ピーター・J・ローズ  「アテネの民会と評議会:継続する問題」

《翻訳》

私はアテネの民会から始める。M. H. ハンセンHansenによる 前世紀の永続的で徹底的な仕事の結果として、我々は先人たちよりはるかに、どのようにアテネの民会が機能したかについて精通している。 機構について知ることが、私たちが知る必要のすべてではないが、機構が十分に整備された都市に関しては、アテネのように、機構や政治的に活発な人のために提供した機会と限界について知ることは、我々が知る必要のある重要な部分である。―それは、ハンセン自身が、他の種類の質問がより重要だと考える学者の批判に対して、アプローチを正当化する論文で強調しているように。しかし、まだいくつかの不確実な問題と一致していない問題が存続している。そしてここで、私はそれらのいくつかに焦点を当てたいと思う。

デーモスdemos〔民衆〕、民会、そして裁判所の関係については、ようやく長く続いた意見の不一致が解決されたように見える。多くの学者は、実質的には合意のもと、色々な独特な表現で「アテネ人は裁判所と民会を彼ら自身のデーモスの代表としてみなした。」と主張してきた。そして、おそらく裁判所とデーモスの間の[一つの]対置を意識することはなかった。ハンセンはこれに対して、アテネ人は、民会についてデーモスという言葉を使ったが裁判所についてではない、デーモスと裁判所は融合されるべきではなく、4世紀には、グラペー・パラノモンgraphe paranomon〔違法提案告発:民会で違法な提案を行ったものに対して起こされた公訴〕のような手続のおかげで、究極の権力はデーモス=民会ではなく裁判所にあったと主張してきた。その内容については、私は民会での大部分の決定は、裁判所で異議申し立てをされることなく、その決定は最終的には受け入れられたということ、また裁判所は時々民会の決定を覆すためにグラペーパラノモンを引き起こしたけれども、また時には決定を覆したが、ほとんどの場合、そういうことは起こらなかったと強調するであろう。民会をアテネの最終的な意思決定だと言うのは、承認できる単純化である。そのこと以上に、ハンセンのその主題の最近の研究は、議論の大部分は実体ではなくむしろ言語に関するものであることが明らかになった。アテネ人はそんな風にデーモスの語を民会と結びつけたが、それはデーモスの語を裁判所とは結びつけることができなかったという点で同じであった。民会と裁判所両方を「デーモスを表現したりあるいは具現化している」とみなすことはできないが、ハンセンは我々に両方を「ポリスを表現したりあるいは具現したりする」とみなそうとしている。そこで、今でも民会と裁判所を互いに対立するものと考えるべきではないというのは正しいが、民会と裁判所はそれらを通して、アテネの人々が、アテネのポリスそれ自身を支配した2つの機関であった。

アゴラとアレオパゴスの南西、アクロポリスの西側にある、プニュックスに関する議論があり、そこでは民会が開かれた。考古学的には、3つの段階がわかっている。第1段階はおそらく前6世紀の終わりに属し、僭主ペイシストラトスの終結後、民会の重要性が増したことと関連づけられるのは妥当であろう。2番目の段階は5世紀の終わりに属し、通常、研究者はプルタルコスの発言の、404-403年に、三十人僭主がプニュックスの配置を逆転したという記述を信じてきた。その結果、演説者は南ではなく、海から離れて、海の方へ、北に面しているようになった(そのことは、もちろん、聴衆席に座っている市民は、北に面することから南に面することになった)。しかしながら、それはモイセイMoyseyによって次のように合理的に反対された。三十人僭主は長い間権力を持たず、民主的会合の会場を改装するのに、大きな関心を持っていた可能性は低い。そこで、プルタルコスは間違っており、プニュックスの改装は、403年後の回復された民主政の仕事であるということがありそうである。

第3段階の年代は、リュクルゴスの時代から紀元前330年、紀元2世紀の皇帝ハドリアヌスの時代までの長い期間が論じられてきた。しかし、研究によって、この地域からの大部分のローマ時代の陶器は、後3世紀頃までであることが明らかになった。しかし、 それはこの第3段階に関しての証拠ではなく、むしろこの遺跡への後からの割り込みである。この段階の壁のフォキスのパノパエオスとの類似性は、(もし壁が正確に年代づけられるなら) 346-338頃の年代が指摘できる。この仕事は340年代に計画されたが、実際には330年代に完成した可能性がある。この第3段階は未完成のまま残されていたが、これはディオニュソスの新しい劇場がより便利な会議場であることが分かったからと示唆されてきた。 それは、330年代に建てられ、320/19年に終了した。

学者はまた、何人の人が民会に出席したか、また何人の人がさまざまな段階のプニュックスで受け入れられたかを問うてきた。出席のための文献証拠は限られている。 411年の寡頭制支配者は、出席は決して5千人に達しなかったと主張したと言われている。しかしそれは真実ではない可能性があり、たとえそれが真実であっても、それはペロポネソス戦争の最後の年の特別な状況にあてはめられるであろう。アテネの海軍がサモスに拠点を置いていたときで通常の状況ではなかった時に。4世紀には、恐らくアテネ市民の数は、ペロポネソス戦争が始まる前の半分になったであろう。恐らく380年代に制定された法案では、これは、市民権は次回の会合で少なくとも6,000人の有権者によって批准されるべきである、という決議が要求された。 6000票が得られない機会があったというしるしはないので、4世紀に6,000人以上の市民(約3万人の市民のうち)が出席したと仮定できる。しかしながら、ハンセンは、330年代から320年代の『アテナイ人の国制』Athenaion Politeia〔62.2〕による、民会への出席に対する日当が裁判所の出席日当よりも高かったという事実から、6000人の出席に達するのは簡単ではなく、通常の出席者は6,000人を超えていなかったと論じている。

プニュックスが収容できる人の数は、プニュックスのサイズだけでなく、アテネ人が混雑した会合でどのくらい緊密に詰め込まれるのを受け入れるかについてもかかっている。ハンセンは、第1段階で約6,000人、第2段階で8,000人、第3段階で最大13,800人の最大容量を主張している。 1人あたりのスペースをより少なく認めるスタントンStantonは、より大きな数字、第1段階10,400人、第2段階14,800人、そして第3段階、24,100人を主張している。ここでは、ほとんどの民会でハンセンの数字がより現実的だと思うが、スタントンの高い数値は、例外的に十分に出席した数回の会議で達成されたかもしれない。

420年代、市民はアゴラからプニュックスに赤い染料で染められたロープを持った人によって集められた。そして、ロープでマークされたが出席しなかった人々は、罰金を課せられた。403年の民主的回復の後、出席のための日当が導入された。アリストパネスの『女の議会』Ecclesiazusae〔185-8, 282-92, 380-91〕から、あまりにも遅く到着した人は報酬が支払われなかったということは明らかである。 日当を支払われた人が固定した数であったこと、おそらく6000人が、決定を有効にするために幾度か必要とされた定足数であったと思われる。P. ゴーティエGauthierは、カリアのイアソスからの碑文を研究して、支払われた人が固定数ではなく、決まった時間で到着し、彼は目標がより多数の出席ではなく定時の出席を奨励することであったことを示唆し、アテネでは時間よりも数が固定されたけれども、同じことがアテネにも適用されたと提起した。ハンセンは、返答として時間厳守の目的と大きな〔出席の〕数字の目的は矛盾すると言及した。 私には民主政回復の直後に、民会出席手当の導入の時期は、定時よりもむしろ〔出席の〕数字を暗示しており、より重要な動機として、その目的は民会への出席を確保することであり、411年と404年で行ったように、民主政を廃止するよう投票を説得されないことであったと思われる。

引き続き問題のある議論は、民会がどれほどの頻度で開かれたかである。『アテナイ人の国制』には、民会を直接扱った節はないが、評議会の節の中で、各プリュタネイア(各年の10分の1の期間中、50人の評議員が10の部族が常任委員会の役割を果たした)、民会の4回の会議が詳述されている。そこでは、特定の仕事が特定の会議に割り当てられた。 私は正しいと信じているが、伝統的な見解は以下の通りである。4回の内の一つの名称エクレーシア・キリアekklesia kyriaは、つまり主要民会(必ずしもプリュタネイアの内4つの民会の最初ではなかったが)は、エクレーシア・キリアが唯一の定期的な会合であった時代から存続していること、また、各プリュタネイアにおける一つの民会から4つへの増加は、462/1年のエピアルテスの改革後しばらくしてなされたが、おそらく431年のペロポネソス戦争の始まり前であったこと、そして、定期的な会合に加えていつも特別な会合、エクレーシアイ・シュンクレートイekklesiai synkletoi〔特別民会〕があったということである。

これに反して、ハンセンは次のように論じている。355年までには、エクレーシア・キリアは、唯一の定期会合であったが、エイサンゲリアイeisangeliai〔弾劾裁判〕を決するための民会の使用は、色々な数の特別会合を必要とした。そして、その後、各プリュタネイアにて、しばらくの間、4回の定期会合ではなく3回の定期会合であった。ハンセンは次のように信じている、347/6年頃に、3回の定期会合が4回に増加した。(彼は、347/6年の第8プリュタネイアに4回の会合を論じるが、その時は、他の人々は4回以上開かれたに違いないと考えていた)。そして、特別な会合はそれから可能ではなかった。
しかし、エクレーシアイ・シュンクレートイは、347/6年に立証されている。彼は、これらは定期的な会合に追加された特別の会合ではなかったに違いなく、むしろ、5日前の告知ではなく、特別な方法で招集された定期会合であったに違いないと論じている。 その議論において、伝統的な見解が特にE. M.ハリス Harrisによって唱えられた。

ここで、私は、ハンセンは言い分を立証することに成功しなかった思う。彼自身は、民会がエイサンゲリアを決める際に臨時の会合が可能であったに違いないと考えていた。緊急の仕事の可能性が常にあったので、私は臨時の会議を禁じる改革を考えるのは難しいと思う。デモステネス『ティモクラテス弾劾』 の一節〔24. 25〕では、「第3の民会」は、単に挿入された法律でプリュタネイアの中で3番目として数えられている。それは多分偽造として排除されるべきであろう。デモステネス自身の言葉では、最初のディアケイロトニアdiacheirotonia〔挙手による採決〕による3番目の民会である。それはカネヴァロCanevaroによって理解されたように、〔挙手採決の民会の〕カウントを含まない3番目かもしれない。つまりディアケイロトニアの後の3番目の民会。しかしたとえ、カウントを含んでいても、それはディアケイロトニア後の2番目の民会を意味する。これは、350年代の一つのプリュタネイアにどれだけの民会が開かれたかについて、私たちには何も教えてくれない。 346年の春に、デモステネスとアイスキネスが語ったところのものは、どのような民会も定期的な民会に付け加えられなかったということを証明しない。もし、人がエラペーボリオーンの月〔アテネ暦による第9番目の月〕18日と19日の民会を2日間に渡った単一の民会とみなさない限りは、 347/6年の第8番プリュタネイアに民会が4回しかなかったことを支持することは難しい。

エクレーシアイ・シュンクレートイに関しては、辞書編纂者と古典注釈者は、それらをいつも追加の会合と理解している。彼らは初期のヘレニズム時代を参照して書いているが、10の部族ではなく12部族の時であり、毎月/プリュタネイアに3回の定期的な会合があったようである。そして、彼らは定期的な会合に言及するのに様々な言葉を用いているが、 それらの基本的な点を無効にはしなかった。ハンセンが、通常の方法で召喚されていない民会がシュンクレートオスのレッテルの資格があったかもしれないと主張するのは可能性として正しいかもしれないが、もしそのことが正しければ、その意味と通常の民会に追加された特別な民会であると言う意味の両方で、いくつかの民会はシュンクレートイであったかもしれない。

さらに、R. M.エリントン Erringtonが、各プリュタネイアの4回の定例会のスケジュールは330年代の新制度だと主張したときに複雑さが増した。彼は証拠の解釈をひどく誤解していたと私は思う。そして私はその見解には反対してきた。

『アテナイ人の国制』は、それぞれのプリュタネイアの4回の定期的な会合の中から特定の民会のための仕事の特定の項目を明記している。キリア・エクレーシアに関しては、役人の信任の投票、穀物、防衛、没収、相続が扱われた。そして第6プリュタネイア〔の主要民会〕では、オストラキスモスおよびプロボライprobolai〔民会告訴:民会で申立られ、民衆裁判所で判決〕が、〔各プリュタネイアの〕第二の民会のために、嘆願が。他の2つの民会では、他の仕事「神事3件、伝令と使節のために3件、俗事3件」の項目の下に議事が取りあげられた。ハンセンと私は、これらは特定の項目は指定の時に処理しなければならないという必要条件であり、他の機会に処理してはならないというものではないことに同意している。しかし、エリントンは論文で、必要条件はきびしく制限されると取った。特定の事項は、指定された会議でのみ扱うことができ、他の会議では扱えないと。碑文史料の証拠にもかかわらず、これを支持することは困難であり、各プリュタネイアの4つの定例会合のうちの1つが嘆願を除いて何にも当てられていなかったと考えるのは難しい。

民会の典型的な会合では、多くの仕事の項目が検討されたであろう(特に、エクレーシア・キリアは、規定項目のリストが長い)。問題は第3と第4の民会で規定された議題について提起されてきた。「神事3件、伝令と使節のために3件、俗事3件」これらのカテゴリの最後に関して、『アテナイ人の国制』によって使用された用語はホシアhosiaであり、それは一般的に聖なるヒエラhieraと正しいhosiaとは対照されたとき、世俗の(しかし神々に不敬ではない)を意味すると一般に同意されている。411年の寡頭制の文脈において、同じカテゴリーに言及する一節は、ホシアではなく、他の事タ・アラta alla を使用している。しかし、ひとつの別のテキストは、それはこうしたカテゴリに言及しているものだが、アイスキネス『ティマルコス弾劾』での一節は、ホシアを用いている。
最近、J. H. ブロックBlokは、次のように論じている。ホシアは常に神々の意にかなっている意味を保持しており、『アテナイ人の国制』の後の節とアイスキネスのカテゴリーは、民会の仕事のすべてを網羅していない。また同様に、ホシアではなかった世俗の仕事のカテゴリーがあり、そしてそれは、民会の特別な会合には規定されてはいなかったと論じている。 宗教的側面についての彼女の見解の中には、アテネ市民団体に所属することに関わる重要な部分がたくさんあり、私が確信するに正しい。しかし、私はこのホシアのような文脈において、事実上世俗の意味になり、そして、ホシアと性質の異なる世俗の仕事のカテゴリーはなかったと依然考えている。

同様に、扱われる項目の数についても意見の相違があった。これらのカテゴリを使用している他のテキストには数字は記載されていないが、『アテナイ人の国制』でのこの節は、各カテゴリの3つを明記している。ハンセンは3つを最小限と解しているが、 それぞれのカテゴリーで3つの項目の同数が提案されるであろうことが必ずしも起きるとは限らないであろう。 6番目のプリュタネイアのエクレーシア・キリアのスケジュールでは、アテネ人と在留外人に対するプロボライの受付は「各種類の3つまで」であり、これらの項目についても3つは最小ではなく最大であると考えられる。 ヴィラモーヴィッツは、411年の〔寡頭制のもとでが起草された〕「将来の国制」においては、審議の項目は抽籤によって選ばれたと言及した。また下記で見るように、彼は、プロケイロトニア〔予備採決:民会が審議に入る前の何らかの採決〕の手続きを、評議会が3つ以上を提出したときに議論すべき項目を選び、それらを議論するためにどのような順序で選ぶのかという民主主義的な方法であると解釈した。それが正しいか否かにかかわらず、私は、特別な状況で必要と考えられれば、アテネ人は自らのルールを破り、一つのカテゴリーの中で3つ以上の項目を検討するのではないかと思う。

デモステネスの一節〔19. 185〕は、アテナイ人の慣例と独裁制の慣例を対照している。彼は、アテネにおいては、すべてが正当な手続に従わなければならないと述べている。評議会は、伝令と使節が議題となったときには、プロブレウマProbouleuma〔予備審議案:民会に送付するための予備的な決議〕を作成しなければならなかった。そして、次に法律が規定した時に、民会が開かれねばならなかった。 我々は評議会が特別な日のために規定された特別な仕事があったというほかの証拠を持っていない。ここでデモステネスは、法律を遵守しているアテネと他の種類の体制との間の最大の対照を生み出すために、手続きの情報の断片を統合していると思う。次のことが追加できる。それは、第2の民会で、市民権の付与が承認される必要があるとき(上記参照)、『アテナイ人の国制』で挙げられた特定の会合に関する特定の仕事への言及なしに、いつもきまったように、「最初の」あるいは「次の」会合で行われるべしと言われた。

『アテナイ人の国制』は、「時には、彼らはプロケイロトニアprocheirotonia〔予備採決〕なしで仕事を行う」といういらだたしいで所見で民会の仕事の概観を終えている。 プロケイロトニアが何であったか、それがいつ用いられたかのなんら他の表示を与えることなしに。その語はおそらく何らかの種類の「予備投票」を意味したであろう。 現存の演説の中に、プロケイロトニアについて2つの言及がある。 そしてリュシアスの演説からの断片は、プロブレウマが評議会から民会に持ち込まれた時に、プロケイロトニアが、それが議論されるベきか、単に受け入れるべきかどうかを決定するために用いられたと主張している。 学者の意見は多岐に渡っている。ある者は断片が言っていることを受け入れ、 あるものは、その選択は、プロブレウマを審議することとそれを拒否することの間と考えて、その断片を破棄した。 そして、他の者はそれを再解釈した。411年の〔寡頭制のもとで起草された〕「将来の国制」において、審議項目は抽籤で選ばれるべきと構想されことに注目し、評議会があまりに多くの審議のための項目を提案した時にプロケイロトニアはそのうちの審議すべきものを投票したと提起した。 私は態度を明らかにするのにはちゅうちょするが、最後の見解には若干の同意を明らかにしている。ハンセンは、スイスの州民集会Landsgemeindeとして知られる大衆会議を引用して、仕事を効果的に扱う方法として、リュシアスの断片が言っているところの解釈を、強力に支持することを主張している。プロブレウマに特定の勧告が含まれている場合には(すべてのプロブレウマタはそうではないが、)また、プロケイロトニアが最初に提起された場合には、そして誰もそれに反対投票しなかったならプロブレウマは討論なしで受け入れられるだろうが、もし少なくとも1人の男がそれに反対したらプロブレウマは議論されなければならないだろう。 私が知っている限りでは、それ以後のプロケイロトニアの別の議論はなかった。私の最近の『アテネ人の国制』版では、選択の態度を明らかにすることなく種々の見解を述べている。 我々の証拠の状態では、どのような説明も正しい事を証明できないが、ハンセンの説明は信頼できるものであり、それが最も明確な証拠の断片を公平に評している。

議論のための議題が民会に紹介されたとき、伝令は、τίς ἀγορεύειν βούλεται; 〔誰が発言する者はありませんか?〕と宣言した。アイスキネスの2つの節〔1. 23 , 3. 4〕は、昔は50歳以上の男性が最初に話すように求められたが、そのうち、345年と330年の間には放棄された。 ハンセンはこれを受け入れた人々の中の一人である。しかし、高齢者への優先的な招待状があったというなんらかの機会の説得力のある証拠がなかった結果に終わった。そして、R. J. レーン・フォックスLane Foxはそれが単にアイスキネスによって考案されたことを提起した。他の者は、それがソロンの法律で規定されたが、461/2年のエピアルテスの改革までに無効になったか、実施が停止されたと考えた。私は、この規則がアイスキネスの時まで実施されていれば、それの明確な証拠を見つけることを期待しなければならないと思う。そして、我々は、別の説明の間を選ばなければならない。それは決して本物の規則ではなくアイスキネスによって発明されたか、あるいは初期の規則であるが、エピアルテスの時代までに使用されなくなったかどちらかを。そして私は、レーン・フォックスのそれが創作されたという提案がもっとも可能性が高いと考えている。アテネには18歳以上、30歳以上の最低年齢を必要とした地位があったが、アイスキネスを除いて誰も言及しておらず、またかって適用されたことが知られていない、50歳以上の男性に民会での発言優先権を与える法律を仮定しない方がよい。

約6千人の集まりで、話したい人はどのようにして議長職の注意を引き付け、演説ができるために、自分自身演壇に呼び出されたのか? いつもの演説者の一人は、おそらく会合の前に役人の一人に近づいて言葉をかけるであろう。そして、彼は特定の問題について話したいと言い、いつもの場所に座るであろう。例えば、前方左側に。 しかし、ハンセンは、民会での定期的な演説者はほんの少数であり、より多くの人が、時折提案や提案をおこなったことを明らかにした。どのようにして、たまに演説をする人は、彼が望んだときに首尾良く呼び出されたのか?我々はわからない。 私たちが言うことのできることは、人が演説を欲して、しかし、呼ばれなかったのでできなかったと主張しているテキストは存在しないと言うことである。

多分、どれだけの数の演説者が呼ばれ、いつその討論を終えるかを決定するかは議長団の責任であった。ハンセンは、演説者の数やあるいは演説の長さの法的制限はなかった(ところが、法廷においては時間制限はあった)と述べている。トゥキュディデス〔1. 139. 4〕は、報告するために選んだ討論から、1つまたは2つの演説を続ける前に、「他の多くの人々が進み出ては発言したが、彼らの意見でどちらかの側を支持して」というそうした明確な記述を用いている。 

討論が終わったとき、投票が行われなければならなかった。 議長団はどのようにして票決に付する動議を決定したのか?プロブレウマが特定の勧告をした場合、投票はおそらくそれを受け入れるかどうかであろう。 改正案が提案されていれば、おそらくプロブレウマの投票の前に、一つづつ投票されたかもしらない。 しかし、もしも議論の過程で、3つまたは4つの別の提案が別の演説者から提出されたなら何が起こったか? ハンセンは、提案者はプロエドロイ〔議長〕に書面による提案書を提出しなければならないと書いている。そして、アイスキネスから3つの節を引用している〔2. 64-8, 83-4, 3. 100〕。 おそらく、法廷のように、4世紀が進むにつれて書かれたテキストをより多く使用する傾向があった。そして、その傾向は、ある時期に法によって強化されたかもしれない。アリストパネスの『テスモポリアサイを営む女たち』Thesmophoriazusaeは、そこではミカーが彼女の演説を次のように終わらせている、「以上が、私が公に言わんとするところです。付帯事項その他は、書記と合議の上起草します。」

A.H . ソマーシュタインSommersteinは、その節についての注解において、次のように示唆している。「民会の演説者が、話した後まで待つことは珍しいことではなかった。そして投票するために正式な動議を提出するかどうかを決定する前に、彼の見解に対する一般的な反応を判断することができた。」 私は、4世紀になっても、事前に提出されていないが、討論の途中でなされた提案の可能性を考慮しなければならないと考えている。

多様なオプションを伴う単一の投票はありそうもない。おそらく、アテネで起こったことは、ローマの元老院で起こったことであり、それについて、タルバートTalbertは次のように書いている。
相反する提案が数多くなされたとき、議長は投票に選ばれる物やどのような順序であるかについての選定に関して唯一の裁量権を持っていた。 … 通常の状況では、彼はいくつかの支持を引き付けるように思われた提案を無視することはほとんどなかった。… 彼らが作った順序でsententia〔提案〕を提言するのは、たぶん普通のことだった。それぞれは個別に投票され、最初に多数の支持を得たのが承認を得た。

ハンセンは、説得力を持って、次のように論じている。市民が挙手で投票したとき(6,000票の定足数が必要な時以外は行ったように、また定員が達成されたことを証明できるために投票具が用いられた)、正確な数を数えることはできなかったが、単純に大多数が賛成か反対かのどちらかの評価であった。 もし、結果が不確かであったり、異議申立された場合は、2度目の投票が行われたと思われ、2度目の投票では明確な過半数があることが期待された。プラトンは『法律』で、軍事役職の選挙に関して、「異議申立は2度まで」を認めている。これにより度重なる投票の要求があったことを意味しているのは明らかである。というのは、3度目の異議があった場合に、別の手続きを規定しているから。私たちは、クセノポンのアルギヌーサイの戦いの後の、406年の手続きの説明で最も良く知らされている。問題を議論するための民会の最初の会議は、決定することなく閉じられた。なぜなら、 「それは遅かったので、彼らは〔挙〕手を見ることができなかっただろうから」。2度目の民会では、もともとエウリュポレモスによる代替提案を支持して投票が行われたが、メネクレスという人物が宣誓の下で異議を述べた。おそらく、議長が結果と宣言したものに異議を唱えた。第二回の投票が行われ、今回は将軍たちすべてを総括的に非難した評議会のプロブレウマが受け入れられた。

民会の会合は早朝に始まった。会合は一日中続けられたと考えられたこともあるが、ハンセンは、一般的に会合は正午までに終わったと主張し(そして、評議会の会議は続いただろう)、彼は再び、類似点としてスイスの州民集会での手続きを引用した。 これに関して、私は彼が正しいと確信している。通常の民会はいくつかの仕事を処理するだろうが、その多くは議論にならなくて、迅速に対処されるであろう。 ―特に、もしハンセンがプロケイロトニアを、誰も反対していない評議会からのプロブレウマを、審議なしに承認する機会とみなしているのが正しいならば。

私たちはアテネの民会によって制定された多数の刻まれた決議を持っているが、それでも、それらは制定されなければならなかった決議のほんの一部を意味している。通常、すべての決議が刻印されたのではなくて、いくつかの理由で、特に公告に値すると考えられたものだけが刻まれたと仮定されてきた。

これは最近M. J. オズボーンOsborneによって異議を申立られてきた。S. D. ランバートLambertは通常の仮定を擁護することで答えている。私はランバートが原則的に正しいと確信しているが、そうした項目で条約や重要な外国人の顕彰が通常公告されたであろう。

さて、私は博士論文を書いた五〇〇人評議会に話を変える。ここにはまだ確かな答えがない興味深い問題がある。

最初に、評議会の議員についての問題がある。 『アテナイ人の国制』〔43.2〕は、アテネの10の各部族から50人のメンバーからなっていたことを私たちに伝えている。(実際に、ヘレニズム時代、10人以上の部族があった時代には、いぜん各部族から50人のメンバーであったので、評議会の規模が増えた。)
4世紀以降は、評議会のすべてのメンバーをあるいは1つの部族からのメンバーすべてを記載する多くの碑文がある。これらから明らかなように、部族内の個々のデーモス〔区〕のメンバーの数は固定されていた。小さな区からは1人のメンバーと大きな区からは数名のメンバーと。しかし、そうした碑文は5世紀からは1つか2つしかない。一つは、408/7年に奉納をなした一部族のメンバーのリストである。そこでは、50人のメンバーが記載されるのに十分なスペースがなかったが、奉献を行うのに参加した人だけが含まれたように思われる。もう1つはおそらく全体の評議会のメンバーのリストのほんの一部である。

必然的に生じた問題は、私たちが4世紀から知っているさまざまな区のメンバーの数は、6世紀末のクレイステネスによる評議会の設立以来同じであったのか?直接的な証拠はないが、間接的な証拠によれば、その答えは否に違いないことが示唆されている。数字は、私たちが4世紀から知っているのと初めからとでは同じではない。さまざまな区の相対的な人口が、1世紀以上にわたって同じままであったであろうというありそうもないことはさておき、いくつかの具体的な特別なしるしがある。アテネの港町であるピレウスは、4世紀には9人のメンバーがいたが、5世紀初頭までは港町としては確立されなかったが、 9人のメンバーがもっともと思える大きさに成長するまでには時間がかかった。また、アッティカの南東にあるスニオン近くのアテーネーには、4世紀に3人のメンバーがいたが、考古学的調査では、6世紀の終わりにはまだ人が住んでいなかった。

4世紀には、メンバーは抽籤によって任命され、市民は人生で2度評議会に務めることができた。一般的なルールの例外として、なんらかの特別の公的な役職は一度だけ務めることができた。(もちろん、別の年には別の役職に就くことができたが)。 こうした規則が、クレイステネスにより評議会が設立されて以来適用されたのか?ここで、 確かではないが、私が思うに答えはおそらくそうではないはずである。 アルコンの任命に関しては、487/6年に、選出された候補者名簿からの抽籤による二段階の任命システムが、直接選挙システムに取って代わった。評議会はおそらくデロス同盟の加盟国の1つであるエリュトライに抽籤で任命された評議会を強要したとき、450年代後半に、抽籤で任命されるようになった。しかしそれは、もともとは選挙によって任命されていた可能性がある。

人が〔評議会を〕生涯で2度務めることができることについては、さまざまなギリシャの国家は、任命される可能性のある人を見つけることを難しくすることなく繰り返しを制限する規則を用いた。7世紀のクレタ島のドレロスは、10年以内のコスモスkosmos〔クレタの行政長官の称号〕の役職の再任を禁止した。エリュトライについてのアテネに強要された評議会は再任が4年間禁止された。アテネでは、一人の人が2度務めるようにすることは、4世紀には必要な譲歩であった可能性がある。その時には、市民の数はペロポネソス戦争以前の半分に過ぎなかった。また、もともとは生涯一度だけ務めることが許されていた可能性がある。私が『アテネの評議会』を書いたとき、誰も2世紀まで2度以上務めたという証拠はなかったが、むしろ最近では、前3世紀に3度務めた人が数人いたことが明らかになってきた。おそらくその変更は、2つの追加部族が創設され、評議会が500人から600人に増えたとき、あるいはその直ぐ後、307/6年に行われた可能性があった。それは、十分なメンバーを見つけることが難しくなっていたのであろう。

しばしば、評議会で2年間、連続して務めることはできないと主張された。実際、2年連続で務めた人の確かな事例はないが、任期満了後の会計報告期間で、エウテュナイeuthynai〔執務審査〕を受ける必要性によって即時の再任が妨げられたであろうという論拠は十分ではない。というのは、他の役職のような将軍はエウテュナイを受けなければならなかったが、彼らは次の年に頻繁に再任された。

古典期から、500人のメンバーに加えて、さらにエピラコンテスepilachontes補欠が任命されたという証拠がわずかながらある。エピラコンテスは、任命された男性のうちの1人が、例えばアテネで何らかの仕事に任命されたときにすべての人に課せられた検証であるドキマシア〔資格審査〕で拒絶された場合、その空席を埋めたであろう人である。したがって、ヒュペレイデスが421/0年のメンバーとして任命されたとき、喜劇作家のプラトンの一節は、彼のエピラコンepilachonがメンバーになることを義務づけられたことを示唆している。

単純な事実として、各メンバーに一人一人のエピラコンが任命されたということを単純な事実として受け入れている人もいる。従って、毎年、1000人の務める資格のある人が、メンバーとしてあるいはエピラコンテスとして任命されたという事を受け入れている。しかしながら、そうしたことが実際に起こったと信じるのは難しい。私は、より少人数のエピラコンテスが任命されたのではないかと、彼らの各人は数人のメンバーのための可能性のある補欠として行動したのではないかと、あるいは、エピラコンテスは、実際任命される必要がある人々よりかもっとふさわしい人物であったときにのみ任命されたのではないかと思っている。

ほとんどすべてのギリシャの都市には、資格のあるすべての市民に開かれた民会があり、そして、より小人数の評議会が、民会で処理される仕事を準備した。 重要な問題は、アテネ並びに他の都市において、その2つの団体の関係であった。民会は、強力な団体であり評議会はその奉仕者だったのか?あるいは、評議会が強力な団体で、民会の権力は大きく制限されたのか? この問題に対する1つのアプローチは、どのくらいの仕事とどのような種類の仕事を民会が処理したかを見ることである。 アテネでは、碑文決議や他の証拠から、民会が頻繁に開かれ、重要な仕事と同様ささいな仕事まで、多くの量の仕事を決定したということは明らかである。 評議会は自らの意思決定を行う権限を持っていたが、これは副次的な問題に関する決定であったし、民会の決定と矛盾しない限りの補足的な決定を行うことを、評議会に許可している民会のいくつかの決議があったことは明らかである。

とりわけ4世紀以降、アテネ人は決議の本文の中で、我々が民会によって制定された2つのタイプの決議を区別することができる言葉を用いた。〔一つは〕評議会のプロブレウマ〔予備審議案〕の中で提起された提案を受け入れることを決定したところの決議。〔もう一つは〕そうしなかったところの決議。つまりそれは、プロブレウマに特別な提案がなかったか、またはプロブレウマに特別な提案があったが、民会が何か別なものを決定した決議である。『アテネの評議会』で、私は2つのタイプの決議を研究し、263/2年のクレオメネス戦争が終わるまでは、両方の種類の決議は豊富であったと結論した。そのことは、評議会と民会両方がアテネの決議決定に積極的に参加したことを示唆している。

しかし、それ以降は、評議会のプリュタネイスの一つが顕彰されるべきことを推薦する決議は、プロブレウマでの提案ではなかったことが慣例の問題であったように思われる。しかし他の点では、民会の決議のほぼすべてがプロブレウマの提案を受け入れた。そのことは、民会はその過程において、もはやそうした積極的な役割を演じなかったことを示唆している。

小規模なこの種の分析を、短い期間に適用することは危険である。というのは、確実に年代付けることができる現存の決議の数は少なかったから。しかし、時々試みが行われ、データの集まりが増加するにつれて、その試みはより価値のあるものとなっている。G. J. オリバーOliverは、「寡頭制」の時代322/1年―319/8年に、より強力な評議会とより弱い民会が予期されたかも知れないときに、評議会が弱体化したように見え、民会の決議の大半が評議会の提案を受け入れなかったように思えると述べている。4世紀の初期には、私は回復した民主政の全期間、403 /2年―322 /1年、碑文決議はほぼ同等に二つのタイプの間に分けられたことがわかったけれども、ランバートはこの期間の後半では、352/1以降、碑文決議の大半は、再び民会が評議会からの提案を受け入れておらず、評議会からの提案を受け入れた碑文決議は、ほとんど議論の的にならないような種類の顕彰決議であったと述べている。

そこで、オリバーが321年から318年までの寡頭制期に気づいたのは、それほど予期せぬ評議会の弱体化ではなく、民主政の以前の30年間に広まった慣習の継続であった。評議会は、それは区のメンバーから募集された方法のために、市民団の断面であり、毎年変わった。一方民会は、最も影響力のある市民が、毎年活動し続けることができた団体であり、そこでは重大な問題や意見の相違があるかもしれない事項が決定された。 対照的に、ランバートは、229/8年から198/7年の間に(アテネがマケドニアのアンティゴノスの従属から免れた後に)、私が以前に見出したように、民会が評議会から提案を受け入れることはずっと頻繁であり、 評議会は決議決定過程においてより重要となり、民会の重要性は低くなったことを見いだした。

評議会についてのもう一つの問題は、「プリュタネイスprytaneis〔当番評議員〕のトリッテュスtrittys(三分の一)」に関してである。『アテナイ人の国制』〔44. 1〕は、私たちに、次のように物語る。その日の議長であるプリュタネイスエピスターテスepistates〔筆頭〕は、プリュタネイスの本部であるトロスtholosに当番でとどまった。全24時間の間彼が議長を務めていた間、そして彼と共に「彼によって命じられたプリュタネイストリッテュス」が当番としてとどまった。しかし、プリュタネイストリッテュスとは何なのか?もしそれが数学の3分の1の近似値であったなら、それは正確な3分の1でありえない。なぜなら、50人も49人も(もしエピスターテスを除外すれば)3で割ることができない。この節を除いて、私たちがアテネでトリッテュスに出会う唯一の文脈は、部族のトリッテュスである。クレイステネスによって制定された10の部族の各々は、3つのトリッテュスに分けられた。1つはアティカの都市地域に、1つは沿岸地域に、そして一つは内陸地域に設けられた。 そして、最も明白な解釈は、『アテナイ人の国制』は、これらの〔部族の下部集団である〕トリッテュスのうちの1つに所属するプリュタネイスを意味しているというものである。しかし、私たちは4世紀また後の評議会の議員数から、各部族が50人のメンバーを派遣したが、個々の区と同じく、トリッテュスは全く同じサイズではなかったことがわかっている。

いくつかの部族では、評議会のメンバーの前4世紀のリストの配列は、部族の50人のメンバーの3つのグループへのより均等な配分を反映しているかもしれないパターンの印を示しており、幾人かの人々は、ここでは部族のトリッテュスとは違う「プリュタネイストリッテュス」とみなした。これは私が以前いくらか同意していた見解であるが、そのための強力な主張を唱えるには碑文に十分な規則性がない。ハンセンは、ここでは4世紀には評議会員の改正のしるしがあったこと、クレイステネスの元の制度では、部族のトリッテュスはほぼ均等であったこと、4世紀の改正では、沿岸地域または内陸地域に位置したいくつかの区は、その平等性を守るために、都市のトリティスに再び割り当てられたと提起した。ここでは私が思うに、我々はただ憶測するしかできない。つまり、個々の区から評議会のメンバーの数は、最初は4世紀の数字とは異なっていたことはありそうであるが、元の数字がどのようなものであったかは推定できず、区が均等のために異なったトリッテュスに再び割り当てられたかどうかは疑わしい。私は今、「プリュタネイストリッテュス」とは、部族が分けられたところの3つの地域のトリッテュスの一つからのプリュタネイス〔部族の下部集団である各トリッテュスに所属するプリュタネイス〕を意味するというのが可能性があると思う。そして、私は、例え時に3分の1より多かったり、時に3分の1より少なかったとしても、大した問題ではなかったというC. W. J.エリオットEliotに同意する。M. H. チェンバースChambersは、エピスターテスは、通常、彼自身が属しているトリッテュスからのメンバーに呼びかけるだろうと示唆している。

『アテナイ人の国制』〔45. 1〕は、かって、法廷としての評議会は、死刑を含む罰則を科す無制限の権限を持っていたと主張する。一人の男が民会が死刑を宣告した人のために民主法廷での裁判を主張したエピソードの後は、民会は、評議会が課すことを望んだ罰則は法廷で承認されなければならないと裁決した。他の証拠から、4世紀には評議会がいぜん500ドラクマまでの科料を科すことができたことがわかっている。それは、個々の役人が彼らに関する問題の下限まで課すことができたのと同様である。 そして、多分このことは、絶対的な権利であり、これらの科料は控訴の対処にはならなかった。 また、状況によっては、人を刑罰としてではなく、裁判にかけられたり、罰金を支払う前に逃亡することを防ぐための予防措置として投獄することができた。

しかし、いつ評議会が『アテナイ人の国制』が過去について主張した無制限の権限を持っていたのか? 『アテナイ人の国制』〔41. 2〕は、国制の11回の 「変化」の最後に関連して、「だから、評議会の判決についてもデーモスに委ねられた」と述べている。P. クローシュClochéを含む幾人かの学者は、4世紀までは、評議会が無制限の権限を失うことはなかったという意味と主張したが、5世紀後半に評議会の権限が無制限だったという見解を支持する証拠はない。そして、そのくだりは、11回目の変更についてではなく、最初から11回目の変更までのアテネ国制の全体的な発展についてのコメントとして読むのがより妥当である。ソロンの四〇〇人評議会が、6世紀にその権力があったとは考えにくい。 クレイステネスの五〇〇人評議会が、最初に作り出されたときに強力な団体であると考えた人も中にはいるが、その権限は、501/0年にその五〇〇人評議会の宣誓が制定された時に、改革のわずか数年後に縮小された。しかし、私は、五〇〇人評議会の宣誓は、その重要な変更としてよりむしろ、クレイステネス改革の頂点として解釈されるのがより妥当であると思う。私は、462/1年にエピアルテスによってアレオパゴス評議会から権限が奪われる前に、評議会が罰則の権限を持っていたと確信してはいない。そして、その時に与えられた権限は、最初から制限されていたと考える。評議会は決してそれから取り除かれたと言われる無制限の力を持ってはいなかった。しかし、古代ギリシャ人は、現代の学者の幾人かが結論したように、その宣誓が課せられるまで、あることを行わないことを保証したメンバーの宣誓の条項から、評議会はこうした事柄を行ったと結論したかも知れない。また処刑から救われた人の話が、もともとはアレオパゴス評議会に関連して言われた話か、あるいはメンバーの宣誓で保証されたものを説明すために用いられた全くの作り話かのいずれかである。

この少し後で、『アテナイ人の国制』〔46.1〕の正しいテキストがどのようなものであるべきかについての疑問が生じている。 「評議会はすでに建造された三段櫂船、船具と軍船格納庫の監督にあたり、デーモスがどちらを投票しようとも、新しい三段櫂船と四段櫂船を建造する。」ギリシャ語のテキストは、ποιειΐιται καινὰσς δὲ τριήπεις ἢ τετρήειςと書いてある。その位置のδὲは確かに間違っているが、それは単に削除する必要があるか、それともそれはなんらかの他の言葉の改悪であるか。 ― 多分、評議会が毎年、その数の新しい船を建てることを義務づけられたことを意味した数字の?

別の時期にギリシア人が使用した別の数字法に基づいて、4または10のいずれかがδὲに転化した可能性がある。確かに、新しい船を建設する要件は真摯にに取り組まれた。アンドロティオンは、彼が(おそらく)356/5年に務めた評議会が造船の必要条件を満たしていなかったのに、顕彰されることを提案したときに、明らかに失敗してグラペーパラノモン〔違法提案に対する告発〕を起訴された。しかし、その告発に対するデモステネスの演説もそれについての古代の注釈書も、毎年建造されねばならない定期的な船の数があったということを断言してはいない。『アテナイ人の国制』が書かれた当時、330年代から320年代にかけて、アテネの海軍は近代化され拡大していたが、碑文の船の一覧表は、毎年建造されねばならない定期的な船の数があったことを示唆していない。造船プログラムについては、D. J. ブラックマンBlackmanによって議論されている。彼は、別の時代に定期的な造船割当が存在したことを提起している。私が考えるに、また最も最近のトイブナーのテキストで、M. H. チェンバーズChambers も考えているが、ここでは単純にδὲを削除して、数字を復元すべきではないと思う。

後の章〔49章〕では、評議会が関与している様々なドキマシアイdokimasiai〔資格審査〕のプロセスの検証が扱われている。これらとともに、「評議会は、かってはパラデイグマタparadeigmata〔公共建築の模型か?あるいはデザインか?〕とペプロスpeplos〔アテナ女神像の着衣〕を判定していたが、今は抽籤によって選ばれた民衆法廷がそれを行っている。というのは、評議員が情実によって判定を下すと考えられたからである。」ペプロスは、アテナ女神像のために作られた新しい着衣で、4年ごとの大パンアテナイア祭の行列で運ばれた。しかし、ここでのパラディグマタとは、どういう意味か?その言葉は、建物、彫刻、絵画またはその他の技能の作品を意味する。また、ほとんどの注釈者は、ここでは一般的な公共事業の計画であると言及している。しかしながら、なかには、パラディグマタペプロスを結びつけて、評議会がそれぞれの機会に新しいペプロスのためのデザインを承認したことを意味する節と想像した者もいる。―そして、F. ブラスBlassはその意味をより明確に表現するためにテキストを修正した。他に関連した証拠は何もなく、これは決定するのが難しい問題である。もともと私は最初の解釈、一般的な公共事業の計画に賛成したが、『アテナイ人の国制』の私の版では、テキストを修正することなしに、私はペプロスとの関係〔つまりペプロスのデザイン〕を選んだ。またチェンバーズは、注釈書にて同じ立場を取っている。

他の点では、これは『アテナイ人の国制』の中の、フラストレーションを引き起こす短い記事の一つである。いつこの義務が評議会から民衆法廷に移されたのか、またそれが単一の改革であったのか、一連の改革の一部であったのかを知りたいと思う。そして新しい制度では、どの役人がその問題を法廷に提起したのかを知りたいと思う。評議会から裁判所への移転については、私たちは推測するしかできない。しかしながら、後の節〔62. 1〕には、次のように述べられている。アテネにおいては、かって、抽籤によって任命された多くの役人の一部は、アルコンも含めて部族から任命されていたが、他のものは区の間に割り当てられた。しかし、区が彼らの役職を「売っている」ことが分かったので、そこで、これらのほとんどは部族全体に移された。 これは評議会が情実を示したのを理由に、評議会から法廷へのペプロスについての決定の移転と同じ種類の改革である。もちろん、必ずしもそれらが同時に作られるべきであった必要はないが、もし2つの移転が同時になされたなら道理にかなうであろう。そして、任命の移転は、少なくとも370年頃以前に年代づけることができる。なぜなら、その時に抽選器(クレーローテーリア:kleroteria)を用いた抽籤制度が導入されたからである。

これらの事項を裁判所に提出した役人に関しては、後の節が我々に次のように語っている。『アテナイ人の国制』の時代に、アトロテタイathlotheyai〔競技委員〕として知られている特別な役人がいた。彼は、1年ではなく、4年間務めたので、各役人は、大パンアテナイア祭の祭典の責任を負った。彼らの責任には、祭礼行列が含まれており、そこでは新しいペプロスがアクロポリスに運ばれた。そして、はっきりと、彼らが、「ペプロスを作った」と明言されている。その仕事は、エルガスティナイergastinaiと呼ばれた女性によって行われた。また、アレポロイarrephoroiとして知られている7歳と11歳の間の上流階級の少女らが、多少それに関わっていたが、アトロテタイが、おそらく総合的な責任を負った。ひとたび 彼らがその責任を獲得すれば、(彼らの名前はもともと彼らが競技会だけに責任があったことを示唆している)、彼らはペプロスのデザインの選択を法廷に提起する明白な役人であろう。

アテネの民主政は魅力的な現象であり、それについて、たくさんの証拠がある。 それは様々な方法で研究することができる。 形態上の制度の研究は、一つの価値ある方法である。 私が民会と評議会に関して示してきたように、私たちは答えが必要な問題がまだあるが、私たちが確信できる答えをいまだ得ていない。

《解題と要約》

この論文は、2018年9月11日(火)、「古代史の会」(東京大学文学部第3会議室)にて、ピーターP. J. ローズRHODES氏によって報告されたものです。

この翻訳は、個人的に試訳したもので、脚註は割愛しています。

なお、本文の( )は原文どおり、〔 〕は訳者の補足です。
年代はすべて前世紀です。

報告者のピーター・J・ローズ氏は、現在、英国学士員、ダラム大学名誉教授。

氏は、この報告でも問題にしたアテネの評議会を扱ったThe Athenian Boule, Oxford, 1972.『アテナイ人の国制』の注釈書A commentary on the Aristotelian Athenaion Politeia, Oxford, 1981. rev. ed.,1993. R. Osbornとの共著書Greek Historical Inscriptions 404-323 BC., Oxford, 2003 などの著書の他に、多数の論文を発表しています。

脚註によると、この論文は、The Institute for the History of Ancient Civilisations, Northeast Normal University, Changchun(長春)とThe Centre for Classical and Mediaeval Studies, Peking University, Beijing(北京)ですでに報告されています。また、民会を扱った部分は、V. Goušchinによってロシア語に翻訳され、“Афинское народное собрание: нерешенные проблемы”, in O. L. Gabelko, A. V. Makhlauk & A. A. Sinitsyn (edd.), πεντηκονταέτια: Festschrift for I. E. Surikov (Moscow & St. Petersburg, 2018), 110–6 として出版されています。

論文では、前半で民会、後半で評議会が扱われており、副題のとおり、民会・評議会について、今でも継続している諸問題に対して、氏の見解が述べられています。

以下、氏の見解を箇条書きに簡単にまとめてみます。

最初の民会に関しては、まずハンセンの主張する「権力はデーモス=民会ではなく、裁判所にあった」という意見には同意せず、民会をアテネの最終的決定意志と認めて、民会と裁判所を対立機関とは考えずに、その2つの機関によってアテネ人がポリスを支配したと考えています。

民会の会議場であったプニュックスについては、その3つの発展段階の年代は、第1段階は前6世紀の終わり、第2段階は前403年の民主政回復後、そして、第3段階は前330年代の完成を推定しています。

また、民会出席数に関しては、ハンセンの主張した第1段階で6,000人、第2段階で8,000人、第3段階で最大13,800人の収容を現実的とみなしています。

そして、民会の開催頻度に関しては、伝統的な見解を支持して、自らは各プリュタネイアにおける1回の民会から4回への増加は、おそらく431年のペロポネソス戦争の始まり前であったこと、そして、定期的な会合に加えていつも特別な会合、エクレーシアイ・シュンクレートイ〔特別民会〕があったと考えています。

『アテナイ人の国制』(43.4−6)に記述された、プリュタネイアの4回の定期会合に規定された項目については、必要条件であり、別の機会に処理してはならないことを意味してはいないと考え、さらに民会で扱われる議題の項目数である各カテゴリー3つについても、アテネ人は、一つのカテゴリーの中で3つ以上の項目を検討していたと推定しています。

従来、意見の分かれていた「アテナイ人の国制」(43. 6)のプロケイロトニア(予備採決)の解釈については、リュシアスの「プロブレウマ(予備審議案)が評議会から民会に持ち込まれた時に、プロケイロトニアが、それが議論されるベきか、単に受け入れるべきかどうかを決定するために用いられた」という断片の記事を支持したハンセンの主張を、この論文では受け入れています。

さらに、民会で伝令が「誰か発言を望む者はいませんか?」と発言を求めた時、アイスキネスの「50歳以上に発言優先権があった」という記述に関しては、それを否定して、演説を欲した人はそれが可能であったと考えています。

演説者の数やその演説の長さ(法的制限はない)、討論終了や決定の責任は、議長団にあり、議論の途中で別の演説者からの別の提案については、ハンセンの「議長に書面による提案の提出の必要性があった」という主張に、4世紀には書面による使用の傾向を認めています。
また、討論の途中で未提出の提案がなされた可能性を、考慮しなければならないと述べています。

投票に関しては、挙手採決の場合、それが正確な数は数えることはできなかったが、単純に多数者が賛成か反対かを判断したというハンセンの提案を支持し、異議申立の2度目の投票があったこと、その場合は過半数が要求されたことなどを推測しています。
また、同様に民会の会合は半日であったというハンセンの主張を支持しています。

最後に、民会決議碑文に関しては、通常の仮定である、刻印された碑文は決議された物の限られた一部、つまり条約や重要な外国人の顕彰などが通常公告されたであろうと考えています。

次に評議会に関しては、まず、500人の議員について論じられています。

『アテナイ人の国制』(43. 2)は、評議会はアテネの10の各部族から50人のメンバーからなっていたことを伝えています。
そして、部族内の個々のデーモス(区)のメンバーの数は固定されていて、小さな区からは1人のメンバーを大きな区からは数名のメンバーが選ばれていたと推測されています。

まず、4世紀のさまざまな区のメンバーの数は、6世紀末のクレイステネスによる評議会の設立以来同じであったのかという問題については、直接的な証拠はないが、間接的な証拠によって、その答えは否に違いないと推測しています。

また、評議会員は抽籤によって任命され、生涯に2回務めることができたが、それに関しても、もともとは生涯一度だけ務めることが許されていたが、ペロポネソス戦争による市民数の半減により、4世紀には譲歩により2度務めた可能性があると考えています。

さらに、補欠のエピラコンテスについては、数人のメンバーのための可能性のある補欠として少人数のエピラコンテスが任命されたのではないかと、あるいは、エピラコンテスは、実際任命される必要がある人々よりかもっとふさわしい人物であったときにのみ任命されたのではないかと推測しています。

次に、重要な問題として、民会と評議会の2つの団体の関係については、碑文決議などから、民会が頻繁に開かれ、重要な仕事を担ったことは明らかであり、評議会は自らの意志決定を行う権限があったものの、副次的な問題に関してであり、民会の補足的な決定を行ったと考えています。

また、碑文決議の形式の分析から、3世紀の中頃までは、両方の種類の決議は豊富であり、そのことは、評議会と民会両方がアテネの決議決定に積極的に参加したこと、それ以降は民会は積極的な役割を果たさなかったと結論づけています。

さらに、『アテナイ人の国制』(44. 1)で記述された「プリュタネイス〔当番評議員〕のトリッテュス」の問題については、部族の下部集団である各トリッテュスに所属するプリュタネイスを意味するという可能性があると考えています。

評議会の権限については、4世紀には評議会が500ドラクマまでの科料を科すことは認めていますが、『アテナイ人の国制』(45. 1)で述べられた死刑を含む罰則を科す無制限の権限は持ってはいなかったと、この記述を虚構とみなしています。

次に、『アテナイ人の国制』(46. 1)のテキスト「新しい三段櫂船と四段櫂船を建造するποιεΐιται και νἀσς δὲ τριήπεις ἢ τετρήεις」に記されたδὲについては、最近のトイブナーのテキストでM. H. チェンバーズChambers が考えているように、ここでは単純にδὲを削除して、4、あるいは10の数字を復元すべきではないと主張しています。

最後に、『アテナイ人の国制』のその後の章(49. 3)の記事について論じられています。
「評議会は、かってはパラデイグマタparadeigmata〔公共建築の模型か?あるいはデザインか?〕とペプロスpeplos〔アテナ女神像の着衣〕を判定していたが、今は抽籤によって選ばれた民衆法廷がそれを行っている。というのは、評議員が情実によって判定を下すと考えられたからである。」
ここでは、2つの問題が議論されています。
まず、パラデイグマタとは何か。
氏は、ペプロスの語句にかけて、ペプロスのデザインと考えています。

また、記事の後半の評議会から民衆法廷にこの仕事が移ったという問題に関しては、第62章の第1節の記事との類似性から、その年代は370年頃以前に、またペプロスのデザインの選択を法廷に提起する仕事などは、アトロテタイ(競技委員)が、おそらく総合的な責任を負ったと推測しています。

(2018-09-18)

クロード・モセ 「 ポリテウオメノイとイディオータイ」

クロード・モセ, 「ポリテウオメノイ<政治指導者>とイディオータイ<私人>—紀元前4世紀のアテネにおける政治的階級の確立」

R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200

《要約》

前4世紀の最後の10年間のいくつかの政治演説の中で、弁論家は普通の人を指すのにイディオータイという用語を用い、政治指導者に対してはポリテウオメノイと呼んだ。
政治的階級の存在は、新しい事実ではなかった。新しい点は、その存在と、いかにそのメンバーが普通の市民のすべてと異なっているかを意識していることである。

《翻訳》

 二つの明らかな事実から始めなければならない。

 第一に、アテネは前5世紀の60年代以来民主主義の国家であり、それは必然的に次のことを意味している。
つまり、デーモス<民衆>の民会は主権を有し、そして市民共同体を拘束するすべての決議は、その民会の多数決の投票から発している。
民会決議の冒頭の頭書<「民会と評議会の決議」という定型>は、この民衆主権の現実のもっとも明確な印である。
これこそが(民衆主権)、アングロ・サクソン系(英・米系)の歴史家が旧寡頭主義者と呼ぶところの(風刺)作家<いわゆる伝クセノフォンと呼ばれる作家>の敵意をかき立て、民会の大衆の無知の名のもとに4世紀の哲学者や作家が問題にしているものである。

 第二の事実は、アテネの政治的「階級」の存在である。
前5世紀においてペロポネソス戦争の突発までずっと、そうした階級は、伝承によって保たれた名前、ペリクレスからテミストクレスまで、アリスティデスからキモンまでの人物が属していた古い家柄の貴族の家系と混同されている。
ペロポネソス戦争は、政治の舞台に新しいタイプの指導者の出現をもたらした。
アリストファネスが嘲笑しているあの「デマゴーゴス<民衆指導者>」である。
彼はデマゴーゴスの胡散臭い血統とその評判の悪い仕事のやりかたを非難している。
ずっと以前から、そのデマゴーゴスに対する不満については、確かに生まれにおいては若干見劣りするが、しかし、彼らは奴隷の作業場の経営から得た固定所得を享受し、それゆえ前任者と同様の生活を送っていた人たちであると主張することにより反証を挙げて論破されてきた。〔脚註1〕。

 前4世紀に結婚での同盟の結果、こうした指導者の階級(指導者層)が均一化する傾向は明らかであり、またイギリスの歴史家J.K.デーヴィスの表現を借りれば「アテネ人の富裕な家族(階層)」の間で、彼らの生まれあるいは彼らの財産に結び付けられた何らかの対立を捜し求めることは、人を誤りに導くことは明らかである。
つまり、彼らはその財産に対して、レイトルギア<公共奉仕>やトリエラルキア<艦隊の艤装>を課せられた「富裕者」の小さな少数派を形成しており、都市の財政的均衡は大部分彼らの財産の上に成り立っていた〔脚註2〕。

 同様に、我々は以下のことを知っている。
つまり、ペロポネソス戦争の敗北と帝国がもたらしていたフォロス<貢租>の喪失によって悪化したその財政上の問題は、財政の役職であるディオイケーシス<国庫の管理の役人>の専門家が形成されるという事態を引き起こした。
そして人は直ちに次の三人の名前を思い起こすであろう。彼らは前4世紀のアテネの歴史を画したのだが、まずアフィドナのカリストラトス、彼は前378年の後のエイスフォラ<臨時財産税>を組織し直した。そしてエウブーロス、彼には多分、前356年以降のラウレイオン銀山の採掘の再開の功績とテオリコン<観劇手当>の発展に、その功績が帰せられるであろう。
最後に、リュクルゴス、彼はカイロネイアの戦いの後、「ディオイケーシスの担当者」という肩書きを持ってアテネの財政を復興した人物である。ちょうどその頃、戦争の新しい状況や傭兵に頼ることが一般化してきたので、ストラテーゴスはだんだん、将軍としての戦争の専門家になる傾向があった。
人は都市の「財政家」のリストに、容易に次の将軍のリストを比較対照できるかもしれない。
ティモテオスとイフィクラテスで始まり、続いてカレスとカブリアス、そしてラミア戦争の英雄レオステネスで終わる人物たちのリストである〔脚註3〕。

 アイゴスポタモイの戦いの敗北の後で、アテネが置かれた新しい状況が、アルカイ<役人>のその専門化の増大の原因であることは、疑いの余地はないだろう。
そして、前4世紀のアテネ人の間でもっとも洞察力ある精神の持ち主の、哲学者プラトンがこのような機能の必然的専門化を、市民団についての考察のテーマの一つにしたのは偶然ではない。
ソクラテスが、アルキビアデスが公共建築物や軍艦、あるいは穀物の調達についてまったく無知であるのに(『アルキビアデス』,106c以下)、政治の道に進むことを望んだのに驚いたときに、プラトンが考えているのは、彼の同時代の政治家たちが直面しなければならなかった問題なのである。
そしてソクラテスと同様にアルキビアデスも、同時代の問題を例証するためだけに登場させられたにすぎない。

 同様に、最近の研究論文で強調されているのは、アテネの民主政の政治の働きの別の側面である。
前5世紀初めの「貴族主義者」は、ペロポネソス戦争の時の「デマゴーゴス」あるいは前4世紀の「財政家」やストラテーゴスらと同様に、彼らが民会の前で彼らが強く進めた政治を守るために、自ら発言することが時々あったが、 「仲間」や「友人」やさらにその上スポークスマンとして彼らに奉仕したところの「賃金労働者」らに取り巻かれるのを好んだものであった。
失敗やデーモスの豹変の場合には、彼ら貴族主義者らは大衆の不平不満の犠牲になった〔脚註4〕。
プルタルコスが伝えている伝承では、ペリクレスのもとでエピアルテスがその役割を演じたことになっている〔脚註5〕。
人は「ヘタイラ<仲間>」のようなもの、あるいは永久的な党派をイメージする必要なしに、そのような結びつきの多くの例を引用することができるかもしれない〔脚柱6〕。
そして、もし結婚の絆が政治的性格の結びつきを、時には強化するようになるかもしれないが、それでもその重要性を誇張すべきではない。それはローマにおいて共和制の最後の数世紀に見られるものと、比較できる家族的政治とは違っていたからだ。

 ここで再び取り上げたものは、すべて既知のことであるが、たとえ、そうした現実を基礎にして、アテネの民主制についての一つの解釈を打ち立てる傾向が、多分あまりに強すぎたので、フィンリィーは強くそれに対して異議を唱えた。
つまり、政治的な階級の存在は、だからといってデーモスの「無関心」を意味しない。デーモスは政治的特権並びに都市の生活のすべてを、コントロールする権利に執着を持ち続けていた〔脚註7〕。

 しかし、確かにアテネの民主政はアンティパトロスの前での敗北まで、前5世紀の終わりの二つの寡頭政の革命は除いて、まったく中断を経験することなく機能していた。
そして政治的階級の存在が古代の現象として、体制の性質自体と結びついているが、アテネの独立の最後の数年のあいだにその政治家階級と市民団の大衆との間に溝が掘られたことは明らかである。
私には4世紀の弁論家の用語が、そのことについて説明してくれるように思われる。

しかしながら、私はこの用語の問題に手を着ける前に、思想家や理論家の方に回り道をしたいと思う。
イソクラテスと同様プラトンは、民主政の批判に手を着ける時に、粗悪な指導者の市民集団と弁論家、さらにもっとも低劣なへつらいが主要な武器であるデマゴーゴスとを区別することを好んだ。
つまり、デマゴーゴスはデーモスをだますために、また自分たちだけが利益を引き出すことができる冒険の中に、デーモスを引っ張っていくためにその武器を用いた。
イソクラテスとプラトンはその悪い導き手を示すために、たいていの場合デマゴーゴスあるいはレートール、同様にまた時々プロエストーテス(イソクラテス、『パナギュリコス』172節)あるいはプロスタタイ(イソクラテス、『平和について』3-5節)の用語も用いている。

 興味深くかつ強調すべき事実、それは、理論家が政治家を非難するとき、まさに弁論家の彼らの機能が、まず第一に前に置かれるという事実である。
そして彼らの「説得力」こそが多かれ少なかれ、大きなそして概して有害な彼らの影響力の原因であるという事実である〔脚註8〕。
プラトンがペリクレスに言及するとき、問題とされているのは弁論家としてなのであり、ペロポネソス戦争にアテネを引っ張っていった過失の責任を問われることになるところの将軍としてではないのである〔脚註9〕。
言い換えれば、デーモスに影響を与え、政治を運営する人々を非難しているのであり、アルケー<権力>の保有者を、問題としているのではないのだ。
個人が、彼が果たす機能以上に重要である。
まさに、民主主義がかなりの数の市民に、アルカイ<役職・役人>になることを許す限りにおいて。
たとえその交代が、それが都市の公務についての経験に基づく知識の獲得を許さないという点で、時々異議が申し立てられたとしても、(参照イソクラテス、『ニコクレス』17節)それでもなお、その交代は多くの人々には政体の土台であり続けている。極端な場合には能力の欠如よりも、(プラトンは別として)弁論家の説得的な巧妙さのほうが重要なのである。
そうした弁論家はたいてい、公務上の責任がなかったので、会計報告の提出の義務がなかった〔脚註10〕。

 理論家の方へのこの回り道によって、我々は都市の中で役割を果たしている人々の間で、二つのグループを区別することができる。
つまり、一つのグループはアルケ<役職>の保有者で、彼らは交代によってかなりの数存在した。もう一つは弁論家である。彼らは民会と裁判所で演説し、そしてデーモスに対して何よりもまず「耳を傾ける」人であることを求める〔脚註11〕。
さて、その時代の終わりには、いくつかの弁論の中には、別の区別が明らかになっているように思われるものがある。
すなわち、ポリテウオメノイ<政治家>とイディオータイ<私人>を区別して分けて考えることである。
デモステネスの二つの演説とヒュペレイデスの演説で、我々に伝えられたものは、まず第一に問題となる演説のすべてが、カイロネイアの戦いに続く時代に、すなわちアテネの独立の最後の数年にさかのぼることを書きとどめながら、その区別を我々に正確に述べることを可能にさせてくれる。

我々は『冠について』の演説から始めよう。
我々はどんな状況でデモステネスが、クテシフォンに対するアイスキネスによる告発の返答のために、その演説をするために召還されたのかを知っている。
クテシフォンは、デモステネスの一般的政治活動と彼が城壁の修理をすることを任された委員会のメンバーとして、エピドシス<寄付>として総額5ムナという金額を提供したので、その報酬としてデモステネスに冠を授与するよう要求した人物である。
『冠について』の演説は、デモステネスが政治生活に入ってからの、彼によって行われたすべての活動の概要である。
18節において、フォキス人との争いの時には、デモステネスは未だ政治家でなかった。
つまり「私自身はポリテウオメノイではなかった。」ことを思い起こさせることから始めている。
もっと後の、45節で彼はフィリッポスが罰せられないで、享受していることに言及しながら、買収されるがままであった「(市民の中で)政治を行うもの」と何も予測をたてず、つかの間の暇を享受することしか考えない「イディオータイと多数の者」の間に区別を設けている。
次に彼は個人的活動に言及する時、それはまさにたいてい、ただ「レゴントーン<演説する者たち>とポリテウオメノイ」の間で、彼はあえてフィリポスに対抗して弁論を行ったということを強調するためなのである。(173節)
それ故に、一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイがいて、他方危険を前にして聞くのみで依然受け身のままでいる人々つまり、イディオータイがいた。

 その区別は、デモステネスの作ではない可能性が大いにあるが、彼に帰されている『アリストゲイトン弾劾、第2演説』の中でさらに強く、再び表明されているのが見られる。デモステネスの作かどうかの信憑性は、この際ほとんど重要ではない。
つまり問題は多分、同じ問題に関して、別の告発者から公言された実際の演説であろう〔脚註12〕。
アリストゲイトンは、政治家の代表としては最もふさわしくない者たちの一人であったが、政治家を示すために弁論家によってかなりの数の表現が用いられたことが、考慮に値することである。最初の句から直ぐにこうした政治家は、「アルカイを持つ者<権力を有する役人>とポリテウオメノス」と呼ばれ、この言い回しは、最初にあげた政治家を示すために、5節の中で再び見いだされる。
2節で同じ人らは、“公共の事柄に手を出す”とそしてさらに3節で「アルコンとポリテウオメノイ」となっている。両方とも第4節の「イディオータイ」と対比されている。ここにおいて、次のことがわかる。つまりポリテウオメノイは「アルコン」と区別され〔脚註13〕 、しかし両方とも、アルケーの保有者であるにせよ、あるいは単に弁論家であるにせよ、彼らは同様にイディオータイと対比されていることがわかる。

 同じ対立はヒュペレイデスの作品の中にも見いだされる。
『エウクセニッポス擁護』の演説の中で、彼は向こう見ずな政治の責任がイディオータイに降りかかるその弁論家の無責任さを問題にしている。(『エウクセニッポス弁護』9節)
前者は、それはエウクセニッポスの敵の弁論家であるが、彼らは常に自分たちに有利に弁論してくれる人々がいて、他方、後者は、「イディオータイであり」彼らの近親の者に助けてもらうことさえできない。(『同上』13節)
彼は敵に対して、(敵とは政治で成功することを切望しているポリュエウクテスであるが)(『同上』27節「彼がポリテウオメノイであることを選んだからには」)、彼に対して、彼があたかも弁論家のタクシスの一部をなしているかのように扱う、エウクセニッポスのような単なるイディオーテス(『同上』27節; 30節)よりむしろ、弁論家や将軍を非難するよう勧告している。
弁論家や将軍はある時は結びつき、ある時は敵対し〔脚註14〕、 一方は公の責任のない者であり、また他方はもっとも重要なアルケの保有者であった。
従って彼らはイディオータイに対して一つの政治階級を構成した。そして、ヒュペレイデスによるタクシスという用語の使用は、さらにそうした考え、政治を行うことにあこがれるすべての人によって、すべてのポリテウオメノイによって構成された閉鎖的なグループという考えをさらに補強する。

 一方では、弁論家と将軍と、他方ではイディオータイの間に同じような対立を、ヒュペレイデスがハルパロスの事件に際して語った『デモステネス弾劾』の弁論の中に再び見いだす。
その演説は、断片の形で我々に届いているが、まさに断片IVの中に、なお『エウクセニッポス擁護』の中でよりもっとはっきりと書かれている対立が見いだされる。
アレクサンドロスの会計係のお金の一部を、受け取ったかあるいは奪ったかした人々に言及しながら、ヒュペレイデスは彼の目に映る罪状は、一方のイディオータイの場合と他方の弁論家と将軍の場合が同じではないことをまず第一に強調する。
前者は彼らの個人的使用のために黄金を受け取り、後者は振る舞うためであった。
ここにおいて、ヒュペレイデスの論拠の価値は問題ではない。
ここで我々の注意を引くことは、またもやそれが語彙のレベルにおいて、あたかもはっきりと区別されたグループであるように、市民の二つのカテゴリーの対立なのである。
そして、もし抽籤による偶然によって、イディオータイがアルケーになるならば、彼らがイディオータイではなくなってしまうことに反論することはできない。
このような場合でさえ、たとえ法廷を構成するイディオータイの一人がある役職に就いたからといって、彼はその政治家の階級の特権を共有はしない。
そしてもし彼が何らかの違反を犯したならば、彼は死かあるいは国外追放の刑が課せられるであろう。
一方では政治家らは安全にそして不正に都市に対して行動することができるのに。
さらにもう一度、そうすることでヒュペレイデスが悪い指導者に対する批判という、おなじみのテーマを繰り返していたかどうかを知ることは問題ではない。
また、彼の告発の正当性について自問することが問題なのではない。
重要なのは、陪審員たちに語りかける彼らを都市を指導する人々より対峙させるために、弁論家は彼らをイディオータイと呼んでいることである。
そしてどうやらその形容語は自明のことであるらしいということである。
同様に重要なことは、アルケーを授けられていても、そうしたイディオータイは、弁論家たちや将軍たち、(彼らは唯一政治家とみなされたのだが)、かれらとはあいかわらず別のままでいるということである。

 例えば、ヒュペレイデスについてと同様にカイロネイアの戦いの後のデモステネスについて、その時までは暗黙であったその区別が、「政治家」である少数者とイディオータイのままである市民の多数者の間でそれ以降認められる。
さて、そうすることでイディオータイの用語が、その習慣的用法とは若干異なった、新しい意味になっていることは十分明らかである。

 さて次に、我々が指摘することを試みるべきことはその用法である。
これが前4世紀の後半とそれ以前の時代の間のその差を、よりよく測定する唯一の方法である。
確かに、この論文の制限上、イディオーテスの用法の網羅的な分析に身をゆだねることは不可能である。
私は、歴史家ヘロドトス、トゥキュディデスそしてクセノフォンに留めよう。
ヘロドトスにおいては、イディオータイの用語は 、一般に、論述の展開が著名なこれこれの人たちに対して、無名の人物を示すために用いられている。
さらに、1巻32節で、クロイソスは幸福な人生のシンボルとして、ソロンが彼よりかイディオートン アンドローン<私人としての男たち>であるクレオビウスとビトンを選んでいることに怒っている。
同様に、I巻70節3において、イディオータス アンドラス<一私人としての男>がラケダイモン人がクロイソスに贈るために作らせたところのクラテール<混酒器>を購入した。
それらはサルデス並びにリュディア王国の陥落を聞き知った後に売り払われたものであった。
I巻124節では、まさにハルパゴスが、イディオーテスとして行動する人と呼ばれている。

 従って、どこにもその用語が「単なる一私人」という意味以上のはっきりしたより明確な意味を持ってはいない。
トゥキュディデスに関しては、我々はある時はより一般的に、ある時はより正確にイディオーテスの使用を見いだす。
数多くの節の中で、イディオーテスはポリスと並置されて用いられている。
例えば、I巻82節6句で、アルキダモスは戦争を終わらす方が、都市の人々と私人(ポレオーン・カイ・イディオートン)に関する訴訟を解決するより難しいという見解を表している。
数多くの別の節のなかに、同様なポレイス・カイ・イディオータイ<都市の人々と私人>の並置を再び見いだす。
例えば、1巻124節1、同144節3、2巻82節2、同64節6、4巻114節3等々において。
しかし、他の場所では、トゥキュディデスは公務に責任を持つ人と比較してイディオーテスに私人の意味を与えている。
例えば、1巻114節(原文では115節と誤植)2において、ミレトスの使節と一緒にアテネに赴いた民主主義者のサモス人は、アンドロス・イディオータイ<私人としての男>と呼ばれている。
それは、都市からの使節として派遣されたのではなかったことを意味している。
同様に3巻70節10句において、トゥキュディデスはケルキュラでの富裕なケルキュラ人によって評議会の中で行われた虐殺に言及している。
そこで彼らは「ブーレウトン<評議員>やイディオートン<私人>」の内で60名を殺した。
ここではイディオータイは、たとえ最もささやかなものであるにしてもアルケーを保有していない単なる一私人であるとして評議員と区別されている。
我々は、またイディオータイのこうした用法とデモステネスやヒュペレイデスの著作の中に指摘した用法とをつい比較したくなるかもしれない。
しかし、我々はすぐにそれらを区別するところのものに気がつく。
一方の場合は、イディオータイは時間を限られたアルケーの保有者と区別されたが、他の場合では、イディオータイはアルケーに就くことはあっても、政治的階級になることはなく、その公の職務の所有によって決定されない政治的階級と区別されている。

 クセノフォンに、トゥキュディデスの著作と同じ用法を再び見いだす。
『ヘレニカ<ギリシア史>』1巻7節7で、アルギヌサイの海戦の件に関して、クセノフォンは次のように報告している。
将軍たちの弁護を聞いた後で、「イディオータイの多くの人」が決心して将軍たちの保証人になる準備ができていた。
2巻4節36句では、第二の寡頭政の革命を終結させた交渉に関して、彼は明確に次のように述べている。
スパルタへ派遣した使節には、ピレウスと「都市の中のイディオータイからの人」たちが代表として含まれていた。
この場合、アッツフェルドの訳では「権限を持たずにやって来た都市の人々」。
どちらの場合にも、イディオータイは公務を保持する人々と対照的に、まさに単なる一私人である。
他の場所で、『ヘレニカ』においてイディオータイの使用を再び見いだす。
それは、我々がヘロドトスやトゥキュディデスにおいて重要な人物に相対して無名の人を示すための使用であるが。
(たとえば3巻4節7にて、アゲシラオスはリュサンドロスに相対して、単なるイディオーテスとして見なされたと語るときに)、あるいは都市の人々と区別するためのイディオーテスの使用を見いだす。(2巻4節28、4巻5節40)

 しかしながら、『家政論』においてイディオータイは将軍に対照して「一兵卒」〔脚註15〕 という意味を持って用いられている。
その文脈は次のことを示している。クセノフォンはこのようにして、イディオーテスが将軍がなったところの軍事的専門家に対照的に、服従することが役目である人であることを強調している。
従って、将軍の前で兵士たちがイディオータイであるのは、将軍がアルケーの保有者であるからという理由だけではなく、専門家の前では彼らは非専門家であるという理由によるものだ。(『家政論』第20巻6節と第21巻6節)
この分析の初めに、私は軍事機能のこうした専門化を、そしてそれに前4世紀を特徴づけるところの市民のある種の機能をも想起させた。

 『家政論』の二つの節の中で、クセノフォンがイディオータイに与えているその意味は、従ってトゥキュディデスが医者と単なる私人を区別したときに、それに与えた意味と比較される必要があるだけではない。
その意味は、同様に、弁論家である政治の専門家と相対して、また戦争の専門家、それは将軍であるが、それと相対して、民会や、評議会あるいは裁判所に出席して、そしてたとえ決議決定を行うことが最終的に彼らに属しているとしても、都市の政治の方向付けを専門家に委ねるところの人々である大衆を示すために、より明確な用法を示すこともまた可能である。

 クセノフォンによるイディオーテスの別の用法は、注意をとどめるに値する。
『ポロイ<歳入論>』の第4章で、クセノフォンは次のプロジェクトを想像している。
その計画によればつまり、都市アテネの市民全員に3オボロスの日々の所得を保証することが可能になるであろう。
すなわち市民の人数の3倍の数の奴隷を手に入れ、鉱山において、一日一人につき慣習的な法定利率の1オボロスで奴隷を貸し出すことを〔脚註16〕。
何度も繰り返して、クセノフォンは都市の市民団に、ニキアスやヒッポニコスのような(かって彼らはこのように奴隷の賃貸で金持ちになったが)、特別な(イディオータイ)を手本にすることを促している。(第4章14節、同17節—19節、同32節)ここでは、イディオータイは都市の人々と区別されている(第4章14節)さらに正確に言えばデーモシオン<公共のもの>と区別されている。(第4章18節—19節)

 従って、それはもはや単なる市民であるだけではなく、むしろタ・イディア<私事>に没頭する者らでもある。
すぐに、政治的階級に属していない人々を示すためのイディオータイの特殊な意味が、その最後の2つの用法と関係ないのではないかと自問する人もいるかも知れない。
先に見たように、将軍はアルケーの保有者の間で、名を挙げてポリテウオメノイと結びついている唯一のものである。
彼らと彼らの兵士の、その兵士たちは市民であるかもしれないし、そうでないかもしれないが、その兵士との間の関係は、ポリテウオメノイを市民全体、イディオータイに結びつけるところの関係と同じ性質のものである。
つまり、彼らは指揮し命令し、他方の者達は耳を傾ける、そして従う。
なるほど、人は決議に関して彼らの投票による裁可を求めるが、しかし、その決議は知識のある人々によって、彼らのあずかり知らぬところで準備された草案を対象としている。
彼らに関しては、より彼らに興味のある彼らの私事に関心を向けることを好む。
ここで、デモステネスが市民仲間に語っている非難が思い浮かぶ。
彼ら同胞は単に自ら隷従を拒絶するのみならず、主人であった彼らは、今やポリテウオメノイによって召使いの状態にさせられ(『オリュントス情勢第2演説』30節、『オリュントス情勢第3演説』31節)そして、テオリカ<観劇手当>の配給やボエドロミオンの月の行進のようなわずかな利益を受け取ることで満足している

 論文の制限上、こうした無関心の理由の分析を問題にはできかねる。
つまり、一方の人々においては悲惨であり、逆に他方の人々においては、個人的活動に専念して富裕者になる可能性を、それらは新喜劇の中で言及されたいくつかの状況が、いくぶんかの光を投じるかもしれない〔脚註17〕。
まさに問題は大きいので、前4世紀の末の弁論家の著作でのポリテウオメノイとイディオータイの間の対立についてのこの論文の範囲を超えている。

 私は結論を下すためにアリストテレスに向かおう。
『政治学』の中では、イディオータイがここでの分析で指摘した3つの意味で共に用いられているのを見いだす。
たいていの場合は、イディオータイは、公的責任を保持した「役人」と対立して互いに用いられている。(1272b4;1300b,21;1304a35、『アテナイ人の国制』45節2、48節2参照)
しかし、またイディオータイがエイドーテス、技術に精通した人々との対照で用いられているのを見いだす(1282a11)。
最後に、イディオータイはアリストテレスがホイ・ポリティコオイ<政治家>(1266a31)あるいは、さらに「公共の事業に携わり、国政に従事する者(ポリテウオメノイ)」と呼んだ人々と区別される。つまり、デモステネスやヒッペリデスがこの考察の出発点であった演説を行っていた時に、アテネで教えながら、都市の人々と市民の定義を練り上げることに努力した人が、政治的階級と単なる市民の間の違いを示すために弁論家が用いていたまさにその用語を、自分の責任で繰り返したということを確認するのは意味のないことではない。
交互に「支配し、支配される」可能性がある人として「完全な」市民を定義した彼は、アテネのような民主主義の都市の中でさえ、実質的な権力がポリテコイやポリテウオメノイによって行使されたのである以上、ますます「支配される」市民が存在したということを確認することを忘れるわけにはいかなかったのかもしれない。
しかし少なくとも、これらの「受け身」の市民たちには民会や裁判所への参加という「アルケー・アオリストス(はっきりしない不確定の権力)」が残されていた。
そして、まさに、これこそが、ヒュペレイデスやデモステネスに対する勝利者、アンティパトロスがアテネの市民たちに納税額に基づく政体、(それは過半数の市民たちから政治上の諸権利を奪うことになるのだが、)を押しつけるようになるときに、市民たちの大多数から奪われることになるものであった。〔脚註18〕。

《解題》

原題: POLITEUOMENOI ET IDIOTAI:
L'AFFIRMATION D'UNE CLASSE POLITIQUE A ATHENESAU IVe SIECLE, Par Claude Mosse, R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200

この翻訳(試訳)の本文中の< >は、原文のギリシア語等の訳語です。

論文の著者クロード・モセ女史は、1924年12月24日生まれで、1956年までレンヌ大学文学部の助手を務め、クレルモンーフェラン大学文学部の講師、教授を歴任し、ヴァンセンヌ中央大学古代史教授(パリ第8大学)として活躍しました。

著書には『アテナイ民主政の終焉』(La Fin de la Démocratie Athénienne, 1962, P.U.F)、『ギリシアとローマにおける労働』(Le Travail en Grèce et à Rome, Q.S.-J.? No.1240,1966,P.U.F.)福島保夫訳『ギリシアの政治思想』1972年《文庫クセジュ》白水社(Histoire des Doctorines Politiques en Grèce, Q.S.-J.? No.1340,P.U.F.,Paris,1969)など多数あります。

アテネでは、周知のように前5世紀のペリクレスの時代に民主政が完成し、そこでは成年男子市民全員が平等の参政権を持ち、重要な決定は彼らの全体集会である民会でなされました。

民会ではすべての出席者に平等な発言権と一票の投票権が認められ、ここに直接民主政が実現しました。

さらに、前4世紀になるとアテネの民主政のシステムは緻密さを増し、民会出席者には手当が支給されるなど、市民団の政治的平等は一層徹底されましたが、しかし、経済的不平等は依然残ることとなります。

民会では弁論家と呼ばれた政治家達が活躍するところとなり、演説でのレトリックなどの専門的技術を要する彼らの多くは、比較的富裕な階級に属していたと考えられています。

モセ女史は、この論文において、「ポリテウオメノイとイディオータイ」というキーワードを検討することで、前4世紀の政治的状況を明らかにしようと試みています。

すなわち、前5世紀のヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンの三者のこの用語の使用の例と、前4世紀のデモステネスに代表される弁論家の使用を比較検討し、その相違点を明らかにしています。

結論としては、前4世紀には一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイ<政治家たち>がいて、他方危険を前にして聞くのみで依然受け身のままでいる人々、つまりイディオータイ<私人>がいたことを確認しています。

しかし、こうしたことがアテネ民主政が事実上寡頭政であった、と論じることはできません。

例えば、オーバー(J.Ober,”Mass and Elite in Democratic Athens”,Princeton,1989)はこうした弁論家(政治家)と民衆(大衆)の緊張関係、両者の相互依存、また両者のバランスが民主政を安定させていたと考えています。

いずれにせよ、この論文の重要な点は、前4世紀には両者の間の溝を市民が認識していたことを明らかにしたことです。

(2017. 11. 5.:改)

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