はじめに

今回、教え子たちと松平千秋訳/ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)を読む機会に恵まれました。

ここに、参加者の便宜のために新たに簡単な補足説明の頁を設けました。

第1巻から読書会に合わせて少しずつ進めていければと思っています。

また、参加者以外でも、ヘロドトスに興味のある方がいれば、『歴史』を読む際にでも一瞥して頂ければ幸いです。

なお、地図に関しては、古曳正夫『読書地図帳 ヘロドトス「歴史」』東海大学出版会(2009)の地図を借用しています。

例えば、ハリカルナッソス(現ボドルム)の場合は下記の地図の〔I-Ab2〕と記しています。


肖像(本文の挿絵)

ヘロドトス
(前4世紀前半頃に作られたものの模造:ニューヨーク、メトロポリタン博物館蔵)

・「HISTORIAE(歴史)」は、後世の命名

・「歴史の父」(キケロ『法律について』1.1.5:pater historiae)

・イオニア方言で執筆
 イオニア・アッティカ方言=東方方言群 
 ドーリス方言(スパルタ)=西方方言群
イオニア方言
 地図(桜井、55頁より)

生涯

伝承上は前484年頃生まれ420年(または430年)頃没

(没年はペロポネソス戦争<前431年〜前404年>の記述から推測)

系図(名望家)

 父:リュクセス(カリア系)
 母:ドリュオor ロイオ(ギリシア系)
 弟:テオドトス
 従兄弟(あるいは叔父):パニュアッシス(叙事詩人)

生誕の地〜旅〜死

カリア地方ハリカルナッソス(現:ボドルムI-Ab2〕)生まれ。
(ハリカルナッソスは、前10世紀頃にギリシア人が本土から移住してきて定住したイオニア地方のほぼ南端に位置しています)

また、アリストテレス『弁論術』3.9には、本書の冒頭ハリカルナッソス出身が、トゥリオイ〔I-Aa2〕出身と記述されています。
(写本は一致してハリカルナッソスの読みを採用していますが、「トゥリオイ出身の」の読みを本来のものとする学者も少なくありません。なお、Budé版はトゥリオイを採用しています。)

―政争(対僭主リュグダミス:バニュアッシス殺害される)の勝利後、市民の妬みを恐れて亡命。

サモス〔I-Eg4〕へ。
 僭主ポリュクラテスの物語(第三巻)
 ペルシア・エジプトなど各地を旅行。

アテネ〔I-Ab2〕へ。
 ペリクレス時代(前443〜29年)の頂点の頃に滞在(第六巻)
 評議会議場での朗読、表彰の逸話
 ソフォクレスとの交友関係の推測

→トゥリオイ〔I-A.a2〕へ移住(アテネの植民市:イタリア:前444年)
 晩年この地で『歴史』を完成か。
 トゥリオイにて没(アテネに戻って亡くなった説)。
 

『歴史』全9巻

(ヘレニズム時代に編纂:アレクサンドリアのムーセイオンにて)
―後3巻(7〜9巻)が最初に書かれており、それぞれの巻に9人のムーサイ(ミューズ:音楽・美術・文芸など芸術の女神)の名称が付されています。

※ヤコビー(1913)は、作品の詳細な分析の結果、前半部のペルシア、エジプトなどの記述と、後半部のペルシア戦争に関する記述の仕方の相違の理由について、成立時期の相違に帰着させています。(桜井40頁より)

○内容

第1巻(クレイオの巻=クリオ歴史の女神)

序説
伝説上の東西の抗争
―イオ神話、エウロペ神話、アルゴー船遠征、トロイア戦争など。
リュディアの歴史とペルシアの興隆

第2巻(エウテルペの巻)

エジプトの地理と民族誌

第3巻(タレイアの巻)

ダレイオス1世の権力掌握

第4巻(メルポメネの巻)

ダレイオスのスキティア遠征

第5巻(テルプシコレの巻)

ペルシアに対するイオニアのギリシア人の反乱

第6巻(エラトの巻)

ペルシの遠征(前490年)―マラトンの戦い

第7巻(ポリュムニアの巻)〜第9巻(カリオペの巻)

クセルクセスのギリシア遠征(前487/79年)

第8巻(ウラニアの巻)

サラミスの海戦

第9巻(カリオペの巻)

プラタイアとミュカレの海戦
結びでは、ペルシ人がもはやギリシアの脅威ではないことが強調されています。

巻一(クレイオの巻)

序文(プロオイミオン)

「以下は、ハリカルナッソス人ヘロドトスの研究(ヒストリエー)の発表である。人間によって生起したことが時の経過とともに忘却されぬために、また偉大なる驚嘆すべき業績、その一方はヘレネスにより、他方はバルバロイによって示されたものであるが、その業績の声誉が消えぬために、とりわけ両者が相互に戦った原因が不明にならないために、これを発表するのである。」
(一巻・冒頭:藤縄16頁)

ギリシア人やバルバロイの果たした偉大な事跡……=ペルシア戦争
(ペルシアに対する危機意識とホメロスを意識)
研究調査=ヒストリア→ヒストリー(歴史)の語源

※ギリシアの歴史叙述は、個人の自発的な企てとして執筆され、広くギリシア人一般に向けて公刊されるものであったから、冒頭の序文で自らの意図を明確に述べるのが普通でした。
その最古の例はヘカタイオスの『系譜』(ゲネエーロギアイ)』(前500年頃)と呼ばれる一種の歴史書の序文。(藤縄15頁)

伝説時代における東西の抗争 :1〜5(以下、数字は節の番号)

1:イオ神話
イオ(アルゴス〔I-A.b2〕の王イナコスの娘:ゼウスの恋人であり、牝牛に姿を変えられてギリシアからエジプトまで各地をさまよった:ボスポロス海峡=牝牛の渡し)神話を史的事実として解釈 。

2 :エウロペ神話
エウロペ(テュロス〔I-Ac2〕の王アゲーノールの娘:ゼウス牡牛に身を変じ、彼女を背にクレタへ:「ヨーロッパ」の由来)神話を史的事実として。

2:アルゴー船遠征物語
テッサリア〔I-E.c3〕の王子イアソーン、コルキス〔I-Ad1〕の金羊毛を求めてアルゴー船で航海(英雄ヘラクレス、テセウスらアルゴナウタイと)→イアソーン、王女メディアと共に帰還(コリントス
※エウリピデス『メディア』

3:トロイア戦争の原因
トロイア〔イリオス:I-A.b2〕の王子パリス(アレクサンドロス)による、スパルタI-Ab2〕王メネラオスの后ヘレネーの略奪。

※ 東西の女性の地位の相違

リュディア〔I-B.b2〕の歴史 :6〜94

リュディアの古史(ギュゲスよりクロイソスに至る):7〜25

7:ヘラクレス家→メルムナス家(クロイソスの一門)
 ヘラクレスーアルカイオスーベロスーニノスーアグロン(最初のサルデス王)
 ……ミュルソスーカンダウレス(22代最後の王:ギリシア名ミュルシロス)

12 ギュゲス、王権を手中に収める

○アルキロコス(抒情詩人)の詩(イアンボス六脚詩)

「あのギューゲースの黄金を積んだ王の富も有り難くはない。
まだかって嫉妬(やっかみ)などした覚えもなし、
神々のなされることを羨みもせぬ、また高大な王権にも望みはない。
それらはみな、わしの眼からはずっと離れたところにあるもの。」
(呉訳:ディール編 断片22)

「黄金に富むギュゲスのことなど、気になるものか、
妬んだことなど一度もない。神々の為されることをも、
羨みはしない。僭主の大権も欲しくはない。
どれも私の眼から遠く離れているのだ。」(藤縄訳:ウェスト編 断片19)

※歴史上の人物:アッシリア王アッシュルバニパルの業績録に、ル・ウド・ディという国の王グーグと表記されている(藤縄、30頁)。

13 :ギュゲス、デルポイ(I-Dc2)の神託を伺い認められ王位に就く。
ただし、デルポイの巫女(ピュティア)、ギュゲスの五代目の後裔に至って、ヘラクレス家の報復が下る旨付言。

14 :ギュゲス、ミレトス〔I-Ba3〕、スミュルナ〔同左〕に進軍。コロポン〔同左〕の市街を占領。

15: 二代目アルデュス、プリエネ〔I-Ba3〕を占領、ミレトスに侵攻。

16 :三代目サデュアッテス 四代目アリアッテス王位継承。
 アリアッテス、スミュルナ〔I-Ba3〕を占領、クラゾメナイ〔同左〕に侵攻。

17-22 :アリアッテスとミレトスとの戦い

23-24 :キタラ(竪琴)弾きアリオンの物語。

25 :アリアッテス、ミレトスとの和睦、戦い終えた後没。

※サルディスの支配者に関しては、本文399頁、訳註の項にヘラクレス家とメルムナス家の系図が掲載されています。

(2020/01/11:改)

クロイソス物語:26〜94

26: アリュアッテスの子クロイソス、父の死後35歳で即位。
 エペソス〔I-Ba3〕を手始めに、イオニア〔I-Ba3〕およびアイオリス〔I-Ba2〕のギリシア都市を征服し、朝貢を強制。

28:クロイソス、ハリュス河〔I-Bd2〕以西(下部アジア)の住民の大部分を征服。
 クロイソスの支配した諸族:リュデイア人〔I-Bb2-3〕、プリュギア人〔I-Ba-d2-3〕、ミュシア人〔I-Bb2〕、マリアンデュノイ人〔I-Bc-d1〕、カリュベス人〔I-Bf-h1-2〕、パプラゴニア人〔I-Be1〕、テュノイ人〔I-Bb-c1〕、ビテュアニア人〔I-Bc1〕、カリア人〔I-Bb3〕、イオニア人〔I-Ba3〕、ドーリス人〔I-Ba-b3〕、アイオリス人〔I-Ba2〕、パンピュリア人〔I-Bc3-4〕

クロイソスとソロン: 29-33

 クロイソスとソロンの会見は、フィクションの可能性大。
 クロイソス即位(前560年頃)
 ソロンの改革(前594年頃)→改革後、外遊の途。

 ・ソロンが表明する最も幸福な人間
 第一位「アテナイのテッロス」
 ①立派なポリスの市民
 ②子供や孫に恵まれていること
 ③適度に裕福であること
 ④名誉の戦死(隣国メガラとエレウシスでの戦いにて)

 第二位「アルゴスのクレオビスとビトンの兄弟」
 ①親孝行
 ②同胞市民の間での顕彰、名誉と死
 ③多少の財産

画像の説明

(写真:クレオビスとビトンの大理石:高さ2m16cm:前590年頃作:1893,94年デルポイ出土;1988年3月撮影、デルポイ博物館にて)

※ アルゴス人による巨大な像の奉納は、この兄弟の親孝行の話が、全ギリシア的に知られた有名な逸話であることがわかります。
なお、アルゴスのヘラ神殿(ヘーライオン)は、アルゴスの町から離れたアクライアという丘の上に前700年頃建立された神殿。
丘の上からは南側の平野の彼方に、アルゴスのアクロポリス(大小二つの丘)が見られます。
アルゴスのアクロポリスからヘラ神殿までの距離は、兄弟が牛の代わりにくびきの下へ入って母親を車に載せて45スタディオン走ったとあるように約8km。

なお、テッロス、クレオビスとビトンの兄弟は共にソロンと同時代の人物と思われます。

ソロンが彼らをクロイソスより「幸福な人間」に挙げた理由を要約すれば、「神は嫉み深いゆえ、幸福な人間でも生涯を終えるところまでを見届けぬ限り、今どれ程富んでいようとも、普通の人間より以上に幸福だとは考えられない」(藤縄、33頁)

ソロンとクロイソスの対話自体は史実ではないにしても、「奢れる者久しからず」という歴史観の一つの範例。東西両文明の相違を示しています。(藤縄、41頁)

(2020/04/16:改)

クロイソスとアドラストス:34-45

35:プリュギア(I-Ba-d2,3)人アドラストス、過失で兄弟を殺し故郷を追放されサルディスへ。クロイソスは罪を浄める儀式をして客人として遇す。

36:ミュシア(I-B.2)のオリュンポス山に大きな猪の出現。
  ミュシアの使者は、クロイソスに猪退治を嘆願

43: 護衛に付けたアドラストスが、アテュス(クロイソスの息子)を誤って殺害。(夢のお告げは実現される)→クロイソスはアドラストスを許すが自死。

クロイソスと神託:46-55

46:キュロスの登場によりペルシアの強大化→クロイソス、各地へ神託伺い。
 デルポイ(I-E.c4、アバイ(I-E.d4)、ドドネ(I-Eb3)、アンピアラオス(テバイ(I-E.d4)領クノピア→オロポスのアンピアライオンへ移築:ストラボン9. 2. 10)、トロポニオス(レバディア:〔I-E.d4〕)、ブランキダイ(ディデュマ〔:I-Eh5〕)、アンモン(リビア:〔I-D.d4〕)

47:神託を試す瀆神的行為

※ヘクサメトロス(長短々六脚韻)
=六脚韻単位からなる詩。ホメーロスの叙事詩などに用いられています。

長(アー)・短(ア)・短(ア)(韻母)を六度重ねた行。
ーUU /ーUU / ーUU /ーUU / ーUU / ーUU

※韻(韻母)を踏む(押す)=詩句の一定のところに同韻の字を置くこと。

→クロイソスは、デルポイの神託を信じる。

50-51:クロイソス、デルポイへ金銀製奉納品を献納。

※度量衡(532頁〜536頁)
 1パラステ(7.4cm):6パラステ(44.4cm)、3パラステ(22.2cm)
 1タラントン(6000ドラクマ:約26.2kg):2.5タラントン(約65.5kg)、
  2タラントン(約52.5kg)、10タラントン(約262kg)、6タラントン(約  
  169kg)、3.5タラントン(約91kg) 
 1ムナ(600ドラクマ:436.6g):8.5タラントンと12ムナ(約227.2kg)
 1アンポレウス(39.4l):600アンポレウス(23.6l)
 1ペキュス(44.4cm):3ペキュウス(13.2cm)

(なお、下記に簡単な度量衡表を載せましたので、参考にして下さい。)

 前548年のデルポイのアポロン神殿の火災の際、奉納品は「コリントス人の宝庫」へ。
(パウサニアス『ギリシア案内記』10.13.7を参照)

51:クロイソス、黄金製および銀製の二個の巨大な混酒器(クラテル)を奉納
  (混酒器クラテルに関しては、下記の陶器の形状と名称を参照)
※ ギリシア人はワインはたいてい水で割って飲みました。その割合は酒1:水2or3

後、黄金製は「クラゾメナイの宝蔵」へ、銀製はアポロン神殿のプロナオス(前廊)へ。
(なお、神殿の様式はアテネのパルテノン神殿を参照)

52:クロイソス、アンピアラオスの社へ黄金製の楯と槍を奉納。
ヘロドトスの時代まで、テーベの「アポロン・イスメニオス神殿」に現存。

53:デルポイの神託
「クロイソスがペルシアに出兵すれば、大帝国を滅ぼすことになる」
ギリシアの中で最強の国と同盟を結ぶことを勧告。
→クロイソスはペルシアを滅ぼすことができると思い込む。

55:クロイソス三度神託を伺う
  「騾馬がメディア〔I-C.d-e3〕〕の王になったならば、……」

※メディアはペルシア人と同族で、ギリシア人はペルシ人とメディア人を混同していました。ペルシア戦争の際に、ペルシアに加担する行為を、「メディアへの寝返り」「ペルシアびいき(メディスモス)」などと呼んでいます。

(2020/04/29:改)

クロイソスとギリシア:56-70

56-64:アテナイ〔I-E.d4〕の状況

56:アテナイ人は、古くはペラスゴイ民族(ギリシアの先住民族=バルバロイ)。
=ヘロドトスの大胆な推論。

ヘロドトスは、ヘレネスとバルバロイとの抗争(ペルシア戦争)を主題としながら、このヘレネス自体にも根本にバルバロイの要素があることを指摘しています。(藤縄265頁)

ギリシア人(印欧語族)の侵入は何度かの波で、ドーリス人の侵入・移動(前1,100年頃)は最後の波、それ以前のギリシア語を話す人々の侵入・定住(前1,900年頃)はミケーネ文明を築いています。
  
アテネ人は、自分たちは他国の連中と違い、土地生え抜き(アウトクトネス)であるという誇りを抱いていました。
また、アクロポリスの上には、ペラルギコン(ペラスギコン)と呼ばれるミケーネ時代以来の城壁がありました。

デウカリオーン王(ギリシア神話;プロメテウスの子:洪水伝説)
=プティオティスの地(I-E.c-d3)
→ヘレーン(ギリシア人:ヘレネスの祖)=ドーロス、クストース、アイオリスの父
→ドーロス(ドーリア人の祖)=オッサ山〔I-E.d3〕、オリュンポス山〔I-E.c2〕〜ヒスティアイオティス〜ピンドス(マケドノス族)〜ドリュオピス地方〔I-E.c-d4〕〜ペロポネソス(ドーリス族:〔I-E.c-d5〕)

※クストース(イオニア人の祖)、アイオロス(アイオリス人の祖)

※ドーリス人の侵入
(1)デウカリオーンの時代には、その領内のフォティオティス(テッサリア南部)に住みました。
(2)デウカリオーンの孫で、ヘレンの子ドーロスの時代には、オッサ山とオリュンポス山の麓のヒスティアイオティス地方に住みました。
(3)カドメイオイ(テーバイの住古の住民)によって同地から追放されて、ピンドス(ドーリス地方の町)に住み、マケドノス族と呼ばれました。
(4)ここから更にドリュオピス地方(ドーリス地方の一部)に移りました。
(5)最後に、そこからペロポネソスに移動して、ドーリス族と呼ばれるようになりました。
(藤縄317-18頁)

57:ペラスゴイ人(非ギリシア語)の地
テュルセニア〔I-F.f1-2〕、テッサリオティス〔I-E.c3〕、ヘレスポントス〔I-E.g2〕
アテナイ人(もとペラスゴイ系)→ギリシア民族に吸収されギリシア語化。

=ヘロドトス、トゥキュディデスによれば、ギリシアの地にはヘレネス以外に、ペラスゴイ人など異なった言葉を話す種族が住んでいたが、次第にギリシア語化してやがて全部がヘレネスと呼ばれるようになります。(藤縄267頁)

なお、ヘロドトスは、ドーリス人(本来のギリシア人)も、最初からギリシアの僻地に居住していたのであって、決して外部の「原住地」から移動してきたものとは考えていないようです。(藤縄267頁)

(2020/04/24)

59-64:ペイシストラトスの僭主政樹立。

59:アテネの三党派

○「海岸の人々(パラリオイ)」―アルクメオン家のメガクレス(II)が指導(中間派)。
「海岸」とはアテナイ市外南東、パレロンからスニオンに至る沿岸部を広く指しますが、実際にアルクメオン家の地盤は、アテナイ市から南方ないし南東方沿岸までの比較的限られた地域。のちのアロペケ、アグリュレ、クシュぺテ各区です。

○「平野の人々(ペディアコイ)」―リュクルゴスが指導(保守的貴族派)。
アテナイ市内および周辺の平野部を指します。
 
○「山地の人々(ディアクリオイ)」―ペイシストラトスが指導(貧民派)。
「山地」とはアッティカ北東部の山間地を指しますが、ここでは「山向こうの人(ヒペラクリオイ)」、つまりアテナイ市から見て北東のパルネス、ペンテリコン、ヒュッメトス各山地の外側を住む人々を指しています。
これにはアッティカ東部沿岸の一部も含まれ、実際ペイシストラトスの本拠地は東海岸のブラウロンでした。
(橋場訳/アリストテレス『アテナイ人の国制』43頁より)

※下記のアッティカ全図を参照。

59:第一回僭主政樹立(前561/0年)
ペイシストラトスは、隣国メガラとの戦い(サラミス島およびエレウシスの領有をめぐる争い)に勝利して名声を獲得。→故意に身体を傷つけて、政敵の仕業と訴え護衛兵(棍棒持ち)を付けさせ、アクロポリスを占領。

※ヘロドトスは、ペイシストラトスの支配を「既存の官制を乱したり、法律を改変したりせず、従来からの制度によってポリスを立派に統治した」と評価しています。

60:メガクレス(II)(海岸党)とリュクルゴス(平地党)が連携して、ペイシストラトスを追放(前561/0年)。
両派抗争→メガクレス(II)は自分の娘をめとるという条件を出して、ペイシストラトスを復帰させます。
メガクレス(II)一派は、大柄の美女をアテネ女神に変装させ、女神自らがペイシストラトスを連れ帰ったと演出。→アテネ市民は彼を迎え入れる(第二回僭主政)。

61:ペイシストラトス、アルクメオン家の血の穢れを嫌ってメガクレス(II)の娘と同衾せず。

※アルクメオン家の血の穢れ:
アテネの貴族キュロンとその仲間は、僭主政樹立を企てアクロポリスを占拠したが失敗(前632年?)。アテネ女神の神域に逃げ込んで嘆願した者らを当局は殺害。当時アルコンであったアルクメオン家のメガクレス(I)(メガクレス(II)の祖父)が、その殺害の責任者とされました。

→メガクレス(II)激怒して 、再び平地党と手を結ぶ。
→ペイシストラトス、エレトリア(I-E.e4)へ再度亡命。
(ペイシストラトスの追放後の足取りは、エーゲ海北西テルメ湾東岸のライケロスに入植→トラキア地方ストリュモン川(I-E.d1)東岸パンガイオン(金銀の産地)→エレトリア:橋場訳/アリストテレス『アテナイ人の国制』15.2)

62-64:ペイシストラトスの一党、エレトリアを出発してマラトン(I-E.e4)へ。
→「パレネのアテネ女神(パレニス)」の戦いに勝利。
※パレネはヒュメットス山北麓の集落
→ペイシストラトス、三度目にして支配権を確立(前546年/5年頃:第三回僭主政樹立)。

(2020/04/30)

65-70:スパルタ〔I-E.c5〕の状況

65:スパルタとテゲア(I-Ec5)の抗争
二王制:アギス王家とエウリュポン王家の世襲制。
※下記のスパルタの二王家を参照。
(レオンとヘゲシクレス/アガシクレス:前6世紀中頃)

○リュクルゴス(伝説上の人物)の制度:
スパルタの王レオボテス/ラボタスの後見役→クレタ島より法を導入
王カリラオスとアルケラオスの時代(前8世紀前半)
(プルタルコス『リュクルゴス伝』5.8-9)

・長老会(ゲロンテス):60歳以上の元老28名の終身官。
国王2名を含めての30名の評議会。
・エポロイ(監督官):国民を代表して毎年5名づつ選出。王の施政を監視。
・民会:長老や王たちの提案の議決権
・シュッシテイア(共同食事)
※デルポイの神託によるお告げ(レトラ)

66:アルカディア〔I-E.c4-5〕攻略のため、デルポイへ神託伺い、断念。
  →テゲアへ進軍、敗北(「アテナ・アレア神殿」に捕虜の足枷:Hd.実見)

67-68:アナクサンドリデスとアリストン両王(前6世紀中頃)、テゲアに勝利。
  デルポイの神託「アガメムノンの子オレステスの遺骨をスパルタへ」
  リカスの発見→遺骨を密かにテゲアからスパルタへ移し、その被護により勝利。
  →クロイソスの頃、スパルタはペロポネソスの大部分を征服。

70:スパルタはクロイソスからの同盟の申し出を受諾。

(2020/05/06)

クロイソスとキュロスの対決:71-94

71:リュディアの賢人として名高いサンダニスの忠告。
「美味なものは何一つない貧乏国ペルシアを征服しても、こちらには何の利益もないし、他方ペルシ人の方が勝てば、こちらは奪われる物が多い。」
=ペルシアは、華美なもの、結構なものは何一つない。

72:カッパドキア(西はハリュス河、東はアルメニア国境に至る地域:I-Be-h2) 
  住民はシリア人と呼ばれ、メディアに服属しています。

73:クロイソスのカッパドキア進軍の理由は、領土欲と神託を信じたこと、そしてメディアの王アステュアゲスの仇討ち。

74:リュディアとメディアの戦いースキタイ人の引き渡し要求が原因。
和平の誓約:アリュアッティス(リュディア)の娘アリュエニスとキュアクサレス(メディア)の子アステュアゲスの婚姻=クロイソスの義兄弟。
キュロス(ペルシア)は、母方の祖父のアステュゲアスを征服。

75-80:クロイソスは、ハリュス河を渡河。(キュロスのイオニア離反策は失敗。)
キュロスの大軍と決戦、勝敗は決せず→サルディスへ引き返す。

エジプト王アマシアス、バビロン王ラピュネトス、ラケダイモンへ援軍を要請。

クロイソスは外人傭兵を解散→キュロスは、サルデスへ攻撃を開始。

リュディア人の騎馬・長槍部隊は、ペルシア軍の駱駝部隊に敗走。
→リュディア軍、アクロポリスに籠城。 

82:スパルタとアルゴスの係争(前550年頃)

スパルタのテュレア(〔I-Ed.5〕:旧アルゴス領)占領をめぐって。

双方300人ずつの戦い→アルゴス方アルケノルとクロミオスの二人と、スパルタ方オトリュアデス一人が生き残る(自決)。
→最終的にスパルタの勝利=スパルタの長髪の慣習の始まり。

84-86:サルディス〔I-E.h4〕の陥落:

画像の説明
<サルディス市街図>
(阿倍拓児『ペルシア帝国と小アジア』京都大学出版会、2015年、33頁より)

伝説上のサルディス王メレスが、妾の産んだ獅子を引きずってアクロポリスの城壁をめぐる→サルディスは難攻不落の都市になったという不思議な縁起譚を紹介しています。

アクロポリスの断崖絶壁の登攀可能場所=トモロス山(I-Eh4)に面した場所(アクロポリス南方)からペルシア兵の侵入。

→ペルシア兵が、クロイソスを王とは知らずに殺そうとしたとき、クロイソスの唖の息子は「クロイソスを殺すな」と叫ぶ。
=「唖の子供が声を出すようになる日こそ、災いの日だ」という託宣が実現します。

クロイソスは、キュロス王の命により、薪の山の上へ上げられ、14人のリュディアの子供達とともに、火刑に処されることになります。

画像の説明
<写真:火刑に処されるクロイソス:前5世紀のアンフォラ:ルーブル博物館蔵>
(J. Boardman, Athenian Red Figure Vases :The Archaic Period, Thames and Hudson,1975, p.118より)

クロイソスは三度ソロンの名を呼びます。説明を求められたキュロスに対して「どれほどの栄華にあっても、最後まで見届けない限り、その人を幸福だとは言えない」というソロンの訓戒を話します。
キュロスは、死刑の中止を命じるが火を消すことができず、クロイソスはアポロンに祈ります。
→大雨が降り、クロイソスは助かります。
(87:ヘロドトスは、この奇蹟をリュディア人の伝承としています。)

キュロスは、以後クロイソスを丁重にもてなします。

90-91:クロイソス、デルポイへ使者を派遣して、神の責任を追及します。
なぜ、神は誤った神託を下し、自分を滅ぼしたのか?

理由は、
・4代前のギュゲスの主君殺しの罪(13章参照:定まった運命:因果応報)。
・神託の預言の「大帝国の滅亡」の大国は、リデュアかペルシアかのどちらかを問い直すべき。
→巫女の返答に、クロイソスは過ちの責は自分にあると悟ります。

93:アリュアッテスの陵墓
画像の説明
<クロイソスの父アリュアッテスの陵墓;サルディスの遺跡の北約7.5km>
(R. B. Strassler, ed., The Landmark Herodotus, New York, 2009, p.54より)

墓の周囲は約1.125m、幅(直径)385m。墓に隣接してギュゲス湖。

94:リュディア人の風習とエトルリアへの植民
娘は身を売って、嫁入りするまで自分の持参金を稼ぐ。
金銀の貨幣鋳造・使用の最初の民族(前600年頃:エレクトロン(天然の琥珀金))。
小売り制度を創始。
遊戯の発明:
ダイス(キュボイ)、骨サイコロ(アストロガロイ)、鞠遊び、西洋碁(ベッソイ)。
マネスの子アテュスの時代に飢饉が起き、テュルセニア(エトルスキ)へ植民。

画像の説明
画像の説明
画像の説明
<写真:上:骨サイコロ(山羊や羊の趾(し)骨=足の指の骨、距(きょ)骨=足首の骨); 
中:サイコロ遊びをする少年;
下:ボードゲームをするアキレスとアイアス(前530〜前520年頃:ローマ、ヴァチカン美術館)>
(高畠・齋藤・竹内『図説 古代ギリシアの暮らし』27−28頁より)

画像の説明
<写真:アテネの銀貨(4ドラクマ貨):前5〜前3世紀>
(同書、73頁より)

(2020/06/01)

ペルシアの興隆:95-217

メディアの歴史とキュロスの生い立ち:95-122

95:メディア人が「自由のために」アッシリア人と戦って独立し、他の諸民族もこれに倣います。

96-100:メディアの人デイオケスは、独裁者になろうと欲して、次のような行動に出ます。
まず、正義の士として振る舞い、自分の住む村の人々の信頼を得て、裁判を委ねられます。
公正だとの名声を得た後で、突然に裁判の仕事を辞退します。
人々は相談の上、彼を王に樹立することにしますが、デイオケスは、「宮殿」を建てること、「親衛隊」を自ら組織することを条件に引き受け、即位するや、専制君主としての体制を固めます。
首都アグバタナ(エクバタナ:〔I-C.d3〕)の宮殿の周囲には七重の堅固な城壁をめぐらし、人民はその外側に住まわされます。
そして、宮廷の儀礼法を定め、何人も王の室へ入ることは許されず、役人が取り次ぎ、治安や司法の維持を厳格にして、全領土へ密偵を派遣しました。
(デイオケスの治世は、前700年〜647年頃:466頁の系図を参照)

101:デイオケスはメディア民族のみを統一し、これを統治しました。
メディアの6部族―ブサイ、パレタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブディオイ、マゴイ

102:デイオケスの息子プラオルテスは、ペルシアに出兵して、これを属国として、アジアの民族を次々に征服したが、最後にアッシリア(I-C.c3)攻撃中に戦死します。
(治世は前647〜625年)

103:プラオルテスの息子キュアクサレスが即位して、ハリュス河〔I-C.b2〕以東のアジアを支配します(治世:前625-585年頃)。
アッシリアの首都ニノス(ニベア:〔I-C.c3〕)を攻撃中、背後からスキタイ人(〔1-C,c-d.1〕:マデュエス王)の攻撃を受け、メディア人は28年間支配に甘んじます。

104-05:スキタイ人の侵入と支配。さらに、彼らはパレスチナ・シリア(〔I-C.b3〕:フェニキア沿岸一帯)へ進出します。
彼らの一部は、アスカロン〔I-C.b4〕の「アプロディテ・ウラニア」の神殿を荒らし、彼らとその子孫(エナレスと呼ばれる)は「おんな病」に罹ります。

106:その後、キュアクサレスは、スキタイ人を宴会に招いて酒に酔わせて殺害するという方法で撃退し、ニノス攻略にも成功して帝国を再建します。

(このキュアクサレス王の時に、メディア人はハリュス河以西のリュディア人と5年間戦い、和約が結ばれ、リュディアの王アリュアッテスの娘アリュエニスが、キュアクサレスの子アステュゲアスに嫁することになります。:1巻74章)

※従って、メディア王国の最後の王アステュゲアスは、リュディア最後の王クロイソスと義兄弟であり、両者ともキュロスに支配権を奪われます。

(2020/06/14)

107-113:キュアクサレスの死後(治世:前625年〜585年頃)、息子のアステュゲアスが王位を継ぎます。
彼は、娘のマンダネが放尿し、その尿がアジア全土に氾濫したという夢を見ます。
彼は恐れて、この娘を遠ざけるためペルシア人のカンビュセスに嫁がせます。(系図466頁を参照)
しかし、彼は再び、娘の陰部から葡萄の樹が生えてアジア全土を覆うという夢を見ます。
マゴス(神官)の夢占いは、彼の娘の産む子がやがて彼に代わって王となるというものでした。
そこで、彼は妊娠中の娘を呼び戻し、子供のキュロスが生まれると重臣のハルパゴスに殺すことを命じます。
しかし、ハルパゴスは自分の手では殺さずに、牛飼いのミトラダテスに赤子を殺すことを任せます。
しかし、ミトラダテスも殺すことができず、妻と相談して、たまたま妻が死産したところなので、その死体を嬰児殺害の証拠として示し、キュロスをわが子として育てることになります。

114-122:キュロスが10歳になった時、同じ年頃の仲間と遊んでいる際に、王に選ばれたことから、素性が露見されてしまいます。
王命を実行しなかったハルパゴスは、アステュゲアス王から残忍な報復を受けます。
アステュゲアス王は表面では、命令に反して孫の命を救ってくれたことを感謝しながら、ハルパゴスを宴に招いて、彼の息子の肉を食べさせます。
ハルパゴスは、そのことを知っても怒りを見せず、残りの肉を持って自宅へ引き返します。
キュロスについては、マゴス(神官)は今や心配には及ばないと告げ、アステュゲアス王は、彼をペルシアの実の両親の許へ送り届けます。

(2020/06/18)

 ペルシア、メディアより離反して覇権を掌握:123-130

123-124:キュロスがペルシアの両親の許で成人すると、ハルパゴスは密書を送ってアステュゲアス王に対する反乱を促します。

125-126:キュロスは、ペルシア人(バサルガダイ、マラピオイ、マスピオイの三部族)を召集して、反乱に従うよう仕向ける方策を考えます。

*他のペルシの諸部族:パンティアライオイ、デルシアイオイ、ゲルマニオイ(農耕民)、ダオイ、マルドイ、ドロピコイ、サガルティオイ(遊牧民)

キュロスは、最初の日は彼らに荒れ地での開墾を、次の日は草原での酒池肉林を経験させて、メディアに対する反乱に従ったなら豊かな生活と自由を約束します。

※ ヘロドトスは、当時のペルシア人はこのような欲望しか知らない民族として描いています。

127-130:キュロスがペルシア人を率いて決起すると、アステュゲアスはメディア全軍に武装を命じます。
しかし、―神意によって判断を曇らされてー司令官に人もあろうにハルパゴスを命じます。
ハルパゴス麾下の軍隊は寝返り、キュロスの軍隊は楽勝し、アステュゲアスは捕らえられ、ペルシア人キュロスの支配権が確立します(前550年)。

(2020/08/02)

ペルシア人の風習:131-140

131:ペルシア人の宗教的信条―偶像・神殿を作らない
  日、月、地、火、水を祭る

132:ペルシア人の犠牲の方法

133:ペルシア人の様々な慣習
  誕生日を尊重。酒好きで重要な事項は、酒を飲みながら相談する習慣。

134:ペルシア人の地位、隣人に対する態度。

135:ペルシア人は外国の習慣を歓迎。
  メディアの衣装。エジプト式の胸当て。ギリシアの少年愛。

136:ペルシア人の少年への教育。
  乗馬、弓術、正直(に語ること)。

137:ペルシの法律への称賛
一度だけの過失では、癒やしがたい苦痛を与えない。

138:ペルシア人は、嘘と癩病を嫌い、河川を敬う。

139:ペルシア人の名前は、同じ文字(S)で終わっている。

140:ペルシア人の埋葬習慣に関する話。
  葬る前に、鳥や犬に食いちぎらせる。死骸に蠟を塗って土中に埋葬。
  

ペルシアの小アジア征服:141-176

141:ペルシアとイオニア諸都市(小アジア)
  キュロスは、イオニア人(I-I.f-g3-4)とアイオリス人(I-I.f-g2-3)の申し出を拒否。
イオニア人は都市を強化し、スパルタに救援を求める。
ミレトス (I-I.g4) はペルシアと協定を結ぶ。
※聖地パンイオニアン(I-I.g4)に集合して協議。

142:イオニアの4方言(12都市)・カリア地方:ミレトス、ミュウス(I-I.g4)、プリエネ(I-Ig4)・リュディア地方:エペソス(I-I.g3)、コロポン(I-I.g3)、レベドス(I-I.g3)テオス(I-I.g3)、クラゾメナイ((I-I.f3)、ポカイア(I-I.f3)・キオス島(I-I.f3)、エリュトライ(I-I.f3)・サモス島(I-I.f-g3)

143:ミレトスと島に住むイオニア人、ペルシアに脅威を感ぜず。

144:小アジアのドーリア人の五市(ペンタポリス)or六市(ヘクサポリス)。
  ・ロドス島:リンドス(I-I.h5)、イアリュソス(I-I.h5)、カミロス(I-I.h5)
  ・コス(I-I.g4)
  ・クニドス(I-I.g4)
  ※聖地トリオピオン(I-I.g4)→ハリカルナッソス(I-I.g4)の参加禁止。

145:イオニアの十二都市は、ペロポネソスに住んでいた頃の十二都市から移住。
 ※下記の地図1を参照のこと。
ペレネ(BX)、アイゲイラ(AX)、アイガイ(AX)、ブラ(AX)、ヘリケ(AX)、アイギオン(AX)、リュペス(AX)、パトレエス(パトライ)(AX)、
パレエス(AX)、オレノス(AX)、デユメ(AX)、トリタイエエス(トリタイア)(BX)

146:イオニア植民に多くの都市が参加して、イオニアは今日混成人種。
エウボイア(AY)のアパンテス人、オルコメノス(AY)のミニュアイ人、
カドメイオイ人、ドリュオメス人(エウボイア:AY)、ポキス人(AX)、
モロッシア人(I-I.a2)、アルカディア(BX)のペラスゴイ人、エピダウロス(BY)のドーリス人。

画像の説明
<地図1>
(R. B. Strassler,ed., The Landmark Herodotus.p79)

147:イオニア人は、古い土着の系統から王を選出。
エペソスとコロポンの二市以外は、アテネ起源のアパトリア祭を祝う
=イオニア人

148:イオニア人はパンイオニア祭を祝う。

149:アイオリス人の都市(11都市)
 ※下記の地図2を参照。
 キュメ(プリコニスの異名:AX)、レリサイ(ラリッサ:AX)、
ネオンテイコス(AX)、テムノス(AY)、キラ(不明)ノティオン(BY)
アイギロエッサ(不明)、ピタネ(AX)、アイガイアイ(AY)ミュリナ(AX)、
グリュネイア(AY)→スミュルナ(BY)がイオニア人よって切り離される。

150:アイオリス人がスミリュナを失った事情。
  コロポンの亡命者が、スミリュナを占領。
  →協定が成立し、アイオリスの十一市は分担してスミリュナ人を収容。

151:島のアイオリス人の都市。
 ・レスボス島(AX)に5つの町。
(ミュティレネ、アンティッサ、ピュラ、エレソス、メテュムナ)
→アリスバ(AX)、メテュムナ(AX)により奴隷化。
・テネドス島(AX)
・ヘカトンネーソイ(百島)(AX)

画像の説明
<地図2>
(同上、p.81)

(2020/11/15)

152-161:リュディアの反乱とその鎮圧

152(スパルタ):前546年(?)。イオニア人とアイオリス人は、スパルタ(I-Ib.4)に使節を送り救援を求めるが、スパルタは拒絶。
しかし、スパルタは使節を送り(ポカイア:I-I.f3)、キュロスにギリシア都市に危害を加えないよう警告。
153(サルディス):キュロスはスパルタ人とは何者か?数はどれ程かと側近に尋ねる。キュロスはバビロン攻撃のためにサルデス(I-I.h3)を去る。
154(リュディア):前545年。リュディア、ペルシアの支配に対して反乱を企てる・
155(サルディス):クロイソスは、キュロスにリュディア人の武器の所持を禁止するなどの提案をして、サルディスを彼の懲罰から救う。
156(リュディア):キュロスは、リュディア人についてクロイソスの献策に従う。
157(サルディスーキュメ):サルディスはペルシア人によって攻め落とされ、反乱の首謀者パクテュエスは、キュメ(I-I.g3)に逃亡。ペルシ人は彼の引き渡しを要求。
158(キュメ):キュメ人は、ブランキダイ(ディデユマ)の神託を伺う。
神託は、「引き渡すべし」
159(ブラキダイ):ブラキダイの神託の質問に選ばれたアリストディコスは、神から同じ返答を受ける。
160(ミュティレネーキオス):キュメ人はパクテュエスをミティレネ(I-I.f2)へ、さらにキオス(I-If.3)へ送る。キオス人は、パクテュエスをペルシアへ引き渡す。
161(イオニア:545年?):プリエネ(I-I.g4)人は奴隷として売り払われる。マグネシア(マイアンドロス河の北側の町:I-I.g.3)略奪される。

162-176:ハルパゴスによる小アジア征服

画像の説明
<地図>
(R.B. Strassler, p.85) 

162(イオニア):ハルパゴスは、盛り土作戦によってイオニア諸都市を征服。
画像の説明
<写真>
※Lachishのアッシリア人によって築かれた盛り土(前704年:R.B. Strassler, p.88)

画像の説明
<写真:>
※Lachish占領を描いたアッシリア人のフリーズ(R.B. Strassler,p.89)

163(ポカイア):ハルパゴスは、イオニアで最初にポカイア(I-I.f3)に着手。
ポカイアはギリシア人の中では最初の遠洋航海の先駆者で、アドリア海(I-F.g1-2、テュルセニア(エトルリア:I-F.f1-2)、イベリア(I-F.b-d1-2)、タルテッソス(I-F.a2)などを発見。

画像の説明
<地図>
(R.B. Strassler, p.91)

164(ポカイア:前545年頃):ポカイア人は城壁を建造したが、ハルパゴスによって包囲されたとき、都市を捨てて他の地に移住することを決意。
165(キュルノス:コルシカ島:前45年頃):ポカイア人は、20年以上前に建設した、キュルノス(コルシカ島)のアラリア目指して船出。
166(キュルノス:コルシカ):ポカイア人は、テルセノイ人(エトルスキ人)・カルケドン人(カルタゴ人)連合軍と海戦を戦う。「カドメイアの勝利」により、ポカイア人はアラリアを捨てレギオン(I-F.g3)へ向かう。
167(アギュラ:カエレ):アギュラ人(エトルスキ:I-F.f2)は、捕虜のポカイア人を処刑。レギオンに逃れた者は、オイノトリア地方(I-F.g3)にヒュエレ(エレア:I-F.g3)を建設。
168(テオスーアブデラ):テオス人(I-I.g3)もイオニアを去り、トラキア(I-F.j2)にアブデラ(I-F.j3)の町を建設。
169(イオニア:前545年):すべてのイオニア人は、ペルシアと同盟を結んでいたミレトス(I-I.g4)を除いて征服される。
170(イオニア):プリエネ(I-I.g4)のビアスの勧告。イオニア人は一致団結して海路サルディニアへ渡り単一の町を建設せよ。タレスの勧告。イオニア人は、単一の中央政庁をテオス(I-Ig.3)に置く。
171(カリア:前545年):ハルパゴスは、小アジアの征服(カリア人・カウノス人・リュキア人)を継続。カリア人(I-B.b3)の起源(島から大陸へ移動)。カリア人の三つの発明(兜の頂の羽根飾り・楯の紋章・楯の把手)。

画像の説明
<地図>
(R.B. Strassler, p.94)

172(カウノス):カウノス人((I-B.b3)の起源と風習。飲酒の風習と異国の神々の追放。
173(リュキア):リュキア人(I-B.b-c-4)の起源と独特な風習(母家長制:母方の名前を名乗る)
174(クニドス):クニドス人(I-I.g4)は、領土全域を大陸から切り離すために運河の開削を試みたが、デルポイの神託により中止。ハルパゴスに戦わずして降伏。
175(カリア):ハリカルナッソス北方の奥地のペダサ人だけが、カリア人の内、しばらくハルパゴスの攻撃を持ちこたえる。やがて陥落。
176(リュキア):リュキア人(I-B.b-c4)、クサントス平野に進入したハルパゴス軍と戦う。リュキア人は、家族共々町を燃やし自らは戦死。

(2021/06/19)

バビロン征服:177-200

177: 下アジアをハルパゴスが荒涼している間、キュロス自身は上アジアを平定し、バビロン(I-C.c4)を攻撃(前539年)。

178-183(バビロン):バビロンの都市の記述

バビロンは各辺の長さは120スタディオン(約21km)、全周480スタディオン(約85km)の方形の町。町の周辺には壕がめぐらされ、厚さ50王ペキュス(約2.5m)、高さ200ペキュス(約8.8m)の城壁が町を囲んでいる。
城壁はアスファルトで補強され、全長に渡って百の総青銅作りの門がある。
なお、バビロンで利用されたアスファルトは、近くの町イス(I-C.C3)から運ばれた。
町は、中央をユーフラテス河が流れており、二つの部分に分かれている。
町は、三階建て四階建てがぎっしり並んでいて、それが縦横まっすぐな道路によって仕切られて、通りごとに青銅作りの小門が設置されている。

181: 「ゼウス・ペロス」(ヘロドトスの時代まで存在)の神殿の説明。
青銅の門構えで、各辺2スタディオン(約355m)の方形の神殿。
聖域の中央に、縦横1スタディオン(約177m)の塔が建っていて、その塔は8層に及んでいる。塔の頂上には神殿があり、内部には神像はなく寝椅子と黄金の卓のみが備えられている。夜には神に選ばれた土着の女性一人が宿泊。

183: バビロンの神域には下手に、巨大な黄金のゼウス座像が安置されたもう一つの神殿が存在。黄金は合計800タラントン(約21トン)。
また、神殿の外に黄金製の大祭壇があり、毎年祭礼時、千タラントン(約26トン)の乳香を焚いた。
この神域内には、純金像(12ペキュウス=約5.3m)がキュロス遠征の当時あったが、ダレイオスの子クセルクセスが、祭司を殺しこの像を手に入れた。

184(バビロン): 二人の有名な女王の支配。
伝説の女王セラミス(ギリシア名:サンムラマット)の業績。
ユーフラテス川に堤防を築く(「空中庭園」で有名)
185-187(バビロン):ニトクリスの業績(実はネブカドネザルの業績)。
ニトクリスは、町の上方に運河を掘り、ユーフラテス川を屈折させ、池を掘って一面の沼地を作り、町の防備を固めた。
また、町の中央に橋を作り、両地区の住民の往来を可能にした。
彼女は人通りの多い門の上に、「金子に窮する者あらば、金子を取れ」と刻んだ墓を作らせた。

188-191: バビロンの占領

188(前539年:バビロン):キュロスは、バビロンのニトクリスの息子ラビュネトスを攻撃。キュロスはスーサ(I-C.d4)を通るコアスペス河の水を携帯。

189(前539年:バビロニア):キュロスは、ギュンデス河に運河(360)を掘って、その流れを制御する。

190(前539年:バビロン):キュロスはバビロニア人を打ち破り、町を包囲。

191(前539年:バビロン):キュロスはユーフラテス河の水位を下げて、町に不意打ちをかけて占領する。

192-200: バビロンの国土とその風習

192(バビロン):ヘロドトスによるバビロンの膨大な富の記述。

193(メソポタミア):ヘロドトスは、メソポタミアの農業灌漑方法と、その驚くべき肥沃さを記述している。
灌漑方法は、人力による跳ね釣瓶(つるべ)で、水を畑に入れる。

画像の説明
(写真は、単一の跳ね釣瓶の使用)

画像の説明
(図画は、水をより高い高さにあげるために配置された跳ね釣瓶)
<写真>
(R.B.Strassler,ed.p.104)

バビロンは穀物の収穫量が平均して播種量の200倍、最大300倍に達する。
いちじく、葡萄、オリーブなどの穀物以外の果樹栽培はここでは試みられていない。

194(メソポタミア):ヘロドトスのバビロンの船の記述。
バビロンへの船は、丸型で革(獣皮)でできていて、積み荷をつんで河を下る。
バビロンに着き、荷物を始末すると船を解体して、その獣皮はロバの背に乗せて河を遡ってアルメニア(I-C.c-d2-3)へ帰って行く。

195(メソポタミア):メソポタミアの服装。
足まで届く長い麻の肌衣。上にもう1枚毛の下着を重ね、白の軽い上衣をその上に羽織る。髪は長く伸ばして紙紐(ミトラ)で結び、体中に香油を塗る。
印章と模様の彫った手作りの杖を持つ。

196(バビロニア):バビロン人の風習について。競売による結婚。

197(バビロニア):バビロニア人の公的な医療。病人を広場に連れて行き、通行人の内その病気の知見のある人が知恵を授ける。

198(バビロニア):バビロン人の葬式。死人を蜂蜜につけて埋葬。男は妻と交わった後は、香を焚いて浄化し、夜が明けると夫婦共に身体を洗う。

199(バビロニア):バビロン人の宗教的売春(ヘロドトスによれば、バビロン人の風習の中で最も破廉恥なもの)。
バビロン人の女は、誰でも一生に一度、アフロディテの社内に座って、見知らぬ男と交わらねばならない。

200(バビロニア):バビロン人の3つの氏族は、干した魚以外食べない風習。

(2021/07/23)

マッサゲタイ遠征:201-216

画像の説明
<地図>
(R.B. Strassler, p.108)

201(マッサゲタイ):キュロスはマッサゲタイ人(I-C.g2)を征服することを決意。
202(アラクセス河):アラクセス河の説明。マティエノイ人(I-C.d3)の国に源を発するアラクセス河は、河口の一つがカスピ海(I-C.e2)に注いでいる。
203(カスピ海):カスピ海とコーカサス山脈(I-C.c-d2)の説明。
204(カスピ海の平野):マッサゲタイ人は、カスピ海の東の平野に居住。
205(前530年;女王トミュリス):当時マッサゲタイは、夫に先立たれたトミュリスによって支配。キュロスは、彼女に求婚するも、拒絶される。
206(前530年;女王トミュリス):トミュリスは、キュロスにアラクセス河を越えて自国で戦うか、あるいはペルシアの領域で戦うかの選択を提案。
キュロスは、彼女の提案を熟考する。
207(前532年:アラクセス河):元リュディア王クロイソスは、キュロスに河を渡り、敵の領域で戦うことを進言。彼は、また敵を打ち負かすために、ご馳走とワインでの策略を考案。
208(前530年:アラクセス河):キュロスは、クロイソスのアドバイスに従うことを決意。
209-10(前530年):キュロスは、ダリウスがアジアとヨーロッパの王となる夢を見る。彼は、その夢を誤って解釈する。
211-13(前530年;マッサゲタイ):クロイソスの策略は成功。ペルシアは、マッサゲタイの兵力の3分の1を破壊し、トミュリスの息子のスパルガピセスを捕虜とする。トミュリスは、キュロスに息子を帰し、国を去るよう要求。スパルガピセスは、自決。
214(前530年;マッサゲタイ):ペルシア軍はマッサゲタイとの激烈な一戦で敗北し、キュロスも戦死。
215(マッサゲタイ):マッサゲタイの服装と武具の説明。金と青銅は無尽蔵であるが、鉄と銀の産出はなく、使用しない。
216(マッサゲタイ):マッサゲタイの慣習の説明。男は一人づつ妻を娶るが、男たちは妻を共同に使用する。農耕はせず、家畜と魚を食料として生活。太陽を神として崇敬し、馬を犠牲に捧げる。

(2021/09/02)


巻二(エウテルペの巻)

カンビュセスのエジプト遠征

エジプト遠征の発案

1:キュロスの死後、カンビュセスが即位。彼はエジプト遠征を準備する。

エジプト記

2(エジプト):エジプトの王プサンメティコス(前664-610年頃)は、実験によってプリュギア人(II-B.h3)が人類最古の民族であると見極める。
3(エジプト):ヘロドトスは、彼のエジプトの史料のいくつかを列挙する。
メンピス(II-C.b2)、へリオポリス(II-C.b2)、テバイ(I-C.c4)=エジプトの宗教の三大中心地。
4(エジプト):ヘロドトスは、エジプトの暦(太陽暦:1年12カ月)は、ギリシアの暦より合理的で優れており、エジプト初代の王はミン(メナム:前3000頃)であると述べる。
5(エジプト):エジプトは「ナイルの賜」。エジプトは、ナイル川の堆積土によって堆積された泥によって構成されている。
6(エジプト):エジプトの海岸線(プリンティネ湾〜セルボニス湾)は、60スコイノス(約639km=3,600スタディオン)。

<地図>
画像の説明
(R.B. Strassler, p.120)

7-9(エジプト):エジプトの面積の記述。海岸線からへリオポリス(II-Cb2)まで、1,485スタディオン(約263km)。ナイル川は、へリオポリスから奥に入ると狭く山脈に挟まれている。
10(エジプト):ヘロドトスは、ナイル川と多の河川の類似を指摘。
イリオン(トロイ:II-A.g2)、テウトラニア、エペソス(II-A.h4)、アカルナニア地方((II-A.b3-4:アケオロス河)。
11(エジプト):ヘロドトスは、オリジナルの「ナイル湾」は遙か昔、ナイル川によって埋没したと推測している。
12-13(エジプト):エジプトの土壌は、泥とナイル川がエチオピアから運んできた沖積土とから成っている。エジプトの土壌は、毎年ナイル川によって灌漑されるが、ギリシアは降雨によって水をまかなっている。
14(エジプト):エジプトの農業はほとんど労力を必要としない。(ナイル川の氾濫)
15(エジプト):イオニア人の誤りーデルタ地帯のみがエジプト。エジプト人はテバイ(II-C.c4)が起源で、デルタ地帯に降りてきた。
16:(イオニア):イオニア人は世界を三つの部分(ヨーロパ、アジア、リビア)に分けているが、エジプトのデルタはアジアとアフリカの間に位置する。
17(エジプト):ヘロドトスはナイル川の水路を列挙している。
ナイルは瀑布を起点として(エレパンティネ:II-C.c5)、ケルカソロスの町(II-C.b2)まで一本。そこから三本に分かれ、それぞれ東ペルシオン河口(II-C.b1)、西カノボス河口(II-C.a1)、真ん中セベンニュテス河口(II-C.b1)に分かれる。さらに、セベンニュテス河口から、サイス河口(II-C.a1)、メンデシオン河口(II-C.b1)に分かれる。

<地図>
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(R.B. Strassler, p.126)

18(エジプト):アンモン神は、ナイル川に住む者をエジプト人と、そして彼らのやり方を守らねばならないことを確認した。

(2021/10/02)

19-27(エジプト):ナイルの氾濫について。

19: 誰も、ナイルが他の河と違って夏に氾濫する理由について、ヘロドトスの質問に答えることはできなかった。
20:ギリシア人の第一の仮説、東からの季節風はばかげたこと。
21:第2の仮説、ナイルは大洋(オケアノス)から流出しているという説は非科学的。
22:そして第3のもっともらしい仮説、ナイルは雪どけの水が流れ出したのは、明らかに間違っている。
23:ヘロドトスは、大洋(オケアノス)の存在を疑問。
24:ヘロドトスは、なぜ夏にナイルが氾濫するかについて、自分の説を説明。
25:ヘロドトスは、原因は太陽であると考えている。彼は、リビア南部の冬の太陽がナイル川を乾かし、そして夏の太陽が北にあるときに最もいっぱいになると信じている。
26:ヘロドトスの考えでは、太陽はリビアを一定の夏の暑さに保っており、ヨーロッパとリビアの位置が逆になった場合、太陽はナイル川に及ぼしているのと同じ作用を、イストロス河(ドナウ河)に及ぼす。
27:ナイルに涼しい微風が吹かない理由は、涼しい微風は涼しいところから吹くから、暑い地域からは吹かない。

28-34(エジプト):ナイルの源流について
28(エジプト):ヘロドトスは、ナイルの源流について尋ねる。
29(エジプトーエチオピア):ヘロドトスはナイルの上流、エレパンティネ(
II-C.c5)まで旅して、さらにエジプトのメロエ(II-D.c4)までの旅を記述している。
30(エチオピア):プサンメティコス王に叛いて、エジプトからエチオピアに脱走した兵士の物語。彼らによって、エチオピアは文明化した。
31(ナイルの源流):ナイルの源流は、我々の知識の限界を超えている。
32(リビア):ヘロドトスは、リビア砂漠を越えて黒い小人の国に探検したナサモン(II-B.f-g5)の若者たちの話を詳述している。
33-34(ナイルとイストロス河=ドナウ河の比較):へオドトスは、ナサモン人たちが発見した河はおそらくナイル川であると考え、ヨーロッパのイストロス河(ドナウ河)との対象を推測している。イストロス河(ドナウ河)は、ピュレネ(II-B.c2)に発し、河口イストリア(II-B.h.2)の黒海に注ぐ。ヘロドトスは、イストロス河とナイル川は全長が等しいと推測。

(2021/12/17)


地図

古曳正夫『読書地図帳 ヘロドトス「歴史」』東海大学出版会(2009)

I - A 小アジアからメソポタミア

ⅠA

Ⅰ- B 小アジア

ⅠーB

Ⅰ- C 小アジアから中央アジア

ⅠーC

Ⅰ- D 各地の神託所,アリオンの奇談

ⅠーD

Ⅰ- E エーゲ海①

ⅠーE

Ⅰ-F 西地中海

ⅠーF

Ⅰ-G アッティカ地方

_ⅠーG

Ⅰ-H ヘロドトスの世界

ⅠーH

Ⅰ-I エーゲ海②

ⅠーI


II - A エーゲ海

画像の説明

II - B 西地中海からメソポタミア

画像の説明

II - C ナイル川とデルタ

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II - D エジプトとエチオピア

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II - E エジプトとパレスティナ・シリア地方

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度量衡表

画像の説明

(高畠・齋藤・竹内『図説 古代ギリシアの暮らし』73頁より)

陶器の形状と名称

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(同書、107頁より)
……
貯蔵器:アンフォラ・ペリケー・スタムノス
混酒器:クラテル
水甕:ヒュドリア
冷酒器:プシュクテル
注酒器:アスコス・オイコノエ
化粧品入れ:ピュクシス・レカニス
酒杯:キュウリクス・スキュフォス・カンタロス・リュトン
香油瓶:レキュトス・アリュバロス・アラバストロン
祭礼器:フィアレ・ルトフォロス・レベス・ガミコス

(古代オリエント博物館・岡山私立オリエント美術館編『壷絵が語る古代ギリシア』山川出版、2000年、32-33頁より)


アッティカ全図

画像の説明

(橋場訳/アリストテレス『アテナイ人の国制』31頁より)

スパルタの二王家

画像の説明画像の説明
画像の説明画像の説明
以上、カッコ内は先王との関係。
(W.G.フォレスト著/丹藤浩二訳『スパルタ史』渓水社,1990年,15-18頁より)


参考文献:

呉茂一訳『ギリシア・ローマ叙情詩選』岩波文庫
高津春繁訳/アポロドロス『ギリシア神話』岩波文庫
高津春繁『ギリシア・ローマ神話事典』岩波書店(1960)
桜井万理子『ヘロドトスとトゥキュディデス』山川出版社(2006)
高畠純夫・齋藤貴弘・竹内一博『図説 古代ギリシアの暮らし』河出書房新社(2018)
橋場弦訳/アリストテレス『アテナイ人の国制』岩波書店(2014)
藤縄謙三『歴史の父ヘロドトス』新潮社(1989)
松平千秋『ホメロスとヘロドトス』筑摩書房(1985)
R. B. Strassler, ed., The Landmark Herodotus, New York, 2009.

原典:
ヘロドトスの『歴史』の原典に触れてみたいという人のために、いくつか下記に挙げてみます。

1. C. Hude, Herodoti Historiae, 2vols. (Oxford Classical Texts)
2. N. G. Wilson, Herodoti Historiae, 2vols. (Oxford Classical Texts)
3. A. D. Godley, HERODOTUS, 4 vols.(Loeb Classical Library)
4. Ph. E. Legrand, Hérodote, Histoires,11 vols.(Collection de G. BUDÉ)

1は、岩波文庫の松平訳の底本(旧版:3rd ed.,1927年)、2は新版(2015年)です。
3はロウブ叢書(英訳:対訳;1920-25年)、4はビュデ版(仏語:対訳; repri.,1960-73年)です。

3のロウブ叢書は、著作権切れがPDF化されていて、Herodotus(Goldley)も見ることができます。
Loebolus
https://ryanfb.github.io/loebolus/

また、インターネットではPerseus Digital Library Project.で、フルテキストを見ることができます。

(2020/04/16)

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