テーベ

テーベ(古代名テーバイ:現在名スィーヴァ)は、中部ギリシアのボイオティア地方の主要都市で、神話と伝承に彩られたカドモス王が創建した王国です。
ディオニュソス神や英雄ヘラクレスの生誕の地として、また、オイディップス王の悲劇の舞台としても有名です。

エレクトラの門

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(写真:1988年5月西より撮影。)

城壁に囲まれた「七つの門」を持つテーベは、今も、カドメイアの丘(周囲が南北8km、東西6,5 kmの楕円形の丘)に眠っています。
その内の一つ、丘の南東部にあった「エレクトラの門」が確認できます。

カスティリの丘の岩窟墓

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ミケーネ時代から、テーベが巨大な王国の都として繁栄したことは、現在のテーベの街の下から発掘された宮殿の遺構や、カドメイアの周辺のカスティリの丘の岩窟墓からも推測できます。(写真:この岩窟墓の内部には、漆喰が塗られていた形跡が残っています。 )

歴史時代には、テーベはボイオティア連邦の盟主として、政治的に重要な役割を果たし、名将エパミノンダスのもとで、前371年、レウクトラの戦いでスパルタに大勝して、一時ギリシアの覇権を握りました。

しかし、彼が、前362年のマンティネイアの戦いで戦死してからは、その勢力は衰え、前338年のカイロネイアの戦いにマケドニアのフィリッポス2世に敗れました。

前355年、テーベはマケドニアに対して反乱を起こし、アレクサンドロス大王によって徹底的に破壊され、前316年に都市は再建されたものの、前18年にはローマの将軍スラによって再び破壊されました。

パウサニアスによれば、彼が訪れた時には、「都市の低地部は、神域を除いて住む人もなく、住民はアクロポリスをカドメイアではなくテーベと呼んで、丘の上で暮らしていた。」ようです。

現在、カドメイアの丘の北端に、小さな博物館があり、館内には、タナグラ出土のミケーネ時代の彩色陶棺や、「タナグラ人形」の名で知られるテラコッタ(素焼き)の小型人形などが展示されています。

タナグラ

古代のタナグラはボイオティア地方の一ポリスで、アソポス川の北、現在のタナグラ村の南東約5キロの円形の丘に位置しており、アテナからテーベへ北上する途中にあります。

歴史的にはタナグラは、前457年スパルタがボイオティアに進出したアテネとアルゴスをうち破った古戦場です(タナグラの戦い)。
また、伝説によれば、テーベでの詩のコンクールでピンダロスを破った女流詩人コリナの生誕の地です。

城壁

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(写真:1988年5月、南より撮影。)

劇場跡

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(写真:同年同月、南より撮影。)
現在、遺跡に残っているのは、前4世紀の町を囲んだ「城壁」の一部と、覆い隠された「劇場」跡などにすぎません。

タナグラの名前を一躍有名にしたのは、1874年に墓域から発見されたテラコッタの女性像(いわゆる「タナグラ人形」)です。

さらに、1969年以来、タナグラ村の近くでミケーネ時代の墓から彩色陶棺と珍しいデザインのテラコッタの小板状のブローチが出土し、それらは現在、前述のテーベの考古学博物館で展示されています。

オルコメノス

オルコメノスは、テーベの西北にあるコパイス平野(かってのコパイス湖)の西端、アコンティオン山麓に位置しています。

パウサニアスは(9.34-36)、「オルコメノスは、ギリシアでも有名な豊かな都市の一つであり、伝説の王『ミニュアスの宝庫』は、エジプトのピラミッドに劣らず驚異である」と述べています。
また、かれは、ミニュアス王が宝庫を作った最初の人であるとも述べています。

オルコメノスの王国の富が半ば伝説化していたことは、アキレスが「オルコメノスの歳入相当の富をもらっても、アガメムノンの要請に応じるつもりはない」(ホメロス『イリアス』9.381)と語っていることからも明らかです。

ミニュアスの宝庫

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(写真:1988年5月西より撮影。右手が入り口、中央に副室への入り口。)

1880年にシュリーマンは、ホメロスの詩句に導かれて、パウサニアスが『ミニュアスの宝庫』と呼んでいるトロス墓を発掘しました。
このミケーネ時代のトロス墓は、前14世紀の末か前13世紀の初めに建設されたようです。

渦巻き紋のレリーフ

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(写真:1988年5月撮影。)

このトロス墓は、ミケーネの「アトレウスの宝庫」と並ぶ規模を持っており、副室の天井には、渦巻紋のレリーフで装飾されています。

劇場

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(写真:1988年5月、南より撮影。)
「ミニュアスの宝庫」の近くには、前4世紀の後半に建てられた「劇場」が12列の席を残して保存されています。

さらに、向かいのスクリプー教会(874年建立)の境内からは、ミケーネ時代の宮殿跡も発掘されています。

歴史的には、古典期は、オルコメノスはテーベとボイオティアの覇権をめぐって、ライバル関係でしたが、ボイオティア連邦に所属して、結果としてペルシア戦争の前479年のプラタイアの戦いでは、ペルシア側で戦っています。

後に、ボイオティア連邦から脱退して、テーベと争い、前364年と前349年にテーベによって町は破壊され、そして、マケドニアのフィリッポス2世とアレクサンドロス大王によって町は再建され、一時繁栄を取り戻しましたが、最終的にはローマの支配のもとで、その重要性は失われていきました。

オルコメノスは、遺跡のプランを見ると東西に細長く城壁で守られた都市でしで、『ミニュアスの宝庫』などは都市の東端にあたります。

中央付近には、アスクレピオスの神殿、アルカイック期の神殿(前9、あるいは前8世紀)などもありましたが、わずかに礎石を残すのみでした。

テーベからオルコメノスの間には広大なコパイス平野が広がっていて、もともとこの地は古くは湖でしたが、近代に入って干拓され、整然と区画された耕作地になっています。

しかし、古くはミケーネ時代からも、治水事業は始められたようで、その肥沃な土地がオルコメノスの繁栄の源のようです。

グラ

グラは、オルコメノスに対峙する形で、コパイス平野北東部の丘に位置しています。

グラ全景

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(写真:西より全景を望む。遺跡は、手前の小高い横長の丘。)

城壁

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(写真:宮殿跡より城壁を望む。中央の城壁の右側が遺跡。)

総延長3kmに及ぶ石灰岩のキクロペス様式の堅固な城壁をめぐらした、ミケーネ時代最大の要塞遺跡です。
総面積23万平方mに及ぶこの丘には、今はわずかに「宮殿」と「アゴラ」の跡が見られるだけです。

南門

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(写真:1988年5月南西より撮影。)

「南門」から入ると北側に宮殿とアゴラの跡が残っています。

すでに、この地には新石器時代に居住の跡が見られ、ミケーネ時代に発展して前1300年頃に城塞化されましたが、ミケーネ時代の末(前13世紀の末)には破壊されて、見捨てられました。

グラは、かっては、コパイス湖の島であり、排水システムを管理して干拓を行っていたと推測されていて、ミケーネ時代の末に破壊さると、盆地は再び湖に(夏期には沼沢地)へ逆戻りしたようです。
現在、丘の周辺には、ギリシアでは珍しく灌漑設備がある耕地が見られます。

カイロネイア

カイロネイア(現在名:ヘロニア)は、ボイオティア地方の最北端、テーベの北西約50km、オルコメノスのさらに西に位置します。

前338年、マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を打ち破った名高い「カイロネイアの戦い」の古戦場です。この戦いにより、マケドニアはギリシアの覇権を握ります。

カイロネイアの古戦場

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(写真:カイロネイアの古戦場と町並み。:1989年9月、劇場南南西より撮影)
戦場となったのは、現在のヘロニア村の東側、ケフィソス川の南の峡谷部です。

劇場

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(写真:1989年9月、北より撮影。)

ライオン像

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(写真:「カイロネイアのライオン」1989年9月、西より撮影。)

今日、カイロネイアには、古代のアクロポリスの城壁の跡と、その麓の岩の斜面を削って造られた小さな「劇場」の遺構が残っています。

また、「カイロネイアのライオン」と呼ばれる、カイロネイアの戦いにちなむ大理石のライオン像とテーベ人の戦没者墓(ポリュアンドリオン)などが目を引きます。

パウサニアス(9.40.10)にも、このライオンの像とテーベ人の合墓とが記されています。

ライオン像はカイロネイアの戦いで全滅したテーベの神聖隊の墓のモニュメントと考えられており、約24×15mのテーベ人の合墓には、254の遺体が7列となって葬られていました。

1818年にイギリス人の旅行者によって、ライオン像の彫刻は発見され、ギリシア独立戦争の際に、いったん破壊されましたが、20世紀初頭にギリシア考古学協会の手で復元されて、今は静かに古戦場跡を見つめています。

台座の高さは約3m、ライオン像を含めた高さは約6mになり、近づくと、見上げるばかりの大きさで、想像以上の大きなモニュメントです。

また、ここの博物館には、新石器時代初期の遺物やミケーネ時代の土器、上述のポリュアンドリオンから出土した武具などが展示されています。

この地出身の著名な人物としては、『英雄伝』で名高いローマ時代の文人プルタルコスがいます。
彼は、後1~2世紀に生きたカイロネイアの名門の出身で、ローマに招かれましたが、故郷を捨てず晩年はデルフォイの神官を務めて生涯を終えています。

また、歴史的には、カイロネイアは前5世紀には、オルコメノスの勢力下にありましたが、アテネ・テーベ・ポキスの争う中、ボイオティア連邦に加盟しています。
その後、大王の和約(前387年)で政治的には独立しましたが、前338年の戦い以後は、たびたび外国勢力の侵入に悩まされました。

前86年には、ローマの将軍スラが、ポントス王ミトリダテス6世の将軍アルケラオスを破った地としても知られており、ローマの勝利を記念した碑が南西の丘で発見されています。

プラタイア

現在のプラタイアイは、アテネの西北約60km。キタイロン山の山裾にある小村です。

城壁

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(写真:城壁と現在のプラタイアの町、後方キタイロン山。1989年3月撮影。)

古戦場

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(写真:1989年3月撮影。)

この地は、前479年の歴史上名高いペルシア戦争の一つ「プラタイアの戦い」の古戦場です。
両軍はアソポス川を挟んで対峙して、白兵戦の結果ペルシア陸軍の将軍マルドニオスは戦死し、ギリシア連合軍の勝利に終わりました。

古代においては、プラタイアは、ボイオティア地方の小都市として歴史の波に翻弄されました。
当初、プラタイアはテーベに対抗するためにアテネと友好同盟を結んでいました。

ペルシア戦争の「マラトンの戦い」の際には、アテネに千名の援軍を送り、また、「プラタイアの戦い」では、テーベに本陣を置くペルシア側に対して,ギリシア連合軍の本拠地として、プラタイア市民も6百人が参戦しています。

さらに、ペロポネソス戦争では、プラタイアはスパルタに破壊され、前4世紀に入り再建されたものの、再度ギリシアの覇権を握ったテーベにより破壊され、その後、マケドニアのフィッリッポス2世の支配下で再度再建されています。

城壁

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(写真:1989年3月撮影。)

現在残っている遺構は、前388年にフィリッポス2世によって再建された切石積みの城壁の一部です。
遺跡のプランを見ると、城壁は市内を囲っており、現在の道が古代の都市の間を通過しています。
城壁内には建物はまったく残っていませんが、神殿などの土台部分や泉などを見ることができます。

レウクトラ

レウクトラは、プラタイアの西北、テーベの西南に位置します。

前371年、テーベの名将エパミノンダス率いるボイオティア軍が、スパルタ陸軍を、斜線陣戦法(重装歩兵の密集隊形の変種)によって打ち破った名高い古戦場です。

この戦いに勝利して、テーベは一時ギリシアの覇権を握りましたが、しかし、その覇権も、マンティネイアの戦いによるエパミノンダスの死で長くは続きませんでした。

戦勝記念碑(トロパイオン)

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(写真上:1989年3月撮影。)
現在、この地には、テーベ人が建てた戦勝記念碑(トロパイオン)が復元されています。

古戦場

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(写真:同年同月撮影。)
周囲の古戦場は広々とした平野が広がっているだけです。
レウクトラは、カイロネイアの戦い、プラタイアの戦いと並ぶ古戦場ですが、改めて、この中部ギリシアで、史上有名な戦いが繰り広げられたことがよくわかります。

北から南下する敵を迎撃って戦うには相応しい平野です。

また、この時のテーベは「神聖隊」という精強部隊が活躍しますが、かれらは同性愛の集団としても有名です。

レフカンディ

レフカンディは、エウボイア島にある青銅器時代から初期鉄器時代にかけての集落遺跡です。
エウボイア島と本土を隔てるエウリポス海峡の最も狭くなった所にカルキスの町があります。
レフカンディアはそのカルキスの南、レラントス平野の海際に位置しています。

クセロポリスの丘

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(写真:1988年5月北西より撮影。)
エウボイア湾に面するクセロポリスの丘には、初期青銅器時代から前700年頃まで居住が続けられたようです。
この遺跡で重要なのは、1981年から83年にかけて発掘されたヘーローン(英雄廟)です。

この建物は、全長約47m、幅10mの細長い長方形で、西の部分(後陣)が楕円形をしており、5つの部屋をもち、特に重要なのは中央の部屋で、そこには二つの墓穴が掘られていました。

北の墓穴には4頭の馬の骨が、南には30歳~45歳くらいの男性の火葬骨を収めた青銅の壺と
豪華な金細工などの副葬品を伴う25-30歳ぐらいの女性の遺骸が埋葬されていました。

この二人は、前10世紀の初期に埋葬されたと推測されています。

なお、カルキスとエウボイア島の間のエウリポス海峡は川のような印象で、今は橋によって結ばれていますが、車で通ると一瞬で気づかないような本当に狭い海峡です。

エレトリア

エレトリアは、エウボイア島の南岸ほぼ中央部、カルキスから東へ約23kmの所にある港町です。
今は、アッティカの北岸のスカラ・オロポスからのフェリーが連絡する船着き場です。

エレトリアの町並み

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(写真:エレトリアの町並み。対岸の島影がギリシア本土:1989年2月北より撮影。)

古代においては、前8世紀から前6世紀にかけて、植民市の母市として東西交易によって繁栄し、隣国カルキスとは、間にあるレラントス平野をめぐって争いました。

前6世紀には、アテネと政治的に密接な関係を築き、イオニア反乱では援軍を派遣したために、前490年のペルシア戦争では町は焼き払われ、住民は奴隷として売られていきました。

戦後、ポリスは再建され、デロス同盟に参加しましたが、前446年と前411年の二度にわたってアテネに反旗を翻し、敗れてアテネの植民地と化し、さらに前338年から前198年までは、マケドニアの支配下にありました。

前189年には、ローマのティトゥス・フラミニヌスによって略奪されましたが、ストラボン(10.1.10)によると、その後しばらくの間は、エウボイアの第二の都市にランクづけられて繁栄したようです。
今も西の城門の近くにはこの時代の豪勢な家屋の跡が残っています。

アポロン・ダフネフォロス神殿

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(写真:1989年2月南東より撮影。 )
遺跡としては、町の東側に古代の城壁が良く残っており、街中にはアゴラ跡や泉場だけでなく、アポロン・ダフネフォロス神殿の土台部分が発掘されています。

劇場

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(写真:同年同月北東より撮影。)
現在の町の北西には、西の城門、古典期ならびにヘレニズム期の大型家屋の跡、ヘーロン(英雄廟)、ディオニュソス神殿跡、劇場、ギュムナシオンなどの古典期の遺構が明らかにされています。

劇場の半円形の舞台の真ん中には、蓋で覆われたヒポスケニオン(役者が舞台に突如現れたり、消えたりするためのトンネルの装置)が残っています。

隣接する博物館には、エレトリアの各神殿出土の青銅製奉納品や陶器類、レフカンディからの出土品などが収められています。

デルフォイ

デルフォイは、パルナッソス山(標高2457m)の南麓、パイドリアデス峡谷の急斜面に広がる、オリュンピアと並ぶ古代ギリシアを代表する国際的な聖域です。

オリーブの木々に囲まれた聖地デルフォイはアポロンの神託で名高く、ギリシア四大競技の一つであるピュティア祭の開催地でもありました。

ピュティアと呼ばれる巫女が狂気に近い放心状態で予言するアポロン神の神託は、古代地中海世界に広く知られ、様々なポリスが国家の一大事に際して、神託を伺いに来ました。

前8世紀以降、各地から神託を求める使節や巡礼者が集まって、このデルフォイは国際的な情報センターの役割を果たしてきました。

また、古代には、オンファロス(大地のへそ)を持つ「世界の中心」と考えられ、宗教的な面だけではなく、政治的にも極めて重要な役割を果たしました。

アポロン神殿

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(写真:1988年3月西より撮影。 )

神域の遺跡の中心をなすのは、「アポロン神殿」で現在残っているのは、前4世紀前半の地震の後に、三度目に建てられたドーリス式の神殿です。この神殿の一番奥で予言が行われました。

アテナイ人の宝庫

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(写真:1988年3月東より撮影。)

参道には、ギリシアの各ポリスからの奉納品を収めた宝庫が建ち並んでいましたが、現在、マラトンの勝利を記念して建てられた「アテナイ人の宝庫」が完全な形で復元されています。

劇場

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(写真:収容人員約5000人:同年同月南より撮影。 )

また、アポロン神殿の西側を少し登ったところには、前4世紀頃建造の「劇場」があり、さらに山道を登ると、ピュティア祭の競技がおこなわれた「競技場」があります。

他の遺構としては、聖域の東には参拝者達が身を清めたと伝えられる「カスタリアの泉」、「アテナ・プロナイアの聖域」、「ローマ時代の体育場」などが残っています。

遺跡の南西にある博物館には、各宝庫に収められていた奉納品や出土品が数多く展示されています。
中でも、前5世紀の青銅彫刻の傑作「デルフォイの御者」やアポロン神殿に置かれていた「大地のへそ」などは必見です。

デルフォイの聖域は、峻厳という言葉がぴったりと来るような、そんな険しい崖を利用して聖域は作られています。
神託を伺いにやって来た各地の使者たち、巡礼者も、身の引き締まる思いでこの風景を眺めたに違いありません。

ドドナ

エペイロス(現イピロス)地方、ヨアニナに近いドドナ(現:ドドニ)は、トマロス山麓にある辺境の地です。
ここは、ギリシアで最も古いゼウスの神託所で、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』両書にも「寒いドドナ」と言及されています。

また、ヘロドトス(『歴史』2.55)は、エジプトのテーベから一羽の黒鳩が飛び立ち、ドドナの樫の木に舞い降りて、ゼウスの神託所を開くよう命じたという伝承を記しています。

ホメロスによれば、神官は「セロイ」時には「ヘロイ」と呼ばれ、神の顕現を正確に身体で感じるために、大地に直接眠り決して足を洗わない習慣がありました。

神託伺いは、依頼人が鉛の薄板に質問を書き込み、巫女が樫の神木の葉ずれの音によって、神の真意を聞き取り答えるというものでした。

また、異なる青銅の鉢をたくさんつるし、風によって反響した音を聞くという方法もありました。

現在、多くの鉛の薄板が遺跡から発見されており、その一部はヤニナの博物館で見ることができます。

前5世紀には、神託所としての第一位の地位はデルフォイに取って代わられましたが、その後も参拝は続けられ、ローマ時代まで依然その存在は知られていました。

劇場

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(写真上:1989年8月、北西より撮影。)

遺跡は入口に競技場(前3世紀末)の跡があり、座席の列が残っています。
さらに、マケドニアのフィリッポス5世によって作られた大規模な「劇場」が隣接しています。

評議会議場

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(写真:同年同月南東より撮影。)
劇場の先には、ブーレウテリオン(評議会議場)とアフロディーテの小神殿の遺構が残っています。

ゼウスの神託所の構内

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(写真下:同年同月、西より撮影。)
聖なる樫の木を囲ったゼウスの神託所の構内、そして近くにディオン、ヘラクレスに奉納された神殿の跡が残っています。

イタカ島(現イスァキ島)

アエトスの丘より湾を望む。

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(写真:1989年8月北より撮影。)

イタカ(現イスァキ島)は、アドリア海への入り口を扼するイオニア海に浮かぶイオニア諸島の一つです。
古典期以来、ホメロスに歌われたイタカ島は、ケファロニア島とエピルスの間に浮かぶイスァキ島に比定されてきました。

ドイツの考古学者デルプフェルトは、イスァキではなくレフカダ島をイタカと考えて発掘をおこないましたが、1930年からのイギリスの調査により、イタカ島はやはり現在のイスァキ島であるという説が有力になっています。

島の中心であるイスアキ(別名ヴァティ)は、湾の奥に位置する港町です。
島の北西海岸、現在のスタヴロス村の北1,5kmの丘ペリカタでは、オデッセウスの宮殿にあたると推定されるミケーネ時代の集落遺跡が発見されています。

スタヴロス村の南西にはポリス湾が広がり、その北西海岸にミケーネ時代の港があったと考えられています。

その近くの洞窟で、幾何学文様期の青銅の三脚釜、「ニンフへ」と銘された土器片や、後1世紀のオデッセウスの名前を持つ壊れた粘土の仮面などが発見されています。

こうした遺物は、オデッセウスを称える儀式がローマ時代まで続いていたことを示唆しています。

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