライエウスと呼ばれていました。
メリナ・メルクーリ主演の、映画「日曜はダメよ」の舞台になった港町としても有名ですが、残念ながら、現在、ピレウスには見るべき遺跡はほとんど残されていません。
<ピレウス>
(周藤芳幸編, 2003に加筆)
古代の市門
(写真:1988年10月、西より撮影。)
アテネからの長城の終点、古代の市門の遺構です。
テミストクレスの城壁
(写真:1987年12月撮影。)
ペルシア戦争中に、将軍テミストクレスによって作られた城壁です。
前5世紀の半ばになると、ペイライエウス(ピレウス)は、二つの平行する城壁によってアテネの中心市と結ばれました。
ケラメイコスの遺跡でも紹介した城壁で、このように、城壁の一部が今も市内各所に残っています。
コノンの城壁
(写真中央:1987年12月撮影)
アテネの城壁は、ペロポネソス戦争敗北時に、スパルタによって破壊されましたが、この城壁は、前4世紀に、コノンによって再建されたもので、今もピレウスのアクテ半島沿岸によく残っています。
ゼア劇場
(写真:1988年10月東より撮影)
ゼア港に隣接するピレウス考古学博物館の隣には、ヘレニズム時代のゼア劇場の跡がわずかに残っています。