デロス島(現ディロス島) Delos
エーゲ海の中心部には、キュクラデス(環状)諸島(「環」を意味するギリシア語のキュクロスに由来)と呼ばれる島々が占めています。
小アジア、ギリシア本土、クレタ島を結びつける地の利を生かし、早くから繁栄し初期青銅器時代から独自のキュクラデス文明を築きました。(大理石製の小偶像「キュクラデス人形」は有名。下記写真参照。)
デロス島は、そのキュクラデス諸島の中心とみなされていました。
エーゲ海観光地のメッカとして知られるミコノス島から観光船(艀)に揺られること40分あまり、岩だらけの無人島デロスは(面積5平方km)、双子のアポロンとアルテミスの生誕の地であり、古代にはデルフォイと並ぶアポロン神の聖地として知られていました。
『オデュッセイア』(6.148-185)には、ナウシカの美しさをデロス島のアポロン神の祭壇の側のナツメヤシの若木に例えており、前8世紀には、すでにデロス島でアポロン信仰が確立されていたようです。
また、ホメロス風の「アポロンへの賛歌」(前7世紀頃中頃成立)には、この島がギリシア人の中でもとりわけイオニア人と呼ばれる人々の崇拝を集めていたことが唱われています。
そのため、前6世の後半にアテネの勢力が興隆してくると、イオニア諸都市の母市であることを喧伝するアテネによって、この聖域は政治的に利用されていくことになります。
それが最も典型的な形で現れたのが、ペルシア戦争後、前5世紀のデロス同盟の結成です。
前454年、同盟の金庫がアテネに移され、その財源がアクロポリスのパルテノン神殿の建設に流用されるなど、アテネの帝国化としてアテネの繁栄を支えた事はよく知られています。
アテネの覇権への野望がついえた後もアテネとデロスの関係は続き、ヘレニズム時代の後半には、東地中海交易の拠点として繁栄を極めましたが、(奴隷貿易などで有名)ローマ時代になると海賊の略奪や海上路の変化などにより次第に衰退していきました。
こうしてデロス島は人々から忘れられて、フランスが発掘を始めるまで(1873年)長い眠りにつくことになりました。
<デロス島のプラン>
(周藤芳幸編, 2003より)
キュクラデス人形 「笛を吹く人(複製)」
(写真:前2000年頃。キュクラデス諸島のシロス島出土。アテネ国立考古学博物館蔵)
デロス島の聖域は、島の西北部に集中しています。
デロス島
(写真:1989年4月、船上(北西)より撮影。)
古代の「聖なる港」は写真中央にあり、後方にはキュントス山(標高113メートル)がそびえています。
聖なる港と海岸地域
(写真:同年同月、北西より撮影。)
ミコノスからの観光船は、古代のギリシア人と同じく「聖なる港」(現代の船着き場)に到着します。
イタリア商人たち(コンピティアリスト)のアゴラ
(写真:同年同月、北西より撮影。)
船着き場からゲートをくぐって遺跡に入ると、目の前にはローマ時代の四つ角の神「ラレス・コンピタレス」を祀っていた石畳の広場(「 イタリア商人たち(コンピティアリスト)のアゴラ」)があります。
その左(東側)に広がるのが、アポロン神殿の聖域です。
フィリッポス5世の柱廊
(写真:同年同月、北西より撮影。)
「聖道」に沿って海側(西側)に、マケドニア王フィリッポス5世(前3世紀末から2世紀初頭にかけてローマと抗争)のアポロン神に奉納した柱廊があります。
石材には、「マケドニア人の王フィリッポス……」という碑文が残っています。
南の柱廊
(写真:同年同月、南より撮影。)
「聖道」向かい側には、前3世紀に建造された「南の柱廊」があり、その東には「デロス人のアゴラ」が広がっていました。
プロピュライア
(写真:同年同月、南南西より撮影。)
「聖道」の突き当たりには、三段の階段を持つ聖域の玄関口である「プロピュライア(前門)」(南西側)の遺構が残っています。(前2世紀半ば、アテネ人により建造)この階段を上がるとアポロン神の聖域が広がっています。
アポロン神像(クーロス像)の台座とナクソス人のオイコス(家)
(写真:同年同月、北西より撮影。 )
写真手前の長方形の石(ナクソス島の大理石)は、ナクソス人がアポロン神に奉納した旨の碑文を持つ巨大なアポロン神像(クーロス像)の台座(前7世紀:ただし、碑文は再建時の前4世紀のもの)。
後方は、ナクソス人のオイコス(家)と呼ばれる建物の遺構。
デロス人のアポロン神殿1
(写真:同年同月、東より撮影。)
同上2
(写真:同年同月、北東より撮影。)
アポロンの聖域では、アポロン神の三つの神殿(「デロス人のアポロン神殿」、「アテネ人の神殿」、「ポロス石の神殿」)が立ち並んでいます。(三神殿とも西向き)
「デロス人のアポロン神殿」は、南端に位置しています。
三つの神殿の中で最も大きなドーリス式の神殿で、デロス同盟結成の際(前487年)にアテネ人によって着工されましたが、最終的にはデロス人によって前4世紀の末に完成しました。
アテネ人の神殿
(写真:同年同月、南東より撮影。 )
上記のデロス人のアポロン神殿の北隣に建てられた、ペンテリコン山の大理石によるドーリス式の神殿。(三つの神殿の中央)
前425年アテネ人によって着工され、前417年に将軍ニキアスによって奉納されました。
さらに、アテネ人の神殿の北隣には(北端)、最も時代の遡るイオニア式の「ポロス石の神殿」(前6世紀建造)の基礎部が残っています。
ここには、デロス同盟の結成時からアテネに移されるまで(前455年)、同盟の金庫が保管されていました。
アルテミス神殿と聖域の柱廊
(写真:同年同月、東より撮影。)
一連のアポロン神殿の北西に、イオニア式の柱廊で囲まれたアルテミスの聖域があります。
写真は、その中央のヘレニズム時代のイオニア式のアルテミス神殿の礎石です(前2世紀)。
この神殿の歴史は古くミケーネ時代に遡り、この神殿の下からはミケーネ時代の奉納品が多数発見されています。
アポロン神像(クーロス像)の一部
(写真:同年同月、北西より撮影。)
アルテミスの聖域の付近には、上述のナクソス人の奉納した巨大なアポロン像(クーロス像)の大きな破片がいくつか置かれています。
これは、15世紀にヴェネチア人が運びだそうと試みて放棄したものです。
アンティゴノス・ゴナタスの柱廊
(写真:同年同月、西より撮影。)
アポロンの聖域の北側は、マケドニアの王アンティゴノス・ゴナタスが寄進した柱廊によって画されていました。
ミケーネ時代の墓
(写真:同年同月、西より撮影。)
上記のアンティゴノス・ゴナタスの柱廊の中ほどには、ミケーネ時代の墓の遺構が見られます。
レト神殿
(写真:同年同月、南西より撮影。)
聖域の北側には、海側(西側)から「ポセイドンの柱廊」、「十二神の神殿」、次いでこのアポロンとアルテミスの母を祀った「レト神殿」(前古典期)の遺構が残っています。
イタリア人のアゴラ
(写真:同年同月、西北西より撮影。)
レト神殿の東に広がっている「イタリア人のアゴラ」の一部。(前2世紀末建造)広場に面した側には部屋が、外側の街路に面しては商店が並んでいました。
ライオン像のテラス
(写真:同年同月、北東より撮影。)
「イタリア人のアゴラ」から北へ向かう道には、前7世紀末にナクソス人によって建てられたライオン像(ナクソス島大理石製)が並んでいます。
原位置に残っているのは五体だけですが、かっては聖域を守護する「狛犬」のように、少なくとも九体が威容を誇っていました。
聖なる湖
(写真:同年同月、北西より撮影。)
アポロンの聖域の北側奥、ライオン像が見守っているのが、アポロンの「聖なる白鳥」が遊んだ「聖なる湖」(現在は1924年にマラリアが発生したために干拓されています)。
中央に(写真の左端)ナツメヤシが植えられているのは、レトがアポロン神を生むときに椰子の木にすがった故事を再現しています。
写真右端はキュントス山。中央の建物は、デロス島から発掘された彫刻などを展示している博物館です。
ポセイドン組合の柱廊
(写真:同年同月、南より撮影。)
「聖なる湖」の西側には、ベイルート商人たちの建てた「ポセイドン組合の柱廊」が復元されています。
(ポセイドン組合とは、ベイルートでポセイドン神を信仰した商人たちの組織です。)
シリアの神々の聖域の劇場
(写真:同年同月、南より撮影。)
キュントス山への斜面を昇った中腹のテラスには、ヘレニズム時代に導入された異国の神々の聖域が広がっています。
前2世紀末の「シリアの神々の聖域」には、周囲を壁で囲まれた「劇場」が付属していました。
イシス神殿
(写真:同年同月、南西より撮影。)
「シリアの神々の聖域」の南には、エジプト系の神々(女神イシスとセラピス神)を祀る聖域があります。
簡素なドーリス式の「イシスの神殿」は、前135年、アテネ人により修復、寄進されました。
セラピス神殿
(写真:同年同月、南より撮影。)
「イシス神殿」の近くには、イシスと対になって崇拝されたセラピス神殿が建立されていました。
ヘライオン(ヘラ神殿)
(写真:同年同月、南西より撮影。)
「セラピス神殿」の南に、二本の円柱が復元された前古典期の「ヘライオン(ヘラ神殿)の遺構があります(前7世紀に遡る古い神殿の跡に、前500年頃建立)。
キュントス山頂への「聖なる道」
(写真:同年同月、撮影)
頂上へ昇る途中には「フィラデルフェイオン」(プトレマイオス2世フィラデルフォスが、妻であり実姉アルシノエ2世を神格化して祀った神殿)の遺構が残っています。
キントス山頂から眺めた遺跡群
(写真:同年同月、南東より撮影。)
港の東南の「キュントス山頂」からは、デロス島の遺跡群とキュクラデス諸島を一望することができます。
また、山頂には「ゼウスとアテナの聖域」や前2千年頃からの居住跡が発掘されています。
劇場
(写真:同年同月、東より撮影。)
キュントス山の山麓には、前3世紀初に築かれた「劇場」の跡が残っています。(約5千5百人収容)
貯水槽
(写真:同年同月、北より撮影。 )
「劇場」の西には、座席を流れる雨水を集めていた「貯水槽」が残っています。
ディオニュソスの家
(写真:同年同月、西より撮影。)
「劇場」下から海辺までの地区は、ヘレニズム時代の古代の街並みと商業地域に供せられた一帯です。
写真の「ディオニュソスの家」、「仮面の家」、「ドルフィンの家」など、中庭を美しいモザイク(下記写真参照)で飾られたヘレニズム時代の家屋が密集しています。
ディオニュソスの家のモザイク
(写真:同年同月、撮影。 )
クレオパトラの家
(写真;同年同月、撮影。 )
夫婦の彫像(複製:オリジナルは博物館蔵)を残す「クレオパトラの家」。
(2016.5.8)
パロス島 Paros
フェリーが発着する島の西の海岸に位置するパリキア(パロス)は、真っ白な家が並ぶエーゲ海の魅力にあふれる街並みです。
ここが島の中心、古代パロスです。
有名な「ミロのビーナス」(ルーヴル美術館蔵)をはじめとして、古代の彫刻は純白の上質な大理石を素材としています。
この最高級の大理石の産地が、ここパロス島です(面積166平方km)。
パロス大理石は有名で、ナポレオンの墓石も提供するなど、19世紀の中頃まで採掘されていました。
古代の大理石の採掘場跡は、島のほぼ中央に位置しており、プロフィティス・イリアス山(標高771m)のスロープに残っています。
パリキア(パロス)の街外れには、コンスタンティヌス帝の母、聖ヘレナの創建によると伝えられる、いくつかの礼拝堂を持つ複雑な構造のカタポリアニ教会が建っています。
また、港を見下ろす小さな丘には、廃墟となった13世紀のヴェネチアの砦が残っています。
この丘には、デメーテル神殿が建っていましたが、神殿の石材は砦に転用され、今は、聖コンスタンティノス教会の礎石を残すのみとなっています。
さらにパリキアの南の丘のテラスには、アスクレペイオン(医神アスクレピオスの神殿)の遺構が、島の北端に位置するナウサ村(パリキアから約10.5km)への道の途中の丘(カストロ)には、デーリオンのアルテミスの聖域が残っています。
また、ナウサ村の近くのククナリエスの丘では、ミケーネ時代の集落や幾何学紋様期の神殿が発掘されています。
古代パロスは、抒情詩人アルキロコス(前714から前676年)の生誕の地で、教会の近くの博物館には、この島出土の様々な遺物(デーリオンのアルテミス像、パロス大理石碑文など)と共に、アルキロコスのモニュメントの柱頭が展示されています。
パロス港
(写真:1988年7月、船上より撮影。)
古代の採石場1
(写真:同年同月、撮影。)
同上2
(写真:同年同月撮影。)
坑道の入り口
(写真:同年同月、撮影。 )
マラシィにある古代の採石場の跡と坑道の入り口。
採掘場では、古代の採掘人たちのノミの跡が至るところで見られます。
また、長いものでは100mにもなる地下の坑道なども残っています。
アスクレペイオン
(写真:同年同月、南南西より撮影。)
デーリオンの丘(カストロ)
(写真:同年同月、南より撮影。)
デーリオンのアルテミス神殿
(写真:同年同月、南南東より撮影。)
デーリオンよりパロス港を望む
(写真:同年同月、北より撮影。 )
デーリオンのアルテミス像
(写真:同年同月撮影。)
デーリオンから発掘された土台を持つアルテミス像の部分(前490から80年頃。博物館蔵)。
パロス大理石碑文
(写真:同年同月、撮影。)
パロス大理石碑文(パロスの年代記を記した碑文)の断片(博物館蔵)。
アルカイック期のイオニア式柱頭
(写真:同年同月、撮影。)
前6世紀(博物館蔵)
走るゴルゴンのレリーフ・ステレー
(写真:同年同月、撮影。)
前530から500年頃(博物館蔵)。
(2016.5.10)
ナクソス島 Naxos
パロス島の東に位置するナクソス島は、キュクラデス諸島最大の島です(面積430平方km)。
内陸部は、南のザス(ゼウス)山(標高1004m:キュクラデス諸島で最高。)を筆頭に、中央にファナリ山(930m)、北にコロノス山(1000m)が連なり、オリーブやオレンジ、レモン、ぶどうなどの果樹が実る緑豊かな谷によって、雄大で変化に富んだ地形となっています。
また、良質のワインと、パロスに劣らない大理石の産地としても有名で、特にアルカイック期には、ナクソス大理石は古代の彫刻家によって、彫刻の材料として用いられました。
神話では、テーセウスがクレタからアテネへの帰途、アリアドネを捨てた島として謳われ、歴史時代には、古典期には有力なポリスを擁し、中世にはナクソス公領(ヴェネチア支配下)として他の島々を従えていました。
中心市の古代ナクソス(ホーラ)は、島の西側に位置し、港の入り口には突堤で結ばれた小さな島があり、ここには前古典期のアポロン神殿の巨大な玄関部分が復元されています。(下記写真1)
また、ナクソス(ホーラ)は、古代の中心市として、また中世にはヴェネチアの拠点として繁栄し、カストロの高台(古代のアクロポリス:写真2)には古代のアゴラの跡(写真3)と共に中世の建物が残っています。
その建物の内の一つ、ウルスラ修道院付属学校の建物(クレタ生まれの作家ニコス・カザンツァキスも幼年期に学んだ)は、現在博物館として利用されています。(写真4:「キュクラデス人形」などの多くの遺物を展示。)
また、上述のように古代のナクソスでは、大理石を利用したクーロス(男性)像の彫刻などが製作されており(デロス島のアポロン像が有名)、島の北端アポロナの古代の石切場には未完の巨大なクーロス像が横たわっています(写真5)。
(内陸のメラネスの石切場にも2体残っています。写真6)
アポロン神殿の扉
(写真1:1988年7月、北西より撮影。)
ナクソスの入り口の島のアポロン神殿の復元された扉です。
後方に、民家の密集する古代のアクロポリスが見えます。
ナクソスの港とアクロポリス
(写真2:同年同月、アポロン神殿の前、北西より撮影。 )
写真右手がナクソスの港。
そして、中央の民家が密集している丘が、古代のアクロポリスです。
夕陽に浮かぶアポロン神殿
(写真:同年同月、南東より撮影。)
アポロン神殿の扉が、小島の中央に見えています。
ミケーネ時代の建物の遺構
(写真:同年同月撮影。)
市内では、こうした発掘の跡がいくつか見られます。
古代のアゴラの跡
(写真3:同年同月撮影。 )
アクロポリスに残る古代のアゴラの遺構です。
ナクソス考古学博物館の入り口。
(写真4:同年同月撮影。)
幾何学様式時代の墓
(写真:同年同月、北より撮影。 )
島の内陸中央部、ツィカラリオ(アパノ・カストロ)に残る幾何学時代の墓。
ここには、数多くの墓が残っています。
アポロナの未完のクーロス巨像1
(写真5:同年同月、撮影。)
同上2(頭部)
(写真:同年同月、撮影。 )
島の北端アポロナ村の古代石切場に放置されたままになっている巨大なクーロス(男性)大理石像(約10m)。
石切場の現場で荒削りをして、海上に搬出する予定になっていたようですが、亀裂が入って放置されたもので、あごひげを蓄える特異な姿で、ディオニュソスの像と推定されています。
アポロナ村を遠くに望む風景
(写真:同年同月、南より撮影。 )
中央奥の微かに見える白い塊が、現在のアポロナ村です。
アポロナ村の町並み
(写真:同年同月、クーロス巨像前、南西より撮影。)
メラネスの未完のクーロス像
(写真6:同年同月、西より撮影。 )
島の内陸、中央部のメラネス村の石切場に放置されたクーロス像の一つです。
メラネス近郊の景色
(写真:同年同月、西より撮影。)
(2016.5.12)
ミロス島 Milos
「ミロのビーナス(アフロディーテ像)」で有名なミロス島(古代名メロス島)は、キュクラデス諸島の南部に位置する火山島です。
古代より、この島の特産品である黒曜石の採掘で栄え、原石は細長い石刃などに加工されて、斧やナイフの刃先として用いられました。
島の中心ミロス(プラカ)の町は、フランク族によって作られた城塞カストロを見上げる位置にあり、そこには小さな考古学博物館があり、古典期・ローマ時代のメロスから発見された彫像や碑文、また先史時代におけるこの島の中心市フィラコピ遺跡の発掘品を保存しています。
「ミロのビーナス(アフロディーテ像)」が発見されたのは(1820年)、古代のアクロポリスのはずれのギムナシウムの遺跡(スタディオン)脇からでした。
その近くでは城壁の跡、ローマ時代の劇場跡、古代のアゴラ、ローマ神殿の跡などを見ることができます。
さらに、3世紀の初期キリスト教時代のカタコンベも残っています。
フィラコピ遺跡は、島の北東部にあり、一部を海に侵食されてしまっていますが、発掘された街並みは、青銅器時代に栄えた都市の面影を伝えています。
スタディオンとアクロポリス
(写真:1989年9月、プロフィティス・イリアス山より(北東より撮影。)
左側に馬蹄型のスタディオン、右手奥が古代のアクロポリス。
「ミロのビーナス」は、スタディオンの入り口付近で発見されました。
ミロのビーナス発見地
(写真:同年同月、北東より撮影。)
スタディオンの東門。「ビーナス発見地」のプレートが架かっています。
劇場1
(写真:同年同月、北西より撮影。)
ローマ時代の劇場の跡。後方に見える集落はクリマ村(古代の港)。
同上2
(写真:同年同月、西より撮影。)
城壁
(写真:同年同月、西より撮影。 )
右中央に城壁の跡、左後方はトリピティ村。
アゴラ
(写真:同年同月、西より撮影。)
古代のアゴラの跡には、ローマ時代の神殿と推定される建物の跡が残っています。
黒曜石の採石場跡
(写真:同年同月撮影。)
中部北岸近くのスタ・ニキア山にある黒曜石の採掘場の跡。
黒曜石が採掘された跡の岩が、空洞の窯のように残っています。
周囲は、黒曜石の鉱脈や小片で黒くなっています。
フィラコピ遺跡1
(写真:同年同月、西より撮影。 )
島の北東部フィラコピでは、初期青銅器時代からミケーネ時代に連続する集落が発掘されています。
同上2
(写真:同年同月、北西より撮影。)
遺跡の北側に位置するメガロン(前室と主室からなる長方形の建物プラン:ミケーネ時代の宮殿主体部)の遺構。
同上3
(写真:同年同月、撮影。)
メガロンの遺構を南より撮影。
同上4
(写真:同年同月、東より撮影。)
ミケーネ時代の「聖域」(神殿)の入り口と付属の建物の遺構。
フィラコピ遺跡の絶壁
(写真:同年同月、北北東より撮影。)
遺跡は、波によって一部が浸食されています。
(2016.5.13)
サントリーニ(テラ)島 Santorini(Thira)
キュクラデス諸島の最南端に浮かぶ孤島サントリー二島(古代名テラ島。サントリーニの名称は4世紀初頭、テサロニキで殉教した聖女エイレーネに由来。島の面積76平方km)は、前17世紀の後半の大爆発により中央部が吹き飛んだカルデラ島です。
今日では、サントリーニ本島の他にテラシア島とアスプロニシ島が内側に絶壁を連ねて環状に続き、その中には新旧二つのカメニ島が黒々とした溶岩をむき出しにして並んでいます。
この爆発によって火山灰の下に埋没した「エーゲ海のポンペイ」と呼ばれるアクロティリ遺跡(ミノア文明の都市遺跡)が、島の南西部現在のアクロティリ村近郊で発掘されています。
遺跡は、ギリシアの考古学者S.マリナトスが発掘し(1975年発掘中に転倒死)、F.ドゥーマス教授が調査を続けています。
家屋は地震とそれに続く火山噴出物降下により破壊されていますが、外壁は二階、三階の高さまで残り、土器や壁画の保存状態も抜群で、建築史や美術史にとっても貴重な遺跡です。(アクロティリ出土の土器などは、島の中心フィラの町の考古学博物館に展示されています。)
特に、注目されるのが、いくつかの部屋を飾っていたフレスコ壁画で、のびやかな筆致で描かれた風景や人物像からは、ミノア文明を享受していた人々の豊かな暮らしぶりが生き生きと甦ってきます。
(アクロティリ出土の数々のフレスコ壁画は、アテネ、国立博物館に保存されています。
また、島の東南メサ・ブノ山の頂上には、古典期からヘレニズム期にかけて繁栄した、スパルタの植民による古代のポリス、テラの遺跡が残っています。
サントリーニ(テラ)島1
(写真:1988年7月、撮影。)
アクロティリ近郊のバロス湾より、サントリーニ島を望む。
同上2
(写真:1988年7月、湾内から撮影。)
断崖絶壁の上に、島の中心市フィラの街並みが見えます。
新カメニ島
(写真:同年同月、撮影。)
島の大爆発により中心部が陥没してできた巨大なカルデラの中に、歴史時代になって溶岩が噴出して生まれた二つのカメニ島の一つ。
アクロティリ遺跡1
(写真:同園同月、南西より撮影。)
三角形の広場。左側の建物は「西の舘」と呼ばれ、興味深い「船団図」や「漁夫」、「女神官」などのフレスコ画が発見されました。
同上2
(写真:同年同月、北西より撮影。)
「デルタ・ブロック(建築複合D)」と呼ばれる、部屋数の多い大邸宅の東側。
写真中央の2号室には、見事な「百合のフレスコ画」が描かれていました。
同上3
(写真:同年同月、北東より撮影。)
「デルタ・ブロック(建築複合D)」の北側に残る崩れた階段。
噴火の後の地震による爪痕が生々しく残っています。
アルテミドロスの記念碑(古代テラの遺跡1)
(写真:同年同月、撮影。)
メサ・ヴノ山頂の古代テラ市の遺跡。
プトレマイオス朝は、前3世紀の後半、テラ島に海軍基地を設けエーゲ海支配の拠点としました。
提督アルテミドロスは、岩にドルフィンと共に自分の顔のレリーフを彫らせています。
アルテミドロスの聖域(古代テラの遺跡2)
(写真:同年同月、撮影。)
写真左手に、ライオンと鷲のレリーフが残っています。
守備隊のギムナシウム(古代テラの遺跡3)
(写真:同年同月、北北東より撮影。)
プトレマイオス朝の守備隊の建物に付属していたギムナシウムの遺構。
北のアゴラ(古代テラの遺跡4)
(写真:同年同月、北より撮影。)
ディオニュソスの神殿(古代テラの遺跡5)
(写真:同年同月、東より撮影。)
北アゴラの西にディオニュソスの神殿の遺構が残っています。
王のストア(古代テラの遺跡6)
(写真:同年同月、西北より撮影。)
ディオニュソス神殿の南に位置。
長さ40m、幅10mの建物で、内部にドーリア式の列柱が残っています。
プトレマイオス朝の時代に建造され、ローマのトラヤヌス帝の時に屋根が修復され、さらに150年に改築されています。
南のアゴラ(古代テラの遺跡7)
(写真:同年同月、西より撮影。)
王のストアの東に位置。
エジプトの神々の聖域(古代テラの遺跡8)
(写真:同年同月、南より撮影。)
劇場(古代テラの遺跡9)
(写真:同年同月、西より撮影。)
ローマ時代の劇場の遺構。
舞台の向こうにエーゲ海を見下ろすことができます。
アポロン・カルネイオス神殿(古代テラの遺跡10)
(写真:同年同月、東南より撮影。)
前6世紀頃建造。
エフェボイ(若者)のギムナシウム(古代テラの遺跡11)
(写真:同年同月、撮影。)
古代テラ市の南端、アポロン・カルネイオス神殿の南に位置。
少年愛の落書き(古代テラの遺跡12)
(写真:同年同月、撮影。)
ギムナシウム近くの岩肌には、少年愛の対照となった多くの若者の名前が落書きされています。
祭典のテラス(古代テラの遺跡13)
(写真:同年同月、撮影。)
このテラスは、ドーリス人の祭式の最も古い宗教的センターです。
ここでは、アポロン・カルネイオス神(上記10)を祝うために、裸の若者のダンスが執り行われました。
若者の名前の落書き(上記12)は、こうした踊り手への求愛者の落書きです。
古いものは前7世紀に遡ります。
ローマ時代の浴場(古代テラの遺跡14)
(写真:同年同月、北より撮影。)
エフェボイのギムナシウムの北東に、ローマ時代の浴場の遺構が残っています。
(2016.5.19)
ケオス(現ケア)島 Keos(Kea)
ケオス島はキュクラデス諸島の内、最もアッティカに近い島です。
(スニオン岬から21km。ピレウスから64.5km)
古代ケオス島は、初期にはイオニア人が住んでいました。
ヘロドトス(8.1.46)によれば、サラミスの海戦に際して、ケオスの船はギリシア側に立って戦っています。
この島にあった4つの都市(ポリス)の一つイウリスは、叙情詩人シモニデス(前556-前468)や同じく抒情詩人バッキュリデス(前481-前431年)、さらにソフィストのプロディコス(前470/60年頃—前4世紀初期)、医学者エラシストラトス(前3世紀の初期・中期)、ペリパトス派の哲学者アリストン(前3世紀初期)らの生誕の地です。
また、ケオス島は船体防水剤となるミルトス(代赭石)の生産地で,アテネも盛んに輸入していました。
第2回海上同盟(前4世紀中頃)の時代には、アテネは同盟内のイウリスに対して、自国向けの排他的なミルトス輸入独占権を主張しました。
イウリスの段々畑(大麦畑)
(写真:1989年9月撮影。)
イウリスのライオン像1
(写真:1989年9月、南より撮影。)
同上2
(写真:同年同月、南東より撮影。)
断崖の中腹に、古代のライオン像の彫刻(年代不明)が置かれています。
何となく、笑っているように見えます。
アイア・イリニの遺跡1
(写真:同年同月、南東より撮影。)
同上2
(写真:同年同月、北東より撮影。)
同上(ハウスA)3
(写真:同年同月、南西より撮影。)
同上(神殿)4
(写真:同年同月、西より撮影。)
アイア・イリニの遺跡は、1960年代と70年代に考古学者のJ.L.カスキーのもと、シンシナティ大学の調査チームよって発掘された、ケオス島の北端に位置する先史時代の集落跡です。
後期青銅器時代の初期の家屋(ハウスAからハウスG)、神殿などが発見されています。
(2017.2.18)