コリントス(コリント)

ペロポネソス半島の東北端に位置する古代コリントスは、古代から(前8世紀頃から)商業都市として発展してきました。
その遺跡は、現在のコリントス市より内陸に8Kmほど入ったところにあります。

前338年のカイロネイアの戦いの後、フィリッポス2世によるコリントス同盟の結成は、この地で開催されています。

ヘレニズム時代にはアカイア連邦の中心都市の一つとなりましたが、前146年のローマとの戦いに敗れ、ローマ軍指揮官ムンミウスにより都市は徹底的に破壊されました。

その後、前44年にカエサルが退役兵を入植させてコリントス市を再興し、属州アカイアの首都となってふたたび東地中海の大商業都市として発展しました。

古代の遺跡群は,アポロン神殿を除くとこのローマ時代のものがほとんどです。


<コリント・アルゴリス地方図>

画像の説明

(パウサニアス/馬場恵二訳, 1992より)


<コリントー広場とその周辺>

画像の説明

(同上)


アポロン神殿

画像の説明
(写真:1988年3月北東より撮影。背景はアクロコリントス。)

ギリシア時代のものとしては、遺跡の中央に位置する「アポロン神殿」が、ひときわ目を引きます。

この神殿は、前540年頃の建立で、ギリシアに残っている神殿のなかでも最も古い神殿の一つとされています。

総計38本の周柱(正面6×側面15)のうち、7本(西正面5本、南側面2本)だけが現在も立っています。

神殿の西側には、後述の後1世紀に建立された音楽堂や前5世紀に遡る劇場の跡、南側にはローマ時代の「アゴラ」や「ストア」の跡が残っています。

レカイオン通り

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(写真:同年同月、北より撮影。)

アポロン神殿の東側に、レカイオン港まで続いていた石畳のレカイオン通りが発掘されています。

プロピュライア

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(写真:同年同月、北東より撮影。)

アゴラ(広場:東西160m×南北95m)の北側に位置する表玄関で、アウグストゥス帝時代の創建ですが、77年の地震で倒壊したあと再建されています。
ローマ帝政初期のコリントス貨幣の図柄によれば、凱旋門風の門になっていました。

ペイレネの泉

画像の説明
(写真:1988年3月北西より撮影)

プロピュライアを過ぎて右手に、ギリシア神話で有名なペイレネ(息子を殺されて嘆き悲しんで、泣き続け泉になった)の泉があります。
前7世紀の建設で、その後ローマ時代まで何度も改修を重ねています。

アポロンの聖所

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(写真:同年同月、南より撮影。)

ペイレネの泉の直ぐ北側に隣接して、中庭(22×28m)の周囲に周柱廊をめぐらしたアポロンの聖所があります。
この聖所にはレカイオンの表通りからも、ペイレネの泉からも入れました。

演壇(ベーマ)

画像の説明
(写真中:1988年3月北より撮影。)

アゴラの南側には「演壇(ベーマ)」の跡があり、パウロがこの演壇から布教を行ったと伝えられています。

評議会議場

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(写真:同年同月、北より撮影。)

アゴラの南に、ローマ植民市として復興された際に建設された市参事会の評議会議場(馬蹄形)の遺構が残っています。

ローマ時代の北西店舗

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(写真:同年同月、南より撮影。)

アゴラ北縁に復元されたローマ時代の一店舗。

グラウケの泉

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(写真:同年同月、北より撮影。)

アポロン神殿の西側に位置する、天然の岩塊に彫られた泉場。

オディオン(音楽堂)

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(写真:1989年10月、北より撮影。)

グラウケの泉のさらに西にローマ時代のオディオン(音楽堂)が残っています。

後1世紀に建設され175年頃に,ヘロディス・アッティコスにより改築。

収容人数は、約3千人。

劇場跡

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(写真:同年同月、南より撮影。)

アポロン神殿の北西、オディオンの北に位置する、前5世紀頃に建設された1万5千人収容の大劇場。

アスクレペイオンの神殿跡

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(写真:1989年10月、西背面より撮影。)

古代コリントの遺跡の北端には、「医神アスクレピオスの神域」があります。
この神殿は前4世紀末頃(推定)にドーリス式の神殿として、「先行のアポロン神殿(前述の大神殿とは別)」を包摂して建立されました。
写真中央に、神殿基礎工事の溝が残っています。

この神域の遺構は、ローマのユスティニアヌス帝が、コリントス地峡一帯の城壁工事のために石材として運び出して何も残っていません。

レルナの泉場

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(写真:同年同月、東より撮影。)

神殿の西側背後のアバトン(お籠もり堂)の西側に接続して、レルナの泉場(従来の定説)があります。
(近年、南側に接する「体育場」で「ランプの泉」が発掘され、後述のパウサニアスの言う「レルナの泉」は、この「ランプの泉」の可能性があると研究者により指摘されています。)

泉場の中庭

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(写真:同年同月、南東より撮影。)

パウサニアス(2.4.5)には、「この泉水のまわりに列柱が立ち並び、座席も設けられていて、夏の暑い季節に入場者が憩えるようになっている。」と述べられています。

泉の入り口

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(写真:同年同月、撮影。Jpg.5952)

泉場の南側を縁取る岩盤に、湧水の泉や貯水槽の入り口が口を開けて並んでいます。中に入ると石段が彫られていて、その下に地下水が湧出しています。

宴の間

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(写真:同年同月、北より撮影。)

泉場付属の「宴の間」(3室南北に並ぶ)は、神殿の大祭の際などの祭祀に伴う会食の場と推定されています。

アゴラの西側にある博物館には、この付近一帯で発掘された新石器時代からローマ時代までの出土品が展示されています。

また、この博物館には、特別室に上述の「アスクレピオスの神域」出土の感謝奉納品(人体の部位をかたどった「塑像タマ=癒やしの奉納品」)が収蔵されており、求めに応じて特別に開示してくれました。残念ながら、写真撮影は許されませんでした。)

(2017. 8. 24: 改)

アクロコリントス

コリントスの遺跡

画像の説明
(写真:1989年10月南より撮影。)
コリントスの遺跡の南西約3キロメートルに、石灰岩の山塊アクロコリントス(標高575m)がそびえています。

ここからは、古代のコリントスの遺跡が一望できます。

このコリントスの遺跡は、ローマのカエサルが再建して、属州アカイアの首府としたものが中心となっています。

デメーテルとコレーの神域

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(写真:同年同月、北より撮影。Jpg.5932-15)
1961年以来、山の中腹で宴室が多数付属した広大な「デメーテルとコレーの神殿」が発掘されています。
後方はアクロポリス。

城壁跡

画像の説明
(写真:1989年10月西より撮影。)
アクロコリントスは、古代コリントスのアクロポリスで、後のビザンティンやフランク、ヴェネチア、トルコ時代に築かれた城塞跡が残っています。

アフロディーテの神殿の跡

画像の説明
(写真:1989年10月南より撮影。)
頂上(標高575m)には、前6世紀小神殿の跡地に、前5/4世紀の北向きのドーリス神殿の遺構が確認され、パウサニアス(2,5.1)にはアフロディーテの神殿と紹介されています。

このアクロコリントスは、丘というよりかはどちらかというと山の頂上にあります。
古代のアクロポリスは、敵の侵入の際には、城塞として立てこもる意味があり、今も、かっての時代の城壁、城門の跡が残っています。

頂上からの眺めは素晴らしく、コリントスの遺跡の向こうには、コリントス湾が広がっています。

(2017.2.22)

コリントス地峡

ディオルコス(船舶運搬のための軌道設備)

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(写真:1989年10月、西より撮影。)

ペロポネソス半島とギリシア本土をつなぐ狭いコリントス地峡は、古代にはコリントス湾とサロン湾の間を、地峡の東西を横切って陸路船舶を運搬しました。

古代にはネロ帝が運河の開削を試みましたが(67年)失敗に終わっています。

その船舶を運搬するためのディオルコスの敷石基盤が発掘により(1956-62年)発見されています。

その軌道は,現在のコリントス運河(1881年着工、1893年開業:ゲオルギオス1世の治世)とほぼ同じ位置で並行しています。

写真の左奥に現在のコリントス運河が見えています。

(2017.3.6)

シキュオン

現在のコリントスの町から西へ約26kmのところに、古代のシキュオンの遺跡が残っています。

<シキュオン>

画像の説明

(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


劇場

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(写真:1992年8月、北西より撮影。)

アクロポリス北東端の断崖斜面を削って構築された前3世紀初めの劇場です。
観客席の上段と下段の間を仕切る通路の端に、トンネル(写真中央の奥)があって外部に通じています。

アルテミス・リムナイアの神殿

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(写真:同年同月、撮影。)

劇場の東150 m程のところに、基壇の細長い(短径11.6m×長径38.1m)ヘレニズム時代に再建されたアルテミス・リムナイアの神殿が、ギリシア人考古学者オルランドスによって発掘されています。

ギュムナシオン(体育所)

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(写真:同年同月撮影。)

劇場から南東100mほどのところ、アルテミス・リムナイア神殿との間に、東西二つのテラスに仕切られたギュムナシオンがあります。(東西約69m×南北72mの正方形の敷地)。

シキュオンはアテネとも深い関係があります。

前6世紀のシキュオンの僭主クレイステネスは、娘アガリステをアテネの名門アルクメオン家の貴族メガクレスに嫁がせ、両者の間に祖父と同名のアテネの民主政の改革者クレイステネスが生まれています。

その婚姻のいきさつは、ヘロドトス(6,126-131)に詳しく述べられています。

(2017. 8 .25:改)

イストミア

古代コリントスの近郊にイストミアの遺跡があります。

アテネから来てコリントス運河を渡り、左折してサロン湾側に下っていくと、イストミアに通じます。

ここは、「古代の四大祭典(競技会)」に数えられるポセイドンの祭典の開催地です。

古代の四大祭典とは、このイストミアの祭典、有名なオリンピアの祭典(オリンピックの発祥の地)、ネメアの祭典、デルフォイの祭典です。

<イストミア>

画像の説明

(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


<ポセイドン神殿>

画像の説明

(同上)


ポセイドン神殿跡 1

画像の説明
(写真:1988年1月西より撮影。後方サロン湾。)

同2

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(写真:同年同月、南より撮影。)

最初の神殿(旧神殿)は前7世紀に遡りますが、ペルシア戦争の頃に焼失し、前470ー460年に「新神殿」が建立されています。

この神殿は、前5世紀ドーリス式ギリシア神殿の典型に属しています(円柱:6×13本)。

小劇場

画像の説明
(写真:1988年1月南より撮影。)

前400年頃、上記のポセイドン神殿の北東約100mのところに創設されました。

前4世紀末に石造に改築され、67年のネロ帝の巡行に備えて拡張工事がなされました。

ちなみに、同年、ネロ帝はこのイストミアの地(新競技場)で「ギリシア諸都市の自由」を宣言しています。

旧競技場のスタートライン

画像の説明
(写真:1988年1月撮影。)
この遺跡で興味深いのは、旧競技場のスタートライン(写真中央の細長い石)です。

復元図によると、各人競馬場のゲートのように棒によって仕切られ、その前に横棒が横たわり、スタートの合図と共に紐で一斉に下に倒れて開いたようです。

また、付属の小さな博物館には、パンアテナイア祭のアンフォラ(2つの持ち手を持つ陶器)や体育競技で用いられた器具(幅跳びに用いられた「はずみ」つけのおもりなど)が展示されています。

新競技場跡

画像の説明

(写真:同上、北東から撮影)

(2017.8.25:改)

ペラホラ

ペラホラの遺跡は、現在のペラホラ村から西へ10kmほどの小さな半島に位置しています。

古代には、コリントスとボイオティアとの境界を画する聖域であり、湾を挟んでコリントスの対岸に位置することから、ペラ・ホラ、あるいは、ペライア(海の向こうの地)と呼ばれていました。

この聖域では、小さな港を取り囲むように神殿が建てられています。

また、ここからは、海の向こうの対岸コリントスを望むことができます。

画像の説明
(周藤芳幸編, 2003より)


ペラホラ

画像の説明
(写真上:1988年10月北西より撮影。)

写真、手前右(南側)がアゴラ、中央手前の建物の跡が、ヘラ・アクライア神殿。
その向こう(東側)に祭壇、そしてストアの跡が見られます。

アゴラ

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影)

ヘラ・アクライアの神殿

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

ヘラ・アクライアの神殿(前525年頃)は、細長い建物で(9m以上)、ドーリス式のファサードを持っていましたが、外側の列柱はありません。

この神殿は、ここでは3番目の神殿にあたります。

最初の神殿(アルカイック期:前750年頃)の神殿の跡が、東側にわずかに見られますが、2番目の神殿の跡は、残ってはいません。

祭壇

画像の説明
(写真中:1988年10月北より撮影)

ヘラ・アクライア神殿の東側、旧神殿跡の南側にはドーリス式のトリグリフ(三本筋)とメトープで飾られた祭壇が付属しています。
 
この祭壇のタイプは、北東ペロポネソスの特徴で、コリントスの建築家によって考案されたと推定されています。

ストア

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

祭壇の東側に残る、L字型のドーリス式のストア(前4世紀後半)。

貯水槽

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影)

両側が半円形の見事な貯水槽(前525年頃)。

宴の間

画像の説明
(写真:同年同月、北より撮影)

貯水槽の南側に、祭祀に伴う会食の場とみられる「宴の間」が残っています。

部屋は、市の役人などの特権的な参拝者によって使用されていたと思われます。

ヘラ・リメニアの神域

画像の説明
(写真:同年同月、南西より撮影)

貯水槽よりさらに東にヘラ・リメニア神域の跡(前7世紀頃)が残っています。

(2017. 8. 27.:改)

ネメア

コリントスから南西約15km、ペロポネソス半島内陸に入ると、ヘラクレスのライオン退治で有名な古代ネメアの遺跡があります。

ネメアは、イストミアと同様ギリシア「四大競技会」の一つである「ネメア祭」(前573年開始)が開かれていました。

<ネメア>

画像の説明
(C. Mee, & A. Spawforth, 2001に加筆)


ゼウス神殿

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(写真:1989年10月北西より撮影。)

最初のゼウス神殿は、前6世紀の初期に建てられましたが、前5世紀頃に火災により失われました。

その後、前340年から前320年の間にドーリス式の新たなゼウス神殿が建立されました。

6本(南北)×12本(東西)の円柱列を持った神殿ですが、現在は、そのうちの3本の円柱を留めるのみです。

祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

オイコイ(宝物庫:前4世紀頃)

画像の説明
(写真:同年同月、北より撮影)

ネメアは、デルフォイやオリュンピアのように宝物庫が建てられていたと思われ、この神殿の南側の建物群(9戸)がその宝物庫と推定されています。

ただし、建物の形式は、デルフォイやオリュンピアの宝物庫とは異なっています。

また、東端の建物が特徴的で、食堂(宴会の間)があり、クラブハウスやあるいはレスケー(ラウンジ)として使用されていたのではないかと想像されています。

宿泊施設(前4世紀後半)

画像の説明
(写真:同年同月、西の端より撮影)

ネメア祭の競技大会の競技者の宿泊施設と推定。

家屋群(前4世紀頃)

画像の説明
(写真:同年同月、西の端より撮影)

ネメア祭を取り仕切る祭司や役人によって使用された建物と推定。

浴場(前4世紀頃)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)

現在、屋根で保護されている浴場の内部。

この浴場は、競技大会で活躍した競技者によって使用されたものと推定されています。

へーローン(オフェルティオン)

画像の説明
(写真:同年同月、南西より撮影。後方にゼウス神殿)

 オフェルテス(オペルテス:ネメアの王リュクルゴスの幼子)を祀った神殿。

アポロドロス『ギリシア神話』(3. 6. 4)によれば、「テーベ攻めの七将」がアルゴスを出てネメアを通過した際に、オフェルテスの子守奴隷に水を求め、彼女が泉に彼らを案内したすきにオフェルテスは大蛇に殺されました。

彼ら七将は、大蛇を退治して、彼の葬儀のためにネメア競技会を行ったと伝えられています。

へーローン(オフェルティオン)は、前6世紀初期から使用され、周囲の壁は前4世紀後半、あるいは前3世紀初期に再建されたと推定されています。

また、神域は基本的にオープンで、石のフェンスで囲われた中には、多くの祭壇や、オフェルテスの墓がありました。

競技場 (前4世紀頃)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

古代ネメアの遺跡を出て、南側に博物館があります。

その博物館の東、約400mほどのところに、ネメア祭の競技大会で利用された競技場の跡が残っています。

写真手前(南端)にスタートライン、左手(東側)中央に入場門(木の陰)、左手奥(北西端)に審判団のスタンドが見えています。

トラックの長さは、約178m。

観客の収容人数は、4万人が可能と推定されています。

スタートライン1

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影)

中央の東西に延びるスタートライン。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、撮影)

イストミアと同じく、スタートの不正を防ぐ、木の仕掛けが設けられていました。

入場門

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)

競技場東側中央の競技者の入場門。

トンネルの壁には落書きも残っています(「エピカレスは美しい」)。

審判団のスタンド

画像の説明
(写真:同年同月、北北西より撮影)

観客席はありませんが、北西端に審判団のスタンドが残っています。

(2017. 8. 26. :改)

ミケーネ

コリントス地峡の南約25kmに、トロイア遠征軍の総大将アガメムノンの居城と伝えられる「黄金に富む」ミケーネが位置しています。

その遺跡は、オレンジの果樹が広がるアルゴス平野の一隅、プロフィティス・イリアスとザラという二つの険しい岩山の懐に抱かれた小高い丘の上にあります(海抜280m)。

「ギリシア神話」の中で最も有名な悲劇の王家、アトレウス家の居城です。

トロイアから帰還したアガメムノン王は、留守中にアイギストスと通じていた妻クリュタイムネストラに殺害され、そこから、血で血を洗う復讐劇が続いていきます。

遺跡は、1876年に、ドイツの考古学者シュリーマンによって発掘されました。
(しかしながら、彼以前に1841年にギリシアの考古学者ピッタキスが,発掘は失敗しましたが、「ライオン門」の調査を行っています。)

画像の説明
(周藤芳幸編, 2003より)


アクロポリス

画像の説明
(写真:1988年3月南西より撮影。手前の丘がアクロポリス)

遠くから遺跡に近づいていくと、最初に中腹を堅固な城壁に取り囲まれたアクロボリスが迫ってきます。

厚さが平均6m、総延長は約900mに及ぶ、巨人キュクロプスが積み上げたとされる「キクロペス式」と呼ばれる城壁です。

ライオン門 1

画像の説明
(写真:1988年3月北西より撮影)

同2

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(写真:1989年4月、北西より撮影)

遺跡のゲートから緩やかに登っていくと、アクロポリスの正面玄関である「ライオン門」に至ります。

開口部の高さは3.1m、幅は底部で2.95m,上部で2.87mを計ります。

天井部の岩の上には、ミケーネ時代に固有の建築上の特徴である三角形の開口部が設けられています。

「ライオン門」という通称は、この開口部を塞ぐように置かれた石灰岩の浮彫に由来しています。

円形墓域A

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(写真:1988年3月、東南より撮影)

門を入って直ぐ右手にシュリーマンによる発掘で名高い「円形墓域A」があります。

この竪穴墓からは、「黄金のマスク」を含む膨大な副葬品・黄金製品が発見され、シュリーマンはホメロスの英雄たちの墓を発見したと確信しました。

しかし、実際は、はるか伝承以前の前17〜前16世紀の竪穴墓(6基)でした。

(竪穴墓とは、まず地面に深さ数メートルの長方形の竪穴を掘り、底部の四壁に石を積んで棚を作り、そこに木製の板を渡して募室を作るタイプの墓)

しかし、シュリーマンによる発掘は、霧に閉ざされていたギリシア後期青銅器時代の文明に光をあてるとともに、それが「ミケーネ文明」と呼ばれるきっかけとなりました。

「黄金のマスク」などの黄金製品・出土品は、今もアテネ国立博物館の至宝となっています。

宮殿の主体部(メガロン)

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(写真:1989年4月、北西より撮影)

円形の炉床

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(写真:同年同月、南西より撮影)

アクロポリスの頂上には、王宮の主体部があり、王の公的な生活の場、いわゆる「メガロン」(全体は23m×11.5m)があります。
(メガロンは、ミケーネ時代の建築様式で、主室と玄関=前室からなる長方形のプランで、後のギリシア神殿の原型)

写真(上)左奥がメガロンの主室(中央に円形の炉床:直径3.7m)で、右側が玄関
復元された南側(写真中央奥)の壁の中央部に玉座があったと推定されています。

アルゴス平野

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(写真:1988年3月、北西より撮影)

王宮の中庭から見たアルゴス平野、ここからはその彼方に広がる海まで一望することが出来ます。

地下貯水槽の入り口

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(写真:同年同月、東南より撮影)

前13世紀の末に城壁が北東方向に拡張され、ここに岩盤の亀裂を利用した地下貯水槽が設けられています。

籠城戦に備えて水を確保するためだと考えられています。


画像の説明
(周藤芳幸編, 2003より)


アトレウスの宝庫

画像の説明
(写真:1988年3月南より撮影)

王宮周辺には9基のトロス墓(蜂の巣状墳墓)が点在し、なかでも「アトレウスの宝庫」(前13世紀初め頃)と称されるものは、盗掘されてはいたものの、ほぼ完璧に原型を留めています。

全長は約56m、トロス墓の高さ13.2mをはかるこのトロス墓は、ミケーネ時代の墓としては最大規模の物です。

<アトレウスの宝庫:平面図と正面図>

画像の説明
(A. J. B. Wace, Annual of the British School at Athens 25 (1921-23) pl. 56 より)


以下、アクロポリス周辺の5つのトロス墓を紹介します。

アイギストスの墓

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(写真:同年同月、南西より撮影)

クリュタイムネストラの墓

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(写真:同年同月、南より撮影 )

前14世紀の末に編年されるミケーネで最も新しいトロス墓です。

なお、ミケーネには円形墓域は2つあり、1つはシュリーマンの発見したA、そして、1951年に「クリュタイムネストラの墓」の東で偶然発見されたBがあります。

円形墓域Bの東端は、トロス墓構築にあたって破壊されていますが、直径約28mの募域からは14基の竪穴墓を含む25基の墓が見つかっています。

ライオンのトロス墓

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(写真:同年同月、北より撮影)

エパノ・フルノスのトロス墓

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(写真:同年同月、北より撮影)

キュクロプスのトロス墓

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(写真:同年同月、西より撮影)

円形墓域Aがいまだ使用されている時に造営された、ミケーネ最古のトロス墓です。

なお、ミケーネでは、前14世紀の末までに,上記のトロス墓を含めて上述したように9基のトロス墓が築かれていますが、これは単一の集落としては異例の数であり、(通常は1集落のトロス墓は1基)、この時期のミケーネの卓越した権勢を伝えています。

戦士の壺の館

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(写真:同年同月、東より撮影)

有名な「戦士の壺」が発見された、城壁の中の円形墓域Aの南に残る館の跡。

「戦士の壺の館」などの大型の家屋の東南には、前13世紀の「神殿」を含む祭祀センターが発掘されており、そこからは可憐な姿のテラコッタの女神像が発見されています。

油商人の館(城外の都市域)

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(写真:同年同月、北東より撮影)

アクロポリスの城塞より見た城外の都市域にある「油商人の館」。
北東端の部屋にオリーブ油を貯蔵するための瓶が壁に沿って据え付けてありました。

楯の館(城外の都市域)

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(写真:1989年4月、北北西より撮影)

油商人の館の北側に位置する大型家屋。

ファイアンス製(釉薬を使用した陶器)のリュトン(動物の角や頭部をかたどった杯)のような奢侈品が多く出土しています。

これらの大型家屋で注目に値するのは、そのいずれからも線文字B粘土板が出土していることです。

これは、これらの家屋が宮殿の行政機能と密接に結びついていたことを示しているといわれています。

(2017. 8. 27.:改)

アルゴス

アルゴスはアテネから約137km、ミケーネのアクロポリスからは南へ約13kmのアルゴス平野の南部にあります。

歴史時代にミケーネに代わって、アルゴスが平野に名前を与えているアルゴス平野の支配権を握りました。

古代のアルゴスは、現代のアルゴスの町の西のラリサ(標高276m)と、北西のなだらかなアスピス(標高100m)という2つのアクロポリスの麓に広がっていました。

古代のアルゴスの遺跡の大部分は、現在のアルゴスの街並みによって覆われていて、見ることができるのは劇場やローマ時代の浴場、アフロディーテの神殿の跡、アゴラの一部などに限られています。

掘り出されている遺構からは、古代アルゴスの全容を思い描くのは難しい状態です。

<アルゴス>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


<古代アルゴス市の中心図>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


大劇場 1

画像の説明
(写真上:1988年1月東より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

西側のラリサの急峻な斜面を利用して、岩盤から削り出された大劇場跡。

建設年代は前300年から275年頃で、ネメア競技会がアルゴス主催に移ったことが、この劇場の建設に反映していると推定されています。

観客席はもともとは、81列あり、上中下の三段に分かれていて収容人数は推定2万人。

オルケストラの直径は26m。

ハドリアヌス帝の時代に改修されています。

ディオスクーロイのレリーフ

画像の説明
(写真:同年同月、撮影)

劇場の南の擁壁に刻まれた、ディオスクーロイ(ギリシア神話の双子神:カストールとポリュデウケース)の小さなレリーフ。

ラリサ頂上の遺構

画像の説明
(写真:1988年12月、南より撮影)

アルゴスのラリサ(アクロポリス)頂上に残る、古代建築の遺構。

浴場

画像の説明
(写真:1988年12月、ラリサ西北より撮影)

劇場の東南に残るローマ時代の浴場の遺構(後2世紀頃)。

写真左手前の壁(建物の西の後陣の北側の壁)は、当時の高さを残しています。

オデオン

画像の説明
(写真:同上)

劇場の南に残るローマ時代のオデオン(後2世紀初期)。

アフロディーテの神殿(アフロディシオン)

画像の説明
(写真:1988年12月、西より撮影)

オデオンの南側に、小さなドーリス式のアフロディーテの神殿の基壇が残っています(前450年頃)。

パウサニアス(2. 20. 8-9)には、祭神像の正面に女流詩人のテレシウスのレリーフを施した石碑があったことが記されています。

テレシウスは、スパルタのクレオメネス1世の攻撃によって壊滅の危機に瀕した祖国アルゴスを、女性達中心の非正規軍を率いて戦って祖国を救ったと伝えられています(前494)。

アゴラ

画像の説明
(写真:1988年12月、ラリサ西北より撮影)

ブーレウテリオン(評議会場)

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

この建物は、アゴラで最初に建てられた建物で、もともとは評議会場であったと推定されています(前469年頃)。

ニンフェイオン

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

ブーレウテリオンの東側に残る、四角い演壇の上の柱廊付きの円形の建物。

この建物は水を供給する貯水槽の役割を担っていたようです。

この建物の機能は不明ですが、宗教的意味も推定されており、地元のニンフ・アミモンの社、あるいはアルゴスの神話的王ダナオスの英雄廟(ヘーローン)の可能性も指摘されています。

ニンフェイオンは、後200年頃に通常の泉場に改変されました。

排水溝

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

アゴラの東側に残る排水溝の遺構。

ストア

画像の説明
(写真:1988年12月、北西より撮影)

アゴラの北側に残るストアの一部。

アルゴス平野

画像の説明
(写真:1988年1月撮影。)

大劇場の頂上からは、アルゴス平野を一望することができます。


<アポロとアテナの神域>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


アポロとアテナ神域1

画像の説明
(写真:1988年12月、西より撮影)

アルゴスのラリサ側から見たアスピスの麓のアポロとアテナ神域。

同上2

画像の説明
(写真:1988年1月、南から撮影)

三段のテラスに造営された広大な遺跡(20世紀初めフランス隊により発掘)。

手前に中庭、中央に南北に延びる大祭壇(長さ14.3m×幅3.21m×高さ0.75m)、そしてその後ろに第2テラスへの階段が見えます。

アポロン・ピュタイエウス(ディラディオテス)の聖所

画像の説明
(写真、同年同月撮影)

パウサニアス(2. 24. 1)によれば、祭神像は青銅の立像で、峡谷の地名ディラスからアポロン・ディラディオテスとも呼ばれています。

現在、神殿は完全に失われています。

また、ここでは、アポロンの神託が下されました。

そのしきたりは、男性との同衾を絶った巫女が、犠牲の羊の血を飲んで神がかりとなり、神の代弁者として彼女の口から神託が下されました。

アテナ・オクシュデルケス(鋭眼の女神)の聖所

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

神域の最上段の第3テラスに位置。

パウサニアス(2. 24 .2)には、アルゴスの王ディオメデスがこの神殿を寄進した理由として、かってイリオン(トロイア)で、アテナ女神に両眼から目の曇りを取り去ってもらった(ホメロス『イリアス』第5歌、106-120行)ことが述べられています。

トロス(円形の建物)の遺構

画像の説明
(写真:同年同月、撮影)

アテナ・オクシュデルケスの聖所の南東に隣接。
(同女神の聖所の可能性)


現在のアルゴスの町の中央広場の脇には、小さいながらも充実した内容の博物館があり、そこでは、アルゴス周辺の遺跡からの出土品に加えて、歴史的に重要な初期青銅器時代のレルナ遺跡の出土品を展示しています。

青銅の兜と胸当て

画像の説明
(写真:1988年12月、アルゴス博物館にて撮影)

ギリシアで発見された唯一完全な幾何学時代(前8世紀頃)の甲冑。

女性土偶

画像の説明
(写真:同上)

レルナ出土の新石器時代の土偶(19cm)。

画像の説明
(写真:同上)

レルナ出土の炉。

「屋根瓦の家」の前身ともいうべき家屋の床面に埋め込まれていた遺物。

ほとんどが復元ですが、オリジナルの部分はススで黒くなっており、床に固定されて使用していたと推測されています。


アルゴスでは、ヘラ女神が崇拝を集めており、「アルゴスのヘーライオン」として知られたアルゴスのヘラ神殿は、アルゴス領の北東を画するエウボイア山麓に3段からなるテラスに広がっています。

(2017. 8. 28:改)

レルナ

レルナは、アルゴスからトリポリへ向かう道路途中のミリ村の南外れにある遺跡です。

また、レルナはギリシア神話のヘラクレスがヒュドラ(水蛇)を退治した場所としても有名です。

遺跡は、新石器時代から居住が確認されていますが、特に下記の平面図の中央の「屋根瓦の家」(初期青銅器時代:前23世紀)が重要です。

遺跡の廃墟全域から、長方形スレート状の屋根瓦が大量に出土したことから、発掘者によりこの館は「屋根瓦の家」と命名されました(世界最古の瓦葺きの建物)。

「屋根瓦の家」(東西25m×南北12m)は、1階に大部屋4室と廊下、小部屋数室を有し、さらに階段の基部が残っており、少なくとも2階建ての建物と推定されています(現在、保存用の建物で覆われています)。

また、この「屋根瓦の家」は、前2200年頃、何者かに焼き払われ、その後廃墟には小高い塚が築かれました(直径19m)。

その塚の東側で、中期青銅器時代の家屋群と倉庫の遺構が発掘されています。

<レルナ平面図>

画像の説明

(C.Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


「屋根瓦の家」1(主室)

画像の説明

(写真:1988年12月、東より撮影)

同上2

画像の説明

(写真・同上、北西より撮影)

写真手前左側に、2階への階段の基部が見えています。

ミケーネ時代の竪穴墓(第2号)

画像の説明

(写真:同上、北北東より撮影)

屋根瓦

画像の説明

(写真:同上)

貴重なレルナ人の足型(左足の指の痕)のついたタイル。

塚の一部

画像の説明

(写真:同上、西南より撮影)

保存用の建物の外に、円周部を丸石で縁取りした塚の一部が見えています。

城壁

画像の説明

(写真:同上、東より撮影)

初期青銅器時代の城壁の遺構。

中期青銅器時代の家屋

画像の説明

(写真:同上、東より撮影)

「屋根瓦の家」の東側。

中期青銅器時代の家屋の遺構の下に、初期青銅器時代の家屋の遺構が見えています。

(2017. 8. 22)

アシネ

アシネはナフプリオンの南東、アルゴス湾に突出する半島(岩塊)のアクロポリスに築かれた集落です。

初期青銅器時代からミケーネ時代を経て、ローマ時代に至る遺構が残っています。

ミケーネ時代には、集落はアクロポリスの西側(下町)にまで広がっていました。

前8世紀頃には、アルゴスの支配下にあったようです。

半島はヘレニズム時代に城壁で囲まれ、アクロポリスの東側には、素晴らしい塔が今も残っています。

<アシネの遺跡の等高線地図>

画像の説明

(O. Frödin & A. W. Persson, Asine: Results of the Swedish Excavations 1922-1930, Stockholm,1938に加筆)


アクロポリス1(半島)

画像の説明

(写真:1988年12月、北西より撮影)

バルブナ山頂付近より撮影。

城壁1

画像の説明

(写真:同上、北西より撮影)

アクロポリスの西側に残るヘレニズム時代の城壁。

写真右手、海側の奥が古代の港。

同上2

画像の説明

(写真:同上、南東より撮影)

アクロポリスの北側、ヘレニズム時代の城壁。

アクロポリスの入り口

画像の説明

(写真:同上、南東より撮影)

「皇太子妃の塔」

画像の説明

(写真:同上、南東より撮影)

アクロポリス南東の「皇太子妃の塔」と呼ばれる塔の遺構。

アクロポリスへの階段

画像の説明

(写真:同上)

下町とバルブナ山

画像の説明

(写真:同上、南東より撮影)

アクロポリスより、北西を望む。

手前中央に下町と、左手後方にバルブナ山。

アクロポリス2

画像の説明

(写真:同上、北西より撮影)

アクロポリスを下町から撮ったもの。

ミケーネ時代の岩室墓

画像の説明

(写真:同上、北西より撮影)

(2017.8.23)

ティリンス

アルゴスからナフプリオンに向かう街道の左側に、巨石防壁に囲まれたティリンスの遺跡があります。

ホメロスの『イリアス』(第2歌、557−59)に「城壁高き」とうたわれたティリンスは、1884年にシュリーマンがドイツの考古学者デルプフェルトと共に発掘したアルゴス平野では、ミケーネと並んでミケーネ時代を代表する遺跡の一つです。

ティリンスの丘には、はるか新石器時代から人々が居住していましたが、初期青銅器時代に有力な集落へと発展し、最盛期は後期青銅器時代で、丘の平坦な頂に王宮(メガロン)が築かれました(現在残る遺跡は、北側を取り囲むように拡張されたもの:前13世紀頃)。

また、ティリンスとミケーネの関係(20kmほどの隔たり)は、それぞれ独立した王国の首都や、あるいはティリンスはミケーネの外港など色々な議論があって明らかではありません。

パウサニアス(2.25)には、ティリンスの廃墟について、城壁の巨人キュクロプスによる築造と並んで、アルゴス人たちによる立ち退きが記されています。

ティリンスは、ミケーネ文明崩壊後も放棄されず、その国名はプラタイアの戦勝(前479年)記念の青銅の蛇にも、ペルシア戦争参加国として刻まれており、独立喪失は最終的にアルゴスにより、その後の前5世紀中(一説には前470年頃)と推定されています。

また、ミケーネも同様で、パウサイナス(2. 16. 5)によれば、テルモピュライに80名の兵士を派遣し(ヘロドトス, 7.202)、スパルタ軍の一画を担ったことがアルゴス人を刺激し、最終的に彼らによって破壊されたと述べられています(前468年)。

現在、ティリンスの発掘は在アテネ・ドイツ考古学研究所により受け継がれ、毎年継続的に発掘調査が行われています。

画像の説明
(馬場恵二, 1984より)


王宮跡

画像の説明
(写真:1988年3月南東より撮影。)

丘全体が王宮跡ですが、丘の平坦な頂には、メガロン様式の宮殿が築かれていました。

王宮中庭の跡

画像の説明
(写真:1988年3月南より撮影。)

城壁

画像の説明
(写真下:1988年3月南より撮影。)

(2017. 8. 28:改)

エピダウロス

エピダウロスは、ナフプリオン(1834年にアテネに遷都するまでのギリシア王国の首都)の東25km、アルゴリス半島のサロン湾寄りに位置します。

最も有名な遺跡は、医神アスクレピオスの聖域です。

聖域については、パウサニアス(2,27)によって、「劇場」と「癒しの聖所」が詳しく紹介されています。

<アスクレピオスの神域>

画像の説明
(パウサニアス/馬場恵二訳,1992に加筆)


劇場 1

画像の説明
(写真:1989年4月東より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

劇場はアスクレピオスの神域の南東に位置していますが、1881年から82年にかけてアテネ考古学協会によって発掘されました。

キュノルティオンの山土に埋没され、石材剥奪の難を逃れたため、ギリシアで最も保存状態の良い劇場です。

劇場は前4世紀末の建造で、制作者は未定。

観客席は、ディマゾア(水平通路)によって上下二段に区切られ、下段は34列、上段は21列の座席。

収容能力は、1万3,4千人。

オルケストラの直径は、19.5m。

(現在もこの劇場は使用されており、毎年、夏のフェスティバルでは、エウリピデスやアリストファネスの古代劇が上演され、アテネやナフプリオンからも日帰りの観劇ツアーが出て、多くの観衆を集めています。)

アスクレピオス神殿 (前375−70年頃)

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)

エピダウロスは、歴史時代に入って、半神マレアタスが、アポロンと融合して、新しい神格「アポロン・マレアタス」が生まれました。

さらに、前5世紀の末にアポロンの息子アスクレピオスの祭祀が導入され、前4世紀に盛んになるとギリシア各地からこの地に参詣にやってくる者が集まりました。

祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、南西より撮影)

アスクレピオス神殿の祭壇が、神殿の東側に残っています。

アバトン(お籠もり堂)

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

アテネのアスクレピオスの神域と同様、嘆願者は、アバトン(お籠もり堂)に一夜籠って、「夢見」の中で医神の治療を受けて平癒を得ます。

イオニア式列柱館の同遺構(38.07m×9.42m)が、アスクレピオス神殿の北側に残っています。

プロピュライア(前3世紀初期)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

トロス 1(円堂:前360−30年頃)

画像の説明
(写真:同年同月、東から撮影)

同上 2

画像の説明
(写真:同年同月、トロスの内部を東より撮影)

別名、テュメラと呼ばれた、アスクレピオス神殿の西側に残る遺構。

現存するのは床下遺構に過ぎませんが、六重の同心円台壁からなる迷路の構造。

床下の暗黒の迷路で何らかの儀式が神官によって執り行われたと推測されています。

上部構想は、円堂外輪に26本のドーリス式の円柱、堂内は14本のコリント式円柱が並んでいました。

円堂は、アスクレピオスの聖墓所(半神廟)の性格を帯びていました。

アルテミス神殿(前330年頃)

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

小劇場(後2世紀頃)

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影)

洗面台

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

小劇場の南に残るギリシア時代の浴場(前3世紀初期)の洗面台。

体育所

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

スタディオン(前4世紀後半)

画像の説明
(写真:1989年4月北東より撮影)

アスクレピオスの神域の西側、石の観客席が残るスタディオンの跡。

スタディオンのトンネル(前3世紀、あるいはそれ以前)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

スタディオン北側のスロープに残るアーチ状のトンネル。

北側の体育場と結ばれていました。

医療器具

画像の説明
(写真:同年同月。博物館にて撮影)

患者である庇護嘆願者は、時には外科手術による治療を受けたようで、付属の博物館には、ローマ時代の医療器具が展示されています。

(2017. 8. 30:改)

アイギナ島(現エギナ島)

アイギナ島(エギナ島)は、アッティカ半島とアルゴリス半島に囲まれたサロン湾に浮かぶ、アテネから最も近いエーゲ海の島です。

古代には、独立したポリスで、宿敵アテネから「サロン湾の目脂」と呼ばれ、両者の間には紛争が絶えませんでした。

ギリシアで最も早く銀貨を鋳造し繁栄しましたが、最終的には、前431年にアテネによって征服され、アイギナ人は島から駆逐されてしまいました。(トゥキュディデス 2.27)

彼らが再び島に戻ったのは、前405年のアイゴス・ポタモイの合戦でアテネ海軍が大敗を喫した後のことです。(クセノフォン『ギリシア史』2.2.9)

アポロン神殿

画像の説明
(写真:1988年2月東より撮影)

島の西に位置する、現在のエギナの港の北側の小高い丘を占めるのが、古代のアイギナのアクロポリスで、現在、アポロン神殿の柱が1本残っています。


<アファイア(アパイア)神殿平面図>

画像の説明
(S. Rossiter, 1981に加筆)


島の東岸に、サロン湾を見晴らす松林の丘にそびえる、アファイア(アパイア)神殿があります。

アファイア(アパイア)の名前は、ほとんど知られていない女神で、ファイネイン(パイネイン:ギリシア語の「現れる」)に由来すると推定されています。

ローマ時代の作家は、この女神をクレタのミノスの手からこの地に逃れたブリトマルティスに同定しています。

現在見られる神殿(新神殿)は、前6世紀の終わりか、もしくは、前5世紀の初めに建てられた典型的なドーリス式神殿です(オリジナルの32本の円柱の内、現在24本が立っています)。

それ以前に、前6世紀頃(前570年頃)に小さな社に代わって円柱を持たないドーリス式の神殿(旧神殿)が建てられていました(平面図の点線部分)。

その後、旧神殿は火災により喪失し、その上に現在の神殿が建てられました。

神殿は20世紀の初頭(1901−03年)、ドイツの考古学者・美術史家アドルフ・フルトヴェングラー(有名な指揮者ヴィルヘルムの父)によって調査・発掘されています。
(余談ですが、発掘現場で父親と一緒に写っている幼い頃のフルトヴェングラーの写真を見たときは、少し感動しました)

大理石の破風彫刻(17体)は、19世紀の初頭に発見され、バイエルンのルートヴィッヒに買い取られ、現在は、ミュンヘンのグリュプトテーク(彫刻館)に収められています。

アファイア(アパイア)神殿1

画像の説明
(写真:1988年2月東より撮影)

同上 2

画像の説明
(写真:同年同月北より撮影)

旧神殿と新神殿の祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影)

手前中央に旧神殿の祭壇の一部。

後方中央に見えるのが新神殿の祭壇。

プロピュライア

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

(2017. 9.2:改)

トロイゼン

古代トロイゼン(旧名ダマラス:現在名トリジーナ)は、アテネからエギナ島を間に挟んでサロン湾の向かいに位置する小村です。

神話ではアテネの半神テセウスの母が、このトロイゼンの王ピッテウスの娘アイトラーとなっており(テセウス伝説)、アテネとは古くから因縁浅からぬ町です。

ペルシア戦争の際には、クセルクセスの軍勢がアテネを制圧する前に、アテネの婦女子がトロイゼンに疎開したと、ヘロドトス(8.41)は伝えています。

(トロイゼン人が、テミストクレスの決議に従って避難する彼らを好意的に受け入れたという同様の記事は、プルタルコス『テミストクレス伝』10にも述べられています。)

また、パウサニアス(2.31.7)によると、古代トロイゼンのアゴラのストアには、この時の婦女子が奉納した肖像が立っていたといいます。

(現在、アゴラは組織的な発掘調査がなされておらず、平坦な畑が広がるだけで遺構らしきものは見当たりません)

古代の遺跡は村の西方(1.6km)、二つの川に挟まれた平地にあり、現在カストロと呼ばれるアクロポリス(標高313m)、その北麓に推定されるアゴラにあったといわれる「アルテミス・ソティラの神殿」、市外西郊の「ヒポリュトスの神殿(ヒュポリュテイオン)」、「アスクレピオスの神域(アスクレペイオン)」などの礎石が残されています。

また、その北西には、中世ダマラスの司教座であった「エピスコピ教会(パレア・エピスコピ)」の廃墟があります。

この教会は、この場所から恋心を抱く継母ファイドラ(パイドラ)が、裸体になって体育競技をするヒポリュトスをうっとりと覗き見ていたといわれる「アフロディーテ・カタスコピア(覗き見の女神)神殿」(パウサニアス 2.32.3)の跡地に建てられたと推測されています。

また、ヒポリュトスが体育競技をしていたといわれる「ヒポリュトスの競技場」は、同教会西側の低地にあったと推定されています(未発掘)。


<アスクレペイオンとヒポリュトスの神殿>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


ヒポリュトスの神殿 (ヒポリュテイオン)

画像の説明
(写真上:1992年8月、西より撮影)

テセウスの息子ヒポリュトスは、彼に失恋し自殺した継母ファイドラ(パイドラ)の讒訴により父に呪われて追放され亡くなります。

トロイゼンでは、彼は英雄(半神)として崇拝されました。

神殿は、基壇床面17.35×31.85mの円柱式の神殿(円柱:11×6本)(前4世紀)。

写真左側(北側)に、アスクレピオスの神域が位置しています。

城壁の塔

画像の説明

山裾に残るヘレニズム時代の城壁の塔(高さ10m)。

近代史において、トリジーナの町は、独立戦争初期(1827年)に第3回国民会議が開催され、カポディストリアスをギリシア大統領に選出した場所として、また自由主義精神あふれる「トリジーナ憲法」が採択された所として歴史に名を留めています。

また、古代史にとって貴重な資料である、トロイゼンの疎開に言及した碑文「テミストクレスの決議」(ヘレニズム時代の複製)は、1958年、この村のカフェニオンで発見されました。

(2017. 9. 6:改)

マンティネイア

古代マンティネイアは、アルカディアの最も有力なポリスのひとつで、常に隣国のテゲアと対立関係にありました。

マンティネイアの遺跡は、現在のアルカディアの中心都市トリポリスから、北12.5キkmに位置しています。

アクロポリスは、古代にはプトリスとして知られており、すでに歴史以前ミケーネ時代には居住が始まっており、ポリスとしてのマンティネイアの成立は、紀元前5世紀にこの地域の集落が集住を行った時点に求められるようです。

マンティネイアは広大な平原に位置しており、近郊ではしばしば歴史的に有名な戦いが行われています。

なかでも、第一次マンティネイア戦争は、ペロポネソス戦争の際(前418年)、スパルタがアテネやマンティネイアなどと戦い、その重装歩兵の戦闘の様子は、トゥキュディデス(5.64-74)に描かれています。

また、第二次マンティネイア戦争(前362年)は、有名な将軍エパミノンダス率いるテーベを中心とするボイオティア同盟軍とスパルタ・アテネ連合軍との戦いです。

この戦いで、ボイオティア軍は勝利したものの、エパミノンダスは戦死し、それが、テーベの衰退につながります。

マンティネイアの市民は、一時はスパルタに強制され、分住を余儀なくされましたが、レウクトラの戦い(前371年)の後、プトリスの麓の平地に現在見ることのできる楕円形の城壁に囲まれた都市を建設して、ポリスを復興しました。


<マンティネイア>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


劇場1

画像の説明
(写真:1988年12月、西より撮影)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

劇場は、多角形の壁によって支えられたスロープ(観客席)と最前列の席が残っています。(前4世紀頃)

ヘーライオン

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影)

評議会場の跡

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

舗装道路

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)

ストアの一部

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影)

アゴラの店

画像の説明
(写真:同年同月、西より撮影)

周壁の一部

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

周壁は、周囲が4km程、厚さ4m、26 mごとに120の塔と10の門で守られていました。

現在は周壁の跡がわずかに残されています。

写真は、テゲア門付近の、周壁の一部(壁の高さは身長を少し越えるほど)。

テゲア門

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

10の門の一つのテゲアに向かうテゲア門。

(2017. 9. 8:改)

テゲア

古代テゲアは現在のトリポリスの町の南に位置して、アルカディア地方において東のアルゴスや、南のスパルタへの交通の要所を占め、マンティネイアと常に対立関係にありました。

その歴史は、前550年頃、スパルタ主導のペロポネソス同盟下に入り、ペロポネソス戦争の際には重装歩兵1,500人を提供してスパルタの側でアテネと戦っています(ヘロドトス 9, 28)。

また、レウクトラの戦いの後、前370年には、アルカディア同盟に参加して、その後、第二次マンティネイアの戦い(前362年)の際には、テーベの側に付いてスパルタと戦っています。

パウサニアス(8.45-53)が訪れた後2世紀頃のテゲアは、後述のアテナ・アレアの神殿などが残る、依然魅力的な都市であったようです。

後395年には西ゴートのアラリックのペロポネソス侵入によって大きな被害を受けましたが、それでも、6世紀には、パライア・エピスコピに非常に大きな初期のキリスト教会(バシリカ)が建立されています。


<アテナ・アレア神殿平面図>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001より)

<アテナ・アレア神殿内部の復元図>

画像の説明
(A. Stewart, Greek Sculpture: An Exploration (New Haven 1990) fig. 541による)


アテナ・アレア神殿1

210.135.211.171-1506174127.jpg
(写真:1988年12月、東より撮影)

写真中央右手に、東側のスロープが見えています。

同上 2

画像の説明
(写真:同年同月、西南より撮影)

写真はオピストドモス(後室)の部分。

同上3

210.135.211.171-1506174215.jpg
(写真:同年同月、北より撮影)

写真手前、北側のスロープ。

出土品からこの神域はミケーネ時代にさかのぼり、ギリシアでも最も有名な聖域の一つであったようです。

初期のアルカイック期(前8世紀頃)の神殿は前395年に焼失し、新しいドーリス式の神殿がパロス島の彫刻家スコパスの設計によって再建されました(前345年—前335年)。

パウサニアスに記述されている神殿は、この新しい神殿です。

この神殿を飾っていたヒュゲイア女神像の頭部は、現在、アテネ国立考古学博物館に収められており、近くの小さな博物館にも彫刻の断片などが保存されています。

他には、アゴラの遺構や劇場の跡が残っています。

劇場の壁の一部

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影)

アゴラ

210.135.211.171-1506174244.jpg
(写真:同年同月、南西より撮影)

未確認の建物の遺構。

(2017. 9. 23:改)

スパルタ

古代スパルタ(現在名スパルティ)はアテネと並んで古代ギリシアを代表するポリスです。

アテネからは、約260km。ペロポネソス半島南部に位置し、ラコニア平野を本拠地に、西のタイゲトス山の向こう側に広がるメッセニア平野を支配下に加えていました。

厳しいスパルタ教育でも知られるように、ギリシア最大の陸軍(重装歩兵)国家でした。

古代スパルタ(正式な名称はラケダイモン)は、兵士の身体がスパルタの城壁だと自負して、アテネのような華麗な文化施設は残していません。

しかし、後述のアテナ・カルキオイコス神殿、市の外れのアルテミス・オルティアの神域、そしてメネライオンなどに古代の面影を残しています。

スパルタは、ローマの支配を経た後、ゲルマン人(アラリック率いる西ゴート族)やスラブ人の侵入によってほとんど廃墟と化してしまいました。


<スパルタ>
画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


劇場跡

画像の説明
(写真:1988年12月、南東より撮影.)

タイゲトス山を望むアクロポリスの一角を占めたヘレニズム時代の「劇場」。

アテナ・カルキオイコス神殿

画像の説明
(写真:同上、南東より撮影。)

アクロポリの劇場の北に残る 、スパルタの守護神「アテナ・カルキオイコス神殿」の礎石(前6世紀頃)。

「カルキオイコス(青銅の館)」の名前は、神殿の外装の青銅のレリーフに由来しています。

レオニダイオン

画像の説明
(写真:同上、北西より撮影)

市内に残るレオニダスの墓と呼ばれる遺構。

アルテミス・オルティア神殿

画像の説明
(写真:同上、西より撮影。)

アクロポリスの東南、エウロタス川辺のアルテミス・オルティア神殿。

神域には、現在建物はまったく残っておらず、劇場や祭壇の土台の一部が散見されるのみです。

写真は、円形の劇場の西側に位置する神殿の土台(ドーリス式:前2世紀頃)。

祭壇跡

画像の説明
(写真:同上、北北西より撮影)

手前に祭壇跡、後方に劇場の一部分。

スパルタは「スパルタ教育」(厳格な兵士育成制度)で有名ですが、この祭壇で少年が血でにじむまでむち打たれる儀式が執り行われました。


<アルテミス・オルティアの神域の復元図>

画像の説明
(T. Apostolides in N. D. Papachatzis, Pausaniou Ellados Periegesis, IV, Korinthiaka kai Lakonika,1976による)


<スパルタ近郊>

画像の説明
(L.F.Fitzhardinge, The Spartans, Thames & Hadson, 1980に加筆)


<メネライオン>
画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


メネライオン

画像の説明
(写真:同上、北東より撮影。背景はタイゲトス山)

エウロタス川東岸のスパルタとラコニアを一望できる高台には、半神崇拝の中心の一つ小神殿メネライオンの遺構が残っています。

ここには、スパルタ王メネライオスとトロイア戦争を引き起こした妻ヘレネが共同で祀られています。

こうした共通の祖先を祀る半神崇拝(後述のアミュクライの半神ヒュアキントスの例なども)は、多くの隷属民(ヘロット)を抱えたスパルタ市民の結束力を強めていました。

ミケーネ時代の館の遺構

画像の説明
(写真:同上、南西より撮影)


<アミュクライの丘>
画像の説明
(J.T.Hooker, The Ancient Spartans, London,1980に加筆)


アミュクライの丘

画像の説明
(写真:同上、北西より撮影)

スパルタから南8kmの「アミュクライ」の丘に、わずかにアポロンの神域の跡が残っています。

写真は、アミュクライの丘を北西より望む。

丘の上の白い建物は、アイア・キリアキ教会。

城壁

画像の説明
(写真:同上、南東より撮影)

アミュクライの丘を取り囲む、現存する東側の城壁一部。

アミュクライの「玉座」の土台。

画像の説明
(写真:同上、北西より撮影)

アポロンの神域に残る「玉座」と呼ばれる遺構(前6世紀頃)。

ここでは、アポロンと当地の半神ヒュアキントスが合祀されており、ヒュアキンティア祭(男女の若者が合唱隊に別れ、山車を引いて歌い踊る行進)が執り行われました。

丘からの遠景

画像の説明
(写真:同上、南東より撮影)

遠方に見えるのが、スパルタの町。

ヴァフィオ1

画像の説明
(写真:同上、北北東より)

1888年、考古学者ツンダスによって発見されたミケーネ時代のトロス墓。
有名なヴァフィオの一対の黄金製カップは、ここから出土しました。(アテネ国立考古学博物館蔵)

同上2

画像の説明
(写真:同上、南西より撮影)

レオニダスの大理石胸像

画像の説明
(写真:同上撮影)

市内の考古学博物館には、周辺の遺跡の出土品を中心にテルモピュレの戦いで玉砕した猛将レオニダスの大理石胸像が展示されています。

この大理石の胸像は、戦いの後に遺体がスパルタに埋葬された際の、戦士像の一部とされています。

仮面

画像の説明
(写真:同上撮影)

古代喜劇やサテュロス劇で使用された陶製の仮面(ヘレニズム時代)。

(2017.8.8: 改)

メッセネ

カラマタの北西約15kmの所に、古代メッセネの遺跡があります。
ホメロスにも謳われたメッセニアの聖地イトメ山(標高802m)の麓に位置しています。

メッセネは、前371年のレウクトラの戦いで勝利したテーベの名将エパミノンダスが、前369年にスパルタからメッセニアを解放して、メッセニア人のために建設した新都です。

ローマ時代の歴史家デイオドロスによれば、わずか85日で完成したといいます。

エパミノンダスは、この時にメガロポリス、マンティネイア、アルゴスとメッセネを中心とするアルカディア同盟を組織して、スパルタ包囲網を作り上げました。

ヘレニズム時代には、アカイア連邦やヘレニズム諸王の勢力争いの中で揺れ動き、前146年にローマの属州となるまで独立を保ちました。
さらに、続くローマ時代にはペロポネソス半島の主要都市の一つとして、栄えることになります。


<メッセネ>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001より)


アルカディア門

画像の説明
(写真:1988年1月南東より撮影。)

都市域は、イトメ山を中心に全長約9kmの堅固な城壁に囲まれて、四つの門(写真はその一つアルカディア門)を備えています。

城壁

画像の説明
(写真:1988年1月東より撮影。)
七つの現存する塔を持つ城壁は、前4世紀の城壁建築の代表となっています。

アスクレピオスの聖域の跡

画像の説明
(写真:1988年1月西より撮影。)

城壁の中には、小劇場や、スタディオン、アルテミス神殿、アスクレピオスの聖域の跡などが発掘されています。

(2017. 9. 24.:改)

オルコメノス(アルカディア)

アルカディアのオルコメノスは、山の頂上にあって、城壁で囲まれたアクロポリスに、アルテミス神殿や劇場の跡が残っています。

ホメロスの『イリアス』によれば、オルコメノスはスパルタと戦ったメッセニアを援助したと云われています。

前5世紀には、スパルタの同盟都市として近隣に勢力を広げましたが、前370年にはメガロポリスに敗れました。

前230年頃、アカイア連邦に加入が認められ、その決議碑文がトリポリスの博物館に保存されています。

パウサニアスが訪れた時には、アクロポリスは廃墟となっており、「現在の住民が住んでいる町は古い町の城壁が取り巻いている場所の下方に建設してある。」と述べられています(8.13.2)。

町は、少なくとも後3世紀頃までは残っていました。


<オルコメノス(アルカディア)>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


劇場1

画像の説明
(写真:2002年9月、南西より撮影)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、東から撮影)

劇場は自然の丘の斜面を利用して建設されています(前4—前3世紀頃)。

座席は部分的に10列ほど保存されており、前列の大理石の座席は、祭祀長を務めた地元市民の寄贈品です(ディオニュソスに奉納)。

また、二つの玉座と、同様に円柱の祭壇(ホモノイア:調和)が、オルケストラに保存されています(ヘレニズム時代)。

アルテミス神殿1

画像の説明
(写真:同年同月、南西より撮影)

外側の列柱を持たないドーリス式の神殿(年代不詳)。
写真の奥に祭壇。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

アルテミス神殿の東側に、鈍角の角度に位置(前3世紀頃)。

ストア(東)

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

長さ40mほどの東側のストア(前5世紀)。

なお、その他には、東側のストアの西側に70mほどのストア(前4世紀頃:内側にイオニア式、外側にドーリス式の列柱)の跡と、アクロポリスの頂上に廃墟となったフランク族の要塞の遺構が残っています(上記プラン参照)。

(2017. 11. 12:改)

メガロポリス

古代のメガロポリス(語義は「大きな都市」)の遺跡は、現在のメガロポリスから、北1kmのところに位置しています。

前370年頃、エパミノンダスがアルカディアをスパルタから独立させた際に、アルカディア連邦の中心として、約40ヶ村の人びとを集住させて、首都メガロポリスが建設されました。

都市部は、ヘリッソン川にまたがった平野に広がり、周囲9kmの周壁で守られており、伝統的に、反スパルタ・親マケドニア陣営で、後、前235年にアカイア連邦に加入しています。

メガロポリスは、ローマ時代にはその政治的重要性を失い、パウサニアスが訪れたときにはすでに廃墟であったようです。

ちなみに、歴史家ポリュビオスはメガロポリスの人で、ローマの捕虜となり、後に政体循環史観によるローマの歴史を記しています。


<メガロポリス>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


劇場 とテルシレイオン1

画像の説明
(写真:1988年1月南西より撮影。左:テルシレイオン)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影。奥:テルシレイオン)

貴賓席

画像の説明
(写真:1988年1月、撮影)

ストア1(アゴラ)

画像の説明
(写真:2002年9月、東側より撮影。背景は発電所)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、北側より撮影)

メガロポリスは、見るべき遺跡は少ないですが、パウサニアスによれば、ギリシア最大規模の劇場(収容観客数約2万1000)が残っています(前370年)。

劇場の最前列には、背面に名前が刻まれたベンチ上の貴賓席が並んでいます。

また、劇場の前(写真では左側と奥)には、アルカディア連邦の会議場(テルシレイオン)の長方形の建物の跡が残っています。

収容人員は、座って6千人、あるいは立って1万人が見込まれています。

この建物は、前233年にスパルタ王クレオメネス3世によって破壊されました。

なお、へリッソン川の向こう側にはアゴラの遺構が残っており、ストアの一部が復元されています。

(2017. 12. 18:改)

リュコスウラ

リュコスウラは、この世で最も古い都市と言われた、アルカディアの小さなポリスです。

ここは、ペロポネソスの最も重要な神域の一つで、二つの「有名な女神」、アルカディアの由緒ある女神である「デスポイナ(女主人)」と「デメーテル(ここでは副次的な役割)」が祀られていました。

神域への礼拝者は、エレウシスのような秘儀の神官によって、夜間執り行われた秘儀を授けられました。

また、ここではパウサニアス(8.37.8)によると、「彼ら(アルカディア人)は、犠牲獣の喉を切らず、各人がその四肢を手当たり次第に切り取る。」と、犠牲のやり方も他とは異なっていました。

前371年以前の神域についてはよく知られていませんが、前217年以後、ペロポネソスが平和な時代に彼らは伝統的な祭祀と祭典を回復し、その時代が神域の発展期と考えられています。

前223年から前190年頃にはメッセニアの彫刻家ダモフォンの活躍が知られており、また前220年頃には神域の規則(黄金製の物や、紫色の衣服などを身につけて神域へと進んではならないことなど)を記した碑文が残っています。

リュコスウラは、その後、その祭式を維持するのが難しく、後1世紀頃の碑文では「神殿はほとんど崩壊している」状態で、それでも3世紀頃には、再度繁栄を維持しましたが、多くは他の地域からの(ローマ時代のスパルタからの代表団など)ギリシア人によって運営されていました。


<リュコスウラ>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


デスポイナ神殿1

画像の説明
(写真:2002年9月、南東より撮影)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

同上3(側面の入り口)

画像の説明
(写真:同年同月、南側より撮影)

同上4(ステップ)

画像の説明
(写真:同年同月、北側より撮影)

神殿は大理石の柱、石灰岩、レンガ(壁の上部構造)などで建造されています(前3世紀末頃)。

ドーリス式のファサードと正面入り口から主室に導かれ、その部屋は祭式グループの彫刻の台座で占められていました。

パウサニアス(8.37.3-4)によると、主室の主神像二神(デスポイナとデメーテル)は、ダモフォンにより一枚石から作られており(正しくは、像は頭髪部分も着衣部分も別々に加工された後に組み合わされています)、玉座のデメーテル女神の側にはアルテミスが、デスポイナ女神の側にはアニュトス(ティタン族)が立っていました。

この建物の珍しい特徴は、南側の壁に側面の入り口があることです(写真3)。

この入り口の正面には、観客のために自然なスロープを利用して階段(10段)が作られており(写真4)、恐らくこの側面の入り口から神官が彼らに話しかけたと考えられています。

祭壇の跡

画像の説明
(写真:同年同月、撮影)
神殿の前には、デメーテルとデスポイナ、それに大母神の祭壇の三つの祭壇が残っています。

ストアの跡

画像の説明
(写真:同年同月、撮影)
神殿の東側にわずかにストアの跡が残っています。

パウサニアス(8.37.1-2)によれば、ストアの白大理石の屋内壁には、種々の仮面が飾ってありました。

その他には、道を隔てて泉屋(恐らく前3世紀末頃)の遺構が残されています。

なお、付属の博物館にはダモフォンの多くの彫刻(アルテミス、デメーテル、デスポイナ、アニュトスなど)や、大理石のランプスタンド(シリアの王<アンティオコス>・エピファネス・フィロパポスによって奉納)などが保存されています。

(2017.12.17)

バッサイ

アルカディア山中の人里離れた地に、有名なバッサイ(渓谷の意)の「アポロン・エピクリオス(除病加護のアポロン)神殿」が建っています(海抜1130m)。

パウサニアス(8.41.7-9)によれば、パルテノンの建築家イクティノスの設計により、麓のピガレイアの住民が、疫病撃退を感謝してアポロン神に奉納建立されました(前420年頃)。

また、この神殿は3度目の神殿で、先行する2つの神殿(最初の神殿は前625年頃、そして次に前6世紀の初期に再建され、拡張)の遺構も発見されています。

パウサニアスは、この神殿の石材の美しさ、均整の取れたことを挙げ、ペロポネソスにある神殿の中でも、テゲアのアテナ・アレア神殿の次に讃えています。
(石材は内部のメトープ、フリーズ、いくつかの柱頭、屋根瓦は大理石ですが、それ以外は地元の石灰岩を用いています。)


<バッサイのアポロン神殿>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)

<神殿内部の復元図>

画像の説明
(A. Malwitz, Athenische Mitteilungen 77 (1962) 167, fig. 2より)

神殿はほぼ南北の方向を向き、長辺が長く(15×6柱)、ドーリス式(ペリスタイル:周列柱)・イオニア式(内陣)・コリント式(内陣)の3様式の柱を持ち、フリーズ(ラピテス族とケンタウロス族、ギリシア人とアマゾン族との争い)は、ナオス(内陣)の内部に飾られ、また、ナオスの奥に東面に扉のついたアデュトン(至聖所)を持つなど普通の神殿建築とはかなり異なった特徴を持っています。

(復原図では、内陣の両脇に半分埋め込まれたイオニア式と、奥の対面にドーリス式(3本)となっていますが、C.Mee, & A.Spawforth, 2001は、両端のドーリス式(2本)はイオニア式の方がよりありそうであると考えています。また、中央のコリント式円柱は、建築史上知られている最初のコリント式円柱とされています。)

前4世紀に、メガロポリスがアルカディアの政治的・宗教的中心となった後は、この神殿の繁栄も衰え、青銅のアポロン像もバッサイからメガロポリスのアゴラに移されました。

しかしなお、パウサニアスがアルカディアを訪れた後2世紀までは、この神殿はそのまま完全な状態で残されていました。

神殿の保存状態は良好ですが、19世紀には彫刻類は剥ぎ取られ、現在は大英博物館に展示されています。

また、地震や倒壊を防ぐために補強工事もなされ、現在は、建物全体が保存のためにドーム(写真4)で覆われています。


アポロン・エピクリオス神殿1

画像の説明
(写真:2002年9月撮影)

同上2(ドーリス式ペリスタイル)

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

同上3

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

同上4(保存ドーム)

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

(2018. 4. 26改)

レプレオン

レプレオンは、エリスの南、トリピュリア地方の小さな町です。

歴史的には、ここからの派遣団がプラタイアの戦い(前479年)で戦っており、市民はアルカディア人と称していましたが、長い間エリスに従属していました。

前400年頃、スパルタによって一時解放されましたが、結局、前245−218年、そして再度前146年にエリス人の支配に服しました。

後2世紀の中頃、パウサニアスが訪問した時には、彼にとっては注目するに値しないほど衰退していました。

遺跡は、城砦化されたアクロポリスに残っています(下記のプランを参照)。

城砦化された年代は不確かですが、四角い塔や、門や重厚な横断壁(と兵舎の建物の可能性)の特色は、これらの建物が前219/18年のマケドニアのピリッポス(フィリッポス)5世の駐留と結びつけられて考えられています。

また、メッセネの城壁との類似点が指摘されています(特に、城砦の西の部分)。


<レプレオンのプラン>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)


この遺跡の主たる見ものは、城砦の南に位置する中型のドーリス式の「デメーテル神殿」(前4世紀頃)の土台です(写真1−4)。

この神殿は、圧倒的な景観をもつテラスに設置されていました。

外側の柱列(ペリスタイル)は、6×11本。

神殿の材料は粗悪な地元の石灰岩で、当初は漆喰を塗って彩色されていました。

祭壇は、東に斜めの角度で横たわっています(写真1、2参照)。

ただし、パウサニアスには、神殿は日乾煉瓦で作られており(室内の壁のことか)、すでに神像は消え失せていたと記されています(5.5.6)。

神殿は、城砦の壁によって二つの側が囲まれており、東側には門の跡が残っています。

デメーテル神殿1

画像の説明
(写真:2002年9月、北東より撮影)
写真手前の左端に祭壇の跡。

同上2

画像の説明
(写真;同上、東より撮影)
写真手前に祭壇の跡。

同上3

画像の説明
(写真;同上、北西より撮影)

同上4

画像の説明
(写真:同上、南東より撮影)

(2018. 4. 27)

アリペイラ(アリフェイラ)

アリペイラは、アルカディア同盟の小さな町の一つです。

パウサニアス(8.26.5)は、前371年にメガロポリスが集住により建設されたときに、住民の多くが移住して人口が大きく減少したと述べています。

前244年には、エリスがこの町を支配下に収め、その結果、前219年に、マケドニアのピリッポス(フィリッポス)5世が、アイトリア同盟とエリスの同盟者に対する軍事行動の際に、この町を攻撃しています。

ポリュビオス(4.78)によれば、ピリッポス本人の指揮により攻撃がなされ、守備隊は降伏し、マケドニアの駐留軍が置かれました。

その後、前2世紀には守備隊も撤収し、アリペイラは再び自由を取り戻しました。

パウサニアスが訪れた後2世紀には、町は小さいながらも存続していました。


<アリペイラのプラン>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)

アスクレピオスの神殿

画像の説明
(写真:2002年9月、南東より撮影)

アスクレピオスの聖域が、テラスの北の端に位置しています。
神殿は、前4世紀の後半に建立され、玄関と神室(ナオス)からなっています。
神殿が発掘されたときに象牙の断片が発見されており、神像の頭部や手に象牙が付属していたと想定されています。

アスクレピオスの神殿の祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)
神殿の東に、祭壇跡が残っています。

アスクレピオスの神殿と祭壇

画像の説明
(写真:同年同月、東より撮影)
写真奥が神殿、手前に祭壇跡。


<アテナ神殿のプランと復元図>

画像の説明
(N. Papachatzis, 1980より)

アテナ神殿1

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)
アクロポリスの南のテラスに、アテナの聖域が位置しています。
神殿は、前500〜490年頃に建立されました。
神殿の向きは、地形の関係から東―西ではなく、北―南に配置されています。
柱列(ペリスタイル)は、6×15本(ドーリス式)で、玄関、オピストドモスは、ありません。
神殿の屋根は大理石のタイルで葺かれていました。

なお、写真には写っていませんが、祭壇は、テラスの北の端に位置し、東に面していました。

向かいには正方形の台座が残っており、そこには、テーベのヒュパトドロス(前5世紀末頃活躍)作の青銅のアテナ像が立っており、パウサニアス(8.26.7)は、「大きさといい技巧といい見応えがある」と称賛しています。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、南より撮影)

同上3

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影)

同上4

画像の説明
(写真:同年同月、北より撮影)

(2018. 05. 13)

ゴルテュス

ゴルテュスは、アルカディアのキュヌリア地方の小さなポリスです。

パウサニアス(8.27.3-4)によれば、町はメガロポリス建設の際に(前371年)、「熱意とスパルタ人憎しから、納得ずくで郷土を捨てた都市」のリストのひとつに挙げられています。

ゴルテュスは、その後、独立したポリスではなく、従属した村として存続しました。

パウサニアスが、どこの川よりも冷たいと言ったルシオス川(ゴルテュニオス川)の爽快な水が、ゴルテュスを医療の神であるアスクレピオスの神殿に置かれた温泉地として発展させました。

前4世紀頃には、神殿(ペンテリコン大理石造り)は繁栄し、スコパス作による、「あごひげのない御本体」と「健康」女神像が飾られていました。

また、ピリッポスの子アレクサンドロス大王が、この神殿に銅鎧と槍を奉納したと伝えられており、パウサニアス(8.28.1)は、実際にこの銅鎧と槍の穂先を見たことを記しています。

他には、アカイア同盟の指導者、メガロポリスのピロポイメンが、姉妹の像を奉納しています。


<ゴルテュスのプラン>

画像の説明
(C.Mee, & A.Spawforth, 2001に加筆)

浴場

画像の説明
(写真:2002年9月4日、東側から撮影)

前4世紀頃に建設され、ヘレニズム時代に改築された浴場の跡。
この浴場は一度に20〜30人の入浴者の利用が可能でした。

また、最もオリジナルな特徴は、床下暖房(床下をレンガの通路を通して熱風を循環させていた)でした。

その床下暖房は、ここが、ギリシアで最初だと思われます。

神殿

画像の説明
(写真:同年同月、北西より撮影)

浴場の北側に柱廊付きの神殿の土台が残っています(前370年頃)。

ただし、神殿の建築は上部構造が作られる前に、恐らく前362年、ゴルテュスによる反乱を鎮圧するために、アルカディア同盟によってテーベ人が呼び入れられた時に見捨てられたようです。

(2018. 05. 20)

ピュロス

ミケーネ時代後期のピュロス王国の都は、ペロポネソス半島南西部に位置しており、現在のピュロスの町の北17km、ナヴァリノ湾の北方のエパノ・エングリアノスと呼ばれる丘にありました。

1939年に、アメリカの考古学者ブレーゲンによって、焼け落ちたミケーネ時代の宮殿(いわゆるネストルの王宮)とその文書室にあった大量の粘土板(線文字B文書)が発見されました。

この粘土板に刻まれた文字が、初期のギリシア語として解読された結果、ピュロス王国の経済構造が明らかになりました。

ネストルの王宮(メガロン)

画像の説明
(写真:1987年12月南東より撮影。)

宮殿は、前13世紀初頭に建てられ、前1200年頃に焼失して放棄されています。
発掘された宮殿は、ミケーネ時代特有の、大きな円形の儀式用の炉を中心とするメガロンと呼ばれる構造を備えています。

浴槽

画像の説明
(写真:1987年12月撮影。)

内部には渦巻き紋様の残る陶製の浴槽や、二階への階段などが残されています。
なお、ピュロスの出土品は、遺跡の北東にあるホーラ村の博物館に収められています。

ネストルの王宮付近の岩室墓

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

ネストルの王宮付近の岩室墓(前15世紀頃)

<ピュロス付近の地図>

画像の説明
(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


ピュロス付近の景観

画像の説明
(写真:1988 年1月撮影。)

写真は、コリファシオン半島のネストルの洞窟の前から北を望んだものです。

右手前がボイドコイリア湾(恐らくミケーネ時代の港)、右手奥がオスマナガ潟、左がイオニア海、正面向こうの中央の出っ張った丘の尖端にミケーネ時代のトロス墓があります。(下記写真)

ミケーネ時代のトロス墓

画像の説明
(写真:同年同月撮影)

このコリファシオン半島の南側(後ろ側)に、スファクテリア島とナヴァリノ湾があります。

この地は、歴史上、二つの有名な古戦場です。

一つは、前425年、ペロポネソス戦争の際に、アテネ軍とスパルタ軍がスファクテリア島をめぐっての攻防戦(トゥキュディデス4.2-41)。
ちなみに、この戦いの際に、アテネ軍が戦利品として獲得した重装歩兵の盾が、現在、アテネのアゴラ考古学博物館に展示されています。

もう一つは、1827年、ギリシア独立戦争の際、英・仏・露の艦隊が、オスマン・トルコのエジプト艦隊を打ち破り、ギリシアを独立に導いたナヴァリノの海戦です。

(2017.10.21:改)

オリュンピア

ペロポネソス半島西北部、古代のエリス地方を流れるアルフェイオス川とクラデオス川に挟まれ、鬱蒼とした松の木におおわれたクロノスの丘の麓に、ゼウスの神域オリュンピアがあります。

この地で古代オリンピックの競技会が開催されました。

競技会は古代ギリシアの各地で行われていましたが、「冠の競技会」として特別視された四大競技会(オリュンピア競技会、ピュティア競技会、ネメア競技会、イストミア競技会)の中にあって、最古の歴史を誇るオリュンピア競技会は別格の存在でした。

四年に一度の晩夏(農閑期)、アルティス(ゼウスの聖域の境内)で繰り広げられたゼウスの祭典・奉納競技は、個人とポリスの名誉をかけてのアゴン(競技)であり、古代ギリシア・ローマ世界に生きた人々にとっては特別な価値がありました。

開催期間中は戦争の停止(神聖休戦:エケケイリア)が布告され、ペロポネソス戦争中でも競技会は順調に行われました(スパルタとエリスの対立により、スパルタ人が出場停止措置を受けるという緊張があったものの)。

オリュンピアの競技の縁起をめぐっては、へラクレスやゼウスなどに因む神話が伝えられていますが、最も有名な伝承が、英雄ペロプスとピサの王オイノマオスの戦車競技の話です。

「婿の手にかかって殺される」との神託を受けていたオイノマオスは、娘ヒッポダメイアに求婚する若者に戦車競技を挑んでは次々に殺していました。

ペロプスは策略を用いてオイノマオスを破り、ヒッポダメイアとの結婚に成功し、このペロプスの勝利に因んで、オリュンピア競技会が行われるようになったといわれています。

ちなみに、ペロポネソス(ペロプスの島)半島は、王位を継いだこのペロプスの名に由来しています。

後代の優勝者リストによれば、この競技会の開始は前776年に創始されました。
(なお、古代ギリシア人は、この年を編年の紀年としていました。)

ただし、初期の優勝者はペロポネソス半島の中西部に限られ、当初はローカルな大会として始まり、この聖地が飛躍的に発展するのは、考古学的証拠から前8世紀も末になってからのことのようです。

また、オリュンピアの競技会主催権をめぐっては、古くから近隣のエリスとピサが争っていましたが、前6世紀の前半にはエリスが単独で運営するようになりました。

前6世紀には、聖域に恒久的な建物が建造されるようになり、後述のヘラ神殿が前590年頃に築かれ、前5世紀頃には競技会は全盛期となり、聖域には巨大なゼウス神殿が築かれました。

ヘレニズム時代になると、聖域は諸王国の支配者の彫像が盛んに建立されるようになり、エジプトのプトレマイオス2世とその妻(実姉)アルシノエ2世の像はその代表的なものです。

競技会は、ヘレニズム時代の混乱で一時衰えましたが、ローマ時代になって皇帝たちの尽力で再び活気を取り戻し、皇帝ネロが自ら手綱をとって戦車競技に出場した話は有名です。

後2世紀になると、ギリシア愛好家のハドリアヌス帝によって、オリュンピアは落日の輝きを見せます。

パウサニアスがこの地を訪れ、彫像や記念碑を克明に記録したのはこの時代のことです。

しかし、キリスト教がローマ帝国の国教となり、後393年にテオドスウス帝が異教の祭典を禁じたために、古代オリンピック競技会はその栄光に満ちた歴史の幕を閉じることになります。

そして聖域の数々の施設は、6世紀の地震による倒壊や度重なる洪水によって埋没し、オリュンピアはいったんは忘却の淵に沈みました。

しかし、1776年にオリュンピアの遺跡はイギリスのチャンドラーによって発見され、1875年からはベルリン大学のクルティウスによって(独皇帝ヴィルヘルム1世の後援)本格的な発掘が開始されました。

そして、現在も断続的にドイツの考古学研究所によって発掘が続けられています。


<オリュンピア>

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(周藤芳幸編, 2003より)


<オリュンピアの復元図>

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(N. Papachatzis, 1979より)

ゼウス神殿 1

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(写真:1987年12月東より撮影。)

同上2

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(写真:同上、西より撮影)


<ゼウス神殿の平面図>

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(N. Papachatzis, 1979に加筆)


現存する最も重要な遺構は、前470年頃に完成した「ゼウス神殿」です。

前472年頃、エリス人が隣国ピサを最終的に破壊したときに得た戦利品をもとに建設しました。
設計したのはエリス人の建築家リボン。

現在は、倒壊したドーリス式の柱(長辺13本、短辺6本:計34本)と基壇(高さ3m、長さ約64 m×幅28m)が残されています。

使用された石材は主に地元のポロス石で、大理石に似せるため表面は漆喰で白く塗られていました。

神殿の正面に当たる東側の破風は、ゼウスを中心として前述の「オイノマオスとペロプスの戦車競技」の群像彫刻によって、西側の破風には、アポロンを中心として文明と野蛮の闘争を象徴するテーマである「ケンタウロマキア(ケンタウロスとの戦い)」の彫刻によって飾られていました。

<東破風の復元図>

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(N. Papachatzis, 1979より)

<西破風の復元図>

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(同上)

また、神室の東西面には、それぞれ6面ずつ計12面のメトープ彫刻があり、そこには「ヘラクレスの偉業」が表現されていました。

そしてなにより神室の内部には、古代七不思議の一つであるフェイディアス作の黄金と象牙の巨大な「ゼウス像」(オリーブの冠をかぶり、左手に王笏、右手にニケ像を持つ座像)が、鎮座していました(台座を含めた高さ12.4m:前438年)。


<ゼウス座像の復元図>

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(同上)

なお、このゼウス像は、後395年頃に東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに運ばれ、475年の大火で焼失したと伝えられています。

ゼウス神殿の東の破風1

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(写真:1987年12月、オリュンピア博物館にて撮影)

同上2

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(同上:中央部分の拡大写真)

ゼウス神殿の西の破風1

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(写真:1987年12月、オリュンピア博物館にて撮影)

同上2

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(同上:中央部分の拡大写真)

ゼウス神殿のメトープ

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(写真:同年同月、オリンピュア博物館にて撮影)
ヘラクレスの12の偉業の最後、「ヘスペリデスの黄金のりんごを取るヘラクレス」のレリーフ。

ヘラ神殿と祭壇

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(写真:同年同月、北東より撮影:写真の手前左に祭壇)

ヘラ神殿

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(写真:同年同月、西より撮影)

アルティスの境内には、ギリシア最古のドーリス式神殿の一つである「ヘラ神殿」が建てられています(前590年頃建造)。

もともとはゼウスとヘラ祀った木造神殿(基壇:長さ50m×幅18,75m; 円柱:長辺16本×短辺6本)で、木造の円柱は朽ちる度に石製の物に交換されて石造化されました。

パウサニアス(5.16.1)によれば、彼が訪れたときには、まだ後陣に木製(樫材)の柱1本が残っており、長押は最後まで木製であったようです。

また、神殿内からは1877年の発掘に際して、名匠プラクシテレスの手になる(異論あり)左手に乳児のディオニュソスを抱いた有名なヘルメス像が出土しています(前4世紀後半制作)。

ヘルメス像

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(写真:同年同月、オリュンピア博物館にて撮影)

なお、近代オリンピック競技会の聖火採火式は、このヘラ神殿の祭壇付近で古代の衣装をまとった女性によってとり行われています。

プリュタネイオン

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(写真:同年同月、南西より撮影)

アルティス(聖域の境内)に入って左手に、エリスの中央市庁舎(プリュタネイオン)があります。
ここには公式の宴会場もあり、競技会の優勝者はここで供応を受けました。

フィリペイオン

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(写真:同年同月、南より撮影)

カイロネイアの戦いでの戦勝を記念してマケドニア王フィリッポス2世によって、マケドニア王家の像を祀るために建てられた円形堂(トロス)(前338年頃)。

外側にはかって18本のイオニア式円柱、内側に12本のコリント式の円柱が立ち並び(直径15.25m)、完成されたのはアレクサンドロス大王の時代とみられています。

パウサニアスによれば( 5.2.10)、堂内には彫刻家レオカレス作によるフィリッポス2世、その両親であるアミュンタス3世とエウリュディケ、妻のオリュンピアス、息子アレクサンドロス大王の黄金象牙製の5像が立てられていました。

初期青銅器時代末の居住址

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(写真:同年同月、北東より撮影)

ヘラ神殿の東南で発掘された、端部にアプス(半円形の張り出し部)のある馬蹄形の遺構。

ペロピオン

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(写真:同年同月、北より撮影)

英雄ペロプスを祀った、ヘラ神殿の南側にある不整形の囲い。

ニュンファイオン

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(写真:同年同月、南より撮影。写真手前はヘラ神殿の祭壇)

ローマ帝政期にヘロディス・アッティコス(アテネの「ヘロディス・アッティコスの音楽堂」で有名)が、神域に水を供給するために引かせた泉場。

<ニュンファイオン復元図>

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(R. Bol, Olympische Forschungen, Bd XV, Das Statuenprogram des Herodes-Atticus-Nympäums, 1984より)

メガラ人の宝庫

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(写真:同年同月、南より撮影)

ヘラ神殿の東にあたるクロノスの丘の麓のテラスに、11基の小さな神殿のような宝物庫の跡が並んでいます。

その一つのメガラ人の宝庫。

メガラ人の宝庫の破風(復元)

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(写真:同年同月、オリュンピア博物館にて撮影)

「メガラ人の宝庫」の破風に残る「巨人族との戦い」のレリーフ彫刻。

ゲラ人の宝庫

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(写真:同年同月、南西より撮影)

メトロオン

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(写真:同年同月、北東より撮影)

「諸神の母(メテル)」を祀っていた、小さなドーリス式の神殿。

パウサニアス(5.20.8)によれば、彼が訪れたときには祭神像はすでに失われ、そこにはローマ皇帝像が並んでいました。

ザネス像の台座

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(写真:同年同月、南東より撮影)

宝庫のテラスの下、競技場に向かう左手に、ザネス(ゼウスのドーリス方言ザンの複数)像の台座がいくつも並んでいます。

ザネス像は競技会で贈賄などの不正行為に及んだ選手達から取り立てた罰金によって、エリス人が奉納したゼウスの青銅像です(前388年が最初の建立)。

パウサニアス(5.21.4)によれば、像には「財貨ではなく足の速さと身体の強さを使ってこそ、オリュンピア祭競技の勝利を見つけることができる。」といった詩銘が刻まれていたといわれています(現在、台座のみで像は残ってはいません)。

スタディオン入場門(クリュプテ「潜り口」)

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(写真;同年同月、アルティス側、西より撮影)

アルティスの東に東西に長く作られたスタディオンに通じる入場門(前2世紀)。

ここを通るのは選手と審判(ヘラノディカイ:通常10人)だけで、アーチ状の天井は、本来屋根で覆われてトンネルになっていました(ネメアの競技場に現存)。

スタディオン

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(写真:同年同月、西より撮影)

スタートライン

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(写真:同年同月、北より撮影)

アルティスの東側に、オリュンピア競技会の会場となったスタディオン(スタジアムの語源)があります。

スタディオンは、前古典期からローマ時代までに5度にわたって改修されていますが、現在目にするのは前古典期・前5世紀半ばに続く、前4世紀の中頃(第3期)に造営されたものです。

観客席は土手のままで、観客収容人数は約4万人とも推測されています。
また、トラックを囲む排水溝も残っています。

走路は長さ192.27m(距離の単位の1スタディオン)、コースの両端(東西)にはスタートに際して、選手が足をかけた溝のある敷石が据えられています。

最初はこのコースを東から西へ走る短距離走が唯一の種目でしたが、やがて往復を走るディアウルス、さらに長距離走も導入されました。

また、写真(上)の右の土手(南側)に見えるくぼみは、ヘラノディカイとよばれた審判団の特別席です(前4世紀)。

その向かいに、デメテル・カミュネ女神の大理石の祭壇がありました(後2世紀)。
パウサニアス(6.20.9)によれば、ここに女性祭祀が一人座り観戦しました。

なお、スタディオンの南側に戦車競技場がありましたが、現在はアルフェイオス川の氾濫によって、その遺構はすっかり失われています。

反響列柱館(別名:彩画館)

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(写真:同年同月、南西より撮影)

アルティスの東を画するドーリス式のストア(長さ98m×幅12.5m:前4世紀後半)。
名前はこの中で人が叫ぶと7回以上こだましたことに由来。

また、アテネの「ストア・ポイキレ(彩画列柱館)」と同じく、この列柱館の壁には絵画が展示されていて、別名「彩画館」とも呼ばれました。

なお、この列柱館の前に、前述のエジプトのプトレマイオス2世とその妻(実姉)アルシノエ2世の像が建っていました。

パイオニオスのニケ像台座

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(写真:同年同月、撮影)

彫刻家パイオニオスによるニケ像(博物館展示)の載っていた三角形の台座。

ペロポネソス戦争中、前425年スファクテリアでアテネと共にスパルタに反旗を翻して戦ったメッセニア人の奉納(前421年のニキアスの和約に際して)。

評議会場(ブーレウテリオン)

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(写真:同年同月、西より撮影)

評議会場は、半円形のアプスのついた馬蹄形の建物が二つ連結して中央に正方形のホールをもっている構造をしています。

このホール(一辺14mほど)では、ゼウス・ホルキオス(宣誓のゼウス)像が立ち、競技に臨む選手と審判が宣誓を行いました。

評議会場はヘラノディカイなどの役人が詰めて、競技に関して紛争を処理するとともに、優勝者の記録などの保管場所となっていました。

レオニダイオン

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(写真:同年同月、西より撮影)

オリュンピアで最も大きな建物(73.5m×80m: 約6000㎡:前350年頃)。

名称の由来は、「ナクソス人、レオテスの子レオニダス」の碑文が、建物のアーキトレーヴ(梁の部分)に刻まれており、寄進したレオニダスの名前からきています。

本来は宿泊施設だったようですが、ローマ時代に入ってローマの駐留した役人によって住居として用いられました(後2世紀中頃)。

初期キリスト教時代のバシリカの廃墟(フェイディアスの仕事場)

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(写真:同年同月、西より撮影)

アルティスの西側にある初期キリスト教時代のバシリカは、しばしば、「フェイディアスの仕事場」と呼ばれています。

それは、前5世紀にフェイディアスがこの場所でゼウス像を製作したと推測されているためです。

パウサニアス(5.15,1)には、アルティスの外側に「フェイディアスの仕事場」があって、「フェイディアスはここで神像の諸部分をひとつひとつ仕上げていった。」という記述が見られます。

実際に、ここからは鉄や象牙などの材料だけでなく「我はフェイディアスのものなり。」という底に銘入りの酒杯(下記写真)が出土しています。

フェイディアスの酒杯

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(写真:1988年11月、オリュンピア博物館にて撮影)

パライストラ

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(写真:1987年12月西より撮影)

広い中庭をドーリス式の列柱館が取り囲み、外側に宴会場(南西角)や、図書館(北側)などの様々な機能の部屋が備わった体育場(一辺約66mの正方形:前300年〜250年頃)。

ギュムナシオン

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(写真:同年同月、北より撮影)

パライストラの北に広がる遺構で、いまだ発掘の完了していない運動場の跡。

東側の列柱館(写真中央)は、長さ約220mにも及び、スタディオン競走、幅跳び、円盤投げ、槍投げなどの練習の場として利用されました。

(2017. 10. 30:改)

エリス

エリスの遺跡は、ペロポネソス半島の北西部、ペネイオス川の平原に位置していました。

もともとは、この地域一体は、エリス、ピサ、レプレオン、トリフィリアに別れており、一つのポリスにまとめられ、都市が建設されて政治的中心として登場するのは前471年頃のことです。

エリスは、古くからオリュンピア競技会の主催国として有名でしたが、実際に運動競技を管理するようになったのは、前6世紀の前半頃のことです(オリュンピア参照)。

オリュンピア競技会に出席する選手達は、競技の始まる1カ月間、この地で訓練をして、オリュンピアの大会に出場する習わしがありました。

ここには、選手達のために3つのギュムナシオンを備え、ヘラノディカイと呼ばれた審判員のためのストア、宿泊所なども存在しました。


<エリス>

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(C. Mee & A. Spawforth, 2001に加筆)


アゴラの周辺の遺構

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(写真:1987年12月、南より撮影)

円形劇場

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(写真:1987年12月北より撮影)

現在、発掘されている遺構はアゴラとその周辺のストアやローマ時代の建物(浴場?)(写真上)、それに隣接する円形劇場(写真下)です。

「円形劇場」は前4世紀頃に作られ、ヘレニズム時代に再建され、さらにローマ時代に拡張整備されました。現在、石の座席は残ってはいません。

付設の博物館には、遺跡のプランの他に、アクロポリスからの初期・中期青銅器時代の出土品、周辺で発掘されたローマ時代のランプや、コイン、陶器、青銅の「チケット」(入場券と推測)、ヘレニズム・ローマ時代の彫刻などが展示されています。

(2017.10.31:改)

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