クロード・モセ 「 ポリテウオメノイとイディオータイ」

クロード・モセ, 「ポリテウオメノイ<政治指導者>とイディオータイ<私人>—紀元前4世紀のアテネにおける政治的階級の確立」

R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200

《要約》

前4世紀の最後の10年間のいくつかの政治演説の中で、弁論家は普通の人を指すのにイディオータイという用語を用い、政治指導者に対してはポリテウオメノイと呼んだ。
政治的階級の存在は、新しい事実ではなかった。新しい点は、その存在と、いかにそのメンバーが普通の市民のすべてと異なっているかを意識していることである。

《翻訳》

 二つの明らかな事実から始めなければならない。

 第一に、アテネは前5世紀の60年代以来民主主義の国家であり、それは必然的に次のことを意味している。
つまり、デーモス<民衆>の民会は主権を有し、そして市民共同体を拘束するすべての決議は、その民会の多数決の投票から発している。
民会決議の冒頭の頭書<「民会と評議会の決議」という定型>は、この民衆主権の現実のもっとも明確な印である。
これこそが(民衆主権)、アングロ・サクソン系(英・米系)の歴史家が旧寡頭主義者と呼ぶところの(風刺)作家<いわゆる伝クセノフォンと呼ばれる作家>の敵意をかき立て、民会の大衆の無知の名のもとに4世紀の哲学者や作家が問題にしているものである。

 第二の事実は、アテネの政治的「階級」の存在である。
前5世紀においてペロポネソス戦争の突発までずっと、そうした階級は、伝承によって保たれた名前、ペリクレスからテミストクレスまで、アリスティデスからキモンまでの人物が属していた古い家柄の貴族の家系と混同されている。
ペロポネソス戦争は、政治の舞台に新しいタイプの指導者の出現をもたらした。
アリストファネスが嘲笑しているあの「デマゴーゴス<民衆指導者>」である。
彼はデマゴーゴスの胡散臭い血統とその評判の悪い仕事のやりかたを非難している。
ずっと以前から、そのデマゴーゴスに対する不満については、確かに生まれにおいては若干見劣りするが、しかし、彼らは奴隷の作業場の経営から得た固定所得を享受し、それゆえ前任者と同様の生活を送っていた人たちであると主張することにより反証を挙げて論破されてきた。〔脚註1〕。

 前4世紀に結婚での同盟の結果、こうした指導者の階級(指導者層)が均一化する傾向は明らかであり、またイギリスの歴史家J.K.デーヴィスの表現を借りれば「アテネ人の富裕な家族(階層)」の間で、彼らの生まれあるいは彼らの財産に結び付けられた何らかの対立を捜し求めることは、人を誤りに導くことは明らかである。
つまり、彼らはその財産に対して、レイトルギア<公共奉仕>やトリエラルキア<艦隊の艤装>を課せられた「富裕者」の小さな少数派を形成しており、都市の財政的均衡は大部分彼らの財産の上に成り立っていた〔脚註2〕。

 同様に、我々は以下のことを知っている。
つまり、ペロポネソス戦争の敗北と帝国がもたらしていたフォロス<貢租>の喪失によって悪化したその財政上の問題は、財政の役職であるディオイケーシス<国庫の管理の役人>の専門家が形成されるという事態を引き起こした。
そして人は直ちに次の三人の名前を思い起こすであろう。彼らは前4世紀のアテネの歴史を画したのだが、まずアフィドナのカリストラトス、彼は前378年の後のエイスフォラ<臨時財産税>を組織し直した。そしてエウブーロス、彼には多分、前356年以降のラウレイオン銀山の採掘の再開の功績とテオリコン<観劇手当>の発展に、その功績が帰せられるであろう。
最後に、リュクルゴス、彼はカイロネイアの戦いの後、「ディオイケーシスの担当者」という肩書きを持ってアテネの財政を復興した人物である。ちょうどその頃、戦争の新しい状況や傭兵に頼ることが一般化してきたので、ストラテーゴスはだんだん、将軍としての戦争の専門家になる傾向があった。
人は都市の「財政家」のリストに、容易に次の将軍のリストを比較対照できるかもしれない。
ティモテオスとイフィクラテスで始まり、続いてカレスとカブリアス、そしてラミア戦争の英雄レオステネスで終わる人物たちのリストである〔脚註3〕。

 アイゴスポタモイの戦いの敗北の後で、アテネが置かれた新しい状況が、アルカイ<役人>のその専門化の増大の原因であることは、疑いの余地はないだろう。
そして、前4世紀のアテネ人の間でもっとも洞察力ある精神の持ち主の、哲学者プラトンがこのような機能の必然的専門化を、市民団についての考察のテーマの一つにしたのは偶然ではない。
ソクラテスが、アルキビアデスが公共建築物や軍艦、あるいは穀物の調達についてまったく無知であるのに(『アルキビアデス』,106c以下)、政治の道に進むことを望んだのに驚いたときに、プラトンが考えているのは、彼の同時代の政治家たちが直面しなければならなかった問題なのである。
そしてソクラテスと同様にアルキビアデスも、同時代の問題を例証するためだけに登場させられたにすぎない。

 同様に、最近の研究論文で強調されているのは、アテネの民主政の政治の働きの別の側面である。
前5世紀初めの「貴族主義者」は、ペロポネソス戦争の時の「デマゴーゴス」あるいは前4世紀の「財政家」やストラテーゴスらと同様に、彼らが民会の前で彼らが強く進めた政治を守るために、自ら発言することが時々あったが、 「仲間」や「友人」やさらにその上スポークスマンとして彼らに奉仕したところの「賃金労働者」らに取り巻かれるのを好んだものであった。
失敗やデーモスの豹変の場合には、彼ら貴族主義者らは大衆の不平不満の犠牲になった〔脚註4〕。
プルタルコスが伝えている伝承では、ペリクレスのもとでエピアルテスがその役割を演じたことになっている〔脚註5〕。
人は「ヘタイラ<仲間>」のようなもの、あるいは永久的な党派をイメージする必要なしに、そのような結びつきの多くの例を引用することができるかもしれない〔脚柱6〕。
そして、もし結婚の絆が政治的性格の結びつきを、時には強化するようになるかもしれないが、それでもその重要性を誇張すべきではない。それはローマにおいて共和制の最後の数世紀に見られるものと、比較できる家族的政治とは違っていたからだ。

 ここで再び取り上げたものは、すべて既知のことであるが、たとえ、そうした現実を基礎にして、アテネの民主制についての一つの解釈を打ち立てる傾向が、多分あまりに強すぎたので、フィンリィーは強くそれに対して異議を唱えた。
つまり、政治的な階級の存在は、だからといってデーモスの「無関心」を意味しない。デーモスは政治的特権並びに都市の生活のすべてを、コントロールする権利に執着を持ち続けていた〔脚註7〕。

 しかし、確かにアテネの民主政はアンティパトロスの前での敗北まで、前5世紀の終わりの二つの寡頭政の革命は除いて、まったく中断を経験することなく機能していた。
そして政治的階級の存在が古代の現象として、体制の性質自体と結びついているが、アテネの独立の最後の数年のあいだにその政治家階級と市民団の大衆との間に溝が掘られたことは明らかである。
私には4世紀の弁論家の用語が、そのことについて説明してくれるように思われる。

しかしながら、私はこの用語の問題に手を着ける前に、思想家や理論家の方に回り道をしたいと思う。
イソクラテスと同様プラトンは、民主政の批判に手を着ける時に、粗悪な指導者の市民集団と弁論家、さらにもっとも低劣なへつらいが主要な武器であるデマゴーゴスとを区別することを好んだ。
つまり、デマゴーゴスはデーモスをだますために、また自分たちだけが利益を引き出すことができる冒険の中に、デーモスを引っ張っていくためにその武器を用いた。
イソクラテスとプラトンはその悪い導き手を示すために、たいていの場合デマゴーゴスあるいはレートール、同様にまた時々プロエストーテス(イソクラテス、『パナギュリコス』172節)あるいはプロスタタイ(イソクラテス、『平和について』3-5節)の用語も用いている。

 興味深くかつ強調すべき事実、それは、理論家が政治家を非難するとき、まさに弁論家の彼らの機能が、まず第一に前に置かれるという事実である。
そして彼らの「説得力」こそが多かれ少なかれ、大きなそして概して有害な彼らの影響力の原因であるという事実である〔脚註8〕。
プラトンがペリクレスに言及するとき、問題とされているのは弁論家としてなのであり、ペロポネソス戦争にアテネを引っ張っていった過失の責任を問われることになるところの将軍としてではないのである〔脚註9〕。
言い換えれば、デーモスに影響を与え、政治を運営する人々を非難しているのであり、アルケー<権力>の保有者を、問題としているのではないのだ。
個人が、彼が果たす機能以上に重要である。
まさに、民主主義がかなりの数の市民に、アルカイ<役職・役人>になることを許す限りにおいて。
たとえその交代が、それが都市の公務についての経験に基づく知識の獲得を許さないという点で、時々異議が申し立てられたとしても、(参照イソクラテス、『ニコクレス』17節)それでもなお、その交代は多くの人々には政体の土台であり続けている。極端な場合には能力の欠如よりも、(プラトンは別として)弁論家の説得的な巧妙さのほうが重要なのである。
そうした弁論家はたいてい、公務上の責任がなかったので、会計報告の提出の義務がなかった〔脚註10〕。

 理論家の方へのこの回り道によって、我々は都市の中で役割を果たしている人々の間で、二つのグループを区別することができる。
つまり、一つのグループはアルケ<役職>の保有者で、彼らは交代によってかなりの数存在した。もう一つは弁論家である。彼らは民会と裁判所で演説し、そしてデーモスに対して何よりもまず「耳を傾ける」人であることを求める〔脚註11〕。
さて、その時代の終わりには、いくつかの弁論の中には、別の区別が明らかになっているように思われるものがある。
すなわち、ポリテウオメノイ<政治家>とイディオータイ<私人>を区別して分けて考えることである。
デモステネスの二つの演説とヒュペレイデスの演説で、我々に伝えられたものは、まず第一に問題となる演説のすべてが、カイロネイアの戦いに続く時代に、すなわちアテネの独立の最後の数年にさかのぼることを書きとどめながら、その区別を我々に正確に述べることを可能にさせてくれる。

我々は『冠について』の演説から始めよう。
我々はどんな状況でデモステネスが、クテシフォンに対するアイスキネスによる告発の返答のために、その演説をするために召還されたのかを知っている。
クテシフォンは、デモステネスの一般的政治活動と彼が城壁の修理をすることを任された委員会のメンバーとして、エピドシス<寄付>として総額5ムナという金額を提供したので、その報酬としてデモステネスに冠を授与するよう要求した人物である。
『冠について』の演説は、デモステネスが政治生活に入ってからの、彼によって行われたすべての活動の概要である。
18節において、フォキス人との争いの時には、デモステネスは未だ政治家でなかった。
つまり「私自身はポリテウオメノイではなかった。」ことを思い起こさせることから始めている。
もっと後の、45節で彼はフィリッポスが罰せられないで、享受していることに言及しながら、買収されるがままであった「(市民の中で)政治を行うもの」と何も予測をたてず、つかの間の暇を享受することしか考えない「イディオータイと多数の者」の間に区別を設けている。
次に彼は個人的活動に言及する時、それはまさにたいてい、ただ「レゴントーン<演説する者たち>とポリテウオメノイ」の間で、彼はあえてフィリポスに対抗して弁論を行ったということを強調するためなのである。(173節)
それ故に、一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイがいて、他方危険を前にして聞くのみで依然受け身のままでいる人々つまり、イディオータイがいた。

 その区別は、デモステネスの作ではない可能性が大いにあるが、彼に帰されている『アリストゲイトン弾劾、第2演説』の中でさらに強く、再び表明されているのが見られる。デモステネスの作かどうかの信憑性は、この際ほとんど重要ではない。
つまり問題は多分、同じ問題に関して、別の告発者から公言された実際の演説であろう〔脚註12〕。
アリストゲイトンは、政治家の代表としては最もふさわしくない者たちの一人であったが、政治家を示すために弁論家によってかなりの数の表現が用いられたことが、考慮に値することである。最初の句から直ぐにこうした政治家は、「アルカイを持つ者<権力を有する役人>とポリテウオメノス」と呼ばれ、この言い回しは、最初にあげた政治家を示すために、5節の中で再び見いだされる。
2節で同じ人らは、“公共の事柄に手を出す”とそしてさらに3節で「アルコンとポリテウオメノイ」となっている。両方とも第4節の「イディオータイ」と対比されている。ここにおいて、次のことがわかる。つまりポリテウオメノイは「アルコン」と区別され〔脚註13〕 、しかし両方とも、アルケーの保有者であるにせよ、あるいは単に弁論家であるにせよ、彼らは同様にイディオータイと対比されていることがわかる。

 同じ対立はヒュペレイデスの作品の中にも見いだされる。
『エウクセニッポス擁護』の演説の中で、彼は向こう見ずな政治の責任がイディオータイに降りかかるその弁論家の無責任さを問題にしている。(『エウクセニッポス弁護』9節)
前者は、それはエウクセニッポスの敵の弁論家であるが、彼らは常に自分たちに有利に弁論してくれる人々がいて、他方、後者は、「イディオータイであり」彼らの近親の者に助けてもらうことさえできない。(『同上』13節)
彼は敵に対して、(敵とは政治で成功することを切望しているポリュエウクテスであるが)(『同上』27節「彼がポリテウオメノイであることを選んだからには」)、彼に対して、彼があたかも弁論家のタクシスの一部をなしているかのように扱う、エウクセニッポスのような単なるイディオーテス(『同上』27節; 30節)よりむしろ、弁論家や将軍を非難するよう勧告している。
弁論家や将軍はある時は結びつき、ある時は敵対し〔脚註14〕、 一方は公の責任のない者であり、また他方はもっとも重要なアルケの保有者であった。
従って彼らはイディオータイに対して一つの政治階級を構成した。そして、ヒュペレイデスによるタクシスという用語の使用は、さらにそうした考え、政治を行うことにあこがれるすべての人によって、すべてのポリテウオメノイによって構成された閉鎖的なグループという考えをさらに補強する。

 一方では、弁論家と将軍と、他方ではイディオータイの間に同じような対立を、ヒュペレイデスがハルパロスの事件に際して語った『デモステネス弾劾』の弁論の中に再び見いだす。
その演説は、断片の形で我々に届いているが、まさに断片IVの中に、なお『エウクセニッポス擁護』の中でよりもっとはっきりと書かれている対立が見いだされる。
アレクサンドロスの会計係のお金の一部を、受け取ったかあるいは奪ったかした人々に言及しながら、ヒュペレイデスは彼の目に映る罪状は、一方のイディオータイの場合と他方の弁論家と将軍の場合が同じではないことをまず第一に強調する。
前者は彼らの個人的使用のために黄金を受け取り、後者は振る舞うためであった。
ここにおいて、ヒュペレイデスの論拠の価値は問題ではない。
ここで我々の注意を引くことは、またもやそれが語彙のレベルにおいて、あたかもはっきりと区別されたグループであるように、市民の二つのカテゴリーの対立なのである。
そして、もし抽籤による偶然によって、イディオータイがアルケーになるならば、彼らがイディオータイではなくなってしまうことに反論することはできない。
このような場合でさえ、たとえ法廷を構成するイディオータイの一人がある役職に就いたからといって、彼はその政治家の階級の特権を共有はしない。
そしてもし彼が何らかの違反を犯したならば、彼は死かあるいは国外追放の刑が課せられるであろう。
一方では政治家らは安全にそして不正に都市に対して行動することができるのに。
さらにもう一度、そうすることでヒュペレイデスが悪い指導者に対する批判という、おなじみのテーマを繰り返していたかどうかを知ることは問題ではない。
また、彼の告発の正当性について自問することが問題なのではない。
重要なのは、陪審員たちに語りかける彼らを都市を指導する人々より対峙させるために、弁論家は彼らをイディオータイと呼んでいることである。
そしてどうやらその形容語は自明のことであるらしいということである。
同様に重要なことは、アルケーを授けられていても、そうしたイディオータイは、弁論家たちや将軍たち、(彼らは唯一政治家とみなされたのだが)、かれらとはあいかわらず別のままでいるということである。

 例えば、ヒュペレイデスについてと同様にカイロネイアの戦いの後のデモステネスについて、その時までは暗黙であったその区別が、「政治家」である少数者とイディオータイのままである市民の多数者の間でそれ以降認められる。
さて、そうすることでイディオータイの用語が、その習慣的用法とは若干異なった、新しい意味になっていることは十分明らかである。

 さて次に、我々が指摘することを試みるべきことはその用法である。
これが前4世紀の後半とそれ以前の時代の間のその差を、よりよく測定する唯一の方法である。
確かに、この論文の制限上、イディオーテスの用法の網羅的な分析に身をゆだねることは不可能である。
私は、歴史家ヘロドトス、トゥキュディデスそしてクセノフォンに留めよう。
ヘロドトスにおいては、イディオータイの用語は 、一般に、論述の展開が著名なこれこれの人たちに対して、無名の人物を示すために用いられている。
さらに、1巻32節で、クロイソスは幸福な人生のシンボルとして、ソロンが彼よりかイディオートン アンドローン<私人としての男たち>であるクレオビウスとビトンを選んでいることに怒っている。
同様に、I巻70節3において、イディオータス アンドラス<一私人としての男>がラケダイモン人がクロイソスに贈るために作らせたところのクラテール<混酒器>を購入した。
それらはサルデス並びにリュディア王国の陥落を聞き知った後に売り払われたものであった。
I巻124節では、まさにハルパゴスが、イディオーテスとして行動する人と呼ばれている。

 従って、どこにもその用語が「単なる一私人」という意味以上のはっきりしたより明確な意味を持ってはいない。
トゥキュディデスに関しては、我々はある時はより一般的に、ある時はより正確にイディオーテスの使用を見いだす。
数多くの節の中で、イディオーテスはポリスと並置されて用いられている。
例えば、I巻82節6句で、アルキダモスは戦争を終わらす方が、都市の人々と私人(ポレオーン・カイ・イディオートン)に関する訴訟を解決するより難しいという見解を表している。
数多くの別の節のなかに、同様なポレイス・カイ・イディオータイ<都市の人々と私人>の並置を再び見いだす。
例えば、1巻124節1、同144節3、2巻82節2、同64節6、4巻114節3等々において。
しかし、他の場所では、トゥキュディデスは公務に責任を持つ人と比較してイディオーテスに私人の意味を与えている。
例えば、1巻114節(原文では115節と誤植)2において、ミレトスの使節と一緒にアテネに赴いた民主主義者のサモス人は、アンドロス・イディオータイ<私人としての男>と呼ばれている。
それは、都市からの使節として派遣されたのではなかったことを意味している。
同様に3巻70節10句において、トゥキュディデスはケルキュラでの富裕なケルキュラ人によって評議会の中で行われた虐殺に言及している。
そこで彼らは「ブーレウトン<評議員>やイディオートン<私人>」の内で60名を殺した。
ここではイディオータイは、たとえ最もささやかなものであるにしてもアルケーを保有していない単なる一私人であるとして評議員と区別されている。
我々は、またイディオータイのこうした用法とデモステネスやヒュペレイデスの著作の中に指摘した用法とをつい比較したくなるかもしれない。
しかし、我々はすぐにそれらを区別するところのものに気がつく。
一方の場合は、イディオータイは時間を限られたアルケーの保有者と区別されたが、他の場合では、イディオータイはアルケーに就くことはあっても、政治的階級になることはなく、その公の職務の所有によって決定されない政治的階級と区別されている。

 クセノフォンに、トゥキュディデスの著作と同じ用法を再び見いだす。
『ヘレニカ<ギリシア史>』1巻7節7で、アルギヌサイの海戦の件に関して、クセノフォンは次のように報告している。
将軍たちの弁護を聞いた後で、「イディオータイの多くの人」が決心して将軍たちの保証人になる準備ができていた。
2巻4節36句では、第二の寡頭政の革命を終結させた交渉に関して、彼は明確に次のように述べている。
スパルタへ派遣した使節には、ピレウスと「都市の中のイディオータイからの人」たちが代表として含まれていた。
この場合、アッツフェルドの訳では「権限を持たずにやって来た都市の人々」。
どちらの場合にも、イディオータイは公務を保持する人々と対照的に、まさに単なる一私人である。
他の場所で、『ヘレニカ』においてイディオータイの使用を再び見いだす。
それは、我々がヘロドトスやトゥキュディデスにおいて重要な人物に相対して無名の人を示すための使用であるが。
(たとえば3巻4節7にて、アゲシラオスはリュサンドロスに相対して、単なるイディオーテスとして見なされたと語るときに)、あるいは都市の人々と区別するためのイディオーテスの使用を見いだす。(2巻4節28、4巻5節40)

 しかしながら、『家政論』においてイディオータイは将軍に対照して「一兵卒」〔脚註15〕 という意味を持って用いられている。
その文脈は次のことを示している。クセノフォンはこのようにして、イディオーテスが将軍がなったところの軍事的専門家に対照的に、服従することが役目である人であることを強調している。
従って、将軍の前で兵士たちがイディオータイであるのは、将軍がアルケーの保有者であるからという理由だけではなく、専門家の前では彼らは非専門家であるという理由によるものだ。(『家政論』第20巻6節と第21巻6節)
この分析の初めに、私は軍事機能のこうした専門化を、そしてそれに前4世紀を特徴づけるところの市民のある種の機能をも想起させた。

 『家政論』の二つの節の中で、クセノフォンがイディオータイに与えているその意味は、従ってトゥキュディデスが医者と単なる私人を区別したときに、それに与えた意味と比較される必要があるだけではない。
その意味は、同様に、弁論家である政治の専門家と相対して、また戦争の専門家、それは将軍であるが、それと相対して、民会や、評議会あるいは裁判所に出席して、そしてたとえ決議決定を行うことが最終的に彼らに属しているとしても、都市の政治の方向付けを専門家に委ねるところの人々である大衆を示すために、より明確な用法を示すこともまた可能である。

 クセノフォンによるイディオーテスの別の用法は、注意をとどめるに値する。
『ポロイ<歳入論>』の第4章で、クセノフォンは次のプロジェクトを想像している。
その計画によればつまり、都市アテネの市民全員に3オボロスの日々の所得を保証することが可能になるであろう。
すなわち市民の人数の3倍の数の奴隷を手に入れ、鉱山において、一日一人につき慣習的な法定利率の1オボロスで奴隷を貸し出すことを〔脚註16〕。
何度も繰り返して、クセノフォンは都市の市民団に、ニキアスやヒッポニコスのような(かって彼らはこのように奴隷の賃貸で金持ちになったが)、特別な(イディオータイ)を手本にすることを促している。(第4章14節、同17節—19節、同32節)ここでは、イディオータイは都市の人々と区別されている(第4章14節)さらに正確に言えばデーモシオン<公共のもの>と区別されている。(第4章18節—19節)

 従って、それはもはや単なる市民であるだけではなく、むしろタ・イディア<私事>に没頭する者らでもある。
すぐに、政治的階級に属していない人々を示すためのイディオータイの特殊な意味が、その最後の2つの用法と関係ないのではないかと自問する人もいるかも知れない。
先に見たように、将軍はアルケーの保有者の間で、名を挙げてポリテウオメノイと結びついている唯一のものである。
彼らと彼らの兵士の、その兵士たちは市民であるかもしれないし、そうでないかもしれないが、その兵士との間の関係は、ポリテウオメノイを市民全体、イディオータイに結びつけるところの関係と同じ性質のものである。
つまり、彼らは指揮し命令し、他方の者達は耳を傾ける、そして従う。
なるほど、人は決議に関して彼らの投票による裁可を求めるが、しかし、その決議は知識のある人々によって、彼らのあずかり知らぬところで準備された草案を対象としている。
彼らに関しては、より彼らに興味のある彼らの私事に関心を向けることを好む。
ここで、デモステネスが市民仲間に語っている非難が思い浮かぶ。
彼ら同胞は単に自ら隷従を拒絶するのみならず、主人であった彼らは、今やポリテウオメノイによって召使いの状態にさせられ(『オリュントス情勢第2演説』30節、『オリュントス情勢第3演説』31節)そして、テオリカ<観劇手当>の配給やボエドロミオンの月の行進のようなわずかな利益を受け取ることで満足している

 論文の制限上、こうした無関心の理由の分析を問題にはできかねる。
つまり、一方の人々においては悲惨であり、逆に他方の人々においては、個人的活動に専念して富裕者になる可能性を、それらは新喜劇の中で言及されたいくつかの状況が、いくぶんかの光を投じるかもしれない〔脚註17〕。
まさに問題は大きいので、前4世紀の末の弁論家の著作でのポリテウオメノイとイディオータイの間の対立についてのこの論文の範囲を超えている。

 私は結論を下すためにアリストテレスに向かおう。
『政治学』の中では、イディオータイがここでの分析で指摘した3つの意味で共に用いられているのを見いだす。
たいていの場合は、イディオータイは、公的責任を保持した「役人」と対立して互いに用いられている。(1272b4;1300b,21;1304a35、『アテナイ人の国制』45節2、48節2参照)
しかし、またイディオータイがエイドーテス、技術に精通した人々との対照で用いられているのを見いだす(1282a11)。
最後に、イディオータイはアリストテレスがホイ・ポリティコオイ<政治家>(1266a31)あるいは、さらに「公共の事業に携わり、国政に従事する者(ポリテウオメノイ)」と呼んだ人々と区別される。つまり、デモステネスやヒッペリデスがこの考察の出発点であった演説を行っていた時に、アテネで教えながら、都市の人々と市民の定義を練り上げることに努力した人が、政治的階級と単なる市民の間の違いを示すために弁論家が用いていたまさにその用語を、自分の責任で繰り返したということを確認するのは意味のないことではない。
交互に「支配し、支配される」可能性がある人として「完全な」市民を定義した彼は、アテネのような民主主義の都市の中でさえ、実質的な権力がポリテコイやポリテウオメノイによって行使されたのである以上、ますます「支配される」市民が存在したということを確認することを忘れるわけにはいかなかったのかもしれない。
しかし少なくとも、これらの「受け身」の市民たちには民会や裁判所への参加という「アルケー・アオリストス(はっきりしない不確定の権力)」が残されていた。
そして、まさに、これこそが、ヒュペレイデスやデモステネスに対する勝利者、アンティパトロスがアテネの市民たちに納税額に基づく政体、(それは過半数の市民たちから政治上の諸権利を奪うことになるのだが、)を押しつけるようになるときに、市民たちの大多数から奪われることになるものであった。〔脚註18〕。

《解題》

原題: POLITEUOMENOI ET IDIOTAI:
L'AFFIRMATION D'UNE CLASSE POLITIQUE A ATHENESAU IVe SIECLE, Par Claude Mosse, R.E.A.LXXXVI,1984,1-4, pp.193-200

この翻訳(試訳)の本文中の< >は、原文のギリシア語等の訳語です。

論文の著者クロード・モセ女史は、1924年12月24日生まれで、1956年までレンヌ大学文学部の助手を務め、クレルモンーフェラン大学文学部の講師、教授を歴任し、ヴァンセンヌ中央大学古代史教授(パリ第8大学)として活躍しました。

著書には『アテナイ民主政の終焉』(La Fin de la Démocratie Athénienne, 1962, P.U.F)、『ギリシアとローマにおける労働』(Le Travail en Grèce et à Rome, Q.S.-J.? No.1240,1966,P.U.F.)福島保夫訳『ギリシアの政治思想』1972年《文庫クセジュ》白水社(Histoire des Doctorines Politiques en Grèce, Q.S.-J.? No.1340,P.U.F.,Paris,1969)など多数あります。

アテネでは、周知のように前5世紀のペリクレスの時代に民主政が完成し、そこでは成年男子市民全員が平等の参政権を持ち、重要な決定は彼らの全体集会である民会でなされました。

民会ではすべての出席者に平等な発言権と一票の投票権が認められ、ここに直接民主政が実現しました。

さらに、前4世紀になるとアテネの民主政のシステムは緻密さを増し、民会出席者には手当が支給されるなど、市民団の政治的平等は一層徹底されましたが、しかし、経済的不平等は依然残ることとなります。

民会では弁論家と呼ばれた政治家達が活躍するところとなり、演説でのレトリックなどの専門的技術を要する彼らの多くは、比較的富裕な階級に属していたと考えられています。

モセ女史は、この論文において、「ポリテウオメノイとイディオータイ」というキーワードを検討することで、前4世紀の政治的状況を明らかにしようと試みています。

すなわち、前5世紀のヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンの三者のこの用語の使用の例と、前4世紀のデモステネスに代表される弁論家の使用を比較検討し、その相違点を明らかにしています。

結論としては、前4世紀には一方では積極的に政治生活に参加する人々であるポリテウオメノイ<政治家たち>がいて、他方危険を前にして聞くのみで依然受け身のままでいる人々、つまりイディオータイ<私人>がいたことを確認しています。

しかし、こうしたことがアテネ民主政が事実上寡頭政であった、と論じることはできません。

例えば、オーバー(J.Ober,”Mass and Elite in Democratic Athens”,Princeton,1989)はこうした弁論家(政治家)と民衆(大衆)の緊張関係、両者の相互依存、また両者のバランスが民主政を安定させていたと考えています。

いずれにせよ、この論文の重要な点は、前4世紀には両者の間の溝を市民が認識していたことを明らかにしたことです。

(2017. 11. 5.:改)

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