『森鴎外 <ちくま日本文学全集>』

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『森鴎外 <ちくま日本文学全集>』筑摩書房、1992年、478頁、1000円

鴎外再読。
目次は、以下の通りです。

・大発見
・鼠坂

・妄想
・百物語
・かのように

・護持院原の敵討
・じいさんばあさん
・安井夫人

・山椒大夫
・魚玄機
・最後の一句

・高瀬舟
・寒山拾得

・文づかい
・舞姫

・沙羅の木

本書では、鴎外の作品が、その作品の年代や内容により、いくつかに分類されて収められています。

小説の処女作『舞姫』(ドイツに留学した主人公と踊り子エリスとの悲恋:28歳)、そして『文づかい』(29歳)が初期の作品で(『うたかたの記』を加えてドイツ記念三部作)文語体で書かれています。
それ以外の作品は、口語体で書かれています。

また、乃木大将の自刃を機に(50歳)、歴史小説に移り(本書では、『護持院原の敵討』以下)、それぞれの作品は、和漢の古典を題材に、精緻な文章で綴られています。

漱石や鴎外に関しては、多くの専門家の論があり、門外漢の私は、ここでは面白かった作品などをいくつか挙げて、簡単なあらすじ、あるいは感想などを紹介します。


最初の『大発見』は短いエッセイで、その発見とは「ヨーロッパ人も鼻糞をほじる」というものです。

話は、彼がドイツに留学し公使に挨拶に行ったときに、「何をしに来たか。」と問われ、「衛生学を修めに」と答えたときに、公使は「人の前で鼻糞をほじる国民に衛生もあるものか。」と一笑されます。

鴎外は、それ以後、ドイツで観察に努めますが、どうも「鼻糞をほじっている」ヨーロッパ人を見つけることができません。
また、何年にも渡って文献をひもときますが、見いだせませんでした。

ところが、後年、デンマークの詩人・劇作家のウィイドの『手紙の往復』を読んでいて、作中の船頭が「鼻糞をほじる」のを発見します。
彼は此を、コロンブス、キューリー夫妻の発見に例え、発見者になってみなくては発見者の心持ちは知れないであろうと書いています。

このエッセイには、西洋(人)と日本(人)の文明比較論と、また、発見は力づくではできないこと(地道な努力の積み重ね)の二つの事が、ユーモアを交えて語られています。


『かのように』は、ドイツの哲学者ファンヒンガーの著『Philosophie des Als-Ob:かのようにの哲学』(1911)《カント哲学の現象界を、人間が生きるために有用な虚構と解釈》がテーマとなっています。

主人公は鴎外自身がモデルと思われますが、物語は留学から帰国後の鬱々とした状況下での、友人との哲学談義が中心となっています。


『護持院原(ごじいんがはら)の敵討(かたきうち)』は、江戸時代(天保年間)のある敵討が、その事の起こりから、顛末まで事細かく語られています。

敵討ちの道中は、西国・九州まで克明に記録され、敵討ち自体は、至極あっさりと書かれており、そこで終わらずに、その後の公儀とのやり取りまでが詳しく書かれています。

この作品は、江戸時代の敵討ちの実体がよくわかり、とても興味深かったです。

『じいさんばあさん』は、ある大名屋敷の中に隠居所が建てられ、一人の爺さんが引っ越して来ます。2、3日してそこへ婆さんが一人来て同居します。
爺さんに負けぬ品格が好い人物です。

二人の中の好いことは無類で、静かに隠居生活を送っています。

その年の暮れ、婆さんは、将軍より「永年遠国に居る夫への貞節の褒美」として銀十枚を賜わり一時江戸で名高くなります。
この時、爺さん・夫伊織、72歳。婆さん・妻るん71歳。

伊織は、若き日刃傷沙汰により遠国に送られて、るんは女中奉公で一家を支えます。
伊織が恩赦により江戸へ帰って来た時、るんも江戸に出て二人は37年ぶりに再会を果たしたのでした。

鴎外のこの作品は、貞節などに日本人の美徳を見いだしたのでしょうか。


『山椒大夫』は、有名な「安寿と厨子王」の物語です。

子供の読み物とは違って、ここでは、母親との別離、売られていった山椒大夫の下での奴婢としての生活など、二人の受難は感情移入されることなく淡々と描かれています。

姉安寿が弟の厨子王を逃すため、自ら入水した場面では、「山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端で、小さい藁履を一足拾った。それは、安寿の履であった。」とあるだけです。
こうした表現が、安寿の悲劇の印象を強めています。

最後は、厨子王が出世して、佐渡に渡って盲目になった母親を探してその目を開かせます。

『魚玄機(ぎょげんき)』は、「魚玄機が人を殺して獄に下った。風説はたちまち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。」という文章で始まります。

魚玄機は、唐末の女流詩人で、長安の人士の間では、美人としても知られていました。

彼女は長安の妓楼(ぎろう)の娘として育ち、幼少より詩の才に恵まれ、名士の目にとまります。
18歳で、素法家(富豪)の美丈夫に望まれ側室になります。
しかし、彼女は夫婦の関係を望まず、結局2年足らずで離別、その後長安の名高い道観(道教の寺院)に入り女道士となります。
やがて恋人ができますが、恋人との仲を疑った侍女を誤って殺して獄に下ります。

時は、懿宗(いそう)の咸通(かんつう)九年(西暦868年)、玄機26歳の時。
彼女の刑をめぐっては、懿宗に上奏され、斬(死刑)に処されます。

鴎外は、この波乱に満ちた生涯を送った人物の伝記を、彼女の漢詩も交えて生き生きと美しく描いています。

※ 井波律子『中国名詩集』岩波書店(2010)に、魚玄機の「打球作(だきゅうのさく)」という打球(ポロ)の試合を歌い上げたユニークな詩が収録されています。参考までにHPの「雑録」に載せておきます。


『高瀬舟』
高瀬舟は、京都の高瀬川を上下する小舟です。

江戸時代には、京都の罪人を遠島に送るために、護送役の同心と親類一人が罪人と共に高瀬舟に乗り大阪へ下っていました。

物語は、この船に弟を殺した喜助という男が乗せられます。
護送役の同心は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしているのを不審に思いその訳を尋ねます。

彼は、病気の弟が剃刀で喉を切り自殺を図ったが死にきれず、弟に頼まれて喉に刺さった剃刀を抜いて殺したことを話します。

そして、また彼は、当時の掟である遠島を申しつけられた罪人に渡される二百文を、初めての財産として喜んでいると。

『高瀬舟』は、安楽死をテーマにした鴎外の有名な短編小説の一つですが、同時に『高瀬舟縁起』も発表しており(出典は江戸中期の随筆『翁草(おきなぐさ)』)、そこでは、この話には財産というものの観念(知足)と安楽死の是非の二つの大きな問題が含まれていると述べています。

※巻末の年譜によれば、鴎外は1922年(大正11年)7月9日に亡くなっています(享年60歳)。

2日前に友人の賀古鶴所(かこ つるど)に次のような遺言を筆記させました。

「死は一切を打ち切る重大事件なり。奈何(いか)なる官権威力と雖(いえど)、此(これ)に反抗する事を得ずと信ず。余は岩見の人森林太郎として死せんと欲す。」(原文は漢字とカタカナで、句読点はありません。)とあるように、墓石には正面に「森林太郎の墓」とあるだけで、肩書きや雅号の鴎外の名は見当たりません。

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(2016年9月29日:三鷹市・禅林寺にて撮影)