テルモピュレ

画像の説明
(写真:1989年7月撮影。後方カリドロモス山。)

テルモピュレ(「熱い門」という意味でこの地点にわき出る熱泉がその地名の由来)は、古代の北と南を結ぶ主要幹線の戦略上の要所の一つでした。

古代には、西側のカリドロモス山が海にまで迫り、絶壁と波打ち際に挟まれた隘路となっていました。
前480年、ペルシア戦争の祭、ギリシア連合軍がペルシア陸軍を迎え撃った古戦場です。

スパルタ王レオニダス率いる3百人の兵士とボイオティアのテスピアイからの7百人の兵が、玉砕覚悟で戦い、この地で戦死しました。

レオニダスのブロンズ像

画像の説明
(写真:1989年7月撮影。)

現在、国道の脇には、猛将レオニダスのブロンズ像が、記念として建てられています。

スパルタの兵士をたたえる碑文

画像の説明
(写真:1989年7月撮影。)

また、戦死者をたたえる前5世紀の詩人シモニデスの詩「異国の人よ、往きてラケダイモン(スパルタ)の人々に告げよ。汝らが命に服しわれらここに死せりと」(ヘロドトス ,7.228)、と刻まれた碑文が丘の上に置かれています。

ペラ

ペラ、現在の北ギリシアの中心都市テサロニキの西方約40kmに位置します。

マケドニア王国の首都の遺跡で、前5世紀末に王アルケラオスが、アイガイから遷都して、ヘレニズム時代に至るまでマケドニアの宮廷が置かれて繁栄しました。

フィリッポス2世(前382年)とその息子アレクサンドロス大王(前356年)も、ここペラで誕生しました。

1950年から発掘が進められている遺跡は、北側の丘に王宮跡を持つアクロポリス、その南側にアゴラが広がっています。


<ペラのプラン>
画像の説明
(周藤芳幸編, 2003による)


アクロポリスからアゴラの方向(南)を望む。

画像の説明
(写真:1989年8月、北より撮影。)
アクロポリスの頂上から、眼下一面にマケドニアの沖積平野を望むことができます。

アクロポリスの遺構(東側のエクセドラ)

画像の説明
(写真:1989年8月、西より撮影。)
頂上部には、王宮と推測される東西にエクセドラ(列柱廊内部に三方にめぐらした壁に沿ってベンチを配した部屋)を配した東西対象の遺構が残っています。

陶工の作業所

画像の説明
(写真:1989年8月北東より撮影。)
アゴラの東側には、かまどを持つ陶工の作業所の遺跡が広がっています。

マケドニア貴族の館

画像の説明
(写真:1988年4月南より撮影。)

また、整然と区画された20棟ほどの家屋群のなかで、とりわけ、見事なモザイク床とイオニア式列柱を持つマケドニア貴族の館の跡がひと目を引きます。
年代は、前300年頃のもので、家屋が円柱式中庭をとりまくように設計されています。

ペラは、ヘレニズム時代には、カサンドロスによってヒッポダモス式の整然とした碁盤目状の都市として整備され、アンティゴノス・ゴナタスの治世に一層発展をとげ、ローマの支配下に入るまで繁栄しました。

遺跡に隣接する考古学博物館には、有名な「獅子狩り」「豹に乗るディオニュソス」などの床モザイクや、さまざまな彫刻や陶器、貨幣などの出土品が展示されています。

ペラは、現在は内陸にありますが、古代には目前までテルメ湾が迫り、海岸に面した交通の要所でした。
アクロポリスからは、長い時の流れで生まれた沖積平野を、一望の下に眺めることができます。

(2018. 05. 30:改)

ヴェルギナ

テサロニキの南西約70km、アリアクモン川(古代名ハリアクモン川)を挟んで、向こう側がヴォルミオ山、こちら側がピエリア山系、こちらの麓にヴェルギナの遺跡があります。

遺跡は、ヴェルギナ村とパラティッツア村の間に広がる広大なエリアで、南側のアクロポリスに至る緩やかな斜面に遺構が点在しています。

一般公開されている遺構は、主として王墓(博物館:1993年完成)、「ロメオスの墓」、王宮、劇場などです。


<ヴェルギナの遺跡>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)


<ヴェルギナの地下の博物館>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)


小円墓群

画像の説明
(写真:1988年4月北より撮影。)
大墳丘(王墓)の東側に小円墳墓群(初期鉄器時代)が広がっています。

マケドニア式墳墓(通称ロマイオスの墓)

画像の説明
(写真:1988年4月南より撮影。)
1938年考古学者コンスタンティノス・ロメオスによって発見されたマケドニア墓。
この墓は前3世紀前半(前300−250年頃)のものと推定されています。

ファサード(正面)は4本のイオニア式半円柱を用いた神殿風の作りになっています。

ヘレニズム時代の王宮跡

画像の説明
(写真:1988年4月南西より撮影。)

この王宮は屋根瓦や建築様式から前300年頃、カッサンドロス王の時代に造営されたか、もしくは前4世紀後半にピリッポス2世によって劇場と同時に造営されたとする見方が有力になっています。

政治の中心ではなかったアイガイにおいて、この王宮はもっぱら儀式や饗宴の場となり、また、王族たちの別荘のような機能を果たしてたとも考えられています。


<王宮のプラン>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)


劇場跡

画像の説明
(写真:1988年4月南東より撮影。)

上記の王宮跡の北側(60m)に位置していますが、現在、わずかに1列目の石の座席を観ることができます(前4世紀後半)。

前336年、フィリッポス2世が暗殺された現場と推定されています。

しかし、ヴェルギナを一躍有名にしたのは、テサロニキ大学の故アンズロニコス教授の発掘調査でした。
彼は、1977年から1978年にかけて、このヴェルギナで、豪華な副葬品とファサードの見事な壁画を持った3基のマケドニア式墳墓を発掘しました。

そして、彼は、未盗掘でもっとも副葬品の豊かな第二墳墓を「フィリッポス2世」の墓と断定しました。

フィリッポス2世の墓?(第2墳墓)

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)

被葬者の問題をめぐっては、以後延々と議論が続いていますが、ヴェルギナの墳墓が前4世紀後半のマケドニア王の墓であることは間違いありません。

この地は、前5世紀末に王アルケラオスによって新都ペラが建設されてからも、宗教や祭儀の中心地としての重要性を保ち続け、歴代の王の埋葬地となっていました。

また、これまでは、マケドニアの古都アイガイがエデッサに比定されていましたが、この発掘調査によってこのヴェルギナが古都アイガイであることがほぼ確実となりました。

なお、マケドニア王の象徴である太陽の紋章のついた見事な骨箱や、黄金の花冠、武具、銀製品、象牙細工など豪華な副葬品の数々は、遺跡内の博物館とテサロニキ考古学博物館に展示されています

アンズロニコスが「フィリッポス2世」の墓と断定した第2墳墓はマケドニア式のかまぼこ形天井をして、正面に寝殿風の扉があり、正面の壁画には、獅子狩り(あるいはイノシシ狩り)をしている様子が描かれています。


<第2墳墓の復元図>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)

(2018. 05. 30:改)

レフカディア

レフカディアは、アリストテレスがアレクサンドロスを教えたニンフの聖域のある古代のミエザであると推定されています。(Plut.,Alex.7)

ここには、4基のマケドニア墓が点在しています。

ベリアからエデッサへの乗り合いバスで20分ぐらい行くと、道路沿いの右手に小墳丘に埋もれた墓の入り口が見えます。

それが、キンチの墓です。

キンチの墓

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)

この墓はそれほど大きくはありませんが、マケドニア式墳墓(年代は前3世紀中葉)で、発掘者の名にちなんで「キンチの墓」呼ばれています。

さらに、この墓の辺りから東の方に通じる田舎道を500メートルほど行くと「審判者の墓」(大墳墓)と呼ばれているマケドニア式墳墓があります。

この墓はマケドニア式墳墓の中で最大の物で、かまぼこ型天井を有し2部屋からなっています。
ファサード(正面)は二階建てで、下方にはフレスコ画が残り、4本のドーリス式半円柱の間に4人の人物が描かれています。

左から、死者、ヘルメス、アイアコス、ラダマンテュスです。

審判者の墓(大墳墓)—死者

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)

同上—ヘルメス

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)

同上—アイアコス

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)

同上—ラダマンテュス

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)
この墓は発掘者ペツァスによって前3世紀初頭に年代づけられています。
他には、「審判者の墓」の東方50mの所に、1971年に発見されたヘレニズム期の墓が残っています。

さらに、「審判者の墓」の西方800m程のところ、バス道路を越えた向かい側にもう一基のマケドニア式墳墓を見ることができます。

1942年に発見された墳墓は、規模はかなり小さいですが、剣や盾、鎧、兜などの素晴らしい壁画を持ち、被葬者の名前から「リュソンとカリックレスの墓」と呼ばれています。

天井からはしごを使って墓室内に入ることができます。

リュソンとカリックレスの墓

画像の説明
(写真:1988年4月南より撮影。)

ディオン

ディオンは「神々の棲む山」オリュンポス山の東麓に位置する古代マケドニアの聖地で、その名はゼウス(ディアス)にちなみます。

前5世紀末にマケドニア王アルケラオスによって、オリュンピア祭を範とした運動競技や演劇を含む祭典が創始されて以来、マケドニア王国の宗教的中心を占めました。

また、この地はマケドニア王国の軍事拠点でもありました。
ピリッポス(フィリッポス)2世は、オリュントス陥落の後、ここで盛大な式を挙げて勝利を祝い、前342年にはアレクサンドロス大王が東方遠征の出陣式を華々しくこの地で挙行したといわれています。

ギリシアの最高峰オリュンポス山(標高2917m)を見上げる荘厳な雰囲気の遺跡には、テッサロニキ大学教授D.パンデルマリスらの発掘によって、長大な城壁や舗装された道路の跡、デメトルの神殿、イシスの神殿、アスクレピオスの神殿、ヘレニズム時代とローマ時代の二つの劇場跡、ローマ時代のオデオン(音楽堂)や浴場跡、スタディオン、数基のマケドニア式墳墓などが明らかになりました。

これらの遺跡は、オリュンポス山麓からピエリア平野に向かって広がっており、ヘレニズム時代には町は碁盤目状に区画され、ローマ時代にも変更されることなく栄えたようです。

なお、この遺跡の博物館にはディオンからの出土品の他、広くピエリア平野一帯の遺跡からの出土品が展示されています。

また、マケドニアとローマの決戦の地ピュドナ(前168年)は、ディオンの北約15kmの大都市カテリニ市の北東約25kmの海岸部分に当たりますが、現在は海水浴場になっています。


<ディオンのプラン>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)


ディオンの遺跡(後方オリュンポス山)

画像の説明
(写真:1989年7月北東より撮影。)

目抜き通り

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影。)
遺跡の入り口を入って正面にほぼ南北に走る目抜き通りです。
幅は4mから5mあり、排水設備も整っています。
西側(写真左手)には店が軒を並べていました。

イシスの神殿

画像の説明
(写真:同年同月、北より撮影。)
エジプトのイシス神を祭る神殿。
デメテルの神殿の北東、城壁の外に残っています。

アスクレピオスの神域

画像の説明
(写真:同年同月、東南より撮影。)
上記のイシス神殿と同じく城壁の外、デメトル神殿の南に位置しています。

劇場の跡

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影。)
城壁の外に盛り土をして作られた劇場です。
恐らく、前408年にマケドニア王アルケラオスの宮廷に招かれたアテネの悲劇詩人エウリピデスの劇もこの劇場で上演されたと思われます。

オデオン(音楽堂)

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(写真:同年同月、東より撮影.)

浴場の跡

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影。)

オリュントス

オリュントスは、前479年頃、北ギリシアのカルキディケ(現ハルキディキ)半島西部にギリシア人によって植民された都市です。

前432年には、カルキディケ同盟の指導的国家として、エーゲ海北部に勢力を誇りました。
前4世紀には、アテネ、スパルタ、マケドニアと勢力争いを繰り広げましたが、前348年にマケドニア王フィリッポス2世と戦って敗れ、住民は奴隷となり、町は徹底的に破壊され、廃墟と化しました。

町は南の丘と北の丘の二つの丘からなっており、アメリカ古典学研究所によって、北の丘からヒッポダモス式の碁盤目状の町並みが発見されました。

遺跡は、前5世紀の後半から前4世紀の初期のギリシアの家屋の造りや都市計画などの貴重な資料を提供しています。

現在は、遺跡の一部を除いて埋め戻されており、遺跡からの様々な出土品は、テサロニキとポリギロスの考古学博物館に展示されています。

オリュントスの丘

画像の説明
(写真:1989年7月南西より撮影。)
オリーブ林の向こうにわずかに見える丘がオリュントスの丘。周りは平野に囲まれ、付近にヴァトニア河が流れています。

南の丘の住居跡

画像の説明
(写真:同年同月、東北より撮影。)

北の丘の住居跡1

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影。)

北の丘の全市は、約1200×400mのほぼ長方形で、5から7m幅の街路に囲まれた各区画に小路を挟んで5軒ずつ2列の家屋が並んでいました。
各戸には、中庭、居間、台所、浴室、および階上には婦人部屋などがありました。

ポテイダイア

ポティダイアは、カルキディケ(ハルキディキ)半島から突き出した三つの半島の一番西のカサンドラ半島の付け根に位置します。

前600年頃、コリント人によって植民された都市で、堅固な城壁を備え、ペルシア戦争の時には、反ペルシアの側に立って戦い、戦後は、デロス同盟の一員となっています。

しかし、前432年にはアテネに反旗を翻し、それが、ペロポネソス戦争の直接の原因ともなっています。(トゥキュディデス,Ⅰ.56)
町は、前429年、2年間にわたる包囲の後に征服されました。

その後、アテネの制勢力圏に組み込まれましたが、前356年にマケドニアのフイリッポス2世の手に落ち、前348年のオリュントスの陥落の際に、共に破壊されたと考えられています。

その後、前316年頃にカサンドロスによってカッサンドレイアと改名されて再建され、ヘレニズム時代には、マケドニアのもっとも繁栄した都市となりました。

前171〜168年の3回にわたるマケドニア戦争の際には、ローマの艦隊を撃退しています。
紀元後540年に、フン族に町は破壊されましたが、その後、地峡の防衛の重要性からユスティニアヌスによって再度再建されました。

現在、城壁の跡などを除いて目立った遺跡は残ってはいません。

テルマイコス湾に残る城壁の跡

画像の説明
(写真:1989年7月、東より撮影。)

城壁の跡

画像の説明
(写真:同年同月、東北より撮影。)

運河

画像の説明
(写真:同年同月。北東より撮影。)
1937年に開削された運河で、対岸にユスティニアヌスの時代の頃の城壁の跡が残っているのが見られます。

アンフィポリス

アンフィポリスはテッサロニキの東、トラキア地方北岸のストリュモン河口の東西交通路(古代のエグナティア街道)の要衝に位置しています。

前5世紀後半にアテネの植民地として建設され、古代には金山として名を馳せたパンガイオン山の金銀などの鉱山資源の集散地として栄えました。

アンフィポリスは戦略的・経済的な重要な拠点として、エーゲ海北岸の国際的対立の大きな焦点の一つとして、アテネ・スパルタ・オリュントス・マケドニアの間でその獲得をめぐって争いが繰り広げられ、最終的に前357年にマケドニアのフィリッポス2世に占領され、首都ペラに次ぐ、第二の都市として繁栄しました。

ストリュモン河の右岸の橋のたもとには、町の入り口を守るかのように前4世紀後半の作で(カイロネアのライオン像とほぼ同じ姿をしていますが20年ほど古いと見なされています。)、1936から37年に復元されたライオン像が佇んでいます。

ライオン像(前360年頃)

画像の説明

(写真:1988年4月、北西より撮影。)

遺跡には、アクロポリスや城壁、2基のマケドニア墳墓、ヘレズム時代の教会(バシリカ)やローマ時代の家屋などが残っています。

城壁

画像の説明

(写真:同年同月、北東より撮影。)
ペロポネソス戦争の最中、この地での前422年のアンフィポリスの戦いでは、アテネは大敗を喫しクレオンは戦死。
また勝利したスパルタも名将ブラシダスを失いました。

マケドニア墳墓

画像の説明

(写真:同年同月、南より撮影。)

マケドニア墳墓の丘から望んだストリュモン河と平野

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影。)

城門近くで発掘されたストリュモン河に設けられた橋の杭

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

ヘレニズム時代のバシリカ

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影。)

ローマ時代の家屋の跡

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影。)

フィリッピ

カヴァラの西北に、前356年古代マケドニア王国のフィリッポス2世が、トラキア人のクレニデス市を征服して築いた都市フィリッピ(古代名フィリッポイ)の遺跡があります。

フィリッピは、パンガイオン鉱山の開発拠点となり、そこから産出する金銀は、その後のフィリッポスの重要な軍資金となりました。

アクロポリスの南麓に、城壁で囲まれた広大な遺跡は主にローマ時代のもので、フォルムを中心に、浴場や図書館、劇場の跡、ビザンティン時代の教会の跡などが残っています。
ここには小さな博物館も付属しています。

ちなみに、フィリッピは、カエサルを暗殺した共和派のブルートゥスとカッシウスの軍がアントニウスとオクタウィアヌスに敗れた「フィリッピの戦い」(前42年)の地として歴史に名前を残しています。

ローマ時代のフォルム

画像の説明

(写真:1988年4月、北より撮影。)

フォルムの南側のストア

画像の説明
(写真:1988年4月、北西より撮影。)

ビザンツ時代の教会(バシリカ)の跡

画像の説明
(写真:1988年4月東より撮影。)

劇場

画像の説明
(写真:1988年4月北東より撮影。)

フィリッピの遺跡と古戦場跡

画像の説明
(写真:1988年4月アクロポリス<北>より撮影。)

タソス島

エーゲ海最北の島タソスは、その名が「森(タソス)の島」に由来すると言われるほど緑豊かな島です(面積380平方キロメートル)。

港のまわりには、古代タソス市(現在のリメナの町)のアゴラや劇場、三つの尾根を廻るアクロポリスの城壁などが残っています。

また、現在、対岸の本土の港湾都市カヴァラ、ケラモティ村からフェリーが連絡しています。


<古代タソスのプラン>
画像の説明

(周藤芳幸編, 2003より)


アクロポリスから見下ろすタソスの市街

画像の説明
(写真:1988年4月南東より撮影。アテナ・ポリウーテス(護国)の神殿跡から市街を望む。中央の広場が古代のアゴラ。)

タソスは、古くはフェニキア人が入植したと伝えられていますが、前7世紀にはパロス島から本格的な移民が行われました。

これには抒情詩人アルキロコスも参加し、彼の友人グラウコスは建国の祖として半神崇拝の対象として、アゴラの一画に記念碑が建てられていました。

グラウコスの記念碑

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。 )

また、タソスは、古代には豊かな鉱山資源(金の採掘)で富強を誇り、良質のワインの産地としても有名で、その輸出用容器であるアンフォラ(国名、役人の名、様々な図柄のスタンプが刻印)は、ギリシア世界でだけではなく、黒海沿岸各地で発見されており、ワイン交易がタソスの重要な経済活動であったことを物語っています。

なお、アゴラに隣接するタソスの博物館には、ワインの取り引きを国家が統制する法令を記した碑文が保管されています。

ワイン交易法碑文(前480−60年)

画像の説明
(写真:1988年4月、タソス博物館にて撮影。)

タソスの歴史的事件としては、前465年にデロス同盟から離反し、その結果、アテネに屈服させられて、城壁の取壊し、軍船の引き渡し、賠償金の支払いなどの制裁を加えられたことが有名です。

古代タソスの遺跡を訪ねるには、アゴラとそれに隣接する博物館、その北東のディオニュソスの聖域、ポセイドンの聖域を見学後、時計回りに都市の周壁に沿ってアクロポリスまで昇って、都市を一望しさらに西に下って各門などを見ながら一周するのが便利です。

以下、アゴラから順に上記のコースで遺跡を紹介します。

アゴラの北東の柱廊

画像の説明
(写真:1988年4月南西より撮影。)

ゼウス・アゴライオスの神殿跡(アゴラ北東)

画像の説明
(写真:1988年4月西より撮影。)

ルキウス・カエサルの祭壇(アゴラ北東)

画像の説明
(写真:1988年4月南東より撮影。)

テオゲネスの聖域(アゴラ北東)

画像の説明
(写真:1988年4月北西より撮影。)

ディオニュシオン(ディオニュソスの聖域)

画像の説明
(写真:1988年4月南西より撮影。)
アゴラの北東に位置。

ポセイドンの聖域

画像の説明
(写真:1988年4月南西より撮影。)
ディオニシオンの北に位置。

二輪戦車門

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。)
ポセイドンの聖域南に位置。二輪戦車の浮き彫りが門に残っています。

エブライオカストロの聖域

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(写真:1988年4月南より撮影。)
上記ディオニュソス・ポセイドン両聖域の北にある岬には、教会が立つており、そこには古代の柱廊が残っています。この岬の聖域では、古代にはアンテステリオンの祭りが執り行われていました。

城壁(北側)

画像の説明
(写真:1988年4月北より撮影。)
古代タソスは、周囲をこのような城壁で囲まれていました。

劇場1

画像の説明
(写真:1988年4月北より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:1988年4月東より撮影。)
尾根伝いに上記の城壁に沿って昇っていくと、松林の中に勾配を利用した前4世紀の見事な劇場が姿を現します。

アテナ・ポリウーコス神殿跡1

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(写真:1988年4月西より撮影。)

同上2

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(写真:1988年南より撮影。)
三つの頂を持つアクロポリスの中央の頂には、アテナ・ポリウーコス(護国)女神の神殿跡が残っており、大型の石を切り合わせた重厚な土台が見られます。ここから市街地を見下ろすと、海の中に延びている古代の堤防跡がわかります。(上記の写真「アクロポリスから見下ろすタソスの市街」参照)

牧神パンの祠

画像の説明
(写真:2988年4月北東より撮影。)
アクロポリスの西の頂きに至る手前には、岩に刻まれたパンの祠があります。

パルメノン門1

画像の説明
(写真:1988年4月南より撮影。)

同上2(碑文の部分の拡大写真)

画像の説明
アクロポリスの西の頂から下ってくると、パルメノンの門に出会います。
この城門には、「パルメノンが私(門)を作った」という碑文が刻まれています。

シレノスの門1

画像の説明
(写真:1988年4月南より撮影。)

同上2(上記写真左部分の拡大写真)

画像の説明
(写真:1988年4月撮影。 )

さらに西に進み、斜面を降りきると等身大のシレノスが杯を持つ姿で浮き彫りされたシレノスの門があります。
さらに、その先の城壁には、ヘラクレス門、ゼウスとヘラの門が続いています。

ヘラクレス門

画像の説明
(写真:1988年4月北東より撮影。)

ゼウスとヘラの門

画像の説明
(写真:1988年4月北より撮影。)

オデオン跡

画像の説明
(写真:1988年4月南西より撮影。)
アゴラの南西に位置。

(2016.5.2)

サモトラケ島(現サモスゥラキ島)

サモトラケ島は、本土トラキア地方の中心都市アレクサンドルポリから、南西方向の海上に浮かぶ、険しい山がちの島です。(本土との距離は約40キロ。島の面積は178平方キkm。)
東西に山脈がつらなり、フェンガリ山(標高1611m)が中央にそびえています。

その古代名サモトラケは、「トラキア地方のサモス」の意で、前8世紀末頃、この島に最初に植民したのはサモス人だという伝えがあります。

また、ホメロスの『イリアス』には、ポセイドンはこの島の頂上からトロイア戦争を観戦したといわれています。

古くから、この島で営まれてきた豊穣神カベイロスを祀る熱狂的な秘儀は有名で、(アテネのエレウシスの秘儀同様、秘儀の内容は不明))エーゲ海北部の宗教的中心地として名声を馳せました。

プルタルコスによると、かのマケドニアのピリッポス(フィリッポス)2世も、アレクサンドロス大王の母オリュンピアスを、このサモトラケの秘儀の際に見初めたと伝えられています。

ただし、サモトラケの二人の出会いは、マケドニア王家の聖地としての威信を高めるための創作という説もあります。

ヘレニズム時代には、マケドニア王家の重要なサモトラケ島の聖域として発展し、「偉大なる神々の聖域」と呼ばれる広大な聖域が整備されました。

島の北側の海に面した斜面を利用した聖域は、雄大にそびえるフェンガリ山を背にして、眼下には真っ青な海を望む、荘厳な雰囲気の遺跡です。

遺構は、前4世紀以降のものがほとんどで、とりわけ、前3世紀にアンティゴノス朝とプトレマイオス朝の庇護のもとで整備されていった時期のものが人目を引いています。


<サモトラケのプラン>
画像の説明
(周藤芳幸・澤田典子, 2004より)


サモトラケ島

画像の説明
(写真:1988年4月船上北より撮影。)

アナクトロン1

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月南より撮影。)
ここで秘儀の第1段階の入信の儀式(ミュエシス)が執り行われたと考えられています。
(近年では、この建造物は単なる集会場で、実際のアナクトロンは、神域の中心の「テメノス」(下記の写真参照)と呼ばれる建造物とする見解も有力です。)

現在目にすることのできる遺構はローマ帝政初期のもので、西側に入り口が三つ設けられ、長さ27m、幅11.5mの建物で、内部は二つに区切られています。

小さな岩を隙間なく積んだポリゴナル様式の側面は、ところにより3mの高さで、建物の内部には東側の壁に沿って木製の座席が設けられた跡も残っています。

アルシノエイオン(円形堂)1

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影。)
アナクトレオンの直ぐ南側に位置。
アルシノエ2世(プトレマイオス1世の娘)が、リュシマコス(アレクサンドロス大王の後継者の一人でトラキアと小アジアを支配)の王妃だった時期に寄進した建造物(前280年代)。

タソスの大理石で作られたこの円形堂は、ギリシアで最大のもの(直径約20m)建物の用途は、神官達の集会場、秘儀の踊りの場など様々に推測されていますが不明です。

ちなみに、アルシノエ2世は、ヘレニズム世界において、三度王妃の座についた数奇な人生を歩んだ女性です。

最初は上記のリュシマコス、彼の戦死後、次に異母兄のマケドニア王プトレマイオス・ケラウノスと結婚します。

ケラウノスが、アルシノエの息子達を殺害したため、サモトラケの神域に保護を求めて逃亡し、ケラウノスがガリア人との戦いで戦死後、実弟のエジプトのプトレマイオス2世と結婚して、王妃として共同統治を行いました。

同上2

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(写真:同年同月、北西より撮影。 )
遺構の内部には、前4世紀にさかのぼる小さなドーリス式の円形堂の基礎部が残っています。
また、アルシノエ2世が奉納した事を記す碑文が刻まれたアーキトレーヴ(ギリシア建築の梁の部分)の破片も見られます。

アルシノエイオンの祭壇

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(写真:同年同月、撮影。)
円形堂の南西の扉付近に置かれた自然石の祭壇。

テメノス

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(写真:同年同月、南東より撮影。)
アルシノエイオンのさらに南に位置。

長方形のエリアの遺構が残っていますが、内部に設けられた祭壇のまわりで、秘儀に関わる何らかの儀式が執り行われていたと考えられています。
なお、上記アナクトロンで述べたように、この建造物がミュエシスの執り行われたアナクテロンという見解もあります。

リラにあわせて踊る少女達のレリーフ

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(写真:同年同月、博物館にて撮影。)
上記テメノスには、北東角にフィリッポス2世が寄進したと推定されるプロピュロン(門)があり、そのフリーズを飾っていた「リラにあわせて踊る少女達」のレリーフが博物館に展示されています。

ヒエロン

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(写真上:同年同月、南より撮影。 )
テメノスの南側に、復元された5本のドーリス式円柱が印象的なヒエロンの遺構があります。
長さ約38m、幅約12mのこの神殿は、前320年代に着工されましたが、完成したのは前150年頃で、さらに後3世紀に大幅に改修されています。

秘儀の入信者は、東側と西側に設けられた小さな入り口から入場して、東西の壁に沿って設置された二列の座席に座り、中央のスペースで行列が繰り広げられ、南端の半円形の後陣で秘儀の主たる儀式が執り行われたと推定されています。

ヒエロンと西側の遺構

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(写真:同年同月、ニケの泉の前、南より撮影)
ヒエロンの西側には、二つの建造物の遺構が隣接しています。

北側にあるのが、西に面して6本のドーリス式円柱が並ぶ、前5世紀の長方形の建造物。奉納品を収蔵する建物と推定されていますが、異論もあります。
南側には、下記の写真のほぼ正方形の「祭壇の間」があります。

祭壇の間

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(写真・同年同月、東より撮影。)
内部には犠牲を捧げる祭壇が設けられ、西側のファサード(建物正面)には6本の円柱が並んだ柱廊になっており、アーキトレーヴの断片には、アッリダイオス(フィリッポス3世)が奉納したことを記す碑文が残っています。

劇場

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(写真:同年同月、北東より撮影。 )
「祭壇の間」の西側に、前2世紀に建造された劇場の遺構が残っています。

ストア

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(写真:同年同月、南東より撮影。)
劇場の西側の高台には、前3世紀に建造されたストアの遺構が南北に延びています。
全長約104m、幅13.4mで、神域では最大の建造物です。
外側に35本のドーリス式円柱、内側に18本のイオニア式円柱が立ち並んでいたこのストアからは、神域全体を一望することができます。

ニケの泉の跡

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(写真下:同年同月北西より撮影。)
劇場の南、ストアの南端の東の奥まった一角に、二つの水槽と水を引く陶管の残る「ニケの泉」があります。有名な「サモトラケのニケ」像の発見場所で、かって像が建っていた場所です。

プトレマイオン

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(写真:同年同月、南より撮影。 )
神域の東側にはプトレマイオンの遺構が残っています。
エジプトのプトレマイオス2世の寄進による、モニュメンタルなプロピュロン(門)です。(前280年代)
神殿の主門であったこの建物は、古代にはその下を流れていた川に架かる橋にもなっていて、写真でわかるように建物の下部を幅mほどのトンネルが斜めに貫いています。

円形の遺構

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(写真:同年同月、東より撮影。)
プトレマイオンの西側に、数段の座席の列が残った、劇場のような構造の遺構があります。(直径約9m。建物の建造は前5世紀後半にさかのぼると推定。)
プトレマイオンが建造されるまでは、この建物が神域の入り口に位置していて、何らかの儀式が行われてと推測されています。

アッリダイオスとアレクサンドロス4世の奉納建造物の遺構

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(写真:同年同月撮影。)
円形の遺構の北側には、アッリダイオスとアレクサンドロス4世の奉納した、宝庫のような建造物の遺構が残っています。

なお、遺跡に隣接する博物館には、非入信者の入場を禁じる碑文や、上記「リラにあわせて踊る少女達」のレリーフ、アルシノエ3世の大理石の頭像などの彫刻、入信者に手渡された鉄製の指輪、墓域から出土した副葬品などさまざまな出土品が展示されています。

また、現在、パリのルーブル博物館の至宝「サモトラケのニケ(勝利の女神)」の複製が飾られています。

(2016.5.5)

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