テーベ

テーベ(古代名テーバイ:現在名スィーヴァ)は、中部ギリシアのボイオティア地方の主要都市で、神話と伝承に彩られたカドモス王が創建した王国です。
ディオニュソス神や英雄ヘラクレスの生誕の地として、また、オイディップス王の悲劇の舞台としても有名です。

エレクトラの門

画像の説明
(写真:1988年5月西より撮影。)

城壁に囲まれた「七つの門」を持つテーベは、今も、カドメイアの丘(周囲が南北8km、東西6,5 kmの楕円形の丘)に眠っています。
その内の一つ、丘の南東部にあった「エレクトラの門」が確認できます。

カスティリの丘の岩窟墓

画像の説明

ミケーネ時代から、テーベが巨大な王国の都として繁栄したことは、現在のテーベの街の下から発掘された宮殿の遺構や、カドメイアの周辺のカスティリの丘の岩窟墓からも推測できます。(写真:この岩窟墓の内部には、漆喰が塗られていた形跡が残っています。 )

歴史時代には、テーベはボイオティア連邦の盟主として、政治的に重要な役割を果たし、名将エパミノンダスのもとで、前371年、レウクトラの戦いでスパルタに大勝して、一時ギリシアの覇権を握りました。

しかし、彼が、前362年のマンティネイアの戦いで戦死してからは、その勢力は衰え、前338年のカイロネイアの戦いにマケドニアのフィリッポス2世に敗れました。

前355年、テーベはマケドニアに対して反乱を起こし、アレクサンドロス大王によって徹底的に破壊され、前316年に都市は再建されたものの、前18年にはローマの将軍スラによって再び破壊されました。

パウサニアスによれば、彼が訪れた時には、「都市の低地部は、神域を除いて住む人もなく、住民はアクロポリスをカドメイアではなくテーベと呼んで、丘の上で暮らしていた。」ようです。

現在、カドメイアの丘の北端に、小さな博物館があり、館内には、タナグラ出土のミケーネ時代の彩色陶棺や、「タナグラ人形」の名で知られるテラコッタ(素焼き)の小型人形などが展示されています。

タナグラ

古代のタナグラはボイオティア地方の一ポリスで、アソポス川の北、現在のタナグラ村の南東約5キロの円形の丘に位置しており、アテナからテーベへ北上する途中にあります。

歴史的にはタナグラは、前457年スパルタがボイオティアに進出したアテネとアルゴスをうち破った古戦場です(タナグラの戦い)。
また、伝説によれば、テーベでの詩のコンクールでピンダロスを破った女流詩人コリナの生誕の地です。

城壁

画像の説明
(写真:1988年5月、南より撮影。)

劇場跡

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影。)
現在、遺跡に残っているのは、前4世紀の町を囲んだ「城壁」の一部と、覆い隠された「劇場」跡などにすぎません。

タナグラの名前を一躍有名にしたのは、1874年に墓域から発見されたテラコッタの女性像(いわゆる「タナグラ人形」)です。

さらに、1969年以来、タナグラ村の近くでミケーネ時代の墓から彩色陶棺と珍しいデザインのテラコッタの小板状のブローチが出土し、それらは現在、前述のテーベの考古学博物館で展示されています。

オルコメノス

オルコメノスは、テーベの西北にあるコパイス平野(かってのコパイス湖)の西端、アコンティオン山麓に位置しています。

パウサニアスは(9.34-36)、「オルコメノスは、ギリシアでも有名な豊かな都市の一つであり、伝説の王『ミニュアスの宝庫』は、エジプトのピラミッドに劣らず驚異である」と述べています。
また、かれは、ミニュアス王が宝庫を作った最初の人であるとも述べています。

オルコメノスの王国の富が半ば伝説化していたことは、アキレスが「オルコメノスの歳入相当の富をもらっても、アガメムノンの要請に応じるつもりはない」(ホメロス『イリアス』9.381)と語っていることからも明らかです。

ミニュアスの宝庫

画像の説明
(写真:1988年5月西より撮影。右手が入り口、中央に副室への入り口。)

1880年にシュリーマンは、ホメロスの詩句に導かれて、パウサニアスが『ミニュアスの宝庫』と呼んでいるトロス墓を発掘しました。
このミケーネ時代のトロス墓は、前14世紀の末か前13世紀の初めに建設されたようです。

渦巻き紋のレリーフ

画像の説明
(写真:1988年5月撮影。)

このトロス墓は、ミケーネの「アトレウスの宝庫」と並ぶ規模を持っており、副室の天井には、渦巻紋のレリーフで装飾されています。

劇場

画像の説明
(写真:1988年5月、南より撮影。)
「ミニュアスの宝庫」の近くには、前4世紀の後半に建てられた「劇場」が12列の席を残して保存されています。

さらに、向かいのスクリプー教会(874年建立)の境内からは、ミケーネ時代の宮殿跡も発掘されています。

歴史的には、古典期は、オルコメノスはテーベとボイオティアの覇権をめぐって、ライバル関係でしたが、ボイオティア連邦に所属して、結果としてペルシア戦争の前479年のプラタイアの戦いでは、ペルシア側で戦っています。

後に、ボイオティア連邦から脱退して、テーベと争い、前364年と前349年にテーベによって町は破壊され、そして、マケドニアのフィリッポス2世とアレクサンドロス大王によって町は再建され、一時繁栄を取り戻しましたが、最終的にはローマの支配のもとで、その重要性は失われていきました。

オルコメノスは、遺跡のプランを見ると東西に細長く城壁で守られた都市でしで、『ミニュアスの宝庫』などは都市の東端にあたります。

中央付近には、アスクレピオスの神殿、アルカイック期の神殿(前9、あるいは前8世紀)などもありましたが、わずかに礎石を残すのみでした。

テーベからオルコメノスの間には広大なコパイス平野が広がっていて、もともとこの地は古くは湖でしたが、近代に入って干拓され、整然と区画された耕作地になっています。

しかし、古くはミケーネ時代からも、治水事業は始められたようで、その肥沃な土地がオルコメノスの繁栄の源のようです。

グラ

グラは、オルコメノスに対峙する形で、コパイス平野北東部の丘に位置しています。

グラ全景

画像の説明
(写真:西より全景を望む。遺跡は、手前の小高い横長の丘。)

城壁

画像の説明
(写真:宮殿跡より城壁を望む。中央の城壁の右側が遺跡。)

総延長3kmに及ぶ石灰岩のキクロペス様式の堅固な城壁をめぐらした、ミケーネ時代最大の要塞遺跡です。
総面積23万平方mに及ぶこの丘には、今はわずかに「宮殿」と「アゴラ」の跡が見られるだけです。

南門

画像の説明
(写真:1988年5月南西より撮影。)

「南門」から入ると北側に宮殿とアゴラの跡が残っています。

すでに、この地には新石器時代に居住の跡が見られ、ミケーネ時代に発展して前1300年頃に城塞化されましたが、ミケーネ時代の末(前13世紀の末)には破壊されて、見捨てられました。

グラは、かっては、コパイス湖の島であり、排水システムを管理して干拓を行っていたと推測されていて、ミケーネ時代の末に破壊さると、盆地は再び湖に(夏期には沼沢地)へ逆戻りしたようです。
現在、丘の周辺には、ギリシアでは珍しく灌漑設備がある耕地が見られます。

カイロネイア

カイロネイア(現在名:ヘロニア)は、ボイオティア地方の最北端、テーベの北西約50km、オルコメノスのさらに西に位置します。

前338年、マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を打ち破った名高い「カイロネイアの戦い」の古戦場です。この戦いにより、マケドニアはギリシアの覇権を握ります。

カイロネイアの古戦場

画像の説明
(写真:カイロネイアの古戦場と町並み。:1989年9月、劇場南南西より撮影)
戦場となったのは、現在のヘロニア村の東側、ケフィソス川の南の峡谷部です。

劇場

画像の説明
(写真:1989年9月、北より撮影。)

ライオン像

画像の説明
(写真:「カイロネイアのライオン」1989年9月、西より撮影。)

今日、カイロネイアには、古代のアクロポリスの城壁の跡と、その麓の岩の斜面を削って造られた小さな「劇場」の遺構が残っています。

また、「カイロネイアのライオン」と呼ばれる、カイロネイアの戦いにちなむ大理石のライオン像とテーベ人の戦没者墓(ポリュアンドリオン)などが目を引きます。

パウサニアス(9.40.10)にも、このライオンの像とテーベ人の合墓とが記されています。

ライオン像はカイロネイアの戦いで全滅したテーベの神聖隊の墓のモニュメントと考えられており、約24×15mのテーベ人の合墓には、254の遺体が7列となって葬られていました。

1818年にイギリス人の旅行者によって、ライオン像の彫刻は発見され、ギリシア独立戦争の際に、いったん破壊されましたが、20世紀初頭にギリシア考古学協会の手で復元されて、今は静かに古戦場跡を見つめています。

台座の高さは約3m、ライオン像を含めた高さは約6mになり、近づくと、見上げるばかりの大きさで、想像以上の大きなモニュメントです。

また、ここの博物館には、新石器時代初期の遺物やミケーネ時代の土器、上述のポリュアンドリオンから出土した武具などが展示されています。

この地出身の著名な人物としては、『英雄伝』で名高いローマ時代の文人プルタルコスがいます。
彼は、後1~2世紀に生きたカイロネイアの名門の出身で、ローマに招かれましたが、故郷を捨てず晩年はデルフォイの神官を務めて生涯を終えています。

また、歴史的には、カイロネイアは前5世紀には、オルコメノスの勢力下にありましたが、アテネ・テーベ・ポキスの争う中、ボイオティア連邦に加盟しています。
その後、大王の和約(前387年)で政治的には独立しましたが、前338年の戦い以後は、たびたび外国勢力の侵入に悩まされました。

前86年には、ローマの将軍スラが、ポントス王ミトリダテス6世の将軍アルケラオスを破った地としても知られており、ローマの勝利を記念した碑が南西の丘で発見されています。

プラタイア

現在のプラタイアイは、アテネの西北約60km。キタイロン山の山裾にある小村です。

城壁

画像の説明
(写真:城壁と現在のプラタイアの町、後方キタイロン山。1989年3月撮影。)

古戦場

画像の説明
(写真:1989年3月撮影。)

この地は、前479年の歴史上名高いペルシア戦争の一つ「プラタイアの戦い」の古戦場です。
両軍はアソポス川を挟んで対峙して、白兵戦の結果ペルシア陸軍の将軍マルドニオスは戦死し、ギリシア連合軍の勝利に終わりました。

古代においては、プラタイアは、ボイオティア地方の小都市として歴史の波に翻弄されました。
当初、プラタイアはテーベに対抗するためにアテネと友好同盟を結んでいました。

ペルシア戦争の「マラトンの戦い」の際には、アテネに千名の援軍を送り、また、「プラタイアの戦い」では、テーベに本陣を置くペルシア側に対して,ギリシア連合軍の本拠地として、プラタイア市民も6百人が参戦しています。

さらに、ペロポネソス戦争では、プラタイアはスパルタに破壊され、前4世紀に入り再建されたものの、再度ギリシアの覇権を握ったテーベにより破壊され、その後、マケドニアのフィッリッポス2世の支配下で再度再建されています。

城壁

画像の説明
(写真:1989年3月撮影。)

現在残っている遺構は、前388年にフィリッポス2世によって再建された切石積みの城壁の一部です。
遺跡のプランを見ると、城壁は市内を囲っており、現在の道が古代の都市の間を通過しています。
城壁内には建物はまったく残っていませんが、神殿などの土台部分や泉などを見ることができます。

レウクトラ

レウクトラは、プラタイアの西北、テーベの西南に位置します。

前371年、テーベの名将エパミノンダス率いるボイオティア軍が、スパルタ陸軍を、斜線陣戦法(重装歩兵の密集隊形の変種)によって打ち破った名高い古戦場です。

この戦いに勝利して、テーベは一時ギリシアの覇権を握りましたが、しかし、その覇権も、マンティネイアの戦いによるエパミノンダスの死で長くは続きませんでした。

戦勝記念碑(トロパイオン)

画像の説明
(写真上:1989年3月撮影。)
現在、この地には、テーベ人が建てた戦勝記念碑(トロパイオン)が復元されています。

古戦場

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)
周囲の古戦場は広々とした平野が広がっているだけです。
レウクトラは、カイロネイアの戦い、プラタイアの戦いと並ぶ古戦場ですが、改めて、この中部ギリシアで、史上有名な戦いが繰り広げられたことがよくわかります。

北から南下する敵を迎撃って戦うには相応しい平野です。

また、この時のテーベは「神聖隊」という精強部隊が活躍しますが、かれらは同性愛の集団としても有名です。

レフカンディ

レフカンディは、エウボイア島にある青銅器時代から初期鉄器時代にかけての集落遺跡です。
エウボイア島と本土を隔てるエウリポス海峡の最も狭くなった所にカルキスの町があります。
レフカンディアはそのカルキスの南、レラントス平野の海際に位置しています。

クセロポリスの丘

画像の説明
(写真:1988年5月北西より撮影。)
エウボイア湾に面するクセロポリスの丘には、初期青銅器時代から前700年頃まで居住が続けられたようです。
この遺跡で重要なのは、1981年から83年にかけて発掘されたヘーローン(英雄廟)です。

この建物は、全長約47m、幅10mの細長い長方形で、西の部分(後陣)が楕円形をしており、5つの部屋をもち、特に重要なのは中央の部屋で、そこには二つの墓穴が掘られていました。

北の墓穴には4頭の馬の骨が、南には30歳~45歳くらいの男性の火葬骨を収めた青銅の壺と
豪華な金細工などの副葬品を伴う25-30歳ぐらいの女性の遺骸が埋葬されていました。

この二人は、前10世紀の初期に埋葬されたと推測されています。

なお、カルキスとエウボイア島の間のエウリポス海峡は川のような印象で、今は橋によって結ばれていますが、車で通ると一瞬で気づかないような本当に狭い海峡です。

エレトリア

エレトリアは、エウボイア島の南岸ほぼ中央部、カルキスから東へ約23kmの所にある港町です。
今は、アッティカの北岸のスカラ・オロポスからのフェリーが連絡する船着き場です。

エレトリアの町並み

画像の説明
(写真:エレトリアの町並み。対岸の島影がギリシア本土:1989年2月北より撮影。)

古代においては、前8世紀から前6世紀にかけて、植民市の母市として東西交易によって繁栄し、隣国カルキスとは、間にあるレラントス平野をめぐって争いました。

前6世紀には、アテネと政治的に密接な関係を築き、イオニア反乱では援軍を派遣したために、前490年のペルシア戦争では町は焼き払われ、住民は奴隷として売られていきました。

戦後、ポリスは再建され、デロス同盟に参加しましたが、前446年と前411年の二度にわたってアテネに反旗を翻し、敗れてアテネの植民地と化し、さらに前338年から前198年までは、マケドニアの支配下にありました。

前189年には、ローマのティトゥス・フラミニヌスによって略奪されましたが、ストラボン(10.1.10)によると、その後しばらくの間は、エウボイアの第二の都市にランクづけられて繁栄したようです。
今も西の城門の近くにはこの時代の豪勢な家屋の跡が残っています。

アポロン・ダフネフォロス神殿

画像の説明
(写真:1989年2月南東より撮影。 )
遺跡としては、町の東側に古代の城壁が良く残っており、街中にはアゴラ跡や泉場だけでなく、アポロン・ダフネフォロス神殿の土台部分が発掘されています。

劇場

画像の説明
(写真:同年同月北東より撮影。)
現在の町の北西には、西の城門、古典期ならびにヘレニズム期の大型家屋の跡、ヘーロン(英雄廟)、ディオニュソス神殿跡、劇場、ギュムナシオンなどの古典期の遺構が明らかにされています。

劇場の半円形の舞台の真ん中には、蓋で覆われたヒポスケニオン(役者が舞台に突如現れたり、消えたりするためのトンネルの装置)が残っています。

隣接する博物館には、エレトリアの各神殿出土の青銅製奉納品や陶器類、レフカンディからの出土品などが収められています。

デルポイ(現デルフィ)

デルポイは、パルナッソス山(標高2457m)の南麓、パイドリアデス峡谷の急斜面に広がる、オリュンピアと並ぶ古代ギリシアを代表する国際的な聖域です。

オリーブの木々に囲まれた聖地デルポイはアポロンの神託で名高く、ギリシア四大競技の一つであるピュティア祭の開催地でもありました。

ピュティアと呼ばれる巫女が狂気に近い放心状態で予言するアポロン神の神託は、古代地中海世界に広く知られ、様々なポリスが国家の一大事に際して、神託を伺いに来ました。

前8世紀以降、各地から神託を求める使節や巡礼者が集まって、このデルポイは国際的な情報センターの役割を果たしてきました。

また、古代には、オンファロス(大地のへそ:ゼウスが大地の中心を探ろうとして東西の端から二羽の鷲を放ち、両者が落ち合って舞い降りた所に置いた石)を持つ「世界の中心」と考えられ、宗教的な面だけではなく、政治的にも極めて重要な役割を果たしました。

デルポイの神域は、神域周辺の複数の部族集団からなるアンフィクティオニア(「隣保同盟」)と呼ばれる同盟が、神域の管理と運営を担っていました。

マケドニアのピリッポス(フィリッポス)2世は、このアンフィクティオニアと近隣のフォキス人の戦い(第三次神聖戦争)を利用して、ギリシアの中・南部への勢力を拡大し、アンフィクティオニアでの主導権を握りました。

そして、前338年、デルポイからほど遠くないカイロネイアの地において、ギリシア連合軍との最後の合戦に挑み、ギリシア世界の覇者となりました。

ヘレニズム時代以降のデルポイは、ギリシア北西部を本拠地とするアイトリア連邦が勢力を誇り、その後ローマの進出によってローマの支配下に入りました。

ローマ帝政期には、神域から500体もの青銅像を奪い去ったネロのような皇帝もいましたが、皇帝たちのデルポイへの関心は総じて高く、ドミティアヌス帝やギリシア愛好家のハドリアヌス帝は、デルポイの神域の復興に努めたことが知られています。

後2世紀後半に、パウサニアスがデルポイを訪れた時は、神域は豊かな芸術作品であふれていました。

しかし、アポロンの神託の威信はもはやかなり失墜し、国家の大事に際して神託が仰がれることはなく、『英雄伝』を著したプルタルコスが、デルポイの神官として晩年を送った頃(後1世紀末)には、昔の神託の繁栄ぶりはありませんでした。

キリスト教が浸透していく中で、「背教者」ユリアススが仰いだ神託を最後として、4世紀末にテオドシウス帝によって異教が全面的に禁止されるに及んで、長い歴史を誇ったアポロンの神託の地は、その幕を下ろすことになります。

その後のデルポイは、度重なる地震や地滑りで土砂に埋もれていき、1676年にヤコブ・スポンとウェラーによって再発見されるまで、長い眠りにつくことになりました。

1840年に、ドイツのミュラーとクルティウスが部分的な調査を試みていますが、本格的な発掘は1892年にフランス考古学研究所によって着手されました。

フランスは、当時、遺跡の上にあったカストリ村を、神域の約1キロ西(現在のデルフィ村)にまるごと移し(村では暴動が起き、軍隊が出動)、発掘を行いました。

そして、1903年まで考古学者オモルを中心として発掘は行われ、見事な神域が姿を現しました。

発掘は、以後も主としてフランスの手による調査が進められています。


<アポロン神殿の聖所の復元図>
画像の説明
(N. Papachatzis, 1981より)


<アポロンの聖所のプラン>
画像の説明
(パウサニアス/馬場恵二訳, 1992より)


奉納群像

アルカディア人の青銅群像の台座

画像の説明
(写真:1988年3月、南西より撮影)
主門からまず聖道に入ると、アテネやスパルタ、アルゴスなどの有力なポリスが、それぞれの勝利を記念して奉納した青銅群像が、聖道の両側に立ち並んでいました。

現在、青銅像は残ってはおらず台座のみです。

この「アルカディア人の青銅群像」の台座は、9体の細長い台座で、聖道に入って直ぐの右手に位置しており、前369年のスパルタに対する勝利を記念して奉納されました。

アルゴス王族の群像の台座(プランNo.8。以下プランは略)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
聖道の両側に残る半円形の台座の北側。

10体の「アルゴス王族の群像」の台座が残っています。

シキュオン人の宝庫(No.9)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
聖道左側に長方形の土台基部が現存(南北6.4×東西8.5m)。

沿道では、最初の奉納品を収蔵した宝庫です。

東向きドーリス式の円柱二本イン・アンティス式の宝庫(前5世紀末)。

現存宝庫は、前560年頃の古い建物の跡地に建立されています。

シフノス人の宝庫(No.10)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
シフノス島は金の鉱山があり、神(アポロン)はその産出高の「十分の一(デカテー)」奉納を命じ、シフノス人は、前525年頃宝庫を造営して奉納しました。

西向きイン・アンティス式のパロス大理石造りの豪華な建物(南北5.9×東西8.4n)。

正面の二本の柱は、円柱ではなくカリュアティデス=女人柱(下記の復元図と写真を参照)。

女人柱の頭部から腰の部分、また、ペディメントや四周のフリーズ彫刻(下記の写真参照)の相当部分が出土していて、デルポイ考古学博物館の一室を飾っています。


<シフノスの宝庫の復元図>
画像の説明
(G. Daux and E. Hansen, Le Trésor des Siphnos (Paris 1987)225, fig.133より)


カリュアティデスの頭部

画像の説明
(写真:同年同月、デルポイ考古学博物館にて撮影)

フリーズ彫刻

画像の説明
(写真:同年同月、同上)

アテナイ人の宝庫(No.12)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
「シフノスの宝庫」を過ぎると、聖道は今度は緩やかに右折し、その北側の辺りに、「アテネ人の宝庫」が姿を現します。

ドーリス式円柱二本のイン・アンティス式建造物として、1903年から1906年にかけて、フランス考古学研究所によってほぼ完全に復元されています(南北6.687×東西9.697m)。

パウサニアス(10.11.5)は、前490年のマラトン合戦勝利感謝の奉納と伝えていますが、メトープ彫刻の様式などから、前6世紀末のクレイステネスの改革の直後に、民主政の確立を祝って(もしくは祈願して)建造されたと推測されています。

シビュラの岩(No.14)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)
写真左手の巨大な岩。後方の円柱は、アポロン神殿の復元された柱。

最初の巫女(名はヘロフィレ。渾名はシビュラ)が、その岩の上に立って神託を告げたと言われています。

ナクソスのスフィンクス像

画像の説明
(写真:同年同月、デルポイ考古学博物館にて撮影)
「シビュラの岩」の北側に、ナクソス人が奉納した「ナクソス人のスフィンクス像」の台座(No.15)が残っています。

高さ9mを超えるイオニア式の円柱の上に載っていた、アルカイック期の彫刻の傑作として名高い大理石の像です。

アテネ人の列柱館(No.17)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
アポロン神殿の建つテラスの南側を支えるポリゴナル式の石壁(写真の奥:東西に約82m)を背にして、東寄りに建立(前500年前後:東西28m×奥行4m)。

ペルシア戦争やペロポネソス戦争での戦利品を奉納、所蔵されていました。

かっては、パロス島の大理石製の8本の細いイオニア式列柱が並んでいましたが、現在はそのうちの3本が復元されています。

プラタイアの戦勝記念碑の台座(No.18)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)
パウサニアス(10.14.9)によれば、プラタイアの合戦(前479年)の偉業から、ギリシア諸国は共同で、一匹の青銅の蛇の上に載る黄金の三つ足の鼎一点を奉納しました。

この記念碑は、螺旋状にからまった三匹の蛇からなる青銅の柱が、黄金の鼎を支える構造のモニュメントで、柱にはペルシ戦争に参戦した31のギリシア諸国の名が記されていました(下記、復元図参照)。

黄金の鼎は、前4世紀半ばの第三次神聖戦争の時に、フォキス人により軍資金のために鋳つぶされましたが、パウサニアスが訪れた当時でも青銅の蛇の柱だけは元の位置に立っていました。

しかし、ローマ帝政末期のコンスタンティヌス大帝は、蛇の柱を新都コンスタンティノポリスに移させ、現在もイスタンブールのアヤ・ソフィア教会傍のローマ時代のヒポドロミア(戦車競争場)跡に立っています。


<黄金の鼎と青銅の柱復元図>
画像の説明
(N. Papachatzis, 1981より)

左右2種類の復元図と、中央の図の柱にはペルシア戦争に参戦した31のポリスの名が刻まれています。

碑文は、「この戦争を戦いしは、次の諸国」と言う簡潔な頭書に続いて、スパルタ、アテネ以下、総計31カ国の名が列挙されています。


アポロン神殿1(No.21)

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影 )

東側に6本の円柱が復元されている(1939〜1941年復元)アポロン神殿は、北側は自然の岩盤の上に載り、南側は高さ3〜4.6mの巨大な石組みの基礎の上に建てられています。

現在残っているのは、前392年完成の15本×6本の円柱式のドーリス式神殿(60.3m×23.8m)で、3代目の神殿です。

パウサニアス(10.5.9)は、最初の神殿は月桂樹の枝で、次は蜜蜂の密蝋と羽で、三番目は青銅で作られたという伝承を記しています(これらの伝承の神殿を数えれば、6代目になります)。

発掘調査では、前8世紀に神託授与が始まった頃のアポロン神殿は木造で、最初の石造神殿(初代)は前7世紀頃でした。

この石造神殿は、前548年、火災で焼失し(落雷などの自然現象が原因と推測)、アテネを追われていたアルクメオン家が、その再建を隣保同盟から請け負い、契約以上に立派に仕上げ、完成は前510年頃と推測されています。

契約は石灰岩で建造の予定を、東正面のペディメント彫刻群はパロス大理石を使用しています(下記、博物館蔵のペディメントの写真と復元図を参照。また、その彫刻家に巨匠アンテノルが推測されています)。

この再建神殿(2代目)は、前373年の大地震で崩壊してしまい、隣保同盟のもとで神殿建造委員会が組織され、前366年から再建工事が始まりました。

3代目の神殿の最初の棟梁は、コリントの建築家スピンタロス。

第3次神聖戦争の勃発などにより工事は中断しながらも、前353年春からはクセノドロス、そして彼の死を受けて前3443年からはアガトンがその任につき、このアガトンの下で前329年に神殿本体が落成しました。

それが、現在見ることのできるアポロン神殿(3代目)の遺構です。

神殿内部は3つの部屋に分かれていますが、現存する遺構には、アポロンの神託が下されたとされる、神殿の地下に設けられたアデュトン(至聖所)の痕跡は残っておらず、また巫女ピュティアの座す鼎がその上に置かれていたという「大地の裂け目」も確認できません(下記、神殿のプラン参照)。

また、世界の中心であることを示す「大地のへそ(オンファロス)」も、アデュトンに安置されていたと伝えられていますが、この石は古代から複製が作られて神殿の脇に据えられていたと言われ、その複製のオンファロスが神殿の南壁付近で発見されており、現在は博物館に展示されています(下記写真参照)。


<神殿プラン(3代目)>
画像の説明
(N. Papachatzis, 1981より)


<神殿復原図(3代目)>
画像の説明
(N. Papachatzis, 1981より)


<神殿復元図(アルクメオン家による第2代目の神殿)>
画像の説明
(N. Papachatzis, 1981より)


神殿(第2代目)東のペディメント

画像の説明
(写真:同年同月、デルポイ考古学博物館にて撮影)

オンファロス

画像の説明
(写真:同年同月、デルポイ考古学博物館にて撮影)

劇場(No.25)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影 )
アポロン神殿の北西側を少し登った所に劇場が残っています。

ピュティア祭での演劇や音楽の競演が催された劇場で、民会議場としても使用されていました。

前4世紀に建造され、前2世紀半ばにペルガモン王国のエウメネス2世によって修復されました。

劇場の舞台の前面にはヘラクレスの偉業を描いたレリーフが飾られていましたが(前1世紀)、現在、このレリーフは博物館で見ることができます。

観客席には35列の大理石製の座席が設けられており、約5,000人を収容したと推定されています。

標高596mの劇場の最上部からの景観は素晴らしく、アポロンの神域全体とアテナ・プロナイアの神域が見渡せます。

スタディオン

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
ピュティア祭は、最初は音楽競技でしたが、前582年から4年ごととなり、体育競技も加わりました。

劇場の西側に馬蹄型のスタディオンが残っています(前5世紀)。

コースの長さは、177.55m、幅は25.5m。

トラックの両端には、スタート地点とゴール地点の大理石のブロック跡も残っています。

初期は、地面に直に座って観戦していましたが、ローマ時代の大富豪ヘロディス・アッティコスの寄付で観客席が作られました(北側12列、南側6列、半円形の西側6列。北側=写真右側、西側の保存状態が比較的良好)。

訳7,000人の観客を収容したと推定されています。

デルポイの御者像

画像の説明
(写真:同年同月、デルポイ考古学博物館にて撮影)

この青年御者像は、1896年にアポロン神殿のテラスの北西角で発見されました。

シチリアのゲラの僭主ポリュザロスがピュティア祭の勝利(前478か474年)を記念して奉納した、馬と戦車と御者からなる青銅群像の一部です。

ほぼ完全な形で発見された貴重な例で、前5世紀の作で、ギリシア彫刻の最高傑作の一つと評されています。

デルポイの他の遺構としては、聖域の東には参拝者達が身を清めたと伝えられる「カスタリアの泉」、「アテナ・プロナイアの聖域」、「ローマ時代の体育場」などが残っています。

また、遺跡の南西にある博物館には、各宝庫に収められていた奉納品や出土品が数多く展示されています。

(2018. 05. 29:改)

ドドナ

エペイロス(現イピロス)地方、ヨアニナに近いドドナ(現:ドドニ)は、トマロス山麓にある辺境の地です。
ここは、ギリシアで最も古いゼウスの神託所で、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』両書にも「寒いドドナ」と言及されています。

また、ヘロドトス(『歴史』2.55)は、エジプトのテーベから一羽の黒鳩が飛び立ち、ドドナの樫の木に舞い降りて、ゼウスの神託所を開くよう命じたという伝承を記しています。

ホメロスによれば、神官は「セロイ」時には「ヘロイ」と呼ばれ、神の顕現を正確に身体で感じるために、大地に直接眠り決して足を洗わない習慣がありました。

神託伺いは、依頼人が鉛の薄板に質問を書き込み、巫女が樫の神木の葉ずれの音によって、神の真意を聞き取り答えるというものでした。

また、異なる青銅の鉢をたくさんつるし、風によって反響した音を聞くという方法もありました。

現在、多くの鉛の薄板が遺跡から発見されており、その一部はヤニナの博物館で見ることができます。

前5世紀には、神託所としての第一位の地位はデルフォイに取って代わられましたが、その後も参拝は続けられ、ローマ時代まで依然その存在は知られていました。


<ドドナのプラン>
画像の説明
(周藤芳幸編, 2003による)


劇場

画像の説明
(写真上:1989年8月、北西より撮影。)

遺跡は入口に競技場(前3世紀末)の跡があり、座席の列が残っています。
さらに、マケドニアのフィリッポス5世によって作られた大規模な「劇場」が隣接しています。

評議会議場

画像の説明
(写真:同年同月南東より撮影。)
劇場の先には、ブーレウテリオン(評議会議場)とアフロディーテの小神殿の遺構が残っています。

ゼウスの神託所の構内

画像の説明
(写真下:同年同月、西より撮影。)
聖なる樫の木を囲ったゼウスの神託所の構内、そして近くにディオン、ヘラクレスに奉納された神殿の跡が残っています。

(2018. 05. 30:改)

イタカ島(現イスァキ島)

アエトスの丘より湾を望む。

画像の説明
(写真:1989年8月北より撮影。)

イタカ(現イスァキ島)は、アドリア海への入り口を扼するイオニア海に浮かぶイオニア諸島の一つです。
古典期以来、ホメロスに歌われたイタカ島は、ケファロニア島とエピルスの間に浮かぶイスァキ島に比定されてきました。

ドイツの考古学者デルプフェルトは、イスァキではなくレフカダ島をイタカと考えて発掘をおこないましたが、1930年からのイギリスの調査により、イタカ島はやはり現在のイスァキ島であるという説が有力になっています。

島の中心であるイスアキ(別名ヴァティ)は、湾の奥に位置する港町です。
島の北西海岸、現在のスタヴロス村の北1,5kmの丘ペリカタでは、オデッセウスの宮殿にあたると推定されるミケーネ時代の集落遺跡が発見されています。

スタヴロス村の南西にはポリス湾が広がり、その北西海岸にミケーネ時代の港があったと考えられています。

その近くの洞窟で、幾何学文様期の青銅の三脚釜、「ニンフへ」と銘された土器片や、後1世紀のオデッセウスの名前を持つ壊れた粘土の仮面などが発見されています。

こうした遺物は、オデッセウスを称える儀式がローマ時代まで続いていたことを示唆しています。

a:1124 t:2 y:1