周藤芳幸「アナクシラス問題再考 ―パウサニアスのメッセニア戦争とオリュンピア期をめぐってー」

周藤芳幸「アナクシラス問題再考 ―パウサニアスのメッセニア戦争とオリュンピア期をめぐってー」『西洋古典学研究』68号、2020年、13−24頁。

本論文は、近年のパウサニアス研究の成果を踏まえて、アナクシラス問題の検討を緒に、パウサニアス(第4巻)に描かれたメッセニア戦争の叙述の歴史性の再考がなされています。

パウサニアスに描かれたメッセニア戦争は、第一次が第9オリュンピア期2年目(前743年)〜第14オリュンピア期第1年(前724年)に、そして第二次は、第23オリュンピア期4年目(前685年)〜第28オリュンピア期1年(前688年)に年代づけられています。

そして、パウサニアスは、敗戦後のメッセニア人が、レギオンの僭主アナクシラスの呼びかけに応じてシチリアに渡り、アナクシラスと共にザンクレを攻撃・占領してメッセネと改名したのが、第29期オリュンピア期(前664−661年)と明言しています。

アナクシラスが活躍していた年代は、ヘロドトス、トゥキュディデスなどの史料から前5世紀の初めであるのは明らかで、年代をめぐる史料間の矛盾がアナクシラス問題と呼ばれています。

まず、論者は、パウサニアスに描かれたメッセニア戦争(彼が依拠した史料はミュロンとリアノスの著作)、さらにパウサニアス以前の史料の検討により、メッセニア戦争が第一次と第二次とに区別されるようになったのは、ローマ帝政期に入ってからで、前1世紀までの史料ではメッセニア戦争は一連のものとして認識されていた可能性が高いと述べます(17頁)。

そして、オリュンピア期(オリンピアード)の問題を体系的に研究したハイドリッヒ「前776年から始まるオリュンピア期に加えて、13回(52年)分短いオリュンピア期と14回(56年)分短いオリュンピア期が併用されていた」などの仮説から、前古典期の事件をめぐる混乱は複数のオリュンピア期の併用にあったことを明らかにしています。

アナクシラス問題については、スパルタに対するメッセニアの最終的な敗北をアナクシラスの時代(前5世紀初め)とする説を検討し、第二次メッセニア戦争をペルシア戦争の時代に近づけ、パウサニアスが依拠した史料は、実際には前5世紀のメッセニア反乱に由来するものであった可能性を主張しています。

結論として、論者は、スパルタとメッセニアの争いが、前8−7世紀にまで遡る可能性を否定していませんが、『ギリシア案内記』第4巻に描かれているメッセニア戦争の歴史とは、メッセニア人の「過去」についての複数の物語を、パウサニアスがオリュンピア期という編年装置を導入することで巧みに整理統合し、2回の戦争として再構築したものであると論じています(21頁)。

(2020-03-22)

伊藤正「ホロイ、ヘクテーモロイおよびセイサクテイアーセイサクテイアは「負債の帳消し」だったか?」

伊藤正「ホロイ、ヘクテーモロイおよびセイサクテイアーセイサクテイアは「負債の帳消し」だったか?」『西洋史学論集』第55号(2018年3月)28―48頁

伊藤氏は、すでに「ソロン、土地、収公―ソロンの詩編の分析を中心として−」『史学雑誌』95編10号(1986年)、「ラトリス、テーテス、ヘクテーモロイ」『西洋古典学研究』35号(1987年)、そして、”Did the hektemoroi exist?” La parola del pasato, 59(2004)、さらに、「セイサクテイアとは何か?」『西洋古典学研究』55号(2007年)と、精力的にアテネのソロンの改革についての一連の論文を発表しています。

本稿では、1986年の伊藤氏の発表以来の研究動向を、特にホロイ、ヘクテーモロイおよびセイサクテイアをめぐる欧米の研究が紹介されています。

第1節では、ヘクテーモロイとは、どのような人であったのかという問題についてのさまざまな論争を整理して、概ね5つの学説に分類しています。

そして、第2節で、学説史が氏の論文発表の1986年以前(Ⅰ:25名)、1986年以降(Ⅱ:41名)に分けられて簡潔に整理されています。

第3節では、ホロスの解釈が論じられています。

伊藤氏によれば、ホロイ(ホロスの複数)に関しては、研究者の間に「何らかの義務あるいは契約を明示した標石」、「抵当標石」および「境界石」の三つの解釈が存在しているが、「土地の境界石」と読むのが妥当であると論じています。

第4節ヘクテーモロイの解釈では、上述の2004年の伊藤氏の論文発表以来、欧米でもヘクテーモロイの史実性を疑う研究が公にされています。

氏は「ヘクテーモロイ」と呼ばれた人々の実態はラトリス、すなわちテースであり、テースとは「貧しさゆえに一定期間、報酬を得るために他人の土地で農業に従事している自由人」と言うことができると結論づけています。

第5節セイサクテイアとは何か。

ソロンの改革の「セイサクテイア(重荷おろし)」とは、何だったのか。

伊藤氏は、結論として、ソロンは、「デーモスの指導者」による共有地の私的蚕食に対して(ホロイ=境界石は、私的蚕食の過程で彼らによって、所有権を明示すべく不正に立てられたもの)、境界石を引き抜いた。

それは、共同体への土地の収公を意味し、共有地の私的蚕食によって圧迫されていた農民の生活改善に役立った。

またそれと同時に土地所有の最高額を定めた法を制定することによって、以後、アッティカにおける共有地の私的蚕食の再発を防止し、大土地所有制の萌芽を摘み取ったと論じています。

第6節 展望

最後に、伊藤氏は『アテナイ人の国制』の著者が、ソロンの詩編の解釈において、「前4世紀の概念」を用いてソロンの行為を説明しようとしている時代錯誤的な解釈を批判しています。

そして、ソロンと年代的に近い世界との比較、具体的には、ホメーロスやヘシオドスに描かれている、またアルカイック期の叙情詩に描かれている社会に照らし合わせてソロンの時代のアテナイ社会を解明することが必要であると述べています。

(2018. 5. 10)

竹内一博「アッティカのデーモスにおけるディオニュソス神官職」

竹内一博「アッティカのデーモスにおけるディオニュソス神官職」
 『西洋古典学研究』66号、2018年、14−22頁。

本論文は、アッティカのデーモス(区)における、劇場の共用またはディオニュシア祭の共用をめぐる問題について、実見に基づく独自の碑文史料の復元も交え、神官職と聖域の観点から考察がなされています。

まず、デーモス神官職と聖域の関連については、ディオニュソスの神官または女神官が、主体的な行為者ないし被顕彰者として区決議に現れることはなかったことが明らかにされています。

また、ディオニュソス祭祀における神官職の特徴として、女性神官は男性神官に付随する存在ではなく、区の供儀において固有の役割を果たしていたが、ディオニュソス祭および劇場とは関連しなかったことが述べられています。

そして、区のディオニュソス神官が司る一種の聖域である劇場に設置されたプロエドリア(最前の席に座る特権)は、権利を付与する区の主体性とその聖域を司るディオニュソス神官の権威と結びついており、Goetteの解釈(劇場の分布に関して確実な区に限定して、独自の劇場を持たない区は、近隣の区の施設を利用して祭儀を施行した)を退けています。

最後に、論者はディオニュシア祭の挙行にあたり、区と区の間で劇場の共有関係が構築されていた可能性は低く、各区は固有の宗教的伝統と財源を持ち、ディオニュシア祭は単独で区域内において挙行されていたこと、一方で、ディオニュシア祭は、他区民、外国人なども観客など様々な形で包摂しており、区の枠組みや地理的な境界線を越えた祭儀としての広がりを持っていたと論じています。

(2018.4.3)

佐藤昇「前4世紀のアテーナイの法廷と修辞」

佐藤昇「前4世紀のアテーナイの法廷と修辞」『西洋史研究』新輯45号、2016年、126−137頁。  

この小論は、2015年に開催された日本西洋史研究会大会の共通論題「歴史とレトリック」の基調報告に基づいて若干の修正を加えたものです。

法廷が置かれた実際の環境に注目し、当時の修辞がこれにいかに対応していたのか、その歴史的状況を考察しています。

論者は、法廷弁論における陪審員の野次・喝采・喧噪および法廷外の見物人・野次馬への言及をとりあげて、それを5類型(1.過去の「声」の言及。2.野次・喝采の抑制要求。3.共同弁論人の呼び入れ。4.陪審員や観客への証言要請。5.相手の演説に対する発生を求める事例。)に分けています。

そして、弁論のなかでそれらに言及することがいかなる修辞上の機能や説得効果を有したかを綿密に検討しています。

結びでは、聴衆の声や見物人の環境は、演説者にとって妨害要素や抑制要因となることもあったが、弁論家たちは、陪審員説得のために、積極的に修辞、説得術に取り組んでいったこと。

そして、法廷が相対的に「より正しいナラティヴ(物語)」の地位を奪い合うアゴーンの場であり、規範・秩序を0ral Society(口伝えの社会)に発信するという社会秩序維持機能を前提として、修辞は発達していったことを指摘しています。

(「2016年の歴史学界—回顧と展望−」(『史学雑誌』第126編第5号、2017年 、297—298頁)に、澤田典子さんの簡潔な紹介が掲載されています。)

なお、佐藤氏は、今年5月の日本西洋史学会大会(一橋大学)のシンポジウム2「古代地中世界における知の伝達の諸形態」で、「口頭による知の伝達—聴衆への配慮と修辞戦略—」というタイトルで報告されています。

そこでは、上記の小論の法廷に加えて民会・評議会の野次にも注目して、法廷との差異など、それぞれの「場」に応じた野次対処法の発展などから知の伝達技術の文化、発展がなされたことを論じています。

(2017.8.5)

清永昭次「ヘロドトスの生と死」

清永昭次「ヘロドトスの生と死」学習院大学文学部史学科編『歴史遊学ー史料を読む』山川出版社、2001年、202ー218頁。

「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは、前五世紀のギリシアの歴史家(小アジアのハリカルナッソス<現ボドルム>出身)で、ペルシア戦争を扱った『歴史』はあまりに有名です。

この一文は、ヘロドトスの生と死といっても、彼の死生観、人生観、宗教観を取りあげたものではなく、彼がいつ生まれていつ死んだのか、つまり彼の生没年を問題にしています。

 最初に、村川堅太郎先生、グールド、マイスター、そしてヤコビー等の「ヘロドトス」の辞典の項の説を紹介し、次にその生年・没年の所説の当否を、アリストファネスやトゥキュディデスなどの文献などを通して検討しています。

結論を言えば、ヘロドトスの生没年は、「前484年ごろ〜430年秋ごろ」と最初に挙げた辞典類と大きな違いはありません。

しかし、「ごろ」といっても関係史料について推論を重ねてたどり着いた数字で、没年は生年より多少確度が高いように思う、と締めくくられています。

※ 先日、本棚を整理していて、隅の方から『歴史遊学』という本を見つけました。パラパラとめくっていて、既に亡くなった清永先生の名前を見つけました。性格通りの几帳面な文章で、懐かしく拝読しました。

清永 昭次「ヘロドトスの生と死」学習院大学文学部史学科編『歴史遊学ー史料を読む』山川出版社、2001年、202ー218頁。

(2016.8.23)

長谷川岳男「アンティゴノス朝マケドニアのギリシア『支配』」

長谷川岳男「アンティゴノス朝マケドニアのギリシア『支配』
 —その認識の虚像と実像— 」『古代文化』48-3,1996、pp137 -152

本稿は、前224/3年のマケドニアのアンティゴノス3世(ドソン)を盟主に、結成されたヘラス同盟以前の、マケドニアのギリシア政策に対する認識とその実相の相違が考察されています。

著者は、前220年までのマケドニアに関する一般的認識である、クレモニデス戦争でのアテナイに対する抑圧、アカイア連邦発展の障壁、スパルタ復活の粉砕という通説を誤った認識であると非難しています。

それらの通説はポリビオス、プルタルコスらに描かれた前260年代のアテナイ、前240〜230年代のアカイア連邦、前220年代のスパルタに関する事項が一般化されて認識されたものであり、当時の歴史状況を再検討することで、前220年代中葉までのアンティゴノス朝に関する一般的認識は、現状を正しくは反映していなかった、と結論づけています。

(2016.8.23)

柏達巳「前4世紀におけるarchaiの定義について

柏 達巳「前4世紀におけるarchaiの定義についてーAischin.3.13-15,28-30の
 解釈を中心にー」『クリオ』27、2013、pp.25-38

本稿では、アテナイ民主政を論ずるに当たって、民主政が機能する上で重要な位置を占め、直接民主政を体現していた公職制度の「公職者」あるいは「公職」をあらわす一般的な語”arche(アルケー)”およびその複数“archai(アルカイ)”の定義に関して考察されています。
著者は、「従来archaiの定義の根拠とされてきたアイスキネスの記述からは、そのような定義の存在を証明することはできず、また当時の認識においてもarchaiとarchaiではない役職の境界線は明確でない場合があり、時にはarchaiというカテゴリーの範囲に関して法廷で争われる可能性があった。」と結論づけています。(p.37)
(2016.4.23)

伊藤正「古典期アテナイの家内奴隷」

伊藤正「古典期アテナイの家内奴隷—オイケーテスの数についてー」『西洋古典学研究』63,2015、pp.37-49

本論文では、アテナイの悲喜劇、法廷論文およびクセノポンの著作を吟味することによって、市民の所有する家内奴隷の数とその実態を論じています。
まず、奴隷(ドゥーロイ)への呼びかけの言葉や文献資料から、ドゥーロイ、オイケータイ(奴隷)、テラポーン(召使)などの性格を明らかにしています。
そして、古典期のアテナイの農業経営の二つのタイプ、自作農(アウトゥールゴス)と、もう一つの富裕者の管理人(エピトゥロポス)を用いた農業経営、その両者の奴隷の数を明らかにしています。
結論として、自作農は、土地の広さは4ないし5ヘクタールで、奴隷数は恐らく、2ないし3人程度。そして、富裕な農民は、2、3人の4倍ないし5倍の数を推定しています。

内川勇海「古典期アテナイにおける死刑と殺人の境界」

内川勇海「古典期アテーナイにおける死刑と殺人の境界」『西洋古典学研究』63,2015、pp.26-36

本論文は、古典期アテーナイにおいて、「どのような時に死刑の執行が殺人罪として裁かれたのか」という問題を検討することで、古代アテーナイ人が有していた殺人概念の一面を論じています。

著者は、アテーナイの死刑制度の先行研究の問題点を整理し、アテーナイの死刑の執行形態を、(1)正規の裁判後、役人が処刑した場合、(2)正規の裁判なしに役人が処刑した場合、(3)(裁判なしに)私人が処刑した場合、の三つに区分し、死刑の執行が殺人罪として問題視され、訴追される事例を検討して、訴追された背景を明らかにしています。

結論としては、古典期アテーナイでは、死刑の執行を非難し、手続きの不正を問うだけでなく、殺人罪として実際に訴えられることもあったことは、正当な刑罰としての死刑と殺人罪に該当する殺人行為との区別が曖昧な社会であったと言えること、そして、殺人と死刑の問題に関しても、刑罰と犯罪という境界すら超えて、ある行為の意味を各人が自由に解釈し裁判によってその是非を最終的に決定するという傾向が読み取れ、それは、国家権力が未熟であり法の執行を私人に依存していたアテーナイ社会の特徴を良く例証している、と論じています。

伊藤正「古代ギリシアの農業」

伊藤正「古代ギリシアの農業—農業用テラスについてー」『上智史学』59,2014、pp.41-57

本論文は、古代ギリシアにおける農業用テラス(わが国においての棚田あるいは段々畑)について考察しています。

最初に著者は、古代ギリシア語にテラスにあたる言葉がないこと、古代の史料にテラスに関する言及がないことに注目しています。

そして、まず、テラスに関わりがあると推定される碑文及び文献資料を吟味し、次に考古学に見るテラスの痕跡などを検討し、史料の上からも考古学的な検討からも、古代においてテラスの存在は認められないと結論付けています。

また、傾斜面では、テラスを用いた栽培ではなく、農業書『ゲオポニカ』に記されたトレンチ法(穴掘り)が一般的であったと推測しています。

最後に、現在のギリシアに見られる捨てられたテラスの痕跡は、19世紀末以降のものである可能性も排除できないとしています。

橋場弦「隠されたコード」

橋場弦「隠されたコードーアテナイ民主政研究の視点から」『創文』461、2004、pp.38 -41

この小論で著者は、最初に彼の研究を方向付けてきた一つの通奏低音、A.H.Mジョーンズの「古典文献の中に民主主義の政治理論が見いだせないこと、政治哲学者達は、寡頭制に好意的であった」という言説、並びに「アテナイ民主政に批判的で、寡頭制に好意的なプラトンやアリストテレスの古典学者達の教説・方向性を、近代の歴史家が無批判に受け入れること」に対して彼が強い警告を発したことを紹介しています。

さらに、ここでの議論はギリシア民主政の概説書において、「なぜ衆愚政治という言葉を使わないのか」という一般読者からの指摘への著者の解答ともなっています。

著者の関心は、哲学者から見れば軽侮の対象にしかならないようなアテナイ人の諸習慣の一端に、民主政の文法(コード)を見いだすことにあります。

「このコードは、アテナイ人が伝統的に当然のものとして受容してきた価値の総体であり、無意識の領域をも含めたイデオロギーとあまりに密接に絡み合っていたが故に、それを体系的に記述する政治理論を、当事者であるアテナイ市民は生み出さなかったし、そのようなものをそもそも必要としなかった。
中略
民主政のコードは、さまざまな制度や言説の中に埋もれ、隠されている。それはそれ自体の中に多くの矛盾を内包し、理論的な教説の体系に高められることはなかった、そのかわり一般のアテナイ人の意識と文化の中に深く根を下ろし、容易なことではその根を引き抜くことはできなかった。」(p.41)

こうしてアテナイ民主政は、マケドニアの外圧、敗戦、さらにはローマの属州の一部としての変容を経ても、民会や評議会などの意志決定機関はそこに参加できる人々の範囲を変えつつもしぶとく生き残り、著者は、そこにアテナイ民主政(デモクラティア)の土臭さと生命力を見いだしています。

最後に著者は、そのようなものとしてギリシア民主政をとらえ直すときに、その対照としてのデモクラシーそのものに対する日本人の態度(敗戦により民主主義を理論的教説として受け入れたものの、その受容に難儀している)に対して、なんらかの反省を促しています。

桜井万里子「古代ギリシア史研究の意義」

桜井万里子「古代ギリシア史研究の意義」『史海』54,2007,pp.14-23

著者は、この論文で、「日本人にとって古代ギリシア史研究がどのような意味を持つのか」、を問いかけています。

最初に、ヨーロッパ文化の源流としての古代ギリシア文化という観点に立っての「サラミスの海戦」の評価、つまり、ヨーロッパがアジアに勝利した最初の戦争という位置づけの否定、「自由」を守るためという「自由」もごく限られた人の自由であったことに言及し、「ヨーロッパ人が築き上げた古代ギリシア像を相対化すること」の可能性に研究の意義を見いだしています。

論文の具体的な内容としては、「テミストクレスの決議」碑文の真贋論争の検討(著者は本物であるとみなしています。)、「カリアスの和約」の実在性などの検討、「前五世紀の碑文の年代決定基準」であった3線のシグマから4線のシグマへの変化の年代決定の再検討、さらに、「古代東地中海世界の中のギリシア」という視点の必要性を論じています。

最後に、全体のまとめとして、古代ギリシア史研究の意義について、以下の3つの論点が提示され、結びとされています。

1.古代ギリシアはヨーロッパ文化の源流ではあるが、それはヨーロッパ人がルネサンス以降に選択したことであって、古代ギリシア人が意図したことではなかった。

2.古代ギリシア世界はオリエント世界の影響の下に形成されたのであって、ヨーロッパの一部であるからとオリエント世界と切り離してしまうことは、古代ギリシアについての理解を不十分なものにしてしまう。東地中海という地域全体を見ることで、新しい歴史像が描けるであろう。

3.オリエントの影響下に誕生したギリシア世界であり、ギリシア文化ではあるが、古代世界の中で文字史料を最も多く残してくれたのも古代ギリシアである。エジプト、オリエントでももちろん文字は使用されたし、文字使用が始まったのはギリシアよりもはるかに古い。しかし、現存する史料は圧倒的にギリシアが多い。それは、古代ギリシアを比較的詳細に知ることを可能にする。前六世紀末からの精神の覚醒の現象から哲学、歴史学の成立プロセスを辿ることが可能となる。(p.23)

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