<クレタ島>

クレタ島は、ギリシアの島々の中で最大の島で(面積830平方km)、エーゲ海の南端を画する細長い島です。

東西方向の長さが約250kmに対して、島の東部のイェラペトラの地峡部分の幅は12.5km。

その土地は起伏に富んでいて、最高峰のイダ山(プシロリーティス)は海抜2456mを誇り、険しい山並みには至るところに内陸盆地があり、また海際には海岸平野が広がっています。

平野部では、古代からオリーブやワインを産出し、先史時代のミノア文明の発祥の地として、さらに中世以降はヴェネチアの拠点として、歴史に名を残しています。


イラクリオン

クレタ島の北岸中部にあるイラクリオン(古代名ヘラクレイオン)は、島の中心市であり、玄関口にもあたります。

中世にはカンディア(アラビア語で壕<カンダク>がめぐらされていたことに由来)と呼ばれ、東方貿易の拠点として栄えました。

クレタの歴史は、上述のアラビア語の地名に明らかなように、かってアラブ人の支配を受け(9世紀中頃から10世紀中頃)その後、ビザンティン帝国領に回復されたのもつかのま、この島は13世紀初頭ヴェネチアの支配を受けます。

現在、港の入り口に残るヴェネチア時代の「要塞」と堅固な「城壁」、そしてヴェニゼロス(クレタ島出身の20世紀前半ギリシアを代表する政治家)広場にある「モロッシーニの泉」などの建造物は、ヴェネチア支配のもとで商業港として栄えたこの町の栄光を今に伝えています。

また、街のはずれには、映画『その男ゾルバ』で有名な小説家カザンザキス(クレタ島出身)の墓もあります。

イラクリオンの東端にあるエレフセリア広場に面して立つ「考古学博物館」には、クノッソスをはじめとするクレタ島各地の遺跡からの重要な出土品が展示されています。

イラクリオンの街並み

画像の説明
(写真:1987年9月、フェリーから撮影。)

クノッソス

ホメロス『オデュッセイア』(第19歌)に、ミノス王が君臨するとうたわれたクノッソスの遺跡は、20世紀初頭に、イギリスの考古学者エヴァンズによって発掘されたクレタ島に残る、最大規模のミノア文明の宮殿です。

遺跡は、クレタ島の中心市イラクリオンから5kmほど南にあるケファラの丘に立地しています。

ここは、すでに前6500年頃には新石器文化を持った人々が定住していましたが、前2000年頃に、丘の頂上部に巨大な宮殿(古宮殿)が築かれました。

さらに、地震を経て新宮殿が再建され、現在目にすることができるのは、この新宮殿時代の遺構(前1750年頃から前1490年頃)です。

宮殿は、長方形の広場(長経60m程)を中心に、西側にはオリーブ油などを貯蔵する大型の瓶(ピトス)が並ぶ細長い部屋が列をなしています。 

このような遺構は、宮殿が物資の貯蔵と再分配の拠点として機能していたことが、研究者によって指摘されています。
また、広場に面する西翼には「玉座の間」(ミケーネ時代に改変)や祭祀に関わる施設が、東翼には配水施設の整備された居住区が複雑に配置されています。

クノッソス宮殿は、神話ミノタウロスの「迷宮」として知られていましたが、それは建物の入り組んだ東翼の構造に由来しています。

北玄関(北門)と列柱テラス

画像の説明
(写真:Wikipedia「クノッソス」の項の写真を借用。)

テラスの壁には、印象的な雄牛のフレスコ(レプリカ)が飾られています。

玉座の間

画像の説明
(写真:同上。)

新宮殿時代の赤と白を基調とする鮮やかな壁画によって飾られた「玉座の間」。
椰子や一対のグリフィンを描いた壁画は復元ですが、右手の壁の中ほどにある玉座はオリジナルなもの。

また、古宮殿時代には、列柱左側の「水祓の間」と呼ばれるミノア文化独自の半地下の祭祀施設を中心に構成されており、新宮殿にもその宗教的性格が色濃く残されています。

なお、印象などの図柄の検討から、グリフィンによって左右から守られている像は、ほとんど女性であることが多く、玉座に座って何らかの宗教的儀式、あるいは世俗的執務を行ったのは、高位の女神官ないしは女神とみなされた女性の可能性が高いことが、研究者によって指摘されています。                          

ゴルテュン

島の中南部、肥沃なメサラ平野の北縁に、古代の都市ゴルテユンの遺跡が残っています。

ゴルテュンは、ローマ時代には属州クレタおよびキュレナイカの首都として繁栄し、現在残る遺構もほとんどローマ帝政期のものです。

遺跡としては、有名な前5世紀の「ゴルテュンの法典」が刻まれている「ローマ時代のオデオン(音楽堂)」が人目を引いています。

さらに、「オデオン」の南には、「アギオス・ティトスのバシリカ(聖堂)」(6世紀〜7世紀初頭建造:後再建)の遺構が、そして道を隔てて、アポロ・ピティオス神殿(前7世紀建造)やローマ時代のイシスとセラピス神殿(後1〜2世紀建造)、劇場や浴場の跡などが残っています。
また、遺跡を見下ろす丘の上にあるアクロポリスには、前7世紀のアテナ神殿の跡などが残っています。

なお、遺跡は1880年代、上述の「ゴルテュンの法典」の発見者として有名なイタリア人研究者ハルブヘルによって調査が始められました。

そして、20世紀の初頭、イタリア考古学研究所によって本格的に発掘が開始され、中断を経ながらアクロポリスでは現在も発掘が続いています。

ゴルテュンの法典

画像の説明
(写真:1992年8月撮影。)

ゴルテュンの法典は、前5世紀の相続法や刑法の規定を記している貴重な史料です。
その法典が刻まれた石版が、音楽堂の外壁に転用されて今に残っています。
碑文の書式は、行末までくると次の行をそのすぐ下から逆方向に刻む、ブーストロフェードン(牛耕式:畑を耕しながら進む牛の動きに似ていることから命名)が用いられています。

ローマ時代のオデオン(音楽堂)

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

アポロ・ピティオス神殿1

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影。)

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、北東より撮影。)

イシスとセラピス神殿

画像の説明
(写真:同年同月、南東より撮影。)

アクロポリス(写真5)

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

フェストス(パイストス)

前2000年頃、クレタ島の南、メサラ平野の中央部の小高い丘で最初の宮殿が建造されました。

これが、線文字B文書(パイトと記載)やホメロスの『イリアス』にも言及のあるフェストス(パイストス)です。

宮殿は前1700年頃と前1450年頃の2度にわたり破壊され、第1次の破壊後は再建されましたが、2回目の破壊後は再建されず、放棄されました。

宮殿の構造は、南北に細長い中庭を中心とする、クノッソスやマリアのものとほぼ共通する特徴を示しています。(ただし、舌状の台地の東端に建っているため。中庭の東南部は崩れ落ちています。)

現在見られる遺構は主に新宮殿(前1700年頃〜前1450年頃)に属しますが、遺跡の西側からは古宮殿の遺構もかなり良好な保存状態で残っています。

また、印象的なフェストス宮殿の「劇場」や「大階段」は、その規模において他の宮殿には見られない壮大なものです。

なお、イラクリオン博物館に収蔵されている有名な「フェストスの円盤」は、宮殿の北翼の一郭から発見されました。

遺跡は1900年からイタリア考古学研究所によって発掘され、現在も発掘は続いています。

フェストス遺跡全景

画像の説明
(写真:1992年8月撮影。)

劇場(西側の中庭)

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

写真は遺跡の西側の中庭、いわゆる劇場と呼ばれる地帯です。。

中央広場

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

後方に見えるのがイダ山です。

王の間

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

中庭の北に位置する王室居住用の建物群の一室。

王妃の間

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

王の間と共に、王宮の北翼を形成しています。

巨大な土器の瓶(ピトス)

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

マリア

マリアは、イラクリオンの東37kmに位置する海岸沿いの美しい町です。

クノッソスやフェストスに次いで古いミノア文明の宮殿跡が残されています。

遺跡には新石器時代後期から居住の痕跡が認められますが、最初の宮殿は前1900年頃に建てられたと推測され、フェストス同様、前1700年頃の破壊の後に新宮殿が再建され、さらに前1450年頃に再度破壊されて放棄されました。

宮殿の構造はクノッソスやフェストスと共通しており、広い長方形の中庭の周りに様々な機能を持つ数多くの小部屋が配置され、宮殿南西の貯蔵庫には巨大な土器の瓶(ピトス)が残されています。

また、遺跡はクノッソスなどとは違って、ほとんど復元されていません。

宮殿跡からは、青銅の剣や斧、黄金の装身具(墓地からは有名な黄金製の蜜蜂のペンダントが発見)などが出土し、現在、イラクリオン博物館に展示されています。

遺跡は1915年にギリシア人考古学者J.ハジダキスによって発見され、1922年以降はフランス考古学研究所によって発掘されました。

マリア遺跡の全景

画像の説明
(写真:1987年9月撮影。)

マリア宮殿の遺構

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。 )

舗装道路とピトス

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

遺跡に残る巨大ピトス

OGT-000025.gif
(写真:同年同月、撮影。)

倉庫

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

宮殿南西に2列に並ぶ円形の穴で、穀物貯蔵用の倉庫と考えられています。

ザクロス(カト・ザクロス)

クレタ島の東端部ザクロス(カト・ザクロス)では、入り江に面した平地に小規模ながらも典型的なミノア文明の宮殿が発見されています。

遺跡は、早くは1901年にイギリス人ホガースによって試掘が行われ、1960年からはギリシアの考古学者N.プラトンによって発掘がなされました。

宮殿は、前1600年頃に建てられ、前1450年頃破壊され放棄されています。

この宮殿の西翼中枢部の一郭で、線文字A粘土板文書が発見されました。

他の宮殿と違って、周囲は不毛の岩山が広がっており、宮殿経済は海上交易に立脚していたと推測されています。

ザクロス(カト・ザクロス)遠景

画像の説明
(写真:1987年9月撮影。)

写真中央の入り江に面した地域が、カト・ザクロスの遺跡。

ザクロス(カト・ザクロス)全景

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

ザクロス(カト・ザクロス)宮殿の遺構

画像の説明
(写真:同年同月撮影。 )

(2016.7.17)

クレタ島の他の先史遺跡

アギア・トリアダ(アイア・トリアザ)1

画像の説明
(写真:1992年8月、東より撮影。)

アギア・トリアダ(アイア・トリアザ)は、フェストスの宮殿の丘の西、海寄りの3km程の所に位置しています。
フェストスと同じミノア文明の盛期に併存し、二つの拠点の関係は明らかではありませんが、遺跡はミノア時代とミケーネ時代の遺構が錯綜しています。

ここは、大量の線文字A粘土板が出土したことで知られています。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

L字型の遺跡の中央部を占める建物(前1500年頃)の一部で、現在、保護のために屋根がかけられています。
左手に二階への階段が見られます。

コモス1

OGT-000019.gif
(写真:1987年9月撮影。)

メサラ平野の海際、リビア海の砂浜にある丘のミノア文明時代の港湾都市遺跡。
フェストスの外港(後にはゴルチュンの外港)として栄えました。
近年、遺跡の南端の丘の頂上でフェニキアの神殿遺構(前9世紀)が発見され、ここにフェニキア人の拠点が置かれていたことが確認されています。

なお、遺跡は1976年以来、アメリカ古典学研究所によって発掘されています。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

写真上方に突き出た岬の裏側には、もう一つの外港マタラがあります。

カミラリのトロス墓

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

メサラ平野にある初期青銅器時代の共同墓。
トロスの内径は、7.65m、入り口の高さは1m弱。
クレタ島のこの時代のトロス墓は、地上に作られて入り口部分が低いのが特徴です。

	

ヴァシペトロ1

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

イラクリオンの南、アルハネスから5kmに位置。
マリナトスによって発掘された、ミノア文明の時代のヴィラ(舘)の遺構。
(前15世紀頃)
ここでは、オリーブ油やワインを製造するための遺構が発見されています。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

グルーニア

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

島の東部地峡の北岸に位置する、ミノア文明の時代の集落遺跡。
遺跡は1901年から1904年に、アメリカの考古学者ハウエスによって発掘されました。

モクロス島1

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

モクロスは、アイオス・ニコラオスの東方約50km、本島から切り離された小島。

同上2(西端)

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。 )

1908年イギリスの考古学者シーガーによって、島の西端断崖で初期ミノア時代の共同墓が発掘調査されました。
そこからは黄金製の装身具、石製容器、土器と共にオリエントの銀製印象も出土しています。

ヴァシリキ

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

島の東部イェラペトラ地峡にある、初期青銅器時代の集落遺跡。
周囲は一面のオリーブ林。

ヴァシリキ様式土器は、この遺跡で最初に発見されたために名付けられました。
赤褐色の地に、独特な黒や赤の光沢のある斑文が入り交じった、特徴的な土器です。

ミルトス(フルヌウ・コリフィ遺跡)

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

島の東部南岸のフルヌウ・コリフィ丘の頂上に開かれた、初期青銅器時代の集落。
密集する家屋は、小さな部屋から構成されていて、計画的なプランを欠いています。
また、ここからは、水差しを両手で抱えた女性を象った土器(発掘者によって「ミルトスの女神」と命名)が発見されています(アヨス・ニコラオス博物館蔵)。

パレカストロ1

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

島の東端部にある、ミノア文明の広大な都市遺跡。
都市は街路を中心として、その周囲に数部屋からなる家屋が密集しています。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

クレタ島の西側の遺跡

ファラサルナ1

OGT-006181.gif
(写真:1992年8月撮影。)

ファラサルナは、島の最も西端のヘレニズム時代(前3世紀)に栄えた都市の遺跡。
出土品から、前6世紀頃から町が作られていたことが判明しています。
写真中央の岬の丘にアクロポリス、そして麓に古代の港の遺構が残っています。
一時期、下記のポリュレニアの西の海岸の港でした。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月、撮影。)

古代の港の遺構。

ポリュレニア1

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

ポリュレニアの町は、ファラサルナの南に位置しています。
出土品から前6世紀のアルカイック期からローマ時代の居住の跡が確認されています。
写真はアクロポリスとその周辺。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

写真は、ポリュレニアの遺構。

アプテラ1

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

アプテラは、島の西の中心都市ハニアから東に約10kmに位置。
町はすでに前7世紀には繁栄しており、ギリシア・ローマ時代を通じて西クレタの最も大きな都市でしたが、後に、アラブ人によって破壊されました。
写真左の建物は、トルコ時代に建てられた要塞。

同上2

画像の説明
(写真:同年同月撮影。)

二つの神室を持つ小神殿の遺構(前2世紀)で、一対の神に奉納されたと推測されています。

同上3

画像の説明
(写真:同年同月撮影。 )

ローマ時代の貯水槽の遺構。

(2016.7.18)

a:1418 t:4 y:2