メタポントゥム Metapontum
メタポントゥムは、前7世紀、おそらくペロポネソス半島西部のピュロスからの植民によって建国されました。当初はアカイアの植民地シバリスとスパルタのタラス(タラント)の間の緩衝国家として機能していたと思われます。
考古学的証拠によれば、それ以前の先住民の居住地の跡地に建設されたものであり、周辺の土地が農業に適していたこと、ポセイドニア(パェストゥム)やティレニア植民地との交易に適した立地であったことから、都市は繁栄しました。
ピュタゴラスはクロトンから追放された後、ここに学問所を移し、前497年の彼の死後も長く受け継がれる哲学の伝統を生み出しました。第二次ポエニ戦争の際、この都市はハンニバルに味方し、彼は前207年にイタリアから撤退する際、ローマの復讐から住民を守るために避難させました。その後、町はスパルタクスによって略奪されました。
航空調査により、城壁(周囲約6km)の境界線、碁盤の目のような街路計画、一定間隔で設けられた広い大通り、約190m×38mの長方形の島、アゴラ、運河で町と結ばれたバセント河口の人工港湾などが明らかになりました。
<メタポントゥムのプラン>
(P. Blanchard, 2007)
タヴォレ・パラティーノは、ドーリス式六角柱神殿で、古代の植民地の最も広大な遺跡であり、マグナ・グラエキアの最も保存状態の良い遺跡の一つです。おそらくヘラに捧げられた聖域として前6世紀後半に建設され、都市の中心部から3km離れた場所にあります。32本のドリス式円柱のうち、15本が直立したまま残っています。
アーキトレーヴの下部は保存されていますがが、エンタブラチュアは完全に消失しています。しかし、基壇とセラの基礎は多く残っており、セラは不等分に2分割されていたようです。
村から鉄道に沿って北に向かうと(約3km)、劇場と前6世紀のアポロ・リュキウスの聖域があります。考古学者は、断片的な遺構から、この神殿もタヴォレ・パラティーノの神殿と同様、高さ6メートルの32本の円柱を持っていたと推定しています。
遺跡には、A〜Dの神殿の遺構が残っています。ドーリス式の柱頭やアーキトレーブの破片のほか、これらの柱が多数発見され、現在復元作業が進められています
タヴォレ・パラティーノ(ヘラ神殿)1
(写真:1988年9月、東より撮影)
タヴォレ・パラティーノ(ヘラ神殿)2
(写真:同上、北西より撮影)
劇場1
(写真:同上、北西より撮影)
劇場2
(写真:同上、北西より撮影)
アポロ・リュキウスの聖域(神殿A)
(写真:同上、南東より撮影。手前は祭壇)
アポロ・リュキウスの聖域(神殿B)
(写真:同上、南東より撮影)
アポロ・リュキウスの聖域(神殿C)
(写真:同上、西より撮影)
アポロ・リュキウスの聖域(神殿D)
(写真:同上、東より撮影。手前は祭壇)
(2023/11/05)
ヘラクレイア Herakleia
ビザンツ皇帝バシレイオス2世(976-1025)が、南イタリアからイスラム教徒を追い出す前、バジリカータ(「バジルの地」)は古代名ルカニアとして知られていました。今日、数多くの発掘調査が、ギリシア・ローマ世界におけるこの地域の重要性を証明しています。
海に近い平原に横たわるメタポントゥムとヘラクレイア(ポリコーロ)の主要な遺跡には、マグナ・グラエキアのギリシア植民地時代の生活を知ることができる素晴らしい博物館があります。
ポリコーロのすぐ西で、1961年から67年にかけて行われた磁気探査によって、前433年に設立されたタラス(タレントゥム)とトゥリオイの共同植民地、ヘラクレイア遺跡が発見されました。
画家ゼウクシスは前5世紀にここで生まれ、エペイロス王ピュロスは前280年にこの地でローマ軍(象の群れの出現に恐れをなした)に最初の勝利を収めました。
居住区域である遺跡では、竈の跡や主要道路の排水溝などが発掘されています。
居住区域(全景)
(写真:1988年9月、南西より撮影。Zona A)
竈の跡
(写真:同上、東より撮影。Zona A)
住居跡1
(写真:同上、主要道路西より撮影。Zona A)
住居跡2
(写真:同上、南西より撮影。Zona A)
主要道路と排水溝
(写真:同上、南より撮影。Zona A)
(2023/11/07)
クロトン Crotone
前710年、植民都市クロトンは、デルフィの神託によって派遣されたアカイア人たちによって築かれました。その支配権はシバリスとともにマグナ・グラエキアの大部分に及び、イオニア海岸とティレニア海岸の両方に植民地がありました。
ピタゴラス(前540年頃)は、ここを哲学の中心地としましたが、30年後、彼が支持し正当化していた寡頭政治が倒され、追放されました。同じ世紀、クロトンはロクリス人に征服されましたが、ミロ(クロトン人の有名な運動競技選手の一人)の武勇により、前510年にシバリス人を打ち負かしました。その後、前299年にはシラクサのアガトクレスに服従しました。
ハンニバルはローマからの撤退後、この地に上陸しています。
クロトンの南(11km)には、ギリシア神殿のわずかな遺跡(ヘラ神殿:1本の円柱)からその名が付いた、カポ・コロンナ(円柱岬)と呼ばれる岬があります。
ヘラ神殿1
(写真:1988年9月、南より撮影)
ヘラ神殿2
(写真:同上、北西より撮影)
神殿付属の未確認の建物
(写真:同上、東より撮影)
(2023/11/08)
ロクリス Lokris
前680年頃、おそらくギリシアのロクリス・オプンティアから来た入植者によって、ギリシア人初の植民市ロクロイ・エピゼフュリオイが、現在のイタリア・ロクリに建設されました。
ロクリスは、ザレウコス(前664年)によるとされる、ギリシアで初めて成文法典を持つ都市であり、ピンダロスによって善政の模範として賞賛されました。
宗教生活の中心は女神ペルセポネであり、都市にはペルセポネに捧げられた有名な聖域がありました。ロクリス人はクロトン人を征服し、ディオニシウス1世と同盟を結び、そしてローマに降伏しました(前205年)。最終的には、都市はイスラム教徒によって破壊されました。
現在、博物館から北西500mに、ゼウスに捧げられたとされるイオニア式神殿跡が残っています。もともとは前7世紀に建てられましたが、前6世紀に増築され、翌世紀に完全に再建されました。
また博物館から南へ500mほど行ったところには、部分的にしか発掘されていない地域、チェントカメレ(百部屋)を見ることができます。ここには、市壁や家屋の基礎、竈、水道の一部などが残っています。
<ロクリスのプラン>
(P. Blanchard, 2007)
イオニア式神殿1
(写真:1988年9月、南西より撮影)
イオニア式神殿2
(写真:同上、東より撮影)
祭壇
(写真:同上、北北西より撮影)
竈(チェント・カメレ)
(写真:同上、東より撮影)
未確認の建物の跡(チェント・カメレ)
(写真:同上、南東より撮影)
市壁と門(チェント・カメレ)
(写真:同上、北より撮影)
(2023/11/08)
ヴェリア Velia
古代ヴェリア(エリア)は前6世紀半ばに、ペルシア人の攻撃によって祖国を追われたポカイア人の入植者たちによって建設されました。イタリア半島に築かれた最後のギリシア植民地の一つであるこの都市は、城壁(全長約4.5km)に囲まれ、丘の自然の段々畑を利用して、岬の南北に区画されていました。
海を見渡せる最も高い場所にアクロポリスがありましたが、ここには、前5世紀後半にアテナに捧げられたと思われるイオニア式神殿の基礎の上に、中世の監視塔が建てられています。
遺跡の南側、入り口に近い場所には、ローマ時代のネクロポリス(共同墓地)の遺跡があり、ローマ時代の埋葬習慣に従って、ネクロポリスは城壁の外に置かれていました。また、南から入ると、港の一つである「南の海門」が残っており、かつてはほとんど海に面していました。海門自体には正方形の塔があり、南東に伸びる城壁の最初の部分をなしています。
門の近くからは、ヴェリアの医学校に関する碑文が見つかっており、ここにアスクレピエオンがあった可能性が指摘されています。
また、ヴェリアは、エレア派哲学の創始者であるパルメニデスの出身地としても有名です。
ローマ時代には、港が沈泥で埋まり、その衰退が明らかになりました。12世紀には完全に姿を消し、代わりに中世の町が発展し、この町もまた17世紀に放棄されました。
ヴェリア遺跡は、1883年にフランスの考古学者ルノルマンによって再発見されるまで、何世紀にもわたって失われたままでした。
<ヴェリアのプラン>
(M. Guido, 1972)
南の海門
(写真:1988年、南西より撮影)
パラエストラ
(写真:同上、南東より撮影。左後方、アクロポリス)
アゴラ
(写真:同上、南西より撮影)
メインストリート(舗装道路)
(写真:同上、北より撮影。後方、考古学地域)
ポルタ・ローザ(バラ門)
(写真:同上、南東より撮影)
丘の頂上近くには、ポルタ・アルカイカ(前6世紀:写真手前)とポルタ・ローザ(前4世紀)が残っています。
イオニア式神殿1
(写真:同上、南より撮影)
アクロポリスに残る神殿(前5世紀後半)。基壇の遺構の上に、中世の塔が建設されています。
イオニア式神殿2
(写真:同上、西より撮影)
ヘレニズム期の小神殿跡
(写真:同上、東北寄り撮影。アクロポリス)
アクロポリスから海を望む
(写真:同上、東より撮影)
(2023/11/10)
パエストゥム Paestum
パエストゥムは、もともとはポセイドニア(ポセイドンの都市)と呼ばれ、前600年頃、シバリス出身のギリシャ人によって建設されました。交易路、水路、肥沃な土地に隣接していたこの都市は、急速に農業と海運で栄える中心地となり、その富によって、1世紀足らずのうちに(前530年~450年)、3つの壮麗なドーリス式神殿が建設されました。
前410年にはルカニア人に、前273年にはローマ人に占領され、ラテン語でパエストゥムと呼ばれるようになり、フォーラム、円形闘技場、浴場、いわゆる平和の神殿などが建設されました。
古代パエストゥムは、ローマ帝国末期、政治の中心がコンスタンティノープルに移ると衰退し、ケレス神殿(教会に改築された)の周辺に集中する小さなキリスト教のコミュニティとなりました。877年には、パエストゥムはイスラム教徒の侵入によって破壊されました。
しかし、18世紀に馬車道が建設された際に再発見され、ゲーテ、シェリーといった作家たちの神話となりました。
<パエストゥムのプラン>
(P. Blanchard, 2007に加筆)
アウレア門
(写真:1988年9月、北西より撮影)
パエストゥムの4つの門の北門。
ケレス神殿(アテナイオン)
(写真:同上、南西より撮影)
パエストゥムの3つの神殿の中では最も小さい神殿(33m×14m)。
6本×13本(計34本)のフルート付き円柱で構成されたペリプテロス様式。
高さ6m。
ポルタ・マリーナ(海門)
(写真:同上、北東より撮影)
4つの門の西門。塔と塁壁が残っています。
城壁
(写真:同上、北西より撮影)
ポルタ・マリーナ付近の城壁(約4km)。
ポルタ・ジュスティツィア(正義の門)
(写真:同上、南より撮影)
4つの門の南門。
聖なる道
(写真:同上、北より撮影)
ポルタ・ジユスティツィアへの「聖なる道」。
写真左手後方、ヘラ神殿Ⅱ。
アンフィテアトロ(円形劇場)
(写真:同上、南東より撮影)
後1世紀に建造。
ブーレウテリオン(評議会議場)
(写真:同上、北より撮影)
前2世紀に建造。写真右手後方、ヘラ神殿Ⅱ。
ギムナシウムのプール(?)
(写真:同上、東東南より撮影)
平和の神殿
(写真:同上、西より撮影)
前1世紀の初め頃に建造。
ヘラ神殿Ⅰ(バシリカ)1
(写真:同上、西より撮影。手前祭壇)
パエストゥム最古のドーリス式神殿(前530年頃)。
神殿は9本×18本(計50本)のフルート式円柱(高さ6.5m)を持つ、ペリプテロス様式(54m×24m)。
ヘラ神殿Ⅰ(バシリカ)2
(写真:同上。北西より撮影)
ヘラ神殿Ⅱ(ネプチューン神殿)1
(写真:同上、北西より撮影)
パエストゥムで最大の神殿(前5世紀に建造)。
3段の階段状の基壇の上に建ち、14本×6本(計36本)のフルート式円柱(高さ9m)を持つペリプテロス様式(60m×24m)。
ヘラ神殿Ⅱ(ネプチューン神殿)2
(写真:同上、東より撮影)
写真手前、祭壇の跡。
シレーナ門
(写真:同上、東より撮影)
4つの門の東門。アーチが残っています。
髭の男と若い恋人(棺に描かれた壁画1)
(写真:同上。パエストゥム博物館にて撮影)
いわゆる「ダイバーの墓」から出土した壁画。棺を形成する4つのパネルは、歌、ゲーム、愛、音楽が故人をあの世へといざなう葬儀の宴の場面で飾られています。
ギリシア絵画のおそらく唯一の現存例と思われます(前480年頃)。
コッタボス遊び(棺に描かれた壁画2)
(写真:同上。パエストゥム博物館にて撮影)
宴会(シュンポシオン)では、盃(キュリクス)に残った酒を遠心力を使いつつ飛ばして的にあてるコッタボスという遊びが行われていました。
ダイバー(棺に描かれた壁画3)
(写真:同上、パエストゥム博物館にて撮影)
「ダイバーの墓」の5枚目のパネル、蓋の部分には、この墓の名前の由来となったダイバー(青い海に飛び込む裸の若者)が描かれています。
(2023/11/11)
キュメ(クマエ) Cumae
キュメ(ラテン名:クマエ)は、マグナ・グラエキアの初期の植民地の一つです。伝承によると、その建設は前750年頃で、最初の入植者はカルキス人(エウボイア島)とキュメ(小アジア)のアイオリス人でした。
キュメの繁栄により人口は急速に増加し、ネアポリス(ナポリ)にも入植されました。また、キュメはギリシア文化の中心地でした。
プリニウスによると、タルクィニウス・スペルブス(第7代ローマ王:後にこの地で亡命死)は、ここでシビル(女預言者)から「シビラの書」を購入したといわれています。
前474年、キュメ人はシュラクサイ(シラクサ)のヒエロン1世と同盟を結び、エトルリアを破りました。この戦争を記念する碑文の彫られた銅の兜(現在、大英博物館に収蔵)がオリュンピアに奉納されました。
前421年、キュメはサムニウム人に征服され、後にローマに支配されました。
ネロの治世には、ピソの皇帝失脚陰謀に巻き込まれたペトロニウスが自ら命を絶つ舞台となりました。
9世紀にはイスラム教徒の餌食となり、1207年にはナポリとアヴェルサによって完全に破壊されました。
<キュメ(クマエ)とその周辺>
(M. Guido, 1972に加筆)
アクロポリスへの道
(写真:1988年9月撮影)
写真、後方にアクロポリス。
シビルの洞窟
(写真:同上、北より撮影)
アポロ神殿
(写真:同上、南西より撮影)
ジュピター神殿
(写真:同上、北西より撮影)
アクロポリスからティレニア海を望む
(写真:同上、北東より撮影)
(2023/11/12)
セゲスタ Segesta
セゲスタは、元々エゲスタとも呼ばれ、シチリア島のギリシア人以前の住民であるエリミア人の主要都市でした。伝説によると、トロイ戦争の生き残りがアエネアスによってここに導かれたといわれています。
この都市は前580年からセリヌンテと戦争を続け、前415年にはギリシアのアテネに援助を求めており、これがアテネのシチリア遠征を招くことになりました。前409年にセリヌンテが滅亡すると、セゲスタはカルタゴの属州となりました。
前307年、シュラクサイ(シラクサ)のアガトクレスはセゲスタを略奪し、住民の男子のほとんどを虐殺しました。ディオドロス・シクロス(20.71)によれば、彼は一日で住民のほとんどを殺害し、生き残った婦女子を奴隷に売り、都市の名前をディカイオポリス(正義の都市)と変更しました。
後に、カルタゴの庇護のもとで旧名に戻りましたが、彼らは第一次ポエニ戦争中にカルタゴに背を向け、代わりにローマと同盟を結びました。セゲスタはシチリアで最初にローマへの忠誠を表明した都市となりました。
エリミア人はローマの支配下で特権的な地位を与えられ、税金を免除されましたが、これは、トロイア人の子孫であるとの主張を認められたと言われています。エリミア人はローマの支配下でほとんど姿を消したようで、おそらく一般的なシチリア人に同化されていきました。
都市はアラブ時代には衰退し、13世紀後半には廃墟と化しました。
<セゲスタのプラン>
(E. Grady, 2017に加筆)
神殿1
(写真:1988年9月、東東南より撮影)
ドーリス式神殿。58m×23mの基壇に36本の柱(高さ約9m、基壇の幅約2m)を持つ六角柱のペリプテロス様式です。
柱にはフルート加工が施されておらず、石のブロックを移動させるための突起物も取り外されていないことから、未完成の建物であったと推定されています。
1980年代にこの遺跡で調査をしていた考古学者たちが、セラを支えるための基礎が用意されていたことを発見しました。年代は前5世紀後半と推定されています。
神殿2
(写真:同上、西より撮影)
西側のペディメント(破風)。
神殿3
(写真:同上、北より撮影)
城壁
(写真:同上、南北より撮影)
劇場近くの城壁の一部。
劇場1
(劇場:同上、西より撮影)
劇場は、バルバロ山(415m)の頂上近くに位置しており(3世紀半ば頃建設)、1822年に発見されました。直径63メートルで、3,200人の観客を収容。
劇場2
(写真:同上、南より撮影)
劇場から神殿を望む
(写真:同上、西より撮影)
城砦跡
(写真:同上、北西より撮影)
12〜13世紀に建設。
城砦跡から劇場を望む
(写真:同上、南東より撮影)
(2023/11/15)
セリヌース(セリヌンテ) Selinous
セリヌース(セリヌンテ)はメガラ・ヒュブラエアの植民都市で、おそらく前650年頃には建設されていたと推定されています。セリヌースの名は、現在でもこの地に豊富に生育し、コインにも描かれている野生のセロリ(ギリシャ語でセリノン)に由来しています。植民地が最も繁栄したのは前5世紀で、大きな神殿が建てられ、都市が長方形のプランに整備されました。
前480年のヒメラの戦いの後、セリヌースはシュラクサイ(シラクサ)と同盟を結んでカルタゴに対抗しました。前409年、セリヌースの宿敵セゲスタの助けを求めたカルタゴ人は、ハンニバル・ギスコ率いる10万の軍隊を送り込み、アクラガス(アグリジェントゥム)とシュラクサイの連合軍が到着する前にセリヌースを占領しました。都市は略奪・破壊され、住民は奴隷として売られました。
この遺跡は、16世紀に再発見されましたが、シチリア駐在イギリス総領事ロバート・フェイガンによって1809年から10年にかけて行われた発掘が失敗に終わった後、1822年から3年にかけて、イギリス人のウィリアム・ハリスとサミュエル・エンジェルによって初めて組織的な発掘が開始されました。ハリスとエンジェルはC神殿とE神殿の有名なメトープを発見しましたが、ハリスはここで発掘中に感染したマラリアで死亡し、エンジェルは盗賊に殺されました。
1956年から58年にかけて12の通りが発掘され、1973年には古代都市跡の北側で発掘が開始されました。発掘は、マロフォロス神殿の地域でも行われました。
アクロポリスがあるこの町は、セリノン川と現在ゴルゴ・ディ・コットーネまたはガリチと呼ばれる湿地帯に挟まれた海の上の段丘を占め、それぞれの谷口に港がありました。
この遺跡の東側には重要な神殿群があり、北側にはネクロポリスがありました。B神殿とG神殿を除くすべての神殿は、周翼式と六角柱式で建造されています。
しかし、すべての建物が完全に破壊され、柱が1本も直立したまま残っていないのは、人の手によるものではなく、地震によるものに違いないと考えられています。
大半の神殿は、文字で区別されていて、中には、シチリアでは珍しいメトープの彫刻が施されたものもあり、その多くは現在パレルモの考古学博物館に収蔵されています。
多くの建築片には漆喰の跡があり、遺跡のいたるところに雨水を集めるために作られた地下貯水槽があり、ほとんどの神殿の横には犠牲祭壇があります。
<セリヌース(セリヌンテ)のプラン>
(E. Grady, 2017に加筆)
<東グループ神殿>
神殿E 1
(写真:1988年9月、東より撮影)
ドーリス式神殿(前490~480年)
67.7m×25.3mの大きさがあり、おそらくヘラに捧げられたものと思われます。
美しい彫刻が施されたメトープがあり、そのうちの4つが1831年に発見され、現在はパレルモの考古学博物館に収蔵されています。地震で倒壊した柱は、1958年に再建されました。
神殿E 2
(写真:同上、北西より撮影)
神殿F
(写真:同上、南東より撮影)
この丘で最も古いもの(前560~540年頃)で、アフロディーテに捧げられたと思われますが、ほとんど完全に廃墟と化しています。かつては正面に2列、側面に14列の円柱がありましたが、現在は数メートルの高さしか残っていません。
神殿G
(写真:同上、北より撮影)
おそらくゼウスに捧げられた神殿。アグリジェントゥムのオリュンピエイオン神殿に次いで、シチリアでは二番目に大きい(110m×50m)神殿。柱の配置(8×17)は、アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿と同じです。前6世紀に建設され、前409年に都市が破壊された際に未完成のまま残されたため、現在は生い茂った廃墟の山となっています。
<アクロポリス>
神殿O
(写真:同上、北東より撮影)
神殿の基壇だけが残り、上部構造は消失しています。
神殿Oと神殿Aは、どちらも紀前490年から480年に建設され、形も大きさも同じ(40m x 16m、36本の柱)。
神殿A(螺旋状の階段)
(写真:同上撮影)
セラはプロナオスより一段高く、アディトンはさらに一段高かく、セラとプロナオスの間には、屋上へと続く2つの螺旋階段がありました。
神殿B
(写真:同上、南東より撮影)
神殿Cの南東の位置。プロナオスとセラを備えたプロスタイル形式。
デメートルに捧げられた神殿と推定されています。
神殿C 1
(写真:同上、北東より撮影)
基壇の長さは63.7mx24m。柱は、6x17。前6世紀初頭建造。
アポロンに捧げられた神殿と推定されています。
神殿C 2
(写真:同上、北北東より撮影)
神殿D
(写真:同上、南西より撮影)
基壇の長さ56mx24m。柱は34本。前570〜554年頃建造。
アテナに捧げられた神殿と推定されています。
北門
(写真:同上、南より撮影)
前307〜306年建造
<デメーテル・マルファロスの聖域>
プロピュロン(前門)
(写真:同上、東南より撮影)
5世紀後半の建造。
メガロン(神殿)
(写真:同上、西西南より撮影)
ドーリス式(前560年頃建造)
祭壇
(写真:同上、南より撮影)
ゼウス神殿
(写真:同上、北より撮影)
神殿M
(写真:同上、北西より撮影)
神殿と呼ばれていますが、おそらく祭壇、または記念碑的な噴水の可能性(前6世紀)。
(2023/11/17)
アクラガス(アグリジェント) Akragas
アクラガス(アグリジェント)は、前580年にゲラの植民地として建設されました。前570〜554年には、暴君として名高いファラリスによって支配されていました。前6~5世紀の詩人ピンダロスは、アクラガスを「この世で最も美しい町」と評しました。 アグリジェントは、哲学者エンペドクレスとその従者アクロンの出身地でもあります。
前406年、カルタゴ人は8ヶ月の包囲の末にこの都市を占領し、焼き払い住民を奴隷として売り払いました。後に、ギリシアの将軍ティモレオンはカルタゴ軍を破り(340年)町は再建されました。
その後、ローマ軍に前261年(第一次ポエニ戦争中)そして、前210年に再度占領され、ローマ帝国が滅亡するまでその領有権は続きました。
都市は、その後、828年にアラブ人の手に落ち、さらに、ノルマン人の征服者ロッジェ1世により町は占領され(1087年)、ラテン司教区が設立されました。
<神殿の谷>
「神殿の谷」には、ヘラ、コンコルディア、ヘラクレス、ゼウス、ディオスクロイ、ヘファイストスと6つの神殿が東から順に並んでいます。
ディオスクロイの神殿
(写真:1988年9月、北西より撮影)
神殿の谷の西側の一番端に位置しています。
ゼウスとレダの双子の息子ディオスクロイ(カストールとポルクス)に捧げられた神殿となっています(異説あり)。
周柱式ドーリス神殿(前5世紀後半建造)。
神殿の規模:横16m x 縦34m。柱の本数 6 x 13本。
現在は、4本の柱だけが立っています。
ゼウス・オリュンピエイオンの祭壇
(写真:同上、南東より撮影)
ヘラクレスの神殿 1
(写真:同上、北西より撮影)
周柱式ドーリス式神殿(前520年頃建造)。
神殿の規模:横25m x 縦67m 高さ 16m 柱の本数 6 x 15本。
1921年頃に、考古学者ハードキャッスル卿により現在の8本の柱が復元されました。
ヘラクレスの神殿 2
(写真:同上、東より撮影)
ローマ時代のネクロポリス
(写真:同上、南より撮影)
コンコルディア神殿からヘラクレス神殿にかけての道路周辺には、古代からの墓地がかたまっています。
コンコルディア神殿 1
(写真:同上、北西より撮影)
周柱式ドーリス式神殿(前440年頃に建造)。
ローマ神話の平和・調和の女神コンコルディアに捧げられたことになっています。
6世紀のビザンツ時代に神殿は教会に改築され、(そして一説によるとアラブ時代にはモスク)、ノルマン時代に再び教会になり、18世紀に元の神殿の姿に戻りました。
教会に改築したときに、円柱と円柱の間を塞いで壁にしたため、結果的に神殿を補強することになり、地震で崩壊することなく、素晴らしい保存状態で残っています。
神殿の規模:横17m x 縦39m。高さ 14m。柱の本数 6 x 13本。
コンコルディア神殿 2
(写真:同上、西より撮影)
コンコルディア神殿 3
(写真:同上、北東より撮影)
ヘラ神殿 1
(写真:同上、北西より撮影)
周柱式ドーリス神殿(前460年頃建造)
神殿の規模:横17m x 縦38m。高さ 15m。柱の本数 6 x 13本。
ヘラ神殿 2
(写真:同上、東南より撮影)
(2023/11/19)
ゲラ(ジェラ) Gela
ゲラ(ジェラ)の近代都市は、1230年にフリードリヒ2世によって建設され、1927年までテラノヴァとして知られていました。もともとは、前688年に設立されたロードス人とクレタ人の植民都市ゲラの跡地に建設されました。
ゲラはすぐに重要性を増し、前580年にはアクラガス(アグリジェント)に独自の植民地を築き、シチリア島のギリシア化に貢献しました。
ヒポクラテス(ゲラの僭主:前498~491年)の時代に最も繁栄しましたが、彼の後継者であるゲロンは、前485年にシュラクサイ(シラクサ)に政府と人口の半分を移しました。前5世紀の劇作家アイスキュロスは、456年にゲラで客死しています(上空を飛んでいた鷲が、石と間違えて彼の禿げた頭に亀を落としたからだと言われています)。
前405年、町はカルタゴ人によって破壊されましたが、ティモレオンは前330年代に町を再建しました。新しい町は以前のものよりも大きく、新しい城壁が築かれました。
前282年、アグリジェント(アクラガス)の暴君フィンティアスがイメラ河口の新都市(現在のリカタ)に住民を移し、ゲラは歴史から姿を消しました。
<ジェラ(ゲラ)のプラン>
(M. Guido, 1967に加筆)
アテナ神殿の柱
(写真:1988年9月、南西より撮影)
アクロポリスの跡地にあるアテナ神殿の柱(推定:前6世紀建造)
ドーリス式神殿の跡
(写真:同上、南より撮影。右後方博物館)
店舗・住居跡
(写真:同上、北西より撮影)
博物館近くの(東)、未確認の店舗あるいは住居跡。
ティモレオンの城壁 1
(写真:同上、南より撮影)
カーポ・ソプラノ(ソプラノ岬)に築かれた城壁。
城壁は、前333年にティモレオンによって着工され、アガトクレスの時代に完成。
ティモレオンの城壁 2
(写真:同上、東より撮影)
ギリシア浴場
(写真:同上、南より撮影)
遺跡は前4世紀の建造。座面付きのお風呂を含めて屋根で守られています。
カポ・ソプラノ(ソプラの岬)の丘より海を望む
(写真:同上、西より撮影)
(2023/11/22)
シュラクーサイ(シラクサ) Sylakusai
前733年、アルキアス率いるコリントス人が建設したシュラクーサイ(シラクサ)は、前5世紀初め僭主ゲロン兄弟の下で最盛期を現出しました。ゲロンはヒメラの戦い(前480年)でカルタゴ軍を打ち破り、弟ヒエロン1世(前478〜467年頃)はクマエの戦い(前474年)で、エトルリア人を破り、この都市をシチリア島の覇者の地位に押し上げました。また、ヒエロンはアイスキュロス、ピンダロス、シモニデスの詩人たちを招いて文化を奨励しました。
ペロポネソス戦争末期(前413年)、アテネのシチリア遠征軍を壊滅させたシュラクーサイは、前4世紀前半には、ディオニュシオス1世(前402~前397年)など有力な指導者(僣主)のもとで繁栄を続けました。
混乱の時代を挟んで、前3世紀にはヒエロン2世のもとで、ローマと同盟を結びシュラクーサイはその栄光の頂点を極めます。
しかし、ヒエロンの死後、後継者はカルタゴに近づき、前211年、第二次ポエニ戦争がおこると、ローマ将軍マルケルスの包囲戦により攻略され、ローマの支配下に屈します。
この戦いにおいて、自然哲学者のアルキメデスの考案の軍事兵器は、ローマ軍を大いに苦しめ、三年間に渡りローマの攻撃を撃退し続けたといいます。陥落の際に、アルキメデスはそれと知らないローマ兵によって殺害されました。
最初期の都市の遺跡は、本土と橋で結ばれたオルテユギア島にあります。前6世紀に建立された「アポロン神殿」、大聖堂に利用された「アテナ神殿」(前5世紀)、さらに「アレトゥーサの泉」などが残っています。
市域の西北部を占めるネアポリス地区には、「ギリシア劇場」、「パラディソ採掘場」、「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる洞窟、さらに「ヒエロン2世の祭壇」、ローマ時代の「円形劇場」などが残っています。
また、ディオニュシオス1世の時代に、シュラクーサイは都市の北に大城壁を築きました(全長31km)。その東端の「エウリュアロスの城塞」は、排水路や地下通路をたくみに配した優れた軍事施設として知られています。
<シュラクーサイのプラン>
(周藤芳幸編, 2003)
<ネアポリス>
ギリシア劇場 1
(写真:1988年9月、南東より撮影)
ギリシア世界でも最大規模の劇場跡(直径138m)。
前6世紀頃の木造建築の跡が確認されています。
前478年に、ゲロンにより岩盤をくりぬいて作られ、前476年には、アイスキュロスによって自作の悲劇が上演されました。
前4世紀に、ティモレオンの下で拡張され、さらにヒエロン2世(前230年頃)の時代に、現在の姿に再拡張されました。収容人数は、15,000人。
同上 2
(写真:同上、北より撮影)
同上 3
(写真:同上、北東より撮影)
墓の通り
(写真:同上、東より撮影)
ギリシア劇場の北、上部にある墓の通り。
パラディッソ採石場
(写真:同上、南より撮影)
劇場の東にある採掘場。
「ディオニュシオスの耳」
(写真:同上、南より撮影)
採掘場の奥にある、カラヴァッジョが「ディオニュシオスの耳」と呼んだ洞窟。
アテネのシチリア遠征は、失敗に終わり多くの捕虜がこうした洞窟に閉じ込められました。
コルダリの洞窟
(写真:同上、南より撮影)
ヒエロン2世の祭壇
(写真:同上、北西より撮影)
ゼウスに捧げられた祭壇(前241年〜217年建造)。
長さ198m、幅22.8m、高さ約15mと推定。
円形劇場 1
(写真:同上、北西より撮影)
ローマ時代の円形劇場。
同上2
(写真:同上、南西より撮影)
<オルテュギア>
アポロン神殿 1
(写真:同上、西より撮影)
前6世紀に建立。
同上2
(写真:同上、南西より撮影)
同上 3
(写真:同上、北東より撮影)
アレトゥーサの泉
(写真:同上)
泉に茂っているのは、シュラクーサイの特産品のパピルス。
アテナ神殿の円柱 1
(写真:同上、北より撮影)
大聖堂の壁に埋め込まれたアテナ神殿のドーリス式円柱。
現在の大聖堂は、ヒメラの戦いの勝利を記念して築かれたアテナ神殿(前5世紀)を、そっくり利用しています。
同上 2
(写真:同上、北より撮影)
同上 3
(写真:同上、北西より撮影)
<エウリュアロスの城塞>
地下通路
(写真:同上、南西より撮影)
城壁と排水溝
(写真:同上、西より撮影)
要塞の塔
(写真:同上、東より撮影)
エピポライ門 1
(写真:同上、南西より撮影)
同上 2
(写真:同上、西より撮影)
(2023/11/23:完)
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